検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II-

 


7.初めての憂鬱と歌曲《乙女の願い》―

  7. First depression & Song"?yczenie" -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 歌曲・願い▼≫
 

今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第9便」である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第9便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1830417日、ワルシャワにて

(パパの誕生日)

君からの手紙は、僕の堪えがたい憧憬にいくらかの休息を与えるし、それに今日は、尚の事こういった慰めが必要だった。僕は、僕の幸せを害するような考えを追い払いたい;それでも、そういったものと戯れるのは僕に喜びを与える;僕は、何が僕を悩ませているのか分からない……たぶんこの手紙を書き終えるまでには、僕は今よりは落ち着いているだろう。

どうやら君が来られそうだと聞いて、僕はとても喜んでいる。僕は議会の召集までは残っているつもりだが、君もおそらく新聞で知っているだろうが、議会は今月の28日から1ヶ月間続くという事だ。『ワルシャワ通信』はすでにゾンターク嬢の到著を発表している。編集者のドムシェフスキは救いがたいやつで、いつも“我々は確かな筋から聞いたのですが云々”などと前置きして大風呂敷を広げる。昨日彼に会った時、僕に捧げるソネット(※14行詩)を掲載するつもりでいると話した。僕は、お願いだからそんな馬鹿げた事はやめてくれと頼んだ。彼は “もう印刷してしまったよ”と、僕が喜んで光栄に感じているはずだとばかりに笑顔で答えたよ。おお、これらは間違った親切だ! 僕を嫉む人達に、また一つ狙撃する標的が出来た訳だ。僕の協奏曲からテーマを取ったマズルカについては、報酬目当ての動機が勝利してもう出版されてしまった。僕は、人々が僕について書く事を、これ以上何も読みたいと思わないのだ。

先週、僕は君に会いに行こうと考えたが、あまりにも忙しく過ぎた;僕は作品を完成させるため、一生懸命仕事しなければならないのだ。君が議会招集の期間にワルシャワに来るなら、僕の演奏会にも来てくれるだろう。僕には、君が来るという予感があって、もしもそうなる夢を見たら、きっとそう信じてしまう事だろう。僕はどれほど、しばしば夜が昼に、昼が夜に入れ替わってしまった事だろう;僕はどれほど、しばしば昼に眠り、夢の中で目を覚ました事だろう;しかしそれは眠りと言えるようなものではなく、いつも同じ事を考えてしまうために、元気が回復する代わりに1人で気に病み、疲れ切ってしまうまで脳を悩ませている。

僕を思いやって祈ってくれたまえ……」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙は一見短いように見えるが、しかし双方の文章量は実に倍以上も違うのである。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1830417日、ワルシャワにて

(パパの誕生日)」

        同じ。

       ちなみに、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」に掲載されているポーランド語の書簡資料でも(パパの誕生日)となっているのだが、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』ではこれが(パパの命名日)となっている。

 

まず日付について見てみよう。

今回の「第9便」は前回からちょうど1週間後に書かれている。更にその前の「第7便」を含めても、これは異例の執筆ペースである(※下図参照)

 

18303(第7便)

 

4(第89便)

 

 

 

 

 

 

10

11

12

13

10

14

15

16

17

18

19

20

11

12

13

14

15

16

17

21

22

23

24

25

26

27

18

19

20

21

22

23

24

28

29

30

31

 

 

 

25

26

27

28

29

30

 

 

何気に「土曜日」に集中している事に気付くが、これについては、かつて「ビアウォブウォツキ書簡」で以下のような解説がなされていたのを思い出して頂きたい。

 

1便(※実際は第3便)の手紙、及び他の人の手を通して送り届けられたもの以外は、全て郵便で、ワルシャワからプウォツクとリップノを経てデゥルヴェンツァ河畔のドブジン村ヘ送付されている。中でも、“プウォツクへの郵便物は、毎週月曜日と木曜日の夕刻6時にワルシャワから発送されているが、あらゆる種類の郵便物は、発送時刻前の午後5時までに郵便局へ持ち込むべきものとされていた。これが、なぜショパンが月曜日と木曜日に手紙を書いたかの理由である。しかも、郵便局から発送される時刻に合わせるため、ぎりぎりの時間帯に書かれており、このため、ほとんどの手紙の書き終わりが5時の直前となっている。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』より

 

そして「ヴォイチェホフスキ書簡」について言えば、その日付は以下の通りになっている(※下図参照)

 

ワルシャワ時代のヴォイチェホフスキ書簡の日付

1828

1

9/9

2

12/27

1829

3

9/12

4

10/3

5

10/20

6

11/14

1830

7

3/27

8

4/10

9

4/17

10

5/15

11

6/5

12

8/21

13

8/31

14

9/4

15

9/18

16

9/22

水曜日の朝

17

10/5

18

10/12

 

ワルシャワ時代の「ヴォイチェホフスキ書簡」は全部で18通が知られているが、そのうちの1通を除き、そのすべてが決まって「火曜日」「土曜日」に書かれているのが分かるだろう(※ちなみに「水曜日の朝」に書かれたと言う「第16便」は、いかにも贋作臭のプンプンするものであるが、これだけが例外なのは、この手紙は正規の郵便で送られたのではなく、知人に託して直接手渡してもらうように書かれたものだからである)

たとえば、ショパンは「第7便」を「土曜日」に書いていた時、「これ以上この手紙を出すのを遅らせられないからね、だって郵便馬車も出ちゃうし」と言っており、これはすなわち、「ビアウォブウォツキ書簡」で「なぜショパンが月曜日と木曜日に手紙を書いたかの理由」と同じ事を意味している。

つまり、当時の郵便事情は現在とは全く異なっており、毎日数回に渡って手紙が配達されるなどと言う事はない。したがって、たとえショパンがいかにヴォイチェホフスキを愛し、毎日でも手紙を書き送りたいと思っても、現実にはポトゥジン方面の郵便馬車が週に2回しか出てくれないのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「君からの手紙は、僕の堪えがたい憧憬にいくらかの休息を与えるし、それに今日は、尚の事こういった慰めが必要だった。僕は、僕の幸せを害するような考えを追い払いたい;それでも、そういったものと戯れるのは僕に喜びを与える;僕は、何が僕を悩ませているのか分からない……たぶんこの手紙を書き終えるまでには、僕は今よりは落ち着いているだろう。」

        冒頭に「我が最も親愛なる生命よ!」という挨拶がある。

        それに続く本文はほぼ同じだが、こちらには「……」はない。

 

この書き出しを見てちょっと引っ掛かるのは、これを見ると、ショパンがヴォイチェホフスキから「今日」手紙をもらい、そしてそれに対して返事を書き始めた事が分かる。

…のだが、しかしショパンはつい1週間前に、「第8便」を書いているその最中にヴォイチェホフスキから「第7便」に対する返事を受け取ったばかりなのである。

前回も説明した通り、当時の郵便事情から鑑みて、双方の手紙が折り返し一往復するのにだいたい2週間ほどの日数を要する。すると、今回ここで言及されている「君からの手紙」と言うのは、ショパンが1週間前に出した「第8便」に対する返事ではあり得ず、ヴォイチェホフスキがその「第8便」を待たずして週に2回の便で連続して書き送っていたものの2通目…と言う事になる。

しかし、あのヴォイチェホフスキがそのような大盤振る舞いをするなんて、私にはちょっと考えにくいのだが…。それに、偏狭のポトゥジンに引きこもっているヴォイチェホフスキに、そんなに次々手紙を書くような話題が降って沸いてくるとも思えないし…。

もしかすると、この「君からの手紙」と言うのは、前回の「第8便」で触れていたものと同じ手紙という可能性はないだろうか? あの時は郵便馬車の発送時刻に間に合わなくなるので取り急ぎ切り上げ、ここでゆっくりその返事を書き直している…そう考えるとしっくりくるような気もするのだが…、だがしかし、それでは「今日は、尚の事こういった慰めが必要だったと書いている事の説明がつかない…。

 

ただし、一つだけ確実なヒントがあるとしたら、それは手紙の日付だ。

 

前回の「第8便」では、ちょうど「エミリアの年忌(命日)」にヴォイチェホフスキからの手紙が届いていた。そして今回は「パパの誕生日」「君からの手紙」である

つまり、どちらもショパン家にとって重要な記念日に合わせてヴォイチェホフスキから手紙が来ていると言う事なのだ。

ヴォイチェホフスキはショパン家の寄宿学校の生徒だったから、それこそ彼らはずっと家族同然に生活を共にしてきた。となれば、ショパン家の家族のこう言った記念日には、それに合わせて挨拶のメッセージを送ってくるのはむしろ当然と言える。しかも、将来政治家となるような、いい意味でも悪い意味でも心憎いまでに配慮の行き届いたヴォイチェホフスキであれば尚更だろう。

つまり、これらの「君からの手紙」は、厳密に言えばヴォイチェホフスキがショパンに宛てた手紙ではなく、ショパンを通じてショパン家に宛てた手紙だと考えておそらく間違いないだろう。

さて、そうすると、この後に出てくる手紙の記述に、非常に奇妙な矛盾が生じてくる事になる。

 

 

それについては後述するとして、次の箇所が、カラソフスキー版では削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「君に手紙を書くのをどれほど僕が愛しているか、君も知っての通りだ。君はガーディアン(※保護者、守護者)になったと言って僕を笑わせた。君はいくつかのコティヨン(※フランス語)について僕に話してくれとの事だが、僕が思うに、それがヴァレリーの仕事だったに違いない。」

       「コティヨン(cotillon)」とは、フランスの社交ダンスの一種で、動きの激しいのが特徴。また、社交界にデビューする娘達のお披露目舞踏会の意味もあり、ここでは後者の意味で使われていると思われる。

 

「ヴァレリー」は、前回の「第8便」で次のように書かれていた人物の事だ。

「ちょうど今、コツィオ(※コンスタンチン、つまり、ロシア皇帝ニコライ二世の兄でポーランド総督)ヴァレリー・スカルジンスキと一緒に到着していて、それと、愛婿(※フランス語)も彼らと一緒に旅している。自家用四輪馬車の車輪が滑って行き、遠方からの燃えるような色の淑女達の帽子;美しい時間だ。」

したがって、前回と同様に、カラソフスキーは当然ここも削除した訳だ。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「どうやら君が来られそうだと聞いて、僕はとても喜んでいる。僕は議会の召集までは残っているつもりだが、君もおそらく新聞で知っているだろうが、議会は今月の28日から1ヶ月間続くという事だ。『ワルシャワ通信』はすでにゾンターク嬢の到著を発表している。編集者のドムシェフスキは救いがたいやつで、いつも“我々は確かな筋から聞いたのですが云々”などと前置きして大風呂敷を広げる。昨日彼に会った時、僕に捧げるソネット(※14行詩)を掲載するつもりでいると話した。僕は、お願いだからそんな馬鹿げた事はやめてくれと頼んだ。彼は “もう印刷してしまったよ”と、僕が喜んで光栄に感じているはずだとばかりに笑顔で答えたよ。おお、これらは間違った親切だ! 僕を嫉む人達に、また一つ狙撃する標的が出来た訳だ。僕の協奏曲からテーマを取ったマズルカについては、報酬目当ての動機が勝利してもう出版されてしまった。僕は、人々が僕について書く事を、これ以上何も読みたいと思わないのだ。」

        ほぼ同じ。

       「議会」 オピエンスキーの註釈によると、「国会;反乱(※183011月のワルシャワ蜂起)の後、廃止された」

       「ゾンターク嬢」 シドウの註釈によると、「ヘンリエッタ・ゾンターク(Henriette Sontag 18061854) ドイツの著名なオペラ歌手」

       「僕に捧げるソネット」 シドウの註釈によると、「レオン・ウルリッヒによるソネット《ピアノを弾くフレデリック・ショパン》は、1830417日付の『ワルシャワ通信』に掲載された」。この日付は今回の「第9便」と同じなので、ショパンはこの手紙を書いている段階ではまだ今日の新聞を見ていないか、と言うよりは前日の事前情報によってすでに見る気がしないので見ないつもりでいるようだ。

 

ここには、ヴォイチェホフスキがワルシャワに来るかもしれないと言う情報について触れられているが、このような「ぬか喜び情報」は、ウィーンから帰国直後の一連の手紙でもなされていた。しかし、実際にヴォイチェホフスキがワルシャワを訪れた形跡はない。

ひょっとすると、例の空白の4ヵ月半にそれが実現していて、だからショパンはその間、手紙を書く必要がなかったのだと言う可能性もなくはない。が、しかしそれならそれで、その事をヴォイチェホフスキがカラソフスキーに説明していないのは不自然だし、空白明けの「第7便」でショパンがそれについて言及していないのもやはり不自然だろう。

しかもこの手紙の書き出しからは、ショパンがもうずっとヴォイチェホフスキとは会っておらず、もはや手紙だけが拠り所となっているような心情がうかがえるだけに尚更だ。

 

 

また、ここには「僕の協奏曲からテーマを取ったマズルカ」についてt触れられているが、これは前々回の「第7便」にも、

「オルウォフスキは僕の協奏曲のテーマに基づいてマズルカとワルツをいくつか書いた。」

とあり、そして前回の「第8便」にも、

追記(※フランス語)、ここにいくつかコミック・ニュースがある;オルウォフスキが僕のテーマによるマズルカとギャロップとを作っている;でも僕は彼に、それ等を印刷しないよう頼んでおいた。

と書かれていた。

実は私はかねてから、ショパンがなぜこの事にこれほどまで目くじらを立てているのかが不思議でならなかった。

これはあとで分かった事なのだが、実はオルウォフスキと言うのはヴァイオリニストだったと言うではないか。だとしたら彼の書いた曲はヴァイオリンのための作品だったと言う事になるだろうから、ショパンが問題視したのは実はそこだったのではないだろうか?

言うまでもなくショパンの曲はピアノのために書かれており、それをヴァイオリンに置き換えた場合、もちろんオルウォフスキの力量にもよるだろうが、あまりにもイメージが違いすぎて、その作品に“ショパンのテーマによる”などと題名を付けられる事が我慢ならなかったのではないだろうか?

 

 

続く以下の箇所は、カラソフスキー版にはない。

しかもかなり長いので、各話題ごとに区切って紹介しよう。ちなみにその間一度も改行されていない。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「日曜日に、僕はクルピンスキが『ワルシャワ・ガゼット』の記事について言うはずの事をとにかく聞きたいと思っていた;しかしあいにく僕は、ミナソヴィッチの所で催された復活祭の祝日に集まった著名人全員の中に彼を見つけられなかった。彼はそこにいなかったのだ;音楽家では、エルネマンが唯一の参加者だった。僕は、彼がどのように僕を迎えるのかを見たかったので、復活祭の挨拶に彼を訪ねたが、2回とも彼に会いそこなったよ。」

 

これについては前回の「第8便」で、

「明後日の復活祭、僕はミナソヴィッチ*1849年に亡くなったポーランドの詩人]の所で朝食に招待されている;クルピンスキもそこに来る事になっているので、彼が僕に対してどう振舞うのか見たいものだね。彼がいつも僕に対してどれほど愛想がいいか、君には信じられないだろう。」

と書かれていた。

 

これらの記述を見ると、エルスネルとクルピンスキの間には確かに個人的な反発があったのかもしれないが、しかしショパン自身は、自分の師匠の論敵であるクルピンスキに対して、個人的には特に他意はないように見える。

たとえばこの直後の記述では、ショパンはソリヴァに対してはあまりいい感情を抱いておらず、彼の事を避けているような事が書かれている。それに比べたら、ショパンはクルピンスキに対しては、こうして何度も自分から会いに行っているし、それに次の演奏会では、彼の要請に応えて彼のテーマを使った《ポーランド民謡による大幻想曲》▼をもう一度弾くつもりですらいる(※そして実際に弾く事になる)。

ショパンが自分の作品に彼のテーマを用いたと言う事は、つまり、少なくともショパンは、クルピンスキの事を作曲家としては認めていると言う事なのである。

 

そこで私が気にかかったのは、そのクルピンスキが「ロッシーニ主義者」と呼ばれていて、更に新聞がショパンに対して「ロッシーニを模倣する事なしにロッシーニの音楽を聴くべきだと立派なアドバイスをくれた」と言う話だ。つまり何が言いたいかと言うと、この当時のショパンが学ぶべき作曲家は他にもたくさんいただろうに、なぜそれが「ロッシーニ」なのか?と言う事なのである。

       その事についての考察は、当時ショパンが作曲していた歌曲との関連から、私のBGM付き作品解説ブログ「ショパンの作品を鑑賞する/歌曲《願い》 作品74-12台ピアノ版)」▼の方で書いておりますので、是非ともそちらをご覧いただければ幸いに存じます

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「僕は今日、ソリヴァに会った。彼はおそらく狡猾なイタリア人だ;しかし彼は僕に、彼があの記事への返答として書いたものを見せてくれた;註。フランス語で、しかも新聞で発表するためではなく、彼自身のために;それは素晴らしかった;彼は誰の名前も出す事なしに、エルスネルの記事について彼らを正当に非難している。彼は対面上は僕に優しいが、何の役にも立たない;だから僕は礼儀正しくはしているが、彼から招待されているにも関わらず、できる限り彼に近付かないようにしている。」

 

さて、ここもやはり引っ掛かる。

何度も言うように、ショパンにとってソリヴァは「理想の人」の師匠であり、自分と彼女を繋ぐ唯一の接点のはずだ。

それならば、もしもショパンが本当に「初恋の真っ只中」にいると言うのであれば、このようにソリヴァの招待を避けるなんて事はちょっと考えられないだろう。たとえソリヴァの事をどれほど嫌っていたとしても、彼の招待には尻尾を振って応じるはずである。それが恋する者の心理と言うものではないだろうか。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「エルネマンが僕を訪ねてきた;彼は、新しい協奏曲の第1楽章のアレグロは更に良いと考えている;彼は昨日来たが、ちょうどその時コステュスが出発するところだった。僕は今日そこにいた;ドレスデンへの旅行はポーランド国会のため延期される;最新の計画は、コステュスとフーベ(同じ大学の教授で、僕は去年彼と一緒だった)とで、フランスとイタリアを通過する小旅行にするつもりだ。フーべが2日前に僕に言ったように、パリへ直行する目的で、冬の間にイタリアへ進み、1月をナポリで過ごして、僕はそこで彼と会う事になっていた。彼のプランとより良いアイディアを得るために、コステュスは今朝彼のところに行ったよ。彼らは行くにしても、6月まで、もしくはその月の末でさえもないだろう。」

 

ここもやはり引っ掛かる。

ショパンは旅行の計画について触れているが、このメンバーの中にヴォイチェホフスキは全く入っていない。

結局この計画にショパンは加われなかった訳だが、少なくともこの時点でさえ、ヴォイチェホフスキがこの半年後にショパンと共にウィーンへ行くなど、両者の間では微塵も考慮されていなかった事が分かる。

 

カラソフスキー版では、ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である「コステュス」の存在は今まで必ず消されてきていたから、ここでも例外ではない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「マグナスは1週間前にウィーンへ行った;彼は今月の末に帰って来る事になっている。僕は(彼が)手ぶらでない事を期待している。明日は《魔笛》があり、その翌日は盲目のフルート奏者、グリュンベルグの演奏会だが、彼については君に手紙で書いたね。彼は僕に、演奏会で弾いてくれるよう求めてきた。僕はうまく弁解しておいたよ;すでに他の人からの誘いも断っていたので、僕はそれと区別する事はできないだろうと。マルスドルフは彼のためにチェロを弾く。それは男爵からの強い引き立てがあったからだ。シャブキェヴィツはクラリネットを吹き、それから昨日僕は再びツェリンスキの所へ行ったが、彼は彼のために歌う約束をしたそうだ。彼(グリュンベルグ)は僕に、一緒にマイエル夫人の所へ行って欲しがった;僕の代わりに歌う事になるとしたら、彼女は内心不愉快に思うだろうと分かっていた;だから僕は、彼女に(出演を)要請しないよう主張し、ただチケットを売るだけならと引き受けた。プルシャック夫人は10枚買ってたよ。」

       「マグナス」 シドウの註釈によると、「ワルシャワの音楽出版者で、店を持っていた」

 

ここには、「盲目のフルート奏者、グリュンベルグ」について書かれていて、しかもショパンは「彼については君に手紙で書いた」とある。しかしこれ以前の手紙にそんな事は書かれていなかった。

つまりそれについては、ショパンがプロ・デビュー公演を行う前の「空白の4ヵ月半」の間に書かれていたはずの、「失われた手紙」の中で言及されていたのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

追記(※フランス語)、今日のレッスンで、ちょうどクラマーのエチュードの最中に、君がグダンスクに小麦を送って、そして、おそらく君が来ていると、彼女から聞いたよ。小麦に関するニュースはカロル氏(※ヴォイチェホフスキの継兄弟カロル・ヴェルツ)から来た。僕は、君から僕宛の手紙には書いてなかったから、僕はその話題について知らないと答えた。君が小麦で忙しくしているなんて、僕にはいくぶん奇妙に思われた;でも、君は引き受けたらどんな仕事でもやりたがるって知っていたから、僕はそれを信じたけどね。」

 

ショパンの手紙の特徴の一つに、彼の文章は「まるで女性の会話のように取り止めがない」という点が挙げられる。

その事は、彼が姉妹達に囲まれて育った事とも関係あるだろうが、やはりショパンには女性的な傾向があるのは間違いない。

逆にヴォイチェホフスキの方は、そんなショパンの手紙に対して、ほとんど用件だけを手短に書いて寄こしていたものと推測され、そしてそれはいかにも男性的な傾向であり、だからここにあるような「小麦」の一件などは、たとえばそれがショパンなら書き落とさないだろうが、ヴォイチェホフスキにしてみれば、こんな話はショパンとは全く関係ないのだからわざわざ手紙に書くような事でもなく、本当にどうでもいい話だったりするのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「子供達は君の手紙を読みたがっているが、しかし彼女らには決して許可しないよ;僕は自分一人のためにそれらをキープしていて、毎日心の中で読んでいる;それでルドヴィカ(※ショパンの姉)は、君が彼女宛にメッセージを書いていないからと僕が言ったもんだから、かえって怒っているんだ。」

 

ここには、例の「子供達」と言う表現が使われているが、これは本当にショパンが書いたものなのだろうか? 

今まで再三に渡って説明してきた通り、ショパンが「子供達」という表現を使う場合の決まりごとに関しては、私の解釈が間違っているとはどうしても思えないのである。

と言う事はつまり、この手紙のこの箇所について言えば、これはやはり「何者かによる加筆改ざんではないか?」と言う可能性を考えておかないではいられないのである。可能性としてはヴォイチェホフスキ本人かオピエンスキーのどちらかしかない訳だが。 

と言うのも、この箇所に書かれている事の内容そのものが、どう考えても不自然極まりないからだ。 

そもそも、なぜショパンは自分の姉妹達(子供達)にヴォイチェホフスキからの手紙を見せないのか? その理由が全く分からないし、手紙にもその説明は一切されていない。と言うのも、極めて男性的なあのヴォイチェホフスキが、ショパンの家族に見せられないような内容の手紙を書いてよこすなんて事自体が想像できないからだ。男性的な人物と言うのは、ショパンのような取り止めのないおしゃべりのような事は普通書かない。たいがい要件だけを手短にまとめて終わりにしてしまうものだ。

たとえば、前々回の「第7便」のオピエンスキー版には、カラソフスキー版にはないこんな記述があった。

「できるだけ早く君にそれ(※肖像画)を送るよ;君が望むなら、それは君のものになるだろう;でも、君以外の誰にも僕の肖像画はあげない。他に1人だけあげるつもりの人がいるけど、最初に君にあげてからだ、だって君は僕の最も親愛なる人だからね。僕以外には誰も君の手紙を読んでいないよ。いつものように、僕は君の手紙を一緒に持ち歩いている。それは何という喜びだろう、5月には、僕の旅行が近付くのを思いながら、君の手紙を持って町の郊外へ行き、君が僕の事を気に掛けてくれているのを実際に確かめ、あるいは少なくとも、とても愛する人の文字やサインを見られると言うのだから!」

私はこの時これについて、「このような愛情表現が、果たして、21歳の青年の、同性の親友に対するそれとして適切だと言えるだろうか?」とコメントしたが、今回のこの箇所にしても全く同じ事で、正にその通りなのだ。

 

つまり、いかにも同性愛疑惑をうかがわせるようなこのような表現が、仮にショパンの直筆原文に本当に書いてあったのだとしたら、果たしてそれを、ヴォイチェホフスキがそのまま正直に書き写し、伝記作家のカラソフスキーに資料提供するものだろうか?と言う事なのだ。

 

1.       たとえば、カラソフスキー版(1862年〜)とオピエンスキー版(1910年)の両方に同じ事が書かれている場合、そのような箇所については、ヴォイチェホフスキが直筆原文からそのまま(あるいは改ざんを加えて)書き写したものだと考えていいだろう。

2.       更に、オピエンスキー版にはなくてカラソフスキー版にだけあるような箇所については、間違いなくカラソフスキーが加筆改ざんしたものだと断言できる。

3.       しかしだ、逆にカラソフスキー版にはなくてオピエンスキー版にだけあるような箇所については、実際のところ、カラソフスキーがそれを削除して発表していたのか、それともオピエンスキーがあとから加筆改ざんしたものなのか、その判断はちょっと難しいのである。

(ア)    ただし、その記述が当事者しか知り得ないような個人名や具体的な周辺情報であれば、ほぼカラソフスキーが削除したものと考えて間違いないだろう。だから私も今までそのように考えて議論してきた。

(イ)     しかしそれが、今回のこの箇所にように、部外者にでも簡単に創作で書けてしまえるような内容であれば、あらためて、オピエンスキーによる加筆改ざんの可能性を考えない訳にはいかない事になるのではないだろうか。

 

先述したように、ヴォイチェホフスキはショパン家とは家族同然の間柄であり、ショパンの手紙の追伸部分には大抵、そのヴォイチェホフスキに対して「パパ、ママ、そして子供達、それとジヴニーからも君に挨拶を贈る」云々とのメッセージがある。

それなら、それを受け取ったヴォイチェホフスキもまた、当然そんな彼らに対してメッセージを贈り返しているはずである。

しかも今回と前回は、ヴォイチェホフスキはそれぞれショパンの家族の記念日に合わせて手紙を送って来ているのだから尚更だ。それなのに、そんなヴォイチェホフスキが「ルドヴィカ」やその他の家族宛に「メッセージを書いていない」なんて、そんな事は常識的に考えられない。

考えられるとしたら、ショパンとヴォイチェホフスキが完全にデキていたか、それともオピエンスキーが勝手に加筆改ざんしたか、そのどちらかだ。

そのどちらかを選べと言われれば、私は迷う事なく後者を選ぶ。

オピエンスキーは、ヴォイチェホフスキの遺族から「写し」の原文を入手した時、かつてカラソフスキーがそれらに改ざんを加えて発表していたと言う事実を目の当たりにした。そんな時、オピエンスキーは、彼自身もまたカラソフスキーと同じ手法でショパンの手紙に改ざんを加え、自説に都合のいいようにそれを利用しようと、そう考えていた可能性は非常に高いと言える。

なぜならこの両者には、ある一つの絶対的な共通点があるからだ。それは、盲目的なまでに国粋主義的な傾向が強いという事である。

国粋主義者と言うのは、自説のためなら歴史的事実を歪曲する事など少しも厭わないからだ。

 

しかし、だとしたら、それではなぜ、オピエンスキーは今回ここでこのような加筆改ざんをしたのだろうか?

 

この「第9便」のこの箇所にしろ、それと類似した「第7便」のあの箇所にしろ、このような筆致はとにかくショパンらしくない。そして、そんなショパンらしくない筆致は一体どこから来ているのかと言うと、実はそれはウィーン時代の「マトゥシンスキ書簡」だったのである。そこには、これらと全く同じような筆致の「誇張された友情の愛情表現」が頻発している。

私は以前、それはカラソフスキーがこれら「ヴォイチェホフスキ書簡」から拝借したものだと考えていた。しかし実は逆で、実際はオピエンスキーの方がカラソフスキーの「贋作書簡」から拝借していたのではないだろうか。

なぜならオピエンスキーは、ヴォイチェホフスキの遺族から借り受けた「ヴォイチェホフスキによる写しの原稿」を最初に見た時、、その内容が、単に手紙を並べて発表しただけでは、ショパンとヴォイチェホフスキの友情物語が読者に伝わらないと感じたはずだからだ。

カラソフスキーの場合は伝記の中で手紙を紹介していたから、手紙以外の伝記部分ではいくらでも好きな事が書けたし、手紙の記述でさえもショパンとヴォイチェホフスキの友情を誇張するためにしっかり改ざんしていた。

その事実を知って、オピエンスキーもまた便乗し、ヴォイチェホフスキとショパンの友情を読者に分かりやすくするために、敢えて誇張した文章を書き加えたのではないだろうか?

しかもオピエンスキーの場合は、カラソフスキーがドイツ語に翻訳して発表していたのとは違い、最初はポーランドの読者だけを対象にポーランド語で発表するつもりだったから、たとえば外国人が見たら奇異な印象を抱くような表現を用いるのにも、全く問題意識を感じなかったはずである。

       オピエンスキーがいかに信用の置けない人物であるかについては、またあらためて「シュトゥットガルトの手記」を紹介する際に説明する予定である。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「明日はロシアの復活祭だが、しかし僕はどの復活祭の食事にも行かないつもりだ。僕は以前にも、復活祭ではそれほど少ししか食べた事がない;月曜日だったか日曜日だったか忘れたが、プルシャックの所の食事でさえ、そこには大勢の人々がいて、ハムやババス*伝統的な復活祭の食べ物]、その他があったが、僕は晩餐にさえ出なかった。シャトラン・ルインスキ、アルフォンス、ムレツコ家の人達、ジェヴァノフスキ、彼らが盛大な宴会を催していたが、僕には彼らが嫌悪すべき者のように思われた――誰でもそうだ。Nは僕に、彼の男の子の洗礼命名式でその赤ん坊を抱いてくれと頼んできた;それはグダンスクへ発つ事になっている不幸な女性の望みなので、僕は尚更断れなかった。プルシャック夫人が名親の相棒になる事になっている。これは僕の家族には秘密にされているので、それについて彼らは知らないんだ。」

 

ここに出てくる「N」については、「第2便」のオピエンスキー版で以下のように書かれていた。

「しかし君にとって最も興味をそそるのは、哀れな僕が、レッスンをしなければならなくなった事だろう。その原因はこう言う事なんだ。(※以下、「イタリア語とポーランド語が混在し、いくつか綴りや文法に誤りがある」) マルシャルコフスカ通りにある家の女家庭教師N.が不運に見舞われた。その女家庭教師はお腹に赤ん坊を身ごもり、伯爵夫人やその家の女性は、これ以上女たらしには会いたくないと望んでいる。この話で最高なのは、最初その女たらしが僕だと思われていた事で、なぜなら僕は、サンニキに1ヵ月以上もいて、その女家庭教師といつも庭へ散歩に出かけていたからだ。しかし散歩してただけで、それ以上の事は何もない。彼女は魅惑的ではない。哀れな僕は、食欲がわかなかった。プルシャック夫人が、僕がレッスンする事についてパパとママを説得した。(※以下、「ラテン語」) 僕は僕だけの時間を失った。しかし彼らの好きなようにさせるさ。」

ここ最近の手紙で、ショパンがプルシャック家で「レッスン」している事についてよく触れられているが、それはこの時から続いていた事なのである。

おそらく、このような妙な事情が絡んでいるために、ショパンの家族には内緒にされているのかもしれない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「先週、僕は君に会いに行こうと考えたが、あまりにも忙しく過ぎた;僕は作品を完成させるため、一生懸命仕事しなければならないのだ。君が議会招集の期間にワルシャワに来るなら、僕の演奏会にも来てくれるだろう。僕には、君が来るという予感があって、もしもそうなる夢を見たら、きっとそう信じてしまう事だろう。僕はどれほど、しばしば夜が昼に、昼が夜に入れ替わってしまった事だろう;僕はどれほど、しばしば昼に眠り、夢の中で目を覚ました事だろう;しかしそれは眠りと言えるようなものではなく、いつも同じ事を考えてしまうために、元気が回復する代わりに1人で気に病み、疲れ切ってしまうまで脳を悩ませている。」

        ほぼ同じ。

 

ここで気になるのは、ショパンが「君が来るという予感」と書いている事だ。

「予感」と言う事はつまり、ヴォイチェホフスキが来れるかどうかは彼の意思ではなく、ほぼ運任せだと言う事であり、要するにヴォイチェホフスキは、「もちろん行きたいのは山々だけど、都合によっては行けるかどうか分からないよ」と言うような、常にそんな曖昧な返事しかショパンにしていないと言う事なのである。

つまりヴォイチェホフスキと言う人物は、「必ず行くよ」と断言してそれを裏切るようなへまな真似は決してしないと言う事だ。

 

 

また、この箇所にせよ、この手紙の冒頭の部分にせよ、この手紙は、いつになくショパンが憂鬱を訴えているのが気にかかる。

このような事は、今までのどの手紙でもなかった事だが、しかしこんな事を書いている時でさえ、例の「理想の人」の存在がほのめかされる事すらないのである。

一体何がショパンをこれほどまでに憂鬱にしているのか?本人がその理由を全く説明できないでいる。

もしもそれが「適わぬ恋」に悩んでいるゆえならば、そんな事は本人が一番はっきりと自覚しているはずであり、そうであれば、かつて「第4便」で書かれていたように「おそらく僕にとって不幸な事かもしれないが」云々みたいに告白の続きをするはずなのである。

 

 

最後の結びの文句が違っている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第9便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕を思いやって祈ってくれたまえ……」

「どうか僕を愛してくれたまえ。

F.ショパン   

僕の両親が君に最高の挨拶を贈り、*ここに判読不能の文字]――そしてその子供達とジヴニーも。」

 

前回の「第8便」では、この箇所のオピエンスキー版の追伸部分は「姉妹」になっていた。しかし、やはりこの「子供達」と言う表現は、そもそもこのように「両親」が併記されていないと理屈の合わない表現なのである。

それに、あの甘ったれのショパンが、散々世話になっている自分の姉を捕まえて「子供」呼ばわりするとも思えない(※のちにショパンはパリ時代にジョルジュ・サンドと愛人関係になるが、そのサンドはショパンの事を完全に子供扱いしていたほどだ)。

 

しかも、ついさっきは、「ルドヴィカは、君が彼女宛にメッセージを書いていないからと僕が言ったもんだから、かえって怒っているんだ」と書かれていたではないか。それが事実なら、それほど怒っている「ルドヴィカ」を始めとする「子供達」「両親」が、彼らの「挨拶」を平気で無視する無愛想で無礼なヴォイチェホフスキに向かって、ここでこのように「最高の挨拶」など贈るだろうか?

前にも書いたが、ショパンがこのように、追伸に家族を始めとする様々な人達の名を連ねている時と言うのは、その彼らが、今正にショパンがヴォイチェホフスキ宛に手紙を書いているのを知っていて(あるいは事前に知らされていて)、そしてそのショパンにヴォイチェホフスキ宛のメッセージを頼んでいると言う事なのである。

つまりショパンとヴォイチェホフスキは、いかがわしくも「両親とその子供達」に隠れて文通をしているのでは決してないと言う事だ。

 

したがって、先ほどの文中における「子供達」のくだりは完全に矛盾しており、いかにも取って付けたようで不自然だと言わざるを得ないのである。

 

 [2012年1月8日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証9-8:噂の恋人?「モリオール嬢」の存在について

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証9-6:成功の余波▲】 【筆者紹介へ▼】

Copyright © Tomoro. All Rights Reserved.