3.告白に対するヴォイチェホフスキの無関心――
3. Indifference of Wojciechowski for the
confession-
今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第5便」である。
まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第5便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語、一部フランス語、ドイツ語、イタリア語が混在) |
「1829年10月20日、ワルシャワにて 我が最も親愛なるティトゥス 君は、どうして僕が突然こんな手紙書きマニアにとりつかれたか、そして、どうしてこんな短い間に君に3通目の手紙を送るか、理解できないだろう。 僕は今夜7時に、乗合馬車(※フランス語)で、ポーゼンのヴィエショフロフスキ家に向って出発する。それで君に前もって知らせておきたいのは、僕は1ヶ月間のパスポートをもらっているが、どれくらい滞在するのかは分からないと言う事だ。僕の考えでは、だいたい2週間のうちには戻るだろうと。旅行の目的は、カリッツから遠くない領地に滞在中のラジヴィウ公爵に会う事だ。公爵は僕に、ベルリンヘ来て、彼の家やその他で客人として生活してもらいたいと言っている。でも僕には、それが本当の、すなわち芸術上の役に立つようには思えない。 “大きな紳士と一緒にサクランボを食べるのは良くない。” (※ドイツ語) 僕の善良な父は、これらの招待を、単なる美しい約束(※フランス語)だとは信じないだろう。 僕が同じ事を繰り返していたら許してくれたまえ。僕は書いた事をすぐに忘れてしまい、実際ニュースがかび臭くなった頃に君に知らせてるんじゃないかと思う事がしばしばある。 ケスレルは毎週金曜日に音楽夜会を開いている;ここのほとんど全ての芸術家達が集って、目の前に出されたものは何でも演奏するんだ、初見視奏(※イタリア語)でね。そう、例えば先週の金曜日には次のような作品が演奏された;リースの嬰ハ短調・協奏曲をカルテットで;それからフンメルのホ長調・三重奏曲;べートーヴェンの最後の三重奏曲、これは、僕は崇高で印象的だと思った;さらに、プロシアのルイ・フェルディナント公爵[*]―別名ドゥシェック―の四重奏曲;そして最後に歌があった。 [*ショパンの言っている事は、そう伝えられているのを彼が聞いた話かもしれない。と言うのも、高貴な生まれの人間の芸術的才能を世間がめったに認めないのは、よく知られている事だからだ。ルイ・フェルディナンド公爵は確かにドゥシェックの弟子だったが、しかしだからと言って彼は、師匠の手を借りて作品を書いていた訳ではなかった。フェルディナンド公爵―歴史上、そして彼の作品のタイトル・ページ上においてルイ・フェルディナンドと呼ばれていた―は、有能な男で、そして彼が残した作品は、本当に彼の頭脳によって生み出されたものだった。愛国心と勇気に満ちており、彼は戦争に参加して、1806年10月13日にザールフィールドで倒れた。] エルスネルは僕の協奏曲のアダージョを褒めている。彼が言うには、そこには新しい何かがあるのだと。ロンド(※協奏曲の終楽章)については、今はどんな意見も望んでいない。と言うのも、僕自身がまだ満足していないからだ。僕が旅行から戻った頃に完成させられるかどうかは疑問だ。 君の手紙には本当に感謝していて、それは僕を非常に喜ばせた。君は、人を楽しませ、元気にする幸せな才能を持っている。君は、僕が今朝どんなに落ち込んでいたか、そして君の手紙を受取った時どんなに気持が高揚したか、想像できないだろう。僕は君を暖かく抱擁する。たいてい人々が、手紙の結びにこうした事を書いても実際はそう思っていないものだ。だが親愛なる友よ、僕が“フリッツ”と呼ばれているように、忠実に、心からそうするのは君も知っている。僕は、僕のスタイルで≪練習曲≫を一つ作曲した;僕らが再び会った時に、君のために弾こう。 君の忠実な フレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
さて、お分かり頂けたであろうか?
前回の手紙で告白されていた「理想の人」に関する記述がどこにも見られないだろう。
普通、親友に恋の告白をしたら、次の手紙からはもう堰を切ったようにその話題で持ち切りになるものだが、この異常なまでの無関心は一体何だというのか?
それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙は、両者の文章量は倍近くも違っている。
※
オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.』1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』(Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた。
※
カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「1829年10月20日、ワルシャワにて 我が最も親愛なるティトゥス」 |
「1829年10月20日、ワルシャワにて 最も親愛なるティトゥス!」 |
細かい事だが、カラソフスキー版には「我が」と付け加えられていて、その代わり感嘆符「!」が取り払われている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君は、どうして僕が突然こんな手紙書きマニアにとりつかれたか、そして、どうしてこんな短い間に君に3通目の手紙を送るか、理解できないだろう。」 |
「君はおそらく、どうして僕がこんな手紙書きマニアになったか不思議だろう;こんな短い間に、これが君への3通目だ」 |
前回も説明したが、ここで言う「3通」とは、ショパンがウィーン旅行から帰って来てから「3通目」と言う事であり、また、彼ら2人が学校を卒業して離れ離れに暮らすようになってから「3通目」と言う事である。したがって、この間に欠落している手紙はない(※下図参照)
1829年9月 |
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1829年10月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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3 |
4 |
5 |
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1 |
2 |
3 第4便 |
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6 |
7 |
8 |
9 |
10 帰宅 |
11 |
12 第3便 |
4 |
5 |
6 |
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8 |
9 |
10 |
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21 |
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26 |
18 |
19 |
20 第5便 |
21 |
22 |
23 |
24 |
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30 |
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25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
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ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#3. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕は今夜7時に、乗合馬車(※フランス語)で、ポーゼンのヴィエショウォスキ家に向って出発する。それで君に前もって知らせておきたいのは、僕は1ヶ月間のパスポートをもらっているが、どれくらい滞在するのかは分からないと言う事だ。僕の考えでは、だいたい2週間のうちには戻るだろうと。旅行の目的は、カリッツから遠くない領地に滞在中のラジヴィウ公爵に会う事だ。公爵は僕に、ベルリンヘ来て、彼の家やその他で客人として生活してもらいたいと言っている。でも僕には、それが本当の、すなわち芸術上の役に立つようには思えない。 “大きな紳士と一緒にサクランボを食べるのは良くない。”
(※ドイツ語) 僕の善良な父は、これらの招待を、単なる美しい約束(※フランス語)だとは信じないだろう。 僕が同じ事を繰り返していたら許してくれたまえ。僕は書いた事をすぐに忘れてしまい、実際ニュースがかび臭くなった頃に君に知らせてるんじゃないかと思う事がしばしばある。」 |
※
ほぼ同じだが、オピエンスキーの英訳版書簡集には、「ポーランドの諺」として、「私が見てきた多色模様の馬には、第1級の丁重な引き立てはない」と註釈されている。おそらくカラソフスキーは、これをドイツ語圏の読者に分かるように左のように意訳したのだと思われる。いずれにせよ、意味としては、「うまそうな話には慎重になるべし」と言うような感じだと思われる。 |
前回の「第4便」に、「パパは僕をベルリンへ行かせたがっていて、僕はそれを希望していない」と書かれていた事を指している。
以下の箇所は、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「昨日、プルシャク夫人の訪問を受け、彼女が言うには、ヴァンダさんはすでに健康を取り戻し、ドレスデンにいるコステュス氏(※の接待)には退屈しているそうだが、そのような事は信じ難い事だね。ソリヴォヴァ夫人は来週子供たちと一緒にイタリアへ行くとかで、旦那さん(※ワルシャワ音楽院・声楽科の院長ソリヴァ)の母親のところに向けて出発した。この事はエルネマン氏から聞いた。彼とは、ケスレルさんの家で四重奏に出演した時に会った。」 |
カラソフスキーは相変わらず、ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である「コステュス」(※コンスタンチン・プルシャックの愛称)の存在は消し続けている。
一方、その母「プルシャック夫人」に関しては、カラソフスキーは削除したりしなかったりだが、今回は前回同様削除している。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#5. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「ケスレルは毎週金曜日に音楽夜会を開いている;ここのほとんど全ての芸術家達が集って、目の前に出されたものは何でも演奏するんだ、初見視奏(※イタリア語)でね。そう、例えば先週の金曜日には次のような作品が演奏された;リースの嬰ハ短調・協奏曲をカルテットで;それからフンメルのホ長調・三重奏曲;べートーヴェンの最後の三重奏曲、これは、僕は崇高で印象的だと思った;さらに、プロシアのルイ・フェルディナント公爵[*]―別名ドゥシェック―の四重奏曲;そして最後に歌があった。」 [*ショパンの言っている事は、そう伝えられているのを彼が聞いた話かもしれない。と言うのも、高貴な生まれの人間の芸術的才能を世間がめったに認めないのは、よく知られている事だからだ。ルイ・フェルディナンド公爵は確かにドゥシェックの弟子だったが、しかしだからと言って彼は、師匠の手を借りて作品を書いていた訳ではなかった。フェルディナンド公爵―歴史上、そして彼の作品のタイトル・ページ上においてルイ・フェルディナンドと呼ばれていた―は、有能な男で、そして彼が残した作品は、本当に彼の頭脳によって生み出されたものだった。愛国心と勇気に満ちており、彼は戦争に参加して、1806年10月13日にザールフィールドで倒れた。] |
「ケスレルが毎週金曜日に自分の館で小さな演奏会を催している事を君に教えておく。そこでは皆が集まり、皆が演奏している。― 初めから予定しているものはなく、集まった人達の間で簡単に内容を決めて、演奏するだけの話だ。こんな調子で、先週の金曜日にはリースの嬰ハ短調・協奏曲をカルテットでやった。その他に、フンメルのホ長調・三重奏曲、べートーヴェンの最後の三重奏曲もあった(これほど偉大な曲を今日まで長い間聴いた事がない。この曲ではべートーヴェンが全世界をあざけっている)。プロシアのフェルディナンド、別名ドゥシェックの四重奏曲が演奏され、最後に歌もあった。」 |
※ 「ケスレル」 シドウの註釈によると、「ユゼフ・クリストフ・ケスレル(Joseph-Christophe Kessler 1800−1872) ピアニスト兼、作曲家」。
※ 「ドゥシェック」 オピエンスキーの註釈によると、「Joh. L. Dussek(Duschek)、1761-1812。ボヘミアの作曲家で、プロシアのルイ・フェルディナンド公爵とは親友で、戦死した彼のために和声の挽歌を書いた」。
「ケスレル」については、前回の「第4便」でも、以下のように書かれていた。
「毎週金曜日にケスレルの家で演奏があること以外に、君に伝える音楽関連のニュースはない。昨日も他の作品と一緒にシュポーアの八重奏曲を聴いたが、素晴らしい作品だった。」
以下の箇所も、カラソフスキー版ではごっそり削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#6. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「ただし、これは歌ではなくて、歌のパロディだ。これは僕にとって実に不思議なものだった。フルートを吹くツィメルマンは、何か不思議な声音を持っていた。唇と手を利用して声を出していた。これは、あるいは子猫、あるいは子牛、とにかく、その様なものに似ていた。ノヴァコフスキも彼独特の声を持っていた。小さな、偽物の、子供用のトランペットに似ていた。いかにも平べったく唇を押さえて出す声に似ていた。これを利用して、フィリップがツィメルマンとノヴァコフスキの2人のために二重奏(合唱)を作曲した。これはふざけたものだったが、彼らは上手に演奏していて、笑いを呼び、いつ終わるか分からないくらい続いた。これはベートーヴェンの三重奏曲の演奏の後だったが、(彼らが)殊更に巧く歌ったとは言え、僕は(ベートーヴェンの)大作から得た感激から開放される事は出来なかった。セルヴァチンスキが伴奏をした。それも非常に巧妙な伴奏だった;彼は今週に演奏会を開く予定だ。僕の意見では、それは必要ではなかった。しかし人々が言うには、彼は、ここが素晴しい所になるだろうから留まっていたいのだそうだ;彼はレッスンを取る希望を持っており、これが弟子を得る最良の方法と考えているらしい。――僕が帰ってくる頃には君もワルシャワに来ているだろうから、僕らは三重奏曲を2、3回演奏しようでないか。この事は僕らの間ですでに約束している事だ。ビェラフスキには頭をさげてお願いしなければならないが、大した事ではない;彼は本当に伴奏が巧い。」 |
この箇所にも、様々な友人知人が登場している。
ここでちょっと気になるのは、ショパンがヴォイチェホフスキと一緒に「三重奏曲」を演奏する約束をしていたと言う事だが、この「三重奏曲」とは、おそらくショパンの《ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8》▼の事だろう。
※ この曲については、去年1828年9月9日付の「第1便」の頃からその作曲過程が報告されていて、1828年12月27日付の「第2便」においても「まだ完成していない」と書かれていた。しかしどうやらこの頃に完成させていたようである。
それはそうと、ショパンとヴォイチェホフスキは、一緒にこの「三重奏曲」を演奏するに当たって、それぞれどの楽器を担当する事になっていたのだろうか? どちらかがピアノなら、必然的にどちらかはヴァイオリンかチェロと言う事になるのだが、ヴォイチェホフスキがピアノでショパンがチェロと言う可能性も考えられる。
しかしだ、この「約束」は彼らがまだ一緒にワルシャワで暮らしていた学生時代になされたもので、おそらくはヴォイチェホフスキの帰郷に伴い、その別れ際に交わしたのだろうと思われるが、結局この「約束」は果たされる事なく終わっている。
ヴォイチェホフスキは、ポトゥジンを相続してワルシャワを去って以来、ショパンが祖国を発つまでの間、一度としてワルシャワを訪れていないのである。
前回の手紙でも、そして前々回の手紙でも、ショパンはヴォイチェホフスキがワルシャワへ来る事を期待し、それを心待ちにしている事が書かれていた。そしてそれは今後の手紙においても同じである。しかし彼は、ショパンの再三に渡る要請にも関わらず、決してショパンに会いに来ようとはしなかったのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#7. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「エルスネルは僕の協奏曲のアダージョを褒めている。彼が言うには、そこには新しい何かがあるのだと。ロンド(※協奏曲の終楽章)については、今はどんな意見も望んでいない。と言うのも、僕自身がまだ満足していないからだ。僕が旅行から戻った頃に完成させられるかどうかは疑問だ。」 |
※
ほぼ同じ |
この「僕の協奏曲のアダージョ」は、前回の「第4便」において、「理想の人」を夢見ながら書いたと告白されていた。
しかしここでは、そのようなニュアンスを感じさせるものは一切ない。
以下の箇所も、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#8. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「昨日、ペテルスブルグから、その名前を覚えていないが、若い(独身の)女性が来ていると皆が言っていた。彼女はまだ非常に若くて、ヴァイオリンを上手に弾くとか。――来週の日曜日には、クルピンスキの改訂された古いオペラ、“ルチペル(ルシファー)の宮殿”が公演される予定だ。――(そこで)オボルスキや、優秀な成績で修士学位を得たオプニスキ、それに同じくマスウオスキ達と落ち合う予定になっている。バルチンスキがジュネーヴから手紙を送って来た。君によろしく伝えてくれと言っている。イエンドジェイェヴィツとはシャフハウズで別れたそうだ。バルチンスキはその後フランス、そこからミュンヘンへ向けて旅立った。」 |
※
“ルチペル(ルシファー)の宮殿” オピエンスキーの註釈によると、「ポーランドの作曲家で指揮者のK.クルピンスキ(1785−1857)によるオペラ。初演は1811年」。
ここには、将来ショパンの姉ルドヴィカの夫となる「イエンドジェイェヴィツ」と、同じく将来ショパンの妹イザベラの夫となる「バルチンスキ」が出てくるが、以前私は、この両者について、バルチンスキが生真面目で、イエンドジェイェヴィツは軽い、と言うような印象があると書いた事がある。
ここでも、ショパンに対して手紙を寄こして来るのは「バルチンスキ」の方で、それまでその彼と一緒にいた「イエンドジェイェヴィツ」ではない。
次の箇所は注目される。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#9. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君の手紙には本当に感謝していて、それは僕を非常に喜ばせた。君は、人を楽しませ、元気にする幸せな才能を持っている。君は、僕が今朝どんなに落ち込んでいたか、そして君の手紙を受取った時どんなに気持が高揚したか、想像できないだろう。僕は君を暖かく抱擁する。たいてい人々が、手紙の結びにこうした事を書いても実際はそう思っていないものだ。だが親愛なる友よ、僕が“フリッツ”と呼ばれているように、忠実に、心からそうするのは君も知っている。」 |
「君の兄弟が書いて寄こしてくれた手紙には心から感謝していて、それは僕を喜ばせた。――君は、君が望みさえすれば、人を幸福にし、元気にする才能を持っている。この朝、僕がどれ程気分を悪くしていたか、しかし、その手紙を受け取った昼食後に僕がどれ程喜んだか君は分からないだろう。今日はこの辺で終わりにする。なぜなら僕は、出発前にしておかねばならない事が少々あるので。――君を心から抱擁し、お別れの挨拶をしたい。一般的に、手紙の終わりにはそのように書くのが普通で、皆よく分かりもしないでそんな事を書いているものだろう。――でも僕は自分が何を書いたか理解しているし、僕がいかに君を深く愛しているか信じて欲しい。 F.Ch.」 |
※
ところで、ヴォイチェホフスキには「姉妹」がいる事は過去に触れられていたが、「兄弟」もいるのだろうか? おそらくは継兄弟のカロル・ヴェルツの事だろうと思われるのだが、その辺についてはちょっと分からない。
ここでカラソフスキーは手紙の記述を歪曲し、完全に印象操作を行なっている。
オピエンスキー版では「君の兄弟」からの手紙となっているものを、カラソフスキーはそれを「君の手紙」に改ざんし、ショパンがヴォイチェホフスキから返事を受け取っていた事にしてしまっているのである。
おそらく、これに続くヴォイチェホフスキの「幸せな才能」云々と言った記述は、その「君の兄弟」の手紙に書かれていたヴォイチェホフスキの近況報告を受けてのコメントであり、ショパンがそのような内容の手紙を直接ヴォイチェホフスキから受け取ったと言うものではない。
カラソフスキーはこのようにして、実際以上にショパンとヴォイチェホフスキの友情物語を演出してみせているのである。
しかしここで問題にすべきはむしろ、前回の手紙でショパンが、「理想の人」についてあのような曖昧模糊とした告白をしたにも関わらず、ヴォイチェホフスキがそれに対して何の反応も示さず、自ら返事すら書いて寄こして来ていないと言う、そんな、唯一無二の親友として不自然極まりない事実の方である。
前回の手紙からすでに2週間と3日が過ぎ去っている。
仮にヴォイチェホフスキが折り返し返事を出していれば、それはもうとっくに届いていてもいい頃である。しかし実際には、そのような手紙など来ていないのだ。
この、親友同士の交わす「文通の手紙」としての不自然さは、「理想の人」がヴォイチェホフスキ自身による加筆改ざんである事を示唆しているのでないとしたら、一体何だと言うのであろうか?
次にヴォイチェホフスキからの返事が確認されるのは次回の「第6便」においてである。
そこには、ショパンがラジヴィウ邸滞在中に当地で受け取ったと書かれているため、それは今回の「第5便」に対する返事である事が分かる。つまり、ヴォイチェホフスキが前回の「第4便」に対しては返事を書いていなかった事がそれによってハッキリと分かる訳なのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第5便#10. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕は、僕のスタイルで≪練習曲≫を一つ作曲した;僕らが再び会った時に、君のために弾こう。 君の忠実な フレデリックより」 |
「形式に則った大きなエクセサイズを、僕独自のスタイルで作った。僕らが再び会った時に、君に見せよう。」 |
※
この箇所の≪練習曲≫については、私のBGM付き作品解説ブログ「練習曲 第1番 ハ長調 作品10-1▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます。
前回の「第4便」でも前々回の「第3便」でもそうだったが、ポーランド語版では「F.Ch」と署名しているだけだったのに、カラソフスキーのドイツ語版では「君の忠実なフレデリック」とか、「君のフレデリック」となっている。
[2011年11月1日初稿 トモロー]
検証9-4:ラジヴィウ公爵邸にて/グワトコフスカは理想の人ではない▼
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