検証6:看過された「真実の友情物語」・後編――
Inspection VI: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked (Part
2) -
3. The last letter to Białobłocki -
今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡・第13便」である。
まずは註釈なしに読んでいただきたい。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第13便)■ (※原文はポーランド語) |
「ワルシャワ、月曜日、3月14日[1827年] 親愛なるヤシ! 君は生きているのか?――それとも死んでいるのか?――神のご加護あれ;君からの音沙汰がなくなって3ヶ月以上が経過した。――僕の大事な命名日が過ぎ去ったと言うのに、僕は手紙一つ受け取っていない。――万事がこんな調子だから、ワルシャワで君について聞かされる哀悼と涙の話が真実味を帯びてしまうんだ。みんなが何て言ってるか知ってるかい? 君が死んだって言うんだよ! 僕らはみんなで泣きじゃくったよ(無駄に)、すでにイエンドジェイェヴィツが追悼の賛辞を通信宛に書き、そしたら突然、再びメッセージがとどろき渡った、生きている! そうだ、君は生きている!――喜ばしいニュースは、慰めを望む心には、より簡単に沁み込むものだ、だから僕らは、人々が最後に言った事が本当らしいと結論付けた。それで、僕は涙で腫れあがった瞼を乾かし、君に尋ねるためにペンを取り上げたと言う訳だ、君は生きているのか、それとも死んでいるのかと!――もしも死んでいるのなら、どうか僕にそう知らせてくれたまえ、そしたら、僕はその由を料理番に教えてやらねば、なぜなら彼女は、その事を聞いて以来ずっと祈り続けているからだ。――それがキューピットの矢になるかもしれないしね;彼女は老齢のご婦人で、僕らのユゼフォーヴァの事だよ、とは言うものの、君がワルシャワにいた時、君は彼女に強い印象を与えていたから、(君が死んだと聞いてから)ずっと以下の事を復唱している;“なんと若い紳士だった事でしょう! ここへお出でになる他の全ての若い紳士達よりもハンサムでした!;ヴォイチェホフスキさんもイエンドジェイェヴィツさんも、決して彼ほどハンサムではありません、どちらも決して!――神よ! 彼は以前いたずらをして、市場からキャベツを盗んで全部食べてしまった事がございます!”...ハ、ハ、ハ、ハ! 栄誉ある挽歌だ! ミツキェヴィツがここにいないのが残念だ、彼がいたら“料理番”と言うバラードを書いてくれたろうに。――しかし、そんな話は脇へ置いて、本題に移ろう;我々の家が病魔に襲われている。エミリアが寝込んでからすでに4週間が経つ、咳をして、血を吐き始めたので、ママが驚いている。――そこでマルツ先生は血を吸い出す事を命じた。1回、2回とヒルを貼ったが、何も効果がなく、ハエ取り紙、芥子軟膏、トリカブト、恐ろしい、恐ろしい!...この期間中、彼女は何も食べなかった:見間違える程にやせ衰えてしまった。今になってやっと気持ちを落ち着ける状態になった。――僕たちの家で何が起こっているか、君の想像に任せる。僕には説明する事ができないので、想像してくれたまえ。さあ、ここから話題を変えよう。 ――謝肉祭のカーニバルが終わってしまった、それも寂しくだ。――ベニック老人が亡くなった。君ならパパの悲しみが想像つくだろう!――彼の娘のクレメンティナはダウビシェフに嫁入りしたが、彼と9ヶ月も結婚生活を続ける事ができずに亡くなった。――何から何まで悲しい出来事で僕らの家は覆われている。――最後のとどめは地獄からの言葉だ、どこから来たのかは分からないが、君が死んだと言う知らせだ、それは僕に、涙だけでなく、お金も浪費させた。――当然、そんな話を聞かされたもんだから(君が僕の死を聞かされたらどうなるか、想像してみてくれ)――(追記、ちなみに僕は生きているよ)――あまりにも泣きすぎて頭痛に襲われ、そのまま朝の8時になってしまった。11時頃にイタリア語の先生が来たけど、レッスンができなかった――これですでに数ズローチ無駄にした(ヴォイチェホフスキとヴェルツが心配している);それで彼らから、気分を変えるために翌日劇場へ行くべきだと言われた。それでさらに数ズローチの出費だ!――そんな訳だから、君が死んだのかどうか、僕に書いてくれてもいいだろう、手紙を待っているよ、僕はこれ以上書けない、なぜなら、もう4時だ。 キスしてくれたまえ、親愛なるヤシ。 F.F.ショパン ブルンネルが、近々ヴィスワ河を利用してコラレオンを送り届ける事を考えている;これを僕が止めさせるべきかどうかを書いて欲しい。なぜなら、かのドイツ人は何をすれば良いのか分かっていないから。君のパパが彼に書くのがベストであろう。 復活祭の礼拝が終わる頃には、みんなが君に抱きついてるよ。 パパに僕からよろしくと。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue
Musicale)、
及び、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej
Młodzieży Akademickiej)より
※
ソウタン版の註釈には、「使用された用紙は、暗い青色、2枚、各用紙のサイズ:22.5 x 19.5cm。透かし模様:縦線と文字 J.O.」とある。これは前回の「第12便」で使われていたものと全く同じである。
まずは日付について。
この手紙の日付は、原文では「月曜日、3月14日」と書かれており、年号だけが記されていなかった。ソウタン版では、その年号を[1827年]と推定し、その事について次のように説明している。
「1827年であるとの確証は、手紙の中にある次の“くだり”である: a
1827年4月10日に死亡したエミリア・ショパンの病気: b
ヴィブラニェツキとブルンネルとの間で交わされた契約書の追記から想像できる事であるが、コラレオンは1827年の第一四半期にドブジン村に納品されている(多分、3月の後半)(手紙第8便を参照のこと)。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy
Fryderyka Chopina do Jana
Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
この年号の推定には問題はない。ただし、ソウタンは指摘していないが、ショパンが記した日付は、またしても間違っている。
この手紙が[1827年]に書かれた事は、ソウタンの推定通りで間違いない。しかし、だとすると、実は[1827年]の「3月14日」は「月曜日」にはならず、「水曜日」でなければならないのである(※下図参照)。
1827年3月(第13便) |
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参考までに、「月曜日、3月14日」となるのは1825年で、1826年だと「火曜日」、1828年だと「金曜日」である(※下図参照)。
1825年3月 |
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1826年3月 |
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1828年3月 |
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ところが、ビアウォブウォツキとの文通は[1825年7月8日、金曜日]の「第1便」から始まっているのだし、1825年では内容の辻褄も全く合わないので、明らかに「1825年説」はない。
したがって、この手紙が[1827年]に書かれたのなら、ショパンは日付を書き間違えていると言う事になるのである。
この「日付の書き間違い」に関しては、オピエンスキー版では勿論の事、シドウ版でも指摘されていない。ただし、シドウ版の英訳選集にあたるヘドレイ版では、根拠は示されていないが[正しくは12日]と言う註釈が付け加えられている。
これはヘドレイの指摘通りで、ここでのショパンは曜日を間違えたのではなく、「14日」と言う日にちの方を間違えているのである。
そう考える理由は至って簡単で、それは、ショパンがこの手紙の結びで、「僕はこれ以上書けない。なぜなら、もう4時だ」と書いているからだ。これはすなわち、ソウタンが序文に書いていたように、この手紙が「月曜日」か「木曜日」のどちらかに書かれていた事を示しているからである。
「第1便(※実際は第3便)の手紙、及び他の人の手を通して送り届けられたもの以外は、全て郵便で、ワルシャワからプウォツクとリップノを経てデゥルヴェンツァ河畔のドブジン村ヘ送付されている。中でも、“プウォツク”への郵便物は、毎週月曜日と木曜日の夕刻6時にワルシャワから発送されているが、あらゆる種類の郵便物は、発送時刻前の午後5時までに郵便局へ持ち込むべきものとされていた。これが、なぜショパンが月曜日と木曜日に手紙を書いたかの理由である。しかも、郵便局から発送される時刻に合わせるため、ぎりぎりの時間帯に書かれており、このため、ほとんどの手紙の書き終わりが5時の直前となっている。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』より |
このような習慣があるのだから、ショパンが曜日を勘違いするはずがなく、まして「月曜日」と言う曜日を間違える人はまずいないだろう。だとすれば、ショパンが「14日」と言う日にちの方を間違えていたのは自明の理であり、したがって、この手紙の日付は、本来「月曜日、3月12日[1827年]」と記されるのが本当なのである。
それにしても、今まで「ビアウォブウォツキ書簡」を13通見てきた訳だが、ショパンはそのうちの3通で日付の書き間違いをしていた。
1.
1つは「第4便」で、本来「木曜日、10月6日、[1825年]」となるべき日付を「木曜日、9月[8日]、[1825年]」と書き間違え、あとでそれに気付いたのか、日付部分を破り取ろうとしたような痕跡があった。
2.
もう1つは「第11便」で、郵便局のスタンプが「10月2日」と押されているのに、ショパン自身が手紙に記した日付は「11月2日」になっていた。
3.
そして今回の「第13便」。
これは、ショパンがうっかりしていると言うよりも、むしろ、彼がいかにそう言う事に無頓着であるかを表していると言った方がいいだろう。
たとえば、ショパンは手紙に日付を書く場合でも、年号から曜日に至るまで、全て必ずきちんと記す事はあまりないし、全く書かない時もある。これがたとえば、筆まめな人や、あるいは日記を書く習慣のあるような人であれば、このように、日付に対してそれほど無頓着にはならないだろう。
※
ショパンは、後年パリに移住してからも、姉のルドヴィカから「手紙には日付を忘れないように」と注意されている。これは、当時のヨーロッパの情勢が混迷していたために、特に外国への郵便が必ず相手に届けられるとは限らなかったからだ。その際、日付を書いておけば、それによって、その手紙がきちんと相手に届いているかどうかを双方で確認し合えるからなのである。
※
かつてモーツァルトの父レオポルトも、それと同じ理由で、息子に全く同じ事を注意していた。ショパンがこの期に及んでそのような注意をされていると言う事は、彼がどれほど日付と言うものに無頓着だったかを物語っていると言えよう。
それでは、手紙の内容の方を順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#1. |
「ワルシャワ、月曜日、3月14日[1827年] 親愛なるヤシ! 君は生きているのか?――それとも死んでいるのか?――神のご加護あれ;君からの音沙汰がなくなって3か月以上が経過した。――僕の大事な命名日が過ぎ去ったと言うのに、僕は手紙一つ受け取っていない。」 |
※
ソウタンの註釈によると、「僕の大事な命名日」は、「3月5日」とある。
ショパンの命名日が「3月5日」である事は、本稿で彼の生年月日について検証した時にも書いたが、それは後年、母ユスティナがパリのショパンに宛てた手紙で、息子の誕生日と命名日を、それぞれ「3月1日と5日」と書いていた事からも明らかである。
この「第13便」が実際に書かれたのは「3月12日」であるから、ショパンの命名日からちょうど1週間が「過ぎ去った」と言う事になる(※下図参照)。
1827年3月(第13便) |
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つまり、例年であれば、この時期には、それを祝う手紙なりグリーティング・カードなりが、ビアウォブウォツキから必ず届いていた、と言う事なのである。ところが、今年に限ってそれが来なかった、と、そう言う事なのだ。
そうすると、実際はビアウォブウォツキはこの時点では死んでいなかった訳だが、「火のないところに煙は立たぬ」と言うように、その彼が、ショパンの命名日を祝う事ができないほどに具合が悪かったらしい事が想像され、それが今回の騒動を引き起こす事にもつながっていたと、そう考えられるだろう。
※
実は、後年ショパン自身にも同様の事件が起きている。パリ移住後の1835年冬、ワルシャワで「ショパン死亡説」の噂が流れたのである。この時は、ショパンが病気で寝込んだためにしばらく外出できなかった事が原因だった。「ワルシャワ通信」で死亡説の否定記事が出るほどの騒ぎになったこの一件は、当時ショパンと婚約関係にあったマリア・ヴォジンスカの親に、彼の健康面に不安を抱かせる要因ともなり、それが婚約破棄の理由の一つとして影響してしまっただけに、これはこれでまた笑えない話となった訳だが…。
さらに、今回の「3ヶ月」の空白は、今までの音信不通とは少し意味が違う。
ショパンにしてみれば、前回の「第12便」で書いていたように、ようやくビアウォブウォツキに自作の「マズレク」(※マズルカ)を送る事ができたと言うのに、しかもその曲は、そもそもビアウォブウォツキが半年以上も前から「要望」していたものだったと言うのに、それに対してビアウォブウォツキが「3ヶ月」経ってもその感想を書いて寄こさないなんて、普通は考えられない事だったからだ。だからこそショパンは、ひょっとしたら彼の身に何かあったのかも…と、そう考えてしまうのも無理からぬ話になるのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#2. |
「――万事がこんな調子だから、ワルシャワで君について聞かされる哀悼と涙の話が真実味を帯びてしまうんだ。みんなが何て言ってるか知ってるかい? 君が死んだって言うんだよ! 僕らはみんなで泣きじゃくったよ(無駄に)、すでにイエンドジェイェヴィツが追悼の賛辞を通信宛に書き、そしたら突然、再びメッセージがとどろき渡った、生きている! そうだ、君は生きている!」 |
※
ソウタンの註釈によると、「イエンドジェイェヴィツ」は、「多分、ユゼフ・カラサンティ・イエンドジェイェヴィツ(Józef Kalaszanty Jędrziejewicz、1803−1853)、ビアウォブウォツキの高等中学校時代の友人、後ほど、ワルシャワ大学の学生の学友、その後、マリモントの農業大学の法律・統治学の教師となり、1832年から作曲家の最も年上の姉ルドヴィカの夫となる。」とある。
この「イエンドジェイェヴィツ」は、ビアウォブウォツキとは学友関係にあったと言う事である。その「イエンドジェイェヴィツ」は、このように「追悼の賛辞を通信宛に書き」などと言う事をしているくらいなのだから、それなりにビアウォブウォツキとは親しかったはずである。
※
この「通信」とは「ワルシャワ通信」の事で、要するに新聞に掲載される「お悔やみの記事」の事である。
しかしながら、「イエンドジェイェヴィツ」の名が「ビアウォブウォツキ書簡」に登場するのはこれが初めてで、それ以外の「ショパンの手紙」を通じてもこれが初めてなのだ。要するにそれは、この当時のショパンとイエンドジェイェヴィツは、さほど親しい関係にはなかったと言う事なのである。
なぜなら、たとえば「ビアウォブウォツキ書簡」では、将来イザベラの夫となるバルチンスキが追伸の常連としてほぼ毎回のように名を連ねていたが、それは、バルチンスキがビアウォブウォツキと親しかっただけでなく、同時にショパンとも親しかったからである。ショパンが手紙の中でバルチンスキについてコメントしている内容からも、その事はちゃんと窺える。であれば、仮にイエンドジェイェヴィツもショパンと親しかったのなら、バルチンスキ同様、「ビアウォブウォツキ書簡」の追伸に名を連ねていなければおかしいのだ。それなのに名を連ねていないという事は、つまりそれほど親しくなかったからに他ならない。
そう考えると、ビアウォブウォツキの「追悼の賛辞を通信宛に書」くのはバルチンスキであってもいいと思うのだが、なぜここで唐突に「イエンドジェイェヴィツ」だったのだろうか?
※
ちなみにバルチンスキは、後にショパンの父ニコラが亡くなった時、夫婦でイザベラの実家に同居していた事もあり、その時の詳しい様子をパリのショパンに手紙で報告する役目を引き受けている。これはつまり、その時のユスティナとイザベラが、とてもその役目を引き受けられるような精神状態ではなかったと言う事でもある。
この「ユゼフ・カラサンティ・イエンドジェイェヴィツ」と言う人物は、将来ルドヴィカの夫となる訳なのだが、彼に関しては、将来イザベラの夫となるバルチンスキとはまるで正反対のイメージがある。
前回も書いたが、バルチンスキが平凡で堅いと言うイメージがあるのに対して、イエンドジェイェヴィツの方は、陽気で軽いと言うイメージがあるのだ。
ショパンがパリに移住した翌年の1932年に、ルドヴィカは結婚して実家を出る事になる訳だが、それに伴い、そのイエンドジェイェヴィツ家宛にショパンが書いた手紙の中で、しばしば義兄に向けてコメントしている箇所があり、その際にショパンが書いている事と言えば、彼を笑わせようとするために収集した小話だったりしているからだ。
そう言った事から、このイエンドジェイェヴィツが、誰よりもそういう話が好きで、極めて陽気な人物だった事が察せられるのである。
また、ユゼフォーヴァの証言によれば、彼はビアウォブウォツキに次いで、ヴォイチェホフスキと同じ程度に「ハンサム」だったらしい。
つまりこの手の人間は、とかく交友関係が広く浅くなりがちで、そのために案外隙も多く、往々にして誤解も受けやすいものである。
※
ご多分に漏れず、彼は後世において、義弟ショパンに嫉妬し憎悪する悪役としてでっち上げられ、「ルドヴィカ―カラサンティ書簡」なるものを捏造される羽目になってしまう。はっきり断っておくが、あの手紙は完全に贋作である。その内容の一つ一つをきちんと検証すれば、そこに書かれている話が、現実の事象として成立し得ない事は明白なのだ。その具体的な説明はその時に譲るが、つまり、その手紙の中で起きている話は、当時の通信事情から鑑みて、時系列的かつ物理的に絶対不可能な事なのである。要するにその手紙を贋作した人物(※おそらくクリスティナ・コビランスカが何らかの形で加担している事は間違いない)は、完全に現在の通信事情の感覚で「作り話」を書いてしまっており、その事実はいとも簡単に証明できてしまう。
つまり、この「第13便」の中で描かれているイエンドジェイェヴィツは、まさに、「悪気はないけれども、ちょっと気が早くてうっかり者」と言うような、そんなキャラクターだったからこそ、ここにこうして初登場するに至った訳なのである。たとえば、仮にこれがバルチンスキであれば、彼なら実際にビアウォブウォツキの死に顔でも確認しない限り、「追悼の賛辞を通信宛に書き」などと言う早とちりな真似はしないだろう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#3. |
「――喜ばしいニュースは、慰めを望む心には、より簡単に沁み込むものだ、だから僕らは、人々が最後に言った事が本当らしいと結論付けた。それで、僕は涙で腫れあがった瞼を乾かし、君に尋ねるためにペンを取り上げたと言う訳だ、君は生きているのか、それとも死んでいるのかと!――もしも死んでいるのなら、どうか僕にそう知らせてくれたまえ、そしたら、僕はその由を料理番に教えてやらねば、なぜなら彼女は、その事を聞いて以来ずっと祈り続けているからだ。――それがキューピットの矢になるかもしれないしね」 |
普通であれば、「もしも生きているのなら、どうか僕にそう知らせてくれたまえ」と書くところを、ショパンはわざと「もしも死んでいるのなら、どうか僕にそう知らせてくれたまえ」と書いている。いわゆるブラック・ジョークと言うやつだが、まるで落語みたいな調子だ。
ショパンがこんな事を言えるのも、この時点で彼がビアウォブウォツキの生存を確信していたからで、おそらく間違いのない関係者から、その正しい情報がもたらされていたらしい事を示している。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#4. |
「;彼女は老齢のご婦人で、僕らのユゼフォーヴァの事だよ、とは言うものの、君がワルシャワにいた時、君は彼女に強い印象を与えていたから、(君が死んだと聞いてから)ずっと以下の事を復唱している;“なんと若い紳士だった事でしょう! ここへお出でになる他の全ての若い紳士達よりもハンサムでした!;ヴォイチェホフスキさんもイエンドジェイェヴィツさんも、決して彼ほどハンサムではありません、どちらも決して!――神よ! 彼は以前いたずらをして、市場からキャベツを盗んで全部食べてしまった事がございます!”...ハ、ハ、ハ、ハ! 栄誉ある挽歌だ! ミツキェヴィツがここにいないのが残念だ、彼がいたら“料理番”と言うバラードを書いてくれたろうに。」 |
※
ソウタンの註釈によると、「ヴォイチェホフスキ」は、「多分、ティトゥス・ヴォイチェホフスキ(Tytus Woyciechowski)、ミコワイ・ショパンの寄宿生、作曲家の学友で、最も親しかった友人。」とある。
ソウタンはこのように註釈しているが、それは単に、カラソフスキーがすでに彼の伝記の中でそのように流布し、作り上げていたイメージをなぞっているに過ぎず、実際は、まだこの時点では、ヴォイチェホフスキはショパンにとってさほど親しい友人ではなかった。
今まで13通の「ビアウォブウォツキ書簡」を読んできて、尚且つ、シャファルニャやライネルツからの「コルベルク書簡」や「マトゥシンスキ書簡」をそれと読み比べてみてきて、そのどこに、ヴォイチェホフスキの入り込む余地などあっただろうか? 彼の名は、過去にたった一度だけ、1823年の「マリルスキ書簡」で触れられていただけで、そこですらショパン個人との親密さを窺わせるようなニュアンスは微塵も見られなかった。
また、今までの「家族書簡」の中でも、ビアウォブウォツキの名は家族ぐるみで何度も出てきていたのに、ヴォイチェホフスキの名は一度も出てきていなかった。その事実を鑑みても、この当時のショパンにとって、ヴォイチェホフスキが、ビアウォブウォツキはおろか、コルベルクやマトゥシンスキ、あるいはバルチンスキにすら及ばない存在だった事は明白なのである。
当時のショパンにとって、ビアウォブウォツキこそが文字通り「唯一無二」の存在であって、それと同等の親友が並列に存在し得た訳がないし、そのような痕跡もどこにもなかった。
実を言えば、これはあとで説明するが、ショパンとヴォイチェホフスキとの友情は、今回の「ビアウォブウォツキ死亡説事件」をきっかけに、初めて芽生えていたのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#5. |
「――しかし、そんな話は脇へ置いて、本題に移ろう;我々の家が病魔に襲われている。エミリアが寝込んでからすでに4週間が経つ、咳をして、血を吐き始めたので、ママが驚いている。――そこでマルツ先生は血を吸い出す事を命じた。1回、2回とヒルを貼ったが、何も効果がなく、ハエ取り紙、芥子軟膏、トリカブト、恐ろしい、恐ろしい!...この期間中、彼女は何も食べなかった:見間違える程にやせ衰えてしまった。今になってやっと気持ちを落ち着ける状態になった。――僕たちの家で何が起こっているか、君の想像に任せる。僕には説明する事ができないので、想像してくれたまえ。」 |
※
以下、ソウタンの註釈による。
1.
「エミリア」は、「ショパンの最も年下の妹、エミリア、1813年生まれ − 1827年4月10日、肺炎で死去。優秀な能力を示していた。」
2.
「マルツ先生」は、「第11便」でも註釈されていた、「ヴィルヘルム・マルツ(Wilhelm Malcz、1795−1852)。ショパン家の主治医(ホーム・ドクター)。」
3.
「ハエ取り紙」は、「昆虫などの ハエ取り紙、所謂、所謂、スペイン・ハエ、肌に腫を発生させる。」
4.
「芥子軟膏」は、「ノハガラシの種の摺り粉、治療のやめに皮膚を刺激させる薬剤。」
5.
「トリカブト」は、「植物で、皮膚上に発生した腫を治療するためのもの。」
ショパンはここで、「しかし、そんな話は脇へ置いて、本題に移ろう」と前置きしている。
今までの話はジョークとして書いていたが、それ以降の話は冗談では済まされない。
ショパン家の人々は、ヴィブラニェツキ家の人々と家族ぐるみで仲が良かった。だからショパンは、ビアウォブウォツキ宛の手紙の中で、何度も「ママとパパと、子供達」という言い方で追伸の挨拶を贈っていた。また、ビアウォブウォツキはワルシャワきっての「ハンサム」だったから、料理番の「ユゼフォーヴァ」だけでなく、ショパン家の姉妹達からも憧れの対象として見られていたかもしれない。
したがって、ショパンにとっては妹のエミリアの病状悪化はそれこそ一大事だが、それはビアウォブウォツキにとっても同じ事だと言う共通の認識があった。だからショパンは、このように事細かに状況を報告している訳なのだが、と言う事は、この時点ですでに、もはやエミリアの病状について、「最悪の事態」が予想されていたと言う事なのである。
だからショパンは、「僕には説明する事ができないので、想像してくれたまえ」という言い方で、遠回しにその事をほのめかしているのだ。
そして、このちょうど1ヵ月後の「4月10日」に、エミリアはそのまま亡くなってしまう。
まだ、たったの14歳だった。
ソウタンの註釈では「肺炎」と書かれているが、現在では、後にショパンの命を奪ったのと同じ「肺結核」だったと言われている。
彼女については、次回、またあらためて書きたいと考えている。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#6. |
「さあ、ここから話題を変えよう。 ――謝肉祭のカーニバルが終わってしまった、それも寂しくだ。――ベニック老人が亡くなった。君ならパパの悲しみが想像つくだろう!――彼の娘のクレメンティナはダウビシェフに嫁入りしたが、彼と9ヶ月も結婚生活を続ける事ができずに亡くなった。――何から何まで悲しい出来事で僕らの家は覆われている。」 |
※
ソウタンの註釈によると、「ベニック老人」は、「ヤクブ・ベニク(Jakub Benik)、ワルシャワ造幣局の購買係り、作曲家の妹イザベラのゴッド・ファーザー(代父、名親)。」とある。
「話題を変えよう」と言いながら、さらに悲報が続く。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#7. |
「――最後のとどめは地獄からの言葉だ、どこから来たのかは分からないが、君が死んだと言う知らせだ、それは僕に、涙だけでなく、お金も浪費させた。――当然、そんな話を聞かされたもんだから(君が僕の死を聞かされたらどうなるか、想像してみてくれ)――(追記、ちなみに僕は生きているよ)――あまりにも泣きすぎて頭痛に襲われ、そのまま朝の8時になってしまった。11時頃にイタリア語の先生が来たけど、レッスンができなかった――これですでに数ズローチ無駄にした(ヴォイチェホフスキとヴェルツが心配している);それで彼らから、気分を変えるために翌日劇場へ行くべきだと言われた。それでさらに数ズローチの出費だ!――そんな訳だから、君が死んだのかどうか、僕に書いてくれてもいいだろう、手紙を待っているよ、僕はこれ以上書けない、なぜなら、もう4時だ。 キスしてくれたまえ、親愛なるヤシ。 F.F.ショパン 」 |
※
ソウタンの註釈によると、「イタリア語の先生」は、「リナルスキ(Rinalski)の事ではないだろうか? 中央音楽院のイタリア語教師。」とある。
※
また、「ヴェルツ」は、「多分、カロル・ヴェルツ(Karol Weltz)の事で、ヴォイチェホフスキの義理の兄弟、ショパン家の寄宿者、ビアウォブウォツキの高校時代の学友。」とある。
さて、今回の「第13便」は、その全ての記述が示唆に富んでいるが、中でも私が最も注目したいのはこの箇所だ。
ここには、見落とせない重要な点が2つある。
1.
1つは、実はこの「第13便」と言うのは、本来であれば、ショパンが決して書かないはずの文章が書かれていると言う事。
2.
もう1つは、これがショパンとヴォイチェホフスキとの友情のきっかけになっていたと言う事。
まず、最初の項目。
「本来ならショパンが書かないはずの文章」と言うのは、要するに、「ショパンが大きな悲しみに遭遇した時の身の処し方」についての文章の事である。
ショパンは、親しい人の死や失恋など、そのような大きな悲しみに遭遇した時、その時に自分が取った言動その他を、決して具体的に文章に書き残すような事はしない。それにも関わらず、今回に限ってそれを書く事を可能にしたのは、「ビアウォブウォツキが死んだ」という誤報を彼が一時的に信じてしまったがために、平たく言えば、「今だから笑い話で言えるけど…」と言うパターンに嵌まってくれたお陰なのだ。
結局は誤報だったとは言え、しかし実際にそれで「みんなで泣きじゃくった」のは紛れもない事実で、ショパンはそのあとも「泣きすぎて頭痛に襲われ」、そのせいで夜も寝られず、翌日の家庭教師にも無駄足を運ばせてしまう訳だが、このような話は、もしも本当にビアウォブウォツキが死んでしまっていたら、ショパンは決して手紙になど書かない事なのである。そもそも書く相手がいないし、もちろん、その悲しみを手記に書き残そうなどとは考えもしない。
たとえば、ショパンはパリに移住後、同じくパリに移住したマトゥシンスキと一時同居生活を送った事もあるのだが、そのマトゥシンスキが病気で倒れた時、ショパンは付きっ切りで彼を看病し、結局はそのまま親友を看取る事になってしまう。その際、ショパンがどうなったかと言うと、数日間「虚脱状態」に陥っていたのである。
もちろん、この時ショパンは、そんな自分自身の状態なり状況なりを、誰かに手紙で報告したりなどしていないし、その悲しみを手記に書き残そうなどともしていない。この時のショパンの「虚脱状態」を友人宛の手紙に報告したのは、ジョルジュ・サンドである。
また、ショパンの父ニコラがワルシャワで亡くなったと言う知らせを受けた時も、ショパンはマトゥシンスキの時と全く同じような状態に陥り、一人で家に閉じこもってしまった。その時もショパンは、それを誰かに手紙で報告するような事はしていないし、もちろんその悲しみを手記に書き残そうなどともしていない。その時も、ショパンのそんな状態を友人宛の手紙に報告したのはジョルジュ・サンドだった。
つまり、もしもビアウォブウォツキの死が誤報でなく本当だったら、今回の「第13便」は最初から書かれ得なかった、これはそう言う手紙なのである。
その証拠に、この1ヵ月後にエミリアが亡くなり、さらに1年後にはビアウォブウォツキも本当に亡くなってしまう訳だが、ショパンはそれらの事実についてコメントする文章を、何一つとして書き残してはいない。すなわちそれが、大きな悲しみに遭遇した時のショパンの身の処し方なのである。
そしてそれは、何も親しい人の死に対してだけではない。失恋に対しても同じ事である。
たとえば、ショパンが現実に経験した失恋は2つある。
1. 1つは、婚約までいったマリア・ヴォジンスカで、
2. もう1つは、9年間同棲していたジョルジュ・サンドである。
どちらの場合も、ショパンはその失恋の悲しみについて、何か具体的なコメントを書き残してなどいない。
※ 厳密に言えば、マリア・ヴォジンスカとの婚約が破棄された時、ショパンはフォンタナ宛の手紙で、ヴォジンスキ家からその最後通告を受け取った由をほのめかす報告をし、その落胆ぶりを「ため息」と言う言葉で間接的に表現している。しかし、直接的には、その具体的な内容については一切触れていない。
これで、私が再三に渡って、元々が筆不精のショパンは、決して日記や手記を書くようなタイプの人間ではないのだと言っていた事の意味が、少しはお分かり頂けたのではないかと思う。ショパンは決して、告白や独白の類を具体的に文章に書き残そうと考えるような人間ではないのだ。
※ だから、ワルシャワ時代のコンスタンツィヤ・グワトコフスカへの横恋慕と言うのは、カラソフスキーの創作したでっち上げなのである。ショパンは、実際はヴォイチェホフスキ宛の手紙にそんな事は書いていない。そもそもショパンがあのような文章を書くはずがない。あれはカラソフスキーが勝手に加筆改ざんしたものだ。
※ 同様に、ショパンは、ウィーン時代にはマトゥシンスキ宛に手紙など書いていない。ショパンがあのような文章を書くはずがないし、あの手紙は時代考証の観点からも存在し得ないものだ。あれは全てカラソフスキーが書いた贋作である。
※ 同様に、ショパンは「シュトゥットガルトの手記」も書いてはいない。あれはタルノフスキーとチャルトリスキ家の関係者による捏造である。ショパンは決して、事実確認もしていないのに想像と憶測だけであんなものを書き残そうとするような人間ではないし、そもそも手記の執筆など、ショパンが大きな悲しみに遭遇した時の身の処し方とは完全に相容れないものである。ショパンはそのような時、ただただ何もできず、「虚脱状態」に陥る以外に成す術のない、そう言う人間なのだから。
次は2番目の項目。
この箇所には、先ほどの「ユゼフォーヴァ」の証言に引き続き、今度はショパン自身の証言によって「ヴォイチェホフスキ」の名が登場する。しかもショパンは、ここでは「ティトゥス」と言うファースト・ネームではなく、(ヴォイチェホフスキ)と名字で書いている点を見落としてはならない。
1823年にショパンが初めて書いた「マリルスキ書簡」でも彼の名は登場していたが、あの時はこうだった。
ショパンからペンチーツェのマリルスキへ[ワルシャワ、1823年9月] |
「僕が君に話した事をヴェルツにも伝えて、彼とティトゥスにどうぞ僕からよろしくと伝えてくれ給え。ビアウォブウォツキは土曜日にワルシャワに来た。彼は火曜日に名前を記入して水曜日に帰って行ったが、学期の間には戻ってくるだろう。」 |
ここに登場している人物達の交友関係を厳密にすると、マリルスキ、ヴェルツ、ビアウォブウォツキの3人が同世代の学友達であり、ヴォイチェホフスキだけはショパンと一つしか違わないので、世代的にはショパン寄りである。
ヴォイチェホフスキはヴェルツの義兄弟なのだが、この「マリルスキ書簡」にしろ、今回の「ビアウォブウォツキ書簡・第13便」にしろ、ヴェルツとヴォイチェホフスキは必ずセットで登場している。要するにこの2人は、義兄弟であるにも関わらず、どうやら非常に仲がいいらしく、常に一緒につるんでいると言う事なのだ。
そしてヴォイチェホフスキは、「マリルスキ書簡」では「ティトゥス」と書かれている事から、彼はマリルスキとは親しかったらしい事が分かる。
しかし、一方の「ビアウォブウォツキ書簡」では(ヴォイチェホフスキ)と書かれているため、彼はビアウォブウォツキとは特に親しくなかった事が分かる。と同時に、ショパンが彼の名を(ヴォイチェホフスキ)と名字で書く事からして、当時のショパンとビアウォブウォツキとヴォイチェホフスキの三角関係がどのようなものだったか、それがはっきりと浮かび上がってもいるのである。
そして、ここで最も重要な事は、そのティトゥス・ヴォイチェホフスキが、この時、ショパンがビアウォブウォツキに死なれて泣き暮れ、すっかり意気消沈してしまっているその姿を目の当たりにしていたと言う事実である。そしてさらに、そんなショパンに向かって、「気分を変えるために劇場へ行くべきだ」とアドヴァイスしていたと言う事実である。
ここに、ヴォイチェホフスキと言う人物の全てが凝縮されていると言っていい。
彼は、ややもすると冷淡とも受け取られるほどの沈着冷静さでもって、その都度、的確なアドヴァイスを送る事のできる、言わば兄貴分的なキャラクターの持ち主で、精神的に頼りになる、そんな人物だった。しかも彼は、ビアウォブウォツキに次いで「ハンサム」だった。
こう言った彼の人物像は、ほとんどのショパン伝で同様に繰り返されてきた統一見解とも言えるイメージであり、私も特に異論はない。
つまり、この時ショパンは、ビアウォブウォツキの死をきっかけに、そんなヴォイチェホフスキの男性的な魅力に初めて触れ、それによって、彼に対して気持が急接近していったと言う事なのだ…と言う書き方をすると、また変な誤解を招きそうだが、要するにそう言う事なのだ。
その証拠に、このあと今年1827年の夏にコヴァレヴォから書いた「家族書簡」には、例年であればビアウォブウォツキの名が登場するはずなのに、そこに彼の名はなく、その代わりに、「ティトゥス」の名が初めて「家族書簡」に登場する。そして、ビアウォブウォツキの死が1828年の春に現実のものとなってしまって以降は、その年の夏からポトゥジンの田舎に引っ込んでしまったヴォイチェホフスキとショパンの間で、あの「有名な文通」が開始されるのである。
この友情の交代劇は、紛れもなく、「ビアウォブウォツキの死」なくしては、断じてあり得なかった。
そして、それ以降に始まる「ヴォイチェホフスキ書簡」を読んで、誰もが等しく抱く感想…つまり、あたかもヴォイチェホフスキが、ショパンの女性的な傾向に一歩距離を置いているかのように見える、あの妙な「感じ」は、実はそう言った同性愛的な話ではなく、ヴォイチェホフスキが、自分はショパンにとって、所詮、「亡きビアウォブウォツキの身代わり」でしかないのだと、薄々そう感付いている…と言う事に他ならないのである。
もしもヴォイチェホフスキが、今回の「ビアウォブウォツキ死亡説事件」の現場に遭遇していなかったら、ひょっとするとそんな事には気付かなかったかもしれない。しかしヴォイチェホフスキが、後にショパンの示す愛情なり友情なりに対して、それをそのまま素直に受け入れられないでいるような、あの妙な「感じ」について我々が考える時、ショパンが同性愛者で、ヴォイチェホフスキがそれを嫌っているのではないとすれば、この説明以外にはどうしても理屈の合わない話なのである。
それほど、ショパンがビアウォブウォツキの死を嘆き悲しむ姿は、ヴォイチェホフスキの目に、何か特別な、強烈な印象を残していたはずなのだ。
ヴォイチェホフスキは、ニコラの経営する寄宿学校の生徒なのだから、当然、身近でずっとショパンを見続けてきていた。だから当然、ショパンとビアウォブウォツキとの関係も熟知していた。それでも、現在とは違って、当時は世界中のいたるところで戦争や暴動が絶えず、医学も今ほど進歩していなかったから、「人の死」と言うものがもっと身近にあった。そんな時代にあって、普通男と言うものは、たとえ友人の死ではあっても、あそこまでひどく泣き暮れたりはしないものだ。少なくともヴォイチェホフスキのようなタイプの男性は、そう言う認識を持ってあの時代を生きていたはずなのである。
ショパンは、ビアウォブウォツキを失った事によって、ぽっかりと空いてしまった心の隙間を埋めるものを、そのままヴォイチェホフスキに投影し、自分でも無意識のまま、それを彼に求め続けてしまっていたのだ。ヴォイチェホフスキの持つキャラクターとは、内面的にも外面的にも、ショパンがそれをするには正に打って付けだったのである。その役目は、たとえばコルベルクやマトゥシンスキのような既存の友人達ではとても勤まらない。それが勤まらない事は、すでにビアウォブウォツキの生前に証明されている。
そう言った事を、他でもないヴォイチェホフスキ本人が、違和感として感じ取ってないはずがないのである。だからこそ、「ビアウォブウォツキ書簡」がはっきりと相思相愛だったのに対して、「ヴォイチェホフスキ書簡」がショパンの片思いにしか見えないのである。
つまりそれが、ショパンにとっては同じ「唯一無二の親友」でありながら、ヴォイチェホフスキがビアウォブウォツキとは決定的に違うところなのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#8. |
「ブルンネルが、近々ヴィスワ河を利用してコラレオンを送り届ける事を考えている;これを僕が止めさせるべきかどうかを書いて欲しい。なぜなら、かのドイツ人は何をすれば良いのか分かっていないから。君のパパが彼に書くのがベストであろう。」 |
「コラレオン」と言う新種のオルガン系楽器については、「ビアウォブウォツキ書簡」で再三に渡って言及されてきていたが、ソウタンの註釈にも「コラレオンは1827年の第一四半期にドブジン村に納品されている(多分、3月の後半)」とあったように、やっとこの時点で完成していたようである。
ただ、ブルンネルは、それをワルシャワからドブジンへ運ぶのに、どうしたものかと思案していたらしい。
この楽器はもはや原物が残っておらず、文献資料から想像するしかないが、そこそこ大型のものであったらしい事が察せられる。それを馬車や荷車で遠距離輸送するのは、色々な意味で問題があったのだろう。特に、当時の道は現在のように舗装されていなかったから、運搬の際に楽器に与える振動や衝撃は決して小さなものではなかっただろうからだ。その点、船であればその心配は少なくなると考えたのかもしれない。
ただし、ショパンはその考えに不安を抱いていたようだ。しかしながら、それが具体的にどのような事だったのかまでは、ちょっと分からない。「ヴィスワ河」と言うのが、そんなになだらかな河ではなかったのだろうか?
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#9. |
「復活祭の礼拝が終わる頃には、みんなが君に抱きついてるよ。」 |
前年の[1826年5月15日 月曜日]付の「第9便」の時にも触れたが、「復活祭」は、春の満月後の最初の日曜日(国によっては翌日の月曜日まで休日)で、その名の通りキリストの復活を祝う日で、クリスマスと並ぶ大きな祭日。これらは移動祝祭日なので、毎年違う日付になる。
昨年1826年の復活祭は、その「第9便」の日付から逆算して7週前の日曜日に当たるので、つまり「1826年3月26日(日曜日)」だった。
※
ちなみに、1827年の3月26日(月曜日)は、ベートーヴェンが亡くなった日である。
今回ここで言及されている今年1827年の「復活祭」が正確にいつだったのかは分からないが、いずれにせよ、毎年3月22日から4月25日まで間の日曜日のどれかになる。
ショパンは、その「復活祭の礼拝が終わる頃には、みんなが君に抱きついてるよ」と書いている訳だが、これはおそらく、キリストの復活にビアウォブウォツキの全快を重ねてこのように表現しているものと思われる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第13便#10. |
「パパに僕からよろしくと。」 |
最後に書かれている「パパ」とは、ビアウォブウォツキの継父ヴィブラニェツキ氏の事である。
本来なら「君のパパ」と書くところを、ショパンは、あたかも自分の父親同然のごとくに、このように書いて追伸の挨拶を贈っている。
このような例は「第11便」にもあったが、ただし「第11便」の時は、ショパンはヴィブラニェツキ氏の事を「我々のパパ」と書いていた。と言うのも、あの時は、「ジヴニー氏、デケルト夫人、その他の人たち皆が君によろしく」と、みんなが追伸の挨拶に名を連ねていたからだ。
しかし今回は、「その他の人たち」が追伸の挨拶に名を連ねていない。だからショパンは、ここでは単に「パパ」という言い方をしている訳なのだが、そこでちょっと気になったのは、なぜ今回の「第13便」では、誰も追伸の挨拶を贈っていないのか?と言う事なのだ。
たとえば、このように追伸の挨拶に「その他の人たち」や家族からの挨拶が書かれていない場合と言うのは、ショパンがその手紙を書いている所に誰もいないか、またはショパンがワルシャワ以外の場所で手紙を書いているか、もしくは、ショパンが手紙を書いている事を誰にも知らせていないか…、そう言った事を意味している。
そのような例は、過去に以下のものがあった。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第1便「[ワルシャワ]1825年7月8日金曜日」 |
「ジヴニーとデケルト夫人は元気です。彼らは僕が君に手紙を書いている事を知らない。だからメッセージを送りません。」 |
ショパンからビアウォブウォツキへ 第7便[ジェラゾヴァ・ヴォラ 1825年12月24日 土曜日] |
「僕が手紙を書いている事を知ったら、家族皆が君に挨拶を送るだろう。」 |
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便[ワルシャワ 1826年6月] |
「ママと同じように、パパや姉妹達、彼らと同様に、知人達も(君に)挨拶を送るよう僕に命令している。ルドゥヴィカのみが君に何も挨拶を送らない。なぜなら、2週間前から田舎のスカルベク夫人の館で過ごしているからだ。」 |
上記の3通では、きちんとその由が説明されているが、これ以外にも、「第3便」のように、何の説明もなしにみんなからの追伸の挨拶がない場合もある。あの時は、ショパンがビアウォブウォツキに会うためにソコウォーヴォを訪れたにも関わらず、両者が行き違いになってしまったが故の置手紙だったので、当然その場には、追伸に名を連ねるべき人は誰もいなかったからだ。
そして、今回の「第13便」も、ワルシャワで書いているにも関わらず、みんなからの追伸の挨拶がなく、その由も説明されていない。つまり、今回のショパンも、この手紙を誰もいないところで書いているか、もしくは手紙を書いている事を誰にも知らせていないと言う事なのである。
さて、それでは、今回の場合は、なぜそうなったのだろうか?
これは言うまでもなく、手紙の内容に問題があったからだ。
なぜならショパンは、「エミリアが寝込んでからすでに4週間が経つ」と言うような状況であるにも関わらず、彼はビアウォブウォツキを相手に、「ビアウォブウォツキ死亡説事件」についてブラック・ジョークを飛ばしながら、「ハ、ハ、ハ、ハ!」とやっていたからである。
ショパン自身がビアウォブウォツキに、「僕たちの家で何が起こっているか、君の想像に任せる」と、エミリアの病状について「最悪の事態」をほのめかしている事からも分かるように、要するにこの時のショパン家は、そのような不謹慎なブラック・ジョークが通じるような状況にはなく、文字通り「洒落にならない」状態だったからである。
だからショパンは、このような手紙を書いている事を、誰にも内緒にしていたのだ。
ショパンのこのような感性は、まさに典型的な芸術家タイプの人間のそれと言えるものだ。
このようなタイプの人間は、喜怒哀楽のどのような状況に置かれていても、必ず、どこかでそれを客観視している自分がいて、その際に感じ取った特異な印象を、自分の芸術作品に昇華させないではいられないものだ。逆にそう言う感性の持ち主でないと、誰もが当たり前のように見過してしまうような事に対して、新しい発見を見出したり、それまでとは違った価値観を提示してみせる事など到底できはしないのである。
真の芸術家とは、そのように因果な生き物なのだ。
さて、今回の「第13便」は、結果的にショパンがビアウォブウォツキに宛てた最後の手紙となった訳だが、それでは、なぜこの手紙が最後になったのだろうか? その前に、これは本当に最後の手紙だったのだろうか? この点について考察しなければ、実はこの手紙を読んだ事にはならないのである。
この手紙が書かれていた時点では、あくまでもビアウォブウォツキの死は誤報だったのであり、彼が本当に亡くなるのは「1828年3月31日」なので、まだ1年ちょっと先の話である。その1年もの間、本当にショパンはビアウォブウォツキに手紙を1通も書いていないのだろうか? 果たしてそんな事が考えられるだろうか?
ちなみに、ショパンがこれ以降、この1827年中に書いたと思われる手紙は、現在たったの2通しか知られていない。
1.
1つはコヴァレヴォから家族に宛てた手紙であり(※この時ショパンは、他にも数通出していた事が文中に書かれているが、それらは現在確認されていない)、
2.
もう1つはマトゥシンスキに宛てた短い伝言メッセージである。
いずれも日付が記されていないので推定だが、おそらく1827年中に書かれたものと考えて間違いないだろう。
その間、ビアウォブウォツキ宛の手紙は1つもなく、この2通にも彼の名は出てこない。その後、ビアウォブウォツキは翌年の「1828年3月31日」に本当に亡くなり、その死から約半年後の「1828年9月9日」には、最初の「ヴォイチェホフスキ書簡」が登場する。もちろん、その手紙の中でもビアウォブウォツキについて触れられる事はなく、彼の名は、ショパンの書簡資料から完全に消え去る。エミリアの名も同様である。
私の考えでは、この「第13便」を最後に、ショパンはもうビアウォブウォツキには手紙を書いていない。
おそらく、書かなかったと言うよりは、書く必要がなくなっていたと言った方が正確だろう。
つまり、書く必要がないという事は、すなわち、ショパンとビアウォブウォツキが会っていたと、そう言う事に他ならないのである。
私がそう考える根拠は、至って常識的な事柄に基づいている。
なぜなら、この「第13便」から1ヵ月後に、エミリアが亡くなってしまうからだ。
そして、そのエミリアの葬儀が執り行われた際、間違いなくビアウォブウォツキは、その葬儀に参列するために、約2年振りにワルシャワを訪れていたはずだからである。そしてその際、もちろんショパンとの再会を果たしていたはずだからである。
ショパン家とヴィブラニェツキ家は、家族ぐるみで仲良く交際していた。つまり、ヴィブラニェツキ氏やコンスタンチア嬢、そしてビアウォブウォツキにとっても、言うまでもなくエミリアは家族同然の存在だった。そのエミリアが亡くなったのである。それなのに、その葬儀に、ヴィブラニェツキ家の全員が揃って参列しないなど、どうしてあり得るだろうか? 常識的に考えても、また、ヴィブラニェツキ家の人々の人間性を考えても、絶対にあり得ない事なのである。
そもそも、ビアウォブウォツキが足を患ってからずっとソコウォーヴォに引きこもってしまい、それ以来ただの一度もワルシャワを訪れようとしなかったのはなぜなのか?
彼は、ビショフスヴェルダーなどへ転地療養には出向いていたのだから、決してソコウォーヴォを出られなかった訳ではない。
また、その間に、継父ヴィブラニェツキ氏や姉のコンスタンチア嬢は、個別にワルシャワのショパン家を訪れていた。その事は、ショパンの手紙の中でも書かれていた。それなのに、ただ一人ビアウォブウォツキだけが、決してワルシャワを訪れようとはせず、そればかりか、ついには、ショパンに対してソコウォーヴォへも来るなと言い出す始末だった。
これは、彼がソコウォーヴォへ引きこもった理由が、もちろん最初は転地療養のためだったからではあるのだが、しかし、その甲斐もなく病状が悪化する一方だった事もあり、次第に、そんな自分の惨めな姿を、人前にさらしたくないと考え始めていたからなのだ。
あれほど「ハンサム」と誉れ高かったビアウォブウォツキが、松葉杖で足を引きずっている姿を…、あるいは、車椅子で移動しなけらばならないような、そんな姿を…である。
ところが、今回のように、エミリアの訃報を受け、その彼女の葬儀に参列するためには、もはやそんな事は言ってられないだろう。おそらく彼は、そのためにワルシャワを訪れる事には何の躊躇もなかったはずである。仮に、地理的な事情で葬儀には間に合わなかったとしても、間違いなく墓参りには訪れていたはずである。そして、そうやってショパンを始めとする旧知の友人知人達と再会したのをきっかけに、彼も、そう言った病人のコンプレックスから少しは解放されていたのではないだろうか。
それで、ビアウォブウォツキはしばらくの間、ワルシャワに戻っていたのではないかと想像されるのである。
と言うのも、彼はこの年の暮れの「1827年12月28日」付で、ヴィブラニェツキ氏に宛てて手紙を書いており、それはどの土地から出された手紙なのかは分からないが、その記述から察するに、ワルシャワからソコウォーヴォへの手紙だった可能性も考慮され得るからである。
いずれにせよ、ショパンが1年近くもビアウォブウォツキに手紙を書かないなどと言う事は考えられず、もしもそんな事があり得るとしたら、それは、彼らが手紙をやり取りする必要のない状況にいたから以外には、とうてい考えられないのである。
だとすれば、その状況を促したのが、皮肉な事ではあるが、エミリアの死だったと言うのは、極めて自然かつ常識的な流れだろう。
次回は、そのエミリア・ショパンについて考えてみたいと思う。
[2011年1月13日初稿 トモロー]
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