検証2:汚れなき初期書簡の意義――
   Inspection II: The significance of the early letters without the dirt -

 


5.1824年、初めての家族書簡は何故書かれたか?――
  5. In 1824, why was the first Chopin's letter to his family written?-


 BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第8番 変イ長調 作品7-4 by Tomoro
  

1824年、この年の夏休みに、ショパンは友人ドミニク・ジェヴァノフスキの実家のあるシャファルニャ村に行き、その近郊の滞在先から、初めて家族に宛てて手紙を書いている。

 

まずは、その記念すべき手紙を見てみよう。これは、現在その原物は残っていないものの、「複製」がクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』に写真掲載されている。手紙は三枚の四角い便箋からなっている。

 

■ソコウォーヴォのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの両親へ■

(※原文はポーランド語)

1824810日火曜日 ソコウォーヴォ(※シャファルニャ近郊の村)

我が最愛なるご両親様、

幸いな事に僕は元気で、快適な時間を過しています。僕は読書もせず、書き物もせず、でも(ピアノは)弾いていて、デッサンをしたり、駆けっこをしたりして新鮮な空気を吸っています。昨日などは、初めて馬に乗って田舎中を散歩しました、ポーランド語の「馬」はフランス語の動詞「知っている」に響きが似ているので、僕はそれに乗った青白い分詞の如く、きっと馬とも良い知り合いになれた事でしょう(※この箇所は、ポーランド語にフランス語を混在させた言葉遊びなので、そのニュアンスまでは正確に訳せない。おそらく、フランス語の教師でもある父に向けた、その息子ならではの「楽屋落ち」と言ったところであろうか)

僕は珍しく食欲も旺盛で、しかも満腹になるまで全部食べるので、僕の痩せたお腹も太り始めました。これで田舎のパンさえ食べさせてもらえれば嬉しいのですが。ジェラルド(※ショパン家の主治医)は僕がライ麦パンを食べるのを許してくれないのです。でも彼の主張はワルシャワのパンに関するもので、田舎のパンに関するものではないはずです。シャファルニャのものはそれほど酸味がないのに、酸味が強いからと言って、僕に食べる事を禁じたのです。ワルシャワのは黒いパンですが、こちらのは白いのです。そちらは粗い小麦粉で、こちらは上等な小麦粉で作られています。ジェラルドが田舎のパンを味見する事が出来さえすれば、それが他のよりも美味い事が分かって、『医者は自分にとって快い事は患者にも勧めなければならぬ』という習慣に従って、きっと僕にもそれを許す事でしょう。でもそれだけではありません。ワルシャワは都会で、シャファルニャは村です。そちらでは小さなパンが誰のためにでもありますが、ここでは僕のためだけに焼いてくれるのですよ。このような状況なので、お母さん、どうか僕の欲しいものを許可して頂けないでしょうか? 僕がどれほど田舎のパンを食べたいか、これで十分に説明出来たでしょうか? もしもジェラルドがワルシャワにいたら、僕はジェヴァノフスカ夫人(※ドミニク・ジェヴァノフスキの継母)に大きな丸型パンをくれるように頼んで、それを小さな箱に一切れ入れて急いで彼に送ります。ジェラルドは一口入れただけですぐに僕に許可する事でしょう。さて、そんな訳ですから、僕がこれだけしつこく頼んだので、あなたから許しが得られるだろうと見込んで、その許可が下りるのを待っている間に、ルイーズ嬢とジョセフィーヌ嬢(※ジェヴァノフスキ氏の妹達)の同意の下に、もう食べてしまいました。これにて、この問題に関する私の論文を終わります。

土曜日には、多くの人々がシャファルニャに来ました。ポドフスキさん、スミンスキさん、ピウニツキさん、ヴィブラニェツキさん(※ソコウォーヴォの領主で、友人ヤン・ビアウォブウォツキの義父)、そしてビアウォブウォツキ。日曜日には、僕達は皆でゴウビニ村のピウニツキさんの家に行きました。今日はソコウォーヴォで、ヴィブラニェツキさんの家にいます

僕は定期的に錠剤を飲んで、毎日、水差しに半分程の薬湯を飲んでいます。食事中には、甘いワインを少ししか飲みません。果物は食べますが、ルイーズ嬢が選んでくれた一番熟したやつだけです。

僕達は、お父さんが来るのがものすごく待ち遠しいです。僕に関しては、ブルゼジイナ(※楽譜商店)で買い物をお願いしたいです。リースの《ムーアのアリアによる4手のピアノのための変奏曲》で、それを持って来て欲しいのです。ジェヴァノフスカ夫人と一緒にそれを演奏したいのです。もう一つ、お父さんに持ってきて欲しい物があります。今日僕が計算したところでは、錠剤が27日でなくなります。どちらも忘れずにお願いします。

さあ、これでもう何も書く事がなくなりました。ルイーズがお父さんとお母さんの健康について尋ねていた事以外は。それから、間違いなく、肝臓の痛みはもうすっかり回復しました

僕は心から、ルドヴィカ、イザベラ、エミリア(※ショパン家の三姉妹)、スーゾン(※母ユスティナの姉の娘、つまりショパンの従姉妹)、デケルト夫人、レシュチンスカ嬢にキスします。僕は、グラスホッパーのために、そしてホメントフスキのためにも挨拶を追加しておきます(※「グラスホッパー」とはバッタやキリギリスなどの事だが、これも「楽屋落ち」だろうか?)

僕の最愛の両親の手と足にキスします。

あなたの息子。

F.F.ショパン

ジェヴァノフスカ夫人、ジェヴァノフスカ嬢、ユリウシさん(※ジェヴァノフスキ氏)とデュマス(※その息子ドミニクの事)が、お父さん、お母さん、そして子供達(※その娘達、つまりショパン家の三姉妹を指す)に挨拶を贈ります。ジヴニーさん、シーベルトさん、ヴォイチツキさんには僕からの敬意を。

注意。チェンバレン・ピウニツキさんがお父さんに挨拶を贈ります。彼は再びすぐに会える事を楽しみにしています。」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

        この手紙は、シドウ編の書簡集には収録されているが、オピエンスキー編の書簡集には収録されていない

        「ソコウォーヴォ(Sokołowo)」は、著書によって「ソコローヴォ」と表記される事もある。

        「シャファルニャ(Szafarnia)」は、著書によって「シャファルニア」、「シャファールニア」、「スザファルニア」等と表記される事もある。

 

前年の「マリルスキ書簡」がほとんど用件を手短に伝えただけのものだったのに対し、この「家族書簡」は、もう完全に「ショパンの手紙」の特徴を備えている。特に少年期の手紙は、このように快活で、彼独特のユーモアに溢れている。

 

まず、ここで最初に注目すべきは、「肝臓の痛みはもうすっかり回復しました」という部分である。ここから、ショパンはこの時期「肝臓」を患っていたらしい事が分かる。つまり、彼はそのために、病気療養を兼ねて、夏休みを利用して田舎の「新鮮な空気」を吸うべく、初めて家族の許を離れて過ごす事になったのである。

それに伴ってショパンは、その田舎での生活ぶりを家族に報告する事を義務付けられ、その期間中ずっと、ワルシャワに残った家族に宛てて手紙を書く事になった。その数は、『シャファルニャ通信』の断片的なものまで含めると全部で7通、それ以外にも、友人コルベルク宛のものが1通ある(※オピエンスキーとシドウの書簡集では、更にここにビアウォブウォツキ宛のものも1通含めているが、これは明らかに間違いである)。

 

1.       この前年に書かれた「ショパンの初めての手紙」は、彼が中学に編入した事がきっかけだった。

2.       そしてこの年に書かれた「ショパンの初めての家族書簡」は、彼が病気療養のために一人で田舎に行った事がきっかけとなっている。

 

このように、ショパンが手紙を書くためには、必ずきちんとした理由があり、彼は決して、特にその必要もないのに自分から好き好んで手紙を書くような事はしない。つまり、たとえばゴッホなどのように、手紙と言うものを、あたかも日記や手記の代用品のように習慣的にしたためるような、そのような理由では決して手紙を書かないのである。だから、特に少年時代のショパンは、夏休みの休暇に出かけるか外国旅行するかでしもない限り、手紙と言うものを書く機会がない。それ以外では、特別な親友が遠く離れて暮らすようになり、その結果文通を余儀なくされた場合だけである。

 

 

シャファルニャは、ニコラの寄宿学校の生徒の一人ドミニク・ジェヴァノフスキの実家、つまり士族ジェヴァノフスキ家の管理する所領である。ショパンはこのジェヴァノフスキ家を拠点にして、近隣の地域や家を訪ねたりして、充実した休暇を過ごしていた。

この田舎での生活は、手紙を書く事以外にも、彼にとってはもっと大きな、そしてもっと重要な副産物をショパンにもたらす事になる。つまり、マズルカの作曲である。この年には2曲のマズルカがスケッチされ、それらはのちに、《マズルカ 第8番 変イ長調 作品7-4《マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4に改訂される形で、それぞれ出版される事になる(※ただし、この点については異説もある)。

 

そこで私が注目したい二つ目の点は、この手紙が書かれた場所である。手紙の冒頭にも記されているように、そこはシャファルニャ近郊の「ソコウォーヴォ」となっている。

 

つまりショパンは、「今日はソコウォーヴォで、ヴィブラニェツキさんの家にいます」と書いている通り、この記念すべき「初の家族書簡」を、休暇の拠点であるジェヴァノフスキ邸ではなく、一時的な滞在先である「ビアウォブウォツキ」の家で書いているのである。

果たしてこれは、単なる偶然だろうか?

この友人の名は、前年の「マリルスキ書簡」の中でも見られたが、その段階では、ショパンにとって彼の存在がどれほどのものかはまだ分からなかった。

しかしこのあと、殊に、この翌年に文通を始める事になるほど急接近して行くこの両者が、この時既に、その友情の芽を育んでいたと言う事なのではないだろうか?

 

その根拠を示していこう。

まず、この手紙は、その内容から、ショパンがシャファルニャに到着後、一番初めに書いた「第一便」である事が分かる。到着の日付ははっきりとは特定できないが、文中では、「土曜日には、多くの人々がシャファルニャに来ました」と言うのが最も古い記事であり、そうすると、その「土曜日」から「今日」「火曜日」まで、少なくとも4日は経っている事になる。4日もあれば、手紙を書く機会はいくらでもあったはずである。それなのに何故、それが「今日」「火曜日」で、しかもその場所が「ソコウォーヴォ」なのか?

つまり、ショパンの心積もりでは、この「ソコウォーヴォ」滞在こそが、今回のシャファルニャ訪問の第一の目的だったからである。だから彼は、「ビアウォブウォツキ」の家を訪れるまでは気持ちが落ち着かず、だからジェヴァノフスキ邸では、まだ家族に手紙を書く気にはなれなかったのである。

 

要するに、そもそもショパンが何故シャファルニャを選んだのかと言えば、病気療養に打って付けだったからだけではなく、その近郊に「ビアウォブウォツキ」の家があったからなのだ。

 

その証拠に、ショパンがシャファルニャを訪れるのは、この年と翌年の2回だけで、それ以降はもうショパンはシャファルニャには行っていないのである。

何故行かなくなったのか?

それは、追って詳しく検証していく事になるが、簡単に説明しておくと、「ビアウォブウォツキ」が足の病気にかかったために「ソコウォーヴォ」に引き篭もってしまい、それで、おそらくショパンにその姿を見せたくないと望んだからだ。二人が交わす事になる文通は、そんな状況を背景にやり取りされていく。

つまりショパンにとって、「ビアウォブウォツキ」に会えないのであれば、もうシャファルニャに行く意味がないと言う事なのである。だからその後ショパンは、夏休みの療養先も、治療の目的が違うとは言え、別の場所(※ライネルツ)に行く事になるのである。

 

実は、こう言った事は、全てのショパン伝で完全に見落とされている事で、何故なら、あらゆるショパン伝において、この「ビアウォブウォツキ」との「真実の友情物語」は、まるで申し合わせたかのように黙殺され、逆に、ヴォイチェホフスキとの「脚色された友情物語」ばかりが持てはやされているからなのである。そしてその元凶となったのがカラソフスキー著『ショパンの生涯と手紙』と言う訳なのだが、それについてはその都度、追って説明していこう。

 

 

ここでもう一つ確認しておきたい事がある。

 

この手紙は、カラソフスキーの時代にはまだ知られていなかった。だからもちろん彼の著書には掲載されていない。それでは、この手紙を知らないカラソフスキーは、この年の出来事について、一体どのように書いていたのだろうか? 以下がそれである。

 

「ショパンは初めての休暇を、ヅィェワノフスキイ(※ジェヴァノフスキ)家に属するシァファルニア村のマゾヴィアという所で送った。そこで間もなくこの有名な家庭(※ジェヴァノフスキ家は、文学作品にまでなった祖国の英雄を排出したそうである)の子供達と暖い永遠に渝(かわ)らない友誼(ゆうぎ)を結んだ。都会に育った少年には、田舎の数週間の滞在は、自由と歓喜とに充たされた時である。それに学課を背負っていないと、ショパンのような天才少年に与えるたのしみは、どんなに大であったろう。彼はお伽話の仙女や森の精を夢みながら、森や牧場を彷うことができた。永い間の、疲労する散歩を全然好まなかったフレデリックは、樹木の下に横たわって、美しい真昼の夢に耽るのが好きだった。日曜にはきまってする文通の代りに、当時ワルソウで発行していた新聞「ワルソウ新聞」を型どって、「クルエル・シァファルスキー」という表題で、小さい週間新聞を発行しようと思いついた。家族の者が蒐集したフレデリックの記念物の中に、一八二四年の分が二冊ある。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

つまりは、こう言う事なのである。

本稿の序章でも説明した通り、カラソフスキーはイザベラから、これら少年期の「家族書簡」を一切資料提供されていないばかりか、『シャファルニャ通信』にしても、現在知られている6通のうち「二冊」しか見せてもらっておらず(※しかも、「一八二四年の分」も何も、そもそも『シャファルニャ通信』「一八二四年」にしか書かれていないのである)、彼はその情報だけを頼りにこの箇所を書いているのである。

だからカラソフスキーは、このように、ショパンが病気療養のためにシャファルニャに来たのだと言う事も全く知らず、だから彼は、「コルベルクはショパンが成人になるまでにたった一度病気になっただけだと断言した」と書いておきながら、その「たった一度」「病気」が、実はこの年に患った「肝臓」の事を指していたらしいと言うのにも思いが至らないのである。そして、カラソフスキーの著書には、少年期のショパンの最大の親友である「ヤン・ビアウォブウォツキ」が、その名前すら一切登場しないのだ。

したがって、カラソフスキーはその辺の事情について、せっかく面識のあったイザベラから、きちんと詳しく取材すらしていないと言う事があからさまに分かってしまうのである。

 

[2010年7月14日初稿 トモロー]


【頁頭】

―次回告―

 

次回、ショパンのエンターティナーとしての原点を徹底検証する、

検証3:ショパン唯一の文学作品『シャファルニャ通信』

をお楽しみに。

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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