5.記念すべきプロ・デビュー公演にすら来ない男――
5. The man who does not come for even a
memorable professional debut performance -
今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第7便」である。
まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第7便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語、一部「フランス語」が混在) |
「1830年3月27日、ワルシャワにて 僕は今ほど君がいないのを寂しく思った事はないよ、なぜって僕の気持を打ち明けられる人が一人もいないからだ。演奏会の後では、ここのあらゆる批評家達の称讃よりも、君の一瞥の方がよっぽど有難かっただろうに。君の手紙を受取った時すぐに、僕は、僕の最初の演奏会について君に説明したかった。でも、月曜日に催された2回目の準備に忙殺されて考えをまとめる事ができなかったんだ。実は今日だってさほど落ち着いてる訳ではないんだが、これ以上この手紙を出すのを遅らせられないからね、だって郵便馬車も出ちゃうし、僕の心がいつまた静まるかなんて、誰に分かるんだい? 最初の演奏会では、ボックス席も特等席も3日前に売り切れになったが、概して、僕が期待していたような印象を与える事はできなかった。ヘ短調・協奏曲の第1楽章のアレグロ(これは誰にでも理解されにくい)は、最初のブラボーで報われはしたが、でもこれは、僕が思うに、聴衆が真面目な音楽を理解し、また評価する術を知っているという事を示そうとしたからだ。通ぶった人はどこの国にもたくさんいるものだ。アダージョとロンドは素晴らしい効果をあげて、心からの喝采とブラボーの叫びが続いた。でもポーランドの歌によるポプリ[*ポーランド民謡による大幻想曲 作品13]は全く的が外れた。人々は実際拍手したが、しかし明らかに、彼らが退屈していないという事を演奏者に見せたに過ぎなかった。 クルピンスキ[*カロル・クルピンスキ。バンドマスターで、国民的オペラをいくつか作曲した。1785年に生れ、1857年にワルシャワで亡くなった]はその晩、僕の協奏曲に新鮮な美を発見したと言った。エルネマンはすっかり満足していた。エルスネルは、僕のピアノがあまり強くなくて、彼が考えていたほど低音がはっきり聞こえなかったのを残念がっていた。 天井桟敷に坐っていた人達やオーケストラの傍に立っていた人達が最も満足していたようだった;平土聞にいた人達は演奏がソフト過ぎると苦情を言った。僕は、“コブチュシェク”[*大抵の文学者が集まるカフェで、ドイツ語で言うところの「アッヒェンブレーデル」(シンデレラ)]で僕の噂話を聞くのが大好きなんだが。平土間の批評のために、モフナツキ氏は『ポーランド通信』で僕を褒め上げた後――特にアダージョをね――将来のためには、もっと多くのパワーとエネルギーを使って演奏するようにと、僕にアドヴァイスした。僕は、このパワーなるものが何処にあるのかよく分かっていたから、それで2回目の演奏会では自分のを使わずウィーンの楽器で弾いた。今度は、聴衆はずっと多かったが、完全に満足していた。拍手は留まるところを知らなかったし、僕は、一つ一つの音が鐘のように鳴り響き、前より遥かに綺麗に弾いたと確信している。僕がステージに呼び戻されて現れた時、“もう一度演奏会をやってくれ”と叫んだ人達がいた。クラコヴィアクはもの凄いセンセーションを巻き起こした;4回の喝采が起ったほどだ。クルピンスキは、僕がウィーンのピアノでポーランド・ファンタジアを弾かなかったのを残念がっていて、グジマウァは別の日に同じ意見を『ポーランド通信』で繰り返した。エルスネルは、2回目の演奏会の後じゃないと僕は正しく評価されなかっただろうと言っている。正直に告白すると、僕は自分のピアノで演奏しなかったのだが、ウィーンのピアノは、概して僕のよりは建物の規模に適していると考えられた。 君は最初の演奏会のプログラムの内容を知っている。 [*1830年3月17日にワルシャワ劇場で演奏されたプログラムは次の通りである。 第一部 1、エルスネル作曲、歌劇《レシャック・ビアリイ》の序曲。 2、《ヘ短調・協奏曲》よりアレグロ。ショパン氏自作自演。 3、《ホルンのためのディヴェルティメント》。ゲルネル氏自作自演。 4、《ヘ短調・協奏曲》よりアダージョとロンド。ショパン氏自作自演。 第二部 1、クルピンスキ作曲、歌劇《セシリア・ビアゼチンスカ》の序曲。 2、パエール作曲、《変奏曲》。マイエル夫人。 3、ショパン氏作曲、国民歌曲によるポプリ。] 2回目はノワコフスキ[*ショパンの学友で1800年に生れ、1865年にワルシャワで亡くなった]の交響曲で始まり、次に僕の協奏曲の第1楽章のアレグロが繰り返された。それから劇場付きの音楽々長のビエラフスキがペリォの《アリア・ヴァリエ》を演奏し、再び僕が僕のアダージョとロンドを弾いた。第二部は《ロンド・クラコヴィアク》で始まった。マイエル夫人はソリヴァの歌劇《ヘレンとマルヴィナ》中のアリアを唄った。そして最後に僕が民謡《街には妙な風習がある》をテーマに即興演奏をして、一番前の列にいる人達を大いに喜ばせた。率直に言うと、僕は自分の思った通りに即興演奏を弾かなかったが、たぶんこの種の聴衆には気に入られなかっただろうからだ。僕は、アダージョがこんなにも多くの人に喜ばれたのを不思議に思っている;僕が聞いたところでは、僕を最も嬉しがらせる意見はこれに関するものばかりだ。君は新聞を読むに違いないが、それで僕が公衆から非常に気に入られていた事が分るだろう。 僕に宛てた詩と大きな花束とが僕の家へ届けられた。僕の協奏曲の主要なテーマに基づいてマズルカとワルツが編曲され、ブルゼジィナは僕の肖像画を描かせてくれと願んできたが、僕はそれは辞退したよ。これでは突然あまりにも行き過ぎだし、それにレレウェルの肖像画の時のように、僕の写ってる紙でバターが包まれるなんてご免だからね。 3回目の演奏会を開いて欲しいという希望があらゆる方面で述べられているが、僕はそれをしたくない。君には、演奏前の数日間に感じなければならない緊張が信じられないだろう。僕は、第二協奏曲の最初のアレグロを休暇前には仕上げたいと思っている。それで、この次は更に聴衆が多くなるだろうと確信してはいるものの、とにかく復活祭が終わるまでは待つつもりだ。と言うのも、まだ「身分の高い人々」(※フランス語)は全く僕の音楽を聴いていないからだ。2回目の演奏会の時、平土間から大きな声で“公会堂でやってくれ”と叫んだ人がいたが、僕がこのアドヴァイスに従うかどうかは疑問だ。もし演奏するとなれば劇場でだろう。これは収人の問題じゃなくて、だって劇場は僕にあまり収人をもたらさないからだ。(一切は会計係に任せてあって、この男が万事好きなようにしていた)この2度の演奏会から費用を全部差し引いた後、僕が受け取ったお金は5,000グルデン[*約2,500マルク]にも満たなかったのに、それでも『ワルシャワ通信』の編集者ドムシェフスキは、僕の演奏会ほど大入りだった事は一度もなかったと言っているんだよ。それに、公会堂は色々と心配事や準備が要るし、あらゆる人を喜ばせられないだろう。ドブルジンスキ[*フェリックス・イグナーツ・ドブルジンスキはピアニスト兼作曲家で、1807年に生れ、1867年にワルシャワで亡くなった]は、僕が彼の交響曲をプログラムに入れなかったためにご立腹だ。W夫人は、僕が彼女のためにボックス席を取って置かなかったのを悪意に取っている、等々。 僕はまだ面白い事を少しも君に話していないように思うのだが、不本意ながらこれで手紙を閉じるよ。後は全部デザート用に取っておこう、それは暖い抱擁以外の何物でもないけどね。 君のフレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。
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オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.』1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』(Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた。
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カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「1830年3月27日、ワルシャワにて 僕は今ほど君がいないのを寂しく思った事はないよ、なぜって僕の気持を打ち明けられる人が一人もいないからだ。演奏会の後では、ここのあらゆる批評家達の称讃よりも、君の一瞥の方がよっぽど有難かっただろうに。」 |
「1830年3月27日、土曜日 我が最も親愛なる生命よ! 僕は今ほど君がいないのを寂しく思った事はないよ;なぜって、君がいないせいで、僕の気持を打ち明けられる人が一人もいないからだ。各々の演奏会の後では、ジャーナリスト達や、エルスネル、クルピンスキ、ソリヴァらの称賛よりも、君の一瞥の方がよっぽど有難かっただろうに。」 |
さて、今回の手紙で最も注目されるべきは、実は「1830年3月27日」という日付にある。
と言うのも、前回紹介した「第6便」が「1829年11月14日」なので、この2つの手紙の間には約4ヵ月半ものブランクがあり、両者の内容も全くつながっていないからだ。
前回の手紙では、アントニンのラジヴィウ公爵邸を訪問した事が報告され、「僕自身としては、追い出されるまで滞在できたのだが、僕の仕事が、取り分けまだ終楽章を待ちくたびれている僕の協奏曲が、僕にこのパラダイスを去る事を強制したのだ」と書かれていた。ところが今回の手紙では、その「協奏曲」はとっくに完成してすでに初演と追加公演で2度も公開演奏された事が報告されており、つまりその間の過程報告がスッポリと抜け落ちている。
またその間には、クリスマスがあり、新年も明けている訳だが、そのようなビッグ・イベントを経過しても全く音沙汰がなかったなんてちょっと考えにくいだろう。
要するに、この4ヵ月半のブランクの間にも両者は確実に何通か手紙をやり取りしており、それらが失われているのである。
厳密に言えば、ヴォイチェホフスキがそれらの手紙の「写し」を取らなかったと言う事だ。もしも「写し」を取っていれば、それらは彼の遺族によって保管されていたはずで、他の「写し」と共にオピエンスキーによって公表されるに至っていたはずだからだ。
それでは、なぜヴォイチェホフスキはこれらの手紙の「写し」を取らなかったのか?
答えは簡単で、彼にとって、他人に読まれると都合の悪い事が書かれていたからである。
誰だって、そのような事が書かれている手紙の「写し」をわざわざ自分で取って、後世に残すなり誰かに見せるなりしようとする馬鹿はいないだろう。ヴォイチェホフスキのように政治家ともなれば尚更だ。
ヴォイチェホフスキは、他人に見せられる手紙については、自分の都合のいいように改ざんを加えて「写し」を取り、そうでないものは丸々「写し」を取る事もせずに、どちらの「原物」も生前に全て処分してしまったのである。
それでは、ヴォイチェホフスキにとって「都合の悪い事」とは何だったのだろうか?
この4ヵ月半の間に、ショパンは「協奏曲」を完成させ、それをもって、いよいよ記念すべきプロ・デビュー公演を行なうに至っている。
ショパンは、それに伴う過程報告を、逐一ヴォイチェホフスキ宛に書き送っていたはずで、曲が完成すればそれを報告していただろうし、場所や日程が決まればそれを手紙で教えていただろうし、共演者やプログラムが決まればそれを知らせてもいただろう。実際ショパンは、10月に開かれる事になる告別演奏会の際には、そのような手紙を書き送っているからだ。
今回に関しても、ショパンが「協奏曲」を前年のクリスマス前には完成させていた事が分かっている。当時の『ワルシャワ通信(クリエル・ワルシャフスキ)』に、以下のような記事が掲載されているからだ。
「クリエル・ワルシャフスキ、一八二九年十二月二十三日、ワルシャワ 先週土曜日わが町で、これまでにない美しい催しが開かれた。この催しにはショパンの才能が大いに寄与していた。このわが同胞は外国で絶賛されたものの、祖国ではこれまでのところその才能を十分には披露していない。もちろん慎み深さは才能ある者の持つ美徳であるかもしれないが、このような形で表われるのを殊勝な態度といって手放しで褒めたたえるわけにはいかない。ショパンの才能は祖国のものではないのか? ポーランドはショパンを正しく評価していないというのだろうか? ショパンの作品は疑いもなく天才の所産である。彼の作品の一つである「ピアノ協奏曲 ヘ短調」は、ヨーロッパでも一流の音楽家の作品と肩を並べる出来といってよい。我々はショパンにこれまでもしばしば懇願してきたように、彼自身の栄光やわが国にとって不利な、ポーランドは偉大な才能を生み出せる国だという喜ぶべき結論を打ち消すような消極的な姿勢をやめるよう望みたい。」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より |
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ちなみに、ショパンがまだ協奏曲を1曲しか書いていない時分に、それを「ヘ短調」であると特定している当時の資料はたったの2つしかなく、これはそのうちの1つである。それ以外は、ショパン自身の手紙も含めて、すべて単に「協奏曲」としか書かれていない。
これは、ごくプライベートな音楽夜会において、完成したばかりの「ピアノ協奏曲 ヘ短調▼」の試演奏を行なったもので、この事をショパンが、クリスマス時にヴォイチェホフスキ宛の手紙で報告しないというのは考えにくいだろう。
更にショパンは、今回の演奏会を迎えるに当たって、その本番の2週間前に、自宅に音楽関係者らを招いて宣伝を兼ねたリハーサルを行なっており、その時の様子は以下のように伝えられている。
「ポフチェクニ―・ズィエニク・クラヨヴィー、一八三〇年三月四日、ワルシャワ 今までその作品についてあまり知られていなかった若き才能にある評論家が気づかせてくれた。ショパンはこれまで卓越したピアノ演奏家としてのみ名をなせていた。だが水曜日、ショパンの別の面を見る機会を得たのである。ショパンは自宅でフル・オーケストラをつけて、すばらしい自作のリハーサルを行い、彼自身がその協奏曲を演奏した。聴衆には専門家も素人もおり、クルピンスキやエルスナーなど音楽家の姿もあった。…(以下略)…」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より |
これと同様の事が、10月の告別演奏会の際にも行われていて、そちらについては、ショパンはヴォイチェホフスキ宛の手紙で詳しく報告しており、したがっておそらく今回もそうだったに違いないのである。
なぜかとなら、今回の「第7便」にも「今ほど君がいないのを寂しく思った事はない」と書かれているように、ショパンが今回の演奏会を誰よりも聴かせたかった相手が、正にヴォイチェホフスキその人だったからだ。
したがって、ショパンはヴォイチェホフスキを自分の演奏会に誘うように、いや、彼が演奏会に来てくれる事はむしろ当然の事として、そのような内容の手紙を彼宛に書き送っていたはずなのだ。
だが、現実には、ヴォイチェホフスキは来なかった。
彼はポトゥジンの領主であり、それこそ自由に使えるお金も時間も十分にあるような身分の人間だったにも関わらず、そして音楽に対する造詣が深いとも伝えられているような人物であるにも関わらず、唯一無二の親友とされているショパンの記念すべきプロ・デビュー公演を聴きに来なかった。
この腑に落ちない事実に誰も疑問を抱こうともしない事こそが、そもそも私にしてみれば大きな疑問なのだ。
間違いなく彼は、ショパンの執拗な要請に対して、自分がワルシャワヘは行けない理由を何やかやと言い訳する返事を書き送り、ショパンがそれに対して拗ねてみせる…といったやり取りをしていたはずで、おそらくその顛末が、ヴォイチェホフスキのプライベートに踏み込む内容だったか、あるいは、ますますショパンの同性愛的傾向を疑われ兼ねないような内容だったかしていたために、それらの手紙の「写し」を取る事が憚られたのである。
そもそもヴォイチェホフスキが手紙の「写し」を取ったのは、カラソフスキーから資料提供の要請があったからであり、それがなかったら彼は最初から「写し」など取っていなかった。つまりヴォイチェホフスキは、世間に公表する事を目的に自らの都合で手紙を改ざんしてもいたのだから、具合の悪い内容の手紙については、最初から「写し」など取ろうとするはずがないのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君の手紙を受取った時すぐに、僕は、僕の最初の演奏会について君に説明したかった。でも、月曜日に催された2回目の準備に忙殺されて考えをまとめる事ができなかったんだ。実は今日だってさほど落ち着いてる訳ではないんだが、これ以上この手紙を出すのを遅らせられないからね、だって郵便馬車も出ちゃうし、僕の心がいつまた静まるかなんて、誰に分かるんだい?」 |
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若干ニュアンスの違いはあるが、言っている事はほぼ同じ。 |
ここには「君の手紙を受取った時すぐに、僕は、僕の最初の演奏会について君に説明したかった」とあるが、これによって、ヴォイチェホフスキからの手紙が、ちょうど最初の演奏会が終わった直後くらいに届いていた事が分かる。
ショパンの方から先に手紙を書かない限り、ヴォイチェホフスキから手紙が来るなどと言う事はない(※例外はショパンの家族の命名日や命日などの記念日だけ)。
つまり、この「第7便」以前に、ショパンがヴォイチェホフスキ宛に、プロ・デビューの演奏会の告知をした「失われた手紙」を送っていた事は明白であり、だからこそヴォイチェホフスキは、その演奏会が終わった頃にちょうど届くように、「行けなくて本当に残念だったけど、上手くいったかい?」みたいな内容の返事を書き送っていた事が推察されるのである。
こんなところから、将来の政治家であるヴォイチェホフスキの、いかにも政治家らしい根回しの良さが垣間見られるだろう。
この人物は、このように言葉巧みに人の心を掴むのが非常に上手くて、多少のいざこざがあってもすぐに相手のご機嫌を取ってしまう術に長けているようだ。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#3. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「最初の演奏会では、ボックス席も特等席も3日前に売り切れになったが、概して、僕が期待していたような印象を与える事はできなかった。ヘ短調・協奏曲の第1楽章のアレグロ(これは誰にでも理解されにくい)は、最初のブラボーで報われはしたが、でもこれは、僕が思うに、聴衆が真面目な音楽を理解し、また評価する術を知っているという事を示そうとしたからだ。通ぶった人はどこの国にもたくさんいるものだ。アダージョとロンドは素晴らしい効果をあげて、心からの喝采とブラボーの叫びが続いた。でもポーランドの歌によるポプリ[*ポーランド民謡による大幻想曲 作品13]は全く的が外れた。人々は実際拍手したが、しかし明らかに、彼らが退屈していないという事を演奏者に見せたに過ぎなかった。」 |
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内容はほぼ同じだが、こちらでは「ヘ短調・協奏曲」と言う曲名までは書かれていない。 |
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「ヘ短調・協奏曲」については、私のBGM付き作品解説ブログ「ピアノ協奏曲 第2番 ヘ短調 作品21(2台ピアノ版)▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます。
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「ポーランドの歌によるポプリ」[*ポーランド民謡による大幻想曲 作品13]については、私のBGM付き作品解説ブログ「ポーランド民謡による大幻想曲 変イ長調 作品13(ピアノ独奏版)▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます。
さて、ショパンが以前「第4便」において「捏造された初恋」を告白させられた際、カラソフスキーは、当時作曲中の「協奏曲」を、実際は《ヘ短調 作品21》であるはずなのに、わざわざ「新しい協奏曲」と書き換え、そしてそれを[協奏曲 ホ短調 作品11]であると註釈していた。
そして今回の「第7便」においては、この箇所で、元々原文には単に「アレグロ」、「アダージョ」、「ロンド」としか書かれていなかったものを、わざわざそこに「ヘ短調・協奏曲の」と書き加えている。実際、今回の2度に渡る演奏会で演奏されたのは《ヘ短調 作品21》の方であるから、カラソフスキーがそのように書き加えていたところでさしたる問題はないのだが、しかし彼はこのずっとあとになっても、「第12便」を紹介する際に以下のように解説している。
「*グラドコフスカ(※グワトコフスカ)嬢はショパンの理想の実現であった。彼女を思う念は当時書いた作品に織り込まれている。彼女を夢想しながら、ホ短調協奏曲のアダージョを書いた。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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どうやらカラソフスキーの中では、実際の作曲順がどうであろうとお構いなしに、ショパンはこの時期に、のちに《ロマンス―ラルゲット》と名付けられるこの曲を書いていた事にしてしまっているらしい。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「クルピンスキ[*カロル・クルピンスキ。バンドマスターで、国民的オペラをいくつか作曲した。1785年に生れ、1857年にワルシャワで亡くなった]はその晩、僕の協奏曲に新鮮な美を発見したと言った。エルネマンはすっかり満足していた。エルスネルは、僕のピアノがあまり強くなくて、彼が考えていたほど低音がはっきり聞こえなかったのを残念がっていた。」 |
「クルピンスキはその晩、僕の協奏曲に新しい美を発見したと言った;しかしヴィマンは、人々が僕のアレグロの何が良いと言っているのか未だに分からないと認めていた。エルネマンはすっかり満足していた。エルスネルは、僕のパンタレオン(※ピアノの事だが、当時ショパンが所有していた機種)がぼやけていて、低音のパッセージが聞こえなかったのを残念がっていた。」 |
この箇所では音楽関係者らの証言が列挙されているが、カラソフスキーはその中から「ヴィマン」なる人物の否定的な意見のみを削除している。
また、「エルスネル」の感想については、若干ニュアンスを柔らかく表現させているが、この手の指摘はショパンの演奏会では必ずと言っていいほど付いて回るもので、ウィーンでも同様の事が言われていた。つまり、ショパンは身体的に虚弱ゆえ、得てしてピアノの音が小さいがために、大きなコンサート・ホールでの演奏は不向きだったのである。その欠点は、オーケストラと競演する時に最も顕著となった。
その上ショパンは、その作品も演奏法も、力強さよりも繊細なニュアンスの方をより重要視していたため、自分の演奏方法を変えるつもりも毛頭なかった。ショパンは、肉体的な強さでフォルテッシモを打ち鳴らすよりも、逆にピアニッシモをより繊細に表現する事でフォルテをフォルテッシモに聴かせる術を持っていた。だからこそ彼の演奏は、サロンのような小規模で打ち解けた空間で独奏する時にこそ真価を発揮し、誰よりも人々を魅了したのである。のちにショパンがパリで名声を獲得して以降、演奏活動をほとんど行なわずに、もっぱらピアノ独奏用の小品の作曲に専念するようになったのは、彼が自分の欠点を逆に良い方向へ転換させた事の結果だとも言えるだろう。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#5. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「天井桟敷に坐っていた人達やオーケストラの傍に立っていた人達が最も満足していたようだった;平土聞にいた人達は演奏がソフト過ぎると苦情を言った。僕は、“コブチュシェク”[*大抵の文学者が集まるカフェで、ドイツ語で言うところの「アッヒェンブレーデル」(シンデレラ)]で僕の噂話を聞くのが大好きなんだが。」 |
「その晩は、天井桟敷に坐っていた人達やオーケストラの傍に立っていた人達が最も満足していたようだった;平土聞にいた人達は演奏がソフト過ぎると苦情を言った;僕は、“コブチュシェク”[*芸術家や文学者がよく行くカフェ]でみんなが僕について議論を戦わせるのを聞きたかった。」 |
ここでは、一般の人々の感想が書かれているが、要するに、彼らにしてみれば、会場のどの位置で聴いていたかによってその意見が大きく分かれており、これは音楽そのものの内容以前の問題になってしまっていた事が分かる。ショパンは、そのような意見よりも、音楽以外の芸術関係者らの屈託のない意見を聞いてみたいと言っているようである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#6. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「平土間の批評のために、モフナツキ氏は『ポーランド通信』で僕を褒め上げた後――特にアダージョをね――将来のためには、もっと多くのパワーとエネルギーを使って演奏するようにと、僕にアドヴァイスした。僕は、このパワーなるものが何処にあるのかよく分かっていたから、それで2回目の演奏会では自分のを使わずウィーンの楽器で弾いた。今度は、聴衆はずっと多かったが、完全に満足していた。」 |
「そのため、モフナツキ氏は『ポーランド通信』で僕を褒め上げた後――特にアダージョをね――もっと多くのエネルギーを使って演奏するようにと、僕にアドヴァイスして結んだ。僕は、このエネルギーなるものが何処にあるのか思いついたので、それで2回目の演奏会では自分のを使わずウィーンの楽器で弾いた。ディアコフというロシアの将軍が、親切にも彼のを貸してくれて、それはフンメルのよりもいい楽器なんだ;それで、今度は、聴衆はずっと多かったが、完全に満足していた。」 |
ここでのカラソフスキーの編集は非常に分かりやすい。
あくまでも国粋主義者である彼は、ショパンが寄りによって「ロシア」の、しかも「将軍」から施しを受け、その上それを「親切」と書いている事が我慢ならないのだ。だからその箇所だけ抜き取って削除してしまっている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#7. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「拍手は留まるところを知らなかったし、僕は、一つ一つの音が鐘のように鳴り響き、前より遥かに綺麗に弾いたと確信している。僕がステージに呼び戻されて現れた時、“もう一度演奏会をやってくれ”と叫んだ人達がいた。クラコヴィアクはもの凄いセンセーションを巻き起こした;4回の喝采が起ったほどだ。クルピンスキは、僕がウィーンのピアノでポーランド・ファンタジア(※ポーランド民謡による大幻想曲)を弾かなかったのを残念がっていて、グジマウァは別の日に同じ意見を『ポーランド通信』で繰り返した。エルスネルは、2回目の演奏会の後じゃないと僕は正しく評価されなかっただろうと言っている。正直に告白すると、僕は自分のピアノで演奏しなかったのだが、ウィーンのピアノは、概して僕のよりは建物の規模に適していると考えられた。」 |
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ほぼ同じだが、こちらでは「鐘」ではなく「真珠」と書かれている。 |
昨年のウィーンでの演奏会でも、追加公演で演奏した《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 作品14》▼は聴衆から関係者から全てを熱狂させていたが、今回も同じ結果になった。
オーケストラを伴うために現在ではほとんど忘れ去られているショパン作品の一つだが、確かにこの曲には、そういう力があるように思われる。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#8. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「君は最初の演奏会のプログラムの内容を知っている。」 [*1830年3月17日にワルシャワ劇場で演奏されたプログラムは次の通りである。 第一部 1、エルスネル作曲、歌劇《レシャック・ビアリイ》の序曲。 2、《ヘ短調・協奏曲》よりアレグロ。ショパン氏自作自演。 3、《ホルンのためのディヴェルティメント》。ゲルネル氏自作自演。 4、《ヘ短調・協奏曲》よりアダージョとロンド。ショパン氏自作自演。 第二部 1、クルピンスキ作曲、歌劇《セシリア・ビアゼチンスカ》の序曲。 2、パエール作曲、《変奏曲》。マイエル夫人。 3、ショパン氏作曲、国民歌曲によるポプリ(※ポーランド民謡による大幻想曲)。] |
※
同じ。ただし、「プログラム」の具体的な内容はもちろん書かれていない。 |
※ ちなみに、ここに書かれている註釈では、ショパンの協奏曲がいずれも《ピアノ協奏曲 ヘ短調》▼となっているが、これはドイツ語版の初版によるもので、ショパンが実際に弾いた演目と一致している。しかし第3版を英訳したものでは、どういう訳かこれがどちらも《ホ短調・協奏曲》になっている。邦訳版はおそらくこの英訳版を重訳したものと思われ、邦訳版も《ホ短調・協奏曲》になっている。残念ながら私は、第3版をドイツ語版の原文では確認していないので、この英訳版の《ホ短調》が誤植なのかどうか分からない。もしもその原版のドイツ語版でも《ホ短調》になっているのなら、カラソフスキーがわざわざ事実とは違う方に改訂してしまっていた事になるのだが…。
さて、ここで注目すべきは、カラソフスキーによる「プログラム」についての詳細な註釈である。
と言うのも、ショパンの記念すべきプロ・デビュー・コンサートの完全な「プログラム」を伝えている資料と言うのは、実は今のところこれしかないからなのだ。
当時この演奏会について伝えている新聞雑誌等は、すべてクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』でその実際の資料を確認する事ができるが、それらを全て総合しても、この演奏会の全ての演目をここまで完全に特定する事はできないし、またこのように[第一部]と[第二部]で別れていた事も分からない。
つまり、そのような貴重な情報を、一体カラソフスキーがどうやって知り得たのか? そこが重要となる。
言うまでもなく、これは、彼が直々にヴォイチェホフスキに取材した結果である。
この手紙には、「君は最初の演奏会のプログラムの内容を知っている」と書かれているだけで、その具体的な演目については書かれていない。
となれば、ショパンはこれ以前の手紙でそれをヴォイチェホフスキに知らせていた事が分かり、となれば当然カラソフスキーは、それが何なのかを直接ヴォイチェホフスキに問い合わせるだろう(それをしない伝記作家などいないだろう)。
それでヴォイチェホフスキは、ショパンがそれを知らせてきた手紙の中から、その「プログラム」の内容だけを書き出して伝記作家に資料提供したのである。
※
ただし、ショパンは最初に作曲した《ヘ短調・協奏曲》▼については、ヴォイチェホフスキ宛の手紙の中で一度もその調性を《ヘ短調》だと言及した事はない。それについて言及するのは、2作目の《ホ短調・協奏曲》を書いて以降で、言うまでもなく両者が混同しないためである。なので、ショパンが1回目の演奏会のプログラムをヴォイチェホフスキに手紙で知らせた際にも、そこにはいつものように「僕の協奏曲の――」と言う書かれ方しかしていなかったはずだ。したがってそれを《ヘ短調》もしくは《ホ短調》と特定しているのは、あくまでもカラソフスキーの解釈のはずである。
これによって我々は、今回の「第6便」以前に、ショパンが演奏会の準備に関わる詳細をヴォイチェホフスキ宛に書き送っていたはずの、その「失われた手紙」の存在を、間接的にはっきりと確認する事ができるのである。
このように、カラソフスキーは、伝記作家として当然やるべき事はやっていたのだ。
それなのに、その彼が「当然やるべき事」をやっていない場合、そこにはきっと「嘘」が隠されていると見なせる事にもなってしまう訳だ。
たとえば「理想の人」が誰なのか?とか、「小さなワルツ」の「×印」が何なのか?とかが正にそれだ。
最初からそんなものは存在しない事をカラソフスキーが知っていない限り、彼はそれらの件に関して、「当然やるべき事」を放棄するはずがないのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#9. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「2回目はノワコフスキ[*ショパンの学友で1800年に生れ、1865年にワルシャワで亡くなった]の交響曲で始まり、次に僕の協奏曲の第1楽章のアレグロが繰り返された。それから劇場付きの音楽々長のビエラフスキがペリォの《アリア・ヴァリエ》を演奏し、再び僕が僕のアダージョとロンドを弾いた。第二部は《ロンド・クラコヴィアク》で始まった。マイエル夫人はソリヴァの歌劇《ヘレンとマルヴィナ》中のアリアを唄った。そして最後に僕が民謡《街には妙な風習がある》をテーマに即興演奏をして、一番前の列にいる人達を大いに喜ばせた。率直に言うと、僕は自分の思った通りに即興演奏を弾かなかったが、たぶんこの種の聴衆には気に入られなかっただろうからだ。」 |
※
ほぼ同じだが、ただしこちらでは、「ノワコフスキの交響曲」は(儀礼上)だと書いてある。 |
ここでは、「2回目」の演奏会のプログラムが報告されている。
この「2回目」の演奏会ついては、ウィーンの時と同じように、最初の演奏会の成功を受けて急遽追加されたものなので、ショパンは当然、ヴォイチェホフスキには事前に知らせられなかった。
最初の演奏会が「17日」で2回目が「22日」なので、その間たったの5日しかない。これでは、ヴォイチェホフスキを呼びたくてもとうてい間に合わないからである。
ヴォイチェホフスキの住むポトゥジンはワルシャワから遠く、ポーランドの最果てでウクライナとの国境沿いに位置する。地図上の直線距離ではラジヴィウ邸のあるアントニンまでと変わらず、片道でもおそらく馬車で3〜4日を要するものと見られ、仮にショパンが追加公演の知らせをすぐにヴォイチェホフスキに送ったとしても、折り返しヴォイチェホフスキがワルシャワヘ向かって着く頃にはもうとっくに演奏会は終わってしまっている。だから「2回目」に関しては、どうしても事後報告にならざるを得なかったのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#10. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕は、アダージョがこんなにも多くの人に喜ばれたのを不思議に思っている;僕が聞いたところでは、僕を最も嬉しがらせる意見はこれに関するものばかりだ。君は新聞を読むに違いないが、それで僕が公衆から非常に気に入られていた事が分るだろう。」 |
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ほぼ同じ。 |
※
この「アダージョ」と言うのは協奏曲の第2楽章の事であるが、これは出版の際に「ラルゲット」に変更されている。
さて、私は再三に渡って、ショパンが「第4便」で「理想の人」について告白して以来、それに関する続報はおろか、ショパンが現在「初恋の真っ最中」である事を匂わすような記述が一切見られない事の不自然さについて指摘してきた。
それはこの手紙についても同様で、ここでショパンは例の「アダージョ」について特に言及しているが、この曲が本当に「理想の人」を夢見ながら構想したと言うのであれば、これを一番聴かせたい相手は正にその「理想の人」のはずだろう。それなのに、その人が今回の2度に渡る演奏会に来ていたかどうかについてすら言及していないなんて、そんな事が果たして考えられるだろうか? 初恋をしている若者にとって、その優先順位は、どう考えたって同性の親友よりも異性の意中の人だろう。それなのにショパンは、ヴォイチェホフスキへの愛は惜しみなく語るのに、一方の「理想の人」については、最初からそんなものはいないかのように素通りし続けている。
カラソフスキーの解説では、その「アダージョ」はあくまでも《ホ短調・協奏曲》の《ロマンス―ラルゲット》なのかもしれないが、ショパンが当時実際に書いていたのは《ヘ短調》の方なのだから、ショパンの初恋話をでっち上げたヴォイチェホフスキの設定では、今回の協奏曲の「アダージョ」こそがそれだったはずである。
何度でも言うが、ショパンが現在「初恋の真っ最中」である事を前提にこれらの手紙を読んでいると、それこそあちらこちら違和感だらけなのだ。しかし逆に、その初恋話がでっち上げであると言う前提に立てば、それに関しては全く何の不自然さも感じないのである。
それほど、あの「第4便」における「理想の人」のくだりは、文字通り「取って付けた」ような文章なのだ。これは、手紙をその前後に渡って全て通して読んでみれば、誰もが容易に感じる違和感なのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#11. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕に宛てた詩と大きな花束とが僕の家へ届けられた。」 |
「モリオール嬢は僕に月桂冠を送って来て、それから今日は誰かから詩を受け取った。」 |
※ 「モリオール嬢」 シドウの註釈によると、「アレクサンドリーヌ・ド・モリオール(Alexandrine de Moriolles)はショパンの幼友達で、《マズルカ風ロンド 作品5》▼を献呈されている。彼女の父モリオール伯爵は、コンスタンチン大公(※ロシア皇帝ニコライU世の兄で、当時のワルシャワを統治していたポーランド提督)の子供達の家庭教師」。
カラソフスキーはここで、ショパンの幼友達である「モリオール嬢」の名前だけを消してしまった。
彼女の名は、ショパンが初期の作品を献呈した重要人物の一人として歴史に記録されていると言うのにだ。
後で説明するが、この「モリオール嬢」と言うのは、実はショパンの本当の初恋の相手だったのである。しかしそれにも関わらず、彼女がコンスタンチン大公家と懇意にしていた事がカラソフスキーの逆鱗に触れ、そのためショパンの恋愛対象として相応しくない人物としてブラックリストに載せられてしまったのだ。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#12. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕の協奏曲の主要なテーマに基づいてマズルカとワルツが編曲され、」 |
「オルウォフスキは僕の協奏曲のテーマに基づいてマズルカとワルツをいくつか書いた。」 |
※ 「オルウォフスキ」 シドウの註釈によると、「アントニ・オルウォフスキ(Antone
Orłowski 1811−1861) ヴァイオリニスト兼、作曲家で、ワルシャワ音楽院でのショパンの同級生。彼はポーランドの革命のあとフランスに移住し、ルーアンの劇場の指揮者になった」。
カラソフスキーはここで、ショパンの学友である「オルウォフスキ」の名前だけを消してしまった。
この「オルウォフスキ」のエピソードには続きがあり、次回の「第8便」でちょっとした一悶着が報告される。
いつもならカラソフスキーは、そのような場合は文章ごと削除していたのだが、先の「モリオール嬢」にせよこの「オルウォフスキ」にせよ、両者は今回のショパンのプロ・デビュー公演の成功物語に花を添えるエピソードを提供してくれているため、その行為だけは残しておきたかったのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#13. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「ブルゼジィナは僕の肖像画を描かせてくれと願んできたが、僕はそれは辞退したよ。これでは突然あまりにも行き過ぎだし、それにレレウェルの肖像画の時のように、僕の写ってる紙でバターが包まれるなんてご免だからね。」 |
「ブルゼジィナと提携しているゼネヴァルトは、僕の肖像画を求めてきたが、僕はそれは辞退したよ。これではあまりにも行き過ぎだし、それにレレウェルの肖像画の時のように、僕の写ってる紙でバターが包まれるなんてご免だからね。」 |
※
「ゼネヴァルト」 シドウの註釈によると、「ゼネヴァルトはショパンの肖像画を印刷して売る事を望んだ」。
※ 「レレウェル」 シドウの註釈によると、「ジョーキン・レレウェル(Joachim Lelewel 1780−1861) ポーランドの偉大な歴史家で、愛国者。 多くの著作の中でも、我々はレレウェルによる音楽の文献目録・全2巻(ワルシャワ 1826年)に負うところが大きい」。
カラソフスキーはここでも、「ゼネヴァルト」の名前だけを消し、その行為自体は残している。
「ブルゼジィナ」はショパンが少年期からずっと懇意にしているワルシャワの楽譜屋で、今までも何度か手紙の中で言及されていたが、「ゼネヴァルト」はここで初めて聞く名前だ。文脈から察しておそらく画商だと思われるが、それゆえショパンとはさほど接点がなかったのだろう。それで、提携している「ブルゼジィナ」に交渉を依頼したのではないだろうか。
次の箇所は、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#14. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「できるだけ早く君にそれ(※肖像画)を送るよ;君が望むなら、それは君のものになるだろう;でも、君以外の誰にも僕の肖像画はあげない。他に1人だけあげるつもりの人がいるけど、最初に君にあげてからだ、だって君は僕の最も親愛なる人だからね。僕以外には誰も君の手紙を読んでいないよ。いつものように、僕は君の手紙を一緒に持ち歩いている。それは何という喜びだろう、5月には、僕の旅行が近付くのを思いながら、君の手紙を持って町の郊外へ行き、君が僕の事を気に掛けてくれているのを実際に確かめ、あるいは少なくとも、とても愛する人の文字やサインを見られると言うのだから!」 |
※
ヴォイチェホフスキがショパンの肖像画を欲しいと言っていたという話は、前回の「第6便」にも書かれていた。
※
オピエンスキー版では、この箇所の頭で改行されているのが本文中唯一の改行である。
この箇所を読んで、率直にどう思うだろうか?
このような愛情表現が、果たして、21歳の青年の、同性の親友に対するそれとして適切だと言えるだろうか?
たとえばこれが、例の「理想の人」とやらについて書かれた文章なら何の違和感もないだろう。しかし実際はそうでなく、相手はあくまでもヴォイチェホフスキである。
そして、ここには「他に1人だけあげるつもりの人がいる」と書かれているが、この「人」をグワトコフスカであると解説している著書を多く見かける。
しかし、本当にそれでいいのだろうか?
仮に「理想の人」の話が本当だったとしてもだ、それならショパンは、彼女に一目ぼれして以来一度も口をきく事もなく片思いし続けている訳だが、そのような状況にある人間が、果たして、いきなり自分の肖像画を相手にあげたいと思うものだろうか? 彼女の肖像画を自分が欲しいと思うのが普通で、どう考えてもその逆はないだろう。そんな事をしたら、もはやナルシストを通り越してちょっと気持ちの悪い人間になってしまう。ショパンはナルシストどころか、完全にその逆で、むしろ自虐的な人間なのである。
それに、仮にこの「人」が本当に「理想の人」でそれがグワトコフスカであると言うのなら、それを知っているはずのカラソフスキーがなぜこの箇所をそっくり削除してしまっているのか? その事自体がもう考えられない話だ。
この箇所をカラソフスキーが削除した理由は簡単で、何度も言うように、ショパンとヴォイチェホフスキとの間に同性愛疑惑が起こるのを避けようとしていたからだ。そしてこの時点のカラソフスキーには、まだ「理想の人」をグワトコフスカだった事にして話を膨らませようと言う目論みはなかった。だから「第4便」で「理想の人」をでっち上げて以来、その件に関してはもう完全にノータッチだったのである。なぜなら元々「理想の人」と言うのは、ヴォイチェホフスキが同性愛疑惑を避けるためにショパンにあてがった架空の女性だからで、だからでっち上げた時点でもうその役目はとっくに終わっていたからだ。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#15. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「3回目の演奏会を開いて欲しいという希望があらゆる方面で述べられているが、僕はそれをしたくない。君には、演奏前の数日間に感じなければならない緊張が信じられないだろう。僕は、第二協奏曲の最初のアレグロを休暇前には仕上げたいと思っている。それで、この次は更に聴衆が多くなるだろうと確信してはいるものの、とにかく復活祭が終わるまでは待つつもりだ。と言うのも、まだ「身分の高い人々」(※フランス語)は全く僕の音楽を聴いていないからだ。2回目の演奏会の時、平土間から大きな声で“公会堂でやってくれ”と叫んだ人がいたが、僕がこのアドヴァイスに従うかどうかは疑問だ。もし演奏するとなれば劇場でだろう。これは収人の問題じゃなくて、だって劇場は僕にあまり収人をもたらさないからだ。(一切は会計係に任せてあって、この男が万事好きなようにしていた)この2度の演奏会から費用を全部差し引いた後、僕が受け取ったお金は5,000グルデン[*約2,500マルク]にも満たなかったのに、それでも『ワルシャワ通信』の編集者ドムシェフスキは、僕の演奏会ほど大入りだった事は一度もなかったと言っているんだよ。それに、公会堂は色々と心配事や準備が要るし、あらゆる人を喜ばせられないだろう。ドブルジンスキ[*フェリックス・イグナーツ・ドブルジンスキはピアニスト兼作曲家で、1807年に生れ、1867年にワルシャワで亡くなった]は、僕が彼の交響曲をプログラムに入れなかったためにご立腹だ。W夫人は、僕が彼女のためにボックス席を取って置かなかったのを悪意に取っている、等々。」 |
※
ほぼ同じだが、ただしこちらでは、書き出しに「先週、」と書いてある。 ※
また、「僕の演奏会ほど大入りだった事は一度もなかった」の箇所には、「初めてのピアノの演奏会で」と言う但し書きがある。 ※
また、「あらゆる人を喜ばせられない」の箇所は、「僕はあらゆる人のためには弾けない、貴族のためか、さもなければ町民のためかのどちらかだ。以前にもまして、“いまだ生まれざる者あり、それは万人を満足させる者なり”と言う事を感じている」となっている(※これはポーランドの古い諺で、「全ての人を満足させられる人間などいない」、あるいは、「すべてがうまくゆく人間などいない」と言うような意味)で、昨年のウィーンでの演奏会の後にも家族宛に書いていた言葉) ※
また、「W夫人」は、はっきり「ヴォジンスカ(Wodzińska)夫人」と書かれている。 |
カラソフスキーがここでイニシャルに書き換えてしまった「W夫人」こと「ヴォジンスカ夫人」と言うのは、将来ショパンが本当に恋に落ちて婚約する事になるマリア・ヴォジンスカの、その母親である。ヴォジンスキ家の息子達がショパン家の寄宿学校の生徒だった事もあり、両家は家族ぐるみで長い付き合いがあった訳だが、ただしこの手紙の当時のマリア・ヴォジンスカはまだ11歳ぐらいだから、ショパンの恋愛の対象となるにはちょっと早すぎる。
カラソフスキーの伝記においては、このマリア・ヴォジンスカは、あろう事かショパンを裏切って伯爵と結婚したなどと言う事実無根の濡れ衣を着せられている。つまりカラソフスキーにしてみれば、このヴォジンスキ家は、勝手に親の仇ぐらいに思っていたのかもしれない。
次の箇所は、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#16. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「ヴォジンスキと言えば、僕は2日前にプルシャックの所で催されたマリアンヌの命名日のパーティで会ったが、そこでは、他にも君の兄弟に会った事も思い出した;彼は相変わらず楽しく時を過ごしていて、君によろしくと言っていた。もうすぐ命名日だけど、――僕は聖ユゼフの日について考えている――彼らは結婚して25周年の記念祭を祝った(別名、銀婚式だね)。当然、夕食はミルク食品や色んな質素な珍味もなく始まった;いや、それは僕のためじゃないしね。昨日、僕はモリオールの所で食事をし、ディアコフの所で催されたパーティに行き、そこでソリヴァに会った。彼は君によろしくと言っていて、そのうち君宛の手紙を数通、僕に渡すと約束した。カチンスキと僕は、フンメルの《La Rubinelle》を弾いて、またそこでは、かなりいい音楽が何曲かあった。」 [*M・モリオール伯爵;ロシアのコンスタンチン大公の公子の家庭教師。ショパンはモリオールの娘(モリオルカと書かれている)と親しかったため、その関係から、ワルシャワの宮殿で大公の前で演奏した事がある。] |
相変わらずカラソフスキーは「プルシャック」を削除している。
「君の兄弟」と言うのはよく出てくるが、これはヴォイチェホフスキの継兄弟のカロル・ヴェルツの事。
この「銀婚式」と言うのは、おそらくユゼフ・エルスネル夫妻の事ではないだろうか?
「カチンスキ」はチェロ奏者で、次回の「第8便」でも共演が報告される。
ここで私が気にかかるのは、ショパンが「ディアコフ」のパーティに行ったくだりに関してだ。
この人物は、ショパンの2回目の演奏会で「親切」にも大きい音の出るピアノを貸してくれた「ロシアの将軍」だが、ショパンはその後もこうしてパーティにまで招かれている。これはさぞかしカラソフスキーの逆鱗に触れた事だろう。だから先ほどと同様にこの箇所でも削除されている。
そしてショパンは、そこでソリヴァに会った事について触れているが、ショパンにとってこのソリヴァと言うのは、正に「理想の人」であるグワトコフスカの師匠のはず。
ソリヴァの夜会では必ず、彼の愛弟子であるグワトコフスカ&ヴォウクフ嬢と会う事になる訳だが、ヴォウクフ嬢の方はロシア貴族の娘とされているから、ひょっとするとこの「ディアコフ」のパーティにも彼女達が来ていたかもしれない。しかし実際に来ていたかどうかはさて置き、少なくともショパンが、そう言った事に少しも関心を向けていないのが気にかかる。恋する者は藁にもすがる。ショパンがそのような淡い期待すら抱いていないと言う事が、「理想の人」など最初から存在していない事をますます裏付けているとも言えるだろう。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#17. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕はまだ面白い事を少しも君に話していないように思うのだが、不本意ながらこれで手紙を閉じるよ。後は全部デザート用に取っておこう、それは暖い抱擁以外の何物でもないけどね。 君のフレデリックより」 |
「僕はまだ面白い事を少しも君に話していないように思うのだが、不本意ながらこれで手紙を閉じるよ。後は全部デザート用に取っておこう、それは暖い抱擁以外の何物でもないけどね、だって僕には君以外に誰もいないから。 F.Chopin」 |
毎度の事だが、オピエンスキー版では単に「F.Chopin」と言うサインなのに、カラソフスキー版では「君のフレデリック」と言う風に、より親しさを演出するような署名に書き換えられている。
このあとの追伸部分が、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第7便#18. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「パパ、ママ、そしてその子供達、みんなが君に最高の挨拶を送るよ。ジヴニーもだ。僕はマックスに会って、ポトツキの所の劇場と、ナクヴァスカ夫人の所の夜会に行って来た。この前、四輪馬車に乗っているラチンスキを見たよ。」 |
さて、この箇所で注目すべきは、例の表現である。
「パパ、ママ、そしてその子供達」
この「子供達」と言う表現は、少年時代の「家族書簡」や「ビアウォブウォツキ書簡」では頻繁に使われていたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」においてはこれが前回に続いて3度目の登場となる。
これは、ショパンが自分の姉妹達を指して使う表現だが、しかしショパンがこの表現を使う時には必ず2つの条件があり、
1.
手紙の追伸部分でしか使われない事。
2.
必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記されている事(すなわち、パパとママとその子供達だからこそ「子供達」と表現しているのである)。
ここでも、きちんとこの2つの条件を満たしている事がお分かり頂けているかと思う。
[2011年12月17日初稿 トモロー]
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