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検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II -

 


10.グワトコフスカはこうして「理想の人」にされた―

  10. Gładkowska was considered to be “ideal" in this way -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 歌曲・好きな場所…▼≫
 

今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第12便」である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第12便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1830821日、ワルシャワにて

これは僕から君への2通目の手紙だ。おそらく君はそんな事が可能だとは考えもしないだろうが、しかしそれがあり得たのだ。

僕は、君の所から無事ワルシャワに帰るとすぐに手紙を書いたのだが、しかし僕の両親がジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク伯爵邸に留まっていたので、もちろん僕も留まり、それで急いでいたものだから、手紙を投函するのを忘れてしまったんだ。でも、悪い事でも少しは良い事を含んでいるものだ。

たぶん僕は、この前の手紙ほどには君を退屈させないだろう。僕にはただ諦めるしかなかった君の静かな田舎生活のイメージが、絶えず眼の目の前に浮んでいるのだから。僕は本当に、喜びを持ってそれを思い出していると言って差し支えない。僕は常に君の美しい田舎の邸宅にいささかあこがれを感じている。僕は、シダレヤナギを、あの石弓を忘れない! ああ、何という喜びでもって、僕はそれを思い出している事か! 君は、僕のあらゆる罪を罰するために、それに十分なほど僕をいじめた。僕が君と別れてからどうしていたか。また、僕の出発についてどのように取り決められたか、それを話そう。

僕は、パエールのオペラ《アグネス》が特に興味深かったが、なぜならグワトコフスカ嬢がそれで彼女のデビューを果たしたからだ*グワトコフスカ嬢はショパンの理想の実現であった。彼女を思う念は当時書いた作品に織り込まれている。彼女を夢想しながら、ホ短調・協奏曲のアダージョを書いた。彼のワルシャワを去りたいという望も消えた。彼女はこの20歳の多感な青年の心をまったく充たしていた。コンスタンツィヤ・グワトコフスカ嬢はソリヴァの弟子で、1832年に結婚して舞台を去り、あらゆる鑑賞家に大きな失望を与えた。]。彼女は、客間より舞台での方がよく見える。彼女の第一流の悲劇の演技は申し分なく、また彼女の歌唱は、高い嬰へ音とト音でさえ、素晴らしい。彼女のニュアンスは驚くべきもので、最初の方はナーヴァスになっていてむしろ声が震えていたが、後の方では正確に滑らかに歌った。そのオペラは切り詰められていて、おそらくそれで僕に退屈と感じさせなかったのだろう。グワトコフスカ嬢が第2幕でう歌ったハープのロマンスはとても美しかった。僕は本当にうっとりしてしまった。オペラが終ると彼女は呼び戻され、限りない拍手で迎えられた。

1週間後に、ヴォウクフ嬢が、《イタリアのトルコ人》のオペラでフィオリラの役を演じる事になっているが、これはきっと一般の人々を一層喜ばせるに違いない*ヴォウクフ嬢はグワトコフスカと相弟子で、彼女もまた1836年に結婚して舞台を去った。]。多くの人が理由も分からずにに《アグネス》を批判している。.

僕はソリヴァがグワトコフスカ嬢のためにもっと適当なものを選べばよかったとは主張しない。おそらく《ヴェストリン》ならもっと相応しいものだったに違いない。でも《アグネス》だって同様に美しい;その音楽には良いところがたくさんあり、初舞台の女優は見事だったよ。

さて、僕はどうしたらいいか?

僕は来月出発するが、しかし僕はまず僕の協奏曲を試さなければならなくて、と言うのは、今しがたロンド(※終楽章)の準備ができたから。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙は一見短いが、カラソフスキーは半分以上もの記述を削除している。それも、いつにもまして作為的に…である。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1830821日、ワルシャワ」

1830821日 土曜日、ワルシャワ」

 

まず日付について見てみよう。

前回の「第11便」は65日」で、今回が821日」なので、この間、約2ヵ月半ものブランクがある。そしてここにも書かれている通り、その間に手紙が1通書かれていた訳だが、その手紙が失われている。

今回着目すべき点は2つあり、まず最初は、その「失われた手紙」が、なぜヴォイチェホフスキの手によってこの世から葬り去られてしまったのか?…という事になる。言い方を変えると、その「失われた手紙」の何が彼にとって不都合だったのか?…という事だが、ヒントはすでに冒頭の挨拶に表れる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「嫌気がさすほどの偽善者よ!」

 

カラソフスキーは削除したが(※ちなみにヘドレイも削除している)、この冒頭の挨拶をヴォイチェホフスキ本人がそのまま「写し」に取って残しておいてくれた事は、我々にとって奇跡と言っていいほどの幸運だったかもしれない。

この箇所は、いつもなら「我が最も親愛なる生命よ!」などの常套句が使われている訳だが、今回はいきなりこのような辛辣な挨拶で始まっている。

ショパンはもちろん冗談で言っているのだが、この手の罵り言葉は、おそらくショパン、もしくは彼らの間ではごく日常的に使われていたはずである。だからヴォイチェホフスキも大して深刻にとらえる事もなしに、そのまま書き写していたのだろう。だがたとえ冗談ではあっても、理由もなしにこのような事は書かない。もちろん理由はある。そしてその理由こそが、この2ヵ月半のブランクにおける「失われた手紙」の内容を説明してくれるのである。

たとえば、ショパンはかつてビアウォブウォツキと文通していた時にも、この手の書き出しで手紙を始めていた事があった。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第12便

ワルシャワ、8[月曜日、18271月]

尊敬するヤシ殿!

君は尊敬に値しない、ならず者だよ! 許してくれたまえ、僕は怒りに任せてこのような敬称を使わずにはいられない、まさしく君にはそれが相応しい、君は、僕がペンを持って手を差し伸べるに値しないやつだよ!――これが、僕がミツキェヴィチ(の詩集)や、それらのチケット(※何のチケットかは不明)を買う間に耐え忍んだ疲労と苦労に対する、額に血の滲む汗を流した功績に対する、君の感謝の意なのかい? これが、僕の新年のお祝いの挨拶への君の返事なのかい? 

 

この時のショパンは、彼がビアウォブウォツキからの要請にしたがって「ミツキェヴィチ(の詩集)や、それらのチケット」を購入してやったにも関わらず、ちょっと連絡が遅くなった間にビアウォブウォツキが、“君は浪費家だから、どうせお金でも足りなくなったんだろう。”みたいな事を書いてきた事に対して怒っていたのである。

 

ショパンはその前の「第11便」の書き出しでもビアウォブウォツキに対して怒っていたが、その時はこうだった。

 

ショパンからビアウォブウォツキへ 第11便.

警告するが、僕は怒っている、その怒りは、僕がまるでバカみたいに今日まで待ち呆けていた1枚の紙切れ以外の何も和げる事は出来ない。ソコウォーヴォからの20日付の手紙を受け取った事については、神を称えよう、しかし今日は2日なのに、それ以降はもらっていない。」

 

この時は、相手が手紙をくれない事に対して怒っていた訳だが、この手紙では特に罵り言葉は使われていない。つまり、手紙をくれない程度の事ではショパンはあのような罵り言葉は使わないのである。あのような事を書くからには、そこにはちゃんとそれなりの理由があるのだ。

 

それは次の箇所から推測する事ができる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「これは僕から君への2通目の手紙だ。おそらく君はそんな事が可能だとは考えもしないだろうが、しかしそれがあり得たのだ。

僕は、君の所から無事ワルシャワに帰るとすぐに手紙を書いたのだが、しかし僕の両親がジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク伯爵邸に留まっていたので、もちろん僕も留まり、それで急いでいたものだから、手紙を投函するのを忘れてしまったんだ。でも、悪い事でも少しは良い事を含んでいるものだ。

たぶん僕は、この前の手紙ほどには君を退屈させないだろう。僕にはただ諦めるしかなかった君の静かな田舎生活のイメージが、絶えず眼の目の前に浮んでいるのだから。僕は本当に、喜びを持ってそれを思い出していると言って差し支えない。僕は常に君の美しい田舎の邸宅にいささかあこがれを感じている。僕は、シダレヤナギを、あの石弓を忘れない! ああ、何という喜びでもって、僕はそれを思い出している事か! 君は、僕のあらゆる罪を罰するために、それに十分なほど僕をいじめた。」

「これは君宛に書いている2通目の手紙だ。信用しないだろう、フリッツは嘘つきだと君は言うだろう。しかし、今回一度くらいは本当の事言うよ。――男爵と一緒に無事ワルシャワへ帰って来て、直ぐに君に手紙を書いたが、両親がジェラゾヴァ・ヴォラにいたため、実に自然な成り行きとして、僕はワルシャワに長くいられなくなった。あそこ(※ジェラゾヴァ・ヴォラ)で君宛てに書いた手紙を思い出した。その手紙は郵便局で投函するはずのものだった。再びワルシャワに帰って来た。今回は両親と共に。火曜日だった。幸運にも、出発した時と同じ場所に、ティーカップの側に置いておいた君宛の手紙を見つけた訳だ。僕らが不在中に僕らの家に来たカロルが言うには、その手紙をティーカップの側で見た、と。悪い事で始まったが、最終的には良い結果となった。この2通目の手紙には、多分、最初の手紙に書いたほどの悪い事は書かないよ。何故なら、君のポトゥジンでの無謀な騒ぎを新鮮な気持ちで心配しているからだ。――本当の事を言うと、あの日の、あれら全ての事を気持ちよく思い出している。――何か解らないが、あの君の地所にある田園(の風景)が君に会いたいと言う願望を強くしてくれた。――窓の下に立っている、あの白樺がこの思い出を忘れさせてくれない。あの石弓! ――なんとロマンチックなのだろう! 僕はあの石弓をよく覚えている、それでもって君は僕を的にした(※僕が苦労したと言う意味)、いかにも全ての罪をあがなうべきでものであるように――」

 

ショパンは前回「手紙の代りに僕自身を送る事ができないのが何とも残念だ」と書いていたが、彼はこの夏、ついにヴォイチェホフスキの田舎ポトゥジンへの初訪問を果たす事となった。この2人がショパン家の寄宿学校で知り合ってからの年月の長さを考えれば、これが初訪問だったという事実が何を意味するか分かるだろう。確かにポトゥジンは遠い。だから、かつてショパンがビアウォブウォツキの田舎ソコウォーヴォを訪問していたような訳にはいかないだろう。だが、これはあくまでも両者の気持ちの問題なのだ。当時のショパンにとっては、ビアウォブウォツキとの友情が全てであり、そしてそこにヴォイチェホフスキを含む他者の入り込む隙はなかった。だからこそショパンはビアウォブウォツキに会いたいと願い、そしてビアウォブウォツキもまた、ショパンを招くために自家用馬車を回してくれてもいたのだ。

ところが、そのビアウォブウォツキが若くして亡くなり、それによってショパンの心にぽっかりと穴が開き、その心の隙間を埋めるための身代わりとして選ばれたヴォイチェホフスキはどうだったか?

それについては、今まで幾度となく説明してきた通りである。

 

さて、ショパンは今回、そのポトゥジン初訪問から帰宅した直後に、ワルシャワで1通手紙を書いていたのだが、その手紙が失われている。ショパンは帰宅後、ジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク邸に滞在中の両親に急遽合流する事になったため、その忙しさに紛れて手紙の投函を忘れてしまったとの事だが、おそらくその手紙は、今回の手紙と一緒にヴォイチェホフスキの許へ送られたものと思われる。

なのでショパンはこの手紙を2通目」としており、必然的に、一緒に送ったはずの「1通目」が失われている事が分かる。

そして、「この2通目の手紙には、多分、最初の手紙に書いたほどの悪い事は書かないよ」と言っており、その「悪い事」と言うのがすなわち「嫌気がさすほどの偽善者よ!」の意味を説明するものだったのである。

おそらく、この「偽善者」という言葉ほど、このティトゥス・ヴォイチェホフスキという人物の、その真実の人間像を的確に言い表している言葉はないだろう。たとえショパンは冗談で用いた言葉だとしても、そもそも「冗談」とは単なる「真実の言い換え」に過ぎないのだから。

 

ショパンは、ポトゥジンから帰って来てから直ぐに書いた「最初の手紙」は出し忘れていたのだから、それに対して返事が来ない事は分かりきっている。

さらに、この2人はついこの間、約1年ぶりに直接会って存分に会話を交わしたばかりなのだから、そうそう直ぐにはヴォイチェホフスキから手紙も来ないだろう事ぐらい分かっている。

したがってこの時のショパンが、ヴォイチェホフスキから手紙が来ない事なんかで腹を立てているはずがない。

ショパンが怒っているのは、ヴォイチェホフスキが、実際はワルシャワへ出て来られないはずなどなかった事を、ポトゥジンへ直接出向いて見て分かってしまったからなのだ。

ショパンの記念すべきプロ・デビュー公演にも来ず、その上、頼まれたから嬉々としてゾンターク嬢についての情報をあれだけ書き送ってやったにも関わらず、それでも結局来ず、よっぽど田舎での仕事が忙しいんだろうと、それならこっちから行ってやろうと行ってみたら、なんと、ポトゥジンの若旦那様は、至って悠々自適の暮らし振りをなさっていた…とこう言う訳である。

確かに、ショパンが行った時期は夏休み中だったから、その時はもちろん仕事はしていなかったのだが、しかし、当地で直接色々な人達からヴォイチェホフスキの普段の生活振りを聞かされれば、彼が決してワルシャワへ出て来られないほど忙しくしていた訳ではない事が分かってしまうのである。

ショパンは前回の「第11便」で、

「君の田園での苦労を休めるためにこっちへ来たまえ。ゾンターク嬢が歌うのを聴いたら、君は新しい人生に目覚めて、仕事に対する活力も増す事だろう。」

と書いてやっていた。

これはつまり、ヴォイチェホフスキが「仕事」を理由にワルシャワヘ出て来られないと説明していたからこそであり、それなのに、こういった気遣いが全て徒労に終わり、しかもそれが、ヴォイチェホフスキの口からでまかせによるものだったという事だ。そうでなければ、「嫌気がさすほどの偽善者よ!」なんて罵り言葉は出て来ないのである。

ショパンはこれ以降、ヴォイチェホフスキに対してこのような言葉を繰り返すようになり、そしてまた、もはや彼を自分の告別演奏会に誘い出そうとするような事も書かなくなってしまう。その結果、ヴォイチェホフスキに聴かせたいがためにプログラムに入れようとしていた、彼に献呈した《「お手をどうぞ」による変奏曲》▼も、どうせ来ないからと外してしまう事になるのだ。

 

 

また、ここにはもう一つ、見落としてはならない事が書かれている。

カラソフスキー版では削除されているが(※ちなみにヘドレイ版でも削除されている)、オピエンスキー版によれば、ショパンは1人でポトゥジンへ行ったのではなく、「男爵と一緒」だったとある。

「ワルシャワ⇔ポトゥジン間」は馬車で片道34日もかかるので、往復の旅費だけでもそれなりの額になってしまうため、とうていショパンの個人的な懐具合でどうこうできるものではないだろう。特にこの時期のショパンは、自分が外国へ旅立つための費用も捻出しなければならなかったのだから、余計な出費は極力避けなければならなかったはずだ。しかし、この「男爵」がポトゥジンのヴォイチェホフスキ邸を訪問するのに便乗すれば、当然「男爵」の自家用馬車だし、なおかつ旅程の宿泊費も浮く訳だから、おそらくショパンはそれで今回、ついに念願かなう事になったのだ。

つまりだ、この度のショパンのポトゥジン訪問は、すべてこの「男爵」のスケジュールに拘束されていたと言う事なのである。

したがって、もしも「男爵」がポトゥジンにもっと長期滞在していたら、ショパンはグワトコフスカのデビュー公演になど、仮に行きたくても行けなかった可能性だってあったという事だ。むしろショパンの本音では、そうなる事の方をこそ望んでいたとすら考え得るのである。

であるから、たいていのショパン伝で伝えられている以下のような解釈には、ちょっとばかり無理がある事になる。

 

「しかし、どれほど魅力にあふれた田舎も、ティトゥスでさえも、フリデリックをポトゥジンに引きとめられない事態がやがて生じた。一人の若き貴婦人が、ワルシャワ国民劇場で初演を迎える、パエールのオペラ《アニェーゼ》(※アグネス)の主役でデビューしようとしていたのである。王城を管理する最高責任者の娘で、ショパンと同い年(三ヵ月若い)、音楽院のカロル・ソリヴァ教授が指導する声楽クラスでいちばん優秀な学生であるだけではなく(ヴォウクフ嬢と並んで)、一番の麗人でもあるという評判のコンスタンツヤ・グワトコフスカこそ、その若い女性だった。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

残念ながら、今回の手紙を普通に読めば明らかなように、ショパンはこのように、グワトコフスカのデビュー公演のためにワルシャワヘ馳せ参じた訳ではない。

彼はポトゥジンから帰宅すると、そのあとすぐに、おそらく両親から伝言があったか何かして、ジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク邸を訪問しているのだ。という事はつまり、グワトコフスカのデビュー公演までは日数的に相当なゆとりがあったと言う事だ。もしも上記のような解釈の通りなら、ショパンはギリギリまでポトゥジンに留まり、ちょうど演奏会の日に間に合うように帰宅するはずだろう。しかし、手紙が伝えている事実は全くそうではない。

要するに、この時のショパンの夏のスケジュールを取り仕切っていたのは彼自身の感情などではなく、すべては大人達の社交上の都合でしかないのだ。

何でもかんでも無理やり「理想の人」と結び付けて解釈しようとすると、このように、あらゆる事が不自然になるというのがここからもよく分かるだろう。最初から存在していない事象を基準にして物を考えるからそうなるのだ。

 

「君の所から無事ワルシャワに帰るとすぐに手紙を書いた」と言っている事からも推察されるように、おそらくショパンは、「男爵」の都合で帰りの道中にどこかへ立ち寄っていた可能性があり、だからこそ、失われた方の「最初の手紙」では、無事の帰宅を報告すると共に、それなりに書きたいネタもあったと言う事なのだろう。

だが、それを受け取ったヴォイチェホフスキの方は、その手紙を世間に公表するのを拒んだ。だから彼は「写し」を取らず、カラソフスキーにも資料提供せず、自らの手で生前に処分してしまった。

なぜか?

その手紙には、おそらく、ポトゥジンで2人の間に起きた諍いに関して、ショパンがかなり具体的に蒸し返していた可能性が大いに考えられ、それが今回の冒頭の挨拶「嫌気がさすほどの偽善者よ!」につながっていた事は間違いないからだ。

 

 

次の箇所は、今回着目すべき点の2つ目として重要である。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕が君と別れてからどうしていたか。また、僕の出発についてどのように取り決められたか、それを話そう。

僕は、パエールのオペラ《アグネス》が特に興味深かったが、なぜならグワトコフスカ嬢がそれで彼女のデビューを果たしたからだ*グワトコフスカ嬢はショパンの理想の実現であった。彼女を思う念は当時書いた作品に織り込まれている。彼女を夢想しながら、ホ短調・協奏曲のアダージョを書いた。彼のワルシャワを去りたいという望も消えた。彼女はこの20歳の多感な青年の心をまったく充たしていた。コンスタンツィヤ・グワトコフスカ嬢はソリヴァの弟子で、1832年に結婚して舞台を去り、あらゆる鑑賞家に大きな失望を与えた。]。彼女は、客間より舞台での方がよく見える。彼女の第一流の悲劇の演技は申し分なく、また彼女の歌唱は、高い嬰へ音とト音でさえ、素晴らしい。彼女のニュアンスは驚くべきもので、最初の方はナーヴァスになっていてむしろ声が震えていたが、後の方では正確に滑らかに歌った。そのオペラは切り詰められていて、おそらくそれで僕に退屈と感じさせなかったのだろう。グワトコフスカ嬢が第2幕でう歌ったハープのロマンスはとても美しかった。僕は本当にうっとりしてしまった。オペラが終ると彼女は呼び戻され、限りない拍手で迎えられた。」

しかし、その間に過ぎ去った時の事について君に報告する必要がある。君に伝えなければならない、二度と帰って来られないと思っている出国をする事を。多くの必要な事を書かなければならない。――まず最初、《アグネス》がワルシャワでの僕の興味の対象となった。(彼女の)公演に行って来た。グワトコフスカには欠けているものは何もない。客間にいるよりも、ステージの上にいる方が良いだろう。悲劇の演技については何も言う事はない。歌唱については、時折、高い嬰へ音からト音への移動に問題があるが、この種の演技では我々にこれ以上に良いものはない。彼女がフレーズを表現しているのを見れば、君は至福の喜びに浸るだろう。緊張のせいで、最初の歌い始めに声が震えていたけれど、その後では勇敢に歌った。オペラは短縮されていた。それ故に、僕はつまらなく長い演奏の中に彼女の間違いを見つける事が出来なかったのだろう。ソリヴァのアリアは第二幕で最も効果的だった;効果的に巧くやるだろう事を僕は知っていたけど、あれ程の大演奏を期待してはいなかった。第二幕では、ハープの伴奏で歌った“ロマンス”(エネルマンが舞台裏で、幻覚を壊してしまう事なく、彼女の後ろでピアノを弾いていた)を、最後に元気に美しく、非常に綺麗に歌った。僕は満足だった。最後には《アグネス》を(舞台裏から)引っ張り出し、拍手喝采の雨が降った。

       ちなみに、この著書の邦訳版であるモーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)では、グワトコフスカの結婚が「一八三三年」と誤植されている。ドイツ語原版の初版でも英訳版の第3版でも1832年」となっており、そしてそれが実際の事実である。

 

カラソフスキーのショパン伝においては、「第4便」で「理想の人」が告白されて以来、ようやく前回の「第11便」で初めて「グワトコフスカ嬢」が登場した訳だったが、その彼女が、実は例の「理想の人」だったのでした…と、ここに至って初めてそれが読者に説明されると言う、そのような珍事がついに起きる。

 

ショパンが手紙の中で、これほど詳細に、そして熱心に「グワトコフスカ」について書いた事はこれまで一度もなかった。

グワトコフスカの演目については、それを批判する意見が多かったにも関わらず、ショパンは、それはソリヴァの選曲ミスだとして彼女を擁護してさえいる。

これを見てカラソフスキーは、この「グワトコフスカ」に白羽の矢を立て、彼女を「理想の人」に仕立て上げてしまおうと思い付いたのである。それでこの話をもっと膨らませれば、もっと読者の興味を引く事ができると。ただし、そのためにカラソフスキーは、そのために邪魔な文章を、この中からことごとく削除している。

1.       グワトコフスカの歌について、「時折、高い嬰へ音からト音への移動に問題がある」と、ショパンが彼女の欠点を指摘している箇所。

2.       2幕で、本来であればグワトコフスカがハープで弾き語りする場面で、「エルネマンが舞台裏で」ピアノで弾き、上手く彼女をサポートしていたと指摘している箇所。

 

このように、グワトコフスカを美化するのに不都合な箇所を、カラソフスキーはことごとく抹消している。この後に出てくる記述においてもそうである。

 

 

それでは、カラソフスキーは、なぜ今頃になってこのような事を思い付くに至ったのだろうか?

それを想像するのは極めて簡単だ。当時の彼の立場になって考えれば、ごく当たり前の流れとしてそうならざるを得ないからだ。

 

カラソフスキーのショパン伝は、元は1862年から雑誌に連載される形で発表されていたものだ。

であれば、その読者や関係者らは、「第4便」で「理想の人」が告白されて以来、それが誰であるかも説明されず、そしてその後それについての話題も一切出てこない事について、誰もがさぞかし不思議に思っていた事だろう。そして当然の事ながら、その疑問を著者であるカラソフスキーに投げかけていたはずである。

カラソフスキーは自ら「ショパンの家族と交際していた」と書き、さらに、当時まだ存命中のヴォイチェホフスキからこれらの手紙の「写し」を借り受けたとも書いている。であればカラソフスキーは、その関係者達を通して、「理想の人」が誰であるかを当然知り得る立場にいた訳である。それなのに、「第4便」からすでに6通もの手紙を紹介しておきながら、なぜ未だにその責務を果たそうとしないのか?…まともな人間なら誰もがそう問い詰めるはずである。

実際カラソフスキーは、出版の現場で、関係者や読者からそのような質問をイヤと言うほど受けてきたはずなのだ。おそらく彼はそれで引っ込みが付かなくなり、今回この「グワトコフスカ嬢」を利用する事で嘘の上塗りをしない訳にはいかなくなったのだ。

そしてその段取りは、もちろんヴォイチェホフスキとも協議した上で行なわれていたはずである。なぜなら、元々の資料提供者であるヴォイチェホフスキもまた、当然同じ質問をイヤと言うほど受けていたはずだからだ。カラソフスキーのショパン伝を読んだヴォイチェホフスキの友人知人達は、こぞって彼にこう聞いてきた事だろう…“おいおい、当時のフレデリックがそんな恋をしていたなんて、そんな話は今まで聞いた事なかったぞ。で、その「理想の人」ってのは一体誰なんだよ? お前が知らないはずないんだから、教えろよ。” …とか何とか…、ショパンと近しい関係者なら当然、誰もがさぞ興味津々だった事だろう。

 

こうして、グワトコフスカが無理やり「理想の人」に仕立て上げられる事となったのである。

 

ちなみに、そのコンスタンツヤ・グワトコフスカについて、ヘドレイは以下のように書いている。

 

「ここでコンスタンツィアについて語るとしよう。一八三二年一月一日に彼女はユーゼフ・グラボフスキと結婚した、そしてステージに立つのをすっかり諦めて、夫とそして彼らの間に生まれた五人の子供たちといっしょに田舎で平穏に幸福に暮していた。しかし一八四五年に恐ろしい災害が彼女の上に襲いかかったのである。彼女は盲目になってしまった。一八七八年に彼女の夫が死んだので彼女は孤独の生活を送るようになった。しかし彼女は不幸な生活を明るく耐え忍んで、文学や音楽に対する興昧を決して失わなかったのだ。カラソフスキ著の『ショパンの生涯』を読んでもらったとき、彼女はこの若かりし作曲家にどれほど自分が重要な意味をもっていたかを知って驚いたのである。彼女は自分へのショパンの想いがこんなにも切実であったことを少しも知らなかったのだ。けれども彼女は後悔しなかったのであ.る。彼女は、「私はショパンが私の誠実なユーゼフと同じぐらい良い夫になり得たかどうかはわからない、というのは、彼は、気紛れで、空想ばかりしていて、当てにならない人だったからだ」と言っていた。彼女は死ぬ数日前彼女のフレデリック・ショパンの書簡と記念品をすべて焼き払い、一八八九年十二月二十日に亡くなっている。」

アーサー・へドリー(へドレイ)著/野村光一訳

『フレデリック・ショパン』(音楽之友社)より

 

 

ここには「フレデリック・ショパンの書簡と記念品をすべて焼き払い」とあるが、彼女には最初から、焼き払わねばならないような「ショパンの書簡と記念品」など何もなかったのだ。彼女がカラソフスキーのショパン伝を読んでもらって「驚いた」のは、彼女が「ショパンの想い」「知らなかった」からではない。そんな事実などなかったからこそ「知らなかった」のであり、だからこそ「驚いた」のである。

もしもショパン伝等で伝えられていたような数々の事実があったのだとしたら、彼女はそれとなく相手の好意を感じ取っていたはずである。たとえばこの後「第16便」では、ショパンは教会で偶然グワトコフスカと出っくわし、目が合った瞬間にその場から逃げ出したとか書かされているのだが、もしもそんな茶番が実際に起きていたのなら、どんな鈍感な女性でも、“あの人あたしに気があるのかしら?”くらい思うだろう。

 

また、ショパンとグワトコフスカとの出会いについては、一般的には以下のように伝えられている。

 

「ショパンは、前の年の四月二一日、音楽院の学生による発表会で初めて、この藍色の目をした、金髪のソプラノ歌手を見かけ、たちまちその虜になった。彼女の歌声も美貌もショパンに強烈な印象を残した。だが彼女に個人的に近づこうとするには、フリデリックは内気すぎた。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

この「四月二一日」という日付は、確かに「第4便」(103日」付)で「半年もの間、黙って忠実に仕えてきた」と書いてあった時期とほぼ重なる。

しかし、よく考えてみて欲しい。

グワトコフスカがワルシャワ音楽院・声楽科に入学したのが何年だったのかはちょっと不明だが、少なくとも、その「四月二一日」より更に半年前の前年1828年の秋以前だった事は間違いないのである(※日本では春が入学シーズンだが、言うまでもなく欧米では秋である)

だとすれば、彼女はその頃からすでにソリヴァの愛弟子として彼の音楽夜会の常連だった訳だ。となれば、ショパンが彼女と出会ったのは、「四月二一日」「音楽院の学生による発表会」などと言う公の場であるはずがなく、間違いなくそれ以前にソリヴァの夜会ですでに個人的に知り合っていたはずだろう。

ショパンの手紙でも、彼が彼女と会うのは決まってソリヴァ絡みである事が分かっているのだから、そう考えるのが現実的であり、むしろ「音楽院の学生による発表会」だとする方がよっぽど不自然なのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1週間後に、ヴォウクフ嬢が、《イタリアのトルコ人》のオペラでフィオリラの役を演じる事になっているが、これはきっと一般の人々を一層喜ばせるに違いない*ヴォウクフ嬢はグワトコフスカと相弟子で、彼女もまた1836年に結婚して舞台を去った。]。」

「今日から数えて1週間後に、フィオリラの役で《トルコ人》の舞台に出演する事が予定されている。ヴォウクフ嬢の方が(観衆に)より良く受けるかも知れない。」

 

ショパンは、グワトコフスカよりも「ヴォウクフ嬢」の方が才色の両面において上であると認めている事がはっきりと分かる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「多くの人が理由も分からずにに《アグネス》を批判している。.

僕はソリヴァがグワトコフスカ嬢のためにもっと適当なものを選べばよかったとは主張しない。おそらく《ヴェストリン》ならもっと相応しいものだったに違いない。でも《アグネス》だって同様に美しい;その音楽には良いところがたくさんあり、初舞台の女優は見事だったよ。」

「《アグネス》は非常に数多くの敵対者を持っている事を君に言っておかねばならない。彼ら自身、なぜ音楽にそれほどの批判を持っているかの理由を解らないでいるようだ。イタリア人(※ソリヴァのこと)がグワトコフスカのために、もっと良い役を選んでくれても良かったはずだと言う事を否定しない。《ヴェストリン》の役をもらえれば、彼女にもっと幸運をもたらしたかもしれず、若い新人女優にとっても上手に扱えるような、多くの稀有な美しさと難しさを兼ね備えている

       《ヴェストリン(ヴェスタの巫女)》 オピエンスキーの註釈によると、「スポンティーニによるオペラ;初演は1805年。」

 

ここでもショパンは、グワトコフスカの実力については、あくまでも「若い新人女優」としての但し書き付きで、そしてあくまでも一友人の立場として、それを共通の友人に向かって報告しているのであって、決して、一流のプロを評価するような感覚では物を言ってなどいないのである。ところがカラソフスキーは、そのようなニュアンスを、このようにことごとく削除してしまっているのだ。

 

ちなみに、ここに書かれている「敵対者」については、イワシュキェフィッチが興味深い資料を紹介してくれている。

 

「『ポーランド新聞』に、一八三〇年七月三一日と九月一日にのった記事、筆者の署名のないこれら二つの記事はこれまでほとんど注意が払われなかった。これらの記事は、たとえ筆者の名がなくても明らかにモヒナツキーの鋭い聡明なペンから生まれたものであることを裏書きしている。彼はともかくも『ポーランド新聞』の公認された音楽評論家だったのである。音楽評論の老大家のこの記事は、歌の勉強や音楽文化の普及について実に健全な考えを持っていたし、また、当時のワルシャワ音楽学校の管理経営についてひじょうに聰明な意見を持っていた。ソリヴァを悪い教育者だと攻撃したことも、エルスナーを攻撃したことも、もちろんまったく正しい(ヘンリエッタ・ゾンタークの意見と比較せよ)。エルスナー攻撃の理由は、ソリヴァ一派が悪影響を及ぼしたことや、音楽学校で主人顔をしていばったことやけしからぬやり方で誇大な宜伝太鼓を打ったことや、さらにベルリンの新聞にウォウクフ嬢やコンスタンチア嬢のデビューが芸術界のニュースとして広告されたことに対してエルスナーが無頓着な態度でこれらを認めたというのである。『初めドイツ語に、次にポーランド語に翻訳された』この新聞広告についてモヒナツキーは書いている。

『グウァドコフスカ嬢がステージに出たことーそして大成功裡に出演したことは、なるほどワルシャワ人にとってはひじょうに重要なことにはちがいない。しかし、ベルリン人にとってはそれは格別興味のあることでもないだろうし、また重要なことでもないだろう』

ショパンのウォイチエホフスキー宛の手紙から判断すると、彼がモヒナツキーと同じ意見であったことが結論される。彼はこのことについては別に何の意見も述べていないけれど、次のような二番目の意見にも賛成したであろう。

『われわれのところでは、人々が大いに歌を始めない限り、男性歌手はもちろん、名をなすような女流歌手もいなくなってしまうであろう……』

この意見は現在でも有効である。

モヒナツキーの論評には、しかしまた同時にまことに意地悪な、気狂いざたの傍若無人さで書かれた表現があった。これがショパンの敏感な性質をひどく傷つけたにちがいないのである。これらの記事はそうあっさりと見過ごされてしまうものではなかった。おまけにこれらはあまりにも耳をそばだたせる論評だった。だから口のうるさい小都市ワルシャワの人々はこの記事をサロンや音楽学校のホールやコーヒー店でのくだらないおしゃべりの対象とした。

それにもかかわらずショパンはそれについては一言半句も述べていないし、ティトゥス宛の『あけすけ』の手紙にもそれをほのめかすようなものすらない。私たちはここで初めて、ショパンは自分が不愉快な思いをするようなことをしゃべるのを注意深く、でぎるだけ避けたことがわかるのである。そして彼はいつも、この後もそうするのだった。

実に長い() モヒナツキーの二つの論評は同時にまた、その年その年の首都ワルシャワの音楽の量から質が推察されると思い込むことに反対している証拠でもある。

モヒナツキーの痛烈な批評が、たとえおもに外国人ソリヴァに向けられたものであったとしても、二人の歌姫やショパンもまたそば杖をくって、毒舌の分け前として大きな打撃を受ける結果となった。モヒナツキーがその論評に書いたことを聞いてみよう。

『たとえ欠点なくできたとしても、音をいろいろに出すことは歌ではない。……グウァドコフスカ嬢は音楽的であり、よく練習もしているし、流暢でもある。しかし彼女は歌うことができない〔中略〕。グウァドコフスカ嬢は声を持っていたかも知れない、しかし現在では残念ながら彼女はもう声を持っていない……』

モヒナツキーは『彼女の演奏はとくに優秀』と言って、デビューしたこのお嬢さんにとってまさに殺人的であった攻撃をやわらげようとしている。彼は攻撃をやわらげるためには、『彼女は美しい髪の毛を持っている』と言い得たかも知れない。二回目の記事では、モヒナツキーは少し無遠慮な自分の態度を反省したかのようで、グウァドコフスカ嬢と同じようにウォウクフ嬢を

『二度目の出演では発奮して、一回目の時のようには調子をはずさなかった』

と酷評はしているものの、すぐにソリヴァのこの二人の女弟子の音楽の才能や演技の能力にほめ言葉を付け加えている。

『グウァドコフスカ嬢と同じように、ウォウクフ嬢もまたすばらしい演奏という長所とすぐれた音楽の教養とをあわせ持っている。〔中略〕その点ではグウァドコフスカ嬢はウォウクフ嬢よりもいっそう進歩した……』

とは言うものの、モヒナツキーはすぐに条件をつけて、

『両嬢の声には、歌の魂である優美さが欠けている』

と言っている。モヒナツキーの論評は『階級的排他心』への苦情を述べ、『論争の義勇兵]たることを宣言すると同時に、一つの皮肉を持っていた。この皮肉はたとえある他の人(ソリヴァ)に向けられたものであったとしても、ショパンの感情を最高に傷つけるものであった

モヒナツキーは、無遠慮にものを言うことにわれながら驚いたにちがいないが、その意図するところを述べるにあたって、

『音楽の感激が歌そのものよりも、若さの魅力や演出にあいきょうのあることで、しばしば熱中してしまうような当地の素人を、はっきりと正しい道に導くために書くのだ』

と言っている。この言葉は、大胆卒直に、次のように日常の言葉に言いなおすことができる。

『ショパンは、グウァドコフスカに惚れ込んでいるので、彼女が見事に歌うと思い込んでいるのだ。しかしそれにもかかわらず、彼女は猫のようにニャゴニャゴ鳴くだけだ』」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社)より

 

 

ここには、『ポーランド新聞』の日付が「一八三〇年七月三一日」とあるから、グワトコフスカのデビュー公演はその前日あたりに催されていた事が分かる。と言う事は、この手紙の日付が821日」だから、なんとショパンは、実に3週間以上も前の話題について報告していた訳だ。これはあまりにも遅すぎるリアクションではないだろうか?

たとえばショパンは、自分のデビュー公演やこのあとの告別公演については、その翌日にはもうペンを取ってその内容を手紙にしたためているのである。それを思えば、ショパンにとってこのグワトコフスカのデビュー公演が、果たして、一体どれほどの重要度だったと言えるのか、それが如実に分かると言うものではないだろうか。仮に、彼女が本当に「理想の人」だと言うのなら、ショパンは、公演の翌日には直ぐにもペンを取って報告せずにはいられないはずだろう。

【情報修正の追記】

グワトコフスカのデビュー公演の正確な日程は724日」でしたクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』や、アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)には、1830724日におこなわれたコンスタンツィアのデビューコンサートのプログラム」の資料が写真で掲載されています。つまり、ショパンがこの話を手紙に書いたのはちょうど4週間後の事で、ほぼ1ヵ月後だったと言う事になります。

 

ショパンは、「まず最初、《アグネス》がワルシャワでの僕の興味の対象となった」と書いていたが、実際は、とてもその言葉通りには受け取れない程度の「興味の対象」だったのである。

また、イワシュキェフィッチが指摘しているように、もしもショパンがこの「モヒナツキー」の論調に傷付いていたのなら、尚の事、この記事を読んだら直ぐにでもその反論を手紙に書きたくなるはずだろう。それなのに記事を読んでから3週間も間が空くなど、それで一体どれほどの「傷」だと言うのか? いつも指摘している事だが、手紙に書かれている事というのは、その字面を追っただけではその正確な意味を見誤りやすい。これが記事を読んだ直後に書かれたのと3週間後に書かれたのとでは、その話題の重要性は天と地ほども変わってくるだろう。

ショパンはあくまでも、グワトコフスカとヴォウクフの友人知人として、単に彼女達のデビューを温かい目で見守っていたに過ぎないのである。ショパンが彼女達に対して持っていた贔屓目とは、最初からその程度のものでしかない。一切の先入観を排除して、手紙に書かれている記述のみを冷静に俯瞰すれば、それ以外に読み取れる事など何もないのである。

 

 

次の箇所は、カラソフスキー版では削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「シュチュロフスキは恐ろしい奴だ;タルマ、ケンブル、ドヴリアン、更にゾルコフスキなどの片鱗がある;これは何の事か解らないが、彼は完全な狂人だ。 ――ソリヴ ァによれば、ズダノヴィッチは究極のものである、と。サロモノヴィッチュは不幸で、ナヴロッツカは相変わらず気取って話すし、ジリンスキは舞台で自分の役をどうにかこなしている――それも昨日、《トルコ人》の稽古で、トルコ人に対してスティックで殴りかかった時の冷血漢さに僕は憤慨した。 ――ヴォウクフは上手に歌い、演劇の身振りもうまい――彼女はこの役を非常にうまく演じたが、それだけの可能性を持っているようだ。彼女の瞳の方が、喉以上に観衆に訴えるものがあったようだ。高い方のニ音(レの音)では、幾度か、非常にきれいな声で、勇敢に歌った。(彼女は)グワトコフスカよりももっと良く(聴衆の)気に入ったであろうことは、僕は疑問を持っていない。――五重奏は派手やかに出来た。将軍は喜んだ。フランクフルトにいるコストゥスはキンツルと一緒にミラノ、トゥリエストゥ、ウィーンなどで演奏を行った後で帰る。フーベはまだ残っていて、やっと来月15日になってローマに現れる予定だ。」

 

この箇所は、ショパンがオペラ《トルコ人》のリハーサルを観に行った時の事が報告されており、彼がグワトコフスカよりもヴォウクフ嬢の方を容姿、才能、ともに上であると見なしている事が再度確認されている。

「コステュス」らの旅行については、ここ最近ずっと話題にされている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「さて、僕はどうしたらいいか?

僕は来月出発するが、しかし僕はまず僕の協奏曲を試さなければならなくて、と言うのは、今しがたロンド(※終楽章)の準備ができたから。」

「では、僕は何をしてる? ――来月のある日に出発する、(その前に)先ずは、協奏曲を試す必要がある。何故なら、すでにロンド(※終楽章)が出来ているからだ。」

       オピエンスキー版では「ある日」となっているが、ポーランド語の原文では「X日」となっているので、これは10日」を意味するものとも考えられ、オピエンスキーの英訳版ではそのようになっている。

この箇所を見ると、ショパンは、この時はもはや告別演奏会を開く事なしに外国へ出発するつもりでいた事が分かる。

ただし出発前に、完成した《ホ短調・協奏曲》の試演はするが、それは本番前のリハーサルではなく、あくまでも試演するだけで、それは外国での本格プロ・デビューに備えるためだと考えていたのである。

そして、その試演の結果、エルスネルらからお墨付きをもらい、結局彼らの勧めで「告別演奏会」を開く運びとなるのではあるが…。

 

 

カラソフスキー版はここで終わっているが、オピエンスキー版では更に長い続きがある。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「明日、カチンスキとビェラフスキが僕の所に来る。朝10時に、密かにエルスネル、エルネマン、ジヴニーの前で、リノフスキが僕のチェロを伴うポロネーズと三重奏曲を試す事になっている。僕たちは死ぬまで一心に演奏する。上記に列記した人達以外では、さらにマトゥシンスキも、彼はいつも僕に親切にしてくれているからね。あとは、偽善者、卑劣漢、浮浪人等々、誰の事だと思う! 想像に任せるよ――」

 

「ヴォイチェホフスキ書簡」において、「マトゥシンスキ」の名前が登場するのはこれが初めてである。

これを見れば明らかなように、ショパンはここで彼を引き合いに出して、“本当なら君(ヴォイチェホフスキ)も呼びたいところだけど、どうせ来る気なんかないんだろうから、もう呼ばないよ!”と言っているのである。

 

ちなみに、この箇所の罵り言葉について、ヘドレイは英訳版の書簡集で次のように解説している。

 

[ティトゥスが手紙をくれないことを指しているのである。]

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

 

さっきも説明したように、ショパンは[手紙をくれない]程度の事でここまで相手を罵りはしない。

ヘドレイの書簡集では、冒頭の「嫌気がするほどの偽善者よ!」も削除され、この手紙の結びに書かれている「地獄にいるお化け」も削除されている。何よりも、ショパンがポトゥジンへ出向いていた事も削除され、それについて一切書かれていないのだ。それでこの解説である。ヘドレイの編集態度にも、首を傾げたくなる事が非常に多い。「ビアウォブウォツキ書簡」の時にも指摘したが、ヘドレイは、ショパンとビアウォブウォツキとの友情を示す箇所をことごとく削除していたが、逆に「ヴォイチェホフスキ書簡」においては、ショパンとヴォイチェホフスキとの友情に疑問を差し挟む箇所をたいてい削除している。

 

また、ここで「マトゥシンスキ」の名が出てきたのは興味深い。

彼もまた、ショパンを語る上で欠かす事のできない親友の1人であり、パリ時代には一時期同居生活を送っていた事もあり、あのニコラがその人間性を高く評価していたほどの人物である。だが、それでもやはり、ショパン伝における彼の存在は、ヴォイチェホフスキ同様、カラソフスキーによってその友情が実際以上に誇張されている。それなのにカラソフスキーは、ここで、そんな重要人物の名前をあっさりと削除してしまっているのである。

このような腑に落ちない編集態度も、やはり、グワトコフスカの当初の扱いと全く同じ事なのである。つまりカラソフスキーの構想では、この時点ではまだ、この「マトゥシンスキ」を、「ウィーン時代におけるヴォイチェホフスキの代役」に仕立て上げると言うアイディアが浮かんでいなかったと言う事なのだ。

しかしそれについてはウィーン時代に詳しく説明しよう。

 

ちなみに、いくつかのショパン伝では、ショパンのウィーン行きにヴォイチェホフスキが同行する事になったのは、今回ショパンがポトゥジンを訪問した際に2人で話し合って決められたのだと言う事にされている。

しかし、この手紙におけるショパンのヴォイチェホフスキへの態度を見れば、これは、とてもそのような嬉しい打ち合わせがあった後だとは思えないだろう。ありえない話である。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「コストゥスが僕にパルチェフスカ姉妹(未婚)の口を通じて、礼儀を尽くすよう命令して来たよ。マリエンバッドにいるプルシャコフスカ ――(彼らは)当然ながら水を飲むために、わざわざあそこまで行ったのだ。ムレツコも同様に。僕の好きなピオトル・ジェヴァ(ノフスキ)は旅の途中でライネルツに留まり、セルヴァットゥキ(※チーズにならなかった牛乳の残り)を飲んでいる。――」

 

この辺は、カラソフスキーがいつも削除している例と同じである。

何気に「ライネルツ」は懐かしい。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「オボルスキを“ロズマイトシチ”で見かけた。――(彼の出演は)良かったよ。――ヴァレリーが光輝くブリラントカットのボタンを付けた服を着て、銀行家の顔をして、街の中の通りをかっ歩しており、ヴィンツェントはいつも通り良き人であり、以前通りの良い役人として働いている。」

 

ここに書かれている「ヴァレリー」「ヴィンツェント」も同じスカルジンスキ家の人々で、それぞれ過去の手紙に何度も登場している。

「ヴァレリー」の方は「第8便」で「ちょうど今、コツィオ(※コンスタンチン、つまり、ロシア皇帝ニコライ二世の兄でポーランド総督)ヴァレリー・スカルジンスキと一緒に到着していて、それと、愛婿(※フランス語)も彼らと一緒に旅している」と書かれていたから、つまり彼はロシア側に通じている人間なのである。

したがって、国粋主義者のカラソフスキーからすれば国賊に等しいため、スカルジンスキ家の人々はことごとく削除されており、唯一「第2便」における「ヴィンツェント」もイニシャル化されて素性が分からないようにされていた。

これと同じ理由で、カラソフスキーは、ショパンの真実の恋の相手である「モリオール嬢」の存在を伝記から抹殺していたのである。彼女がコンスタンチン大公家で家庭教師をしていたからだ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「ウォンチンスキと言えば、君のところにまだ逗留を続けているが、僕が彼の立場ならそうするだろう。」

 

この中でショパンは、「僕が彼の立場ならそうするだろう」と書いているが、実は、これこそがショパンの本音なのである。したがってショパンは、ポトゥジン滞在よりもグワトコフスカのデビュー公演を優先してワルシャワに帰ったのではない。ここからもその事実が垣間見られる訳だが、カラソフスキーは当然これも削除する訳だ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「ワルシャワに帰って来た日の翌日、すでに君に話したと思うが男爵を見た。コンテの家に逗留している。両者をワルシャワに帰って来てから見た;彼の母親は大病をしている、彼からその事は聞いている。カシュテランと昨日会った;彼とは君について話をした。 ――カロルは出発した事だろうが、直ぐに自分の館に帰って行くはずだ。――今日は《ハムレット》が上演される、それには行くよ。昨日、今や牛のように肥えているリヴォリ嬢が、ガシンスキが翻訳した《初恋》(※フランス語)で、オレシア・プルシャックの役を演じた。君の役をニヴィンスキが巧く演じた、コッチ(コチョ)(が受け持つ)役をヤシンスキがコッチ自身よりも巧く演じている、僕の役をシニァノフスキが非常に巧く演じている、ヘロフから非常に遠い所にある渓谷(を歩く)(場面)。クラッツェルは今まで以上に鼠を捕る有効な薬を考え出していない(※彼の演劇の前ではみんなが逃げ出すと言う意味)。一方、クハルスキは:彼はケルビーニ役だ(※フランス語)。――」

       「リヴォリ嬢」 シドウの註釈によると、「ルドヴィカ・リヴォリはポーランドの歌手。ワルシャワ音楽院・声楽科の生徒で、1829年にデビューした。」

 

この箇所の後半部分は、彼らがよく身内で催す家庭演劇の話である。

 

 

以下に続く結びの部分も注目される。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第12便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕は急いでいる、何となれば、可哀そうな奴(※出し忘れた最初の手紙の事)が彼の弟のように家に留まっている必要がないようにするため、僕自身が郵便局へ手紙を出しに行かねばならないから。来週、今日(君に)に書いた事で、君を怒らせるような事になるだろうが、もう沢山だ。 ――君から何もいらない、握手する事さえ、すでにこれからの長い将来に渡って君が嫌になってしまったからだ、地獄にいるお化けよ。(別れの)キッスをくれたまえ。

F.ショパン      

もしも、僕宛の手紙があるなら、僕宛に送ってくれ。――ここに書いた内容を許してくれたまえ、何故なら、今日、僕は以前よりも更に馬鹿だから。パパ、ママ、それに姉妹たち皆が君によろしくと。」

 

ここで再び、冒頭の「嫌気がするほどの偽善者よ!」が思い出され、「すでにこれからの長い将来に渡って君が嫌になってしまった」と、挙句の果てに「地獄にいるお化け」とまで書かれている。

一体何がショパンにここまで言わせる理由となっているのか、もう繰り返し説明する必要はないだろう。

この手紙が今までと違って特別なのは、これが、ショパンが初めてポトゥジンのヴォイチェホフスキ邸を訪ねた事の結果を受けて書かれていると言う点だ。

つまり、この手紙におけるショパンのヴォイチェホフスキに対する態度の突然の豹変は、そのポトゥジン滞在中に起きた、あるいは判明した事柄(何らかの諍い)に起因しているのはもはや明らかであり、決して[ティトゥスが手紙をくれないこと]などという日常的な事柄が問題なのではない。

ポトゥジンでのヴォイチェホフスキは、ワルシャワに出向こうと思えばいつでもそれができるような生活をしていた。それなのにいつも結局来てくれなかった。ショパンは、自分が彼を思うほどには、彼が自分の事を思ってくれていなかった事を知り、それで「君が嫌になってしまった」と言っているのである。

 

だからこそこの箇所は、カラソフスキーもヘドレイも、ショパンとヴォイチェホフスキの友情物語に疑問を差し挟む要素と見なし、読者の目の届かないところに葬り去ってしまった訳なのだ。

 

 [2012年2月8日初稿 トモロー]


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検証9-11:グワトコフスカの急成長

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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