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検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II-

 


8.噂の恋人?「モリオール嬢」の存在について―

  8. The lover of the rumor "Panna Moriolles" -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ワルツ 第14番 ホ短調 遺作▼≫
  

今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第10便」である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第10便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1830515日、ワルシャワにて

君はきっと、フリッツ(※ショパンの愛称)が君の手紙に折り返し返事を出さなかったのを不思議に思っているだろう;でも君の求めている情報がすぐに得られなかったので、今日まで書くのを遅らせていたんだ。

まあ聞きたまえ、僕の最も親愛なる者よ:ヘンリエッタ・ゾンタークは6月、あるいは、おそらく5月の末にワルシャワに来る。君は彼女を聴く機会を逃さないだろうと僕は確信している。ああ、僕はその事にどれほど感謝しているだろう! 彼女は今ダンツィッヒ(※グダンスク)にいるに違いなくて、彼女はそこから我々の所へ来るのだ。僕らには、数回の演奏会が見込まれている。プロシア国王に仕えているピアニスト、ヴォーリッツァー(ヴェルライツェル)はもう2週間ここにいる。彼はとても上手に弾き、ユダヤ人なので、多くの天分を持っているのだ。彼は僕と一緒にいた;彼はほんの16歳に過ぎない;僕の家で弾いた中に素晴らしいものがいくつかあった。彼の最も良かった演奏は、アレクサンデル行進曲によるモシュレスの変奏曲だ。彼はこれらを本当に素晴らしく弾いた。君は彼の演奏スタイルと演奏マナーを好むだろうが、とは言え――これは君だけに言うが――彼には、室内楽の名人と言うにはまだ欠けたところが多い。スタン氏というフランスのピアニストもまたここに来ている。彼は演奏会を行なうつもりでいたが、最近になってその考えを断念したらしい。

愉快な音楽ニュースとしては、ウィーンのピアニストの父であるブラヘトカ氏が、もしも僕がアドバイスをくれるなら、議会が開かれる時にこっちに来て演奏会をいくつか催すと言うのだ。しかし僕の立場は難しいものだ;その人は金儲けをしたい訳だし、仮に彼の望みが果されないような事にでもなれば、彼は僕に腹を立てる事になるだろう。僕はさっそく返事を書いて、(※ブラヘトカ嬢が)来るのか来ないのかをしばしば人から尋ねられる事と、多くの音楽家や音楽愛好家はお嬢さんの演奏を聴けたら嬉しいだろうと書いておいた;しかし僕は、ゾンターク嬢がここに来る予定である事、リピンスキも来る事、我々が劇場を1つしか持っていない事、演奏会の費用は少くとも100ターレルはかかるという事も、隠さずに知らせておいた。これでもう彼は僕に、状況がどんなだか正確に知らせなかったとは言えない訳だ。彼が来るだろう可能性は大いにある。僕はとても嬉しいし、また彼の娘さんのために大入り満員となるよう全力を尽くすだろう。僕はまた、喜んで彼女と2台ピアノで演奏するつもりだ;と言うのも、ウィーンで彼女の父が僕のためにどれほど親切に世話してくれたか、君には信じられないくらいだからだ。

僕はいつ旅行に出られるのかまだ分からない。僕はたぶん、暑い月の間はここにいるだろう。ウィーンでは、イタリア・オペラは9月まで始まらないから、僕は急ぐ必要もない。新しい協奏曲のためのロンド(※第3楽章)はまだ出来上らない。僕はそれを完成するに相応しい気分になれなかったのだ。アレグロ(※第1楽章)とアダージョ(※第2楽章)とが仕上がれば、フィナーレには少しも心配はいらない。

ホ長調のアダージョは、ロマンチックで、静かで、ややメランコリックな気分で構想された。それはあたかも、洗練された春の夜の月光のような、気持のよい思い出を呼び覚ます、とても愛おしい風景に目が触れた時の印象を書いたのだ。僕はヴァイオリンが弱音器を使って伴奏するように書いておいた。それで良い効果が得られるだろうか? 時が経てば分かる。

君がワルシャワに帰って来る時には、手紙を書いて知らせてくれたまえ、なぜって君なしで演奏会をやったら、最初の時よりも悪くなるだろうからだ。君は、僕がどんなに君を愛しているか分らない。ああ、僕がそれを証明できれば良いのだが。もう一度君を心から抱擁する事が出来たら、どんなだろうか。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙は一見短いように見えるが、しかし双方の文章量は実に倍以上も違うのである。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1830515日、ワルシャワにて

君はきっと、フリッツ(※ショパンの愛称)が君の手紙に折り返し返事を出さなかったのを不思議に思っているだろう;でも君の求めている情報がすぐに得られなかったので、今日まで書くのを遅らせていたんだ。

まあ聞きたまえ、僕の最も親愛なる者よ:ヘンリエッタ・ゾンタークは6月、あるいは、おそらく5月の末にワルシャワに来る。」

        内容はほぼ同じだが、日付は515日 土曜日 ワルシャワ」で、年号は1830と推定扱い。

        また、冒頭にはいつものように「我が最も親愛なる命よ!」の挨拶がある。

 

まず日付について見てみよう。

今回の「第10便」は前回からほぼ1ヵ月後に書かれている。それまでの「第7便」から「第9便」までが異例のハイ・ペースだった事を思えば、これはかなりなペース・ダウンと言える(※下図参照)

 

18304(第9便)

 

5(第10便)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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30

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しかしながら、本来この2人が普通に文通をする際、「ワルシャワ⇔ポトゥジン間」を手紙が1往復するのにだいたい2週間を要するのだから、ショパンが前回に出した417付の「第9便」に対する返事が折り返し届くのは「51日」頃であり、したがってヴォイチェホフスキの側からすれば、「8日」ぐらいには返事が来るものと予想していただろうが、それよりも2週間の遅れだった事になる。

この書き出しを見れば明らかなように、内容がきちんと前回とつながっているので、この間に「失われた手紙」はない事が分かる。

ショパンは前回、

「『ワルシャワ通信』はすでにゾンターク嬢の到著を発表している。」

と書いていた。

「ゾンターク嬢」「ドイツの著名なオペラ歌手」である。なので、ヴォイチェホフスキはおそらくそれに対して、“僕もゾンターク嬢の演奏会に行けるものなら行きたいから、それについての情報を頼む”みたいな返事を書いて寄こして来たのである。

しかしショパンは、それに関する続報がまだ得られなかったため、すぐに返事が出せなかったと言う事なのだ。

 

さて、そうすると、仮にヴォイチェホフスキがこの「第10便」を受け取るのがだいたい「22日」頃だとすると、「ヘンリエッタ・ゾンタークは6月、あるいは、おそらく5月の末にワルシャワに来る」との知らせに対して、彼は34日後にはポトゥジンを発たなければ5月の末」に間に合わない事になるだろう。

ところが、ゾンタークはワルシャワで実に6回以上もの演奏会を行なったにも関わらず、結局ヴォイチェホフスキは一度もワルシャワへは来なかったのである。

こうして彼は、またしてもショパンに「ぬか喜び情報」だけを与え、いつも口先だけで期待させておきながら、行動では何一つ愛情を示そうとはしないのだ。

これで本当に「唯一無二の親友」と呼べるのだろうか?

 

 

次の箇所は問題である。

そしてカラソフスキーはそれを削除している。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

下記の事を君に知らせておきたい。すなわち、モトフスキ大臣閣下が発令した詔勅に従い、“国会”が開かれているのを機会に、G嬢とW嬢の2人が演奏会に出演する予定だ。その内の1人は、パエールの《アグネス》で唄う。残りの1人はG嬢で、《トルコ人》に出演する。何故これらのオペラが演題に選ばれたのか、君はその理由を想像できるかね?― 僕は昨日、ソリヴァ家の“夕べ”の集まりに参加した。その集まりにはスーヴァン家の人達とグレッセル家の人達以外には誰もいなかった。G嬢は、彼女のためにソリヴァ氏が作曲したオペラのアリアを歌った。このアリアは正に彼女の見せどころを見せるに打って付けのものになるはずだったが、実際には一部だけそうであったし、数箇所のみ彼女の声に合うものだった。《トルコ人》ではW嬢が、彼女のために一部編曲され、彼女の声に合う別のアリアを歌う予定だ。このアリアはロッシーニの作曲で、彼女よりももっと有名な、このオペラに出演する歌い手のために書かれたものだ。彼女は上手に歌うよ。君がここへ来れば、その事を自分で確信できるだろう。

       《アグネス》 オピエンスキーの註釈によると、「フェルディナンド・パエールによるオペラ。初演は1819年」

       《トルコ人》はロッシーニによるオペラ《イタリアのトルコ人》

 

ここに出てくるG嬢とW嬢の2とは、言うまでもなく、

18291114日」付の「第6便」で以下のように書かれていた「グワトコフスカ嬢」「ヴォウクフ嬢」の事である。

「お上品なマダム・スヒロリは、美しいコントラルト歌手で、ソリヴァの所で催された音楽夜会2回歌ったと、タイヒマンが僕に話している。ヴォウクフ嬢は母親の喪に服しているし、グワトコフスカ嬢は目に包帯をしている」

 

また、ショパンの手紙に「グワトコフスカ」の名前が出てくるのは、1830410日」付の「第8便」で以下のように書かれて以来、3度目の事となる。

グワトコフスカ夫人(※グワトコフスカ嬢の母親)が君の事を尋ねていた事を除けば、これ以上詳しく書く必要はない。」

 

今回は「G」と言うイニシャルでしか書かれていないが、これが誰を指しているのか、当然カラソフスキーは分かった上でこれを削除している。

カラソフスキーには、他ならぬ当事者であるヴォイチェホフスキと言う「生き証人」が付いていたのだから、ショパンの手紙の中の登場人物達について、彼に知りえない事など一つもないのである。

 

そして、「第4便」で「理想の人」の存在が告白されて以来、この間に、ショパンがヴォイチェホフスキに対して、その「理想の人」が実は「グワトコフスカ嬢」だと説明した事は一度もない。この2人は学校を卒業して以来一度も会っていない。したがって手紙でそう書かなければ、このような秘密は他に伝達の手段はない。それにも関わらずだ。

更に、伝記作家のカラソフスキーもまた、自分の読者に対して、そのような解説を一切してきていない。

それどころかカラソフスキーは、その機会をこのようにことごとく放棄し続け、「グワトコフスカ嬢」の存在そのものを抹消し続けている。だからカラソフスキーの伝記が連載されていた当初、読者は、「理想の人」が実は「グワトコフスカ嬢」だったなどとは、この時点では誰も夢にも思っていなかった。こんな事が信じられますか?

仮に「理想の人」の話が本当で、そしてそれが「グワトコフスカ嬢」であると言うのなら、それを最初から知っているはずの伝記作家が、「第4便」の告白の際にその事を読者に説明しないなど考えられない。そんな事は絶対にありえない事なのである。

 

 

そして、この箇所でショパンがその「G嬢」について何と書いているかと言えば、もう1人の「W嬢」との比較ではっきりと分かる事だが、この両者を比べると、「ヴォウクフ嬢」がロッシーニのオペラから敢えて難曲を取り上げて「上手に」歌っているのに対して、一方の「グワトコフスカ嬢」は、師匠のソリヴァが彼女の声に合うようにわざわざ曲を書き下ろしてそれを既成のオペラ作品に挿入しているのである。

つまり、両者の実力には明らかな差があり、そしてショパンは、その事実をただ見たまま感じたままに報告しているに過ぎず、ここからは、「グワトコフスカ嬢」に対する横恋慕の感情など微塵も読み取れない事がよく分かるだろう。

そして読み取れないからこそ、カラソフスキーはここに至っても尚「グワトコフスカ嬢」の存在をショパンにとって重要なものとは考えず、つまり、彼女を「理想の人」と結び付けようなどとは思いもよらず、今までと同じように削除しているのである。

 

 

さて、それはそうと、ショパンは前回ソリヴァについて、こんな事を書いていたのを思い出して欲しい。

「僕は今日、ソリヴァに会った。彼はおそらく狡猾なイタリア人だ;しかし彼は僕に、彼があの記事への返答として書いたものを見せてくれた;註。フランス語で、しかも新聞で発表するためではなく、彼自身のために;それは素晴らしかった;彼は誰の名前も出す事なしに、エルスネルの記事について彼らを正当に非難している。彼は対面上は僕に優しいが、何の役にも立たない;だから僕は礼儀正しくはしているが、彼から招待されているにも関わらず、できる限り彼に近付かないようにしている。」

それなのに、ショパンはそれから約1ヵ月後には、こうしてまたソリヴァの夜会に行っている。

そしてその場で、再びこうしてG嬢とW嬢の2と会っている。

当時、オペラは娯楽の王様と言っていいほどに人気があり、ショパンもまた好きだった。

であれば、我らがワルシャワ音楽院・声楽科が生んだ期待の新人歌姫の2人に対して、同世代のショパンがその成長やデビューに関心を抱かないはずがないのは当然である。ショパンはあくまでも、G嬢とW嬢の2をそういう目でしか見ていないが、しかしそういう目で見ているなりの仲間意識とか先輩意識は持っており、そこから派生する同業者としての愛情なり友情の念はもちろんあるだろう。だからこうして、本当はあまり好きではないソリヴァの夜会にも、場合によっては行くのである。

だがそれ以上でもなければそれ以下でもないのだ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「君は彼女を聴く機会を逃さないだろうと僕は確信している。ああ、僕はその事にどれほど感謝しているだろう! 彼女は今ダンツィッヒ(※グダンスク)にいるに違いなくて、彼女はそこから我々の所へ来るのだ。僕らには、数回の演奏会が見込まれている。」

「君はゾンターク嬢を聴く機会を逃さないだろうと僕は信じている。ああ、僕はそのゾンタークにどれほど感謝しているだろう! 彼女はすでにグダンスクにいると言われていて、彼女はそれから我々の所へ来るのだ。しかし要するにだ、僕らは多くの音楽に触れる事になるだろう。」

 

オピエンスキー版では、前の文章の君がここへ来れば、その事を自分で確信できるだろうからの連想で、ヴォイチェホフスキがワルシャワへ来る理由としての「ゾンターク嬢」の話題にまた戻っているが、間を削除しているカラソフスキー版では、そのまま「彼女(ゾンターク嬢)」として話をつなげている。

いずれにせよショパンにとって「ゾンターク嬢」の存在は、ヴォイチェホフスキをワルシャワヘ連れて来てくれる女神のようなものになっており、その事は次回の「第11便」でも執拗に書き綴られる。

G嬢とW嬢の2人についての話題よりも、こちらの方が遥かに熱がこもっていて意味ありげなのは、もはや誰の目にも一目瞭然だろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「プロシア国王に仕えているピアニスト、ヴォーリッツァー(ヴェルライツェル)はもう2週間ここにいる。彼はとても上手に弾き、ユダヤ人なので、多くの天分を持っているのだ。彼は僕と一緒にいた;彼はほんの16歳に過ぎない;僕の家で弾いた中に素晴らしいものがいくつかあった。彼の最も良かった演奏は、アレクサンデル行進曲によるモシュレスの変奏曲だ。彼はこれらを本当に素晴らしく弾いた。君は彼の演奏スタイルと演奏マナーを好むだろうが、とは言え――これは君だけに言うが――彼には、室内楽の名人と言うにはまだ欠けたところが多い。スタン氏というフランスのピアニストもまたここに来ている。彼は演奏会を行なうつもりでいたが、最近になってその考えを断念したらしい。」

        ほぼ同じ。

 

ショパンはここで「プロシア国王に仕えているピアニスト」について言及しているが、このプロシアもロシアと同じく、当時のポーランドを分割支配していた国の一つである。

しかしながらここでのショパンは、ロシアに対してもそうだが、そう言った事に対する偏見のようなものを持っている様子は特に見られない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「愉快な音楽ニュースとしては、ウィーンのピアニストの父であるブラヘトカ氏が、もしも僕がアドバイスをくれるなら、議会が開かれる時にこっちに来て演奏会をいくつか催すと言うのだ。しかし僕の立場は難しいものだ;その人は金儲けをしたい訳だし、仮に彼の望みが果されないような事にでもなれば、彼は僕に腹を立てる事になるだろう。僕はさっそく返事を書いて、(※ブラヘトカ嬢が)来るのか来ないのかをしばしば人から尋ねられる事と、多くの音楽家や音楽愛好家はお嬢さんの演奏を聴けたら嬉しいだろうと書いておいた;しかし僕は、ゾンターク嬢がここに来る予定である事、リピンスキも来る事、我々が劇場を1つしか持っていない事、演奏会の費用は少くとも100ターレルはかかるという事も、隠さずに知らせておいた。これでもう彼は僕に、状況がどんなだか正確に知らせなかったとは言えない訳だ。彼が来るだろう可能性は大いにある。僕はとても嬉しいし、また彼の娘さんのために大入り満員となるよう全力を尽くすだろう。僕はまた、喜んで彼女と2台ピアノで演奏するつもりだ;と言うのも、ウィーンで彼女の父が僕のためにどれほど親切に世話してくれたか、君には信じられないくらいだからだ。」

        ほぼ同じだが、こちらでは「ブラヘトカ氏」の事を「その人」ではなく「ドイツ人の紳士」と書いてある。

        また、ワルシャワにおける演奏会事情の「状況」説明の他に、「舞踏会があり、聖霊降臨祭が近付いており、多くの遠足等々がある」と言う事までも書かれている。ちなみにこの「遠足」と言うのは、ちょうど4年前の「聖霊降臨節2日目1826515日]付の「ビアウォブウォツキ書簡・第9便」でも触れられていて、「僕がビエラニ地区へ行くと誰かが思うかも知れない」と言う記述に対して、シドウが「ビエラニは、ワルシャワ郊外北のズィスワ川沿いにあり、日曜日にはワルシャワ市民が遠足に行く人気の場所」と註釈していた。なので、どうやら毎年この時期には、ワルシャワ市民は特に盛んに「遠足」に行っていたようである。

       「リピンスキ」 原田光子訳『天才ショパンの心』(第一書房)の註釈によると、「カール・ヨ−ゼフ・リピンスキー、1790年−1861年、パガニーニに学んで後に彼の競争者と目された当時第一級のヴァイオリニスト」

 

 

次の箇所はカラソフスキー版では削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「コステュスは彼の母親と一緒にチェンストホヴァ(※ポーランドの都市名)にいる;彼らは来週に戻って来て、それから61日にフーベと一緒に出発し、ベルリン経由でパリへ、そこで彼らは2ヵ月半から3ヵ月半ほど滞在し、その後、スイスを通ってイタリアへ行く。」

 

ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である「コステュス」は、コンスタンチン・プルシャックの愛称なので、その「母親」とは「プルシャック夫人」の事である。

ここではその両方とも消されている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕はいつ旅行に出られるのかまだ分からない。僕はたぶん、暑い月の間はここにいるだろう。ウィーンでは、イタリア・オペラは9月まで始まらないから、僕は急ぐ必要もない。新しい協奏曲のためのロンド(※第3楽章)はまだ出来上らない。僕はそれを完成するに相応しい気分になれなかったのだ。」

        ほぼ同じだが、こちらでは、「イタリア・オペラ」についての情報は「昨日ハネンブルクが僕にそう話してくれた」とある。

 

 

次の箇所は、敢えて細かい違いにこだわりたい。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「アレグロ(※第1楽章)とアダージョ(※第2楽章)とが仕上がれば、フィナーレ(※第3楽章)には少しも心配はいらない。」

「いったんアレグロが出来てしまえば、残りについては心配いらないから、僕はそれさえも急いではいない。」

 

このように、カラソフスキー版では、すでに第1楽章と第2楽章が完成しており、残りは第3楽章のみと書かれているが、一方オピエンスキー版では、完成しているのはまだ第1楽章だけと書かれている。

これについては、おそらく実際はオピエンスキー版の通りだったはずで、となると、カラソフスキー版ではそれをこのように変えていた事になる。

ところがだ、今回の手紙の全文を照らし合わせると、実はこれはどっちも矛盾しているという、まことに奇妙な現象が起きてしまっている事に気付く。

それについてはもちろん後述する。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕が演奏会をもう一つやる事があり得るのも、まだ(※ワルシャワでは)僕の変奏曲(※ヴォイチェホフスキに献呈した《作品2》▼を弾いてないからで、ブラヘトカが僕に書いてきた事によると、それは最近出版されたそうで、ハスリンガーがライプチヒでやる復活祭のフェアに持って行ったそうだ。マグナスがウィーンから戻る時、それを僕に持って来てくれるだろう事を期待している;彼は彼自身のビジネス上ガリシアへ行き、そこからウィーンに行く事になっていた。」

       「マグナス」 シドウの註釈によると、「ワルシャワの音楽出版者で、店を持っていた」

 

前回の「第9便」にも、以下のように書かれていた。

「マグナスは1週間前にウィーンへ行った;彼は今月の末に帰って来る事になっている。僕は(彼が)手ぶらでない事を期待している。」

 

ショパンは単なる旅行土産を期待していたのではなかった事がここで分かった訳だが、前回ヴォイチェホフスキにそのように言わなかったのは、「マグナス」がウィーンに出向くのは当然ビジネス目的であり、2人の間ではそのような事は最初から分かりきった事だったからである。

今回は、その土産の内容が、ブラヘトカからの手紙によって具体的に予想されたので、こうして続報として書き加えている訳だ。

と言うのも、それは他でもない、最愛のヴォイチェホフスキに献呈した《「お手をどうぞ」による変奏曲》▼の出版物だったからだ。

そして、ショパンは再三に渡って、自分が外国へ発つ前の演奏会でこの曲を弾くと書いている。

なぜか?

言うまでもなく、この曲が彼らの友情の記念碑だからであり、そして、だからこそショパンはこれをヴォイチェホフスキに弾いて聴かせたいのであり、そして次の演奏会がその最後のチャンスになるかもしれない、だからそれには必ず来て欲しいと、そう考えているからである。

 

だが、実際はどうだろうか?

 

この約5ヵ月後に行なわれる告別演奏会では、結局ヴォイチェホフスキはそこに姿を見せず、一方のショパンはこの曲をプログラムから外していた。

この事実をどう説明したらいいのだろうか?

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ホ長調のアダージョは、ロマンチックで、静かで、ややメランコリックな気分で構想された。それはあたかも、洗練された春の夜の月光のような、気持のよい思い出を呼び覚ます、とても愛おしい風景に目が触れた時の印象を書いたのだ。僕はヴァイオリンが弱音器を使って伴奏するように書いておいた。それで良い効果が得られるだろうか? 時が経てば分かる。」

「新しい協奏曲のアダージョはホ長調だ。大袈裟に響かせるつもりはなく、よりロマンス風で、静かで、メランコリックだ;幾千もの大切な思い出が心に浮かんでくるような場所を、優しく見つめているような印象を与えなければならない。それは、美しい春の空の下、月光に照らされた小屋の中での、一種の瞑想だ。それが、なぜ僕が伴奏に弱音器(ミュート)をかけたかの理由だ。弱音器はヴァイオリンの弦の上にとめる櫛のようなもので、ある種鼻にかかったような銀色のトーンになる。おそらく、それは間違っているのだが、しかし、なぜ人は分別があるにも関わらず、間違った事を書くのを恥じなければならないのか――間違いかどうかは結果で示すべきだ。ここで君は、なるほど、僕が意に反して過ちを犯す傾向があると観察する。たとえそれが間違いであるとしても、僕は無意識のうちに僕の目を通して頭に浮かんだ事に対しては、身を任せてみたいのだ。君も理解してくれていると思う。」

 

この箇所は、おそらくヴォイチェホフスキによる加筆改ざんだと私は考えている。

理由は簡単だ。

ショパンはこのように、自分の作品を文学的に表現される事が嫌いだからだ。

したがって、そのショパンが、自ら自分の作品をこのように文学的に解説して見せるなど絶対にありえないと断言できる。

 

たとえば、ショパンはのちにパリ移住後、自作の《「お手をどうぞ」による変奏曲》▼に対して、シューマンが「帽子を取りたまえ、諸君、天才だ!」と文学的に解釈した評論を盗作したフリードリヒ・ヴィークの評論を、「死ぬほど笑った」とこきおろしてその公表を拒んでいた事もあった(※その詳細については、私のBGM付き作品解説ブログ《「お手をどうぞ」による変奏曲》▼で)。

ちなみにバルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカは、その一件について次のように書いている。

 

「もちろんショパンは、モーツァルトのオペラから取った主題をもとに変奏曲を書いたのだが、その際オペラの内容自体や情景、人物との関連などは一切念頭になかったのである。自分の音楽を何らかの文学的な筋立てと結びつけようという発想に対する彼の嘲笑的ともいえる反論には、さらに深い、根本的ともいえる理由があった。音楽の自律的な力を信じ、音楽的な内容は音楽を通じて表現されるべきだと考えていたショパンは、この頃ちょうど流行しはじめつつあった、いわゆる「標題音楽」の理念には与しないというのがその基本姿勢だったからである。彼と同世代のロマン主義作曲家は、作品に「文学的」標題を冠して、音によって情景を描き、音によって出来事を物語るのであると思わせ、時には内容を説明する、短くもない詩的なコメントを作品に付与することさえあった。《紡ぎ歌》《フィンガルの洞窟》《静かな海と楽しい航海》《狩人の歌》《こおろぎ》《こどもは眠る》《泉のほとりで》《山の上で聞く》――これらはメンデルスゾーン、シューマン、リストのピアノ曲、管弦楽曲の題である。ベルリオーズは《幻想交響曲》の各章に「舞踏会」「断頭台への行進」「ワルプルギスの夜の夢」といった題を付け、作者みずからの解説にも記された、ある架空の筋を構成している。

これに対して、ショパンにとっては、自分の作品にどういう具体的な内容を込めたかなどと人に語りたいという望みも、そもそも音楽がそういう具体性を必要とし、したがって音楽以外の領域にまで踏み込まねばならないという考え方も、およそこれほど縁遠いものはなかった。であるから英国の出版社ウェッセルが彼の作品に「セーヌのさざめき」(《夜想曲作品九》)、「嘆きと慰め」(《夜想曲作品三二》)、「地獄の宴」(《スケルツォロ短調》)等々の、「文学的標題」を勝手に加えて出版したときには、憤激し、強い抗議の手紙をロンドンに送ったのも無理はない、ウェッセル側は、作者の抗議を受けてしばらくは引き下がっていたが、その後ふたたび同じようなことを始めたところをみると、やはり「標題付き」の曲の方がよく売れるという確信を得たのであろう。ショパンと出版社の争いは長年にわたる長期戦になるのである。

これはショパンにとって、彼のなかでも深く根を下ろし、確信ともなっていた美学的信条に、音楽の本質に関わる問題であった。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

この意見には私も全面的に賛成である。

だがしかし、だとしたら、ショパンがヴォイチェホフスキ宛に書いたこのような自作への文学的解説は、その「美学的信条」とは完全に相容れない矛盾したものだろう。この手紙に書かれている事は、ショパンが自分で自分の作品を「セーヌのさざめき」だとか「嘆きと慰め」だとかのたまっているのと全く同じ事で、愚の骨頂以外の何物でもない。

しかも、このいかにも安直で陳腐な「そのまんま」的な解説は一体どうだろう。

1.       「新しい協奏曲のアダージョはホ長調」⇒そのまんまである。

2.       「ロマンス」⇒これもショパンが出版時に付けたタイトルそのまんま。

3.       「春」⇒この手紙の日付が515日」だから作曲時の季節が「春」になる。

4.       「月光」⇒曲調がノクターン風であり、ノクターンとはフランス語の「夜の」と言う意味の言葉を語源としている。したがって、それが長調で書かれているのなら、そこに射している光は「月光」以外にない。

ここには、ショパン特有のひねくれた表現もなければ、いつもの彼らしい謙遜からくるジョークもない。

つまり、あのショパンから直々に作曲秘話を打ち明けられているにも関わらず、我々の溜飲を下げてくれるような意外性と言ったものが全くないのだ。

この曲を聴いて感想を書けと言われたら、おそらく素人から専門家に至るまで、誰にでもこの程度の事が書けてしまうし、と言うより、多分この程度の事しか思いつかないだろう。つまり、これは曲を聴いたリアクションによる第三者の文章以外の何物でもなく、アクションを起こした作曲者自身の言葉である事を証明する表現が一つもないと言う事だ。

つまり、当事者にしか書き得ない特有の記述と言ったものが何もない。

したがって、おそらく、後半の「弱音器」のくだりに関しては、作曲途中の報告と共に、実際にそのような事が書かれていた可能性は高いのではないかと思われる。

そこでちょっと気にかかるのは、その前半と後半をつないでいる、「それが、なぜ僕が伴奏に弱音器(ミュート)をかけたかの理由だ」と言う一文だ。

これでは、ショパンが以前にも「弱音器」の事をヴォイチェホフスキに知らせていた事にもなってしまいかねないが、しかし今までそんな事はどこにも書かれていなかった。

それに、カラソフスキー版では削除されているが、ショパンはこの手紙の終わりの方で、「僕は5月の末に、家で第1楽章のアレグロを試そうと考えている;もう2週間後だ」と書いている。これは自宅にオーケストラを招いて行なう試演奏の事で、《ヘ短調・協奏曲》の時にもやっていた。と言う事はつまり、この時点で完成していたのはあくまでも「第1楽章」だけであり、さっきも書いていたように、「残り」の第2、第3楽章はまだ出来ていないのである。

それなのに、この箇所だけ、あたかも第2楽章もすでに完成しているかのように詳細に書かれているとなると、これでは前後の辻褄が合っていない事になるだろう。ここまで仕上がっているのなら、なぜ5月の末」の試演奏で第2楽章もやろうとしないのか?

つまりこれは、この箇所が、第三者によってあとから取って付けられたように加筆されている事を示唆しているのである。

 

なので、この手紙のカラソフスキー版と言うのは、そのような贋作者(=ヴォイチェホフスキ)の見落としを巧みにフォローするかのごとく、都合の悪い箇所をバッサバッサと切り落として継ぎ接ぎしていた事が白日の下にさらされてしまっている。

 

 

「第4便」における「理想の人」のくだりでもそうだったが、ショパンがこのように自作の制作秘話みたいな事を解説してみせているのは、後にも先にもこれらの「ヴォイチェホフスキ書簡」だけなのである。

そしてそこに共通しているのは、いずれも、ピアノ協奏曲の第2楽章に限られていると言う点だ。

贋作者がなぜ殊更にこの2曲を選んでいるのか、その理由は至って簡単である。

なぜなら、ショパンがヴォイチェホフスキ宛に手紙を書いていた期間(182831年)に公表されたショパン作品の中では、この2つの協奏曲だけが後世に残る傑作として扱われていたからだ。

しかもその中でもそれぞれの第2楽章は、ショパン自身も「第7便」で以下のように報告していたように、最も聴衆の心をとらえていた。

「僕は、アダージョがこんなにも多くの人に喜ばれたのを不思議に思っている;僕が聞いたところでは、僕を最も嬉しがらせる意見はこれに関するものばかりだ。」

であれば、ショパンがその2曲についての作曲秘話を明かしていたともなれば、読者の関心も引くだろうし注目も集まる。そして何よりも、ショパンはヴォイチェホフスキにだけはこんな事まで話していたのだと、資料提供者の株を上げる事にもなる。

 

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「プルシャック夫人と僕は、洗礼命名式で、Nの養子になった息子を抱いた;どれほど愛らしい子か、君には考えられまい。デュポン嬢は、今朝の7時に、スクロデスカ嬢の兄弟であるチェホフスキ氏と結婚した。」

 

ここに出てくる「N」については、前回の「第9便」でも、オピエンスキー版で以下のように書かれていた。

「Nは僕に、彼の男の子の洗礼命名式でその赤ん坊を抱いてくれと頼んできた;それはグダンスクへ発つ事になっている不幸な女性の望みなので、僕は尚更断れなかった。プルシャック夫人が名親の相棒になる事になっている。これは僕の家族には秘密にされているので、それについて彼らは知らないんだ。」

 

ところでこの「N」と言うのは、「第2便」で書かれていた時は「女家庭教師」のイニシャルだったのだが、「第9便」ではその彼女を身ごもらせた男になっている。

偶然同じイニシャルだったのか、それともショパンが混同しているのか、あるいはこのエピソードの暗号名として使っているのか、それについてはちょっと分からない。

 

 

さて、次の箇所が今回もっとも問題となる箇所で、これもカラソフスキー版にはないものだ。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

ビクセル博士、 あの63歳になる年取ったドクターが、彼の亡くなった妻の姪である17歳の乙女と結婚した。教会堂は興味本位の参列者達ではち切れんばかりだった。ところが、お嫁さん自身は、彼女が結婚する事を何故これ程の人達が惜しむのか不思議に思ったそうだ。― この事は、結婚式場でお嫁さんの新婦付添い人となったモリオウヴナ(嬢)から直接聞いたので、僕はその事をよく知っているんだ。彼女から手紙をもらっているので、今書いているこの手紙を郵便局に投函しさえすれば、彼女のところに行く事にしている。何故なら、君もすでに知っている通り、喜んで白状するが、(彼女に対して)恋心を持っているからだよ。恋心には素直であるべきで、心に秘めている愛を大切にすべきだよ。― 君に僕の心の内を隠す事が出来るなどとは思っていない。僕が恋わずらいをしている事を君に明かさないでおく事はできないよ。

       「モリオールウヴナ(嬢)」。ポーランド語では、モリオールが父系の姓、その語尾に“ウヴナ”を付けて、モリオール氏の未婚の娘である事を表現するのだそうだ。

 

さて、この箇所を一体どのように解釈したらいいのだろうか?

これをそのまま文字通りに受け取れば、ショパンは何と、「モリオール嬢」「恋心」を抱いていると「白状」しているではないか。

上記の和訳は、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料で、、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料から直接和訳したものである。

ところが、のちにオピエンスキーが編集した英訳版の書簡集の文章と見比べると、明らかに意味が違っているのである。

それは以下のようになっている。

 

「ビクセル博士、あの年取った63歳になるドクターは彼の亡くなった妻の17歳になる姪と結婚した。観光客たち、つまり、興味本位の参列者たちで教会堂ははち切れんばかりだった。ところが、お嫁さん自身は、何故彼らが彼女を可哀相に思うのか理解に苦しんだそうだ。― この事は、結婚式場でお嫁さんの新婦付添い人となったモリオール家の娘から聞いた。この手紙を郵便局に投函したら直ぐにでも、彼らを訪問する事にしている。彼らから手紙をもらったからだ。彼らは僕のお気に入りの人たちだ。その事を喜んで認めるよ。密かに感じている事に対して、人は素直でなければならないし、その事を隠しておくべきだよ。― 僕を苦しめている事を君に伝える気持ちがないのに、僕がそれを隠し持っている事が信じられないのを、君は知っているだろう。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より

 

     ちなみに、この英訳版書簡集を和訳した原田光子訳『天才ショパンの心』(第一書房)では、この箇所は省かれている。この本は訳者によって抄訳されているものなので、おそらく訳者は、この箇所に与えるべき訳者注に窮したために、敢えてこれを省いたものと思われる。なぜなら原著のオピエンスキー版には、この箇所について何の註釈もないからだ。

 

お分かり頂ける通り、「ビクセル博士」の結婚話については同じだが、肝心のモリオール嬢への「恋心」のくだりが完全に違っている。

最初にオピエンスキーによって公表されたポーランド語版では、ショパンは「モリオール嬢」から「手紙」をもらったとしており、そしてその彼女に「恋心」を抱いていると「白状」していた。

ところが、その後オピエンスキーが編集した英訳版書簡集では、「手紙」はモリオール嬢からではなく「モリオール家」からもらい、そしてその彼らに対して「お気に入りの人たち」「認め」ているのである。

最初のポーランド語版の文章は、少なくとも文章の内容としては自然だった。しかしあとの英訳版の方は明らかに文章の内容が不自然である。ショパンはモリオール嬢とは幼友達であり、その事は当然ヴォイチェホフスキも知っているのだから、今さらそのモリオール家がお気に入りと認めるも何もないからだ。

おそらく、オピエンスキーが最初にヴォイチェホフスキの遺族からこの手紙の「写し」を見せられた時、彼はこのモリオール嬢への「恋心」について書かれている箇所を読んで面食らったはずなのだ。

しかし彼は、最初にこれをポーランド語で公表した際には、その文面をそのままにしておいた。しかしそれによって、それを読んだ人々から相当疑問の声が寄せられていたに違いない。当然だろう。ここには、2つの異なる「恋」が並列する形で混在していたのだから…。

そこでオピエンスキーは、それを英訳して外国に発信する際には、その疑問を回避するために何とか解釈をこじつけ、それで文面をあのように書き換えさせていたのではないだろうか。

だがいずれにせよ、そのような小手先のごまかしでは、とてもこの矛盾に筋道をつける事など出来はしないだろう。

 

シドウの仏訳版書簡集は、ポーランド語版からフランス語に訳しており、この箇所に関しては、原文の意味を変えるような真似はしていない。してはいないが、ただしシドウは、ショパンが心に隠し持っている感情について、それは[コンスタンツヤ・グワトコフスカへのほのめかし]であると言う註釈を挿入している。

この仏訳版を英訳したヘドレイの書簡集は、シドウのその註釈は採用していない。してはいないが、ヘドレイの場合は文章の意味を変えて英訳している。それは以下の通りだ。

 

「ビクセル博士が――君の知っているあの老人だよ、六十歳の――彼の後妻の姪で十七歳の娘と結婚した。教会は見に来た人でいっぱいだったが、この若い婦人はみんなが彼女に同情しているのがおかしいと思っている。花嫁の付添人のモリオール嬢がそう話してくれた。この手紙を投函したらぼくもその女を見に行きます。ぼくを呼びに来るのだ。彼女〔モリオール嬢〕はぼくの恋人だと思われていることは知っているだろう。ぼくは率直に認めるよ、だからまた、ぼくが感情をあらわに出さず、そ知らぬ顔をしているのを人も素直に認め、そっとしておくべきだよ。どうもぼくにはぐあいの悪いことを君に打ちあける勇気がなかったためだが、いまほど君に隠し立てができるとは、自分でも思わなかったことは君は知ってくれるだろう。」

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

     ここで「六十歳」となっているのは誤植で、ヘドレイの原著ではちゃんとsixty-three63)」となっている。

 

これは邦訳者の意訳でもなければ誤訳でもない。ヘドレイの英訳がちゃんとそのようになっているのである。

つまりへドレイは、ショパンが自分でモリオール嬢に恋心があると書いている箇所を、それはショパンの意思ではなく世間の噂であると言う風に変えてしまっているのだ。そのため、これもオピエンスキーの英訳版と同様に、文章自体の意味が支離滅裂になってしまっている事がよく分かるだろう。

なぜこの箇所は、わざわざこのように胡散臭い歪められ方をされなければならないのか?

シドウの註釈や、それに基づくヘドレイの恣意的な英訳のせいで、後世においては、以下のような解釈がまかり通るようになってしまっている。

 

「モリオール伯爵令嬢は、ショパンに傾倒して、ショパンの演奏会では月桂樹の花輪を贈ったりし、ショパンは彼女との友情をかくさず、わざと道で人目につくような会い方などしてコンスタンチア(※グワトコフスカ)に恋いこがれていることをかくす循にさえした。コンスタンチアがロシヤの士官の相手になどなっていることに、彼の心は深く傷められ、憂うつになってつまらぬ気晴らしなどをしていた。それを知っているのはティテゥスだけで、一般にはショパンはモリオール嬢に恋しているのだと思われていた(※以上、訳者註より)。」

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

 

 

あの内気なショパンが、こと恋愛に関しては相手の出方に身を委ねるしか成す術のないショパンが、そんなプレイボーイみたいな器用な真似が本当にできると思っているのだろうか? そもそも、そんな猿芝居に一体どんな意味があると言うのだ? なぜそんな真似をしてまでグワトコフスカとの恋の成就を避ける必要がある? そんな事に利用されたモリオール嬢の立場はどうだと言うのか? ショパンはウィーンに旅立つ際、彼女の事をボロ切れのように捨てたとでも言うのか?

また、ここに書かれている「コンスタンチアがロシヤの士官の相手になどなっている」と言うような話は、グワトコフスカがいつもつるんでいるヴォウクフ嬢がロシア貴族の娘だと考えられている事から、例によってポーランドの国粋主義的な人間が勝手に反ロシア的に想像した事であり、そのような事実を証拠立てる資料や証言などどこにもないのである。

 

実は私は最初、この箇所はオピエンスキーによる加筆改ざんなのではないかと言う可能性について考えていた。

しかし、これ以降の手紙に書かれている内容と照らし合わせて改めて考え直した時、どうやらこの箇所は、本当にショパンが書いていたものに間違いないと確信するに至った。

つまり、当時ショパンは、本当にモリオール嬢に対して「恋心」を抱いていたのである。

 

つまり、ショパンの本当の初恋の相手はグワトコフスカではなく、実はモリオール嬢だったのである。

 

と言うのも、このあと、「第13便」と「第16便」に、今回ショパンが「白状」したモリオール嬢への「恋心」に連なる話題が再び出てくるのだが、それらを全て総合して読み通してみると、そこには一切の不自然さや作為の跡が見られないからである。それについてはそれらの手紙を検証する際に詳述してあるので今回は詳しくは書かないが、取り急ぎ結論だけ書いておくと、実はそうだったのである。

 

ショパンは、今回の手紙を書くに当たって、ヴォイチェホフスキから「ゾンターク嬢」に関する情報を求める手紙を受け取っていた。

そしてそのヴォイチェホフスキからの手紙には、それ以外にも、おそらく、ショパンとモリオール嬢の間にある世間の噂について問いただす内容が書かれていたようで、だからショパンはここで、それに対してこのように「白状」していたのだ。

つまり、ヴォイチェホフスキの方から聞かれない限り、たとえそれがヴォイチェホフスキであろうとも、ショパンは決して自分からそのような話を打ち明ける事はなかったと言う事なのである。

これは、ショパンの性格を考えると非常に自然な事に思える。

 

だが、一方の「理想の人」について告白した時はどうだったか?

ショパンは、ウィーンで知り合った若くて美しいピアニスト「ブラヘトカ嬢」の話題にかこつけて、ヴォイチェホフスキから聞かれもしないのに自分から「理想の人」の話をしていただろう。だから、そっちの告白の方はあまりにも唐突感がありありで、いかにも取って付けたような雰囲気がプンプンしていたのだ。

 

さて、問題は、どうしてカラソフスキーがこのショパンの告白をそっくり削除し、闇に葬ってしまっていたのかだ。

しかしその答えは至って簡単なのだ。

それは、「モリオール嬢」がカラソフスキーのお眼鏡に適わなかったからだ。

なぜなら、彼女はコンスタンチン大公家で家庭教師をしていたからだ。すなわちモリオール伯爵家は、直接ロシア側と親交のあった保守派だったからである。

したがって、熱狂的な国粋主義者であるカラソフスキーにとって、彼らは国賊にも等しい人種だった訳で、そんな連中とショパンが親密に交際していたり、あろう事か恋愛の対象にまでなっていたなどと言う事実は、カラソフスキーにとって当然我慢ならない事だったのだ。

実際カラソフスキーは、モリオール家だけでなく、やはり大公と直接親交のあったスカルジンスキ家とショパンの親交についてもことごとく削除している。

カラソフスキーは、ショパンの実像を捻じ曲げて彼を革命派として描くために、保守派の友人知人達との交際の事実を抹殺してしまわなければならなかったのである。そしてその代わりに、ショパンをポーランド的に美化する目的から、「理想の人」=コンスタンツヤ・グワトコフスカなる嘘の恋愛対象をあてがったのだ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「今日、僕は劇場に行く。レムベルクから来た新しい悲劇俳優であるスモホフスキ氏が、『ジュネーヴの孤児テレサ』*ある芝居]で、ヴェロフスキの役を演じる。僕は彼の演技には大して期待していないが、しかしそれがどんな具合だか見てみるつもりだ。彼らはパスタが来ると言っているが、僕はそれを疑っている。有名人よりも、むしろピークを過ぎた歌手ミドラー・ハウプトマン夫人の方が見込みがある。ロンバーグも期待されている。それらに来てくれたまえ;僕は君を信頼して、今度は僕の演奏会のために君がここにいてくれる事を望んでいる。僕は5月の末に、家で第1楽章のアレグロを試そうと考えている;もう2週間後だ。僕は6月の上旬にはそれを演奏するつもりだから、『通信』が一般のエンターテインメント情報を発表する前に、それを終わらすつもりだ。」

       「パスタ」 シドウの註釈によると、「ジュディタ・パスタ(Judita Pasta 17981865)、偉大なイタリアの歌手、当時の最も著名な有名人の1人」

       「マイルダー・ハウプトマン夫人」 シドウの註釈によると、「ポーリーン−アンナ・ミドラ−ハウプトマン(Pauline-Anna Milder-Hauptmann 17851838)。ベートーヴェンが書いた《フィデリオ》の役者として当時非常に有名だったドイツの歌手」

       「ロンバーグ」 シドウの註釈によると、「バーナード・ロンバーグ(Bernard Romberg 17671841)、ドイツの著名なチェロ奏者で、パリ音楽院の教授」

 

この箇所を見れば、ショパンがプロ・デビュー公演の前にも、これと同じようにヴォイチェホフスキの来訪を期待し、執拗にそれを促していた様子が手に取るように分かるだろう。これに続く以下の箇所でも、それが嫌と言うほどよく分かる。

そしてそれらの手紙は、例の空白の4ヵ月半の間に確実に存在しており、そして失われているのだ。

 

また、先述したように、このように、この時点で完成しているのはあくまでも「第1楽章のアレグロ」だけなのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「君がワルシャワに帰って来る時には、手紙を書いて知らせてくれたまえ、なぜって君なしで演奏会をやったら、最初の時よりも悪くなるだろうからだ。君は、僕がどんなに君を愛しているか分らない。ああ、僕がそれを証明できれば良いのだが。もう一度君を心から抱擁する事が出来たら、どんなだろうか。」

「だから、君がワルシャワに来る事が確実になったら、僕に手紙で知らせてくれたまえ;君なしで僕がショーをしなければならないとしたら、僕は最初の時よりも失望するだろう。いや、君は僕がどんなに君を愛しているか分らないし、僕はどんな形であれそれを君に示す事ができず、僕は君が分かってくれるだろうとずっと願ってきた。ああ、君の手を握り締めずにいられようか、君は僕の哀れな人生の半分も推測できないだろう。

F.ショパン   」

 

カラソフスキー版はここで終わっているが、オピエンスキー版の方はいつものように署名で終わり、さらにいつものように追伸部分もある。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第10便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕は君に演奏会のプログラムを話さないが、まだ僕にも分からないからなんだ。僕はタイヒマンを捕まえようとしている。彼は僕の2回目の演奏会で、マイエル婦人と一緒に《アルミイデ》からのデュエットを歌う事になっていたが、1人で歌う事に神経質になっていたからだ;しかし残念な事に、その曲は前の週にチンメルマン夫人とポルコフスキによって歌われてしまったので、それでクルピンスキがそれが繰り返されるのを望まず、彼らがもっと上手く歌えるものにしようと提案したのだ。僕はこんなにたくさん書いたのに、まだ続けたい。僕は君を楽しませるために新しいワルツを送るつもりだったが、しかし君は来週にはそれを受け取るだろう。

両親と子供達が君に最高の挨拶を贈る。ジヴニーもまた一緒に。」

 

ここでもそうだが、やはりこの「子供達」と言う表現は、そもそもこのように「両親」が併記されていないと理屈の合わない表現なのである。

 

また、ショパンはここで、自分の演奏会のプログラムの告知について言及しているが、「第7便」の時にも説明したように、最初のプロ・デビュー公演の前にも、ショパンがこのように自分の演奏会のプログラムをヴォイチェホフスキ宛に知らせていた事は明白であり、例の空白の4ヵ月半の間に、確実に「失われた手紙」が存在していた事を裏付けている。

 

また、ここで引っ掛かるのは、ショパンがヴォイチェホフスキに「新しいワルツを送る」と書いている事だ。

 

「第4便」の結びでも、似たような事が書かれていた。

「君が怒るかもしれないようなワルツを君に送った事を許してくれたまえ、神に誓って、君に喜んでもらいたいと思ったからであって、僕は狂おしいほど君を愛しているのだ。」

この時は、一般的には、この「ワルツ」は本文中の「理想の人」のくだりで言及されていた「小さなワルツ」と同一の曲と解釈され、オピエンスキーはそれについて[私はこのワルツを特定する事ができない;おそらく出版されなかったのかもしれない。]と註釈していた。

しかし、今回のこの「新しいワルツ」については、オピエンスキーは何の註釈も施していない。

私がこの人物を信用置けないと言っているのは正にこういうところだ。

彼はこれらの「ヴォイチェホフスキ書簡の写し」を、他ならぬヴォイチェホフスキの遺族から直接入手しているのである。であれば、そのような状況で手紙にこのような記述を見つけたら、この「新しいワルツ」の楽譜について間違いなく遺族に問い合わせるだろう。それをしない研究家などいないはずである。ところがオピエンスキーは、そんな当たり前の事をここでしていないのだ。

たとえばこれが、仮に「ビアウォブウォツキ書簡」を編集したソウタンのようなちゃんとした人物であれば、我々にこのような疑問を差し挟む余地など決して与えはしないだろう。

この時期のショパンは、ウィーンから帰って以来、精力的にワルツの作曲を行なっており、1830年だけでも少なくとも3曲は書いたと推定されている。そのうちの2曲は恩師エルスネルの娘のアルバムに書き込まれていたものなので、すると残りの1曲がこの「新しいワルツ」に該当する可能性もある訳だが、そのような事実確認がされた形跡は、信じがたい事に全くないのである。

       この「新しいワルツ」と考えられている作品については、私の『BGM付き作品解説ブログ/ワルツ 第14番 ホ短調 遺作』▼の方で詳しく説明しておりますので、そちらを参照して頂ければ幸いに存じます。

 

 [2012年1月21日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証9-9:どちらが「理想」?ゾンターク嬢とグワトコフスカ嬢

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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