検証3:ショパン唯一の文学作品 『シャファルニャ通信』――

Inspection III: KURYER SZAFARSKI by Chopin -

 


2.コルベルク書簡に垣間見える友情のニュアンス――

  2. About the friendship of Chopin and Kolberg.-

≪♪BGM付き作品解説 ショパン:マズルカ 第3番 ホ長調≫

[VOON] Chopin:Mazurka 3 Op.6-3 /Tomoro

 

 

次に紹介するのは、友人ヴィルヘルム・コルベルク宛の手紙で、これは先の『シャファルニャ通信』1号から3日後に書かれている。

この手紙の原物は残っていないが、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』にその「複製」が写真掲載されている。手紙は縦長の便箋3枚からなっており(※裏面を使っているとすれば便箋は2枚で3ページ)、冒頭の一言「親愛なるヴィルス!」が太字で大書きされている。

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

田舎で休暇中のヴィルヘルム・コルベルクへ■

(※原文はポーランド語)

1824819日 シャファルニャ

 

親愛なるヴィルス!

ありがとう、僕の事を覚えていてくれたんだね、しかし、その一方で僕は怒っている。君はなんてしみったれで、意地悪で、その他色々な奴なんだ、あんな紙っ切れしか書いてよこさないなんて。紙かペンでも足りなかったのか、それともインクでもケチったのかい? きっと殴り書きする時間しかなかったんだろう! え、え? そうなんだろう! 君は乗馬に行って、一人で楽しんで、そして僕を忘れるんだね――いいさ、いいさ。僕に接吻してくれたまえ、そしたら許してあげよう。

君が健康で愉快に過ごしているのは嬉しい事だ、田舎じゃそれが何よりだからね。僕は君に手紙を書く事ができて嬉しいよ。僕も楽しくやっている。それに、乗馬するのは君だけじゃないんだよ、僕にだって乗れるんだ。上手いかなんて聞かないでくれたまえ、乗れるったって、馬がのろのろと好きな所へ行く間、僕は熊の上の猿みたいに恐る恐る乗っかってる程度なんだから。今のところ落馬はしてないよ、何故って、馬が僕を落とそうとしないからね。でも、彼が僕を振り落としたいと思えば、僕もそのうち落ちるだろうさ。

これ以上僕の事で君を煩わせたくない、君には興味ないだろうから。時々ハエが僕の高貴にそびえ立つ鼻にとまるが、それは問題じゃない。だって、それはこのうっとうしい小動物の習性なんだからね。蚊も僕を刺すけど、これも気にしない、鼻の上じゃないからね。僕は庭を走り、時々歩いている。森に散歩に行く時は乗って行くよ、いや、馬の背中じゃなくて、二輪の軽馬車か、四輪の屋根付大型馬車に運ばれてね。しかも常に後部座席に坐ると言う名誉が与えられ、決して前には坐らない。きっと僕は、もう君を退屈させてしまったようだ、でも僕に何ができる? もしそうでないなら、折り返し郵便で返事をくれたまえ。そしたら僕もまた手紙を続けよう。

お大事に、親愛なるヴィルス、どうか僕に手紙をくれたまえ。僕らは4週間後にはまた会えるんだね。僕は心から君を抱擁する。

君の誠実な友 F.ショパン

君のお母さんとお父さんに、僕から尊敬の念を、そして僕は君の兄弟達を抱擁する。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より

 

        ヴィルヘルム・コルベルク(Wilhelm Kolberg 1807-1891)は、ワルシャワ高等学校の数学教授ユリウシ・コルベルクの長男。

        ユリウシはニコラの同僚であり、両家は同じワルシャワに住み、近所付き合いがあった。次男のオスカルは後にポーランド民謡の調査に専念し、三男のアントニは画家になって1848年にショパンの最後の肖像画を描いている。

 

この手紙は、これだけ読むと、やはりまだ他愛の無い内容である。ところが、これを、この夏に書かれた一連の手紙の中に置き、そしてそれらを通して読み返してみる時、非常に興味深い事実が浮かび上がってくる。

 

まず始めに言及しておきたいのは、ショパンがこの「コルベルク書簡」を書いた、その動機である。

 

ショパンが過去に書いた手紙の、その動機をもう一度整理してみよう。

 

1.         この前年に書かれた「ショパンの初めての手紙」(※友人マリルスキ宛)は、彼が中学に編入した事がきっかけで、友人達から新学期に関する情報を頼まれたためだった。

2.         そしてこの年に書かれた「ショパンの初めての家族書簡」は、彼が病気療養のために一人で田舎に行った事がきっかけで、その生活ぶりを家族に報告する義務を課せられたためだった。一連の『シャファルニャ通信』も同様である。

 

それでは、今回のこの「コルベルク書簡」はどうだろうか? これは、言うまでもない事ではあるのだが、

 

3.         コルベルクがショパン宛に手紙を送って来たので、ショパンがそれに対して返事をするためである。

 

こんな事は当たり前だと思われるかもしれないが、ショパンの手紙を検証する上で、実はその「当たり前の事」こそが肝心なのである。こう言う「当たり前の事」を疎かにすると、シドウのように、この「コルベルク書簡」を、ワルシャワのコルベルク宛」などと間違って紹介してしまう羽目になる。

手紙の内容をよく読めば明らかなように、コルベルクは自分の休暇先の「田舎」からショパンに手紙を送って来ており、ショパンはそれに対して返事を書いている。したがって、この時両者は、お互いの休暇先から手紙をやり取りし合っているのだから、この手紙が「ワルシャワ」宛になるはずがない。

 

そう言った事を前提にもう一度この手紙を読み直してみると、この手紙の中には、コルベルクが書いて寄こした内容に対してショパンがコメントを返している箇所が、いくつもある事に気付くだろう。すなわちそれらの「返しのコメント」が、この手紙が「返事」として書かれているからこその「当たり前」であり、そしてその証しでもあるのだ。

では、コルベルクは、ショパン宛の手紙に一体何と書いて来たのか? その一つ一つを見ていこう。

 

●コルベルクが書いた手紙の内容、その1:「あんな紙っ切れ」

まず、冒頭の挨拶がそれである。

 

「ありがとう、僕の事を覚えていてくれたんだね、しかし、その一方で僕は怒っている。君はなんてしみったれで、意地悪で、その他色々な奴なんだ、あんな紙っ切れしか書いてよこさないなんて。」

 

この、「あんな紙っ切れ」という言い方から察するに、おそらくコルベルクがよこした手紙は正規の郵便によるものではなく、誰か、コルベルクの休暇先からシャファルニャへやって来た知人によってもたらされたメッセージのようなものだった可能性が高いのではないかと思われる。

ショパン自身も、正規の郵便ではなく、誰か知人の手を介して手紙を送る時には、このように手短な内容になるのである。何故なら、その知人がショパン家を訪れ、そして彼がそこから発つ際に、「次の目的地に誰か知人がいるならメッセージを届けてあげるよ」、と言うような事で急遽メッセンジャーとなってくれるので、そんなに長い手紙は書いていられないからだ。しかしこれが正規の郵便であれば、あらかじめそのつもりで書くのだから時間的余裕もあり、当然料金も発生する訳だからそれなりのものを書こうともするだろう。

だからこそショパンは、この「コルベルク書簡」の結びの方では、「郵便で返事をくれたまえ」とわざわざ断りを入れているのである。これはつまり、「この次は「あんな紙っ切れ」のメッセージじゃなくて、もっとちゃんとした「郵便で返事をくれ」、僕が「郵便で返事を」出したみたいに…」と、そう言っているのである(※ショパン自身は、コルベルクへの返事に3ページを費やしている)。

 

●コルベルクが書いた手紙の内容、その2:「乗馬」

次は「乗馬」の話で、コルベルクが彼の手紙に「乗馬」の話を書いて来た事は、以下の記述から明らかである。

 

君は乗馬に行って、一人で楽しんで、そして僕を忘れるんだね――

「それに、乗馬するのは君だけじゃないんだよ」

 

●コルベルクが書いた手紙の内容、その3:「健康で愉快」

次は、健康面その他の日常的な話で、ほぼそのまま以下のように書かれている。

 

君が健康で愉快に過ごしているのは嬉しい事だ」

 

●コルベルクが書いた手紙の内容、その4:「田舎」

そして、これは先述した通りだが、コルベルクが何処でその手紙を書いているのか?である。

 

「君が健康で愉快に過ごしているのは嬉しい事だ、田舎じゃそれが何よりだからね」

 

つまり、コルベルクもまた、ショパンと同じように「田舎」「健康で愉快に過ごしている」と書いて来ており、それに対してショパンは「それが何よりだ」とコメントを返しているのである。もちろんこれだけでは、コルベルクの滞在先が具体的に何処かまでは分からない。しかしコルベルクが、少なくとも自宅のある「ワルシャワ」の「都会」ではなく、どこかの「田舎」からショパンに手紙を送って来た事だけは明白である。

 

このように、この「コルベルク書簡」が「返事」として書かれたからこそ、コルベルクがショパン宛に書いたその手紙の内容が、これだけ克明に浮かび上がってくるのである。

たとえば、最初の「マリルスキ書簡」や「家族書簡」、そしてそれに続く『シャファルニャ通信』などは、全てショパンの方から書いた手紙だった。だから、もちろん「返事」ではないため、そのような「コメントの返し」は一切なく、ショパンは自分の書くべき事だけを、ただ一方的に書き綴っているだけだった。

手紙の文章と言うものには、必ずそのような手紙特有の特徴がある。それが「手紙」なのか、それとも「返事」なのか、あるいは「文通の中の一通」なのか…等々、必ずそれぐらいの執筆背景は特定できるものなのである。

 

つまり、この「コルベルク書簡」は、同じ手紙は手紙でも、これはあくまでも「返事」であると言う事が大前提となる。

そして、その前提に基づいてもっと言うなら、ショパンは、コルベルクが手紙をくれたからこそそれに対して返事を書いたのであって、逆に言うと、もしもコルベルクが手紙をよこさなかったら、ショパンの方からは、決してコルベルクに手紙を書いてはいない、と言う事でもある。

それは、「折り返し郵便で返事をくれたまえ。そしたら僕もまた手紙を続けよう」と言う、相手任せの消極的な記述にも如実に表れており、要するにそれが、ショパンのコルベルクに対する友情の度合いと言うか、友情のニュアンスを窺わせてもいるのだ。このようなニュアンスは、ショパンがこの2年後にライネルツからコルベルク宛に書いた手紙の中にも表れていて、そしてそのニュアンスは、それら「コルベルク書簡」に特有のものであり(※本物の「マトゥシンスキ書簡」にもこれに近いニュアンスがある)、たとえば、無二の親友と称されるビアウォブウォツキやヴォイチェホフスキ宛の手紙には、決して見られないものなのだ(※ショパンは、彼らに対しては、たとえ返事が来なくても自ら手紙を書き続けているのである)。

コルベルクが、このように他の友人達と区別されるべき要因ははっきりとしている。と言うのは、彼とショパンは、元々親同士の交流から始まった近所付き合いがきっかけで知り合ったので、互いの好き嫌いの度合いに関わらず常に近くにいる存在であり、ショパンにとってはおそらくそれ以上の間柄ではないのである。

それに対してビアウォブウォツキやヴォイチェホフスキらは、元々実家がワルシャワから遠くにあるため、ショパン家の経営する寄宿学校で知り合っている。つまり、そこで寝食を共にした同じ仲間達の中から、特に選ばれた親友なのである。この違いは大きいだろう。

そう言った「友情のニュアンスの違い」は、それぞれの手紙の中にはっきりと表れている。そしてそれに目を向ける事で、ショパンの文通相手との人間関係も、より鮮明に浮かび上がってくる。

 

逆に言うと、そう言った点があやふやなものは、一度贋作を疑ってみる必要があると言う事でもある。

何故なら、贋作者には始めから、ショパンの手紙を装って自らの国粋主義思想やスキャンダルを捏造しようと言う明確な意図があり、その目的の前には、ショパンの文通相手が誰で、それがどんな人物かなど、最初から眼中にないからである。だからこそ、たいてい贋作書簡はショパンの独白に終始するばかりで、その文通相手の顔が全く見えて来ないのだ。見えてくるはずがない。そもそも贋作書簡の向こう側には、始めから文通相手など存在していないのだから。仮に贋作者が腕の立つ小説家であれば、そのような不手際を悟らせないくらいの贋作も書けるのかもしれないが、幸か不幸か、ことショパンの贋作書簡に関しては、贋作者達にそのような力量のない事は歴然としている。

 

 

さて、次に着目したいのは、この手紙に書かれている内容が、この前後に書かれた『シャファルニャ通信』と、いくつか内容が重複していると言う点である。

重複している箇所は3つある。それを順に見ていこう。

 

●内容の重複、その1:「乗馬」

ショパンは、手紙の書き出しで冗談交じりに挨拶した後、本題に入ると、まず「乗馬」の話を書いている。

これは、コルベルクが手紙に「乗馬」の事を書いて来たからでもあるが、ショパンはこの3日前に書いた『シャファルニャ通信』でも、一番最初に「乗馬」のエピソードを以下のように掲載していた。

 

「本年の811日、フレデリック・ショパン氏、駿馬にまたがり競馬に参戦、首尾よくゴールを目指すものの、徒歩だったジェヴァノフスカ夫人に繰り返し追い抜かれる(これはショパン氏の落ち度ではなく、馬のせいとのこと)、それでも彼は、同じく徒歩だったルイーズ嬢がちょうどゴールに差し掛かった頃、かろうじて彼女に対し勝利を収めた。」

 

これはもちろん、言うまでもなく、ショパンが実際に「競馬」をしていたと言う事ではなく、単なる「乗馬」を、このように面白おかしく表現しているに過ぎないのだが、今回のコルベルク宛の手紙では、それを、「上手いかなんて聞かないでくれたまえ、乗れるったって、彼がのろのろと好きな所へ行く間、僕は熊の上の猿みたいに恐る恐る乗っかってる程度なんだから」と言う風に表現している。いずれにせよ、最初の「家族書簡」にも「初めて馬に乗って」と書いてあったように、ショパンにとって、「乗馬」は生まれて初めての事で、それだけに、その経験はかなり強く印象に残っていたらしい事が分かる。

        ショパンはまだ赤ん坊の頃にワルシャワへ引っ越して来たのだから、その彼が今まで「乗馬」した事がなかったと言う事は、おそらく、都会であるワルシャワには、一般の人が「乗馬」をする事の出来るような場所や機会がないのではないだろうか。

そして、これらの記述に共通しているのは、ショパンの乗っている馬が、とにかく頼りないと言う事だ。実は、『シャファルニャ通信』のポーランド語の原文を直接和訳した足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)では、この「駿馬」「老耄(おいぼ)れ馬」と訳されている。おそらく、初めて乗馬するショパンの身の安全を考慮してか、彼には、「これ以上大人しい馬はないと言うような馬」があてがわれていたらしい、と言う事が想像される。

 

●内容の重複、その2:「蚊」

ショパンはコルベルクに、「蚊も僕を刺すけど、これも気にしない、鼻の上じゃないからね」と書いているが、実はこれは、ショパンお得意の「自虐ネタ」で、親しい人間でないと分からない「楽屋落ち」なのである。ショパンは、自分の鼻が大きい事を気にしているらしく、よく、それを自らネタにしてジョークを書いており、それは成人して以降の手紙にも見られる。

ショパンはこのあとにも、1824824日」発行の『シャファルニャ通信』紙上で、同じネタを以下のように書いている。

 

「ピション氏(※ショパンの綴りを逆にした変名)、シャファルニャにたくさんいるいとこ(蚊)達に遭遇し、散々な目に。これでもかと言うほど刺されるも、幸い鼻は被害を免れ、今以上に鼻がデカくなる事だけは回避」

 

この記述に関してはまた後ほど詳述するが、ここでもやはりショパンは、コルベルクに書いたのと同じ話を書くのに、家族宛の『シャファルニャ通信』では、自分の家族にしか通じない「楽屋落ち」を使って表現しているのである。

 

●内容の重複、その3:「後部座席」

ショパンはコルベルクに、「馬車」では「常に後部座席に坐ると言う名誉が与えられ、決して前には坐らない」と書いているが、これはそのまま、全く同じ事が3日前の『シャファルニャ通信』にも書いてあった。

 

「ショパン氏は毎日馬車で出かけ、そして彼には、常に後部座席に坐るという栄誉が与えられた」

 

それでは、これらの重複には、一体どんな意味があるのか?

まず言える事は、この重複もまた、この手紙がワルシャワのコルベルク宛」ではないと言う事の裏付けになっていると言う事である。

 

本稿で、ショパンが初めて書いた手紙である「マリルスキ書簡」を検証した時に、「当時の手紙はみんなで回し読みするものだった」と言う話を紹介したのを覚えているだろうか。

 

十八世紀は書簡文の全盛期といえるほど、人々は手紙を頻繁にやり取りしていた。しかも手紙自体が長く克明なだけでなく、手紙を出す前にコピーをわざわざ残しておくなど、手紙は後世のための記録として明確に意識されていた。特に旅先からの手紙は、友人たちの間で回し読みされたり、集まった近所の人々の前で読み上げられたりするのが通常だった。旅に出る人が非常に少なかったうえ、情報や娯楽の乏しかった当時としては、こうした旅先からのホット・ニュースは貴重な情報源であり気晴らしの種にほかならない。

本城靖久著

『馬車の文化史』(講談社現代新書)より

 

 

        ショパンの時代は19世紀だが、事情はそれほど変わらない。この事は、後年ショパンがウィーンやパリからエルスネルに書いた手紙や、エルスネルがパリ時代のショパンに書いた手紙に、その事実を裏付ける記述がある。

 

この習慣に則って考察すると、

1.       ショパン家とコルベルク家は、ワルシャワで近所付き合いがあったのだから、仮にコルベルクがこの夏ワルシャワにいたのであれば、彼は、ショパンがワルシャワの家族宛に書いた手紙を目にする機会が十分にあったと考えられる。

2.       そうすると、このように家族宛とコルベルク宛の内容が重複するのは、ショパンにとって二度手間になる訳だから、初めから書く意味がない事にもなり得るはずである。何故なら、もしもそうなら、家族宛の手紙の追伸に一言、「ヴィルスにもよろしく」と書いておけばそれで済んでしまうからだ(※しかし実際、先の「家族書簡」の追伸に彼の名はなかった)。

3.       だが、仮にコルベルクがワルシャワにいないのであれば、ショパンがいかに筆不精でも、それぞれの手紙に同じ事を書いて報告せねばならなくなる。その結果、双方の手紙の内容が重複する事になる。

したがって、これらの重複もまた、この手紙がワルシャワのコルベルク宛」ではないと言う事の裏付けになるのである。

 

実は、この事は非常に重要なのだ。

何故かと言うと、本稿の目的である「ショパンの知られざる贋作書簡を暴く」にあたって、私が、その「知られざる贋作」の一つと見なしている「ウィーン時代のマトゥシンスキ書簡」が、今回の例と同じように、同時期に書いた「家族書簡」と、その内容が重複しているからなのである。

ところが、その「マトゥシンスキ書簡」を最初に紹介したカラソフスキーによれば、その時マトゥシンスキはワルシャワにいて、しかも手紙は「家族書簡」と一緒に同封され送られて来たと書いている。しかしそれなら、逆に両者の内容が重複するはずがない。何故ならマトゥシンスキは古くからの友人で、ショパンの家族とも親交があり、その彼がワルシャワにいたのなら、当然彼は、ショパンが家族宛に書いた手紙を読む事が出来るからだ。それにも関わらず、そうと分かっていながら、ショパンが、そのマトゥシンスキ宛に「家族書簡」と同じ内容を重複させてしかもその二つを同封して送って来るなど、そんな無意味な二度手間は絶対にしないと断言できる。ショパンは、「家族書簡」を読む事のできる状況にいる人間には、決して同じ内容を重複させて手紙を書いたりなどしないのである。そのためにいつも追伸で、友人知人達の名前を列挙して、「〜によろしく」と書き添えているのだから。

したがって、その「マトゥシンスキ書簡」における重複は、今回の「コルベルク書簡」の重複とは違って、「あり得ない重複」となる。要するに、その「あり得ない重複」と言うのは、それを贋作したカラソフスキーが、手紙の信憑性を強調するために、わざわざ「家族書簡」の記述を流用してみせ、そして墓穴を掘った結果の「重複」なのである。

もちろん、私が「ウィーン時代のマトゥシンスキ書簡」を贋作だとする根拠はそれだけではない。しかし、それらについてはまたその時に詳しく述べよう。

 

 [2010年8月3日初稿 トモロー]


 【頁頭】 

検証3-3:『シャファルニャ通信』 1824年8月19日号

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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