検証3:ショパン唯一の文学作品 『シャファルニャ通信』――
Inspection III: KURYER SZAFARSKI by Chopin -
7.『シャファルニャ通信』 1824年9月3日、金曜日号――
7. KURYER SZAFARSKI, 3 September 1824.-
≪♪BGM付き作品解説 ショパン:マズルカ 第7番 ヘ短調 作品7-3≫
この号は、現在知られている『シャファルニャ通信』の中で最も日付の新しいものであり、唯一原物が現存しており、クリスティナ・コビランスカ編『祖国におけるショパン』で写真確認する事が出来る。
ワルシャワの家族へ■ (※原文はポーランド語) |
|
1824年9月3日、火曜日 シャファルニャ通信 国民の備忘録:1740年、ローラン・シャファルニャクによって、シャファルニャが創設されました。 |
|
国内通信欄 本年の同月1日:ピション氏が《小さなユダヤ人》を弾いていると、ジェヴァノフスキ氏がユダヤ人の農夫を呼び止め、この名人のお手並みはいかがなものかねと尋ねた。モシェクはどれどれと窓に近付いて、崇高なる鷲鼻を突っ込みながら拝聴し、『もしもピション殿がユダヤ人の結婚式で演奏したいなら、毎回少なくとも30フランは稼げるであろう』と結論付けた。この証言はピション氏の励みとなり、この種の音楽を可能な限り研究し、将来はこの儲かるハーモニーに献身しようかとも思うが、それはいかがなものか。 ※
この《小さなユダヤ人》については本文で述べる。 本年の同月2日:同家に連れて来られていた猫が逃亡。その世話に当たっていた婦人が追跡を開始し、彼女が正に捕まえんとした瞬間、猫はフェンスに飛び乗り、我が身の安全を確信。それゆえ婦人は、絶対に捕まえてやるとばかりにフェンスをまたごうと試みるも、つまずいた拍子にバランスを崩し、そのまま地面に転げ、しばし動けず。 本年の同月3日:リュック氏(農夫の召使)、梨の木に登り、木の下で熱心に梨の実を待ち受ける御婦人方のために、実を落とすべく枝を揺する。リュック氏、何度も木を揺するも、梨は一つとして木から離れる事を拒否、そしてついに光明が見えたかに思われた時、(注:アクシデントにより)、落ちて来たのは梨ではなく、彼であった。 ※
ここは記事の日付が発行日と同じになってしまっているが、誤植ではない。 本年の同月2日:ブリジット嬢(料理番)、目一杯力を込めてパン粉をこねていたところ、その極端なまでの器用さにより、生地が全部こね鉢の外へ投げ出される。 本年の同月1日:黒人、彼の主人と畑に出かけ、ヤマウズラを捕殺、(注:銃も火薬も使わず)。 牝牛、疑う余地もなく快方に向かう。既に面会も受け付けており、近く自ら返礼訪問も可能とのこと。 |
外国通信欄 本年の同月1日:トビがボヘニエツの森で、ヤマウズラを1羽食す。 ※
この「トビ(=milan)」も「8月27日」号と同様、ポーランド語原文では「Kania」となっており、足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)では、これも「カーニャ嬢ちゃま」と訳され、「猫か? 8月27日号にも出ている」と注釈されている。ただ、その「カーニャ嬢ちゃま」は、「8月27日」号では「ソコウォーヴォ」在住で、「七面鳥」との「決闘」の末「右目」を失っているはずなのだが…? 本年の同月5日:ヤン・レヴァンドフスキ氏(騎士見習い)とカテリーナ・チツェフスカ嬢(ボヘニエツ領主令嬢)の婚礼が執り行われます。フィアンセは披露宴の招待状を送り、チツェフスカ夫人は準備に大わらわ。ピション氏も招待客の一人であり、言葉に尽くせぬ喜びとのこと。当通信の編集者も同様であり、したがって、特に印象に残った場面は漏らす事なく、婚礼での最重要イベントを次号にて報告する予定。 ※
このように、今後の予定が書き込まれるのは初めてである。 本年の同月2日:ボヘニエツにおいて、道端に落ちていた一切れの肉片をめぐり、猫と子犬の間で激しい喧嘩が発生。両者危険も顧みず、果敢に取っ組み合う。肉の匂いが両者の闘志を奮い立たせております、あと食欲も。猫が鋭い爪で子犬の目を引っ掻き、子犬は既に重症で戦い疲れた模様、猫が更に2度追撃し、その後ついに子犬を絞め殺す。そして、誰もが哀れな子犬を不憫に思う中、自らもひどい傷を負った勝者は、誇らしげに肉片をくわえ去るも、まもなく気を失い、倒れ、ひっくり返り、そして…事切れた。 ☞ 31日(8月)、レトヴィニィにおいて、オオカミの群れが羊を12匹食べた。山賊の頭首を捕らえた者は、レトヴィニィ地区の知事に引き渡すように、報酬として前述の羊の半数を与えるとのこと。 送信を許可する。 検閲官、L.D. |
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE
DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue Musicale)より
※ このシドウ版では発行日が「火曜日」になっているが、これも誤植。クリスティナ・コビランスカ編『祖国におけるショパン』に掲載されている原物では、「金曜日」が正しい事が確認できる(※下図参照)。
1824年 8月 |
||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 前号 |
9/1 |
9/2 |
9/3 今号 |
9/4 |
※ ちなみに、このシドウ版の英訳選集であるアーサー・ヘドレイ編『ショパンの手紙(Selected Correspondence of Fryderyk Chopin)』(McGRAW-HILL.1963)でも、その誤植のまま「火曜日(=Tuesday)」と英訳されてしまっている。これによって、ヘドレイは、シドウ版をそのまま英訳しただけで、現実のカレンダーと照らし合わせればすぐ間違いと気付くようなデータの矛盾すら気にも留めず、原資料に当たって確認も取っていない事が分かる。このような安易な編集態度だから、彼は「フィルチ書簡」のような贋作にまんまと騙されてしまうのだ。ヘドレイは、内容の過激さゆえ激しい論争の巻き起こった「ポトツカ贋作書簡」には騙されなかったが、逆に、内容がありきたりゆえ論争の種にもならなかった「フィルチ贋作書簡」の方にはあっさり騙され、自分の判断で英訳選集版に追加掲載してしまったのである。
※ そして、更にこれを和訳したアーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、どう言う訳かこれが「木曜日」になってしまっている。まさか誤訳ではないだろうから誤植なのだろうが、しかしいずれも誤りである。
※ ちなみに、本稿でも度々紹介している「Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina」と言うサイトにも、今号の『シャファルニャ通信』のポーランド語版原文が紹介されているのだが、そこでは、発行日の日付が「9月3日」ではなく「8月3日」になってしまっており、通し番号では最終号扱いなのに、目次上では『シャファルニャ通信』の第1号としてトップに据えられてしまっている。
今号は、今までの『シャファルニャ通信』にはなかった興味深い点がいくつか見られる。
1. 発行日と最新ニュースの日付が一致してしまっている点。
※
今号の発行日は「9月3日」で、文中の記事のもっとも新しい日付も「3日」である。これは原物がそうなっており、誤植ではない。発行日当日のニュースが新聞に掲載されるなどと言う事は、現代の夕刊や号外でもなければ、当時においては物理的にも不可能な事である。これまでの『シャファルニャ通信』は、どの号も、きちんと最新ニュースの翌日に発行されて来ていただけに、これは「編集者」のミスなのだろうか?
2. 次号予告が掲載されている点。
※
「本年の同月5日:ヤン・レヴァンドフスキ氏(騎士見習い)とカテリーナ・チツェフスカ嬢(ボヘニエツ領主令嬢)の婚礼が執り行われます。…(中略)…婚礼での最重要イベントを次号にて報告する予定」…とある。しかし、このようにせっかく「予告」されたにも関わらず、残念ながら、その記事が書かれた『シャファルニャ通信』は、現在のところ確認されていない。
3. そして何よりも、唯一、ショパン自筆の原物が残っている点。
これらは、単なる偶然に過ぎないのだろうか?
私には、今号に特有のこれらの点が、何かを示唆しているように思えてならない。
そこで、これらの点を根拠に、「もしかすると今号は、結果的に『シャファルニャ通信』の最終号となっていたのではないだろうか?」…と言う点について考えてみたい。
まず、ショパンのこの夏のスケジュールについてだが、先に紹介した「8月19日」付の「コルベルク書簡」には、「僕らは4週間後にはまた会えるんだね」と書かれていた。
つまりショパンは、9月の中旬あたりには、シャファルニャからワルシャワへ帰る予定だった事が分かる(※下図参照)。
1824年 8月 |
|
1824年 9月 |
||||||||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
|
|
|
1 2週後 |
2 |
3 今号 |
4 |
|
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
5 婚礼 |
6 |
7 |
8 3週後 |
9 |
10 |
11 |
|
15 |
16 |
17 |
18 |
19 コルベ |
20 |
21 |
12 |
13 |
14 |
15 4週後 |
16 |
17 |
18 |
|
22 |
23 |
24 |
25 |
26 1週後 |
27 |
28 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
|
29 |
30 |
31 |
|
|
|
|
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
|
|
そうすると、今号を発行したあと、ショパンがワルシャワに帰るまでに、まだ2週間弱ほどあり、それだけあれば、「婚礼での最重要イベントを次号にて報告する予定」と書いていたその「次号」を発行する機会は、いくらでもあったのではないか?とも思われる。
しかしながら、現在我々は、その「次号」の存在を確認できていないでいる。
となると、考えられる可能性としては、
1. その「次号」は、実際書かれていたにも関わらず、後世に残る事なく紛失してしまったのだろうか?
2. それとも、最初から書かれずじまいに終わっていたのだろうか?
私の考えでは、おそらく、「結局書かれずじまいに終わったのではないか?」…と思うのである。
と言うのも、そもそも、『シャファルニャ通信』の中で唯一、今回の「9月3日」号だけ原物が残っているのは何故なのか?…と言う点が気になる。
原物が残っていると言う事は、すなわち、この号だけは、ショパン家で保管されていなかった事を意味しているからだ。もしもショパン家で保管されていたのなら、それは他の『シャファルニャ通信』同様、戦火に紛れて消失し、「複製」しか残っていないはずだからである。
ショパン家になかったのだとすると、一体何処に保管されていたのか?
まず考えられるのは、この号は、何らかの理由でワルシャワへは送られず、そのままシャファルニャのジェヴァノフスキ邸に置きっ放しになっていた…と言う可能性である。
この仮説が都合いいのは、
1. もしそうなら、そこを経由して人手に渡ったお陰で、この号だけ戦火に消えるのを免れ得た…と言う経緯の説明もつくし、
2. この号が『シャファルニャ通信』の最終号だったからこそ、ショパンの帰宅準備に紛れてワルシャワへ送り忘れたのだ…と言う可能性も示唆され得る事になる。
それに、仮に今号が最終号だったと仮定すると、発行日と最新ニュースの日付が重なった事の説明も容易につく。
つまり、おそらく「ピション氏」は、この号を書き上げた「3日」の午後に、何らかの理由で急遽シャファルニャを発つ事となり、その結果、本来であれば翌日の4日に書き込む予定だった「発行日の日付」と、何よりも忘れてはならない「検閲官の署名」が得られない事になってしまった…それでやむなく前倒しで「3日」の発行を余儀なくされた…と言う事なのではないだろうか?
おそらくショパンは、「5日」の「披露宴」に招待されただけでなく、その他にも色々と招待されたために、それら各地を転々としながら、そのままワルシャワへの帰路に着く事になったのではないだろうか?
実は、この翌年の「1825年8月26日」にショパンがシャファルニャからワルシャワの家族に書いた手紙には、ここシャファルニャと言う田舎の村では、「郵便馬車」が「水曜」にしか来ない事が書かれている。つまり、この「9月3日」号は、たとえ書き上げたのが「金曜日」だとしても、どっちみち来週の「水曜」にならなければ郵便馬車が回収に来ないと言う事なのである。ショパンがその間ジェヴァノフスキ家にいなかったとすれば、その号は当然、当家に預けられたままになっていたと言う事であるから、そのままワルシャワへ送られる事なく忘れられていたのだとしても、少しも不思議ではないのではないだろうか?
次は、《小さなユダヤ人》について考えてみたい。
もう既に何度も触れてきたが、この号の最初の記事に出て来る《小さなユダヤ人》とは、のちに出版される事になる《マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4》の初稿とされている。
そしてこれに関しては、前出の、[部分]でのみ知られている「8月19日」号において、その典拠であるカラソフスキーの著書で「歌曲」と書かれていたのを、後世の人間が《小さなユダヤ人》に書き換え、あたかもショパンがカルクブレンナーより人気があったかのように、その文章を改ざんしてしまった…と言う事についても説明した。
さて、それでは、その問題の《小さなユダヤ人》とは、本当に《マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4》の事なのだろうか?
まず、《マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4》を聴いていただきたい。
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4 by Tomoro
[VOON]
Chopin:Mazurka 13 Op.17-4 /Tomoro
この作品は、聴いてお分かりのように、調整も短調で暗く、速度もレント(=緩やかに遅く)で、序奏もピアニッシモ(=きわめて弱く)で演奏するよう指示されている、非常に哀愁漂う曲調の作品である。
では、あなたが仮にこの「ユダヤ人の農夫」だったとしたら、この曲をショパンが弾いているのを聴かされて、『もしもピション殿がユダヤ人の結婚式で演奏したいなら』云々などと言うだろうか? つまり、このような曲を聴いて、「結婚式で」と言う発想につながるだろうか?と言う事なのである。冠婚葬祭で言うなら、この曲はむしろ「結婚式」と言うより「葬式」の方が相応しいような感じの曲調だろう。
一方のショパンも、それに対して、「ユダヤ人の結婚式」で金儲けをするために、「この種の音楽を可能な限り研究」しようかと冗談交じりに書いているのだから、この《小さなユダヤ人》が《マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4》のようなタイプの曲であるはずがなく、もっと「結婚式」で演奏するに相応しいタイプの曲であるはずなのだ。
だとすれば、これと同じ時期に書かれたとされているもう一曲のマズルカ、つまり《マズルカ 第8番 変イ長調 作品7-4》の方が、曲調も華やかで、はるかにそれに相応しいと言えるのではないだろうか?
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第8番 変イ長調 作品7-4 by Tomoro
[VOON] Chopin:Mazurka 8 Op.7-4
/Tomoro
しかしながら、この曲よりももっと「結婚式」で演奏するに相応しいのは、推定作曲年代こそ数年後になるのかもしれないが、《マズルカ 第3番 ホ長調 作品6-3》なのではないだろうか?
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第3番 ホ長調 作品6-3 by Tomoro
[VOON]
Chopin:Mazurka 3 Op.6-3 /Tomoro
※
この曲は、全音楽譜出版社の『全音ピアノ・ライブラリー ショパン マズルカ集』でも、「野趣を帯びた曲で、田舎の結婚式を想わせている」と解説されている。
【備考】
ちなみに、ポーランド人著者の本を直接和訳した、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)と言う本には、『シャファルニャ通信』について以下の話が紹介されている。
「この検閲官、時に文中の表現が上品でなかったことが気になったと見えて、その不適切を指摘することもあったが、そんなとき、フレデリックはこんな二行詩を書き添えて再提出に及んだ
―― お願いです検閲官殿、縛らないで私の舌を 」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
しかし、シドウの仏訳版書簡集に掲載されている『シャファルニャ通信』の中にこのような「二行詩」は見られず、また、『シャファルニャ通信』のポーランド語原文からの「完訳」を謳っている足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)にも、このような「二行詩」は載っていなかった。
一体どこからこのような話が出て来たのか? もしもこれが本当なら、今まで知られていなかった「7冊」目の『シャファルニャ通信』が存在している事になるはずだが、この本はそのような「新発見」を謳ってもいないし、また、この「二行詩」の典拠も記されていない。
要するに、ショパン関連の著書のいい加減さとは、いつもこのような感じなのである。
したがって、私が贋作と疑っている「ドングリ・コーヒー」の記事や「収穫祭」の記事も、おそらくこんな具合にして、いつの間にか何処からともなく現れ、そしてそれを事実確認しようともしない他の著者達に無責任に引用され続ける事によって、いつの間にか既成事実化してしまったとしか思えないのである。
[2010年8月27日初稿 トモロー]
―次回予告―
次回、ショパンとビアウォブウォツキの知られざる人間ドラマを徹底検証する、
検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡▼
をお楽しみに。
【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証3-6:『シャファルニャ通信』 1824年8月31日、火曜日号▲】 【筆者紹介へ▼】
Copyright © Tomoro. All Rights Reserved. |