2.捏造された初恋物語――
2. The first love story that was forged-
今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第4便」である。
この手紙は、おそらくショパンの手紙の中で最も有名なものだろう。
あらゆるショパン関連の書物において、ここに書かれているショパンの初恋の告白を引用しないものは皆無と言っていい。
まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第4便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語) |
「1829年10月3日、ワルシャワにて 親愛なるティトゥス! 君は、僕の演奏会に関する記事を2つの新聞で読んだと書いて寄こしたね;もしもそれがポーランドの新聞なら、きっと満足できなかっただろう。と言うのも、それらは翻訳の仕方が悪いばかりでなく、ウィーンの批評家の評論を、僕を批判するように歪めているからだ。ウィーンの“ザムレル紙”や“ツァイシュリフト”、“フュール・リテラトゥール紙”は、フーべが僕に切り抜きを持って来てくれたんだが、僕の演奏と作曲について、極めて良い批評をしていて、(こんな事を書くのを許してくれたまえ)、そして最後に、“独自の道を行く名手で、その演奏はデリカシーと深い感情とに満ちている”
と書いている[*エドゥワルト・ハンスリックは、その著書『ウィーンの音楽全史』において、ザムレル紙がショパンについて述べたのと同じ言葉を使っている]。もしもこうした切り抜きが君の手に入ってくれていれば、僕は恥ずかしい事を少しも書かずに済むのだが。 僕がこの冬にやろうと思っている事を、一つ一つ君に教えるとしよう。どんな事があっても、僕はワルシャワにはいないだろう;運命が僕をどこへ導いてくれるのは分からないがね。ラジヴィウ公爵夫妻は、ものすごく慇懃な言葉で僕をベルリンヘ招待すると言い、彼らの宮殿内で僕にアパートを提供しようと言ってくれている;しかしそれが何の役に立つのだろう? 僕はたくさんの仕事(※作曲)を始めたよ、それが、僕がここにいる間にすべき最も賢明な道だと思うからね。僕は、またウィーンヘ戻ると約束もしてあるし、それにウィーンの新聞が言うには、ざっくばらんに言うが、この帝都に滞在する事が僕には非常に有益で、僕の人生に最もよい影響を与えるのだと。君もまた、おそらくそう考えているのだろうけど;僕が手紙で言及していたブラヘトカ嬢の事を考えていると想像しないでくれたまえ。僕にはすでに――おそらく僕にとって不幸な事に――僕の理想の人を見つけていて、僕は心からその人に忠義を尽くし崇拝しているのだ。半年もの間、僕は毎晩彼女の夢を見ながら一言も交わす事なく過ぎてしまった。この愛らしき存在について考えている間に、僕は新しい協奏曲[*協奏曲 ホ短調 作品11]のアダージョと、それから今朝早くには、君に送ったワルツを作曲した。 ×印の付いているパッセージ(経過句)に注意してくれたまえ、君以外には誰も知らないのだ。僕がこれらの曲を君に弾いてあげられたらどんなに嬉しいだろう、我が親愛なる者よ! 中間部の第5小節で、低音部のメロディがヴァイオリン記号の高い変ホ音まで上がらなければいけないが、しかしそんな事は君に話す必要はないだろう、君自身が感じてくれるだろうから。 毎週金曜日にケスレルの家で演奏があること以外に、君に伝える音楽関連のニュースはない。昨日も他の作品と一緒にシュポーアの八重奏曲を聴いたが、素晴らしい作品だった。僕は毎日プルゼジィナの店[*ワルシャワの書物及び楽器商]へ行くが、ピクシスの協奏曲以外に新しい作品はなく、この作品は僕に大した印象を与えない;ロンドの部分は一番優れているようだ。 君には、ワルシャワがどれほど退屈か想像できまい。もしも家庭に幸福を見出していなかったら、僕はここでは暮らしていけない。おお、君の悲しみと喜びを分かち合い、君の心が重く沈んでいる時に悲痛な思いを打ち明けられる魂を持っていないと言うのは、どんなに惨めな事だろう。君は、僕の言ってる事の意味がよく分かる。僕は、君に打ち明けたいと思う事の全てを、何度ピアノに語りかけた事か! 僕の夢は、君と一緒に外国へ旅行する事で、君はそれを楽しい現実に変えなくてはならない、我が友よ。そう思うと、僕はあまりの喜びにどうしたらいいのか分からなくなる。しかし、ああ悲しいかな、僕らの道は遠く離れている。 僕は、更なる勉強と鍛錬のために、ウィーンからイタリアへ行く事を希望していて、来年の冬にパリでフーベと会う事になっている;しかし僕の父はベルリンに行かせたがっているので、すべて変更されるかもしれないし、実を言うと、僕はそれを全然希望していない。もしも僕が信じている通りウィーンに行く事になったら、おそらくドレスデンやプラハを通る道を選んで、再びクレンゲルを訪ねるだろう;同様に、有名なドレスデンの美術館やプラハ音楽院もだ。 僕はこれで机から離れなければならない、そうしないと、無味乾燥なニュースで君を退屈させるだけだし、僕はそんな事したくないのだ。もし君が2、3行でも(※手紙を)書いてくれたら、それは僕に数週間は喜びをもたらすだろう。 君にワルツを送った事を許してくれたまえ、あれは結局は君を怒らせるだろう。僕の意向は君を喜ばす事なのだ。 君の フレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
カラソフスキーはこの手紙を紹介するに当たって、「私は、彼のウィーンでの経験談を完結するために、彼の特に大切な友人だったティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた2通の手紙を掲載しよう」と前置きし、前回紹介した「第3便」の直後に続けて掲載している。例によって、この手紙の引用に関する凡例については一切言及していない。
それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。
※
オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.』1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』(Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた。
※
カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「1829年10月3日、ワルシャワにて 親愛なるティトゥス!」 |
「1829年10月3日、ワルシャワにて 親愛なるティトゥス」 |
まず、ここまでは感嘆符のある無しの違いだけだが、以下に続く冒頭の部分が、カラソフスキー版ではごっそり削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「たった今、君からの手紙を受け取った、ちょうど僕が再び君に手紙を書き始めた時にだ、僕の最初の手紙が届かなかったか、それとも、何か恐ろしく馬鹿な事を書いてしまったのではないかと考えながらね。君の手紙から、君が健康であると結論付けられたので、僕は嬉しいよ;僕はそれについてカロルからもっとよく教えてもらうつもりだ。僕に何が起きているのか、そして僕が知っている人達の事について、もっとはっきり説明するようにと、君は書いている。コステュスは、彼の父からの手紙を僕に送ってきて、彼は聖マテウシュ(マシューズ)の日[9月21日]のロヴィッツ・フェアにテプリッツから戻って来た;彼が言うには、クリスマスの間はドレスデンに行き、そこで彼らは陽気に過ごそうと考えているそうだ;ソコロフスカ夫人は、おそらく冬の間ずっとそこで過ごすかもしれないらしい。同様に、ワンダ嬢の具合がそれほど悪くて、肝臓が炎症を起こし、彼女はマリエンバートで病気にかかった時には、ほとんど医者に見放されていたんだが、現在はドレスデンで快方に向かっている。僕はまだコステュ(※原文ママ)に手紙を書いていない――なぜだかは君に説明する必要ないだろう――君は僕がどれほど怠け者か知っているからね;僕はヴェルフェルにも、ほとんど2、3語ほど走り書きする事しかできなかったんだから。」 |
※
ここに出てくる「カロル」は、前回の手紙でもオピエンスキー版の追伸に名前があって、カラソフスキー版ではそれが削除されていたが、これはカロル・ヴェルツの事である。彼はヴォイチェホフスキの継兄弟で、親友ヤン・ビアウォブウォツキの同窓生でもあった。今までに彼の名が出て来たのは、ショパンの最初の手紙となった「1823年9月のマリルスキ宛の手紙」と、ビアウォブウォツキへの最後の手紙となった「1827年3月14日付のビアウォブウォツキ宛の手紙」で、そこでは「ヴェルツ」と言う名字の方で書かれており、いずれの場合も、必ずヴォイチェホフスキとつるんで描写されていた。そしてカラソフスキーの著書には、それらの手紙はいずれも掲載されていない。これによって、ビアウォブウォツキの生前には、ヴォイチェホフスキもヴェルツもそれぞれ主に「ヴォイチェホフスキ」、「ヴェルツ」と書かれていたのに、ビアウォブウォツキ亡き後になってから「ティトゥス」、「カロル」と書かれるようになっており、親しさの度合いが明らかにビアウォブウォツキの死を堺に変わっていた事が分かる。しかしカラソフスキーはその事実を隠蔽してしまっている事になる。
カラソフスキーは、前回の「第3便」と同様に、今回も、ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である「カロル」と「コステュス」の存在を消している。
ショパンは冒頭で、「たった今、君からの手紙を受け取った、ちょうど僕が再び君に手紙を書き始めた時にだ、僕の最初の手紙が届かなかったか、それとも、何か恐ろしく馬鹿な事を書いてしまったのではないかと考えながらね」と書いている。ここから、前回の「第3便」に対するヴォイチェホフスキからの返事がちょっと遅いと、ショパンがそう感じていた頃だった事が分かる。同時に、「再び」と言う単語から、この手紙が、ショパンがウィーンから戻って2通目の手紙である事も分かる。
ヴォイチェホフスキの住むポトゥジンは、ワルシャワから南東へ遠く離れたポーランドの最果てにあり、ウクライナとの国境沿いに位置する。シャファルニャへ行くよりもずっと遠いので、手紙が届くまでの日数もそれなりに要する。ショパンが「9月12日」に書いた手紙に対する返事が3週間後に届くと言うのは、ショパンにしてみれば遅いと言う事になるらしい。おそらく、普通ならだいたい2週間ぐらいと見ていたのかもしれない(※下図参照)。
1829年9月 |
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1829年10月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
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1 |
2 |
3 第4便 |
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6 |
7 |
8 |
9 |
10 帰宅 |
11 |
12 第3便 |
4 |
5 |
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8 |
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10 |
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13 |
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20 |
21 |
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20 第5便 |
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30 |
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26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
ちなみに、次回紹介する「第5便」は「10月20日」付になっており、今回の「第4便」から約2週間半後である。
ショパンはその事について、「君はおそらく、どうして僕がこんな手紙書きマニアになったか不思議だろう;こんな短い間に、これが君への3通目だ」と書いている。ショパンにしてみれば、旅先から家族宛に書いたものを例外とすれば、たった1ヶ月と8日の間に「3通」は異例の多さである。旅先とは違って、普通に家で日常生活を送っていれば、いかにショパンと言えどもそんなに話題ができる訳ではないからだ。
たとえば、去年1828年の例で言えば、ショパンはヴォイチェホフスキ宛には2通しか書いておらず、「第1便」が「9月9日」で「第2便」が「12月27日」なので3ヵ月半も空いているが、これはそのまま夏休みと冬休みの帰省時期と一致しているだけの話だ。さらに、その「第2便」から前回の「第3便」にかけては8ヵ月半も空いている。ただしこれも同じ事で、その間彼らはワルシャワのショパン家で共に寄宿生活をしていたのだから、手紙が書かれなくても当然だった。
つまり、この「手紙書きマニアになった」「3通」と言うのは、ショパンがウィーンから帰国後、2人が離れ離れに暮らすようになって本格的に文通しだしてからのものなのである。ここで重要なのは、あくまでもこの「3通」が連続して書かれており、その間に欠落している手紙は1通もないと言う紛れもない事実だ。特に、今回の「第4便」と次回の「第3便」が連続して書かれていると言う点は重要である。そしてその間、言うまでもなく、この両者は一度も会っておらず、だから直接会話も交わしていない。
その事実によって、この手紙に書かれている「理想の人」が、ヴォイチェホフスキとカラソフスキーによる加筆改ざんである可能性が浮き彫りにされるのであるが、それについては後述する。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#3. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君は、僕の演奏会に関する記事を2つの新聞で読んだと書いて寄こしたね;もしもそれがポーランドの新聞なら、きっと満足できなかっただろう。と言うのも、それらは翻訳の仕方が悪いばかりでなく、ウィーンの批評家の評論を、僕を批判するように歪めているからだ。ウィーンの“ザムレル紙”や“ツァイシュリフト”、“フュール・リテラトゥール紙”は、フーべが僕に切り抜きを持って来てくれたんだが、僕の演奏と作曲について、極めて良い批評をしていて、(こんな事を書くのを許してくれたまえ)、そして最後に、“独自の道を行く名手で、その演奏はデリカシーと深い感情とに満ちている”
と書いている[*エドゥワルト・ハンスリックは、その著書『ウィーンの音楽全史』において、ザムレル紙がショパンについて述べたのと同じ言葉を使っている]。もしもこうした切り抜きが君の手に入ってくれていれば、僕は恥ずかしい事を少しも書かずに済むのだが。 僕がこの冬にやろうと思っている事を、一つ一つ君に教えるとしよう。どんな事があっても、僕はワルシャワにはいないだろう;運命が僕をどこへ導いてくれるのは分からないがね。ラジヴィウ公爵夫妻は、ものすごく慇懃な言葉で僕をベルリンヘ招待すると言い、彼らの宮殿内で僕にアパートを提供しようと言ってくれている;しかしそれが何の役に立つのだろう? 僕はたくさんの仕事(※作曲)を始めたよ、それが、僕がここにいる間にすべき最も賢明な道だと思うからね。僕は、またウィーンヘ戻ると約束もしてあるし、それにウィーンの新聞が言うには、ざっくばらんに言うが、この帝都に滞在する事が僕には非常に有益で、僕の人生に最もよい影響を与えるのだと。」 |
※ ほぼ同じだが、こちらには、「フーベは、トリエステとヴェネツィアを訪問したあと先週帰って来た」と言う説明があり、フーベだけショパン達とはウィーンで別れ、その後、別ルートでワルシャワに帰って来た事が報告されている。しかし、カラソフスキー版ではそれを省いている。 ※ また、こちらには、「僕はたくさんの仕事(※作曲)を始めたよ、それが、僕がここにいる間にすべき最も賢明な道だと思うからね。」と言う一文がない。これはおそらく、カラソフスキーが勝手に加筆したものと思われる。 ※ こちらでは改行されていない。 |
「君は、僕の演奏会に関する記事を2つの新聞で読んだと書いて寄こしたね」とあるが、これは、ショパンが前回の「第3便」で、ウィーンでの出来事を報告したのに対してヴォイチェホフスキが返事を寄こして来た事を意味している。
さて、これに続く以下の部分が問題の箇所である。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君もまた、おそらくそう考えているのだろうけど;僕が手紙で言及していたブラヘトカ嬢の事を考えていると想像しないでくれたまえ。僕にはすでに――おそらく僕にとって不幸な事に――僕の理想の人を見つけていて、僕は心からその人に忠義を尽くし崇拝しているのだ。半年もの間、僕は毎晩彼女の夢を見ながら一言も交わす事なく過ぎてしまった。この愛らしき存在について考えている間に、僕は新しい協奏曲[*協奏曲 ホ短調 作品11]のアダージョと、それから今朝早くには、君に送ったワルツを作曲した。 ×印の付いているパッセージ(経過句)に注意してくれたまえ、君以外には誰も知らないのだ。僕がこれらの曲を君に弾いてあげられたらどんなに嬉しいだろう、我が親愛なる者よ! 中間部の第5小節で、低音部のメロディがヴァイオリン記号の高い変ホ音まで上がらなければいけないが、しかしそんな事は君に話す必要はないだろう、君自身が感じてくれるだろうから。」 |
「僕はウィーンに戻らなければいけないのだと、君も分かっているだろうと確信している;しかしそれは、ブラヘトカ嬢のためではないよ、彼女については君に書いたと思うけど。彼女は若くて、可愛くて、しかもピアニストだ;しかし僕には、おそらく不幸な事かもしれないが、すでに僕自身にとっての理想の人がいて、半年もの間、黙って忠実に仕えてきたのだ;僕はその夢を見ながら、僕の協奏曲に含まれるアダージョを構想し、そして今朝、小さなワルツのインスピレーションを受けたので、君に送る。×印に注意してくれたまえ;これは君以外には誰も知らないのだ。僕はどんなにかこのワルツを君に弾いてあげたい事だろう、親愛なるティトゥス。中間部の第5小節で、低音部のメロディがヴァイオリン記号の高い変ホ音まで優先しなければいけない;しかしそんな事は君に書く必要はないだろう、君自身が感じてくれるだろうから。」 ※
オピエンスキーの註釈では、[私はこのワルツを特定する事ができない;おそらく出版されなかったのかもしれない。]とある。 |
これが、有名な「理想の人」についてのくだりである。
今まで本稿にお付き合い下さってきた読者であれば、この文章に少なからず違和感を覚えられる事だろう。そう、ショパンは決してこのように、自分の作品の創作秘話みたいな事を決して手紙に書いたりなどしないからだ。
結論を先に言えば、この「理想の人」についてのくだりはヴォイチェホフスキとカラソフスキーによる捏造である。
なぜ彼らがこのような作り話をこしらえる必要があったのか、その理由もはっきりしている。
それは彼らが、ショパンの実像を捻じ曲げて革命派として描こうと目論んでいたからだ。
実際のショパンは平和主義者で、政治的には保守中立だった。だから彼はモリオール伯爵家やスカルジンスキ家などのような、直接コンスタンチン大公とつながっていた保守派の人々とも親交があった。そしてショパンは、実はそのモリオール伯爵家の令嬢に恋していたのである。これは本人が手紙でそう告白している紛れもない事実なのだ。
カラソフスキーはその事実が許せなかったので、その箇所を手紙からそっくり削除し、そしてその代わりに、ショパンを革命派として描くのに都合のいい架空の恋愛対象をあてがったのだ。
それがこの「理想の人」なのである。
それでは、この箇所の文章の一つ一つを検証していこう。
まず、私の考えでは、おそらく「ブラヘトカ嬢」の事を冗談交じりに書いたあたりまでは、本当にショパンがそう書いていた可能性はあるかもしれないと思われる。しかしそれに続く「理想の人」についてのくだりは、おそらくヴォイチェホフスキによる加筆改ざんである。
※
ちなみに、ここで使われている「理想の人」という単語は、ポーランド語原文では「ideał」、ドイツ語、英語では「ideal」、フランス語では「idéal」である。この単語には、「理想」、「理想的な人(物、事)」、「究極的な目標」、「完成度の最高のもの」、「(実現可能な)美」、「最高規範」、「空想」、「観念的にのみ存在するもの」などの意味がある。
私がこの記述を加筆改ざんと考える理由は以下による。
1.
ショパンが、「理想の人」が誰なのかについて何も教えようとしていない事。それなのに、そんな告白をされたヴォイチェホフスキが、次の手紙で、それは誰なのか?とか、ショパンに何の質問も返して来ない事。
2.
カラソフスキーが、「理想の人」が誰であるかについて、どう言う訳かこの時点では何も解説していない事。そしてそれを説明するのが、なぜか「第12便」になってからである事。
3.
カラソフスキーが、ここに書かれている「アダージョ」を、作曲順からして≪ヘ短調 作品21≫のはずなのに、[ホ短調 作品11]と間違って註釈している事。
4.
カラソフスキーが、「小さなワルツ」の「×印」が書き込まれた自筆譜について、ヴォイチェホフスキに何の確認も取ろうとしていない事。それに伴い、その「小さなワルツ」が何の曲であるかについて注釈もしていない事。
さて、これらの事について詳しく説明する前に、一つ興味深いエピソードを紹介したいと思う。
実は、ショパン伝においては、カラソフスキーの伝記以前にも、もう一つ別の「捏造された初恋物語」が存在していたのである。
世界で初めてショパンの伝記を書いたのはフランツ・リストであったが、それはカラソフスキーのよりも10年前ほどになる。実は、彼が書いたそのショパン伝の中にも、ショパンのワルシャワ時代における「事実無根の恋愛エピソード」と言うものが書かれているのだ。
それは以下の通りである。
「まだ非常に年若い頃、ショパンはひとりの若い女性を愛した。彼女はそののち終生、彼をこころの聖所に祭って、永遠に変わらぬ愛を捧げるようになった。たまたま時ならぬ嵐がまき起って、ショパンはその生れ故郷を離れねばならなくなった。彼は、平和な森の木の枝に夢みていた小鳥が、突然一陣の嵐に吹き落されるように、唐突として旅路に出で立ったのだ。いや郷里を奪われたばかりではない。彼のいと若き日の純愛は、こうしてここに手折られてしまったのだ。かくして彼は、操正しい、献身的な未来の妻を、永久に失ったのだ。 やがて、若いショパンに輝かしい名声の訪れる日はやって来た。彼自身がその日を夢み望んでいたのではなかったが……しかし彼の夢みた甘美な幸福――彼女と共に愛に生き抜こうとしたその幸福な結婚の夢は、永久に彼から離れ去ってしまったのである。彼女はルイニーのマドンナのように、若く、優しく、美しかった。その顔には真実と慈愛が溢れていた。彼女は彼を失って、若い身を終生ひとり静かに暮らした。そして遙かに彼の安否を気遣った。彼女の眉は、霧を含んだ初夏の朝のように、いつもかすかな露を宿していた。ショパンには再び彼女のような良い妻たるべき女性は現れなかったのである。彼女のようにうるわしの身をも魂をも捧げつくして、ただ一筋に愛をもって生き抜き、愛を以て死にゆく女性を又と他に求められようか! 永遠にこの世で失える彼女こそ、愛の女神であったのだ。 天才とは、ひとつの重い宿命の名である。神から、美しい、然し致命的な『天才の力』というものを授かった者は、自分の恋愛を完成しようとして、その天分を犠牲にすることを禁断されている。天才は、自己の個性を束縛され、摩滅するの自由を許されていない。とはいえ、たとえこの世で最も輝かしい、素晴しい天分のためであろうとも、神聖なこの女の純愛を空しく消滅してしまうということは、また痛ましい極みではないか。彼女の謙譲な、そして自分の生活も意志も、名誉も、ことごとく愛する男の中に捧げ切った無我の一生は、ショパンのまことの愛人として、天国にその名を留めたに違いない。こうして彼女の純愛を呼び醒ました彼の真情は、彼女に霊魂の平和と、恋人としての彼の美しい名前とを贈ったのだった。 ショパンと不幸な別離をしたポーランドの少女は、こうして彼の思い出に生きた。思い出だけが、彼女に残された全てであって、彼女はその若い余生を、あとに残った彼の年老いた両親につかえて過したのだった。思えばそれは楽しかりし日の一片の思い出に――彼女は一枚のショパンの肖像画を持っていた。ショパンも彼女も、同じふる里のきれいな森かげに、楽しい愛を囁き合っていた頃の或る日、彼女が彼を写生したその思い出の肖像画だった。悲しい少女の胸を知ってか、ショパンの老いた父親は、このつたない肖像画を我が家の客間に懸けて、決して他の額と取り替えようとしなかった。 既にショパンが去って何年かを経た或る日のこと、この肖像画に見入っていた彼の父親の目は、パッタリとこの書にみ惚れていた彼女の目と合った。と、一瞬、パッと赤い夕陽が白雪の大理石像を照らしたように、彼女のま白い頬にバラ色が燃え立った。」 リスト著/蕗沢忠枝訳 『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より
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リストがこんな話を一体誰から聞いたのかは不明であるが、現在では勿論、このような「ポーランドの少女」など存在しなかった事は分かっている。
実際にショパンの「年老いた両親」の世話をしたのはイザベラ夫妻だったのだし、また、この「ポーランドの少女」は「若い身を終生ひとり静かに暮らした」と言う事であるから、のちに結婚して子供も授かっているグワトコフスカでもなければ、2度の結婚暦を持つマリア・ヴォジンスカでもない(※ちなみにリストのショパン伝では、この両者については一切触れられていない)。実在する人物で、この「ポーランドの少女」に該当すると思われるような女性など一人もいないのである。
しかし問題は、このエピソードが嘘か本当かではなく、いずれにせよこの話が、当時世界中の人々に信じられていたと言う事なのだ。何しろこの本は、当時世界中でベストセラーになっていたのだから。
しかし、ショパンのワルシャワ時代をよく知るヴォイチェホフスキは、当然この話が事実ではない事を知っていた。そして、そのヴォイチェホフスキやイザベラと直接面識のあったカラソフスキーもまた、この話が事実ではない事を知っていた。
そこで、リストのショパン伝に対して何かと目くじらを立てていたカラソフスキーは、このリストの「ポーランドの少女」に関しても当然否定したかったはずである。私には、どうもそれがそもそもの事の発端となっていたように思えてならないのだが、しかし問題は、その否定の仕方なのである。
それでは、順に説明していこう。
一.ショパンが、「理想の人」が誰なのかについて何も教えようとしていない事。それなのに、そんな告白をされたヴォイチェホフスキが、次の手紙で、それは誰なのか?とか、ショパンに何の質問も返して来ない事。
たとえば、仮にあなたがヴォイチェホフスキの立場だったとして考えてみて頂きたい。
もしもあなたが、親友であるショパンから、手紙でこのような恋愛話を打ち明けられたとしたら、どうだろうか?
まずは、きっと、まるで青天の霹靂のように驚く事だろう。そして、興奮交じりにすぐさま返事を書くだろう…その「理想の人」とは誰なんだ?とか、どんな人だ?とか、その人の何が「理想」なのか?容姿か?性格か?だとか、あるいは、どうしてそれが「不幸な事」なのか?とか、どうして「半年」も黙っていたんだ?水臭いじゃないか、とか…それこそ根掘り葉掘り質問攻めにするだろう。そうしない親友などいないはずである。しかもただの親友ではない。2人は学生時代にずっと同じ屋根の下で生活してきた仲なのだ。すると、必然的にショパンは、その質問に対して、あれやこれやと答えてくれる手紙をあなたに返信し、すなわちそれが、次回の「第5便」になるはずである。
それが「文通の手紙」として当たり前の流れだ。
…ところがだ、この手紙から17日後に連続して書かれる「第5便」には、ここで打ち明けた恋愛の話などまるで最初からなかったかのように完全に素通りされており、その話題については一切一言も触れられていないのである。
これは一体どう言う事なのか?
つまり、ヴォイチェホフスキと言う唯一無二の親友とやらは、ショパンからこんなビッグ・ニュースを打ち明けられていながら、それに関して全く何の関心も払っていないのである。だから返事も出していない。そしてそんなヴォイチェホフスキに対して、ショパンはショパンで何の関心も払っていない(←せっかく勇気を振り絞って告白したのに、シカトかよ?!みたいな…)。
こんな事が常識として考えられるだろうか? 考えられないだろう。もしも考えられるとしたら、それは、最初からこの初恋話が捏造されたもので、他ならぬヴォイチェホフスキ本人が、ショパンの手紙に加筆改ざんしたからに他ならないだろう…と言うのが私の考えである。
私が本稿において何度も説明してきたように、「文通の手紙」と言うのは、単にその1通を読んだだけでは「木を見て森を見ず」になり、真実を見落とす事になる。必ず、最低でもその前後の手紙の内容と照らし合わせて見なければ、決してその手紙を読んだ事にはならないのである。
ニ.カラソフスキーが、「理想の人」が誰であるかについて、どう言う訳かこの時点では何も解説していない事。そしてそれを説明するのが、なぜか「第12便」になってからである事。
この段取りも極めて挙動不審である。
現在では、あらゆるショパン伝や書簡集において、この手紙を引用もしくは紹介する際に、この「理想の人」はワルシャワ音楽院・声楽科のコンスタンツヤ・グワトコフスカであると説明されている。
しかしだ、奇妙な事に、その事を当然最初から知っていて、しかもその話を一番最初に流布したカラソフスキーの著書では、その「理想の人」について、それは一体誰なのか?と言う事を、どういう訳か、この手紙を紹介しているこの時点では一切何も説明していないのである。カラソフスキーがそれについて説明するのは、何と、この手紙を紹介してから8通も後の「第12便」になってからだ。その「第12便」の日付は来年の「1830年8月21日」であるから、今回の「第4便」から、月日にして約1年弱もの間、カラソフスキーは、この「理想の人」が誰であるかについて読者に説明してこなかった事になる…。
こんなバカな話があるだろうか?
しかもカラソフスキーの挙動不審はそれだけではない。
今回の「第4便」でショパンに恋の告白をさせてから、その相手が「グワトコフスカ嬢」であるとやっと説明する「第12便」までの間に、そのグワトコフスカの名は手紙の文中に何度も出て来ているのである。しかしそれにも関わらず、その度にカラソフスキーは、そのグワトコフスカこそが「理想の人」だと説明する機会をことごとくスルーし、それどころか最初の方では、あろう事か彼女の名前が書かれている箇所を削除し続けていたのである。
これは一体どう言う事なのか?
それでは、試しにここから、そんなカラソフスキーの目線になって、「第4便」以降の「ショパンの手紙の原文」(※ヴォイチェホフスキによる「写し」)を追ってみる事にしよう。
最初に彼女の名が「ショパンの手紙の原文(写し)」に登場するのは、「1829年11月14日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡・第6便」においてである。
それは、いつものように追伸部分に大量に列挙された友人知人達の中に混じって、以下のように書かれていた。
「…(前略)…
先週の土曜日、リソースで、ケスレルがフンメルの《ホ長調の協奏曲》を演奏した。セルヴァヂンスキも他に演奏した。たぶん、僕は次の土曜日に弾く事になるだろう;もしそうなれば、君の変奏曲を弾くつもりだ。お上品なマダム・スヒロリは、美しいコントラルト歌手(※ソプラノとテノールの中間で、女性の最低音域)で、ソリヴァ(※ワルシャワ音楽院・声楽科の院長)の所で催された音楽夜会で2回歌ったと、タイヒマンが僕に話している。ヴォウクフ嬢(※ソリヴァの愛弟子)は母親の喪に服しているし、グワトコフスカ嬢(※同じくソリヴァの愛弟子)は目に包帯をしている。チリンスキはマダム・スヒロリと一緒に同じ音程で歌った;でも彼が言うには、自分が彼女の横にいるネズミのように感じられたそうだ。僕が持っているニュースはそれで全部だ。…(この後も更に長々と追伸が続くが略)…」
注目の「グワトコフスカ嬢」に関しては、たったこれだけである。
ショパンはこの時点で、この「グワトコフスカ嬢」こそが「理想の人」であるとヴォイチェホフスキに説明しなければ筋が通らないはずなのに、そんな素振りは一向に見られない。
この箇所はオピエンスキー版にはあるが、カラソフスキー版ではこの前後の文章も含めてごっそり削除されている。
しかもこの話は、ショパンが直接彼女を見たと言う話ではなく、「ソリヴァ」の夜会に出席していた「タイヒマン」もしくは「チリンスキ」伝手に聞いた話で、それを更に間接的にヴォイチェホフスキに報告しているに過ぎない。
ここで重要なのは、たったそれだけの記述でヴォイチェホフスキに話が通じていると言う事なのだ。つまり、ショパンとヴォイチェホフスキにとって「グワトコフスカ嬢」は、この時点ですでに共通の知人だったと言う紛れもない事実なのである。ショパンとヴォイチェホフスキは学校を卒業して以来一度も会っていない。と言う事は、彼ら2人は、すでに学生時代にソリヴァを通じて彼女と知り合いになっていた…と言う事が分かる。
しかも、更に「1830年4月10日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡・第8便」には、こう言う記述も見られる。
「グワトコフスカ夫人が君の事を尋ねていた事を除けば、これ以上詳しく書く必要はない。」
この「グワトコフスカ夫人」とは「グワトコフスカ嬢」の母親の事である。つまりショパンもヴォイチェホフスキも、2人ともすでに学生時代に「グワトコフスカ家」とすら知り合いで、そんな事までもがこの一文によって判明しているのである。しかしカラソフスキー版では、この箇所も削除されている。
すると、ここでまず、一つ矛盾が生じてくる。
ショパンは、「理想の人」とは知り合ってこのかた半年間一度も口を利いた事がないと書いている。と言う事は、この時点で、その時すでに共通の知人であった「グワトコフスカ嬢」が「理想の人」だとは、ちょっと考えにくい事になるのではないだろうか。なぜなら彼らは、ソリヴァの夜会と言う狭い社交の場で、幾度となく家族ぐるみで会っていたからである。ショパンは、そんな状況で半年間会話も交わせないほどウブでもなければ内気でもないし、もしそんな態度を取っていたら、それこそ周りから怪しまれ、すぐ近くにいたヴォイチェホフスキがそれに気付かないはずもないだろうからだ。
カラソフスキーは、そういった事を読者に見透かされるのを恐れて彼女の名前を削除したのだろうか?
いや、おそらくそれは買い被りすぎで、話はもっと単純と言うか、極めて子供じみた動機からだったと思われるが、それについては後述する。
次に「グワトコフスカ」の名が出てくるのは「1830年5月15日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡・第10便」で、以下のように書かれている。
「それから、G(※グワトコフスカ)嬢とW(※ヴォウクフ)嬢も、大臣モストフスキー閣下の命令に従い、1人はパエールの《アグネス》に、Wの方は《トルコ人》に出演する。君はオペラのそのような選曲をどう思うかね? 昨日、僕はソリヴァ(※ワルシャワ音楽院・声楽科の院長)の所で催された夜会に行った;スーヴァン家の人達とグレッセル家の人達以外には誰もいなかった。Gがアリアを歌ったが、これはソリヴァが彼女のために特別に作曲して、このオペラに挿入したものだ。なかなかいいものがあり、所々彼女の声によく合っている。Wは、《トルコ人》に出演し、また彼女の声を自慢するためのアリアを歌った;それは、ロッシーニがそのオペラに出演する最も優れた歌手のために書いた曲だ。彼女は上手に歌った。」
ここでは、名前がイニシャルで書かれているが、ポーランド語の「写し」原文がそうなっているのである。この箇所についても、カラソフスキー版ではそっくり削除されている。つまりカラソフスキーの伝記には、これまで「グワトコフスカ」の「G」の字すら出て来ていないのである。
なぜカラソフスキーはこのように、「グワトコフスカ」の存在をことごとく消してしまっているのだろうか?
それはこう言う事である。
1.
ショパンとヴォイチェホフスキはずっと以前から、しばしば一緒にソリヴァの夜会に出席していた。そしてそこに行けば必然的に、ソリヴァの愛弟子である「グワトコフスカ嬢」と「ヴォウクフ嬢」を紹介される。それで彼らは、とっくの昔に彼女達と家族ぐるみで共通の知り合いになっていたのである。だからこそ、ショパンが手紙の中で、単にその名前を列挙するだけでヴォイチェホフスキに話が通じているのだ。
2.
そしてヴォイチェホフスキは、かつてショパンと共に過ごしていたそんな日常生活の中で、その「グワトコフスカ嬢」が、ショパンの恋愛の対象ではない事を知っていた。だから彼は、「第4便」でショパンの恋愛話をでっち上げた時、その相手を特に誰であるとも特定せず、リストのショパン伝に出てくる「ポーランドの少女」のような架空の人物として書いていたのだ。だからヴォイチェホフスキは、自分がそのように改ざんした「写し」をカラソフスキーに資料提供した際にも、伝記作家には予めそのように説明していたのである。
3.
だからカラソフスキーは、「第4便」を紹介する時、例の「理想の人」について、その素性を一切読者に説明しなかったのだ。他でもないヴォイチェホフスキが、それはあくまでも架空の人物であると彼にそう説明していたからだ。
4.
その結果、カラソフスキーは当初、ショパンの手紙に出てくるこの「グワトコフスカ嬢」には特に関心も示さず、他の雑多な友人知人達と一緒に、ことごとく闇に葬り続けてきたのである。
逆に言えば、もしも「理想の人」が本当に実在し、そしてそれが「グワトコフスカ」であったのなら、ヴォイチェホフスキが最初からそれをカラソフスキーに説明していないはずがない。そしたらカラソフスキーは、この「第4便」を紹介する際に、間違いなくその事を読者にも説明するはずである。それをしない伝記作家などありえないだろう。そして更に、その後何度も出てくる「グワトコフスカ」の名をことごとく無視するはずもないし、まして、それらを削除したりなども決してしないはずである。
カラソフスキーの伝記において、「グワトコフスカ」の存在が初めて削除される事なく登場するのは、次の「1830年6月5日」付の「第11便」においてである。
「僕が一度彼女(※ゾンターク嬢。当時ワルシャワを訪れていたドイツの人気ソプラノ歌手)を訪ねた時、そこで、ソリヴァとその女の子達(※GとW)に会った。僕は、彼女達が彼(※ソリヴァ)の二重唱曲を歌うのを聴いた、何て言ったけか?君も知ってる、バルバラ・ソルテで終わる長調のやつだ。ゾンタークは彼女達に、あなた達の声は強張っていると話した;よく練習しているけど、2年もすればすっかり駄目になってしまうから、そうなりたくなかったら発声法を変えなければならないと。僕の前で、彼女はヴォウクフ嬢に、あなたは非常に才能に恵まれているし、多くの素晴らしい技巧を持っている、でも金切り声だと話した。彼女は彼女達に、私のやり方を教えてあげるから、何度でも私の所へ来るようにと言っていた。それは、超自然的な気立ての良さだ;(※このあとショパンは、ゾンターク嬢の事を、容姿、性格、才能、そのそれぞれについて具体的に長々と褒め称えており、まるで、彼女こそが真の「理想の人」なのでは?と思わず疑いたくなるほどだ)」
ここでは、グワトコフスカの方についてはイニシャルすら記されていないが、「女の子達」の片方が「ヴォウクフ嬢」と書かれているので、もう1人は自動的に「グワトコフスカ嬢」となる。その事が、わざわざ書くまでもなくヴォイチェホフスキには通じているのである。それほどこの2人の「女の子達」は、ソリヴァの愛弟子として常に一緒にいたと言う事で、ヴォイチェホフスキもまたその事を認識していたと言う事なのだ。
ただし、これはオピエンスキー版の方で、カラソフスキー版では、この箇所を削除しなかった代わりに、この「女の子達」が最初から「グワトコフスカ嬢とヴォウクフ嬢」と言う風に名前で置き換えられている。おそらく、註釈を入れる煩雑さを省きたかったのもあるだろうが、さすがのカラソフスキーも、いい加減この2人が必ずセットだと言う認識を持っていたか、あるいは直接ヴォイチェホフスキからそう教えてもらったかしていた事が分かる。
さて、ここまでカラソフスキーの伝記を見てきて、一体誰が、「第4便」に書かれていたショパンの初恋の相手、つまり「理想の人」がこの「グワトコフスカ嬢」なる人物だと思うだろうか? しかも奇妙な事に、「第4便」でそれが告白されてからと言うもの、ショパンはその恋愛話に関する続報については一切一言も触れていないのである。若者が初めて恋をすれば、誰でもその事で頭が一杯になり、どんな些細な事でも親友に話さずにはいられないと言うのに、そんな記述はあれ以来一つもない…この不可解な沈黙は一体何だと言うのだろうか?
少なくとも、カラソフスキーがこの伝記を雑誌に連載していた当初の読者は、この時点でこの両者が同一人物だなどとは夢にも思っていなかったろう。
彼女はただ単に、ワルシャワ音楽院・声楽科の院長ソリヴァの愛弟子の1人で、当時のポーランドにおける期待の新人歌姫の1人でしかなく、それでも外国の一流のプロ歌手「ゾンターク嬢」から見ればまだまだ未熟で、ショパンも明らかに「グワトコフスカ嬢」をそういう目でしか見ていない。だからショパンの手紙の中では、彼女は、いつも一緒にいるもう1人のソリヴァの愛弟子「ヴォウクフ嬢」と必ずセットで同等に語られている。もしもショパンにとって「グワトコフスカ嬢」が初恋の相手なら、もう1人の「ヴォウクフ嬢」など端から眼中にないはずで、いちいちヴォイチェホフスキ宛に「ヴォウクフ嬢」の事まで報告しないだろう。これは、「G嬢」も「W嬢」も、ショパンとヴォイチェホフスキにとって同じ程度に関心を持つ共通の友人知人達のうちの1人である事を意味しているに過ぎず、彼女達2人は、共にそれ以上でもなければそれ以下でもないのである。
たとえば、それについては以下の著書でも次のように説明されている。
「この時期の材料の中から当面の事柄に焦点をあててみれば、グワドコフスカ嬢がその「理想の存在」だとは記してなく、彼女は音楽院の学生で、オペラの舞台をめざすこともできるすぐれた歌手として指導教授のソリヴァ氏の特別の愛顧を得ている経過だけが詳細に語られる。」 荒木昭太郎 著 『ショパン 瑠璃色のまなざし』(春秋社)より
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この著者は「理想の存在」を捏造だとは考えていないが、カラソフスキーの解説を排除して純粋に手紙に書かれている事だけを読んでいけば、全くその通りでしかない。その事は誰の目にも明らかなのである。
これらの描写から、ショパンが「G」に恋心を抱いてなどいない事はもはや明白で、カラソフスキーの目にもそう映っていたからこそ、彼は、さして重要とも思えないその名を、当初「理想の人」と結びつけようなどとは考えも及ばず、その結果、他の友人知人達と共にずっと闇に葬り続けて来たのである。
だが、カラソフスキーは、次の「1830年8月21日」付の「第12便」を編集する段になって、初めて、あるアイディアを思い付くのだ。
つまり、ここに至ってカラソフスキーは、ヴォイチェホフスキがでっち上げた「理想の人」を、実は「グワトコフスカ」だった事にしてしまおうと思い付いたのである。
と言うのも、「第12便」に以下のように書かれているのを見たからだ。
「ワルシャワの全ての出来事の中で僕の心を占めたのは、《アニエラ》(※グワトコフスカのデビュー公演の演目)で、僕はその公演を観に行った。グワトコフスカ[*]は申し分なかった;コンサート・ホールでよりも、オペラのステージでの方が良い。彼女の悲劇の演技は素晴らしく、それについては何も言う事がない。歌唱については、高音の嬰へ音とト音で時々問題があるが、このクラスの歌手としてはこれ以上望めないほどだ。彼女のフレージングには君も魅了されるに違いない。ニュアンスの付け方も素晴らしい。最初に舞台に出て来た時には音程が震えていたが、その後は自信を持って歌った。オペラは短縮して演じられた;それが、長さに退屈してあら捜しせずに済んだ理由だ。第2幕でのソリヴァのアリアは非常に効果的だ;僕はそれがそのような効果を生み出す事は分かっていたが、ここまで絶大とは予想していなかった。第2幕のハープに合わせて歌う事になっているロマンスでは、エルネマンがそのイメージを壊さないように彼女のために舞台裏からピアノで伴奏した;彼女は最後にそれをとても上手に歌った。僕は満足だ。《アニエラ》が終わると舞台に呼び戻されて拍手喝采を浴びていた。来週の今日は、《トルコ人》のフィオヴィラ役で初舞台を踏む事になっている、ヴォウクフ[*]はもっと好かれるだろう。君は、《アニエラ》には恐ろしいほどの数の敵がいる事を知らねばならない、彼らは、なぜその音楽を批判しているのか自分達でも分かっていないんだ。僕は、このイタリア人(※ソリヴァ)が、グワトコフスカのために何かもっと良いものを選べたはずだと言う事を否定できない。これ(※アニエラ)でもいいのだが、《ヴェスタの巫女》(※スポンティーニ作)だったら、彼女にもっと幸運をもたらしたかもしれず、若い新人にとっても上手に扱えるような、多くの稀有な美しさと難しさを兼ね備えている。
(※この後ショパンは、《トルコ人》のリハーサルの様子を報告し、各演者達を列挙して褒めたり貶したりした後、ヴォウクフ嬢について次のようにコメントする)
ヴォウクフは上手に歌い、演技も素晴らしかった。それは彼女にとって相応しい演目で、彼女はそれをモノにしていた。おそらく、彼女の眼差しは、彼女の喉以上に、もっと観衆を楽しませるだろう。彼女は時々、高い二音を、きれいに簡単に取って見せた。僕は、彼女がグワトコフスカよりも好かれるだろう事について、疑いが持てない。」
そして、カラソフスキーがこの箇所に施した註釈は以下の通りである。
「*グラドコフスカ(※グワトコフスカ)嬢はショパンの理想の実現であった。彼女を思う念は当時書いた作品に織り込まれている。彼女を夢想しながら、ホ短調協奏曲のアダージョを書いた。彼のワルソウを去りたいという望も消えた。彼女はこの二十歳の多感な青年の心をまったく充たしていた。コンスタンチア・グラドコフスカ嬢はソリヴァの弟子で一八三三年(※誤植。ドイツ語版原文では「1832年」)に結婚して、舞台を去り、あらゆる鑑賞家に大きな失望を与えた。」 「*ウォルコフ(※ヴォウクフ)嬢はグワトコフスカと相弟子で、彼女もまた一八三六年に結婚して舞台を去った。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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ショパンが手紙の中で、これほど詳細に、そして熱心に「グワトコフスカ」について書いた事はこれまで一度もなかった。
グワトコフスカの演目については、それを批判する意見が多かったにも関わらず、ショパンは、それはソリヴァの選曲ミスだとして彼女を擁護してさえいる。
これを見てカラソフスキーは、ここに至って初めて、この「グワトコフスカ」を「理想の人」に仕立て上げようと思いついたのである。それでこの話をもっと膨らませれば、もっと読者の興味を引く事ができると。ただし、そのためにカラソフスキーは、そのために邪魔な文章を、この中からことごとく削除している。
上記に引用した手紙はオピエンスキー版の方で、カラソフスキー版では、ここから以下の箇所が削除されている。
1.
グワトコフスカの歌について、「高音の嬰へ音とト音で時々問題がある」と、ショパンが彼女の欠点を指摘している箇所。
2.
第2幕で、本来であればグワトコフスカがハープで弾き語りする場面で、エルネマンが舞台裏からピアノで上手く彼女をサポートしていたと指摘している箇所。
3.
最後の、《トルコ人》のリハーサルの様子を報告した箇所全て。つまり、「ヴォウクフは上手に歌い、演技も素晴らしかった。それは彼女にとって相応しい演目で、彼女はそれをモノにしていた。おそらく、彼女の眼差しは、彼女の喉以上に、もっと観衆を楽しませるだろう。彼女は時々、高い二音を、きれいに簡単に取って見せた。僕は、彼女がグワトコフスカよりも好かれるだろう事について、疑いが持てない」と、ショパンがヴォウクフの事をグワトコフスカ以上に絶賛している箇所が、カラソフスキー版にはそっくりない。
このように、グワトコフスカを美化するのに不都合な箇所を、カラソフスキーはことごとく抹消している。
そもそも、根本的な問題として、「理想の人」と言うのは何を持って「理想」とされていたと言うのか?
そういった肝心な事は手紙には何も書かれていないが、ショパンが初めて「理想の人」について告白した「第4便」の時点で、ショパンは半年間彼女と一言も交わした事がなかったのである。だとすればショパンは、彼女がどういう性格かなんて知っていたはずもない事になり、したがって、彼女の性格が「理想」だった訳ではない事になる。
それでは、一体彼女の何が「理想」だったと言うのか? 容姿か? 才能か? しかしショパンの手紙では、そのどちらも「ヴォウクフ嬢」の方が上だと書かれているではないか。それなのに、そんな「グワトコフスカ」のどこに「理想」が見出せると言うのか?
「グワトコフスカ」は断じて「理想の人」などではない。
何が理想なのかも説明されない「理想の人」など、その時点で、それが最初から「実在しない人物」である何よりの証拠である。
これを見ても分かる通り、すべてはカラソフスキーの印象操作のなせる業なのだ。
その証拠に、これ以降、「ヴォイチェホフスキ書簡」における「グワトコフスカ」の扱いがあからさまに急変する。要するに、突然の思いつきで急遽「グワトコフスカ」のキャラクターが設定変更されたのが、まったくもって見え見えなのである。
それについては、「第12便」以降の手紙を紹介する際にその都度説明していく事になるが、そこでは、これまで「第4便」以来まったく触れられてこなかったショパンの「恋愛話」が急に思い出したように触れられたり、ヴォウクフよりグワトコフスカの方が才能が上だと言うような逆転現象まで起きたりしていくのだ。
それでは、カラソフスキーはなぜ、「グワトコフスカ」をショパンの初恋の相手に指名したのだろうか?
彩色兼備と言う点では、むしろ「ヴォウクフ嬢」の方が「理想の人」として相応しかったと思われるのだが、おそらく彼女は、その名が示す通り生粋のポーランド人ではなった点が気に入らなかったのだろう。イワシュキェフィッチによれば、「ヴォウクフ嬢」は「たぶんあるロシア貴族の娘だったろう」との事であるから、それが事実なら尚更だろう。
また、あるいは、「グワトコフスカ」のクリスチャン・ネームがモーツァルトの妻(コンスタンツェ)と同じだった事もカラソフスキーの気に入ったのかもしれない。
カラソフスキーはのちにモーツァルトの伝記も書いているが、モーツァルトが初恋をしたのは21歳の頃で、相手はコンスタンツェの姉のアロイージアだった。彼女も当時、将来を期待される新鋭の歌姫であり、こういった図式を、偉大な先人との共通点としてショパンにもなぞらせたかったのかもしれない。
三.カラソフスキーが、ここに書かれている「アダージョ」を、作曲順からして≪ヘ短調 作品21≫のはずなのに、[ホ短調 作品11]と間違って註釈している事。
カラソフスキーは、この「協奏曲」を[協奏曲 ホ短調 作品11]であると註釈している(※これは彼のドイツ語版の原文でもちゃんとそうなっている)。しかしこれは明らかに間違いである。ちなみにこれは誤植ではない。なぜならカラソフスキーは、「第12便」で「理想の人」を「グワトコフスカ」だと説明した際の註釈でも、再度「ホ短調協奏曲のアダージョ」と書いているからだ。
ショパンは生涯に2つの協奏曲を残しているが、最初に着手されたのは[協奏曲 ホ短調 作品11]ではなく、≪ヘ短調 作品21≫の方である。実はショパンの協奏曲は、作曲順と出版順が逆になっているからだ。だからこの時期に[協奏曲 ホ短調 作品11]を書いていたはずがなく、したがって現在ではどのショパン伝でも、この手紙に書かれている「協奏曲」は≪ヘ短調 作品21≫であると註釈され直している。しかし、カラソフスキーはそうは書いていなかった。
なぜか?
実は、当時のカラソフスキーもヴォイチェホフスキも、ショパンの協奏曲の作曲順を正しく把握していなかったのである。
ショパンはワルシャワで過ごした最後の年、彼にとって非常に重要な演奏会を2つ開いている。
一つはショパンのプロ・デビュー公演で、その時の演目の一つが、最初に作曲された方の≪協奏曲 ヘ短調 作品21≫だった。
そして次はショパンのワルシャワ告別公演で、この時の演目の一つが、二番目に作曲された[協奏曲 ホ短調 作品11]である。
ところが、カラソフスキーはもちろんだが、ヴォイチェホフスキもまた、このどちらの演奏会も聴きに来なかったのである。だから彼らは、2つの協奏曲の順番を正しく知らなかったのだ。
当時、この2つの演奏会について報じたワルシャワの新聞雑誌等では、特に≪ヘ短調 作品21≫の方については、単に「協奏曲」としか書いていないものが圧倒的に多かった。
ショパンは、自分の協奏曲の第2楽章について語る時、作曲当初はそれを「アダージョ」としており、「ヴォイチェホフスキ書簡」の中では常にそう書いている。つまりカラソフスキーは、その[協奏曲 ホ短調 作品11]の「アダージョ」を、ショパンがのちに出版する際に“ロマンス(ラルゲット)”に変更していたので、それをショパンの恋愛感情と結び付けるのに打って付けだと考えたのだろう。
四.カラソフスキーが、「小さなワルツ」の「×印」が書き込まれた自筆譜について、ヴォイチェホフスキに何の確認も取ろうとしていない事。それに伴い、その「小さなワルツ」が何の曲であるかについて注釈もしていない事。
※
この「小さなワルツ」のくだりも、かなり奇妙だし矛盾しています。この箇所に関しましては、私のBGM付き作品解説ブログ「ワルツ 第13番 変ニ長調 作品70-3▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「毎週金曜日にケスレルの家で演奏があること以外に、君に伝える音楽関連のニュースはない。昨日も他の作品と一緒にシュポーアの八重奏曲を聴いたが、素晴らしい作品だった。」 |
※ ほぼ同じ。 |
※ 「ケスレル」 シドウの註釈によると、「ユゼフ・クリストフ・ケスレル(Joseph-Christophe Kessler 1800−1872) ピアニスト兼、作曲家」。
※ 「シュポーア」 シドウの註釈によると、「ルイス・シュポーア(Louis Spohr 1784−1859) ヴァイオリンの巨匠で、作曲家、指揮者」。
以下の箇所も、カラソフスキー版にはそっくりない。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#5. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「ソワンの所で夜会があったが、あまり良いものではなかった。僕はそこでビアンキに会った;彼はキャビニスと旅行している;彼はヴァイオリンを上手に演奏するが、僕には自惚れ屋のように見えた。ソリヴァは君について、丁寧に尋ねていた。僕は昨日、オボルスキに会った。彼は、僕が君についてのニュースを持ってるかどうか尋ね、そして、彼自身についての話を僕にしていた。彼は銀行で仕事をしているらしい;彼は手紙の係(※フランス語)だそうだ;この2日の間、彼は様々な国の銀行家からの手紙を大量に調べていたそうだ。彼は元気そうだった。イエルスキが彼を後任にしたんだ、前任者がそうだったようにね。彼はまだホテル・ガルニ(※フランス語「家具付きのホテル」)にいて、それで、彼が誰を呼ぶつもりでいるか、君なら理解できるだろう。僕はまだこっちで《シンデレラ》を見ていない;今日は《妻の取引》」だ。フランス劇場は月曜日に開幕する。バランスキが君によろしくと言っている;彼は現在スイスにいる。イエンドジェイェヴィツはジュネーブを発ってイタリアへ向かうそうだ。ヴォイチツキはロンドンから戻って高等中学校で教えている。来月君が戻って来たら、僕ら家族全員の肖像画を見つける事だろう、ジヴニーのも含まれているんだ(彼はよく君の事を話している);彼は、僕のために自分が描かれた事にビックリしていて、ミロッシオは、まるで彼を生きているように素晴らしく描いた。君の手紙を受け取る前に、僕はミヨドワ通りに出かけ、窓を見上げるのが習慣なのだが、君の部屋の窓の鎧戸は昨日も一昨日も同じだった。そして、ヴィンツェント・スカルジンスキが、君は確かにすぐに戻って来ると僕に話して、訳もなく僕に希望を抱かせていたと言う事を、君は知らなければいけない。」 |
※
「ソリヴァ」 カロル・ソリヴァ(Carlo Soliva 1792−1851) イタリア出身で、1821年から1833年まで、ワルシャワ音楽院の演劇歌唱学校の授受を勤め、コンスタンツヤ・グワトコフスカとヴォウクフ嬢は彼の愛弟子である。
※
《シンデレラ》 オピエンスキーの註釈によると、「ロッシーニのオペラ」
※
《妻の取引》 オピエンスキーの註釈によると、「ドイツのオペラ作曲家ゴットロープ・ベネディクト・ビエレイ(Gottlob
Benedikt Bierey 1772−1840)のオペラ」となっているが、シドウの註釈によると、「フランスのオペラ作曲家フェルディナン・エロルド(Ferdinand Herold 1791−1833)のオペラ」となっている。しかしながら、両者の作品リストを調べたところ、これに該当するオペラの題名はちょっと見当たらなかった。
※
「バランスキ」 ポーランド語原文では「Bara?ski」となっているが、もしかすると「バルチンスキ(Barci?ski)」の綴り間違いかもしれない。バルチンスキについては、次回の「第5便」でもヨーロッパ各地を回っている事が書かれている。
※
「ミロッシオ」 シドウの註釈によると、「画家、肖像画家アムブロジィ・ミロシェフスキ(Ambro?y Miroszewski.)の事で、ショパンによる愛称」。現在我々がショパン伝などでよく目にするショパン家の肖像画が、この時に描かれたものである。
この箇所も、友人知人に関するニュースが雑然と列挙されている。
中でも、最後の「スカルジンスキ」に関するくだりは、前回の「第3便」の冒頭でも書かれていた、
「君は、僕に関するニュースについて、ヴィン・スカルジンスキからもたらされたもの以外は少しも聞かされなかっただろう。僕は彼に会ったが、彼の話では、君は今月の末までワルシャワには来ないだろうと言う事だった、しかしながら、ドレスデンでのコステュスの話では、君は15日に君の姉妹のところへ来る事になっていたんだけどね。」
を受けているものであるから、カラソフスキーは前回、この「スカルジンスキ」の名をイニシャルにして内容もあいまいに変えてしまっているので、やはりこの箇所はそっくり省いている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#6. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕は毎日プルゼジィナの店[*ワルシャワの書物及び楽器商]へ行くが、ピクシスの協奏曲以外に新しい作品はなく、この作品は僕に大した印象を与えない;ロンドの部分は一番優れているようだ。」 |
※ ほぼ同じ。 |
当時のショパンは、いよいよ協奏曲の作曲に取り掛かっていたから、特に同時代の作曲家の協奏曲に関心を示していたのだろう。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#7. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君には、ワルシャワがどれほど退屈か想像できまい。もしも家庭に幸福を見出していなかったら、僕はここでは暮らしていけない。おお、君の悲しみと喜びを分かち合い、君の心が重く沈んでいる時に悲痛な思いを打ち明けられる魂を持っていないと言うのは、どんなに惨めな事だろう。君は、僕の言ってる事の意味がよく分かる。僕は、君に打ち明けたいと思う事の全てを、何度ピアノに語りかけた事か!」 |
「君は、今ワルシャワがどんなに重苦しいか信じられまい;もしも家族が少しでも元気付けてくれていなかったら、僕はいられない。悲しい事や嬉しい事を、朝訪ねて行って気持を分かち合える相手がいないのは何て寂しい事だろう。何か悩んでいる時、それを預ける場所がないというのは最悪だ。これが何をほのめかしているか分かるだろう。君がいればしばしば君に話しただろう事を、今はピアノに向かって呟いているのだ。」 |
ここは、言っている事の内容自体はほとんど同じなのだが、ドイツ語版におけるカラソフスキーの訳し方が、「おお、」だとか「魂」だとか「!」だとかを付け加えて、かなり芝居がかったニュアンスに「演出」されている点に注意して欲しい。
以下の箇所も、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#8. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「君が来るか、それとも、少なくとも来る約束を手紙に書いてくれたら、それを僕がコステュスに話せば喜ぶだろう。」 |
カラソフスキーは、ここでも小まめに、「コステュス」の抹殺に抜かりがない。
ここでの「コステュス」の介入は、ショパンとヴォイチェホフスキの「水入らず」の友情にとって、紛れもなく「お邪魔虫」だからである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#9. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕の夢は、君と一緒に外国へ旅行する事で、君はそれを楽しい現実に変えなくてはならない、我が友よ。そう思うと、僕はあまりの喜びにどうしたらいいのか分からなくなる。しかし、ああ悲しいかな、僕らの道は遠く離れている。 僕は、更なる勉強と鍛錬のために、ウィーンからイタリアへ行く事を希望していて、来年の冬にパリでフーベと会う事になっている;しかし僕の父はベルリンに行かせたがっているので、すべて変更されるかもしれないし、実を言うと、僕はそれを全然希望していない。」 |
「君に来る心積もりがあるのなら実行するべきで、もしも君と一緒に旅行する事ができたら、僕は喜びで我を忘れてしまうだろう;しかし、僕は君とは違う方向へ旅行しなければならない;僕は勉強のためにウィーンからイタリアへ行くつもりで、来年の冬にパリでフーベと会う事になっているが、全ての予定が変わらない限りはだ;と言うのも、パパは僕をベルリンへ行かせたがっていて、僕はそれを希望していない。」 |
ここもそうだ。
言っている内容自体はほとんど同じなのに、ドイツ語版におけるカラソフスキーの訳は、「僕の夢」とかを付け加えて、やはり芝居がかった「演出」がなされている。
この時ショパンは、初恋を夢に見ながら作曲さえしている状況で、その思いが自分を国内に押しとどめようとさえしていると、さっき書いたばかりなのに、ここではヴォイチェホフスキと旅する事が「僕の夢」になってしまっている。心理描写が支離滅裂である。これでは、一体誰に対して恋しているのか分からないだろう。
以下の箇所も、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#10. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「ベルリンと言えば、老プルシャックはグダンスクへ行くつもりらしい。この前会ったポーリン・ラチンスキが断言していたが、プルシャックは冬の間、彼の奥さんなしで耐えられないだろうと。しかしながら、それはそうだとしても、プルシャックさんはクリスマスまでドレスデンに留まると固く決心している。」 |
プルシャック家の人々がドレスデンにいると言う話題は、前回の「第3便」でも触れていて、カラソフスキーはその時はそれを削除していなかったのだが、今回は削除している。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#11. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「もしも僕が信じている通りウィーンに行く事になったら、おそらくドレスデンやプラハを通る道を選んで、再びクレンゲルを訪ねるだろう;同様に、有名なドレスデンの美術館やプラハ音楽院もだ。」 |
※ ほぼ同じ。 |
以下の箇所も、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#12. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「その場合、コステュスに会うのがどんなに楽しみだろう。オブニスキは、君によろしく伝えてくれるよう頼んでいた。僕は一昨日ギスメルに会った。僕はワルシャワを出発する前に君に会える事を望んでいる;僕は月末までではなく、11月に行かなければならないかもしれない。僕らは決して別れを言う事はない;君の最後の言葉はこうだった;“それから、僕のバッグを君に送るよ。” 想像してくれたまえ、僕のズダ袋は、ブロニフスカ嬢の結婚式からの帰り道で失くしてしまった!」 |
ここでも小まめに「コステュス」を消している。
「ブロニフスカ嬢の結婚式」については、前回の「第3便」でも触れていたが、カラソフスキーはその時もその箇所を削除していた。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#13. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕はこれで机から離れなければならない、そうしないと、無味乾燥なニュースで君を退屈させるだけだし、僕はそんな事したくないのだ。もし君が2、3行でも(※手紙を)書いてくれたら、それは僕に数週間は喜びをもたらすだろう。」 |
※ ほぼ同じ。 |
先述したように、ショパンのこの要請に対して、ヴォイチェホフスキは何も応えていない。
「無味乾燥」どころではない恋の告白をしたにも関わらずである。
だからショパンは、次の「第5便」において、ヴォイチェホフスキから返事を受け取った事について何も触れていない。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第4便#14. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君にワルツを送った事を許してくれたまえ、あれは結局は君を怒らせるだろう。僕の意向は君を喜ばす事なのだ。 君の フレデリックより」 |
「君が怒るかもしれないようなワルツを君に送った事を許してくれたまえ、神に誓って、君に喜んでもらいたいと思ったからであって、僕は狂おしいほど君を愛しているのだ。 F.Chopin」 |
※ この箇所の「ワルツ」についても、私のBGM付き作品解説ブログ「ワルツ 第13番 変ニ長調 作品70-3▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます。
前回の「第3便」もそうだったが、ポーランド語版では「F.Ch」と署名しているだけだったのに、カラソフスキーのドイツ語版では「君のフレデリック」となっている。
確かにショパンは実際そのように署名する事もあるが、そうでない時までカラソフスキーはそのように変更している。
これもまた、ショパンとヴォイチェホフスキの親密さを「演出」している要素の一つと言える。そのくせ、過度な愛情表現は妙な誤解を招くと考えていたらしく、「僕は狂おしいほど君を愛している」などの表現は削除しているのである。
いかにヴォイチェホフスキが、ショパンとの間に同性愛疑惑が起こる事を危惧していたか、その事が垣間見えてくるようではないだろうか?
そしてその疑惑を極力回避するためにも、是非ともショパンには、ノーマルな恋愛対象として「理想の人」をあてがっておきたかったのではないだろうか?
[2011年10月24日初稿 トモロー]
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