検証3:ショパン唯一の文学作品 『シャファルニャ通信』――

Inspection III: KURYER SZAFARSKI by Chopin -

 


1.『シャファルニャ通信』 1824年8月16日号――

  1. KURYER SZAFARSKI, 16 August 1824.-

≪♪BGM付き作品解説 ショパン マズルカ 第2番 嬰ハ短調 作品6-2▼≫

 

『シャファルニャ通信』とは、「少年ショパンがシャファルニャと言う田舎の村から家族に宛てて書いた手紙」の事なのだが、しかしながら、本稿で前回紹介した「家族書簡」のような普通の手紙ではなく、実在する『ワルシャワ通信』と言う新聞をパロディにして、その新聞のレイアウトまでそっくりに真似し、日々の出来事を面白おかしく報告したものである。

また、必ずしも実際にショパンの身の回りで起きた事実だけを書き連ねている訳ではないらしい事から、本稿では敢えてこれを「文学作品」と表現した。いずれにせよ、ショパンがこのような形で自分の文章を書き残した例は他にない。

 

『シャファルニャ通信』は、この1824年の夏のみに刊行された期間限定紙で、現在、全部で6紙が知られているが、そのうち完品は4紙で、残り2紙は抜粋のみで知られている。

 

        クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、完品の4紙が写真掲載されている。ただし、自筆は1紙のみで、あとの3紙は全て「複製」である。

        一方、抜粋のみで知られている2紙は、完品そのものが確認されておらず、伝記等でその一部が抜粋引用された際の、その記述のみが典拠となっている。そのため不明瞭な点が多い。

        カラソフスキーは、イザベラから見せてもらったと言う「二冊」『シャファルニャ通信』の中から、たった一つの記事を抜粋で紹介しただけでとどめてしまった(※それについては後述する)。

        オピエンスキーの英訳版の書簡集では、『シャファルニャ通信』は一つも採録されておらず、現在我々が一般に目にする事が出来るのは、シドウの仏語訳版の書簡集のみである(※そのシドウ版をヘドレイが英訳選集した版では、その中から音楽に関係のある記事だけを3つ抜粋するにとどめてしまっている)。

 

この『シャファルニャ通信』は、ジョークや笑い話の類がその中心をなしているため、それだけに、ポーランド語の持つ独特の感覚やニュアンスが満載で、よほどポーランドやポーランド語に精通していなければ、とても外国語に翻訳できるような代物ではないようだ。

たとえばこれが普通の手紙であれば、送り手が受け手に何を伝えたいのかと言うその意味さえ把握できれば最低限それで事は足りるのだが、この『シャファルニャ通信』に関しては、それだけではちょっと意味をなさないと言うような記述が多い。本稿がこれを、「手紙」と言うよりはむしろ「ショパン唯一の文学作品」と銘打っているのは、実はそのような事情にもよるのである。

 

        しかしながら、実を言いますと、『シャファルニャ通信』の全文を直接ポーランド語から日本語に訳すと言う偉業を成し遂げた、足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)と言う素晴らしい本があるのですが、著作権上、まさかそれをここで全部紹介する訳にもいかないので、興味のある方は、是非そちらを手に取ってみる事をお勧めします。この本には『シャファルニャ通信』の全訳以外にも、非常に参考になる興味深い話がたくさん書かれています。著者の足達和子さんはワルシャワ大学ポーランド文学科に留学し、検察庁などでも通訳を務めたほどの経歴をお持ちで、本稿で度々紹介しているイェージー・マリア・スモテル著『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの"手紙"に関する抗争』(音楽之友社)を翻訳された方でもあります。

  

と言う訳なので、残念ながら本稿では、必然的に、シドウがフランス語に「意訳」したものを更に日本語に重訳して紹介する以外に手立てがない。その結果、足達和子著『ショパンへの旅』のような「厳密な翻訳」とはかなりかけ離れたものになっているが、シドウの「意訳」は分かりやすいと言えば分かりやすいので、却って、気楽に読み流して大雑把に内容を知るには打って付けとも言える。ただし、「ショパンの手紙を検証する」と言う本稿の主旨と観点から、ポイントとなる単語については、その都度クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』でポーランド語の原文を確認した。

 

 

それでは、『シャファルニャ通信』の第1号から見ていこう。これの原物は残っておらず、その「複製」を、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、写真で確認する事ができる。

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ■

(※原文はポーランド語)

1824816日    シャファルニャ通信〜       国民の備忘録:1820年。人々は中庭の養魚池を浚いました。

国内通信

 

本年の811日、フレデリック・ショパン氏、駿馬にまたがり競馬に参戦、首尾よくゴールを目指すものの、徒歩だったジェヴァノフスカ夫人に繰り返し追い抜かれる(これはショパン氏の落ち度ではなく、馬のせいとのこと)、それでも彼は、同じく徒歩だったルイーズ嬢がちょうどゴールに差し掛かった頃、かろうじて彼女に対し勝利を収めた。

        ここの「フレデリック」は、ポーランド語原文ではFryderykと綴られている。

ショパン氏は毎日馬車で出かけ、そして彼には、常に後部座席に坐るという栄誉が与えられた。

        ここの「ショパン氏」は、ポーランド語原文では「フランチシェク・ショパン氏」となっている。

ジャック・ショパン氏は毎日6杯のドングリ・コーヒーを飲み、そしてプチ・ニコラは小さなパンを4つ食す。注意:素晴らしい昼食と、3品の夕食に加えて。

        「ジャック・ショパン氏」とは自分の事。ショパンは様々な変名を用いて紙面上に登場する。ここはポーランド語原文では「ヤクブ(Jakób)・ショパン氏」となっており、どちらもヘブライ語起源の「ヤアコブ」に由来する名で、「ジャック(Jacques)」はそのフランス名である。

        「ドングリ・コーヒー」は、病気の治療に効果があるとされていたらしい。

        「プチ・ニコラ」とは「小さなニコラ」、つまりこれも自分の事だが、ここはポーランド語原文では「ミコワイエック(Mikołaiek)」となっている。ポーランド語の語尾の「ek」には「小さい」というニュアンスがある事からこのように意訳したものと思われるが、シドウはこのように、ポーランド名までフランス名に訳し換えてしまっている。

        ちなみにここまでが11日」の記事で、本稿では便宜上改行したが、原文では改行されていない。

本年の同月13日:ベッテル氏、並外れた才能で自身のピアノを披露。このベルリンの巨匠、ベルゲル殿(スコリモフ村のピアニスト)の奏法で演奏。その表現たるや、敏捷性はラゴフスカ夫人をも凌ぐほど、あまりにも感情を込めるので、あらゆる音が、心からというよりその巨大な腹から出ているかのようである。

本年の同月15日:我々の元に大変なニュースが入ってまいりました:屋根裏の片隅に偶然しゃがみ込んでいた七面鳥から、若い七面鳥がこの世に生を授かりました。この大きな出来事によって、これらの鳥達に家族が増えただけでなく、ジェヴァノフスキ家の財政収入にも一役買う事が見込まれるでしょう。

昨夜未明、猫が衣裳部屋にこっそり侵入するも、ジュースの瓶を1本倒して破損。この事件は、一方では絞首刑に値するものの、他方では、最小の瓶を選んでいたとして賛辞の声も。

本年の同月12:めんどり、足を引きずり始める。また、カモがガチョウとの決闘中に片足を失う。重病のため療養中だった牝牛、庭で草を食べるようになる。

        ここはポーランド語原文では14日」となっていて、改行もされていない。シドウ版の12日」と言うのは誤植。

 

外国通信欄

 

近隣在住の某氏、『モニトル』誌が読みたくなったので、オボーリ村にあるカルメル修道院の神父から定期刊行物をもらってくるよう奉公人を使いにやったものの、この男、今まで定期刊行物(ペリオディク・ジャーナル)など聞いた事もなく、気を利かして『ヘモロイディク・ジャーナル(痔に関する刊行物)』はないかと尋ねたとのこと。

 

☞ ボヘニエツにおいて、キツネが罪もない2羽のガチョウの肉を平らげました。彼は捕らえられ、ボヘニエツの法廷で裁かれます。法令に従い、犯人には情け容赦なく最終判決が下されました。被告人キツネには、ガチョウ2羽分に相当する罰則が認められました。

 

送信を許可する。

検閲官、L.D.

 

        「L.D.」とは、「ルイーズ嬢」、つまりルドヴィカ・ジェヴァノフスカの事。このシャファルニャ滞在中は、主に彼女がショパンの世話焼き係だった。

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

この邦訳は、必ずしも原文に忠実ではないので、この一つ一つの内容に関しては置いておくとして、本稿で着目したいのは、まず、この『シャファルニャ通信』の日付である。

 

1.         この号自体の発行日は1824816日」と記されている。これは要するに、この手紙を書いた日付を指している。

        ちなみに実際の『ワルシャワ通信』では、発行日の日付は「曜日」まで記されており、『シャファルニャ通信』でも最後の3紙には「曜日」が記されるようになる。おそらくショパンは、ニコラが『ワルシャワ通信』の原物を携えて到着するまで記憶を頼りにこれを書いていたため、失念したのではないかと思われる。

2.         そして、記事の方は811日」まで遡ってから始まっている。前回紹介した「家族書簡」の日付が810日」だったので、つまりこれはその翌日になる訳だ。この事から、ショパンは、「ソコウォーヴォ」「ビアウォブウォツキ」の家には一日滞在しただけで、シャファルニャに戻って来ていた事が分かる。

3.         そこで注目すべきは、最初の「家族書簡」を10日」書いたばかりだと言うのに、その翌日である11日」の記事で、もう、毎日馬車で出かけ」毎日6杯のドングリ・コーヒーを飲み」と、既に数日経過している事柄について報告している点である。

 

つまり、これらの事から、この『シャファルニャ通信』が、毎日日記のように書き足されていたのではなく、発行日の16日」にまとめて書き上げられたものだと言う事が分かるのである。この事からも、ショパンが決して筆まめではないと言う事が分かるだろう。「国内通信欄」の最後の記事の日付が前後しているのはそのせいなのだ。つまり、15日」の記事を書いた時点で、あとから14日」の事を思い出したために、そこだけ日付が前後してしまったのである。もしもこれをその日ごとに書き足していたのであれば、決してそのような事にはならなかったはずだ。

 

そして、前回も書いた通り、この『シャファルニャ通信』6日前に書かれた最初の「家族書簡」が、休暇の拠点であるシャファルニャではなく、たった1日滞在しただけの「ソコウォーヴォ」で書かれていたと言う事実から、ショパンがいかに「ビアウォブウォツキ」に会うのを心待ちにしていたかがうかがい知れるのである。

 

 

次に注目したいのは、ポーランド語原文で確認された「ミコワイエク」と言う記述である。

シドウがこれを「プチ・ニコラ」と言うフランス語に「意訳」してしまったために、ポーランド以外の外国では、完全にこの「プチ・ニコラ」が浸透してしまっている。その結果日本でも、それら外国のショパン伝が邦訳出版されたり、あるいは日本人の著者がそれらを参考にショパン伝を書いたりした際にも、そのまま「プチ・ニコラ」が流用された。それで私も当初は、てっきりポーランド語の原文にそう書かれているものと信じ込んでしまっていた。だが実際は違ったのである。

本稿でショパンの幼年期のグリーティング・カードを紹介した際、父ニコラ宛のものに「N.C」と言うイニシャルが書かれていた事から、ショパン家内では、父の名は本名のニコラで通っており、したがって、ニコラが用いた「ミコワイ」と言うポーランド名は、あくまでも外交上のものなのだと書いた。だとすれば、ショパン自身によるこの「ミコワイエク」と言う記述は、それと矛盾している事にならないだろうか?

実はこれが「ならない」のである。

何故なら、この『シャファルニャ通信』は、一応「家族書簡」ではあるけれども、その体裁はあくまでも「新聞」だからだ。

ショパンが、この7年前の1817年に初めて《ポロネーズ ト短調》を出版した際、その翌年の『ワルシャワ評論』の中で、この作曲者の父は「ミコワイ・ショパン」と紹介されていた。当然、ショパンはその事を知っており、つまり、公の場では、父の名は「ミコワイ」と言うポーランド名でなくてはならない事をきちんとわきまえていたのである。であれば、『シャファルニャ通信』の新聞紙上でもそのように記載しなければ、検閲官から「送信を許可する」と言うサインをもらえないのだ(※ショパンは、このあとの『シャファルニャ通信』でも、父の名を使った変名を用いる際には、イニシャルも「N」ではなく「M」としている)。

 

        ちなみに、本稿で度々参照しているクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』と言う本は、実は、縦40センチ、横30センチ程もある非常に大きくて分厚い本で、そのため重量もかなりの物なのだが、その代わり、掲載されている写真資料は、その数が豊富なだけでなくそれその物も大きいのである。そのお陰で、他のショパン伝等で紹介されている写真資料では文字が読み取れないようなものでも、この本だと一字一句はっきりと確認する事が出来るのだ。

        したがって本稿では、

1.       ショパンの幼年期のグリーティング・カードの「N.C」も、

2.       雑誌『ワルシャワ評論』「ミコワイ・ショパン」も、

3.       そして今回の『シャファルニャ通信』「ミコワイエク」も、

        すべてきちんと原物や複製を写真で確認して書いている。

 

 

最後にもう一点、これは私の想像だが、「国内通信欄」に掲載されている記事は、そのままショパンの身の回りで起きていた事柄を書いているようだが、一方の「外国通信欄」の方は、必ずしも実際に起きた出来事ばかりとは限らないのではないだろうか。おそらく、今号の「近隣在住の某氏」の話に関しては、人づてに聞いた小話の類を掲載しているだけではないかと思われる。

と言うのも、ショパンはパリ移住後にも、家族に宛てた手紙の中で、人づてに聞いた小話の類を紹介して聞かせているからだ。また、そのような事は、娯楽の少なかった当時においては特に、どの家庭でも日常的な一家団欒のひとコマだったからなのである。

 

[2010年7月30日初稿 トモロー]


 【頁頭】 

検証3-2:コルベルク書簡に垣間見える友情のニュアンス

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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