検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II -

 


11.グワトコフスカの急成長―

  11. Rapid growth of Gładkowska -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ワルツ 第16番 変イ長調 遺作▼≫
 

今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第13便」である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第13便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1830831日、ワルシャワにて

いい時に君の手紙が屈いたよ、と言うのも、それを受け取ると直ぐに、僕の鼻水が止まってしまったからね。僕の手紙にも同じように奇跡的な力が授けられるといいんだが。

僕はまだここに留まっているが、実のところ、僕を外国へ惹き付けるものが何もないのだ。でも僕は、僕の職業と理性に従い、来月に必ず出発する。僕の理性がもしも他のあらゆる意向を征服するほど強くないなら、きっと脆弱なのに違いない。

今週、僕は確信を得るために、四重奏の伴奏でホ短調・協奏曲を全部試してみなければならず、そうしないと、エルスネルが言うには、オーケストラの最初のリハーサルでうまくいかないのだと。

先週の土曜日に、僕は《三重奏曲》(※ト短調 作品8をやってみた。長い間聴いていなかった事もあってか、満足だった。“幸せな奴だ。”と君は言うだろう。すると、ヴァイオリンの代りにヴィオラを使う方が良いと言う考えが浮んだ。ヴァイオリンでは第五音が優位を占めているが、僕の《三重奏曲》ではまるで使われていないからだ。ヴィオラなら、僕が思うに、ヴァイオリンよりもチェロと一層良く調和するだろう。《三重奏曲》はそのあと印刷の準備ができるだろう。僕自身についてはこれでたくさんだ。今度は他の音楽家達についてだ。

この前の土曜日に、ソリヴァは2番目の弟子ヴォウクフ嬢をデビューさせた。彼女は生来の優美さと立派な演技と、他に美しい眼と真珠のような歯とで、会場の全ての人を喜ばせた。彼女は、舞台の上では我々(ポーランド)の女優の誰よりも魅力的だ。僕は、第一幕では彼女の声を良いとは認められなかった。それほど彼女は動揺していた。でも実に立派に演じていたので、誰もこれがデビューだとは思わなかった。彼女はアンコールと大きな拍手を受けたにも関わらず、2幕目までは当惑を克服できなかった。2幕目になって、初めて彼女の歌唱の実力があらわれた。しかし、リハーサルの時や、その3日前のパフォーマンスの時ほど十分には出てなかった。

歌唱の実力では、ヴォウクフ嬢はグワトコフスカ嬢より遥かに劣っている。もし前者を聴かなかったなら、2人の歌手の間にそれほど違いがあり得るとは信じなかっただろう。エルネマンも、グワトコフスカと肩を並べる歌手を見つけるのは簡単ではないと、我々と意見を共にし、特に、鐘のように澄んだ彼女の抑揚と、真に温かみのあるフィーリング、それらが舞台の上でのみきちんと表現されていると。彼女は聴き手を魅了する。ヴォウクフはちょっとしたミスをいくつか犯すが、一方のグワトコフスカには、少しも疑わしい音を聴き出せなかった、とは言うものの、彼女は《アグネス》を2度歌っただけではあるが。

一昨日、僕がこの2人のヴォーカリストに会って君の祝辞を贈った時、彼女らはたいそう喜んで、君にお礼を言うよう頼んでいたよ。

ヴォウクフの歓迎会は、グワトコフスカのそれよりも暖かなものだったが、それはソリヴァには好ましくないようだ。ソリヴァは昨日僕に言ったのだが、ヴォウクフが仲間の弟子よりも多くの拍手を獲得する事を望まないのだと。僕が思うに、その称讃のうちのかなりがロッシーニの取り分だろうね、彼の音楽は、パエールのオペラに出てくる不幸な娘の悲惨な境遇よりも、ずっと聴衆を喜ばせている(同様に、若い娘の美貌の虜にもされている)。グワトコフスカは、もう少ししたら《盗人のエルステル》に出演する事になっている。だが、この“もう少ししたら”と言うのは、僕が山を登ってしまうまで続くだろう。その頃には、たぶん君はワルシャワに来ていて、そのパフォーマンスについて意見を聞かせてくれるのだろう。彼女の3度目の役は《ヴェストリン》という事になっている。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙も一見短いが、カラソフスキーは半分以上もの記述を削除している。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1830831日、ワルシャワにて」

1830831日 火曜日、まだワルシャワにて」

 

まず日付についてだが、前回の「第12便」は821日」なので、今回はちょうど10日後である。

ショパンは「まだ」と書いているが、前回の手紙には「来月のある日(10日)に出発する」とあった。しかし一応まだ8月ではあるので、いちいちまだワルシャワにて」と念を押して書く必要もないように思われるのだが…。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「最も親愛なるティトゥス!」

 

なぜかカラソフスキーはこれを削除したが、この冒頭の挨拶は、前回が「嫌気がさすほどの偽善者よ!」だった事を思えば、この10日間で多少怒りも収まってくれていたようである。

この箇所は、いつもなら「我が最も親愛なる生命よ!」などの常套句が使われていた訳だが、それが今回、初めて「ティトゥス」という名前で呼びかけている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「いい時に君の手紙が屈いたよ、と言うのも、それを受け取ると直ぐに、僕の鼻水が止まってしまったからね。」

「僕は君の手紙を必要としていた―それを受け取った時、僕の鼻水は止まってしまったよ。」

 

ここは問題はない。問題は次の箇所である。

カラソフスキーは、ショパンの長い文章を思いっきり短く要約している。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

僕の手紙にも同じように奇跡的な力が授けられるといいんだが。」

「もしも僕の2通の手紙に、君がそれらを読んだだけで、君の偽善と虚偽(※不誠実、裏切りの意味もある単語)を治療するような、神に祝福された結果がもたらされるといいんだが、そうしたら僕はどんなに幸せだろう! しかし僕は、この手紙が全然そのようなものではない事を確信しているし、実際、それはもっと悪いものとなり、君のライオンのようなハートに怒りを掻き立てる事になるのだろうが、しかし幸いな事に、僕は40マイルも離れているからね、さもなければ、すぐにも君の怒りの全重量が僕に襲い掛かってくる事だろう。」

 

前回も説明した通り、ショパンは前回、ヴォイチェホフスキ宛に2通」の手紙を一緒に送っていた。それは、10日前に書いた「第12便」と、そしてその前にポトゥジンから帰宅直後に書いて出し忘れていた「最初の(1通目の)手紙」2通」である。

その事実が、この「僕の2通の手紙」と言う表現によって、ここにもはっきりと記されている。

そして、「失われた手紙」の方、つまりヴォイチェホフスキがこの世から葬り去った「最初の(1通目の)手紙」にも、ショパンがヴォイチェホフスキの「偽善と虚偽(※不誠実、裏切りの意味もある単語)に対して、つまりワルシャワに来られたにも関わらず来なかった事に対する非難が書かれていた事が、ここからも読み取る事ができるだろう。

つまり、ショパンが前回も今回もヴォイチェホフスキを「偽善者」呼ばわりしている理由と言うのは、このヴォイチェホフスキと言う人物が普段、いかに言葉巧みに、心にもないおべっかや、その場しのぎの言い逃れをして来ていたかと言う事を説明しているのであり、決して[ティトゥスが手紙をくれないこと]などという日常的な事を問題にしていたのではないのである。

そもそも[手紙をくれないこと]がどうして「偽善と虚偽」につながるのか、この言葉からでは、その因果関係が説明できないだろう。

したがって、カラソフスキー版では、この2人の間に起きた諍いを匂わすこのような記述は、当然のように削除されるのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕はまだここに留まっているが、実のところ、僕を外国へ惹き付けるものが何もないのだ。」

「僕の罪の意識は大きいが、しかしやましいところがある者の心と言うのは愛おしいもので、僕はまだワルシャワに居座っているが、しかし僕は君を愛しているので、何も僕を外国に行く気にさせないのだ。」

 

ここを見れば明らかなように、ショパンはあくまでも、愛するヴォイチェホフスキのいるポーランドからは離れたくないと書いているのである。したがってこの時ですら、ヴォイチェホフスキがショパンのウィーン行きに同行する事になどなっていなかった事がはっきりと分かる。

もしも彼らが、よく云われているようにポトゥジンで会った時に同行の話を決めていたと言うのであれば、ショパンはここでこのような事は決して書かない。むしろ逆に、2人きりで外国に行く日が来るのを、今か今かと心待ちにしているはずである。

ヴォイチェホフスキと言うのは、ショパンのプロ・デビュー公演のためにワルシャワを1週間かけて往復する事すらごね、そして更に告別公演にさえも来なかったと言うのに、それがいきなり、そのショパンのために1ヶ月以上もの長きに渡って自分の所領を不在にするなど、どうしてそのような話を信じる事ができるだろうか?

したがって、ヴォイチェホフスキは本当はショパンのウィーン行きに同行などしていなかったのに、その事実を読者に悟られないようにするため、カラソフスキーはそれを匂わすような記述をこのように削除し続けているのである。

そしてそうする事によって、 “ショパンは「理想の人」がいるゆえ[ワルシャワを去りたいという望も消えた]”とする自著の解説に沿うよう、文脈をそのように仕向けているのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「でも僕は、僕の職業と理性に従い、来月に必ず出発する。僕の理性がもしも他のあらゆる意向を征服するほど強くないなら、きっと脆弱なのに違いない。」

「僕は、次の週には本当に出発するつもりだが、その事で僕を信じてくれていいよ;それは9月の事で、明日はその1日(ついたち)だからね;しかし僕は、僕の職業と僕の理由を満たすために行くのだが、理由と言っても非常に小さなものに違いなく、それは僕の頭の中にある他のあらゆるものを壊すほどには強くないんだからね。」

 

ショパンはここで、自分の出発を「次の週」に予定していると報告している。

ここからも、彼らが一緒に外国へ行く事になどなっていなかった事が分かるだろう。

つまりヴォイチェホフスキにしてみれば、彼がこの手紙を受け取ってその「出発」の報告を知り、それに対する返事を書いてそれがショパンの許に届く頃には、ショパンはもうワルシャワを発ってしまっている可能性すらあるのである。となると、仮にヴォイチェホフスキがショパンに同行するのであれば、この手紙を受け取ったら直ぐにでも自分も出発しなければ、とても間に合わない事になるだろう。

すなわち、手紙でいきなり「次の週」に出発すると報告されて、“ハイそうですか、じゃあ僕もいきなり気が向いたから一緒に行く事にするよ”…みたいな展開にでもならない限り、この時点でのこの2人の同行は絶対に実現し得ないと言う事だ。だが、そんな馬鹿げた話はとうてい考えられないのである。

それに実際ショパンは、結局この手紙に書かれた通りには出発せず、しばらくの間それをずるずると延期し続ける事になる。もしも本当にヴォイチェホフスキがショパンに同行する気があったのなら、彼はその度に行くか行かないかの選択を迫られていた事になる。

これが夏休み中の話ならまだしも、1ヶ月以上も自分の領地を不在にするような大旅行(※旅行どころかあれは「移住」だったと伝えている研究者すらいる)を、そんな急な決断で敢行する事など常識的に考えられないだろう。少なくとも何ヶ月も前から、あるいは仮に「移住」だと言うのなら、それこそショパンと同じように何年も前から予定されていた計画でなければ、どうしたって話の筋が通らない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「今週、僕は確信を得るために、四重奏の伴奏でホ短調・協奏曲を全部試してみなければならず、そうしないと、エルスネルが言うには、オーケストラの最初のリハーサルでうまくいかないのだと。」

「旅行が近くなっているので、僕は今週、四重奏の伴奏で協奏曲の全部をリハーサルしなければならず、四重奏と僕とで合わせて、少し馴染ませるのだ、と言うのも、エルスネルが言うには、そうしないとオーケストラとのリハーサルがうまくいかないのだと。リノフスキは時間との競争でそれを書き写しており、ロンド(※終楽章)に着手したところだ。」

 

ショパンは前回、

「来月のある日10日?)に出発する、(その前に)先ずは、協奏曲を試す必要がある。何故なら、すでにロンド(※終楽章)が出来ているからだ。」

と書いていたから、おそらくこの10日間の間にその準備を進めていたのだろうが、どうやらこの「リノフスキ」と言う人物がオーケストラ用のパート譜を書き写しているようである。

       実はショパンと言うのは、楽譜を清書するのを非常に面倒くさがる傾向があり、パリ時代にはそれを全部フォンタナにやらせていた事が分かっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「先週の土曜日に、僕は《三重奏曲》(※ト短調 作品8をやってみた。長い間聴いていなかった事もあってか、満足だった。“幸せな奴だ。”と君は言うだろう。すると、ヴァイオリンの代りにヴィオラを使う方が良いと言う考えが浮んだ。ヴァイオリンでは第五音が優位を占めているが、僕の《三重奏曲》ではまるで使われていないからだ。ヴィオラなら、僕が思うに、ヴァイオリンよりもチェロと一層良く調和するだろう。《三重奏曲》はそのあと印刷の準備ができるだろう。」

        ほぼ同じ。

       この《三重奏曲》については、私のBGM付き作品解説ブログ「ピアノ三重奏曲 ト短調 作品82台ピアノ版)▼」の方で詳しく説明しておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます

 

前回の手紙に、

「明日、カチンスキとビェラフスキが僕の所に来る。朝10時に、密かにエルスネル、エルネマン、ジヴニーの前で、リノフスキが僕のチェロを伴うポロネーズと三重奏曲を試す事になっている。」

とあったので、これはその結果報告になる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕自身についてはこれでたくさんだ。今度は他の音楽家達についてだ。」

「僕についてはこれで十分だ。今度は他の音楽家達についてだ。きみはここでも言うだろうね、僕が利己主義の原理に従っていると、でもそれは君が僕に与えたものだ。

 

カラソフスキー版では、ショパンがヴォイチェホフスキに対して皮肉を言っている箇所が削除されている。ショパンはこの後の「第16便」でも、ヴォイチェホフスキに対してこれと同じ事を言っている。

前回の「第12便」から、ショパンのヴォイチェホフスキへの態度が変わっている事がここからも分かるだろう。

 

 

今回の手紙は、ここから先が注目される。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「この前の土曜日に、ソリヴァは2番目の弟子ヴォウクフ嬢をデビューさせた。彼女は生来の優美さと立派な演技と、他に美しい眼と真珠のような歯とで、会場の全ての人を喜ばせた。彼女は、舞台の上では我々(ポーランド)の女優の誰よりも魅力的だ。」

「この前の土曜日、ソリヴァはヴォウクフ嬢を磨き上げた;彼女の艶めかしさ、彼女の素晴らしい演技、そして彼女の可愛らしい目と歯でもって、特別席も平土間も魅了した。我々には、それほど可愛い女優は他にいない;」

 

前回の手紙ではグワトコフスカのデビューについて報告していたが、今回はもう1人の方、つまりヴォウクフ嬢のデビューについての報告である。このように、ショパンはこの両者を決して分け隔てしてなどおらず、興味の対象としてあくまでも同等に扱っている事が分かるだろう。

 

カラソフスキー版とオピエンスキー版では若干表現のニュアンスが違っているが、とにもかくにも「ヴォウクフ嬢」「可愛い」のだと言う事が分かる。現在で言うところの“ロシアの妖精”と言ったところだろうか? いつもの事ながら、ショパンの目から見ても、ヴォウクフはグワトコフスカよりも遥かに美しいのだと言うのは歴然としている。いや、グワトコフスカどころか、ポーランドの「女優」の中で一番美しいと認識されているのである。逆にショパンがグワトコフスカの容姿についてここまで褒め称えている例はない。

オペラと言うのは歌だけでなく演技もする訳だから、だからここでは「歌手」ではなく「女優」と表現されている訳だが、しかし「女優」と言うからにはやはり外見は重要なのである。いかに歌や演技の実力があっても、その「女優」が劇のヒロインに相応しい容貌をしていなかったら、自然と客の興も冷めるだろう。それはショウ・ビジネスである以上仕方ないと言うか、むしろ当然の事なのである。

 

 

次の箇所では、カラソフスキーの作為がはっきりと分かる。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は、第一幕では彼女の声を良いとは認められなかった。それほど彼女は動揺していた。でも実に立派に演じていたので、誰もこれがデビューだとは思わなかった。彼女はアンコールと大きな拍手を受けたにも関わらず、2幕目までは当惑を克服できなかった。2幕目になって、初めて彼女の歌唱の実力があらわれた。しかし、リハーサルの時や、その3日前のパフォーマンスの時ほど十分には出てなかった。」

「しかし第1幕では、僕は彼女の声を認識する事はできなかった。彼女は海の浜辺を散歩するために、豪華に着飾って登場し、手にはオペラグラスを持っていて、振り返って彼女の目をちらっと見せると、あまりにも魅惑的なので、誰もそれが新人だとは思わなかった事だろう。しかし、ものすごい拍手とブラヴォーの叫びにも関わらず、彼女がそれほどナーバスにしていたので、僕は2幕目のアリアまで彼女の声を認識する事ができず、しかしそれでさえ、第1幕よりは良くても、2日前の彼女の2回のパフォーマンスほど良くは歌えていなかった。」

 

ここでショパンは、第1幕では、彼女の声だけではそれがヴォウクフだとは見分けが付かなかったという言い方をしているのに、カラソフスキーはそれを、声の良し悪しの問題を強調するように書き換えている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「歌唱の実力では、ヴォウクフ嬢はグワトコフスカ嬢より遥かに劣っている。もし前者を聴かなかったなら、2人の歌手の間にそれほど違いがあり得るとは信じなかっただろう。エルネマンも、グワトコフスカと肩を並べる歌手を見つけるのは簡単ではないと、我々と意見を共にし、特に、鐘のように澄んだ彼女の抑揚と、真に温かみのあるフィーリング、それらが舞台の上でのみきちんと表現されていると。彼女は聴き手を魅了する。ヴォウクフはちょっとしたミスをいくつか犯すが、一方のグワトコフスカには、少しも疑わしい音を聴き出せなかった、とは言うものの、彼女は《アグネス》を2度歌っただけではあるが。」

        ほぼ同じ。

 

ここで注意しなくてはならないのは、ショパンがこの手紙を書いている時点では、ヴォウクフはまだデビュー公演を終えただけなのに対して、一方のグワトコフスカは2度目の公演を終えたところだと言う点だ。

つまり、この両者の間には、たった1回とは言え、踏んだ場数の違いがあるという事だ。だが新人にとってこの差は大きい。

ただし、それを考慮しても、ヴォウクフはやや本番に弱いらしいと言うような印象が見て取れる。

一方、前回ショパンが報告したグワトコフスカのデビューは、

「緊張のせいで、最初の歌い始めに声が震えていたけれど、その後では勇敢に歌った」

と書かれていたので、この両者を比べると、グワトコフスカの方が舞台度胸があると言うか、本番に強いタイプであるらしい事がうかがえる。かたやヴォウクフの方は、2幕目」で多少持ち直したようだが、結局最後まで初舞台の緊張から開放されず、本来の実力を出し切れなかったようだ。

 

これに関しては、この手紙の翌日に発行される「九月一日」付の『ポーランド新聞』でも、

 

『グウァドコフスカ嬢と同じように、ウォウクフ嬢もまたすばらしい演奏という長所とすぐれた音楽の教養とをあわせ持っている。〔中略〕その点ではグウァドコフスカ嬢はウォウクフ嬢よりもいっそう進歩した……』

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より

 

 

と書かれているから、特にショパンが個人的にグワトコフスカの方を贔屓にしていたのではない事が分かる。

このように、彼女ら2人に対するショパンの評価には、一切私情など差し挟まれてはおらず、あくまでも客観的で冷静な判断に基づくものなのである。

単に歌手としてだけなら話は別だが、オペラの「女優」である以上、舞台上で映えるその容姿についての感想を報告する事も重要である。そして、確かにその点ではヴォウクフの方がグワトコフスカより上だったのかもしれないが、こと歌の実力だけで言えば、グワトコフスカは本番の舞台で経験を積む事で、この短期間に格段の進歩を遂げたのだと言う事が分かる(※そこには、ゾンターク嬢のアドバイスの効果もあったのかもしれない)。

ただしそれも、この『ポーランド新聞』の評論家「モヒナツキー」に言わせると、『両嬢の声には、歌の魂である優美さが欠けている』と言う事になるのだが、ショパンだって最初から、あくまでも彼女らはワルシャワ・レベルである事を大前提に語っているのである。

 

そしてもう一つ注意して欲しいのは、ショパンは前回の手紙でグワトコフスカのデビューについて報告し(※それも3週間遅れでだ)、今回はヴォウクフのデビューについて報告している訳だが、しかし、その間に行なわれていたグワトコフスカの2回目の公演については、今回の手紙で「ついでに」書いているだけだと言う点である。

もしもショパンにとってグワトコフスカが「理想の人」だと言うのであれば、2回目の公演についても、その翌日にはペンを取って事細かに報告しないではいられないはずだろう。しかもグワトコフスカはデビューの時よりも2回目の時の方が格段に進歩していたのだから、彼女に恋焦がれる身としてはそんな喜ばしい話題は他にないはずである。

ショパンにとってグワトコフスカの存在がどの程度のものであるかが、やはりここからも察せられるのである。

 

 

次の一言も注目される。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「一昨日、僕がこの2人のヴォーカリストに会って君の祝辞を贈った時、彼女らはたいそう喜んで、君にお礼を言うよう頼んでいたよ。」

        ほぼ同じ。

 

前にも説明した通り、これもまた、ヴォイチェホフスキがとうの昔から彼女達2人」と個人的に知り合いであった事を証明するものである。

しかももっと重要な事は、ショパンがこの時、このように普通にこの2人」と会話を交わしていると言う事だ。

つまり、すでにこんな風に個人的に会話するような間柄である訳だから、この後「第16便」で、ショパンが教会で偶然グワトコフスカと出っくわし、目が合った瞬間にその場から逃げ出すなどと言う茶番は断じてあり得ないのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ヴォウクフの歓迎会は、グワトコフスカのそれよりも暖かなものだったが、それはソリヴァには好ましくないようだ。ソリヴァは昨日僕に言ったのだが、ヴォウクフが仲間の弟子よりも多くの拍手を獲得する事を望まないのだと。」

ツェリンスキの言うところによると、ヴォウクフの歓迎会はもう1(※グワトコフスカを指す)のそれよりも素晴らしかったそうだ;それはイタリア人(※ソリヴァの事)を心配させたに違いなくて、なぜなら、昨日彼が僕に言ったのには、彼女がもう1(※グワトコフスカを指す)の方よりも人気があってもらいたいくなくて、しかし見るからにそうだったそうだからだ。」

 

オピエンスキー版の方を見ると、ショパン自身は「ヴォウクフの歓迎会」には出席しておらず、「ツェリンスキ」からの又聞きだったようだが、カラソフスキー版ではショパンが自分で見てきた話に変えられている。

この箇所におけるソリヴァの危惧と言うのは、単に、自分の2人の愛弟子はなるべく平等な扱いを受けて欲しくて、どちらか一方が特別視されるような事にはなって欲しくないと言う事だろう。それは師匠の親心としては当然の事だ。だから、ソリヴァがヴォウクフよりもグワトコフスカの方を特に可愛がっていたと言う事ではない。

要するに、このような事態になってしまうほど、それほどヴォウクフの容姿が人々を魅了してしまっていたと言う事であり、現代で言うところの、一種の“アイドル的人気”を博してしまったと言ったところだろう。ソリヴァにしてみれば、そんな事よりも、この2人をきちんと実力で正しく評価して欲しいと言う事でもあるのだろう。でないと、グワトコフスカの努力や進歩が報われない。

 

また、ここで着目して欲しいのは、オピエンスキー版では、ショパンはここではグワトコフスカの事を名前では書いておらず、単に「もう1人」扱いしている事だ。もしもこれが本当に「理想の人」だと言うのであれば、そのようなぞんざいな書き方はしないはずだろう。だからこそカラソフスキーは、それではまずいという事で、わざわざ「グワトコフスカ」と書き換えているのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕が思うに、その称讃のうちのかなりがロッシーニの取り分だろうね、彼の音楽は、パエールのオペラに出てくる不幸な娘の悲惨な境遇よりも、ずっと聴衆を喜ばせている(同様に、若い娘の美貌の虜にもされている)。」

「しかしそう言った事は、もちろん、《トルコ人》、と言うよりむしろロッシーニのお陰としなければなるまい、彼は我々聴衆により多くの感銘を与え、パエールの最も美しい称賛や不幸な娘に対するあらゆる不満よりも、特に、それは若い女の子の衣装と、その衣装の下にある何かによっても虜にされていた。」

 

そうなのである。ここでショパンも指摘しているように、ヴォウクフとグワトコフスカは、それぞれ演じたオペラが違うのである。グワトコフスカがパエールの作品だったのに対して、ヴォウクフの方は当代一の人気オペラ作曲家だったロッシーニの作品だった。

となれば、評価されるべきは2人の新人女優の出来だけではなく、彼女らが演じた作品そのものの質も当然問われなければならない訳で、パエールよりもロッシーニの作品の方が素晴らしければ、それがそのまま主演女優の注目度や評価にも跳ね返ってくると言うものだ。

グワトコフスカが演じた役が「不幸な娘」だったのに対して、ヴォウクフが演じた役は「豪華に着飾って」おり、それこそ「若い女の子」の魅力を存分に見せ付けるものでもあったのだ。

その点で、ソリヴァの選曲は、ある意味2人の持ち味を充分に考慮したものだったと言えるのではないだろうか?

 

 

次の箇所におけるカラソフスキーの変更も作為的である。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#16.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「グワトコフスカは、もう少ししたら《盗人のエルステル》に出演する事になっている。だが、この“もう少ししたら”と言うのは、僕が山を登ってしまうまで続くだろう。その頃には、たぶん君はワルシャワに来ていて、そのパフォーマンスについて意見を聞かせてくれるのだろう。彼女の3度目の役は《ヴェストリン》という事になっている。」

「グワトコフスカは、もう少ししたら《マグパイ》(※=《盗人のエルステル=泥棒かささぎ》に出演する事になっている。だが、この“もう少ししたら”と言うのは、僕が国境の向こうに行った後を意味する。もしそうなれば、君は僕に君の意見を話す事ができるよ。彼女の3度目の役は《ヴェストリン》という事になっている。」

       《ヴェストリン(ヴェスタの巫女)》 オピエンスキーの註釈によると、「スポンティーニによるオペラ;初演は1805年。」

 

オピエンスキー版では、グワトコフスカが次回作に出演する頃は、「僕が国境の向こうに行った後」だと書いてある。

そしてそれは、あくまでも「僕」であって、決して“僕ら”とは書いていない。つまり、外国に行くのはショパン1人だけであって、ヴォイチェホフスキが同行する事になどなっていない事がここからもはっきりと確認できるのである。

 

ここでショパンは、ヴォイチェホフスキに対して再び皮肉を言っているのである。

要するに、“僕さえいなくなれば、きっと君もワルシャワに来やすくなるだろうから、そのオペラの感想を君から僕に手紙で知らせてくれたまえ。”と、そう言っているのである。

 

ところがカラソフスキー版では、当然それではまずいので、上記のように書き換える事によって、あたかも、ショパンとヴォイチェホフスキが2人でグワトコフスカの舞台を見て、互いに感想を言い合うかのようなニュアンスにしてしまっている。

こう言うのを見るに付け、ますますヴォイチェホフスキのウィーン行きが怪しいものに見えてくるのだ。

 

 

カラソフスキー版は以上で終わっているが、オピエンスキー版にはこのあと長い続きがある。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#17.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕は、ヴォウクフが何を演じるのかは分からない。」

 

カラソフスキーが、この一言からそれ以降を削除した理由は今さら説明するまでもないだろう。彼は、ショパンの関心があくまでもグワトコフスカの方にだけあるような印象操作をしたかったのである。

今回の手紙をカラソフスキー版だけで見ると、ショパンの関心があたかもグワトコフスカばかりに向かっているかのように見えるが、実際はそうではない。今までもそうだったように、グワトコフスカの話題と言うのは、それ以外の多くの話題のうちの一つに過ぎないのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#18.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

一昨日、僕は再びシェムベク将軍のキャンプに行った。彼がまだソハチェフの衛舎にいる事を君に知らせておかねばなるまいが、ミハウ(※フレデリック・スカルベクの弟)に頼んで、僕を彼の所に連れて行ってもらうはずだった。しかしながら、それが駄目になったので、弾きながら卒倒したあのチャイコフスカ嬢の兄弟で、彼の副官のチャイコフスキをよこし、僕を彼の所へ連れて行った。シェムベクは非常に音楽の才能があって、上手にヴァイオリンを弾く。彼はローデの下で学び、完全なパガニーニ主義者なので、したがって音楽的に良いカテゴリーに属している。彼はバンドに演奏するよう命令し、彼らは朝の間中ずっと練習し続け、僕はいくつか注目に値するものを聴いたよ。それはみんな、ブーグルと呼ばれている種類のトランペットで、君は信じられないだろうが、半音階を極端に速く吹き、ディミヌエンド(※次第に弱く)しながら上昇していくんだ。僕はソリストを称賛しないではいられなかったが、彼はかわいそうな奴で、まだ若いのに肺結核らしく、おそらく長く仕える事はできないだろう。《唖娘*《ポルティチの唖娘》 オーベール(17821871)によるオペラ;初演は1823年。]からのカバティーナ(※短い叙情的器楽曲)が、この上ない正確さとデリケートな陰影を付けて、それらのトランペットで演奏されるのを聞いた時、僕は大きな感銘を与えられた。」

 

ここには再びシェムベク将軍のキャンプに行った」とあるので、ショパンは過去にも一度この「キャンプ」を訪れており、そしてその事をヴォイチェホフスキも知っていた事が分かる。

これについては、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカが以下のように書いている。

 

「また八月には、ソハチェフに駐屯するシェムベク将軍のキャンプを二度訪問し、演奏している(おそらくは民族的なモティーフを使っての即興演奏)。一度目は、家族とともにジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク家に逗留していた休暇中のことであった可能性が最も高い。出国まで間もなかったこのときの休暇は、ポーランドの田園とフリデリックの最後のふれあいとなったが、それが自らの生地であったことには運命的なものを感じさせられる。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

つまり、この年の「八月」中に「二度訪問」したとしている訳だが、私はそうではないと思う。

「一度目」の訪問はもっとずっと前の事だったはずで、おそらくは、ヴォイチェホフスキがまだワルシャワにいた頃だったはずである。

なぜなら、仮に「一度目」の訪問が前回の手紙でも触れられていたジェラゾヴァ・ヴォラ滞在中の事だったとしたら、ショパンはその「第12便」でそれも一緒に報告していなければ、ヴォイチェホフスキがそれを知り得るはずがない。それなのに、その「第12便」には「キャンプ」の事は書かれていなかったからだ。

つまり、ショパンがそれよりもずっと前に「キャンプ」を訪問していて、尚且つそれをヴォイチェホフスキも知っているのだとしたら、それはヴォイチェホフスキがまだワルシャワにいた頃以外には考えられないからである。だからこそ、その頃にソハチェフにいた「シェムベク将軍」まだソハチェフの衛舎にいる事を君に知らせておかねばなるまい」と言う書き方にもなるのである。この「まだ」と言うのは、この年の「八月」中程度の短期間を意味するものではないはずである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#19.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「彼(※シェムベク将軍)はキャンプにピアノを置いていて、そして僕には何が起きたのか分からないが、しかし彼は偽る事なく、本当に僕を理解したようだった。彼は《アダージョ》にもっとも感動して、僕を去らせてくれなかった。僕は《トルコ人》を観に行くのに遅れてしまいすらしたよ。」

 

ちなみにこの《アダージョ》については、ヘドレイの英訳版書簡選集では《ヘ短調・協奏曲》であると註釈されているが、確かにショパンの協奏曲の第2楽章の事なのは間違いないが、しかしこの手紙のこの記述からでは、これが《ヘ短調》なのか、それとも完成したばかりの《ホ短調》の方なのか、そのどちらかは全く分からないのだが、ヘドレイは一体何を根拠にそう書いているのだろうか?

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#20.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「それはそうと、ベルリンのある新聞に、ワルシャワでの音楽に関する馬鹿げた記事が載っていたよ。まず彼らは《アグネス》*この箇所はグワトコフスカについて言及していると思われる]について話していて、歌唱のフィーリングと演技の両方について彼女を非常に正当に称賛しいる;それから続けて:“この若いアーチストは、エルスネル、ソリヴァ両氏の指導の下に設立された機関の出身である。前者は作曲の教授で、数人の生徒を養成しており、その中に、オルウォフスキ氏、ショパン氏、その他がおり、彼らは時間をかけて貢献するようになるかもしれない云々”とある。そんなくだらない奴は悪魔にさらわれるといい。ブーケは目を真っ赤に瞬かせて、“彼らはうまいこと君に一杯くらわした”(※フランス語)と僕に言った;するとエルネマンは付け加えて、僕が2番目に置いてもらったのをラッキーと考えるべきだと。その記事はこれらの弟子達についてはこれ以上言っていないが、ただ以下のように結んでいる;“エルスネル、ソリヴァ、クルピンスキ諸氏の仕事を評価する事については、我々は今後に委ねる事になるであろう。” 一部のずうずうしいワルシャワの野郎のたわ言だ。」

 

この箇所については、ショパンが一体何に対して腹を立てているのか、正直私にはよく分からない。これについて説明してくれている著書も見た事がない。

ただ、前回も紹介したイワシュキェフィッチの著書に、以下の記述が見られるだけである。

 

「『ポーランド新聞』に、一八三〇年七月三一日と九月一日にのった記事、筆者の署名のないこれら二つの記事はこれまでほとんど注意が払われなかった。これらの記事は、たとえ筆者の名がなくても明らかにモヒナツキーの鋭い聡明なペンから生まれたものであることを裏書きしている。彼はともかくも『ポーランド新聞』の公認された音楽評論家だったのである。音楽評論の老大家のこの記事は、歌の勉強や音楽文化の普及について実に健全な考えを持っていたし、また、当時のワルシャワ音楽学校の管理経営についてひじょうに聰明な意見を持っていた。ソリヴァを悪い教育者だと攻撃したことも、エルスナーを攻撃したことも、もちろんまったく正しい(ヘンリエッタ・ゾンタークの意見と比較せよ)。エルスナー攻撃の理由は、ソリヴァ一派が悪影響を及ぼしたことや、音楽学校で主人顔をしていばったことやけしからぬやり方で誇大な宜伝太鼓を打ったことや、さらにベルリンの新聞にウォウクフ嬢やコンスタンチア嬢のデビューが芸術界のニュースとして広告されたことに対してエルスナーが無頓着な態度でこれらを認めたというのである。『初めドイツ語に、次にポーランド語に翻訳された』この新聞広告についてモヒナツキーは書いている。

『グウァドコフスカ嬢がステージに出たこと―そして大成功裡に出演したことは、なるほどワルシャワ人にとってはひじょうに重要なことにはちがいない。しかし、ベルリン人にとってはそれは格別興味のあることでもないだろうし、また重要なことでもないだろう』

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より

 

 

つまりショパンは、「一部のずうずうしいワルシャワの野郎」が誰だか分かっており、根本的にその人物の事を快く思っていないのだろう。

もしくは、ショパンはワルシャワでのプロ・デビュー後、「オルウォフスキ」がショパンの協奏曲からテーマを採ってマズルカ等を書き、ショパンの意に反してそれらを出版した事を不快に思っていたから、自分の名前がそんな彼より2番目」に連ねられているのが気に食わないのかもしれない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#21.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕はリナルディについて忘れていた――お願いだから、その本を僕に送ってくれたまえ、もしくは、ウォンチンスキに持たせるとかどうにかして;そのイタリア人は僕に平和をくれない;なぜ悪魔は、僕がポトゥジンの人々からその本を取り戻すのを忘れさせるのか。」

 

「ウォンチンスキ」と言えば、前回、

「ウォンチンスキと言えば、君のところにまだ逗留を続けているが、僕が彼の立場ならそうするだろう。」

と書かれていたから、おそらくショパンは、「リナルディ」と言う「イタリア人」の書いた本をヴォイチェホフスキ邸の誰かに貸していたかしていたものと思われ、それをその「ウォンチンスキ」に持たせるなり何なりして送ってくれと言っているようである。

なので、この「イタリア人」はソリヴァを指すものではないと思われる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#22.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「コステュスは来月、キンメルと一緒にウィーンにいる事になっていると、老プルシャックが僕にそう話した;そのあと、彼はドレスデンで彼の母親と合流し、ワルシャワに戻って来る;フーベはその間にイタリアへ渡る。イタリアについて考える時、僕の頭は痛む;僕はそれを信じている…」

 

ここではハッキリとは書かれていないが、ショパンは、次回の「第14便」では、ウィーン経由でイタリアへ行く予定である由を書いている。しかしこれを見ると、ショパンはあまり「イタリア」には行きたがっていないようにも見受けられる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#23.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「こんなナンセンスはもうたくさんだ;僕を許してくれたまえ、愛しい人よ;いつものように、僕は君に向かって何だか分からない事を書いてしまった。しかし君は、たとえそこに、僕の手でサインされた紙切れ以外何もないとしても、この手紙の代金を支払うためのそば粉から充分な利益を得たし、僕はそのサインで、いつでも君のために地獄の*判読不明の文字]を任命する準備が出来ている。」

 

この箇所は、*判読不明の文字]が含まれているためよく意味が分からず、非常に訳しにくいので、だいたいこんな事が書かれている程度に読み流して頂きたい。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#24.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「昨日、僕はヴィン(セント)・スカルジンスキとしばらく時を過ごした。彼は君の事がが好きで、君について色々と尋ねていたよ。みんながオレシアの事について僕に話していた。僕はその秘密が僕の心の中に埋められているのを嬉しく思っている、君から始まったものが、僕の所で止まっている事をね。君は僕について嬉しく思うはずだ、君は安心して何でもを投げ込んでしまえる深い穴を持っていて、それはあたかも分身であるかのように、君自身の魂のためにそのまま奥底に長い間横たえているのだからね。」

 

この「オレシア」については、シドウの註釈によると、「アレクサンドラ(オレシアと呼ばれていた)・プルシャック嬢は、ショパンの友人コンスタン(コステュス)・プルシャックの妹。ショパンはアレクサンドラ・プルシャックとティトゥス・ヴォイチェホフスキとの結婚を望んでいた。」と言う事で、それを受けてヘドレイの英訳版では、この箇所に[ティトゥスとある娘が恋仲になったことを言っている]と言う註釈が挿入されている。

要するにこの箇所は、ヴォイチェホフスキがショパンに打ち明けた彼の恋愛話が、巷では何かと噂になっているものの、ショパンは自分だけがその事実を知らされている事を喜んでおり、尚且つ自分は口が堅いから安心してくれたまえ…と言った感じのようである。

ちなみに、将来ヴォイチェホフスキが結婚する相手はこの「オレシア」ではない。

 

もう一つここで見落としてはならないのは、カラソフスキーがまたしても「ヴィン(セント)・スカルジンスキ」の存在を削除している点だ。

その理由は、すでに何度も述べているように、モリオール家と同様にスカルジンスキ家がコンスタンチン大公と直接親交のある保守派だからだ。したがって、ショパンの実像を捻じ曲げて革命派として描きたいカラソフスキーにとっては、目障りこの上ない人達だからである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#25.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「君からの手紙は、最愛の人からもらったリボンのように保管してある。僕はそのリボンを持っている;僕に手紙を書いてくれたまえ、そうすれば僕は1週間のうちに再び君とおしゃべりを楽しめるだろう。

永久に君の     

F.ショパン   」

 

ここにも、彼らの文通が最短でも1週間」でやり取りされていた事が分かる。

何度も説明しているように、これが当時の郵便事情なのである。

 

 

以下が追伸部分となる。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#26.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕の両親と姉妹達から、最高の挨拶を贈る。ルドヴィカが、君からのメッセージに感謝していたよ、僕が彼女に読んで聞かせたんだ。」

 

この箇所は興味深い。

ショパンは、ヴォイチェホフスキからもらった手紙について、直接それを家族に読ませる事はしていなかったのかもしれないが、少なくとも、ヴォイチェホフスキが何らかのメッセージを贈っている場合には、その部分だけでも「読んで聞かせ」ていた事が分かる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#27.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「ジヴニーは、君とその知人達を抱擁する;マックス、ソリヴァ、その他は敬意を送る。」

 

そして、これも再三に渡って説明してきたが、ショパンがこのように追伸に名を連ねている人達と言うのは、ショパンが今現在、この手紙を執筆中である事を知っている人物達なのである。

 

 

手紙は以下の記述で終わっている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第13便#28.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕はまだこの便箋から離れたくない。想像してくれたまえ、F嬢はこんな事を強く要求したがっているのだ、僕が彼女の世話をしなけらばならなくて、ピアノを教え、その他色々と…。パパはそれを望んでいて、何度も僕に彼女を訪問するよう仕向け、彼女は会いに来るが、僕は彼女に魅力を感じないのだ。かわいそうなその少女は、演奏会をやらなくてはならないのだが、何も分からないのだ。僕はエルネマンの所へ行くよう勧めたが、エルネマンもそれを望まず、ドブジニスキの所へ行かせた。彼女はリトアニア出身で、彼も出身が同じだからお互い合うだろうとか言って。こんなのはただの冗談だ。」

 

次回紹介する「第14便」は、非常に奇妙な手紙である。

 [2012年2月14日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証9-12:モリオール嬢こそが、ショパンの本当の初恋の人である

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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