検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II-

 


4.ラジヴィウ公爵邸にて/グワトコフスカは理想の人ではない―

  4. At the Prince Radziwill's Palace/Gładkowska is not ideal-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 序奏と華麗なるポロネーズ(2台ピアノ版)▼≫
 

今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第6便」である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第6便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

18291114日、土曜日、ワルシャワにて

最も親愛なるティトゥス

僕は、君の一番新しい手紙をアントニンのラジヴィウ邸で受け取った。僕はそこに1週間いたが、その時間がどれほど早く、また楽しく過ぎて行ったか、君は考えられまい。僕は前の郵便馬車で旅から帰って来たが、抜けて来るにはずいぶん苦労したよ。僕自身としては、追い出されるまで滞在できたのだが、僕の仕事が、取り分けまだ終楽章を待ちくたびれている僕の協奏曲が、僕にこのパラダイスを去る事を強制したのだ。

親愛なるティトゥス、あそこにはイヴの娘が二人いて、その若いお姫様達は愛想が良くて、音楽の才能があり、そして親切だ;彼女達の母親である公爵夫人は、人間の価値は家柄に依存するものではない事をよく知っていて、非常に上品で、誰に対しても愛想が良く、彼女を尊敬しないではいられない。

君も知っての通り、公爵は何という音楽愛好家だろう。彼は、僕に自作の《ファウスト》を見せてくれたのだが、僕はその中に、本当に美しいものをたくさん見つけた;いくつかのパートは、本当に、かなりの才能を示している。ここだけの話、そのような音楽が一総督によって書かれたなんて、僕にはまったく信じられないね。取り分け僕が心を打たれたのは、メフィストフェレスがマーガレットを窓辺に誘うシーンで、彼女の家の外でギターを弾きながら歌うのだが、その間、同時に近隣の教会から賛美歌が聴こえてくるんだ。これは大変なセンセーションを巻き起こすに違いない。僕は君に彼の音楽スタイルのアイディアを伝えたいが、ただこんな事に言及するのみだ。彼はグルックの偉大な崇拝者でもある。オペラ音楽についての彼の考えは、その唯一の役割は、シチュエーションや感情を描写する事にあるのだと;したがって序曲には結びがなく、直接イントロダクションにつながっている。オーケストラはステージの後方に置いて常に見えないようにし、それで、指揮者や演奏者達の動作その他によって聴衆の注意がそがれないようにしている。

ラジヴィウ公爵を訪問中、僕はチェロの伴奏を伴った「アラ・ポラッカ」を書いた。それは貴婦人向けの、華麗なる上流階級のサロン用の小品に過ぎない。僕はワンダ姫がそれを練習しているのが好きだ。彼女にレッスンしてあげたいと思っている。彼女は17歳の美しい少女で、だから彼女のデリケートな指を導くのは魅力的だ。しかし冗談はさておき、彼女は本当に音楽的な感性を持っていて、だから、どこでクレッセンド(だんだん強く)、ピアノ(弱く)、ピアニッシモ(とても弱く)と弾くべきかなんて、言う必要がないんだ。エリザ姫は僕の《へ短調のポロネーズ》*このポロネーズは遺稿集の中で作品71として発表されている]に夢中で、僕が君の手からそれを取り戻して献呈するのを断れなかった。だから、どうか折り返し郵送してくれたまえ。僕は無礼者と思われたくたいし、かと言って、記憶を頼りにもう一度楽譜を書きたくもないのだ。たぶん元のとは違うものになるからだ。僕が彼女のために毎日あの《ポロネーズ》を弾かなければならない事から、君にもこのお姫様の性格が想像できると思う。変イ長調の中間部が特にお気に入りなんだ。彼女は僕に、5月にベルリンへ来るように望んでいて、それなら、僕が冬にウィーンへ行く妨げには何もならないだろうと。12月前には出発するべきだが、どうもそうなるようには思えない。パパの命名日が6日だから、いずれにせよ、彼と一緒にいるだろう。僕は12月の中旬まで出発の事は考えない。その上僕は、君に会いたいとも思っている。

僕が今、ワルシャワでどんなに虚ろでいるか、君には信じられないだろう。僕には、打ち明け話をできるような人が一人もいないのだ。君は僕の肖像画を一つ欲しがっていたね。エリザ姫が彼女のアルバムに2枚持っているので、もしも彼女から盗み出す事ができたら必ず君に送ろう。保障するが、とてもよく似ているよ;しかし我が最愛の人よ、君には僕の肖像画なんか必要ない。信じてくれたまえ、僕はいつも君と一緒にいて、僕の人生が終わるまで決して君を忘れないのだから。

僕にもう一度、君に《ポロネーズ》の事を思い出させてくれ;折り返し送ってくれたまえ。僕は練習曲をいくつか書いた;君の前で上手に弾かなければならないだろう。先週の土曜日に、ケスレルがリソースで、フンメルの《ホ長調の協奏曲》を弾いた。来週の土曜日はおそらく僕が弾くだろう;僕は君に捧げた変奏曲を選ぶつもりだ。

君の忠実な

フレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

実は、ショパンがこの手紙を書く前に、アントニンのラジヴィウ公爵からショパン宛に次のような手紙が届いている。

 

■アントニンのラジヴィウ公爵から、

ワルシャワのフレデリック・ショパン■

(※原文はフランス語)

1829114

親愛なるショパン

貴君が親切にも私に献呈してくれた三重奏曲を有り難く受け取りました。貴君が早くこれを出版し、貴君がベルリンに行かれる際ポズナニに立ち寄って一緒に演奏する事ができれば、さらに喜ばしい事でしょう。親愛なるショパン、貴君の芸術が、私の音楽に対する興味と、私が貴君に抱く尊敬の念とを新たにした事を、ここにお伝えいたします。

アントニンにて ラジヴィウ公爵」

       ちなみにポーランドでは、上流階級の人間は必ずフランス語で手紙を書くのが嗜みとなっているらしい。なので、ポーランドの郵便は、たとえ本文はポーランド語であっても、宛名をフランス語で書くのが習慣となっており、ショパンやその関係者による手紙はどれもそうなっている。

       この「三重奏曲」については、私のBGM付き作品解説ブログピアノ三重奏曲 ト短調 作品8(2台ピアノ版)▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます

 

この手紙の日付は、ショパンの手紙より10日前である(※下図参照)。

 

182910

 

182911

 

 

 

 

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…が、これはちょっとおかしくないだろうか?

ショパンはアントニンに1週間」滞在していた訳だが、これではまるで、その間ずっとラジヴィウ公爵が不在だったかのように見えてしまうのだが?

と言うのも、ショパンは、ようやく完成した《ピアノ三重奏曲》をラジヴィウ公爵に献呈すべく、楽譜を携えてアントニンを訪れていたはずである。そしてそれを当地で直接手渡していたのであれば、ラジヴィウ公爵がこのような手紙をショパン宛にしたためる事になどならないはずだからだ。

ワルシャワからアントニンまでは、だいたいライネルツまでの中間に位置するので、ライネルツまで行くのに1週間を要していた事から、単純計算で34日ほどかかると見ていいだろう。と言う事は、往復に要する日数を入れて、今回の旅行にはだいたい2週間を費やしていた事になる。これは、ショパンが前回の「第5便」で予想していた日数と同じである。

ショパンはその「第5便」を書いた20日」の晩に出発しているので、そうすると、旅行から帰ってきたのは113日になり、ラジヴィウ公爵の手紙がその翌日の4日付であるから、これだと両者が完全に行き違いになっていた事になってしまう。それに、仮に本当にショパンがこのような手紙をラジヴィウ公爵からもらったのであれば、その事を、ショパンが今回の手紙でヴォイチェホフスキに報告しないと言うのも不自然だろう。

非常に奇妙である。

このラジヴィウ公爵の手紙は贋作である可能性も考えられるが、この手紙に関してはちょっと情報がないため、ここではあえて深追いしないでおこう。

 

 

【改訂の追記】

実は、あとで色々と資料を調べていて分かったのだが、私は、このラジヴィウ公爵の手紙は贋作である可能性がかなり高いと結論付けるに至った。

なぜなら、この手紙が1829114日」「アントニンにて」書かれた時、ショパンはまだ当地にいた事が証明されているからである。

今回のショパンの手紙には、ラジヴィウ公爵の2人の娘について触れられていたが、そのうちの1人である「エリザ姫」「アルバム」に描かれていると言う2枚」のショパンの肖像画のうちの1枚が、正にその1829114日」に描かれており、絵にその日付がはっきりと書き込まれていたのである。その絵は現在も残っていて、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)などで見る事ができる。

つまり、その日ショパンはまだアントニンにいたのに、どうしてラジヴィウ公爵がその同じ日にアントニンからショパン宛にあのような内容の手紙を書く必要があると言うのか? その文面もいかにも社交辞令的で、このようなものなら別に本人でなくても誰にでも想像で書けてしまうと言う点も気にかかる。

仮にショパンが4日」までアントニンにいて、それまで不在だったラジヴィウ公爵が、ショパンの出発後に入れ違いにアントニンに戻ってその日の晩に手紙を書いたのであれば、手紙には両者が行き違いになった事を嘆くなり詫びるなりのコメントが書かれていなければならないはずである。だが実際は、ラジヴィウ公爵は不在ではなく、ショパンの手紙にも「彼は、僕に自作の《ファウスト》を見せてくれた」と書かれており、両者は行き違いになどなっていない。

したがって、完全に辻褄が合っていないのである。

 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙は、両者の文章量は倍近くも違っている。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

18291114日、土曜日、ワルシャワにて

最も親愛なるティトゥス

僕は、君の一番新しい手紙をアントニンのラジヴィウ邸で受け取った。」

18291114日、土曜日、ワルシャワにて

最も親愛なるティトゥス

僕は、君がキスを送ってくれた、君の一番新しい手紙をアントニンのラジヴィウ邸で受け取った。」

 

カラソフスキー版では「君がキスを送ってくれた」と言う表現が削除されている。

これはつまり、ヴォイチェホフスキ自身はこの手紙を書き写す際、特にこの表現を検閲しなかったのに、カラソフスキーは見逃さなかった…と言う事である。

おそらく、こういった愛情表現はポーランド人にとっては普通の事だったのだ。しかし、カラソフスキーはこれをドイツ語圏の読者を対象にドイツ語に訳していた。だから彼はこれを検閲したのだろう。

 

ここで注目すべきは、この「君の一番新しい手紙」というものだ。

これは、ヴォイチェホフスキがポトゥジンから直接アントニンのショパン宛に送って来たものであり、決してワルシャワを経由して転送されて来たのではない。

先ほども書いたように、この旅は移動にかかる日数も含めて2週間」の旅である。そんな短期間では、ワルシャワに届いた手紙をわざわざアントニンへ転送する必要もないし、余計な料金だってかさむ。つまり、ヴォイチェホフスキは始めからアントニンに手紙を出していたのである。となると、その手紙は、ショパンが前回出した「第5便」に対する返事だった事が分かる。なぜならショパンは、その「第5便」でアントニン行きを報告していたからだ。

前回の「第5便」では、ショパンはヴォイチェホフスキから返事をもらっていなかった。つまり、その前の「第4便」で「理想の人」について告白した手紙に対しては、やはりヴォイチェホフスキは返事を書いていないのである。

 

ショパンがウィーン旅行から帰り、ヴォイチェホフスキと離れ離れに暮らすようになってからの2人の手紙のやり取りは、以下の通りである。

 

1.       ショパンからヴォイチェホフスキへの「第3便」 (※ウィーン訪問に関する報告)

·           「第3便」に対するヴォイチェホフスキからショパンへの返事 ⇒ ○あり (※ウィーンでの「演奏会に関する記事」を見たと書いて寄こす)

2.       ショパンからヴォイチェホフスキへの「第4便」 (※「理想の人」の告白)

·           「第4便」に対するヴォイチェホフスキからショパンへの返事 ⇒ ×なし (※来たのはヴォイチェホフスキの「兄弟」からの手紙だけ)

3.       ショパンからヴォイチェホフスキへの「第5便」 (※ラジヴィウ邸行きの告知)

·           「第5便」に対するヴォイチェホフスキからショパンへの返事 ⇒ ○あり (※直接ラジヴィウ邸へ)

4.       ショパンからヴォイチェホフスキへの「第6便」 (※ラジヴィウ邸訪問の報告)

·           「第6便」に対するヴォイチェホフスキからショパンへの返事 ⇒ ?不明 (※次の「第7便」まで4ヵ月以上ものブランクが空いている)

 

このように、この頃のヴォイチェホフスキは、彼にしてはけっこうまめに返事を出していたようだが、最も興味ある事が書かれていた「第4便」に対してだけ返事を出していない事が分かるだろう。

逆に考えてみよう。仮に、その「第4便」には、実際には「理想に人」についての告白など書かれていなかったとしたらどうだろう? そうなると、ヴォイチェホフスキにとって「第4便」は、特に返事を書くには値しないような内容だった事になるだろう。つまり、現実には正にそう言う事だったのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕はそこに1週間いたが、その時間がどれほど早く、また楽しく過ぎて行ったか、君は考えられまい。僕は前の郵便馬車で旅から帰って来たが、抜けて来るにはずいぶん苦労したよ。僕自身としては、追い出されるまで滞在できたのだが、僕の仕事が、取り分けまだ終楽章を待ちくたびれている僕の協奏曲が、僕にこのパラダイスを去る事を強制したのだ。

親愛なるティトゥス、あそこにはイヴの娘が二人いて、その若いお姫様達は愛想が良くて、音楽の才能があり、そして親切だ;彼女達の母親である公爵夫人は、人間の価値は家柄に依存するものではない事をよく知っていて、非常に上品で、誰に対しても愛想が良く、彼女を尊敬しないではいられない。

君も知っての通り、公爵は何という音楽愛好家だろう。彼は、僕に自作の《ファウスト》を見せてくれたのだが、僕はその中に、本当に美しいものをたくさん見つけた;いくつかのパートは、本当に、かなりの才能を示している。ここだけの話、そのような音楽が一総督によって書かれたなんて、僕にはまったく信じられないね。取り分け僕が心を打たれたのは、メフィストフェレスがマーガレットを窓辺に誘うシーンで、彼女の家の外でギターを弾きながら歌うのだが、その間、同時に近隣の教会から賛美歌が聴こえてくるんだ。これは大変なセンセーションを巻き起こすに違いない。僕は君に彼の音楽スタイルのアイディアを伝えたいが、ただこんな事に言及するのみだ。彼はグルックの偉大な崇拝者でもある。オペラ音楽についての彼の考えは、その唯一の役割は、シチュエーションや感情を描写する事にあるのだと;したがって序曲には結びがなく、直接イントロダクションにつながっている。オーケストラはステージの後方に置いて常に見えないようにし、それで、指揮者や演奏者達の動作その他によって聴衆の注意がそがれないようにしている。」

        ほぼ同じだが、こちらは手紙の最初から最後まで、ショパンが2度の署名をする箇所以外は一度も改行されない。

       《ファウスト》 ドイツの文豪ゲーテ(17491832)の長編詩劇『ファウスト』に、ラジヴィウ公爵が曲を付けたもの。

       「メフィストフェレス」 16世紀ドイツのファウスト伝説に登場する悪魔で、ファウストが魂を売り渡した。

       「グルック」 クリストフ・ヴィリバルト・グルック(Christoph Willibald (von) Gluck, 17141787)。神聖ローマ帝国時代のペラ作曲家。ボヘミア出身で、現在のオーストリアとフランスで活動し、オペラの改革を行なったとされている。

 

ショパンはラジヴィウ邸で音楽的な刺激でも受けたのだろうか?

当時作曲中だった「協奏曲」(※第2番 ヘ短調)について、前回の「第5便」では、「僕が旅行から戻った頃に完成させられるかどうかは疑問だ」としていたのに、急に意識が作曲へと向き、その完成を急ぎたくなったようで、それでアントニン滞在を切り上げた様子である。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ラジヴィウ公爵を訪問中、僕はチェロの伴奏を伴った「アラ・ポラッカ」を書いた。それは貴婦人向けの、華麗なる上流階級のサロン用の小品に過ぎない。僕はワンダ姫がそれを練習しているのが好きだ。彼女にレッスンしてあげたいと思っている。彼女は17歳の美しい少女で、だから彼女のデリケートな指を導くのは魅力的だ。しかし冗談はさておき、彼女は本当に音楽的な感性を持っていて、だから、どこでクレッセンド(だんだん強く)、ピアノ(弱く)、ピアニッシモ(とても弱く)と弾くべきかなんて、言う必要がないんだ。エリザ姫は僕の《へ短調のポロネーズ》*このポロネーズは遺稿集の中で作品71として発表されている]に夢中で、僕が君の手からそれを取り戻して献呈するのを断れなかった。だから、どうか折り返し郵送してくれたまえ。僕は無礼者と思われたくたいし、かと言って、記憶を頼りにもう一度楽譜を書きたくもないのだ。たぶん元のとは違うものになるからだ。僕が彼女のために毎日あの《ポロネーズ》を弾かなければならない事から、君にもこのお姫様の性格が想像できると思う。変イ長調の中間部が特にお気に入りなんだ。」

        ほぼ同じ。

       「チェロの伴奏を伴った「アラ・ポラッカ」」 これは《チェロとピアノのための序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品3の事で、この曲については私のBGM付き作品解説ブログ「序奏と華麗なるポロネーズ ハ長調 作品32台ピアノ版)▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます

       《へ短調のポロネーズ》 これは《ポロネーズ 第10番 ヘ短調 作品71-3 遺作》の事で、この曲については私のBGM付き作品解説ブログ「ポロネーズ 第10番 ヘ短調 作品71-3 遺作▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます

 

ここでは、2人の「若いお姫様達」について、いかにも青年らしい軽口を交えて書いている。

私がこの箇所を読んで奇異に感じるのは、このような話題で、例の「理想の人」が一切関連付けられて語られてこないと言う点なのだ。

もしも当時のショパンが、「理想の人」とやらに半年前から毎晩夢見るほどに片思いしていたと言うのであれば、このような「女の子ネタ」の話題では、必ず自分の恋愛の相手と関連付けて考えてしまうものなのではないだろうか? ところが、そのような様子は一切見られず、ちらりとほのめかす事さえもないのである。

つまり、常識的に考えて、これが果たして、初恋真っ只中の若者が親友宛に書く手紙の文章だと言えるのだろうか?と言う事なのだ。

 

 

次の箇所は、カラソフスキー版ではそっくり削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「彼らはみんな、素晴らしい人達だ。僕は帰る途中、カリッツで催された夜会に行った;ラチンスカ夫人とビエルナツカ嬢がそこにいた。彼女が僕に踊るよう強く要求したので、僕は彼女よりも美しい、いや、同じ位に美しい、ある少女とマズールを踊らなければならなかったよ;ポーリーナ・ニエシュコフスカ嬢はミチェルスキ将軍(この人は彼のアドレスを彼女に渡していた)とは結婚しないだろう。ビエルナツカ嬢は、君と君の兄弟についてたくさん話していて、ワルシャワで過ごした冬が彼女にどれほど優しい気持を起こさせたかについて知る事ができた。僕は夕方の間中、彼女と一緒に話をした、と言うより、むしろ質問に答えたり尋ねたりした;彼女がカロル氏の愛すべきキャラクターについて話した時は特に、僕はその夕方ほど彼女の事を好きになれなかった事はない。僕はジョークを言ってるんじゃないよ。僕は彼女に話したよ、その晩の事を全て君に聞かせて、僕が彼女と踊った事について説明するつもりだとね;彼女は君の事を恐れていなかったな。彼女の父親がいるスリスウォヴィツェはアントニンから近くて、僕は彼に会った。そのパーティで見た素晴らしいものの一つは、マルツィンコフスキのダンスだった;彼はほとんど倒れるまで、泥だらけのブーツで踊った。僕はカリッツには1日だけいた。コステュスが僕に手紙を書いて来たけど、まだ返事してない。」

       前回の「第5便」にも「君の兄弟」は出てきていたが、これを見ると、どうやらやはり継兄弟のカロル・ヴェルツの事で間違いないようである。

 

ここもそうである。

美しい女の子とダンスを踊る事になっても、そのエピソードが、例の「理想の人」と全く関連付けられて語られてこないのである。

ショパンは毎晩「理想の人」の事を夢見、その人からインスピレーションを得て「小さなワルツ」まで書いたのではなかったか?

であれば、彼が今もっともダンスしたい相手とは、正にその「理想の人」のはずで、このような夜会のこのようなシチュエーションでは、常に「その人とこそダンスしたいのに…」と言う思いが頭にチラついてしまうはずである。

この手紙の文章は、恋する若者の心理の下に書かれたものとして、明らかに不自然なのだ。

これらの不自然さは、当時のショパンが恋などしていなかった事の何よりの証拠だと、そう見なしても一向にかまわないほどのものなのである。

 

 

カラソフスキーは相変わらず「コステュス」を消し続けているが、ここでの「コステュス」は、実はダシに使われているのである。

なぜなら、ショパンはすでに10日以上も前にアントニンでヴォイチェホフスキから手紙をもらっており、一方「コステュス」からの手紙はワルシャワ帰宅後なのでごく最近である。それなのに、やはり手紙を書く優先順位はヴォイチェホフスキの方が先なのだと、ショパンはここで遠回しにそう言っているからだ。手紙が来た事だけ伝えてその内容について触れていないのは、その事が言いたいがために言及したに過ぎない事を意味しているのである。

もう一つ引っ掛かるのは、ショパンはここで、「コステュス」から手紙をもらった事は報告しているが、ラジヴィウ公爵から手紙をもらった事については報告していないと言う点だ。

ショパンがラジヴィウ公爵から本当にあのような手紙をもらっていたのなら、やはりここでその事をヴォイチェホフスキに報告するのではないだろうか? 私があの手紙に贋作の可能性を感じるのは、実はこう言うところにもある。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

彼女は僕に、5月にベルリンへ来るように望んでいて、それなら、僕が冬にウィーンへ行く妨げには何もならないだろうと。」

ラジヴィウ公爵夫人は僕に、5月にベルリンへ来るように望んでいて、それなら、僕が冬にウィーンへ行く妨げには何もならないだろうと。

 

カラソフスキーは、先の箇所を削除してそのまま文章をつなげたせいか、本来は「ラジヴィウ公爵夫人」の言葉だったものを「彼女(エリザ姫)」の言葉にしてしまっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

12月前には出発するべきだが、どうもそうなるようには思えない。パパの命名日が6日だから、いずれにせよ、彼と一緒にいるだろう。僕は12月の中旬まで出発の事は考えない。その上僕は、君に会いたいとも思っている。」

        ほぼ同じ

 

 

次の箇所もカラソフスキー版では省かれている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「もしも君が来る前に僕が出発するような事にでもなったら、おそらくそんな事態にはならないだろうが、僕は君に手紙を書くよ;君に会う事以外に僕に望む事はない――特に外国ではね。」

 

この箇所をなぜカラソフスキーが省いたのか?

普通なら、このようにショパンがヴォイチェホフスキへの思いを切々と訴えている箇所は省かないはずである。

しかし、この箇所に関しては、実はこれを残しておくとカラソフスキーにもヴォイチェホフスキにとってもちょっと都合が悪いのである。

なぜなら、ヴォイチェホフスキはこの後の展開で、ワルシャワを発つショパンに同行してウィーンに行く事になっているからだ。

ところが、この箇所のこの記述を見ると、ショパンはあくまでも1人で旅立ち、ヴォイチェホフスキは同行などしない事になっている。

ヴォイチェホフスキは大学を卒業して以来、ショパンが183011月にワルシャワを発つまでずっと田舎のポトゥジンに引きこもりっきりだった。その彼が、すでに一家の主である身でありながら、いきなり1ヶ月もの長きに渡って、亡き父親から相続した宮殿を留守にする事になるのである。その事一つをとっても何か腑に落ちないと言うのに、そのような大旅行(※一説には移住とも言われているが…)を敢行するのに、この時期にその可能性をショパンにほのめかしてすらいないのである。

私がかねてからヴォイチェホフスキのウィーン行きに疑問を抱いているのは、このように、ヴォイチェホフスキの行動には、いちいち辻褄の合っていない事が多過ぎるからだ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕が今、ワルシャワでどんなに虚ろでいるか、君には信じられないだろう。僕には、打ち明け話をできるような人が一人もいないのだ。君は僕の肖像画を一つ欲しがっていたね。エリザ姫が彼女のアルバムに2枚持っているので、もしも彼女から盗み出す事ができたら必ず君に送ろう。保障するが、とてもよく似ているよ;」

        ほぼ同じ

       ちなみに、ここに書かれている「エリザ姫」のアルバム(サイズは23.2×17.8cm)と言うのは現在も残っていて、その中のショパンの2枚」の肖像画も、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)などで見る事ができる。これはエリザ姫による鉛筆画で、1枚はショパンがピアノを弾いている姿を横向きのアングルから描いた全身画である。また、エリザ姫によるFrederic Chopin, 1826と言うフランス語名による書き込みもあり、ショパンが17歳当時のものである事が分かる。これは、ショパンがライネルツからの帰宅途中でアントニンのラジヴィウ邸に立ち寄った際に描かれたものである。もう1枚は、やはり彼女による鉛筆画で、ショパンの上半身を横向きのアングルで描いたもの。こちらも同様にFrederic Chopin, 4 Novembre/1829と言うフランス語による書き込みがあり、これは今回の訪問時に描かれたものである。したがって、ラジヴィウ公爵がそれと同じ日にショパン宛にあのような内容の手紙を書いているのは、どう考えてもおかしい事になる。

 

ここまではほぼ同じだが、これに続く次の箇所が改ざんされている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

しかし我が最愛の人よ、君には僕の肖像画なんか必要ない。信じてくれたまえ、僕はいつも君と一緒にいて、僕の人生が終わるまで決して君を忘れないのだから。」

ミロシェフスキには、今時間がないんだ;僕の生命よ、君は親切すぎるよ信じてくれたまえ、僕はいつも君と一緒にいて、僕の人生が終わるまで決して君を忘れないのだから。

F.Ch.」

       「ミロシェフスキ」 シドウの註釈によると、「画家、肖像画家アムブロジィ・ミロシェフスキ(Ambroży Miroszewski.)」。現在我々がショパン伝などでよく目にするショパン家の肖像画は、この時期に彼によって描かれたものである。

 

このミロシェフスキについては、「第4便」でも「ミロッシオ」の愛称で以下のように書かれていた。

来月君が戻って来たら、僕ら家族全員の肖像画を見つける事だろう、ジヴニーのも含まれているんだ(彼はよく君の事を話している);彼は、僕のために自分が描かれた事にビックリしていて、ミロッシオは、まるで彼を生きているように素晴らしく描いた。

 

カラソフスキーは「第4便」からこの箇所も削除していた。

つまりここは、ミロシェフスキには、今(新しい肖像画を描いている)時間がないんだ」と言う意味で、だからショパンは「エリザ姫」から盗んでこようと冗談交じりに言っているのであるが、カラソフスキーはそれを、単なるショパンからヴォイチェホフスキへの友情談義に摩り替えてしまっている。

 

オピエンスキー版では、ここで一旦署名して手紙を終え、以下が追伸部分となっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕にもう一度、君に《ポロネーズ》の事を思い出させてくれ;折り返し送ってくれたまえ。僕は練習曲をいくつか書いた;君の前で上手に弾かなければならないだろう。」

「僕にもう一度、君に《ポロネーズ》の事を思い出させてくれ;我が生命よ、折り返し僕に送ってくれたまえ。

僕はエクセサイズをいくつか書いた;君の前で上手に弾かなければならないだろう。」

 

この練習曲については、前回の「第5便」でも以下のように書かれていた。

「形式に則った大きなエクセサイズを、僕独自のスタイルで作った。僕らが再び会った時に、君に見せよう。」

 

あれからまた数曲書いたようであるが、おそらくは《エチュード 第2番 イ短調 作品10-2》▼であろうと考えられている。

 

 

次の箇所は、カラソフスキー版では削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「パパ、ママ、その子供達、そしてジヴニーのみんなが君を抱擁で迎えるよ。イエンドジェイェヴィツはウィーンから手紙を書いて寄こした;彼は家に帰って来るところだ。クルピンスキの“ルチペル(ルシファー)の宮殿”が上演されたが、しかし成功しなかった。

        “ルチペル(ルシファー)の宮殿” オピエンスキーの註釈によると、「ポーランドの作曲家で指揮者のK.クルピンスキ(17851857)によるオペラ。初演は1811年」

 

クルピンスキについては、前回の「第5便」でも、以下のように書かれていた。

来週の日曜日には、クルピンスキの改訂された古いオペラ、“ルチペル(ルシファー)の宮殿”が公演される予定だ。

 

 

さて、この箇所で注目すべきは、例の表現である。

「パパ、ママ、その子供達

 

この「子供達」と言う表現は、少年時代の「家族書簡」や「ビアウォブウォツキ書簡」では頻繁に使われていたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」においてはこれが「第3便」以来2度目の登場となる。

これは、ショパンが自分の姉妹達を指して使う表現だが、しかしショパンがこの表現を使う時には必ず2つの条件があり、

1.       手紙の追伸部分でしか使われない事。

2.       必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記されている事(すなわち、パパとママとその子供達だからこそ「子供達」と表現しているのである)。

 

ここでも、きちんとこの2つの条件を満たしている事がお分かり頂けているかと思う。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「先週の土曜日に、ケスレルがリソースで、フンメルの《ホ長調の協奏曲》を弾いた。来週の土曜日はおそらく僕が弾くだろう;僕は君に捧げた変奏曲を選ぶつもりだ。

君の忠実な

フレデリックより」

「先週の土曜日、リソースで、ケスレルがフンメルの《ホ長調の協奏曲》を演奏した。セルヴァヂンスキも他に演奏した。たぶん、僕は次の土曜日に弾く事になるだろう;もしそうなれば、君の変奏曲を弾くつもりだ。」

       「ケスレル」 シドウの註釈によると、「ユゼフ・クリストフ・ケスレル(Joseph-Christophe Kessler 18001872) ピアニスト兼、作曲家」

 

「ケスレル」については、前回の「第5便」でも前々回の「第4便」でも触れられていた。

カラソフスキーは「セルヴァヂンスキ」について省き、ここでいつものように「君の忠実なフレデリックより」と言う脚色された署名をさせてこの手紙を終えさせている。

しかしオピエンスキー版には、まだまだこれに続く追伸部分がたっぷりと書き加えられており、そこにはなんと、ショパンの「理想の人」とされている「グワトコフスカ」の名前までもが登場していたのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第6便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「お上品なマダム・スヒロリは、美しいコントラルト歌手(※ソプラノとテノールの中間で、女性の最低音域)で、ソリヴァ(※ワルシャワ音楽院・声楽科の院長)の所で催された音楽夜会で2回歌ったと、タイヒマンが僕に話している。ヴォウクフ嬢(※ソリヴァの愛弟子)は母親の喪に服しているし、グワトコフスカ嬢(※同じくソリヴァの愛弟子)は目に包帯をしている。チリンスキはマダム・スヒロリと一緒に同じ音程で歌った;でも彼が言うには、自分が彼女の横にいるネズミのように感じられたそうだ。僕が持っているニュースはそれで全部だ。僕は長い事マックスに会っていないが、たぶん彼は元気にしているだろう。ガスチンスキは、今みんなが準備に忙しいバラエティ劇場のために、ちょっとした韻文のコメディを書いている。題名はこうだ;医者の待合室。ゴンシエは元気だ;リナルディは僕に会うといつも君について尋ねている。来週の日曜日には次のものが上演されるだろう;『大富豪』(億万長者の農夫);デフセレルによる小さなコミック・オペラだ。僕にはなぜ彼らがここで、こんなドイツのクズをやるのか分からない;僕が思うに、舞台を飾り立てて、子供達を喜ばせる滑稽な変形譚(※転身譜、変身物語)を色々とやるんだろう。彼らはその準備で忙しい。サチェッティは場面絵を描く事になっている。僕がペンを走らせるのはこれで全部だ。僕はニュースを話すために書いてるんじゃない;ただ君と社交の場を分かち合いたいんだ。もう一度、君を抱擁させてくれたまえ。

F.Ch.」

 

「グワトコフスカ嬢は目に包帯をしている」

 

注目の「グワトコフスカ嬢」に関しては、たったこれだけである。

 

それではここで、カラソフスキーのショパン伝の中に書かれている「理想の人」について、もう一度整理してみよう。

 

1.       「第4便」 

ショパンが初恋の相手である「理想の人」について初めて告白する。

       カラソフスキーはこの時点では、その「理想の人」について、それが誰であるかと言う具体的な説明を一切読者にしていない。

2.       「第5便」 

ショパンは、前の手紙で初恋を告白したと言うのに、それに関する続報は一切なく、それどころか、ショパンが現在初恋の真っ只中である事を匂わすような記述が一つもない。

       この時点でも、カラソフスキーの説明は何もない。

3.       「第6便」 

ここにもやはり、ショパンが現在初恋の真っ只中である事を匂わすような記述は一つもない。

       この時点でも、やはりカラソフスキーの説明は何もない。それどころかカラソフスキーは、のちにその「理想の人」「コンスタンツヤ・グワトコフスカ」であると説明する事になると言うのに、その「グワトコフスカ」の名前が初登場した箇所をそっくり削除してしまっている。つまり、その説明をするならこの手紙のこの箇所でするべきはずなのに、その機会を自ら抹殺しているのである。

 

さて、本当にショパンが「第4便」で「理想の人」なるものの告白をしたと言うのなら、そしてその相手が「コンスタンツヤ・グワトコフスカ」であると言うのなら、彼はこの時点で、この「グワトコフスカ嬢」こそがその「理想の人」であると、ヴォイチェホフスキにそう説明しなければ筋が通らないはずなのに、そんな素振りは一向に見られない。

何度も説明してきたように、「第4便」の告白から現在に至るまで、ショパンとヴォイチェホフスキは直接会って会話する機会を一度も持っていない。そして、この短い期間に彼らの間でやり取りされた手紙はこれが全てであり、この他に失われた手紙など存在していない事は、手紙の内容が前後きちんとつながっている事からも明らかである。

つまり、ショパンが本当に「理想の人」とやらに恋をしていて、そしてそれがこの「グワトコフスカ嬢」であると言うのなら、彼は絶対にここでそれをヴォイチェホフスキに告げていなければいけないのだ。

 

それなのになぜそれをしないのか?

 

その答えは、この時点では、カラソフスキーにはまだ、この「グワトコフスカ嬢」「理想の人」だった事にしようと言う構想がなかったからなのである。

彼がそのアイディアを思いつくのはもっとずっと後になってからで、ようやく「第12便」を編集する段になってからだ。

だから彼は、この「第6便」に出て来た「グワトコフスカ嬢」になど何の関心も示さず、いつものように、追伸部分に雑多に列挙されたその他大勢の人物達と同等に扱い、彼女の存在もあっさりと削除してしまえたのである。

 

そもそも「理想の人」自体が、ヴォイチェホフスキとカラソフスキーが共謀して捏造したものであり、最初から実在しない架空の女性なのである。

実際のショパンは、当時、アレクサンドリーヌ・ド・モリオール伯爵令嬢に恋心を抱いており、ショパンはその事実を「第10便」で告白する。これは紛れもない事実なのである。ところが、このショパンの「真実の恋」は、ショパンを革命派として描きたいカラソフスキーらにとっては非常に都合の悪いものだった。なぜなら、モリール嬢が直接ロシア側と親交のあった保守派だったからだ。彼らにしてみれば、そんな国賊にも等しいような連中とショパンが親しく交際し、あまつさえ恋愛の対象としていたなど、断じてあってはならない許しがたい事だった。

そこで彼らはショパンの「真実の恋」を闇に葬り去り、その代わりに「理想の人」をでっち上げてショパンにあてがったのである。

つまり、カラソフスキーが当初「理想の人」が誰なのかを読者に明らかにしなかったのは、資料提供者との間でそのような了解がなされていたからであり、彼らはこれを、リストのショパン伝における「ポーランドの少女」と同じような、曖昧模糊とした伝説上の存在にして片付けようとしていたからだ。

 

前にも書いた通り、この箇所における「グワトコフスカ嬢」に関する記述は、ショパンが直接彼女を見たと言う話ではなく、「ソリヴァ」の夜会に出席していた「タイヒマン」もしくは「チリンスキ」伝手に聞いた話で、それを更に間接的にヴォイチェホフスキに報告しているに過ぎない。

ここで重要なのは、たったそれだけの記述でヴォイチェホフスキに話が通じていると言う事なのだ。つまり、ショパンとヴォイチェホフスキにとって、この「グワトコフスカ嬢」は、この時点ですでに共通の知人だったと言う事なのである。ショパンとヴォイチェホフスキは学校を卒業して以来一度も会っていない。と言う事は、彼ら2人はすでに学生時代に、ソリヴァを通じて彼女と知り合いになっていた…と言う事が分かるのである。

 

そうなのだ、「グワトコフスカ嬢」は単なる共通の知人の1人に過ぎず、決して「理想の人」などではないのである。

恋焦がれる相手が「目に包帯をしている」などと言う天下の一大事だと言うのに、それについて何の同情も悲哀もない。単にそれを報告するだけで、その事に対して何のコメントもない。完全に、並列して書かれているもう1人のソリヴァの愛弟子「ヴォウクフ嬢」と同等の扱いでしかない。

親友に向かって、自分の恋愛対象を初めて実名報告すると言うのに、このあまりにも「その他大勢」的な書き方はどう考えてもありえないだろう。

他ならぬカラソフスキー自身もそう見なしていたからこそ、彼は、この時点では、この「グワトコフスカ嬢」に白羽の矢を立てようなどとは思いもよらなかったのだ。

 

[2011年11月12日初稿/2011年12月14日改訂 トモロー]


【頁頭】 

検証9-5:記念すべきプロ・デビュー公演にすら来ない男

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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