6.成功の余波――
6. Aftermath of the success -
今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第8便」である。
まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第8便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語、一部「ドイツ語」と「フランス語」が混在) |
「1830年4月10日、ワルシャワにて (エミリアの年忌)[*エミリアはショパンの一番若い妹] 僕は君に手紙を書きたいと思っていながら、過去数週間にわたって果たせずにいた。僕は今、なぜこんなに早く時間が経つの分らない。僕らの音楽シーズンはたけなわだ;復活祭でさえ顧みられなかった。この前の月曜日には、フィリペウスの所で盛大な夜会が催され、そこでソワン夫人が《セミラミーデ》の中のデュエットをとても美しく歌った。僕はロッシーニの《イタリアのトルコ人》の中のバッフォ(※オペラの道化役のバス歌手)・デュエットで、ソリヴァとグレッセル諸氏の伴奏をしたが、これは満場一致で繰り返すように所望された。僕は、レヴィツキの所でやる音楽夜会のプログラムを写しておいたが、その中で、ガリツィン公爵がローデの四重奏曲に参加する事になっている。僕はフンメルの《ラ・サンチネル》を選び、そしてチェロを伴う僕のポロネーズを弾いて終わらせるつもりだ。このポロネーズには、アダージョを序奏に書き加えた。僕はすでにそれを試してみたが、悪くなかった。「レヴィツキの所でやる事になっている音楽夜会の計画は順調に進んでいる…(※中略)…チェロを伴う僕のポロネーズには、カチンスキ(※チェリスト)のために特別にアダージョの序奏を付け加えた。僕らはそれでリハーサルしたが、全てうまくいったよ。」以上が最新のサロン・ニュースだ。さて次は新聞の報道についてだが、それが僕自身に関する好都合な意見を含んでいるなら、僕にとってやはり重要だ。僕はそれらを君に送ってあげたいよ。『ワルシャワ・ガゼット』には2ページにわたる記事が載っているが、そこでエルスネルがかなりひどく侮辱されている。ソリヴァ[*生れはイタリア人で、1821年にワルシャワ音楽院・声楽科の教授になった。プロシア政府によって音楽院が閉鎖された際、まずセント・ペテルスブルクに移り、その後パリヘ赴き、そこで1851年に亡くなった。オペラ《ラ・テスタ・ディ・ブロンゾ》、《エレナ・工・マルウィナ》、その他の小曲を作曲した]が僕に言うには、エルスネルは、彼の弟子2人が間もなく公の場に姿を現す事になっていたので論争を避けるしかなくて、さもなければ彼は間違いなくその攻撃に対して応戦していたはずだと。この件についてその全てを手短に描写するのは難しい;出来たら君に新聞を送りたいよ、そうすれば事情がすっかり明らかになる。賢明な人には一言で十分だろうから、僕は事件の簡単な概略を書いておくよ。 僕の演奏会は、取り分け『ポーランド通信』において、非常に多くの讃美的な論評を引き起こし、官報もまた、僕にいくらか称賛の言葉をくれた。これはみんな誠に結構なのだが、その後、その新聞のある号で、まったくの善意からだろうけど、ひどく馬鹿げた事ぱかり載せたので、その官報の誇大な記事への反論を『ガゼット・ポルスカ』で読むまで、僕は本当にがっかりしてしまった。この新聞はまったく狂気じみていて、ポーランドはいつの日か僕を誇るようになるだろう、ドイツがモーツァルトを誇ったように、とか言っている;そして曰く、“もし僕が、学者ぶった連中やロッシーニ主義者(何て馬鹿げた言い方だろう!)の手に陥っていたなら、僕は今日あるを得なかったろう。“と。僕はまだ、本当に取るに足らない人間だが、その批評家が、もし僕がエルスネルと一緒に学んでなかったら、まだこれだけの事は出来なかっただろうと言ったのは正しい。このロッシーニ主義者に対するあざけりとエルスネルへの称讃は、誰かさん[*バンドマスターのクルピンスキを指している。彼はロッシ―ニ以外いかなるオペラも演奏しなかったため、しばしばロッシーニ主義者と呼ばれていた。前述の匿名記事が彼の書いたものである事は疑いない]を非常に怒らせ、『ワルシャワ・ガゼット』が載せたフレドロの喜劇“友達”(※ドイツ語)に始まって“オリイ伯爵”(※ドイツ語)で終っている論文の中に、次のような寸評があったほどだ;“何故エルスネルに感謝しなければいけないのだ? 彼には弟子を糸車から繰り出す事は出来ない!” また、“悪魔でさえ無から何かを作り出せない。”と。僕の2回目の演奏会では、ノワコフスキの交響曲が演奏された。 35年前、エルスネルは四重奏曲を書いたのだが、出版者は、そのメヌエットがポーランド的性質をもっていたため、作者の承諾も得ずに、“最高のポーランド・スタイルによる”(※フランス語)と題名に追加した。この批評家は、その四重奏曲を、作曲家の名を挙げずに嘲笑している。ソリヴァが偽りなく言うには、《セシリア》[*クルピンスキ作曲のポーランドの国民的オペラ]を罵倒する方が正当だろうと、彼らは特に、まったくの親切さとデリカシーをもって、いくつかの面で僕に当てこすり、ロッシーニを模倣する事なしにロッシーニの音楽を聴くべきだと立派なアドバイスをくれたよ。こんな事を言われたのは疑いもなく、他の新聞の記事が、僕には多くの独創性があると批評したからなんだ。 明後日の復活祭、僕はミナソヴィッチ[*1849年に亡くなったポーランドの詩人]の所で朝食に招待されている;クルピンスキもそこに来る事になっているので、彼が僕に対してどう振舞うのか見たいものだね。彼がいつも僕に対してどれほど愛想がいいか、君には信じられないだろう。僕は先週の水曜日に彼に会ったよ、レシュキェヴィッチの小さい演奏会でね。後者の演奏は悪くはなかったが、まだ学習者だという事を現していた。僕には、彼はクログルスキよりは良い演奏者であるように思われたが、しばしば意見を求められたけど、僕はまだ、そのように言う事は敢えてしなかった。 おお! 郵便配達だ! 一通の手紙……君からだ! おお、親愛なる友よ、君はなんていい人なんだろう! しかしながら、それは驚く事ではない、だって僕はいつも君の事を考えているのだからね。君の手紙から推察し得る限りでは、君は単に『ワルシャワ通信』を見ただけのようだ。『ポーランド通信』と、出来たら『ワルシャワ・ガゼット』の91号を読んでくれたまえ。君のアドバイスは素晴らしいよ;僕はそれをすでに予想していたかのように、イブニングの招待をいくつも断ってしまったよ、だって僕は何を企てるにしても、いつも君の事を多分に考えるからだ。僕は、君と一緒に考えて感じるように学んで来たからかどうか分らないが、何を書く時でも、君が喜ぶかどうかを知りたいと思うのだ。僕の第二協奏曲(ホ短調)も、君が聞いて良しとするまでは、僕の眼には少しも価値を持たないのだ。 こっちで期待されている僕の3回目の演奏会は、僕が出発する少し前までは開催されない。僕は新しい協奏曲を弾こうと思っている、まだ完成していないけどね、それから、要望に従ってポーランド民謡による幻想曲と、君に捧げた変奏曲だ。ライプツィヒの見本市がすでに始まっていて、ブルゼジィナが音楽の委託販売品を大量に引き受けたので、僕はそれをしきりに待っている。サンクト・ペテルスブルグから来たフランス人が、僕の2回目の演奏会の後、シャンパンで僕をもてなしたがって、名前はダンストと言うパリ音楽院の生徒だが、人々はフィールドだと思っている。彼はサンクト・ペテルスブルグでいくつか演奏会を開いて非常な人気を得たそうだから、並外れて上手に弾く事だろう。君はきっと奇妙に思うだろう、サンクト・ぺテルスブルグから来た、ドイツ名を持ったフランス人を。アントニ・オルウォフスキ[*アントニ・オルウォフスキはショパンの学友で、才能のある音楽家である。後年ルーアンのバンドマスターになった。1811年にワルシャワに生れ、1861年に亡くなった]が僕のテーマによるマズルカとギャロップとを作っているという悲しむべきニュースを加えなければならない;でも僕は彼に、それ等を印刷しないよう頼んでおいた。」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。
※
オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.』1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』(Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた。
※
カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、今までと同じ手法では議論を進められないからである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「1830年4月10日、ワルシャワにて (エミリアの年忌)[*エミリアはショパンの一番若い妹] 僕は君に手紙を書きたいと思っていながら、過去数週間にわたって果たせずにいた。僕は今、なぜこんなに早く時間が経つの分らない。」 |
「ワルシャワにて 1830年4月10日、土曜日 (エミリアの年忌!) 我が最も親愛なる生命よ! 僕は先週君に手紙を書きたかったのだが、しかしそれがどこに行ったか分からないほど早く過ぎ去ってしまった。」 |
前回紹介した「第7便」は、その前の「第6便」から約4ヵ月半ものブランクがあり、その間に「失われた手紙」が存在していた事は明白だった。
そして今回の「第8便」は、前回からちょうど2週間後に書かれている(※下図参照)。
1830年3月(第7便) |
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1830年4月(第8便) |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
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オピエンスキー版によれば、ショパンは本来なら「先週」書きたかったと言っているので、言うまでもなく、この間に「失われた手紙」はない。
ところが、どういう訳かカラソフスキーは、この「先週」と言うのを「過去数週間」に書き換え、時間の流れを曖昧にしている。
なぜそんな事をしたのだろうか?
おそらく、「第6便」から「第7便」の間にあった約4ヵ月半ものブランクについて、読者に不信感を抱かせないためではないだろうか?
と言うのも、その後、今回の「第7便」から「第8便」の間にはたったの2週間しか空いていなくて、おまけに次回の「第9便」はそこから何と1週間後と言う、ショパンにしては異常とも言えるハイペースで書かれているからだ。
たとえば、ショパンは「第5便」の時にこんな事を書いていた。
「君はおそらく、どうして僕がこんな手紙書きマニアになったか不思議だろう;こんな短い間に、これが君への3通目だ」
この「3通」とは、「第3」、「第4」、「第5便」の3通の事で、これらはだいたい3週間置きのペースで書かれていた。しかし今回はそれ以上だ。
つまり、カラソフスキーの伝記で紹介されている手紙の量が、ショパンのプロ・デビュー公演を堺に、その直前とその直後では明らかに差があり過ぎるからである。
しかしカラソフスキーの思惑はさて置くとしても、ショパンがこのように「手紙書きマニア」になる時というのは、必ず彼の人生にとって転機となるようなビッグ・イベントがあった直後なのである。
「第3〜5便」の時はウィーン旅行の直後だったし、今回はプロ・デビューの直後である。
つまり、それらの演奏会の大成功によって一躍脚光を浴び、自分の周りも自分自身の動向も慌ただしくなり、次から次へと話題に事欠かないからなのだ。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕らの音楽シーズンはたけなわだ;復活祭でさえ顧みられなかった。この前の月曜日には、フィリペウスの所で盛大な夜会が催され、そこでソワン夫人が《セミラミーデ》の中のデュエットをとても美しく歌った。僕はロッシーニの《イタリアのトルコ人》の中のバッフォ(※オペラの道化役のバス歌手)・デュエットで、ソリヴァとグレッセル諸氏の伴奏をしたが、これは満場一致で繰り返すように所望された。」 |
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若干ニュアンスの違いはあるが、言っている事はほぼ同じ。 ※
ただし、「ロッシーニの《イタリアのトルコ人》」は、こちらでは《トルコ人》としか書かれていない。 |
※
《セミラミーデ》 オピエンスキーの註釈によると、「ロッシーニによるオペラ。初演は1823年」。
※ 《トルコ人》 オピエンスキーの註釈によると、「《イタリアのトルコ人》 ロッシーニによるオペラ。初演は1814年」。
次の一文が、カラソフスキー版では削除されている。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#3. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「グワトコフスカ夫人が君の事を尋ねていた事を除いて、これ以上詳しく書くような事はない。」 |
この「グワトコフスカ夫人」とは、「第6便」で初登場してカラソフスキーに削除された「グワトコフスカ嬢」の母親の事である。
ショパンは、文通相手(この場合はヴォイチェホフスキ)が知らない人物について書く時には、必ずその人物の簡単なプロフィールを付け加えている。そのような事は、手紙を書く際には誰もが当然のごとくそうするだろう。たとえば、前回の手紙では、ショパンにウィーン製のピアノを貸してくれた「ディアコフ」がそうだった。ヴォイチェホフスキはこの人物の事を知らなかったから、ショパンは、「ディアコフというロシアの将軍」と言う風に、きちんとその素性を説明している。したがって、そのような説明もなしにいきなり名前だけで語られている人物と言うのは、すでに2人にとって説明不要の知人か友人である事を意味していおり、ここでの「グワトコフスカ夫人」もそれに当たる。
つまりショパンもヴォイチェホフスキも、2人ともすでに学生時代に「グワトコフスカ家」と知り合いで、しかもこの書かれ方からするとそこそこ親しくすらあったようで、そんな事までもがこの一文によって判明しているのであるが、カラソフスキーはここでも、娘と同様にその母親も削除している。
「第6便」では、「グワトコフスカ嬢は目に包帯をしている」と書かれていただけだったが、その後、彼女の目の「包帯」は一体どうなったのか? その続報についてはどこにも書かれていないが、書いたショパンも書かれたヴォイチェホフスキも、そんな事誰も気にもかけていない。
果たしてそれが、かの有名な「理想の人」の扱われ方で本当にいいのだろうか?
この時ショパンが本当に「初恋の真っ只中」で、しかもその相手が「グワトコフスカ嬢」であると言うのなら、その彼女の母親について語るのに、たったこれだけでコメントを切り上げられてしまうものだろうか?
「グワトコフスカ嬢」はソリヴァの愛弟子であり、そして今回の「夜会」でショパンはソリヴァと共演している。ショパンがグワトコフスカと会うのは決まってソリヴァ絡みであり、それ以外に彼らには接点がないのだから当然である。そしてこの場に「グワトコフスカ夫人」がいるのであれば、当然その娘の「グワトコフスカ嬢」だっていたはずだろう。仮にいなかったとしても、それならそれで、その事を残念がるコメントを書くのが恋する若者の心理というものではないだろうか。
この頃のショパンは、断じて恋などしていない。百歩譲って仮に誰かに恋していたとしても、それはグワトコフスカではありえないし、まして「理想の人」とやらでもない。
何度も言うように、この一文をカラソフスキーが削除したのは、彼がまだこの時点では「グワトコフスカ嬢」を「理想の人」だった事にして話を膨らませようというアイディアを思いついていなかったからである。だから彼は、「グワトコフスカ嬢」もその母親も、その他大勢の雑多な友人知人達と同列にしか見ていなかったのだ。
あの永井豪大先生だって、飛鳥了をサタンだった事にして実は不動明を愛していたというアイディアを途中から思いついたのだから、カラソフスキーがそうだったとしても別に不思議ではないだろう。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「僕は、レヴィツキの所でやる音楽夜会のプログラムを写しておいたが、その中で、ガリツィン公爵がローデの四重奏曲に参加する事になっている。僕はフンメルの《ラ・サンチネル》を選び、そしてチェロを伴う僕のポロネーズを弾いて終わらせるつもりだ。このポロネーズには、アダージョを序奏に書き加えた。僕はすでにそれを試してみたが、悪くなかった。以上が最新のサロン・ニュースだ。」 |
「レヴィツキの所でやる事になっている音楽夜会の計画は順調に進んでいて、そこで、ガリツィン公爵がローデの四重奏曲に参加する事になっている;僕はフンメルの《ラ・サンチネル》を選び、そしてチェロを伴う僕のポロネーズを弾いて終わらせるつもりだが、これにはカチンスキ(※チェリスト)のために特別にアダージョの序奏を付け加えた。僕らはそれでリハーサルしたが、全てうまくいったよ。以上が僕の客間の音楽ニュースだ。」 |
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《ラ・サンチネル》 オピエンスキーの註釈によると、「明らかに間違い;私はフンメルによるオペラでそのような作品の痕跡を辿ることはできなかった。それは以下の通りかもしれない;La Sentinelle; Devint (?)
1798 (?)、あるいは、La Sentinella Nottorna; Agnelli、1817」。
カラソフスキーは、この箇所では「カチンスキ」というチェリストの存在を抹消している。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#5. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「さて次は新聞の報道についてだが、それが僕自身に関する好都合な意見を含んでいるなら、僕にとってやはり重要だ。僕はそれらを君に送ってあげたいよ。『ワルシャワ・ガゼット』には2ページにわたる記事が載っているが、そこでエルスネルがかなりひどく侮辱されている。ソリヴァ[*生れはイタリア人で、1821年にワルシャワ音楽院・声楽科の教授になった。プロシア政府によって音楽院が閉鎖された際、まずセント・ペテルスブルクに移り、その後パリヘ赴き、そこで1851年に亡くなった。オペラ《ラ・テスタ・ディ・ブロンゾ》、《エレナ・工・マルウィナ》、その他の小曲を作曲した]が僕に言うには、エルスネルは、彼の弟子2人が間もなく公の場に姿を現す事になっていたので論争を避けるしかなくて、さもなければ彼は間違いなくその攻撃に対して応戦していたはずだと。」 |
「さて次は音楽についての新聞報道だが、それが僕自身に関する好都合な意見を含んでいるなら、僕にとってやはり重要だ。僕はそれらを君に送ってあげたいよ。『ワルシャワ・ガゼット』には半ページにわたる記事が載っているが、そこでエルスネルがかなりひどく侮辱されている。モリオールの所のディナーで、ソリヴァが僕に言うには、エルスネルは、彼の弟子が間もなく公の場に姿を現す事になっていたので論争を避けるしかなくて、さもなければ彼は間違いなくその攻撃に対して応戦していたはずだと。彼は他に、君が彼宛に手紙を書いて来たとも言っていた;もしも彼が君宛に返事を書くのなら、彼がその機会を逃さないように僕は願うよ。」 |
ここでのオピエンスキー版には、何とヴォイチェホフスキがソリヴァ宛に手紙を書いていた事が述べられている。
前回の「第7便」でも、オピエンスキー版の方には以下のような事が書かれていた。
「昨日、僕はモリオールの所で食事をし、ディアコフの所で催されたパーティに行き、そこでソリヴァに会った。彼は君によろしくと言っていて、そのうち君宛の手紙を数通、僕に渡すと約束した。」
要するに、ショパンとヴォイチェホフスキはずっと同じ社交界を共有してきていた訳だから、ショパンがショパンでソリヴァとの付き合いがあるように、ヴォイチェホフスキもヴォイチェホフスキで個人的にソリヴァと手紙のやり取りもしていたのだ。当然と言えば当然だが、しかしカラソフスキーはその箇所をことごとく削除してしまっている。
カラソフスキーは、なるべく物語の中心をショパンとヴォイチェホフスキの2人に据え、彼らが織り成す友情物語にスポットが当たるよう巧みに印象操作していたからである。
だからここでも、前回同様「モリオール」の存在も抹殺している。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#6. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「この件についてその全てを手短に描写するのは難しい;出来たら君に新聞を送りたいよ、そうすれば事情がすっかり明らかになる。賢明な人には一言で十分だろうから、僕は事件の簡単な概略を書いておくよ。 僕の演奏会は、取り分け『ポーランド通信』において、非常に多くの讃美的な論評を引き起こし、官報もまた、僕にいくらか称賛の言葉をくれた。これはみんな誠に結構なのだが、その後、その新聞のある号で、まったくの善意からだろうけど、ひどく馬鹿げた事ぱかり載せたので、その官報の誇大な記事への反論を『ガゼット・ポルスカ』で読むまで、僕は本当にがっかりしてしまった。この新聞はまったく狂気じみていて、ポーランドはいつの日か僕を誇るようになるだろう、ドイツがモーツァルトを誇ったように、とか言っている;そして曰く、“もし僕が、学者ぶった連中やロッシーニ主義者(何て馬鹿げた言い方だろう!)の手に陥っていたなら、僕は今日あるを得なかったろう。“と。僕はまだ、本当に取るに足らない人間だが、その批評家が、もし僕がエルスネルと一緒に学んでなかったら、まだこれだけの事は出来なかっただろうと言ったのは正しい。このロッシーニ主義者に対するあざけりとエルスネルへの称讃は、誰かさん[*バンドマスターのクルピンスキを指している。彼はロッシ―ニ以外いかなるオペラも演奏しなかったため、しばしばロッシーニ主義者と呼ばれていた。前述の匿名記事が彼の書いたものである事は疑いない]を非常に怒らせ、『ワルシャワ・ガゼット』が載せたフレドロの喜劇“友達”(※ドイツ語)に始まって“オリイ伯爵”(※ドイツ語)で終っている論文の中に、次のような寸評があったほどだ;“何故エルスネルに感謝しなければいけないのだ? 彼には弟子を糸車から繰り出す事は出来ない!” また、“悪魔でさえ無から何かを作り出せない。”と。僕の2回目の演奏会では、ノワコフスキの交響曲が演奏された。 35年前、エルスネルは四重奏曲を書いたのだが、出版者は、そのメヌエットがポーランド的性質をもっていたため、作者の承諾も得ずに、“最高のポーランド・スタイルによる”(※フランス語)と題名に追加した。この批評家は、その四重奏曲を、作曲家の名を挙げずに嘲笑している。ソリヴァが偽りなく言うには、《セシリア》[*クルピンスキ作曲のポーランドの国民的オペラ]を罵倒する方が正当だろうと、彼らは特に、まったくの親切さとデリカシーをもって、いくつかの面で僕に当てこすり、ロッシーニを模倣する事なしにロッシーニの音楽を聴くべきだと立派なアドバイスをくれたよ。こんな事を言われたのは疑いもなく、他の新聞の記事が、僕には多くの独創性があると批評したからなんだ。」 |
※
ほぼ同じだが、こちらでは改行されていない。 ※
また、「彼には弟子を糸車から繰り出す事は出来ない!」の箇所は「彼には弟子を袂から振り出す事は出来ない」となっている。このような表現上の違いは、お国柄に合わせた意訳なので目くじらを立てるようなことではない。 ※
同様に、「悪魔でさえ無から何かを作り出せない」の箇所は「悪魔でさえ砂からムチを作り出せない」となっている。オピエンスキーの註釈によると、「雌ブタの耳から絹の財布を作る事はできない」 ※
“オリイ伯爵” オピエンスキーの註釈によると、「ロッシーニによるオペラ;初演は1823年」。 |
ここでのショパンはいつになく熱がこもっているが、自分の恩師が公の場で馬鹿にされたのだからそれも当然だろう。
この論争の火種は、ショパンが2回の演奏会で披露した作品の、その「独創性」が一体どこから来たのか?と言うところに端を発したもののようだ。
いつの時代でも、突然何か新しいものが出てくると、人々はそのルーツを探らずにはいられないものだ。
今回のショパンの例では、ある者が「それは師匠のエルスネルのお陰だ」と言えば、ある者は「いや、それはショパンに元々備わっていた才能だ」と反論する…。
だが、私に言わせればどっちの意見も正しいのだ。
なぜならショパンには、そのインスピレーションによって類稀な美しいメロディを紡ぎ出す天性の才能はあったが、それを、ピアノ以外の楽器も使って協奏曲のような大作にまとめ上げる能力はなかった。そればっかりはいかなる天才でも学ばなければ手に入らない。バッハだろうがモーツァルトだろうがベートーヴェンだろうが、それに関しては例外ではない。ただし、偉大な先人達は世襲によって早くからそのような教育を受けて育ってきたが、ショパンはそうではなかった。そんな彼が、20歳を前にしたたった3年間だけでここまでくるには、優秀な教師の導きや助けがなければ不可能だ。
確かにエルスネルは作曲家としては凡人だったかもしれない。しかしだからと言って、それが教育者としても無能だと言う事には決してならない。
たとえばスポーツの世界でも、「名選手だからと言って必ずしも名監督になれるとは限らない」と言われているように、自分がそれを出来る事と、他人にそれをやらせる事は全く別の事だからだ。
そもそも天才と言うのは、なぜ自分にそれが出来るのかなんて自覚しながらやっている訳ではない。いくら陰では努力していると言ったって、その努力が人よりも早く報われてしまうのが天才で、同じように努力してもなかなか結果に結びつかないのが凡人だ。だから天才は努力を惜しまないが、凡人は努力がいずれ苦痛になる。しかし凡人は、なぜ自分にそれが出来ないのかを常に考えながら少しずつ成長している。そう言った積み重ねが、いざ他人を導く時に役に立つのである。天才が他人を導く時の口癖は大概こうだ…「どうしてそんな簡単な事ができないんだ?」…これで生徒が成長するなら、世の中天才だらけだろう。
ショパンはここで「僕の2回目の演奏会では、ノワコフスキの交響曲が演奏された」と書いているが、この「ノワコフスキ」とは、ワルシャワ音楽院におけるショパンの学友、つまりエルスネルの教え子の1人である。ショパンは前回の「第7便」では、「ノワコフスキの交響曲」が演奏されたのを(義理上)だと冗談めかしていたが、ここでは、エルスネルには自分以外にも優秀な弟子がいると反論するための例として書いている。
つまり、「ノワコフスキ」が交響曲をモノにできたのも、自分が協奏曲をモノにできたのも、全てはエルスネルの導きがあったればこそであり、それがなければあの演奏会も開けなかったと言う事なのである。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#7. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「明後日の復活祭、僕はミナソヴィッチ[*1849年に亡くなったポーランドの詩人]の所で朝食に招待されている;クルピンスキもそこに来る事になっているので、彼が僕に対してどう振舞うのか見たいものだね。彼がいつも僕に対してどれほど愛想がいいか、君には信じられないだろう。僕は先週の水曜日に彼に会ったよ、レシュキェヴィッチの小さい演奏会でね。後者の演奏は悪くはなかったが、まだ学習者だという事を現していた。僕には、彼はクログルスキよりは良い演奏者であるように思われたが、しばしば意見を求められたけど、僕はまだ、そのように言う事は敢えてしなかった。」 |
※
ほぼ同じ。 |
カラソフスキーによれば、ショパンの「独創性」をめぐる論争でエルスネルを罵倒したのはこの「クルピンスキ」だと言う事だが、ショパンのこの書き方からしてもどうやらそのようである。
前回の「第7便」では、最初の演奏会で
「クルピンスキ[*カロル・クルピンスキ。バンドマスターで、国民的オペラをいくつか作曲した。1785年に生れ、1857年にワルシャワで亡くなった]はその晩、僕の協奏曲に新鮮な美を発見したと言った。」
と書かれていたし、また追加公演の際には、
「クルピンスキは、僕がウィーンのピアノでポーランド・ファンタジア(※《ポーランド民謡による大幻想曲 作品13》▼)を弾かなかったのを残念がっていて」
とも書かれていた。
ショパンは、最初の演奏会では《ポーランド民謡による大幻想曲 作品13》▼を初演したのもの、聴衆の反応がいま一つだったため、追加公演では《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 作品14》▼に差し替え、これが大喝采を呼び起こすに至った。
クルピンスキは、《ポーランド民謡による大幻想曲 作品13》▼には自分の書いたテーマが取り入れられていたから、この一連の流れにはさぞ納得のいかないものがあった事だろう。だから彼は、この曲が演奏会で成功しなかったのは作品そのものの出来のせいではなくて、あくまでも「ウィーンのピアノ」で弾かなかったせいだと思いたかったに違いない。
そんな時、ショパンの成功に対する称賛の声と共に、エルスネルの教育者としての評価も高まり、何か自分1人が取り残されたような気になってしまっていたのかもしれない。なぜならクルピンスキにしたって、自分のテーマをショパンに使われる事によって、ある意味ショパンの「独創性」を引き出す事に貢献した1人には違いないからだ。それに比べたらエルスネルなどは、所詮アレンジ上の手助けをしたに過ぎないと、彼はそう言いたかったのかもしれない。
次の箇所は、カラソフスキー版ではごっそり削除されている(※ちなみにヘドレイの英訳選集でも省略されている)。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#8. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「しかしこの音楽に関する話はもうたくさんだ;ここからは、音楽愛好家閣下にではなく、地主ティトゥス・ヴォイチェホフスキへ書き始めるとしよう。 昨日は良い金曜日だった;ワルシャワ中の墓参りに行った;それで僕は、コステュスが一昨日サンニキから戻って来たので、一緒に都市の端から端まで馬車で回った。コト(※コステュスの略称?)は、君に宜しく言っていたが、僕は次のような話を君宛に報告しよう;僕が朝のレッスンの後アレクサンドラ嬢(※プルシャック家の娘)と一緒にランチの席に着いていた時、こんな会話が始まった;ソヴィンスカ夫人から、アレクサンドラ嬢とムレチコ氏の婚約について聞かされた。僕はそれについて聞いていないと言った;そしたら、僕がその家族に同情的なのを知っていたので、彼女らは僕に話してくれたのだが、ムレチコ氏が非常に感情的になる場面があって、その後彼が結婚の申し出をしたそうだ。プルシャック夫人が言うには、彼が彼女の足元に涙ながらに身を投げ出した時、こんなひどい瞬間は見た事がなかったそうだ、等々。――僕はその話がどうなったのか知りたいと思って、その申し出の結果を聞くのを待った;それで聞かされたのは、M氏はいいとしても、A嬢はまだ若すぎる、だから彼らは1年待つべきだと。――すなわち、A嬢の次の誕生日まで、彼の申し込みを受け入れるべきか拒否するべきか、その時に彼女自身でどちらか決める事ができると。それでも尚、M氏は昨日彼女らと一緒に墓参りに行っていた。オブニスキが君によろしく言っていた;ゲイスメルが君によろしくと。僕は一昨日ラチンスキに会った;彼はひどく痩せているようだった。――それから僕は兄弟カロルに会ったが、彼は花芽と同じくらい健康そうに見えたよ。」 |
※ シドウの註釈によると、「アレクサンドラ(オレシアと呼ばれていた)・プルシャック嬢は、ショパンの友人コンスタンチン(コステュス)・プルシャックの妹。ショパンはアレクサンドラ・プルシャックとティトゥス・ヴォイチェホフスキとの結婚を望んでいた。このような理由から、彼は少女に同情的で、ムレツコ氏に敵対的だった。」と言う事らしいのいだが…。
カラソフスキー版では、ショパンとヴォイチェホフスキの共通の友人である「コステュス」の存在は今まで必ず消されてきていたから、ここでも例外ではない。
さて、ここもやはり不自然である。
このような、滑稽ながらも情熱的な婚約話を聞かされて、ショパンはそれを自分の恋愛と一切関連付けて連想しておらず、完全に他人事である。
もしもショパンが本当に「初恋の真っ只中」にいるのであれば、このような話を自分に重ねてみないなんて事は、とうてい考えられないだろう。それが恋する者の心理と言うものだ。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#9. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「おお! 郵便配達だ! 一通の手紙……君からだ! おお、親愛なる友よ、君はなんていい人なんだろう! しかしながら、それは驚く事ではない、だって僕はいつも君の事を考えているのだからね。君の手紙から推察し得る限りでは、君は単に『ワルシャワ通信』を見ただけのようだ。『ポーランド通信』と、出来たら『ワルシャワ・ガゼット』の91号を読んでくれたまえ。君のアドバイスは素晴らしいよ;僕はそれをすでに予想していたかのように、イブニングの招待をいくつも断ってしまったよ、だって僕は何を企てるにしても、いつも君の事を多分に考えるからだ。僕は、君と一緒に考えて感じるように学んで来たからかどうか分らないが、何を書く時でも、君が喜ぶかどうかを知りたいと思うのだ。僕の第二協奏曲(ホ短調)も、君が聞いて良しとするまでは、僕の眼には少しも価値を持たないのだ。」 |
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ほぼ同じ。ただし、こちらでは「郵便配達」の単語だけドイツ語で書かれている。 |
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ショパンはここで「僕の第二協奏曲」について初めてコメントしているが、その調性をはっきり(ホ短調)と書いている。今までの協奏曲については、その調性を《ヘ短調》だと手紙に書いた事は一度もなかった。それは、まだ1曲しか協奏曲を書いていなかったから、特に調性を記す必要がなかったためで、しかしそれが2曲目になれば、最初の曲との混乱を避けるために両者を区別しなければならない。そのために曲名の一部である調性をこうして記しているのである。
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ちなみに、前回も同様の現象があったが、カラソフスキー版の第3版を英訳したものでは、どういう訳かこれが(へ短調)になっている。邦訳版はおそらくこの英訳版を重訳したものと思われ、邦訳版も(へ短調)になっている。残念ながら私は、この第3版をドイツ語版の原文では確認していないので、この英訳版の(へ短調)が誤植なのかどうか分からない。もしも原版のドイツ語版でも(へ短調)になっているのなら、カラソフスキーがわざわざ事実とは違う方に改訂してしまっていた事になるのだが…。あるいは、前回にしてもそうだが、ひょっとすると英訳版の訳者が公式の作品番号に照らして修正してしまったのかもしれないが、ちょっと分からない。
さて、この箇所はちょっと興味深い。
ショパンはこの手紙を書いている最中にヴォイチェホフスキからの手紙を受け取ったのだが、ショパンがこの前に書いた「第7便」はちょうど2週間前であるから、このヴォイチェホフスキからの手紙はその「第7便」に対する返事である事が分かる。
なぜなら、ショパンの出した手紙がポトゥジンに届き、それに対して折り返し返事が来るのはだいたいその辺の日数を要するからである。
ショパンはここで、夜会の招待をいくつか断った事について触れているが、それはなぜかと言うと、体調管理のためである。
ショパンはかつて、ビアウォブウォツキと文通していた頃、ある時期体調を崩した際に、ちょっとしたお茶会にすら出入りを禁じられたと書いていた事があった。
元々病気がちで虚弱対質なショパンであるから、社交場に出入りするのもちょっとした肉体労働である。行けば必ず演奏しなければならなかったし、お酒だって飲まざるを得なかっただろう。
おそらくショパンは、ウィーンから帰って来た直後にも、ウィーンでの演奏会の成功を受けて社交場で引っ張りだこになっていたはずで、それで体調を崩し、その由をヴォイチェホフスキに「失われた手紙」の中で報告していたのではないだろうか?
それで今回ショパンは、同じ轍を踏まないために夜会の招待をいくつも断ったのだ。おそらく、家族からもそれは注意されていたに違いない。
そしてその同じ心配を、ヴォイチェホフスキもまた手紙で「アドバイス」してきたのである。
こういった配慮が出来るところが、ヴォイチェホフスキが人の心を掴むのに長けている点だ。
彼は、かつてビアウォブウォツキに死亡説事件が起きてショパンが泣き暮れていたのを見て、気分転換に劇場にでも行くようアドバイスしていた事もあった。
ショパンがヴォイチェホフスキを精神的な拠り所と考えていた事は、ヴォイチェホフスキの持つ男性的なキャラクターを含めて、こう言った事からも容易に察しがつくのである。
次の箇所は、カラソフスキー版では削除されている(※ちなみにヘドレイの英訳選集でも省略されている)。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#10. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「ブロミルスキが僕を木曜日に招待するために今日やって来たが、僕は君に約束するが、君にも分かる通り、彼は辞退の返事と共に去って行ったよ。ゴンシエについては、僕は2日前に彼に会って、僕らは君について話をしたよ;彼は憂鬱そうにしていて、状況は芸術にとって好ましくないと不平を言っていた。僕が彼に会ったら、それが今日だったら望ましいけど、君が手紙を書いてきた事を彼に話すよ。」 |
「ブロミルスキ」は初登場だが、「ゴンシエ」は「第1便」以来の登場だ。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#11. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「こっちで期待されている僕の3回目の演奏会は、僕が出発する少し前までは開催されない。僕は新しい協奏曲を弾こうと思っている、まだ完成していないけどね、それから、要望に従ってポーランド民謡による幻想曲と、君に捧げた変奏曲だ。ライプツィヒの見本市がすでに始まっていて、ブルゼジィナが音楽の委託販売品を大量に引き受けたので、僕はそれをしきりに待っている。サンクト・ペテルスブルグから来たフランス人が、僕の2回目の演奏会の後、シャンパンで僕をもてなしたがって、名前はダンストと言うパリ音楽院の生徒だが、人々はフィールドだと思っている。彼はサンクト・ペテルスブルグでいくつか演奏会を開いて非常な人気を得たそうだから、並外れて上手に弾く事だろう。君はきっと奇妙に思うだろう、サンクト・ぺテルスブルグから来た、ドイツ名を持ったフランス人を。」 |
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ほぼ同じだが、「サンクト・ペテルスブルグ」はこちらでは単に「ペテルスブルグ」。 ※
また、「ダンスト」は「もう一人のフィールドとみなされている」とある。 ※
また、「彼はソリヴァを訪ねて、僕の所も訪ねると言っていたそうだが、まだ会っていない」とも書かれている。 |
次の箇所は、カラソフスキー版にはない。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#12. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「ちょうど今、コツィオ(※コンスタンチン、つまり、ロシア皇帝ニコライ二世の兄でポーランド総督)がヴァレリー・スカルジンスキと一緒に到着していて、それと、愛婿(※フランス語)も彼らと一緒に旅している。自家用四輪馬車の車輪が滑って行き、遠方からの燃えるような色の淑女達の帽子;美しい時間だ。ほら、ツェリンスキが来たよ、彼は僕に散歩を促すんだ;彼は善人で、僕の健康に気を配ってくれている。僕は彼と出掛けるつもりだ;おそらく、僕に君を思い出させる誰かに会うかもしれない;君は僕が愛する唯一の人だよ。 F.ショパン 僕の両親と姉妹達が、君に最高の挨拶を贈るよ;それとジヴニー氏も;さもないと僕は彼に怒られる。」 |
この削除も、いかにも国粋主義者のカラソフスキーらしい。
この頃のショパンは、支配国であるロシアやロシア人に対して、特に悪感情を抱いているような様子は見られない。カラソフスキーはそれが気に入らないから、そう言った箇所はことごとく削除している。
それはそうと、
「君は僕が愛する唯一の人」
こんな台詞を書いておきながら、それなら例の「理想の人」とやらは一体何なんだ?そっちはあれから一体どこへ行ったんだ?と思わずツッコミを入れたくなるだろう。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#13. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
「アントニ・オルウォフスキ[*アントニ・オルウォフスキはショパンの学友で、才能のある音楽家である。後年ルーアンのバンドマスターになった。1811年にワルシャワに生れ、1861年に亡くなった]が僕のテーマによるマズルカとギャロップとを作っているという悲しむべきニュースを加えなければならない;でも僕は彼に、それ等を印刷しないよう頼んでおいた。」 |
「追記(※フランス語)、ここにいくつかコミック・ニュースがある;オルウォフスキが僕のテーマによるマズルカとギャロップとを作っている;でも僕は彼に、それ等を印刷しないよう頼んでおいた。」 |
前回の「第7便」にも、
「オルウォフスキは僕の協奏曲のテーマに基づいてマズルカとワルツをいくつか書いた。」
と書かれていたが、単にそれだけで特に批判めいた事までは書かれていなかった。
カラソフスキー版は、署名も省かれてここで終わっているが、オピエンスキー版にはまだ続きがある。
ショパンからヴォイチェホフスキへ 第8便#14. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
オピエンスキー・ポーランド語版 |
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「《オリイ伯爵》は素晴らしいよ、特にオーケストレーションとコーラスがね。第1幕のフィナーレが美しい。」 |
[2011年12月29日初稿 トモロー]
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