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検証2:汚れなき初期書簡の意義―
   Inspection II: The significance of the early letters without the dirt -

 


4.1823年、初めての手紙は何故書かれたか?――
  4. In 1823, why was the first Chopin's letter written?-


  
  ≪♪BGM付き作品解説 ショパン:ポロネーズ 第13番 変イ長調 遺作≫
  
[VOON] Chopin:Polonaise XIII in A major /Tomoro

 

 

ショパンがジヴニーに捧げたポロネーズの自筆譜には、単に、ショパンが楽譜を書けるようになったという以上の意味があった。それはつまり、この少年が、自分で楽譜を書きたいと思うほどに、作曲と言うものに対して強い関心を持ち始めたと言う事に他ならないのである。

元々ピアノが専門ですらなかったジヴニーには、ニコラの寄宿学校では、最初から作曲を教える事など求められてはいなかったし、そもそも彼は作曲家でもなかった。したがって、もはやショパンには、それに相応しい新たな先生が必要とされるようになっていたのである。

 

このポロネーズが書かれた1821年、まるで、そんなショパンのために用意されたかのように、ワルシャワに音楽院が設立される。

 

「一八二二年にはジヴヌィでさえ、もうショパンに教えるものはないと認めるほどになった。ワルシャワにはちょうどその一年前に音楽院が新設された(公式には「音楽・朗読学院」として知られる新しい学校は、のちにワルシャワ大学の一部になった)。院長を務めたのはヨゼフ・エルスナーといい、ワルシャワ歌劇場の女性歌手を妻とする、多作ではあるがどちらかというと平凡な作曲家だった。ジヴヌィの勧めもあって、このエルスナーがショパンの次の教師に選ばれた。

シレジア生れのエルスナーはブレスラウで学んだ後、モラヴィアの町ブルノでヴァイオリニストになり、その後、東ポーランドのルボフで指揮を務めるようになった。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社)より  

 

        「ヨゼフ・エルスナー」というカタカナ表記は、Joseph Elsnerを英語読みしたもので、英語版の洋書を邦訳した日本語書籍に見られるものです。本稿では、ポーランド語読みの「ユゼフ・エルスネル」表記を採用しております

 

エルスネルは、ショパン家のサロンの常連客だったと伝えられている。その彼の下で、ショパンは作曲を学ぶようになったそうなのだが、この時期のこの辺の事情に関しては、実はよく分からない点が多い。

と言うのも、エルスネルは新設されたばかりの音楽院の院長を務めていた位なのだから、それなりに多忙だったのではないかと想像され、そうすると、その合間を縫って、彼はショパンに個人授業を施していた事になる。しかしそのような状況では、それほど本格的な指導は望めず、せいぜい、ちょっとしたアドバイス程度のものにならざるを得なかったのではないだろうか?

様々な書物に書かれているこの時期の話を総合すると、どうやら、そんな感じのニュアンスが浮かび上がってくるのである。

 

ショパンは、エルスネルに師事してから一年後の1823年に、5年前と同じ「慈善演奏会」に再度出演する事になる。

その時の様子は、当時の新聞に詳しく書かれていて、そこには、ショパンの演奏を称賛したあと、以下のように付け加えられていた。

 

――ライプツィヒの『音楽新聞』最新号は、ウィーン発の記事として、彼地においてもリストという名の同様に若いアマチュアが、フンメルの協奏曲を演奏し、その弾奏の正確さ、音の確かさと力強さが全聴衆を驚嘆させたと報じているが、「音楽の夕べ」第六夜以降、私たちはもはや、リスト氏がいることでウィーンを羨む必要がなくなったとしていいだろう。わが首都にも、リスト氏に比肩する、あるいは彼を凌駕するかもしれぬ天才ショパン氏がいるのであるから(これほど万人の称賛をかちえた若者の名を秘匿せねばならない理由は見当たらないので、ここに敢えて公表する)……」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

この当時、ポーランドは隣国に分割支配され、国家としては地図上に存在しておらず、帝国主義の時代においては被支配者の立場に甘んじていた。そんな歴史に翻弄されるかのごとく、文化面においても大国に遅れをとっており、ポーランドはまだ国際的な芸術家を輩出してはいなかった。この新聞の論調には、そのようなコンプレックスが、リストへのライバル意識と言う形で浮き彫りにされている。思えば、この5年前にショパンが初めてポロネーズを出版した時の雑誌の評論にも、同様の事が付け加えられていた。

 

「もし彼(※ショパン)が、ドイツあるいはフランスに生まれていたならば、その名声はすでに今日までに全世界に広まっていたであろう。願わくば、この記事を読む読者は、われわれの国にも天才は生まれる、そして彼らは一般大衆の認識不足のために、広く知られることがないということを心に留めてほしいものである」

カシミール・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝共訳

『ショパン』(音楽之友社)より 

 

こう言った論調は、我々日本人の持つ西洋コンプレックスとよく似ている。前にも書いたが、ショパンについて語る時、彼を崇めんがために他の芸術家を貶めるような書き方が多々見受けられると言う、ある意味コンプレックスの裏返しとも言えるような「悪しきポーランド的風潮」は、つまりこう言ったところにその根があるのである。

 

なぜ私がここでこのような事を指摘するのかと言うと、本稿のテーマである「ショパンの贋作書簡の検証」を進める上で、この「悪しきポーランド的風潮」が確実に贋作者の心理の中にも巣食っており、それが贋作書簡を捏造する動機の一つとして作用していると言う事を知って欲しいからである。

それが最も分かりやすい形で露呈したのが、例の「ポトツカ贋作書簡」であり、そこには、リストやシューマンを始めとする、他の芸術家達に対するあからさまな誹謗中傷が、ショパンの言葉を装う形で書き連ねられていた。参考までに、その中からほんの一部だけ抜粋し、紹介しよう。

 

…(略)…ベートーヴェンの感性にはオーケストラと弦楽四重奏が一番身近なものですが、ピアノはどうも……ピアノ曲を書いていながらオーケストラではないことを忘れてしまっているようです。彼のピアノ・ソナタでは、ピアノがオーケストラではないと言って再三腹を立てています。…(略)…

 

…(略)…シューマンは脳天にきて亡くなるだろうと私は予言し、請合いますよ。彼の評論ときたら、蜂蜜を大鍋いっぱい平らげたようにうんざりです。…(略)…

 

…(略)…私は未来がメンデルスゾーンを判定するまで生きてはいませんが、〔多作な〕彼の作品のうち、非難を免れ得るものがどれだけあるでしょうか。あまり多くはないだろうと予言します。…(略)…

 

…(略)…リストは他人のペガサスに跨って、パルナッソス山に乗り込もうとの魂胆。これは――私たち仲間うちで言う――他人の作品を自分のけばけばしい表紙で表装してしまう、お見事な製本屋です。…(略)…

イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳

『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)より

 

 

これはすなわち、これを書いた贋作者パウリーナ・チェルニツカ自身の中に巣食う「悪しきポーランド的風潮」の表出であり、同時に、一部のポーランド人達の願望を代弁してもいるのである。なぜなら、これらは必ずしもチェルニツカが一人で創作したものではなく、彼女がこれを書くに当たって、ヘジックなどのポーランドの研究家達の文章を参考文献として用いた形跡が見受けられるからである。彼らは、ショパンこそがロマン主義の時代を代表する唯一無二の存在なのだと誇示したいがために、リストやシューマンが、そのショパンと同列に語られるのが気に入らないのである。

したがって、シドウやウィエルジンスキがこれを本物と妄信して飛び付いた事にも、また、かつてカラソフスキーが捏造した「作り話」や贋作書簡にも、確実に同じものが巣食っている。国粋主義的な傾向の強いポーランドの作家ほど、贋作書簡や「作り話」を無批判に支持し、その捏造にも加担していると言う現実を心に留めておいて欲しいのである(※その国粋主義が生み出した究極の贋作が、「シュトゥットガルトの手記」である)。

しかし、彼らだけを責める事は出来ない。

と言うのも、彼らにこんな事をさせてしまう要因の一つとして、その彼らの信奉するショパン自身の性格にも多少問題があるからだ。これは、ショパンとリストの性格の比較でよく言われている事だが、リストが大らかで清濁併せ呑むタイプなのに対して、ショパンにはちょっと度量の小さい所が見受けられるのである。それについても追々言及していく事になるが、要するに彼らは、そんなショパンとすっかり同化してしまっているのである。

 

 

 

さて、ショパンの場合、音楽の勉強以外の一般の学業に関しては、教師である父が寄宿学校を経営していた事もあって、家庭内で十分にまかなわれていた訳なのだが、これは、病気がちだったショパンの健康状態を考慮した上での事でもあったらしい。

ところが、そのショパンが、突然この年の秋から学校に通う事になるのである。

        この学校(※ポーランド語でリツェウム=Liceumについては、著書によって「中等学校」と翻訳されていたり、「高等学校」と翻訳されていたり、まちまちである。現在の日本の感覚でいくと、この時ショパンは中学生年代なので、「中等学校」とした方が分かりやすいのかもしれないが、当時の教育事情は現在とは異なり、そう単純でもない。いわば中学と高校を足したような学校だと考えてもいいかもしれないので、「高等中学校」としている文献もあり、いずれにせよ、ショパンはその学校に四年生として編入し、以後三年間、そこに通う事になるのである。通うと言っても、校舎は自宅から目と鼻の先にあったのだが…。

 

なぜショパンは、急に学校に通う事になったのだろうか?

これについては、「ニコラの教育方針でそうなった」とする著書が多いが、しかしその説はいかにも美談ぽくてあまり説得力がないように思われる。実際の理由はもっと現実的なもので、どうやら、「ワルシャワ音楽院に入るために中学の卒業資格が必要だったから…」と言う事のようだ。

 

「高等音楽院に行くには、中等学校をちゃんと卒業しなければならなかったが、演奏会や作曲もしながらであったので徹夜することも一度ならずあり、そのせいで元来病弱な健康状態が余計に悪くなってしまった。」

アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳

『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より

 

 

いくら厳格なニコラでも、学業に関して、息子の健康状態を無視してまで無理強いするとは思えないので、やはり、あくまでも「公的な決まり」として、「中等学校をちゃんと卒業しなければならなかった」と考えるのが自然なのではないだろうか。

        【追記】 当時のポーランドの教育事情について、以下の著書が詳しく教えてくれているので、ちょっと紹介させていただきたい。

「ポーランドでは、三国分割を受けた後に教育に力を入れた。元ワルシャワ公国内では、もともとフランスの教育制度を導入していたため、フランスのリセーと同じく7年制の公立中学・高等学校のシステムをとり入れており、この7年制の学校をリツェウムと呼んだ。上級の専門学校・大学への進学を希望する者は、このリツェウムにおいて公的教育機関での課程を修了したという認定を必要としたが、ほとんどの貴族・豪族の子弟は、家庭教師につくか、あるいは私塾で基礎教育を見につけたため、上級学校に進学する前に、必ずこのリツェウムに転入した。ショパン自身も私塾(※父ニコラの経営する寄宿学校)から、4年次に転入している。」

『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)より

 

そして、この生活の環境の変化が、ショパンに手紙を書くきっかけをもたらす事になるのである。

 

 

次に紹介するのは、ショパンが学校編入を目前に控えて友人宛に書いた手紙で、おそらく、これが彼の書いた最初の手紙だろうと思われるものである。現在、これよりも古いものは身内に贈ったグリーティング・カードしか確認されておらず、それらは既に紹介した通りである。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ペンチーツェのユウスタヒ・マリルスキへ■

(※原文はポーランド語)

〔ワルシャワ、18239月〕

「親愛なるマリルスキ!

僕は新入生のための講義――試験ではないよ――がいつ始まるのか知るために、自分でズベルヴィツキさん(※ワルシャワの高校と大学で教えていた哲学の教授で、ニコラの同僚だった)の所へ行ってきた。彼が言うには、それは今月の16日か17日に始まるのだそうだ。アカデミーの公開セッションが15日になるのか16日になるのか、委員会がまだ決定していないらしい。さらに彼はこう話した、午前中に講義を、午後に試験をやる事になっていて、そして、15日以降は誰の申し込みも受け付けないのだと。僕の乱筆を許してくれ給え、僕は急いでいるのだ。僕が君に話した事をヴェルツ(※カロル・ヴェルツ友人ティトゥス・ヴォイチェホフスキの継兄弟で、友人ヤン・ビアウォブウォツキの同窓生)にも伝えて、彼とティトゥスにどうぞ僕からよろしくと伝えてくれ給え。ビアウォブウォツキは土曜日にワルシャワに来た。彼は火曜日に名前を記入して水曜日に帰って行ったが、学期の間には戻ってくるだろう。パパとママは君の両親に、そしてルドヴィカは君の姉妹を抱擁する。そして、僕は心から君と君の兄弟を抱擁する。

F.ショパン

クリコフスキ、カルヴォフスキ、ウィルヅィンスキ、それに、クシビツキ諸氏が引退する、そして、カリシュから来た教授がクリコフスキのところを受け持つ。ドブロノッキさんが君によろしくと。さようなら。誰にもこの手紙を見せないでくれよ。僕が政治について何も知らないから、書く事が出来ないのだと、誰もが言うだろうから。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より  

        ユウスタヒ・マリルスキ Eustachy-Anastazy-Józef Marylski 18041871)は、シドウの解説によれば、「ワルシャワから13キロ離れた所にあるペンチーツェの領主の息子で、ニコラ・ショパンの寄宿学校の生徒だった。フレデリックより年上だったが、親しい関係にあった」という。

        〔ワルシャワ、18239月〕と言う日付は、本稿で採用したオピエンスキー編の英訳版書簡集では推定扱いとなっているが、シドウ編の仏訳版書簡集では本文扱いになっている。しかし、手紙の日付は「○年○月○日」までしっかり記されるのが普通で、「○年○月」までしか書かれないなんて事はまずない。したがってこれは、オピエンスキー版の方が正しいと思われる。

        また、たとえばその手紙に元々日付が書かれていない場合、往々にしてその手紙は正規の郵便物ではなく、誰か知人を介して手渡されたものである可能性がある。実際にそのようにして送られた手紙がいくつもあり、それらは、この手紙のように内容が手短で、仲介者となる知人を待たせているためか、「急いでいる」事が多いのである。その場合、当然手紙には消印もないため、自ずと日付は推定になる。

        この手紙のオピエンスキー版とシドウ版には、もう一点、奇妙な違いがある。シドウの方には、冒頭の「親愛なるマリルスキ!」と言う挨拶がないのだ。しかしこれはどう考えたらいいのだろうか? この手紙の原物がどうなっているのかについては、全く情報がないため確認出来ないが、実を言えば、一般的に考えても、手紙の冒頭にこのような挨拶がないのも不自然なら、その挨拶が「親愛なるマリルスキ!」と言うのもちょっとおかしいのだ。と言うのも、ショパンが友人に向かってに呼びかけるのに、ファースト・ネームやニックネーム、もしくは敬称を用いないなどと言う例は、他に見た覚えがないからだ。

 

この手紙は、カラソフスキーの時代にはまだ知られていなかったものだが、おそらくショパンが最初(※少なくとも最古である事は確か)に書いた記念すべき手紙であるにも関わらず、どのショパン伝でも、これが紹介されているのを見た事がほとんどない。

        この手紙は、一般的には、オピエンスキー編纂の書簡集とシドウ編纂の書簡集で紹介されているくらいで、オピエンスキー版の邦訳版である「天才ショパンの心―ショパンの手紙/原田光子訳(第一書房)」では丸ごと省かれ、シドウ版の英訳選集である「ショパンの手紙/アーサー・ヘドレイ編・小松雄一郎訳(白水社)」でも選から漏れている。 

        伝記に関して言うと、私の知る限りでは、ピエール・アズリイ著『同時代の人々を通してのショパン―友人、恋人、そしてライバル達』(Greenwood Press/1999)と言う洋書で、手紙の一部が抜粋で引用されていたのを見かけたくらいである。

 

この手紙が見過ごされる理由は、読んでお分かりのように、我々一般の読者の興味を引くような内容が一つも書かれていないからである。

 

ここには、たとえば「ポトツカ贋作書簡」にあったような色恋沙汰もなければ、音楽に関する話もなく、他の芸術家達への誹謗中傷もない。要するに、早い話が「つまらない」から紹介されないのだ。もしも「ショパンの書簡集」がこのような手紙ばかり何十通も何百通も掲載されているだけだとしたら、どんなショパン愛好家でも辟易して途中で放り投げてしまうだろう。だがしかし、基本的には、それこそが本物のショパンの手紙なのである。後世の部外者が読んで面白いかどうかなど、書いた本人にとってはそれこそ余計なお世話で、したがって、「ショパンの手紙」に「モーツァルトの手紙」や「ゴッホの手紙」のような内容を期待するのはお門違いなのである。

 

ここには、この年から学校に編入する事になったショパンが、新学期の講義に関する情報を友人達にもたらしている様子が書かれている。文脈から分かるように、これは彼が自発的に書いたものではなく、夏休みを各々田舎で過ごしている友人達の要請に従って、ワルシャワに残っていた新入生ショパンが、彼らのために「使い」をした結果書かれたものである。つまりこれは、たとえ我々部外者にとっては興味のない話であっても、当事者達にとっては、言うまでもなく重要な伝達事項なのである。

実はショパンの手紙を検証する上で、これこそが最も重要なポイントとなる。逆に言えば、自他共に認める筆不精のショパンは、この「当事者達にとって重要な伝達事項」がなければ、決して便箋には向かわないと言う事なのである。

 

マリルスキに宛てた手紙は現在この一通しか知られていないが、この友人は、これ以降の他の手紙の追伸部分において、あまたの友人知人達と共にその名が列挙される形でしばしば登場する。

        上記のマリルスキ宛の手紙にもあったように、「〜によろしく」と言うやつで、これはショパンの手紙のほとんどに必ずと言っていいほど書かれており、その時々のショパンの交友関係を知る上で貴重な情報である。ただし、伝記や書簡選集などでは省かれてしまう事が多い。

ミスウァコフスキらによると、マリルスキは後に、「ワルシャワ通信と言う新聞紙上において、ショパンの学生時代と住居について回想している」そうである。私は現在その全文を確認できないが、以下のような事が書かれている。

 

「ショパン家の寄宿生だったユウスタヒ・マリルスキはこう言う。

 

日曜日ごとにコンスタント(※コンスタンチン)大公からのお迎えの馬車が来て、ショパンは終日、ベルベデル宮殿に滞在していた……」

アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳

『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より

 

 

        カラソフスキーの伝記では、ショパンはこのコンスタンチン大公に「行進曲」を捧げた事になっているのだが、このマリルスキの回想にはそれに関する証言はなさそうである。もしも本当にそんな曲が存在するのなら、大公や楽団員達がその楽譜を所有していないはずがないのだから、未だにその資料が出てこないなんてのは、やはりどう考えても不自然であろう。被支配者であるポーランド側の資料はことごとく戦火に消えてしまったにしても、向こうは支配者側なのだから、大公が自ら破棄させない限り、楽譜はどこかしらに残っているはずだからである。

 

マリルスキ宛の手紙は、ほとんど用件を手短に伝えただけの簡素な内容なのだが、この中には、ティトゥス・ヴォイチェホフスキとヤン・ビアウォブウォツキと言う、ワルシャワ時代のショパンを語る上で欠かす事の出来ない友人達の名前が登場する。だが、この時点では、まだどちらもショパンにとって「唯一無二」と言えるほど特別な存在ではなかったと思われる。特にヴォイチェホフスキに関してははっきりとそう言える。この手紙の中では、唯一ヴォイチェホフスキだけが「ティトゥス」とファースト・ネームで記述されているが、それはショパンとヴォイチェホフスキの親密さの度合いを表していると言うより、マリルスキとヴォイチェホフスキのそれを反映している。なぜなら、ショパンは、たとえばビアウォブウォツキ本人に向かっては、決して「ビアウォブウォツキ」とは呼ばず、ファースト・ネームのヤン、もしくはヤシなどの愛称で呼ぶからだ。

 

 

この手紙で注目すべきは、以下の結びの部分である。

 

「誰にもこの手紙を見せないでくれよ。僕が政治について何も知らないから、書く事が出来ないのだと、誰もが言うだろうから」

 

まず、最初の「誰にもこの手紙を見せないでくれよ」と言う一文だが、何故ショパンがわざわざこのような断りを入れるのかと言うと、現在の我々の感覚では分かりにくいが、当時の手紙と言うものは、皆で回し読みされるのが普通だったからなのである。

 

十八世紀は書簡文の全盛期といえるほど、人々は手紙を頻繁にやり取りしていた。しかも手紙自体が長く克明なだけでなく、手紙を出す前にコピーをわざわざ残しておくなど、手紙は後世のための記録として明確に意識されていた。特に旅先からの手紙は、友人たちの間で回し読みされたり、集まった近所の人々の前で読み上げられたりするのが通常だった。旅に出る人が非常に少なかったうえ、情報や娯楽の乏しかった当時としては、こうした旅先からのホット・ニュースは貴重な情報源であり気晴らしの種にほかならない。

本城靖久著

『馬車の文化史』(講談社現代新書)より

 

 

        ショパンの時代は19世紀だが、事情はそれほど変わらない。この事は、後年ショパンがウィーンやパリからエルスネルに書いた手紙や、エルスネルがパリ時代のショパンに書いた手紙に、その事実を裏付ける記述がある。

 

つまり、この手紙を受け取ったマリルスキにしてみれば、ショパンがもたらしてくれた伝達事項を「ヴェルツに伝え」るのに、本来ならこれをそのまま彼に読ませるのが普通なのだが、ショパンは「それはしてくれるな」と言っている訳である。何故なら、「僕が政治について何も知らないから、書く事が出来ないのだと、誰もが言うだろうから」

これはもちろん、いかにも中学生らしいたわいのない冗談ではあるのだが、この一言からは、普段、ショパン家が交際している上流階級の人々の日常会話がどのようなものだったのかが垣間見えてくる。つまり、この混迷する時代のヨーロッパに生きる人々、しかも被支配者であるポーランドの上流階級にとって、その話題の中心はやはり「政治」なのである。ショパン家に送られてくる手紙が家族の中で読み上げられる時、そこにはたいてい、「政治について」のコメントが差し挟まれており、少年ショパンは、いつもそれを大人の会話として聞いていた。そしていざ自分が手紙を書いてみた時、彼は未だに自分が子供っぽい事を、自嘲気味に冗談めかしているのである。

それでは、ショパンが大人になってからはどうだろう? 実はこれが、大人になってからも全く変わっていないのである。ショパンの手紙には、「政治について」のコメントがほとんど書かれていない。この時代のポーランドに生を受けた人間としては、むしろそれは信じ難いほどだと言っていい。逆に、稀に書かれている場合、その手紙は、例の国粋主義的贋作書簡だったり、その疑いが非常に濃いものだったりしている。

 

このようなショパンの「政治について」態度に関して、リストは、彼の著書の中で次のように証言している。

 

「彼の愛国心は芸術的天才を通してあらわされただけでなく、友人や弟子の選択にも、また同国人に施した様々な奉仕のなかにも、明らかに表現されている。とはいえ彼が自分の愛国心を人前に発表するのを喜んだためしを嘗て私は見ない。時たま彼が政治の領分に興味をもって語ったとしても、――フランスの社交界では一般に政治問題を盛んに論じ合い、あるいは凄まじい勢いで攻撃し、あるいは熱烈な口調で擁護して互いに火花を散らす習慣があった――ショパンはただ他人の意見のなかで、危険な思想や、誤っていると思われる事柄を指摘する範囲に止まって、自分自身の政治論を主張したことは殆ど無かった

彼は同時代のもっとも傑出した政治家たちと不断に交際してはいたが、その交わりを個人的な友愛関係に止めて、政治的に支障のある交渉には決して立ち入らなかった。」

フランツ・リスト著/蕗澤忠枝訳

『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より

 

 

「彼が自分の愛国心を人前に発表するのを喜んだためしを嘗て私は見ない」と言うリストの証言を、裏付ける証拠がある。

 

「多くの伝記作家が、父親(※ニコラ)がポーランド人であることの証拠を探そうとしたが、一八三七年にフランス官憲当局より発給されたショパンのパスポートには「両親はフランス出身。ワルシャワ生まれ」との記載がある。」

アルベルト・グルジンスキ/アントニ・グルジンスキ共著・小林倫子/松本照男共訳

『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より

 

 

これではまるで、ショパンは、「自分はポーランドで生まれたが、血筋は純フランス人だ」と言っているようなものである。彼は、父はフランス人だが母はポーランド人なのだから、言うまでもなくこのパスポートの記載は半分事実ではない。しかしここで重要なのは、理由はどうあれ、本人がパスポートにこのような記載をさせている事から見ても、ポーランドの伝記作家達が誇張したがるほどには、ショパンは、日常生活において自らの出身を誇示するような真似はしていないという事なのである。

 

ショパンがこのような「政治について」態度を取る理由を、リストは続けてこう証言している。

 

彼は『デモクラシー』には同感できなかった。ショパンの目には、デモクラシーはあまりに雑多な要素の集団で、あまりに落ちつきがなく、あまりに暴力的な権力を振るい過ぎるように思われた。一般民衆が政治や社会問題にくちばしを入れる政権は、ショパンには、その昔、野蛮人等が新しい勢力を得て大胆不敵に文明国を侵略したときを連想させるのだった。彼はこの比較を考えると、思わずぞっとして、言うに云われない苦しい気持ちに襲われるのだった。

ショパンは知っていた。――昔、ローマ帝国が、その蛮族の侵略から自らを救えなかったように、いまもまた、新しい野生の力が文明を侵略してゆくであろう。そして彼はその不可抗力の野生の勢力のまえにある恐怖を覚えたのだった。一言でいえば、ショパンは、その昔ホレーズ(註、紀元前六五年〜八年、ローマの詩人)が巧みに評したように、『文化』、すなわち、『高雅な洗練された、しかし幾分遊惰な安逸を含んだ空気』の喪失を恐れたのだった。

これら新しく立ち上がる野蛮人等の粗野な、荒々しい、破砕的な手から、芸術的な高い文化や、人生の高尚な優雅さを、如何にして護ることが出来ようか。ショパンは、遠方から事件の推移を詳(つまび)らかに観察し、殆ど何人も気付かない非常に鋭敏な知覚力をもって、嘗てもっとも博識の人びとさえ予言することの出来なかった未来を、正しく予言することが出来た。」

フランツ・リスト著/蕗澤忠枝訳

『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より

 

 

リストのこの著書には、確かに誤伝も多く、その情報源も定かではない。また、この本の記述のうち、リスト本人の筆致ではないと思われる箇所も多い。

実際、ニークスがリストを取材した際、リストはその事実を認めるような事を彼に語っているのである。

 

リストは、1878年に彼の『F.ショパン』の第二版の出版が決まった時、私にこう述べた。

 

私は、私の本に間違ったデータやその他の誤りがあり、そしてそのデータや事実がカラソフスキーの伝記で修正されている事を聞かされた[それは、その間に出版されていた]。しかし私は、しばしばそれを読む事も考えたが、やはりそうしなかった。私が得た情報は、私が頼りにしても良いと信じたパリの友人達からのものだ。ヴィトゲンシュタイン王女[彼女はその時ローマに住んでおり、1850年にワイマールに移った。そして、この本の創作に貢献したと言われている]は私に、新版でいくつかの変更を施すように望んだ。私は彼女を喜ばせようとしたが、彼女がまだ不満を抱いていたので、私は、彼女の好きなように追加や変更をするよう、彼女に言った。

 

この陳述から、リストが彼の中に伝記作家の素質を持たなかった事は明白である。そして、たとえヴィトゲンシュタイン王女の追加と変更が我々にどんな価値をもたらそうとも、その仕事の極めて重大な誤りにまで手が届く事はなく、フランスの評論家が寸評したように、それは伝記と言うよりはむしろ葬送交響曲だった。」

フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』

Niecks/Frederick Chopin as a Man and MusicianDodo Press )より

 

 

しかしながら、文章そのものは確かに「ヴィトゲンシュタイン王女」の筆致だとしても、先に引用した「ショパンの政治的態度」を彼女に口述したのはリストのはずである。なぜなら、その話自体が捏造でも間違いでもない理由として、実は、それと全く同じ事を、ニコラがショパン宛の手紙の中で書いているからなのである。

これは、ショパンが祖国を発ってから約一年半後の事である。

 

■ワルシャワのニコラ・ショパンから、

パリのフレデリック・ショパンへ■

(※抜粋。原文はフランス語)

「ワルシャワ 一八三二年六月二十八日

親愛なる息子

六月六日の手紙で、幸いお前は賎民どもが煽動した暴動に巻き込まれていないことを知った。けっこうだった。二、三の新聞報道によるとポーランド人が荷担し、旅行者としてあたえられている厚遇を濫用しているとのことだが、こんなばかげたことはもう十分ではないか。ワルシャワでは紛争をおこすだけの理由は十分ありました。〔しかし、パリでは〕彼らの破壊思想に共鳴するほどの気違いはきっと少数だと思っています。ありがたいことに、国民のなかで穏健分子が勝利をおさめ、秩序は回復しました。もちろんお前の才能で得る収入は一時止まったでしょうが、そんなことはいつまでも続きはしません。再び平穏になれば芸術はもとの地位を回復するものです。」

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

 

これが、ニコラ自身の言葉で語られた、革命思想とその行動に対する見解である。

ニコラがこの手紙の中で、「こんなばかげたことはもう十分ではないか」と言っているのは、何も、パリにおける「ポーランド人が荷担」」した「暴動」の事だけを言っているのでない。「ワルシャワでは紛争をおこすだけの理由は十分ありました」と言う、その「ワルシャワで起こった「紛争」」も含めて、「こんなばかげたことはもう十分ではないか」と言っているのである。

この、「ワルシャワで起こった「紛争」」とは、183011月にショパンが祖国を発った直後に勃発した「ワルシャワ蜂起」の事を指している。これは厳密には革命ではなく、「独立のための反乱」である。しかし、実際に彼らがやろうとしていた事は、かつて「コチシウシュコの反乱」がフランス革命とアメリカ独立戦争をごっちゃにしたような様相を呈していたように、その延長線上にあるものと言える。

つまりニコラにとってそれは、たとえそこにどんな崇高な理想が掲げられていようとも、所詮その実態は暴力沙汰でしかなく、「ばかげたこと」であり、「破壊思想」であり、単に、平穏で文化的な生活の妨げでしかないと考えていた事が分かる。正にリストも書いている通り、「デモクラシーはあまりに雑多な要素の集団で、あまりに落ちつきがなく、あまりに暴力的な権力を振るい過ぎるように思われた」のであり、また、「『文化』、すなわち、『高雅な洗練された、しかし幾分遊惰な安逸を含んだ空気』の喪失」に結びつくものだった。それは、かつてフランス革命政府が現実に行った恐怖政治そのものなのだ。

 

ポーランドに渡ったニコラがそうであったように、その息子フレデリック・ショパンもまた、貴族社会に依存する事で己の地位や名声を確立出来たのだし、パリの社交界こそが、彼に最も効率よく高収入をもたらしてくれる職場だった。そのお蔭でショパンは、体力や神経をすり減らすコンサート活動から身を引いても、音楽家として十分やっていく事が出来たのである。古典派の時代ほどではないにせよ、芸術というものがまだまだ上流社会を中心に消費されていた当時、特に芸術家という不安定な職業にとって、革命がもたらす民主主義とは、その生活基盤を根底から脅かすものでしかなかった。その現実こそが、ショパンに愛国心と革命思想を結び付けさせなかった決定的な要因である。ニコラは自分の苦い経験からそれを嫌というほど知っていた。そんな彼がどうして、自分が過去に踏んだのと同じ轍を、息子にも踏ませようとするだろうか?

ショパン家の人々は、革命を起こす側ではなく、むしろ起こされる側の立場に立つ、極めて保守的な人々なのである。ショパンはその後半生において、二度と祖国の土を踏む事なくこの世を去った。その理由はあらゆる書物で謎扱いされているが、そんなのは謎でもなんでもない。ショパンがポーランドに戻らなかった根本の理由は、祖国の騒乱によって貴族や文化人が外国に逃れたために、文化的生活が保障されず、芸術家がその活動の場を奪われていたからなのだ(※その結果、ワルシャワ音楽院も閉鎖に追い込まれたのである)。つまり、パリでしていたような優雅な暮らしが、ワルシャワではとうてい出来ようがないからなのだ。

同時代に生きたポーランドの国民的詩人ミツキェヴィッチのように、自らの愛国思想をそのまま創作活動の主要テーマにでもしない限り、革命騒ぎは確実に芸術家から仕事を奪う。そのようなものを、単に「美しき理想」などと考えるのは大きな間違いである。現実はもっと複雑で残酷で、それを望む者と望まぬ者との闘いなどと言うような二元論だけで語れるものではない。そのどちらにも加担出来ず、ただ運命の導くままに身を委ねるしかない人々もいるという事を忘れてはならない。真の良識とは、得てして、そのように沈黙する人々の中にこそあるものなのだ。最晩年のショパンが、パリに再び起こった暴動を避けて活動の場をイギリスに求めた事実を見れば、彼がその時代にどのような政治的見解を持って生きていたかは明白であり、それは、リストの証言とも完全に一致している事が分かるだろう。

 

そしてリストは、このあとこう証言している。

 

「ただひとつの話題のときだけ、ショパンは沈黙を破り中立を放棄した。それは芸術についての議論のときだった。こと芸術論になると、彼はいつもの慎み深い内気な態度をかなぐり棄てて、自分の所信をあからさまに述べるのだった。芸術の問題に関してだけは、彼は自分の主張を人びとに信奉させるために大いに努力し、全力を注ぐのだった。彼は暗々裡にではあったが、自分自身のうちに芸術家としての権威を確信していたのである。彼は自身がその任に堪えると信じていたこの問題に関する限り、自分の意見について、決して疑惑の余地を残さなかった。」

フランツ・リスト著/蕗澤忠枝訳

『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より

 

 

ショパンは、「政治について何も知らないから、書く事が出来ない」のではない。

彼は自分の天分や領分を、誰よりもよく心得ていたに過ぎないのである。そしてそれは、父ニコラの考え方を受け継いだものでもあるのだ。

 

ニコラがポーランドで築いた家族の絆の強さは、そのまま、彼が祖国フランスの革命によって引き裂かれたものを取り返そうとした、その思いの結実した姿だったのである。

 

 [2010年7月5日初稿/2010年11月23日改訂 トモロー]


【頁頭】 

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 ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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