検証:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II-

 


1.文通の始まり/もう一つのウィーン紀行―

  1. A beginning of correspondence / Another journal of Viena's travel-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ワルツ 第15番 ホ長調 遺作▼≫
 

今回は、ショパンがウィーンから帰ってじきに書いた「ヴォイチェホフスキ書簡・第3便」である。

 

ここでもう一度確認しておきたいのだが、本稿の主な目的は、「知られざるショパンの贋作書簡」を暴く事にある。

私の解釈では、一連の「ヴォイチェホフスキ書簡」と言うのは、

1.       ワルシャワ時代からパリ時代初期にかけての20通に関しては、元々存在していたショパン直筆の原物を基にして、その資料提供者であるティトゥス・ヴォイチェホフスキと、それを編集したカラソフスキーとの結託によって改ざんされたものであり、

2.       最晩年の2通に関しては、最初からそのようなショパンの手紙など存在せず、一字一句が全てカラソフスキーによる捏造である。

カラソフスキーは、最初の20通については、その改ざんされた「写し」に対して、省略、要約、意訳を加えつつドイツ語に翻訳して雑誌に連載した。

また、ヴォイチェホフスキ書簡には、典拠の違うもう一つの版が知られているが、それはオピエンスキーがヴォイチェホフスキの遺族から入手したもので、しかしそれもやはりショパンの直筆ではなくて「写し」だった。そしてそれは、すでにヴォイチェホフスキとカラソフスキーとの結託によって改ざんされていた「写し」の原版であり、オピエンスキーは、それを省略なしにポーランド語のまま雑誌で公表した。ただし、その際にオピエンスキーもまた、独自にさらなる加筆改ざんを施しているのである。

したがって、本稿で紹介していく一連の「ヴォイチェホフスキ書簡」は、基本的にカラソフスキー版の文章を検証していく形で議論を進めている。もちろん、のちに公表されたオピエンスキー版との違いについても、その都度指摘している。

 

それでは、今回もまずカラソフスキー版による「ヴォイチェホフスキ書簡・第3便」を読んで頂きたい。これは、彼の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で一番初めに紹介されている手紙でもある。文中の*註釈]も全てカラソフスキーによるものである。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第3便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1829912日、ワルシャワにて

親愛なるティトゥス!

もしも僕がヴィセンティウス・Sk.に会っていなかったら、君は(※彼を通して)僕からのメッセージを受け取らなかっただろうし、それによって僕も、君が今月の末までにはワルシャワヘ来る事になっていたのを思い出さなかっただろう。僕は直接君に会って、僕の大旅行の話をしたいと思っていた。君ともう一度おしゃべりできたら、僕は本当に心から嬉しかっただろう。でもそれは残念ながら不可能なので、親愛なる君に、僕がクラクフ、ウィーン、プラハ、ドレスデン、ブレスラウで見て来た話をさせてくれたまえ。

クラクフでの最初の一週間は、散歩や近郊の訪問で送った。オイコフは素晴らしく綺麗だった。けれども僕は何も言わない。なぜなら、君はかの地に行った事はないけれど、タンスカ女史の精細な描写を読んですっかり承知していたからだ。僕はウィーンヘ行く途中、よい道連れを得た。仮にクラクフが僕に君の事や僕の家の事を考える暇を与えないほど沢山の要求をしたとすれば、ウィーンは僕が2週間も母国から手紙をもらわなかったにも関わらず、少しも友達を恋しいとは思わなかったほど僕を呆然とさせ、麻痺させてしまったのだ。

ほんの僅かの間に、僕が2回も帝国劇場で演奏した事を想像してくれたまえ。事の起こりはこう言う事なのだ;僕の出版者であるハスリンガーは、僕がウィーンに現れる事になれば、僕の作品にとって有利になると主張した;それに、僕の名はまだ人に知られていないし、僕の音楽は演奏するにも理解するにも難しいのだと。

僕はまだその事を真面目に考えていなかったが、“この2週間、僕は一つの音符さえ弾いていません。だから選ばれた批評眼のある市民の前に現れる準備ができていません。”と返事した。そうこうしている間に、ウィーン劇場の支配人をしているガレンベルク伯爵(彼は可愛らしいバレエ曲を書く)が入って来た。ハスリンガーは伯爵に、公衆の前に出るのを恐れている臆病者だと言って、僕を紹介した。伯爵はすこぶる丁重に、僕のために劇場を用意しくれると言ったが、僕は何度も礼を述べて抜目なく断っておいた。翌日ヴェルフェルが来て、ウィーンで演奏する機会を失って、僕の両親やエルスネル、そして僕自身の名を汚さぬようにと迫った。

僕がこの圧迫に降参するや否や、ヴェルフェルは早速必要な準備に取りかかった。次の朝にはビラが僕の音楽会を吹聴した。それで僕はどんな風にまたどんな物を演奏するのだか解っていないにも関わらず、退却するのが不可能になった。3人の製作者が僕にピアノを提供すると言って来た。けれども僕の宿が狭いので、やむを得ずその申し出を断った。なにしろ音楽会前の2日間にいくら練習したって、役に立つものではないから。

僕は一日で、ウィーンにいる全ての偉大な芸術家達と知り合いになった;その中には、マイセダー、ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、シュパンツィッヒ、その他がいる。オーケストラのメンバーは、リハーサル中、苦い顔をして僕を見ていた。特に、僕が新しい作品で初舞台を踏む事を望んだのが不機嫌の原因だった。それから僕は、ロンド・クラコヴィアクの次にやる事になっていた変奏曲、君に捧げたあの変奏曲を初めにやった。変奏曲は上手くいったが、ロンドの方は(※楽譜の)書き方が悪かったため、2度最初からやり直さなければならなかったほどひどかった。僕は、休符には小節数を書く必要はないと思っていたのだが、しかし(ウィーンの音楽家達はそれに慣れていたので)、もう一度休符を書き直さなければならなかった。紳士諸君がひどく渋面を作っていたので、その夜、僕は病欠届けを出したくなったほどだったよ。

舞台監督のデマールは、ヴェルフェルを好いていないオーケストラ・メンバーの険悪なムードに気付いていた。ヴェルフェルは自分で指揮をしたがっていたが、オーケストラ・メンバーは彼の指揮の下で演奏するのを(僕には分らない何らかの理由で)断った。デマールは僕に即興演奏をするように勧めたが、この提案にはオーケストラ・メンバーは目を丸くして驚いていた。僕はこうした事にひどく腹を立てていたので、やけになってそれを承諾した;でも、僕が(※結果的に)大成功を収めたものだから、僕がこのような惨めな気持や異様なムードの中にいた事など、誰にも分からなかった。

ウィーンの公衆の前に立った事は、僕を少しも緊張させなかった。僕は、おそらく今ウィーンで最も良い楽器と思われるグラーフの前に、すこぶる落ついて腰を下した。僕の横には、ぼさぼさ頭の青年が座った。この男は変奏曲のとき譜めくりをしてくれる人で、モシェレス、フンメル、ヘルツにも同じ役目を果したと自慢していた。君にも想像がつくだろうが、僕は死に物狂いで弾いた。とは言え、変奏曲は熱烈にアンコールを所望されたほどの効果をあげた。ヴェルタイム嬢は非常に美しく歌った。即興演奏に関しては、僕はただ拍手の嵐と、僕を舞台に呼び戻す大勢の声が続いて起ったのを覚えているばかりだ。

ウィーンの新聞は、僕に沢山の称讃を寄贈した。一般の要望にしたがい、僕は8日後にもう一度演奏して、僕が1回しか公衆の前に立てずに逃げ去ったと、誰も言えなくなったのを喜んだ。僕は特にロンドの演奏に満足した。ギロウェッツ、ラハナー、その他の大家はもとより、オーケストラのメンバーまでもが――こんな事を言うのを許してくれたまえよ――僕を二度も舞台に呼び戻したほど喜んだからだ。僕は変奏曲を繰返した(ご婦人方の懇望で)。ハスリンガーもまた大いに喜び、今では変奏曲を“オデオン”で発行するつもりでいる。これは僕にとって大した名誉ではないかい?

かつてべートーヴェンの友人だったリヒノウスキーは、僕のピアノが弱過ぎると思ったらしく(確かにその手の意見は多かった)、音楽会のために自分のを貸そうと言ってくれた。でもこれが僕の演奏法だし、それでご婦人方、特にブラヘトカ嬢を非常に喜ばせたんだからね。彼女は僕に対して友好的だった(ついでに言うと、彼女はまだ20歳にも達していないが、機知に富んだ美しい娘だ);彼女は、僕がここを発つ際、手書きの署名入りの自作曲を贈ってくれた。

“ウィーン劇場新聞”は2回目の演奏会についてこう報告している;“ショパン氏は、真に独創的な方法で人を喜ばせる術を心得ている青年であり、彼のスタイルは普通の演奏会提供者のそれとは全く異なっている。”云々。僕はこれが当を得ていることを望むばかりだが、特にその記事はこう結んでいる;“ショパン氏は今日もまた満場一致で嶋采された。” 自分でこうした意見を書き留めているのを許してくれたまえ。けれども“ワルシャワ通信”――がどのように称賛しているか知らない――がどんなに褒めるよりも僕を喜ばせたから書いたのだ。

僕はチェルニーとすっかり親しくなった;しばしば2台のピアノで一緒に演奏した。彼は良い人物だ、しかしそれ以外は何も! プラハのピクシスのお宅で会ったクレンゲルは、僕の芸術上の知人の中で一番好きな人だ。彼は僕に自作のフーガを弾いてくれた(バッハのフーガの延長だと言う人もいるかも知れないが、全部で48あって、カノンも同数ある)。チェルニーと比べたら、何と言う違いだろう!

クレンゲルは僕に、ドレスデンのモルラッキに紹介する手紙をくれた。僕達は天然の美に豊んだザクセン・スイスと、ドレスデンの壮大な美術館とを訪問した。だがイタリア・オペラは、目の前にありながら見ずじまいにしなければならなかった。僕は不幸にも、《エジットのクロチアート》が上演される日に出発しなければならなかったのだ。僕の唯一の慰めは、既にそれをウィーンで聞いていた事だった。

プルシャック夫人と、アレクサンドリーヌンとコンスタンチン(彼女の子供達)は、今ドレスデンにいる。僕は出発の日に彼らに会った。その愉快な事と言ったらなかったよ! “フリツェックさん、フリツェックさん”*ポーランド語でのショパンの愛称]と彼らは大声をあげた。僕も有頂天になって、もしも他の友達が一緒でなかったら、間違いなく出発を見合わせたに違いなかった。

ブルシャック氏はテプリッツにいて、僕は彼とはそこで会った。テプリッツは美しい所だった;僕はそこに一日しかいなかったが、クラリイ公爵の夜会に行った。

僕は手紙を終わりにする事ができないほど夢中になっていたようだ。僕は心から君を抱擁し、そして君が許してくれるなら、君の唇にキスする。

君の

フレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

 

まず最初に、この手紙が書かれた当時の、当事者達の状況背景を確認しておきたい。

たとえば、前年にショパンがベルリンへ旅行した時には、彼はその出発前にヴォイチェホフスキ宛にその由を報告していたのだが、今回のウィーン旅行ではそれをしていないと言う点である。

逆に、ベルリンから帰った直後には、ショパンはヴォイチェホフスキ宛にその旅行の結果報告を手紙で書き送っていなかったが、今回ウィーンから帰った直後にはそれをしている(※下図参照)。

 

2つの旅行記に見る、ヴォイチェホフスキ書簡の執筆背景

 

1828年/ベルリン紀行≫

1829年/ウィーン紀行≫

1.出発前(=事前報告の手紙)

○書いている

×書いていない

2.旅行中(=現状報告の手紙)

×書いていない

×書いていない

3.帰宅後(=事後報告の手紙)

×書いていない

○書いている

 

この違いは、以下のような状況背景による。

 

1.       前年のベルリン旅行の出発は急に決まった事であり、しかもその時ヴォイチェホフスキはワルシャワにはいなかったため、ショパンはその由を手紙で知らせる必要があった。逆に帰国後は、ヴォイチェホフスキも大学の新学期のためワルシャワに戻って来ていたので、だからショパンは結果報告の手紙を書く必要がなかった。

2.       今回のウィーン旅行はそれとは全く逆で、出発が決まったのはヴォイチェホフスキがまだ大学を卒業する前であり、だからその時彼はワルシャワのショパン家の寄宿舎にいたためその由を手紙で報告する必要がなかった。しかしショパンが帰国した時には、ヴォイチェホフスキはもう大学を出てワルシャワを後にしていたため、ショパンは結果報告を手紙で知らさなければならなくなっていた。

 

そしてそれ以降、離れ離れに暮らすようになったこの両者の間で、本当の意味での文通がここから始まったのである。と言うより、これ以降の彼らは、たった1度ショパンがヴォイチェホフスキの実家を訪れた以外は、文通のみで交際するだけの関係になっていたのである。

 

すると、ここで一つ疑問が沸いてくる。

ショパンとヴォイチェホフスキの関係がそうなっていくであろう事は、両者がそれぞれ学校を卒業した時点ですでに分かっていたはずで、そうであれば、ヴォイチェホフスキもまた、他の友人達に混じって、卒業旅行として今回のウィーン訪問に参加していても良かったのではないだろうか?と言う事なのだ。

そうすれば、ショパンの唯一無二の親友として、ショパンの記念すべきウィーン・デビュー公演を目の前で観る事もできたはずなのに、ヴォイチェホフスキはその絶好の機会を逃してしまった事になる。

しかしながら、実のところ、ヴォイチェホフスキがショパンの公開演奏会を見逃すのはこれが最初でもなければ最後でもない。彼は、ショパンが1830年に祖国に別れを告げるまでの間に行なった3度に渡る演奏会も、その3度とも観に来なかったのである。1度目はショパンの記念すべきワルシャワにおけるプロ・デビュー公演であり、2度目はその追加公演、そして3度目は祖国を発つにあたっての告別演奏会である。言うまでもなく、いずれもショパンにとって、いや、今となっては音楽史上においても重要な演奏会だ。ところがこの唯一無二の親友なる人物は、おカネも暇も自由に使えるような階級の身分だったにも関わらず、結局そのどれも観に来なかったのである。そこにいかなる理由があろうとも、音楽に対する造詣が深いとされているヴォイチェホフスキの行動として、果たしてこんな事がすんなりと信じられるだろうか?

 

しかし、実を言えば、彼は、単にショパンの演奏会に来なかっただけではない。

この1829年、ヴォイチェホフスキは大学を卒業後、田舎のポトゥジンに帰ってその所領を相続し、完全にかの地に根を下ろす事になるのだが、実はそれ以降の彼は、ショパンが183011月に祖国に別れを告げ、その直後の12月に勃発したワルシャワ蜂起に参戦するまで、その間、ただの一度もワルシャワを訪れていないのである。

ヴォイチェホフスキは、ショパン宛の手紙の中では、ドイツの名ソプラノ歌手ゾンターク嬢に関して興味を持っているように振舞って見せながら、その癖ショパンが彼女のワルシャワ公演に関する情報を送って誘っても、結局観に来なかったりもしていた。

彼がワルシャワに顔を出すようになるのは、そのワルシャワ蜂起以降、ショパンがパリに移住してからで、それについては、ショパンの家族がパリのショパン宛に送った手紙の中でしばしば言及している。

つまり、大学卒業後のヴォイチェホフスキは、まるでショパンを避けているのではないかとすら勘ぐりたくなるほど、ショパンがまだワルシャワにいた間は全くワルシャワに寄り付かなくなっているのだ。

彼らが再会を果たしたのは、たった1度、18308月に、ショパンが痺れを切らして自らポトゥジンを訪れた時だけである。

 

こういったヴォイチェホフスキの挙動不審については、その都度、追って詳しく説明していく事になるだろう。

 

 

さて、今回カラソフスキーは、この手紙を紹介するに当たって、「私は、彼のウィーンでの経験談を完結するために、彼の特に大切な友人だったティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた2通の手紙を掲載しよう」と前置きしているだけで、手紙の引用に関する凡例については一切言及していない。

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1829912日、ワルシャワにて

親愛なるティトゥス

もしも僕がヴィセンティウス・Sk.に会っていなかったら、君は(※彼を通して)僕からのメッセージを受け取らなかっただろうし、それによって僕も、君が今月の末までにはワルシャワヘ来る事になっていたのを思い出さなかっただろう。」

1829912日、ワルシャワにて

親愛なるティトゥス

君は、僕に関するニュースについて、ヴィン・スカルジンスキからもたらされたもの以外は少しも聞かされなかっただろう。僕は彼に会ったが、彼の話では、君は今月の末までワルシャワには来ないだろうと言う事だった、しかしながら、ドレスデンでのコステュスの話では、君は15日に君の姉妹のところへ来る事になっていたんだけどね。」

       カラソフスキーのドイツ語版で「ヴィセンティウス・Sk.」となっているのが、その英訳版では「ヴィセンティウス・スカルベク」とされている。しかしおそらくそれは英訳者による誤りである。スカルベク家に「ヴィセンティウス」なる人物はいない。したがって、ポーランド語原文の「ヴィン・スカルジンスキ」で間違いなく、しかもこの人物はこれ以降の手紙で何度も登場しており、スカルジンスキ家の人間がロシア側と通じている事から、カラソフスキー版ではその全てが削除されている。

 

カラソフスキーは相変わらず、ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である「コステュス」の存在をここでも消している。前にも説明した通り、カラソフスキーはあくまでも、ヴォイチェホフスキをその他大勢の友人達とは切り離して特別視したいのである。

 

さて、アルベルト・グルジンスキ/アントニ・グルジンスキ[共著]『ショパン 愛と追憶のポーランド』によると、ショパンがワルシャワに戻ったのは「九月一〇日」だったとされている。それが事実なら、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡・第3便」は、その2日後に書かれた事になる。

しかしながら、オピエンスキー版の記述から、ショパンは本来この手紙を書く予定ではなかった事が分かる。なぜなら、ドレスデンに滞在していた「コステュス」から、ヴォイチェホフスキが15日に君の姉妹のところへ来る」事になっていたからである。もしそうであれば、1週間を待たずして直接会って話ができる。

ところが、帰国直後に会った「ヴィン・スカルジンスキ」によってもたらされた最新情報では、ヴォイチェホフスキは「今月の末までワルシャワには来ない」となっていた。これによって、ショパンは急遽ヴォイチェホフスキ宛に手紙をしたためなくてはならなくなったのある。

 

これが、今回この手紙が書かれた動機とその執筆背景となる。

 

ついでに言うと、その「スカルジンスキ」情報も結局は誤報に終わっている。なぜなら、ショパンがこの次に書いた「ヴォイチェホフスキ書簡・第4便」は103日」に書かれており、そこには、ヴォイチェホフスキが9月の末にワルシャワに来た事など一切触れられていないからだ(※下図参照)。

 

18299

 

 

1

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帰宅

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Sk.

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3便

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ヴォ?

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30

 

10/1

 

10/2

10/3

4便

 

一方カラソフスキー版では、カラソフスキーによって施された省略と要約のために、このような経緯が一切分からなくなってしまっている。これも、ベルリン紀行の時と全く同じやり方をしている事が分かるだろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は直接君に会って、僕の大旅行の話をしたいと思っていた。君ともう一度おしゃべりできたら、僕は本当に心から嬉しかっただろう。でもそれは残念ながら不可能なので、親愛なる君に、僕がクラクフ、ウィーン、プラハ、ドレスデン、ブレスラウで見て来た話をさせてくれたまえ。

クラクフでの最初の一週間は、散歩や近郊の訪問で送った。オイコフは素晴らしく綺麗だった。けれども僕は何も言わない。なぜなら、君はかの地に行った事はないけれど、タンスカ女史の精細な描写を読んですっかり承知していたからだ。僕はウィーンヘ行く途中、よい道連れを得た。仮にクラクフが僕に君の事や僕の家の事を考える暇を与えないほど沢山の要求をしたとすれば、ウィーンは僕が2週間も母国から手紙をもらわなかったにも関わらず、少しも友達を恋しいとは思わなかったほど僕を呆然とさせ、麻痺させてしまったのだ。」

       こちらでは途中改行していないだけで、内容に関してはほぼ同じ。

       ちなみにオピエンスキー版では、これ以降、最後に署名するまでのあいだ一度も改行されない。

 

ここで書かれている「クラクフ」「オイコフ」の話は、家族書簡でも同様に言及されていたが、そこでは、ほぼ「第1便」を丸々使って詳しく描写されていた。それに比べれば、ヴォイチェホフスキ書簡におけるそれは、ほとんど概略をなぞっているに過ぎない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ほんの僅かの間に、僕が2回も帝国劇場で演奏した事を想像してくれたまえ。事の起こりはこう言う事なのだ;僕の出版者であるハスリンガーは、僕がウィーンに現れる事になれば、僕の作品にとって有利になると主張した;それに、僕の名はまだ人に知られていないし、僕の音楽は演奏するにも理解するにも難しいのだと。

僕はまだその事を真面目に考えていなかったが、“この2週間、僕は一つの音符さえ弾いていません。だから選ばれた批評眼のある市民の前に現れる準備ができていません。”と返事した。そうこうしている間に、ウィーン劇場の支配人をしているガレンベルク伯爵(彼は可愛らしいバレエ曲を書く)が入って来た。ハスリンガーは伯爵に、公衆の前に出るのを恐れている臆病者だと言って、僕を紹介した。伯爵はすこぶる丁重に、僕のために劇場を用意しくれると言ったが、僕は何度も礼を述べて抜目なく断っておいた。翌日ヴェルフェルが来て、ウィーンで演奏する機会を失って、僕の両親やエルスネル、そして僕自身の名を汚さぬようにと迫った。

僕がこの圧迫に降参するや否や、ヴェルフェルは早速必要な準備に取りかかった。次の朝にはビラが僕の音楽会を吹聴した。それで僕はどんな風にまたどんな物を演奏するのだか解っていないにも関わらず、退却するのが不可能になった。3人の製作者が僕にピアノを提供すると言って来た。けれども僕の宿が狭いので、やむを得ずその申し出を断った。なにしろ音楽会前の2日間にいくら練習したって、役に立つものではないから。」

       ほぼ同じ。

 

 

この箇所は、ショパンがウィーンで演奏会を開く事になった経緯が説明されている。

これについても、家族宛の「第2便」を丸々使って詳しく説明されていた内容とほとんど変わらない。

細かい事を言えば、ショパンにピアノを提供しようとしていたのが、家族書簡では「シュタイン」「グラーフ」2人だったのが、ヴォイチェホフスキ書簡では3人の製作者」となっている事ぐらいである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は一日で、ウィーンにいる全ての偉大な芸術家達と知り合いになった;その中には、マイセダー、ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、シュパンツィッヒ、その他がいる。」

「僕は一日で、ウィーンにいる全ての偉大な芸術家達と知り合いになった;その中には、マイセダー、ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、シュパンツィッヒ、メルク、レヴィがいる。」

 

カラソフスキー版では「その他」にされてしまったが、オピエンスキー版の方には、「メルク、レヴィ」の名前がある。

この2人の名前は家族書簡の方には全く出てきていなかった。おそらくショパンは、それほど印象に残っていなかったためにリアルタイムでの報告では書き漏らしていたのだろう。なので、カラソフスキーもおそらくそれを察して、ここでは省いてしまったのかもしれない。

また、ここに列挙されている名は、「一日」でと言う条件下におけるものなので、ここに含まれていない名前はこれとは別の日に「知り合いになった」と言う事なのだろう。

ちなみに、家族宛の「第3便」では、その「一日」で会った中に楽団長の「ザイフリート」もいたのだが、ヴォイチェホフスキ宛では失念されている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「オーケストラのメンバーは、リハーサル中、苦い顔をして僕を見ていた。」

それにも関わらず、オーケストラはリハーサル中、不機嫌にしていた。」

 

オピエンスキー版では、この前の話を受けているのに対して、カラソフスキー版ではそうなっていない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「特に、僕が新しい作品で初舞台を踏む事を望んだのが不機嫌の原因だった。」

「まず第一に、僕が思うに、僕がどこからともなくやって来たばかりなのに、すでに自作の曲をやろうとしていたからだろう。」

 

オピエンスキー版の方がやや詳しい説明になっている。

要するに、本場ウィーンのオーケストラにしてみれば、どこの馬の骨とも分からない無名の新人が、ウィーンにやって来ていきなり自作曲を演奏しようなんて百年早い、とでも言いたい訳なのだろう。

おそらくこう言った場合には、まずピアニストとしての腕前を披露するために、よく知られた他の作曲家の作品を演奏するのが普通で、自作曲をやるのは名声が確立したあとだと言うのが、保守的な音楽業界における「物の順序」と言う事だったようである。

しかも、この演奏会自体が急ごしらえだっただけに、既知の曲であればオーケストラにも負担が少ないと言う事もあったろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「それから僕は、ロンド・クラコヴィアクの次にやる事になっていた変奏曲、君に捧げたあの変奏曲を初めにやった。変奏曲は上手くいったが、ロンドの方は(※楽譜の)書き方が悪かったため、2度最初からやり直さなければならなかったほどひどかった。」

       ほぼ同じ。

 

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は、休符には小節数を書く必要はないと思っていたのだが、しかし(ウィーンの音楽家達はそれに慣れていたので)、もう一度休符を書き直さなければならなかった。紳士諸君がひどく渋面を作っていたので、その夜、僕は病欠届けを出したくなったほどだったよ。」

「全ての混乱の原因は、楽譜の上声部と下声部で休符の書き方が違っていたからなんだが、でも僕は、上声部だけで数えるように説明しておいたんだけどね。それは部分的には僕の落ち度だったけど、でも彼らは分かってくれると思っていたんだ。でも彼らは(※楽譜の)不正確さに腹を立てていて、その上この紳士達は、自身が名手であり作曲家でもあったからね。とにかく、彼らは数々の嫌がらせをして、その晩の僕は病気にでもなりそうだったよ。」

       このような事は、クラシック音楽の世界ではよくある話で、いわゆる「オーケストラに嫌われる」とか言われているものだが、主にオーケストラに客演する指揮者やソリストがしばしば陥る現象である。早い話が、単なる「いじめ」や「報復行為」であり、ショパンの言葉を借りれば「嫌がらせ」である。このような事は、クラシック音楽の世界に限らず、芸術が権威主義に堕落すればどの世界でも必ず起こる。たとえば、ショパンとは立場も事情も違うが、あのベートーヴェンでさえ、あの≪交響曲 第5番(運命)≫と≪第6番 田園≫を同時に初演した際、リハーサルでオーケストラに嫌われ、なんと指揮台から降ろされてしまったのである。今では信じられないような話だが、その結果、本番の演奏会も大失敗に終わり、現在ではクラシック音楽の代名詞とも言えるような名曲が、当時は全く評価されもしなかったのだ。

 

この箇所については、たとえば次のような意見がある。

 

「家族宛の手紙には、心配をかけまいとして書かなかったリハーサルでのトラブルについても、ティトゥスには書き送っていた。」

小沼ますみ著

『ショパン 若き日の肖像』(音楽之友社)より

 

 

しかしながら、これに関しては、こういった解釈は明らかに認識間違いである。

なぜなら、ショパンは家族宛の手紙でも、ちゃんと以下のように書いていたからだ。

 

オーケストラは、僕の楽譜の書き方が悪いと言ってけなし、少しも僕に好意的ではなかったのですが、それも即興演奏を弾くまででした」(※第1回ウィーン紀行・第3便より)

 

これはまさに、「リハーサルでのトラブルについて」の話である。

ただし、家族宛では「僕の楽譜の書き方が悪い」としか書いていなかったのを、ヴォイチェホフスキ宛では、それをもっと具体的に説明している。

これは、かなり音楽上の専門的な話を含むものになるので、それ相応の心得がないと手紙で説明されてもよく分からない。したがって、両親や姉妹には帰ってから直接言葉で説明すればいいと考えていたのに対し、ヴォイチェホフスキにはある程度具体的に書いても通じると判断したから書いた…ただそれだけの違いなのである。

また、ショパンは家族宛の手紙でも、自分がオーケストラから少しも「好意的」に扱われていなかったとはっきりそう書いているのだから、その時の打ちひしがれた精神状態についても、家族には帰ってから詳しく(そして今となっては笑い話として)話すつもりでいたのである。その程度の事が話せないほど、ショパンと家族の仲は水臭いものでは断じてない。

それに、そもそもヴォイチェホフスキに対しては、彼と直接会って話をする事が不可能な以上、当然それを前提に、手紙で詳しく説明しきってしまわなければならない場面も出てくる…ただそれだけの違いなのである。

したがって、これをもって、ショパンがヴォイチェホフスキに対して「家族にも言えないような事を彼だけには話せた」みたいなイメージを抱くのは、大きな間違いなのだ。

 

何度でも言うが、手紙というものは決して小説でもなければ日記でもない。したがって、まず、「なぜその相手にその手紙が書かれるに至ったのか?」という、その動機とその執筆背景とを大前提に読み解かなければ何の意味もなく、ただ単にその字面を表面的に追っているだけではいけないのである。

今回の例のように、同じ時期に違う相手に送った手紙で、その内容に「重複する箇所」と「相違する箇所」があった場合、そのそれぞれが意味するものは、必ず、その動機とその執筆背景によってきちんと読み分ける事ができる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「舞台監督のデマールは、ヴェルフェルを好いていないオーケストラ・メンバーの険悪なムードに気付いていた。ヴェルフェルは自分で指揮をしたがっていたが、オーケストラ・メンバーは彼の指揮の下で演奏するのを(僕には分らない何らかの理由で)断った。デマールは僕に即興演奏をするように勧めたが、この提案にはオーケストラ・メンバーは目を丸くして驚いていた。僕はこうした事にひどく腹を立てていたので、やけになってそれを承諾した;でも、僕が(※結果的に)大成功を収めたものだから、僕がこのような惨めな気持や異様なムードの中にいた事など、誰にも分からなかった。」

       ほぼ同じ。

 

 

ちなみにこの箇所については、家族宛の「第3便」では、以下のように書かれていた。

「リハーサルでオーケストラの伴奏が不出来だったため、僕はロンドを《フリー・ファンタジア》(※即興演奏)に代えなければなりませんでした。」

「昨日のリハーサルで僕のロンドを気に入ってくれていた舞台監督(※デマール)が、協奏的作品(※「お手をどうぞ」による変奏曲)のあと、僕の手を強く握り締めながら、(※ドイツ語で)“そうです、ここは《ロンド》を弾くはずだったところですよ”と言うのです。」

 

ショパンがリハーサルでオーケストラに嫌われた理由の一つに、ウィーン在中のヴェルフェルが、すでにこのオーケストラから嫌われていた事もその要因として働いていたようである。ショパンはその理由を「分からない」と言っているが、いずれにせよ、ショパンはかつてヴェルフェルに学んでいた時期があるのだから、オーケストラの連中にしてみれば、ショパンはこのヴェルフェルの弟子だと言う偏見が最初からあったのは間違いないからである。

ヴェルフェルは実力でウィーンのこのオーケストラを振り向かせる事はできなかったが、一方のショパンは、結果的には勝利を収めた訳である。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ウィーンの公衆の前に立った事は、僕を少しも緊張させなかった。」

「ウィーンの公衆の前に立った事は、僕を少しも緊張させなかった;そうなんだ、そこの習慣では、オーケストラの演奏者達は舞台には上がらないんだよ――彼らは自分の座席に留まっている――

 

ここでは、カラソフスキー版に若干の省略が見られる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は、おそらく今ウィーンで最も良い楽器と思われるグラーフの前に、すこぶる落ついて腰を下した。僕の横には、ぼさぼさ頭の青年が座った。この男は変奏曲のとき譜めくりをしてくれる人で、モシェレス、フンメル、ヘルツにも同じ役目を果したと自慢していた。」

「僕は、グラーフの素晴らしい楽器;おそらくウィーンで最も良いものに腰を下ろした(赤ら顔の譜めくりのパートナーを従えてね、彼はモシュレス、フンメル、ヘルツ、その他がウィーンに来た時にも同じ役目を果たしたと自慢していた)」

 

当時のピアニストは、独演する時でも、現在のように暗譜で演奏会を行なうのではなく、楽譜を見ながら弾いていたから、常にピアノの横に「譜めくり」をする人が控えていた。

この「譜めくり」の話は、家族宛の手紙には書かれていなかったので、家に帰ってから直接家族に話している中で思い出し、それでここに書いたのだろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「君にも想像がつくだろうが、僕は死に物狂いで弾いた。とは言え、変奏曲は熱烈にアンコールを所望されたほどの効果をあげた。」

「君にも想像がつくだろうが、僕は死に物狂いで弾いた。とは言え、変奏曲は各変奏ごとに拍手されるほどの効果を上げ、僕は終わった後もステージに呼び戻されたほどだった。」

 

カラソフスキー版ではやや要約されているが、逆にオピエンスキー版に書かれている事は、家族宛の「第2便」で、

「そして、各変奏が終わる毎に聴衆が盛んに歓迎の言葉を上げるので、オーケストラの全奏(トゥッティ)が聴き取れないほどでした。僕は、感謝のお辞儀をするために2回も進み出なければならず、それくらい誠意ある歓迎を受けたのです。」

と書かれていた事の要約である。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ヴェルタイム嬢は非常に美しく歌った。」

(※イタリア語で)幕間(まくあい)にヴェルタイム嬢が歌った。彼女はザクセン王の宮廷歌手なんだ。」

 

この「ヴェルタイム嬢」については、家族宛の手紙では、プログラムに名を連ねていた以外は、特にどうだったとかはコメントされていなかった。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「即興演奏に関しては、僕はただ拍手の嵐と、僕を舞台に呼び戻す大勢の声が続いて起ったのを覚えているばかりだ。」

「それから即興演奏をする時が来た。どんな事が起こったのかは分からないが、それが終わるとオーケストラが拍手をし始め、それで僕は、一度舞台を降りてからまた戻らなければならなかった。こうして1回目の演奏会は終わった。」

 

オピエンスキー版では、即興演奏の後で「オーケストラが拍手をし始め」たとあるが、これも、家族宛の「第3便」で、

「オーケストラは、僕の楽譜の書き方が悪いと言ってけなし、少しも僕に好意的ではなかったのですが、それも即興演奏を弾くまででした

と書いてあったのと同じ事を指しているが、カラソフスキー版ではそれが省かれている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ウィーンの新聞は、僕に沢山の称讃を寄贈した。」

「ウィーンの新聞は、惜しげもなく僕を称讃したので、僕は“クーリエ”(※ワルシャワ通信)を気にかけない事にした。」

 

カラソフスキー版では省かれているが、この“クーリエ”のくだりと言うのは、どうやらワルシャワ通信が、ショパンのウィーンでの演奏会について、ほんの短い記事しか載せていなかった事を指しているらしい。

ちなみにカラソフスキーは、この省いた箇所をこのあとの別の箇所に挿入し直している。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#16.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「一般の要望にしたがい、僕は8日後にもう一度演奏して、僕が1回しか公衆の前に立てずに逃げ去ったと、誰も言えなくなったのを喜んだ。僕は特にロンドの演奏に満足した。」

「それから彼らの容貌にしたがい、僕は1週間して2回目の演奏をやり、僕が1回しか公衆の前に立てずに逃げ去ったと、誰も言えなくなったのを喜ぶ一方、僕は今度こそロンド・クラコヴィアクを演奏すると主張したかったからだ。」

 

この箇所については、家族宛の「第4便」では次のように書いていた。

「僕はどんな事情があっても3回目の演奏会はしないつもりです;ただし2回目だけはやります、なぜなら、みんなに強いられているからでもありますが、ワルシャワの人々が以下のように言うかもしれないと思ったからです;“彼はウィーンで演奏会を1回やっただけだ、おそらく、あまり気に入ってもらえなかったのだろう”と。」

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#17.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ギロウェッツ、ラハナー、その他の大家はもとより、オーケストラのメンバーまでもが――こんな事を言うのを許してくれたまえよ――僕を二度も舞台に呼び戻したほど喜んだからだ。僕は変奏曲を繰返した(ご婦人方の懇望で)。」

       ほぼ同じ。

 

 

この箇所は、家族宛の「5便」では以下のように書かれていた。

「同業者達(※演奏会に関わった音楽関係者達)は誰もがみんな、バンドマスターのラハナー氏からピアノの調律師に至るまで僕のロンドを称讃しました。僕は、ご婦人方や音楽家達を喜ばせたのを知っています。ツェリンスキ(※マルツェリ・ツェリンスキという青年。同行した4人の友人の1人)の横にいたギロウェッツが大声で“ブラヴォー”と言ったので、大騒ぎになりました。」

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#18.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ハスリンガーもまた大いに喜び、今では変奏曲を“オデオン”で発行するつもりでいる。これは僕にとって大した名誉ではないかい?」

       ほぼ同じ。

 

 

家族宛の手紙では、ハスリンガーが楽譜を出版すると言い出したのは1回目の演奏会のあとで、「3便」で以下のように書かれていた。

「ハスリンガーは、僕の作品を印刷するとの事です。」

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#19.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「かつてべートーヴェンの友人だったリヒノウスキーは、僕のピアノが弱過ぎると思ったらしく(確かにその手の意見は多かった)、音楽会のために自分のを貸そうと言ってくれた。でもこれが僕の演奏法だし、それでご婦人方、特にブラヘトカ嬢を非常に喜ばせたんだからね。彼女は僕に対して友好的だった(ついでに言うと、彼女はまだ20歳にも達していないが、機知に富んだ美しい娘だ);彼女は、僕がここを発つ際、手書きの署名入りの自作曲を贈ってくれた。」

       ここではリヒノフスキーをベートーヴェンの「友人」ではなく「パトロン」としてある。

       それ以外はほぼ同じ。

 

 

ショパンの弾くピアノの音が小さいと言う指摘は、家族宛の「第3便」でも言及されており、その時は以下のように書かれていた。

「僕はここの公衆に対して、あまりにもソフトに、いや、むしろあまりにもデリケートに弾いたというのがまず一致した意見です。それは、ここの人達が、彼らにとってのピアノの名手達の太鼓叩きのような演奏に慣れているからです。新聞も同じ事を言いはしまいかと気遣われます。なにしろその編集者の一人の娘(※マリー・L・ブラヘトカ)が恐ろしく叩くように弾くんですから。でも決して気にしないで下さい、仮にそうなったとしても、僕は乱暴すぎると言われるよりはむしろ優しすぎると言われた方がずっとましですからね。」

この時は、ショパンは「ブラヘトカ嬢」に対してあまり良い印象を持っていなかった事が分かるが、そんな彼女は、逆にショパンの演奏に対して好意を示し、それに対してショパンも悪い気はしなかったようである…要するに、美人は得と言う事だろうか?

彼女との別れに関しては、家族宛の「第6便」では以下のように書かれていた。

「感動的なお別れをしてから――実際それは感動的で、と言うのも、ブラヘトカ嬢*レオポルダ・ブラヘトカは、18221115日ウィーンに生れた有名なピアノの名手で、チェルニーとモシュレスの弟子。幾回も演奏旅行をし、至る所で最高の称讃を得た。その愛らしさゆえ一般に人気があった。]が、お土産として署名付きの彼女の作曲の写しを僕に贈ったり、彼女の父が、僕の善良なるパパと親愛なるママへの最高に暖かい心遣いと、僕のような子供を持った事への祝辞とを申し上げて下さいと言われたり(※後略)

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#20.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「“ウィーン劇場新聞”は2回目の演奏会についてこう報告している;“ショパン氏は、真に独創的な方法で人を喜ばせる術を心得ている青年であり、彼のスタイルは普通の演奏会提供者のそれとは全く異なっている。”云々。僕はこれが当を得ていることを望むばかりだが、特にその記事はこう結んでいる;“ショパン氏は今日もまた満場一致で嶋采された。” 自分でこうした意見を書き留めているのを許してくれたまえ。けれども“ワルシャワ通信”――がどのように称賛しているか知らない――がどんなに褒めるよりも僕を喜ばせたから書いたのだ。」

       ほぼ同じだが、こちらには“ワルシャワ通信”のくだりがない。おそらくカラソフスキーは、さっき省いたものをこの箇所に挿入し直して、一般の読者に分かりやすいよう左のように書き換えたのだろう。全体の意味としては同じなので、この校正はさほど悪意のあるものではない。

 

 

“ウィーン劇場新聞”については、家族宛の「第5便」では以下のように書かれていた。

「僕があなた方にお話ししている事が(※事実であると)裏付けるのに、新聞の評論を(※すぐに)送れないのは僕にとって非常に残念です。その評論(※の原稿)は、僕が申し込んでおいた新聞の編集者の手に既にあるのは分かっているのです。ボイエルレ氏(※“ウィーン劇場新聞”の発行者)は、この新聞をワルシャワヘ送ってくれる事になっています。それらは、僕の2回目の演奏会の批評を待っているのでしょう。この新聞は週に2回、火曜日と土曜日に発行されるのです;なのでもしかすると、僕が(※帰って直接)お話しするよりも先に、僕についての好意的な記事や、あるいはそれとは反対の記事を読む事になるかも知れません。学術的な(※意見を言う)人々、情緒的な(※意見を言う)人々、僕はどちら(※の意見)も得ました。それについてお話ししたい事が沢山あるのです。」

ショパンはこの「第5便」のあと、ウィーンを発ってプラハ、ドレスデン、ブレスラウに立ち寄っているので、「ボイエルレ氏」がワルシャワに送ってくれていた“ウィーン劇場新聞”は、ショパンが帰宅するよりも先に、とうに家族の許へ届いていたはずである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#21.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕はチェルニーとすっかり親しくなった;しばしば2台のピアノで一緒に演奏した。彼は良い人物だ、しかしそれ以外は何も! プラハのピクシスのお宅で会ったクレンゲルは、僕の芸術上の知人の中で一番好きな人だ。彼は僕に自作のフーガを弾いてくれた(バッハのフーガの延長だと言う人もいるかも知れないが、全部で48あって、カノンも同数ある)。チェルニーと比べたら、何と言う違いだろう!」

       ほぼ同じ。

 

       カール・チェルニー(ツェルニー)(Carl Czerny 17911857)。オーストリアのピアノ教師で、ピアニスト兼作曲家。ベートーヴェン、クレメンティ、フンメルの弟子で、ウィーン音楽院ではリストの師だった。

       アウグスト・クレンゲル、1783年−1852。ドレスデンの宮廷オルガニスト。

 

相変わらず、ショパンはチェルニーに対しては辛らつである。ショパンは家族宛の「第5便」の時も、

「チェルニーは、あの方のどの作品よりも暖かな人でした」

と書き、更に「第7便」でも、やはりクレンゲルと比較して以下のように書いていた。

「彼(※クレンゲル)は上手に弾きましたが、しかし僕は、彼がもっと(静かに)弾いたら好きになっていたでしょう。彼はとても愛想よくしてくれました;彼は出発前に2時間ほど僕と一緒にいました。彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりで、僕達はその事について色々と話さねばなりませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、貧弱なチェルニーとのそれよりも感謝しています(しっ!)」

これを見ても分かる通り、ショパンはクレンゲルの演奏法そのものについてはそれほど高く評価はしていない。しかしショパンにとっては、そのクレンゲルよりも、チェルニーからは全く得るものが何もなかったと言う事になるようである。

しかし、これは私の想像だが、もしもチェルニーがベートーヴェンやフンメルの弟子などと言う大層な肩書きを持っていなかったら、ショパンもこのように彼を目の敵にする事もなかったのではないだろうか? つまり、全ては先入観のなせる業で、ショパンは「会う前の期待」と「会った後の失望」のギャップの大きさに面食らっていたように思われてならない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#22.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「クレンゲルは僕に、ドレスデンのモルラッキに紹介する手紙をくれた。僕達は天然の美に豊んだザクセン・スイスと、ドレスデンの壮大な美術館とを訪問した。だがイタリア・オペラは、目の前にありながら見ずじまいにしなければならなかった。僕は不幸にも、《エジットのクロチアート》が上演される日に出発しなければならなかったのだ。僕の唯一の慰めは、既にそれをウィーンで聞いていた事だった。

プルシャック夫人と、アレクサンドリーヌンとコンスタンチン(彼女の子供達)は、今ドレスデンにいる。僕は出発の日に彼らに会った。その愉快な事と言ったらなかったよ! “フリツェックさん、フリツェックさん”*ポーランド語でのショパンの愛称]と彼らは大声をあげた。僕も有頂天になって、もしも他の友達が一緒でなかったら、間違いなく出発を見合わせたに違いなかった。

ブルシャック氏はテプリッツにいて、僕は彼とはそこで会った。テプリッツは美しい所だった;僕はそこに一日しかいなかったが、クラリイ公爵の夜会に行った。」

       ほぼ同じ。

 

       この「プルシャック」とは、本稿の『検証651828年春、そしてビアウォブウォツキもいなくなった』で紹介した、昨年1827年夏のコヴァレヴォからの家族書簡の中で初登場した人物である。その際、オピエンスキーの註釈には[コンスタンチン・プルシャック、ショパンの同級生]と書かれていた。

 

カラソフスキーは、今までこの「プルシャック」の存在を必ず「ヴォイチェホフスキ書簡」から抹殺してきたのだが、ここではそうしていない。

なぜなら、この箇所におけるプルシャックは、ショパンとヴォイチェホフスキとの友情に割り込んで来てはいないからだ。だからカラソフスキーにとって、プルシャックが目障りな存在として映らなかったと言う訳である。

それに、カラソフスキーの著書中においては、プルシャックの名前が出てくるのはこれが最初なのにも関わらず、彼はそのプルシャックについて何の註釈も施さず、その素性を明らかにしていないのである。それはそれで、明らかに確信犯的な行為だと言えるだろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#23.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は手紙を終わりにする事ができないほど夢中になっていたようだ。僕は心から君を抱擁し、そして君が許してくれるなら、君の唇にキスする。

君の

フレデリックより」

「僕は手紙を終わりにする事ができないほど夢中になっていたようだ。僕は君の到着をお待ちしているよ。僕はしばしば、ストユルスカ通りの近くを通ってブラントのところへ行っているから、見てきた事を君に書きたい。僕は心から君を抱擁し、そして君が許してくれるなら、君の唇にキスする。

F.Ch.」

 

冒頭でも説明したように、カラソフスキーは、ヴォイチェホフスキが今月末にワルシャワヘ来る予定になっていると、「スカルジンスキ」からの情報でショパンがそう思っていると言う箇所を削除してしまったので、ここでもそうしている。

 

カラソフスキー版ではここで手紙が終わっているが、オピエンスキー版ではこれに続いて以下の追伸がある。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第3便#24.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕は今日マックスに会った。彼は本当に(※病気が)良くなって、ホテル・ガルニにて(※フランス語で「家具付きの部屋」に泊まっていると僕に話していた。彼は緑色のコートを着ていたよ;彼は親切にも、僕を呼んでくれる約束をした。彼は君のその後の様子について尋ねていたが、でも僕が君に手紙を書いている事を知らないので、彼からのメッセージは送らないよ。――僕自身も、朝の段階ではこうなるとは知らなかったからね。それについて君も思う事があるなら、僕のために23の言葉をさっと紙に書いてくれたまえ。――君は、リンデの従姉妹のフィリピナ夫人を知っているか?ベルゲルと一緒にいた人だよ。――彼女は亡くなった。――僕は家に帰ってくる途中で、ブロニフスカ夫人のところのメアリの結婚式に出席した;美しい子で、クルナトフスキのところに嫁いで行った。彼女はしばしば君について話していて、よろしくと言っていたよ。彼女と同い年の従姉妹は、彼女の23日前に結婚していた;更にもっと可愛い子だ;それは、結婚式とはこうあるべきだというくらい素晴らしいものだった。僕は目を覚ましたくないほど、多くの事を書いてしまった。キスしてくれたまえ。カロル氏に僕の愛を。

F.Ch.

パパとママが君に挨拶と祝福を送っている;子供達も同様に。」

 

カラソフスキーはこの箇所をごっそりと省いている。

いかにもカラソフスキーが省きそうな箇所で、ここにあるのは、カラソフスキーにとって目障りな「ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人」の名や、一般の読者には全く興味のない、ここにしか出て来ないような人物達に関する取り留めのない報告の羅列である。

 

この中で既出の名前は3つ。

1人目の「マックス」は、18281227日」付の「ヴォイチェホフスキ書簡・第2便」に出て来た人物で、

「マックスが、君と君のママの健康についてのニュースをもたらしてくれたよ、彼がワルシャワに着いた翌朝にね。彼は大学に行く途中で、僕に会うために駆け込んで来て、フルビェショフ(※ウクライナとの国境近くに位置する)について非常に熱心に話していた。彼の説明のうちいくつかは称賛に値したな、たとえば、パリから戻って来た君の隣人についてとかね。僕が彼について尋ねた時、彼は厳かに、そして簡潔に答えたものさ、“(彼は)自分で床屋してる”とね。」

と書かれていた、ヴォイチェホフスキの大学時代の友人である。かなり陽気そうな男だが、病気をしていたようだ。

 

2人目は言うまでもなく「リンデ」で、これはワルシャワ高等中学校の校長で、ニコラの友人であり、恩人でもある人物だ。

 

3人目は「カロル氏」だが、これはおそらくカロル・ヴェルツの事で、ヴォイチェホフスキの継兄弟で、友人ヤン・ビアウォブウォツキの同窓生でもあった人物の事だろう。彼の名は、ショパンが初めて書いた手紙である「1823年9月のマリルスキ宛の手紙」と、親友ビアウォブウォツキへの最後の手紙となった「1827年3月14日付のビアウォブウォツキ宛の手紙」とに出てきており、そこでは「ヴェルツ」と言う名字の方で書かれていて、いずれの場合も、必ずヴォイチェホフスキとつるんで描写されていた。そしてそのいずれの手紙も、カラソフスキーの著書には掲載されていない。

 

 

この箇所で注目すべきは、一番最後の部分である。

「パパとママが君に挨拶と祝福を送っている;子供達も同様に。」

 

この「子供達」と言う表現は、少年時代の「家族書簡」や「ビアウォブウォツキ書簡」では頻繁に使われていたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」においてはこれが初めてであり、全体を通しても久々の登場となる。

これは、ショパンが自分の姉妹達を指して使う表現だが、しかしショパンがこの表現を使う時には必ず2つの条件があり、

1.       手紙の追伸部分でしか使われない事。

2.       必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記されている事(すなわち、パパとママとその子供達だからこそ「子供達」と表現しているのである)。

 

ここでも、きちんとこの条件を満たしている事がお分かり頂けているかと思う。

 

 

 

さて、次回は、ショパンの手紙の中でも最も有名な手紙の一つを紹介する事になる。

 

[2011年8月22日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証9-2:捏造された初恋物語

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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