検証3:ショパン唯一の文学作品 『シャファルニャ通信』――

Inspection III: KURYER SZAFARSKI by Chopin -

 


6.『シャファルニャ通信』 1824年8月31日、火曜日号――

  6. KURYER SZAFARSKI, 31 August 1824.-

 

≪♪BGM付き作品解説 ショパン:マズルカ 第6番 イ短調 作品7-2≫ 

 

この号も原物は残っていないが、完品の複製が現存しており、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で写真確認する事ができる。

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ■

(※原文はポーランド語)

1824831日、火曜日    シャファルニャ通信      国民の備忘録:1802年、ジョセフィーヌ・ジャヴァノフスカ嬢の靴に、ネズミが穴をあけました。

国内通信

 

本年の同月28日:ピション氏、ちょうどトイレで用を足し終え、昼食を取りたい旨申し上げていた時、素足の御婦人が大きな悲鳴を上げて部屋に入ってくるのを目撃。何よりもまず、プチ・ピションは驚き、野次馬のように間抜け面したままでおりましたが、すぐに、凄まじい悲鳴と涙の訳を理解した。ミフフナ嬢からいつも《フィフトゥール》と呼ばれている大地主のシコロフスキ殿がコザチカ嬢と喧嘩し、長い口論と激しい弁明の末、頭に平手打ちを一発見舞い、彼女は当局に判断を仰ぐよう決定した模様。

        「プチ・ピション」とは「小さな(幼い)ピション」で、つまりこれも自分の事。ポーランド語原文ではPichonek(ピショネク)」となっており、シドウ版はこれを、「ミコワイエク(Mikołaiek)」「プチ・ニコラ」としたのと同じ要領で仏訳している。

本年の同月29日:大勢のユダヤ人をいっぱいに乗せて、二輪馬車が進んでいました。年老いた雌豚が1匹、大人が3人、子供が2人からなる、6人の典型的なユダヤ人のこの家族は、全員オランダのニシンのようにギュウギュウ詰め状態に。突然馬車が石につまずき、ユダヤ人達は次々と転げ落ち、もし砂地でなかったら大惨事に。最初に子供達が、彼等の小さな足がほとんど宙に浮いた状態で、各々好き勝手な姿勢で重なり合い、雌豚は大小様々なユダヤ人の重圧でうなり声を上げ、転倒したせいで彼等の縁なし帽がみんな台無しに。

本年の同月30日:牛小屋にて、農民の娘3名による乱闘事件が発生。このうち2名が結託し、残りの1名をバケツとたらいで攻撃。しかしその1名は孤立無援ながらもついにバケツとたらいを奪取(注:顔面上にて)、よって同盟軍への彼女の反撃もかなわず。

本年の同月30日:シャファルニャ在住のザキエルスカ夫人は、隣人と深刻ないざこざを起こし、相手に思い知らせてやる方法が見付からずやけになり、投身自殺を決行。非常に幸いな事に、シュレーデル夫人(庭師の細君にしてお年を召された一市民)が気付いて駆けつけた。その時ザキエルスカ夫人は、とりあえず池の中に首を突っ込んでおり、シュレーデル夫人は巧みに足を引っ張って救出に成功。

昨日、雌犬シュディナは、ジョセフィーヌ嬢に伴われて村を散歩中、ガチョウを見つけると、それを絞め殺して食べてしまいました。本年の同月30日、4羽のガチョウが列をなし、小麦畑を襲撃しました。現在のところ、彼等は一時的に泳がされていますが、どんな末路が待っているかは知る由もなしです。牝牛は日々良くなっています。医師団は全体会議を開き、危機は脱したとの結論に達しました。

外国通信欄

 

本年の同月29日:ピション氏、ニェシャヴァ村を通りかかった際、村のカタラーニが牧草地の柵に腰掛け、声を限りに歌っている所に行き合う。非常に興味をそそられ、礼節を持ってその歌声に耳を傾けるも、歌詞までは聞き取れず、いささか欲求不満に。柵の手前を行ったり来たりするも、田舎の人の歌う歌詞ゆえ、その意味まではつかみ切れず、そこで氏は、ポケットからコインを3枚取り出し、これをあげる代わりにもう一度歌ってくれまいかと歌い手と交渉。長い事そのカタラーニは、なんやかんやと唇を尖らせて拒み続けたが、やがてコイン3枚に釣られたか、意を決してマズルカを1曲歌ってくれた。編集者は当局と検閲官の許可の下、冒頭の一節をサンプルとしてここに掲載する:

 

『見てごらん、裏山で、オオカミ一匹踊ってる

裏山で、オオカミ一匹踊ってる

いえいえ、嫁さんいないとて、何でそんなに悲しがる(繰り返し)』

        この記事については、既に824日」号の検証項目で述べた通りである。

 

今月29日。ラドミンにおいて、猫が狂犬病のようになりました。幸い誰も噛まれた者はなく、猫は殺される瞬間まで猛り狂って畑を逃げ回っていましたが、処分されたのでもういません。

 デュルニクにおいて、オオカミが夕食のために羊を平らげました。悲しみにくれる他の雌羊達の保護者は、オオカミを連れて来た者には羊の尾と耳を与えるので、家族会議の場に出向くようにとのこと。

 

送信を許可する。

検閲官、L.D.

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

今号では、内容に関して本稿がコメントできる事は特にないので、ここでちょっと、『シャファルニャ通信』の発行されるインターバルについて考えてみたいと思う。つまり、ショパンはこの夏、家族宛にどれくらいのペースで手紙を書き送っていたのか?と言う事についてである。

 

それを、分かりやすく下図にまとめたので、まずはそちらを見ていただきたい。

 

1824年 8月

1

 

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家族書

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執筆日

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1号⇒

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発行日

17

 

18

 

ドングリ

19

コルベ

20

収穫祭

21

音楽会

発行日

22

23

24

発行日

25

 

26

 

27

 

発行日

28

今号⇒

前号⇒

29

30

31

発行日

9/1

 

9/2

 

9/3

 

発行日

9/4

次号⇒

 

1.  『家族書簡 810日』 

4日間

まず、この夏の第一便と考えられる810日火曜日 ソコウォーヴォ」からの「家族書簡」だが、その文中では、「土曜日には、多くの人々がシャファルニャに来ました」と言うのが最も古い記事であり、そこから執筆日まで、4日間に渡る内容が記されている。

2.  『シャファルニャ通信 816日』(完品)

6日間

次は、「完品の複製」が現存する『シャファルニャ通信』の最初のもの。最初の記事から発行日まで6日間に渡っている。

3.  『シャファルニャ通信 819日』(部分)

5日間?

次は、[部分]でのみ知られている号の1冊目だが、このうち、最初の「音楽会」の記事は典拠がはっきりしているものの、「ドングリ・コーヒー」の記事の方は典拠不明なので、号自体はグレー・ゾーンとした。一応5日間?に渡っている。

4.  『シャファルニャ通信 824日』(部分)

5日間?

次も、[部分]でのみ知られている号の2冊目。こちらは記事が一つしかない上、丸っきり典拠不明なので、濃いグレー・ゾーンとした。これも一応5日間?に渡っている。

5.  『シャファルニャ通信 827日』(完品)

4日間

次は、「完品の複製」が現存する『シャファルニャ通信』2冊目のもの。最初の記事から発行日まで4日間に渡っている。

6.  『シャファルニャ通信 831日』(完品)     

4日間

次も、「完品の複製」が現存する『シャファルニャ通信』3冊目のもの。最初の記事から発行日まで4日間に渡っている。

7.  『シャファルニャ通信 93日』(完品)

4日間

次は、「完品の原物」が現存する『シャファルニャ通信』の唯一のもの。最初の記事から発行日まで4日間に渡っている。これは、現在知られている『シャファルニャ通信』の最新号でもある。

最後の3冊は、規則正しいインターバルで、その執筆期間も狭まっている。

 

これを見ると、『シャファルニャ通信』に関しては、あとになるほどそのインターバルが狭まっている事が分かる。

最後の方は火、金、火、金と、規則正しく書かれているように見えるが、おそらくそれは単なる偶然だろう。何故なら、完品の『シャファルニャ通信』はどれも一枚の紙に見開き2ページのみで構成されており、必然的にその紙面と字数に制限がある。そのため、紙面がネタで埋まり次第、その号は編集完了となるからだ。逆に、最初に締切日を設定してしまっていたら、面白いネタが揃わなければその号は休刊しなければならなくなるし、それを避けようとして無理やり詰め込めば、書く事自体が事務的になって辛くなってしまうだろう。

おそらく、最初の方は自分一人でネタ集めをしていたのが、そのうちショパンの『シャファルニャ通信』がみんなの知れるところになり、ネタの提供者が次々と現れたお陰で、その編集ペースも徐々に上がっていったのではないだろうか? その根拠として、たとえば前号には、「この事件は反響が大きく、すぐに編集者にも伝えられ」云々と書かれていた事から、周りの人々が『シャファルニャ通信』の編集に一役買ってくれていたらしい様子もうかがえるからだ。

 

さて、ショパンの書簡資料の最初の編集者であるカラソフスキーによれば、『シャファルニャ通信』の定義とは以下のようなものだった。

 

日曜にはきまってする文通の代りに、当時ワルソウで発行していた新聞「ワルソウ新聞」を型どって、「クルエル・シァファルスキー」という表題で、小さい週間新聞を発行しようと思いついた。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

既に述べたように、カラソフスキーの著書には、この夏に書かれた最初の「家族書簡」は掲載されておらず、また読んでもいないため、その手紙からもたらされる様々な情報について、彼は全く知識を持っていなかった。したがって、ここに書いてある「日曜にはきまってする文通」と言うのは事実とは違っており、実際その「家族書簡」は「火曜」に書かれていた。

 

また、カラソフスキーは続けてこうも書いていた。

 

「家族の者が蒐集したフレデリックの記念物の中に、一八二四年の分が二冊ある。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

カラソフスキーがイザベラから見せてもらった「二冊」のうち、一冊は現在819日」号の[部分]として知られている訳だが、ここで問題にしたいのは、カラソフスキーがそれら「二冊」『シャファルニャ通信』を見た結果、『シャファルニャ通信』をどう定義したかだ。彼は、それは「日曜にはきまってする文通の代わり」で、しかも「週間新聞」であると書いている。

ところが、実際にこの二つの条件を満たす号は、現在我々が『シャファルニャ通信』の第1号と認識している816日」号だけなのである。この号だけ、記事を書き上げた日付が15日」「日曜」で、その内容も、最初の記事から発行日までが6日間に渡っており、一応「週間新聞」の体裁を保っている。しかしこれ以降は、記事を書き上げた日付も「日曜」にはなっておらず、ほとんど「1週間に2紙」の割合で発行されており、とても「週間新聞」とは言えないものばかりなのである。

        ちなみに、実際の『ワルシャワ通信』「週間新聞」ではなく、「日刊紙」である。クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、『ワルシャワ通信』の原物の切り抜きが全部で28紙分も資料として写真掲載されており、それら全ての発行日の曜日を見ると、月曜から日曜まで全て満遍なくあり、したがってこれが「日刊紙」である事が分かる。

と言う事は必然的に、「完品」の形で知られている最後の3紙は、カラソフスキーがイザベラから見せてもらった「二冊」の中には含まれていなかったはずである。

 

そうすると、ここからはあくまでも私の憶測だが、カラソフスキーがイザベラから見せてもらった「二冊」とは、実際は下図のようなものだった可能性も考えられるのではないだろうか?

1824年 8月

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一冊目

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執筆日

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発行日

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二冊目

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執筆日

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発行日

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30

 

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9/1

 

 

9/2

 

 

9/3

 

 

9/4

 

 

1.       「一冊目」はそのまま816日」号で、

2.       「二冊目」は、カラソフスキーが自著に「音楽会」の記事を抜粋した号である。

 

要するに、現在[部分]として知られている819日」号も824日」号も最初から存在してなどおらず、それに相当する号は実際は1つの号で、それは「22日」の「日曜」に書き上げて翌「23日」に発行された、すなわち「週間新聞」823日」号だったのではないだろうか? そしてその号には、もちろん「ドングリ・コーヒー」の記事も「収穫祭」の記事も、どちらも載ってなどいないのだ。

前にも書いた通り、カラソフスキーは、自著で抜粋紹介した「音楽会」の記事を「第一号」とみなしていたが、おそらくそれは、記憶違いか書き間違いで「七月十五日」としていた可能性があるので、実際はその順番も逆だったのでは?と言う可能性も考えられなくないのではないだろうか?

 

 [2010年8月26日初稿 トモロー]


 【頁頭】 

検証3-7:『シャファルニャ通信』 1824年9月3日、金曜日号

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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