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検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――

Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–

 


1.第1便、この友情が特別だった理由――

  1. Why was the friendship of Chopin and Białobłocki special?-

≪♪BGM付き作品解説 ショパン マズルカ 第9番 ハ長調 作品7-5 by Tomoro▼≫

 

ヤン・ビアウォブウォツキは、ショパンの少年期における最大の親友である。

        ヤン・ネポムツェン・ビアウォブウォツキJan Nepomucen Białobłocki 1806年頃−1828331日)は、著書によっては、「ビアウォブウォツキー」「ビアウォブウォーツキ」「ビアオブロツキー」「ビアロブローツキ」等と表記される事もある。

それにも関わらず、我々は、その彼について一体どれほどの事を知っているだろうか? いや、それはつまり言い方を変えると、過去に出版された数多のショパン伝において、ビアウォブウォツキについて一体どれだけの事が語られてきただろうか?と言う事になる。

要するに、ほとんど全くと言っていいほど語られていないのである。

稀に彼について言及される事があったとしても、それはせいぜい以下のような事ぐらいなのだ。

 

「ショパンとヤン(他にヤシ、ヤーシア、ヤーシオ等の愛称でも呼ばれる)・ビアウォブウォツキの親交は、主に、ショパンが18241827に渡って彼に書いた13通の手紙を通して知られている。手紙は旧ワルシャワ市内の古記録文庫館で発見され、1926年に出版された。しかし、19441945年の冬に、ヒトラーの軍隊がポーランドの首都から撤退した際、彼らによってそれらはワルシャワの一部と共に消失した。これらの手紙を基に、一部の伝記作家によって、ヤンはショパンの最初の親友と考えられた。その一方で、ティトゥス・ヴォイチェホフスキとの初期の友情も、たとえ彼ほどではなかったとしても、同様に親密だった事であろう。しかしながら、ショパンとティトゥスとの既知の手紙は18289月以降に始まっているので、それ以前の事は我々には決して分からないだろう。ヤン・ビアウォブウォツキは、シャファルニャの近くにあるソコウォーヴォの領主、アントニ・ヴィブラニェツキの継子で、7歳の時にショパン家の寄宿生となり、1815年にワルシャワ中等学校に入学した。残念な事に、彼の容姿については肖像画もスケッチも残されていないので分からないが、ユゼフォーヴァ(ショパン家の中年の料理番)の証言を信じるなら、彼は明らかにかなりのハンサムだった。この事は、1828314日付のショパンのヤン宛の手紙に書かれている。」

ピエール・アズリイ著

『同時代の人々を通してのショパン―友人、恋人、そしてライバル達』(Greenwood Press/1999)より

 

 

        ここには、18241827年に渡って」とあるが、この1824〜」と言う推定年は誤りである。正しくは「1825年〜」であり、それに関しては後で詳しく説明しよう

 

現在、この「ビアウォブウォツキ書簡」の原物に関しては、その一部が写真コピー等で確認出来るのみであるが、内容そのものは全て完全に保存されており、その詳しい経緯については以下の通りである。

 

「フレデリック・ショパンがヤシ・ビアウォブウォツキーに書いた手紙は数奇の運命を持っていた。これらの手紙は、まず父(※ビアウォブウォツキの継父を指すものと思われる)の家でロシア官憲に差し押えられた。後に、差出人がもう長い間墓に眠っていた。そんなころになって、ソヴェト政府との条約に基づいて他の文書とともに返された一山の古文書の中から、偶然にも発見されたのであった。同じその古文書の中から、父ニコラスが、自分の生まれ故郷がマレンヴィーユ(※マランヴィル)であることを初めて、そしてただ一回だけ言った手紙(※正しくは、ニコラが年金需給の際に提出した書類)が発見された。スタニスワフ・ペレシフィエート=ゾウタンは、それらの手紙を標準版で公刊した(一九二七年ポーランド版(※正しくは1926年)、一九二八年ドイツ版)。こうしてこれらの手紙は無数の紙の海の中から、過去の大洋の中から浮び上がって来たのであるが、それもただの幸運は十年間だけだった。一九四四年のワルシャワ暴動の時、古記録文庫館とともに焼けてしまったのである。上記標準版のおかげで手紙の内容は残ったのであるが、もしそれがなかったら、ショパンの少年時代に関する私たちの知識ははるかに不完全なものだったであろう。この標準版にはわが作曲家の生涯の中の、あの若いころを特色付けているかずかずの輝かしい喜びが保存されているのである。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社/1968年)より

 

 

        私の知る限りでは、このイワシュキェフィッチの著書は、先の著書に次いで最もビアウォブウォツキについて多く言及され、考察されているのだが、そこでさえ、全13通の「ビアウォブウォツキ書簡」からの引用は、ほんの断片的にしかなされていない。

        この本の原著であるポーランド語版は1938年出版で、これは「ビアウォブウォツキ書簡」の発見から約10年後になる訳だが、当時すでに、「ヤネーク・ビアウォブウォツキーは一八〇五年生まれである」(※同書より)と言う事が判明しており、また、「ビアウォブウォツキーについてはほとんど知られていない」(※同書より)としながらも、「ショパンは現存する最初の彼宛の手紙で足の病気のことを尋ねている。たぶんそれは、二年後にヤシの生命を奪った骨結核であったのだろう」(※同書より)と言う事も分かっていた。つまりイワシュキェフィッチは、他の著者達とは違い、「ビアウォブウォツキ書簡」の第1便を「1825年〜」と正しく認識していた事が分かる。ただし、その根拠については触れられていない

 

このように、手紙の発見された経緯がはっきりしていると、その真偽の判断も容易に片が付くのでいい。

「ビアウォブウォツキ書簡」の典拠は公の機関を介しているので、贋作や改ざんの入り込む余地などないのである

  

ポーランドのショパン研究家であるミスウァコフスキらの調査報告でも、ビアウォブウォツキについては以下のようにしか書かれていない。

 

「ヤン・ネポムツェン・ビアウォブウォッツキは、1806年頃に、ヤンとカタジナ・ズビイェフスキとの嫡子として生まれた(今日までの研究文献に、ドブジン地方リピン郡ソコウォーヴォの生まれとなっているが、それは間違いである)。…(※このあと、両親と継父ヴィブラニェツキについて触れているが略)…

ヤン・ビアウォブウォッツキは最初自宅で学習していたが、1816年に、ワルシャワ高等学校の第一学年に入学した。ショパン家の寄宿学校の生徒として、ミコワイ・ショパンの指導の下に学んだ。1821221日、グニェズノにあったソコウォーヴォとドブジンを自分の父親に売却した。1823923日に、ヤンはワルシャワ大学の法律・行政学部に席を置く学生となった。ヤン・ビアウォブウォッツキはショパンの親友となり、多くの手紙を彼とやり取りした。1828331日に、家族の土地財産があるソコウォーヴォで亡くなったが、結婚していなかったので、子孫はいない。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ヤン・ビアウォブウォツキ」に関する200711月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

ビアウォブウォツキは、享年22歳の若さだったので、その経歴と言ってもこれ以上の事は望むべくもない訳だが、それにしても、少年期のショパンとの関わりの重要性を考える時、これではあまりにも寂しい扱いだと言わざるを得ない。

 

 

ビアウォブウォツキはショパンの少年期における最大の親友であるにも関わらず、これらの手紙が発見されるまでその名前すら知られていなかった。

手紙が発見される半世紀以上前、ショパンの書簡資料を最初に出版したのはカラソフスキーだったが、彼はショパンの妹のイザベラと直接面識があったにも関わらず、この親友についての情報を全く得る事ができなかった(※カラソフスキー自身は1882年没)、したがってカラソフスキーの著書にも、当然ビアウォブウォツキの名は出てこない

 

「ショパンは到る所で歓迎された。貴族の客間でも、音楽院や高等学校の仲間にも手厚い歓迎を受けた。高等学校では学校の名誉の人物と見做されていた。そうして一生続いた交友を幾人か得た。これらの友人の中で、我々は彼が作品二の「変奏曲」を捧げたチツス・ウォイシエヒョフスキイ(※ティトゥス・ヴォイチェホフスキ)、アレキサンデル・レムビエリンスキイ、ウィルヘルム・フォン・コルベルグ、ヨハン・マッシンスキイ(※ヤン・マトゥシンスキ)、今ポーゼンで科学協会の会頭をしているスタニスラス・コツミアン、ユスタヒウス・マリルスキイ、天才詩人だったドミニクス・マグシシェフスキイ及びステファン・ウィトウィキ、セリンスキイ、ウーベ及びユリウス・フォンタナ等を挙げて置く。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より

 

 

このようにカラソフスキーは、少年期のショパンの友人達の名を何人も列挙して見せているが、そこにビアウォブウォツキの名はないし、同様に、彼の継父に当るソコウォーヴォの領主アントニ・ヴィブラニェツキの名も出てこない。

そしてご覧の通り、カラソフスキーは、ショパンの友人として真っ先にティトゥス・ヴォイチェホフスキの名を挙げている。しかしそのヴォイチェホフスキなどは、本当の意味でショパンと親密になったのはビアウォブウォツキの死後であり、それまでは、彼らは一通も手紙のやり取りをしていないのだ。

たとえば、ヴォイチェホフスキの母方の実家であるポトゥジンは、ワルシャワから南東へ遠く離れたポーランドの最果てにあり、つまりウクライナとの国境沿いに位置する。ワルシャワからシャファルニャへ行くのとはちょうど逆方向になり、しかもシャファルニャよりも遠い。つまり、仮にヴォイチェホフスキが夏休み中にポトゥジンに帰ってしまっていたとしたら、彼にはショパンと手紙のやり取りをしていてもいいはずの条件が一番揃っている…と言う事だ。しかし実際には、「ショパンとティトゥスとの既知の手紙は18289月以降に始まって」おり、それ以前には、彼らは一通たりとも手紙のやり取りはしていないのである。

何故なら、当時の彼らには、手紙をやり取りしなければならない理由など、何一つとしてなかったからだ。

1.         仮にショパンがヴォイチェホフスキに何か伝言せねばならない時は、ショパンが1823年に初めて手紙を書いた時のように、それはマリルスキ経由の伝言で済まされていたはずである。

2.         そして、ショパンがビアウォブウォツキと文通していた間は、ショパンにとってはビアウォブウォツキとの友情が全てだったから、そこにヴォイチェホフスキの入り込む余地などなかった。

3.         それに何よりも、「ショパンとティトゥスとの既知の手紙は18289月以降に始まっている」のだが、その年は夏休みと冬休みの2通だけなので、実際に彼らの間で本格的な文通が始まるのは一年後の18299月以降なのだ。そもそもその理由と言うのが、その年ワルシャワ大学を卒業したヴォイチェホフスキが、ポトゥジンの実家を継ぐ事になったため当地へ引っ込んでしまったからなのだ。

 

このように、元来が筆不精であるショパンが手紙を書くからには、必ずそれなりの理由や舞台背景があり、「ヴォイチェホフスキ書簡」とてその例外ではない。

その意味では、少年期のショパンにとって、ヴォイチェホフスキの存在はまだまだコルベルクやマトゥシンスキにすら及ばないものだったのである。これから紹介していく一連の「ビアウォブウォツキ書簡」を読んでいただければ、私の言わんとする意味をよく理解していただけるものと思う。

 

 

それでは、その「ビアウォブウォツキ書簡」は、一体どのような経緯で書かれるようになったのだろうか?

もちろん、それにもきちんと理由や舞台背景があり、それは、次に紹介する「ビアウォブウォツキ書簡」の第1便にはっきりと記されている。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第1便)■

(※原文はポーランド語で、部分的にラテン語とポーランド語表記のフランス語が混在)

[ワルシャワ]182578日金曜日。

親愛なるヤーシア!

君に手紙を書くという、そのような素晴らしい機会があるなんて幸運だ。僕達は皆まずまず元気だと君に報告しなければならない。第二に、僕達には試験が近付いている、ちょうど僕の鼻の下まで近付いている(ポーランドでは昔から「ベルトの中まで」と云われているが、しかし僕が君に「鼻の下まで」と言うのには素晴らしい理由がある。なんたって僕はベルトを着けてなくて、あるのは大きい鼻だけなんだからね)(※ショパンお得意の「鼻ネタ」)。僕が君へ多くを書くと期待してはいけないよ。僕は非常に忙しいのだ。それに、今晩コンスタンチア嬢[コンスタンチア・ビアウォブウォツカ]からの短信を持ってきてくれた紳士が、明日には帰ってしまうんだ。

        シドウ版の註釈では、[コンスタンチア][コンスタンス]とフランス名で表記され、[ヤン・ビアウォブウォツキの姉。]とある。実は、このコンスタンチアはショパンの姉ルドヴィカと仲が良く、2人は文通していた事がこれ以降の「ビアウォブウォツキ書簡」数通によって判明する。だからショパンは、この手紙は正規の郵便では送らず、「明日には帰ってしまう」と言うその「紳士」に頼んで手渡してもらうため、なおさら手短に書き上げてしまわねばならなかったのである。

        余談だが、コンスタンチアはシドウ版で[姉(soeur aînée)]と註釈されていたのに、それを英訳編集したヘドレイは、単にこれを[姉妹(sister)]としており、そのせいか知らないが、その英訳版を更に日本語に重訳した邦訳版では、コンスタンチアは[ビアウォブウォーツキの妹]になってしまっている。

クレスネルとビアンキ夫人が月曜日にコンサートを行う。劇場ではなく、ドイツ・ホテルのエラール・ホールで。それは、個人的な会費によるクロゴルスキ[地方の音楽家]流のコンサートなんだ。クレスネルは僕にチケットを12枚くれた、でも、僕は3枚売れただけだ、だって値段が6ズローチ1ズローチ=約11セント]もするんだもの。

        シドウ版の註釈には、[フルート奏者クレスネルとイタリア人歌手ビアンキ夫人はワルシャワに定住していた。ショパンは彼らのコンサートのうちの1つに参加した(今年1825年の610日)。]とある。また、[ユゼフ・クロゴルスキ(18151842)はポーランドのピアニスト兼作曲家で、ユゼフ・エルスネルの弟子。]とある。

君がここにいないのは残念だ。僕には、君の慈悲心と共に、噂話をし、冗談を言い、歌い、泣き、笑い、騒ぎ、その他諸々の、非常に楽しい時間が持てたはずだった。

        ビアウォブウォツキは足の病気(骨結核と云われている)にかかってしまったため、もう学校にも通えず、夏休みを待たずしてワルシャワを離れ、転地療養に行ってしまっていたのである。

次の手紙は郵便で、もっと多くの事を知らせるよ。その頃には僕らは会えるだろう、何故なら、試験が今月の26日にあると聞いているからね。

        その「試験」が終わって夏休みになれば、ショパンはまた今年もシャファルニャへ行く事になっているので、そうすれば去年と同じようにシャファルニャに近いソコウォーヴォにも行ける。だから「その頃には僕らは会えるだろう」と書いているのである。

僕は日が暮れてから書いている。明日、僕は早起きしなければならなくて、それなのに今夜は寝ずに起きてなきゃならなくて、そして寝ずに起きて、寝ずに起きて、まだ寝ずに起きて、そしてたぶん、一晩中でも寝ずに起きてなきゃならない。

友よ、健康で!(※この一文だけ、原文がラテン語で書かれている) ソハチェフからの、君からの手紙がまだ来ないという事を除けば、僕には君に話せる事は何もない。もしも君が手紙を書いてくれないなら、僕の次の手紙でひどい叱責が君を待ち受けていると思ってくれたまえ

僕はこれに、もう一つ付け加えなければならない、そうなのだ、君の足の具合が良くなったかどうか、そして、君が無事家に到着したかどうか僕に報せてくれるように

この手紙は、エンドウとキャベツが一緒くたに植えられている畑のようだ。論理がない、僕は論理が不足している事は分かっている。しかし人は出来る事をするものだ。きちんと書く時間がなければ、誰でも急いでこうなるものだよ(※この下線部だけ、原文がポーランド語表記のフランス語で書かれている。要するに、我々日本人が英語をカタカナ表記で書くようなものなのだそうだ。そんな訳だから許してくれたまえ。この次は郵便で、もっと長くてもっとマシな手紙を送るよ。今はただ、僕は心から君を抱きしめる。

F.F.ショパン。

ジヴニーとデケルト夫人は元気です。彼らは僕が君に手紙を書いている事を知らない。だからメッセージを送りません。僕の尊敬を君のパパへ。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より

 

        この手紙は、原物そのものは残っていないが、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、手紙の前半部分と後半部分の断片を、それぞれ「原物の写真コピー」で確認する事が出来る。

        この手紙は、オピエンスキーの英訳版でもシドウの仏訳版でも「ビアウォブウォツキ書簡」の第2便として紹介されているが、実際はこれが第1便である。逆にオピエンスキー版とシドウ版で第1便とされている手紙は、実際は第3便なのである。その手紙には日付がないため、オピエンスキー版では1824年、または1825年の夏の終わり]、シドウ版では1824年の夏の終わり]と推定されているのだが、他の「ビアウォブウォツキ書簡」とのつながりや、1825年の夏に書かれた「家族書簡」との関連から、その手紙が「1825年」に書かれた事は明白である(※1938年出版のイワシュキェフィッチもそう考えていたようだ)。しかしそれについては、第3便の項で詳しく述べよう。

 

この手紙は、去年の夏の『シャファルニャ通信』以来となる、つまり約一年ぶりにショパンがペンを取ったものとなっている。前にも述べたように、ショパンは、何か用事があったり、休暇や旅行その他の事情で家族や友人と離れ離れになったりしない限り、決して手紙を書かないからである。

今回ショパンがこの手紙を書いた動機は二つある。

 

1.         一つは、ビアウォブウォツキの姉「コンスタンチア嬢」がショパンの姉ルドヴィカに「短信」を寄こしてきて、そこにビアウォブウォツキからもショパンにメッセージが書き込まれていたため、ショパンがそれに対して「返事」を書いた事。

2.         もう一つは、ビアウォブウォツキが「足」の病気にかかり、夏休みを前にして田舎に引きこもってしまったため、ワルシャワではもう彼と会えなくなってしまった事。

 

まず、動機の一つ目については、ちょうど去年の夏に書かれた「コルベルク書簡」と同じである。

あの時も、コルベルクがシャファルニャ滞在中のショパンに手紙を寄こしてきたので、ショパンがそれに対して返事を書いたものだった。つまり、今回の「ビアウォブウォツキ書簡」も、あくまでも「返事」である事が前提であり、それを見落としてはならない。

それでは、ビアウォブウォツキがショパン宛に書いたメッセージとは、一体どのような内容だったのだろうか?

 

●ビアウォブウォツキが書いたメッセージの内容、その1

「ソハチェフからの、君からの手紙がまだ来ない」

 

これによって、ビアウォブウォツキが、「ソハチェフからフレデリック宛に手紙を送ったよ」と言うような事を書いていたのが分かる。しかしその手紙はまだショパンの許へは届いておらず、姉の手紙に書き込んだメッセージの方が一足先に届いていたのである。

 

●ビアウォブウォツキが書いたメッセージの内容、その2

「君の足の具合が良くなったかどうか、そして、君が無事家に到着したかどうか」

 

ビアウォブウォツキは、おそらく「ソハチェフ」で病気を治療していたのだろう。そしてその後、実家のあるソコウォ−ヴォへ帰るに当たって、その由をショパンに知らせようとして「ソハチェフから」手紙を出していたのである。だからショパンは、「足の具合が」悪いビアウォブウォツキが、「無事家に到着したかどうか」が気になるのだ。

 

 

さて、この手紙が「返事」として書かれた点については去年の「コルベルク書簡」と同じだが、両者を比較すると、その友情のニュアンスの違いがよく分かる。

コルベルク宛の手紙には、最後の方で次のように書かれていた。

 

「きっと僕は、もう君を退屈させてしまったようだ、でも僕に何ができる? もしそうでないなら、折り返し郵便で返事をくれたまえ。そしたら僕もまた手紙を続けよう」

 

一方、このビアウォブウォツキ宛には、同様の箇所で次のように書いている。

 

「もしも君が手紙を書いてくれないなら、僕の次の手紙でひどい叱責が君を待ち受けていると思ってくれたまえ」

 

つまりショパンは、コルベルクには、「君が返事をくれたら、僕もまた手紙を続けよう」と言う具合に、相手の出方次第で手紙を書くか書かないかを委ねているのに対して、ビアウォブウォツキには、「君が返事をくれなかったら、僕がまた手紙を書いて文句を言う」と言う具合に、相手への返事の要求の仕方が、もちろん冗談ではあるが半ば脅迫的ですらある。このように、コルベルクに対しては極めて消極的だった表現が、ビアウォブウォツキに対しては明らかに積極的なのである。

ここに、ショパンの、それぞれの友人に対する、その「友情のニュアンス」の違いが表れている。

 

ショパンは、翌18266月]の手紙の中で、ビアウォブウォツキとの関係について、11年間も続いている友情」と書いている。1826年の時点で11年間」と言う事は、ショパンがまだ56歳で、ビアウォブウォツキが910歳の頃から、この2人はすでに仲が良かったと言う事である。

しかしながら、ここへ来て、ショパンにとってビアウォブウォツキが取り分け特別な存在となったのには、おそらく、ビアウォブウォツキが足の病気にかかってしまった事も関係しているのではないかと思われる。と言うのも、他ならぬショパン自身が小さい頃から病弱であり、常に周りから心配される立場にあったため、誰よりも病人の気持ちがよく身に沁みて分かっていたからだ。逆にビアウォブウォツキの方も、いざ自分が病気になってみて、初めてショパンの心の奥底に触れた思いがしたのではないだろうか?

 

 

次は、動機の二番目についてだが、こちらに関しては、のちの「ヴォイチェホフスキ書簡」の第1便と似ている。

先述したように、「ショパンとティトゥスとの既知の手紙は18289月以降に始まっている」のだが、実際に彼らの間で本格的な文通が始まるのはその翌年の18299月以降からで、そもそもその理由と言うのが、その年ワルシャワ大学を卒業したヴォイチェホフスキが、ポトゥジンの実家を継ぐ事になったため、彼が当地へ引っ込んでしまったからなのだ。

つまり、ビアウォブウォツキの場合は病気が原因で、そしてヴォイチェホフスキの場合は遺産相続が原因で、それぞれがショパンと遠く離れ離れに暮らさなければならなくなり、その際いずれも、ワルシャワを離れて行った彼等からの手紙にショパンが返事を書いたのが、それぞれの文通のきっかけとなっている…お分かり頂けるだろうか?…このように、ショパンは彼ら唯一無二の親友と文通を始めるのでさえ、最初は相手の方からの手紙が先だったのである。ショパンは決して、用もないのに自ら進んで手紙を書くような筆まめではない。彼自身、書く事は苦手だと言うような事を幾度となくもらしているし、実際、本物のショパンの文章はあまり饒舌とは言い難い(ただし、ジョークの類は得意だが…)。そんなものを書く時間があったら、彼はピアノを弾いていた方が、あるいは楽譜にペンを走らせていた方がよっぽど自由に独白もできるのだから、筆不精なのも当たり前であり、まして日記や手記の類を書こうなどと思う訳がない。

 

「この手紙は、エンドウとキャベツが一緒くたに植えられている畑のようだ。論理がない、僕は論理が不足している事は分かっている。しかし人は出来る事をするものだ。きちんと書く時間がなければ、誰でも急いでこうなるものだよ。そんな訳だから許してくれたまえ」

 

ショパンはよく、このように自分の文章の拙さを弁解しつつ、相手に許しを請う癖がある。これ以降の手紙にも、この種の表現は生涯に渡ってひっきりなしに出て来る。

たとえば、彼が2年前に初めて書いた「マリルスキ書簡」にも、「誰にもこの手紙を見せないでくれよ。僕が政治について何も知らないから、書く事が出来ないのだと、誰もが言うだろうから」と書いていたが、これも同じような心理に起因している。つまり、平たく言えば、ある種の文章コンプレックスのようなものがショパンにはあるのである。彼は、『シャファルニャ通信』のようなユーモラスな創作物やジョークの類は天下一品なのだが、逆に、真面目な普通の文章は苦手なのである。だからこそ、晩年にピアノの教則本を書こうと思い付いても、構想段階で行き詰り、結局は途中であっさり投げ出してしまうのだ。

 

 

 

さて、ショパンとビアウォブウォツキの文通は、このような動機と舞台背景の下にやり取りされるようになったのである。

彼らは、それ以前はずっと同じワルシャワに住み、今までは夏休みの間ですら離れ離れになる事はなかった。なので、常に同じ場所で同じ空気を吸いながらその友情を育んできた。だからこそ、これ以前には、わざわざ手紙をやり取りしなければならないような理由もその機会もなかったのだ。今回の第1便における冒頭の文句、「君に手紙を書くという、そのような素晴らしい機会があるなんて幸運だ」と言うのはつまりそう言う意味であり、だからここには、複雑な思いを皮肉で笑い飛ばそうとする、そう言ったニュアンスが含まれているのである。

 

 

 

それにしても、ショパンとビアウォブウォツキとの間にあった真実の友情物語が、どうしてこれほどまでにショパン伝から「ないがしろ」にされてしまうのだろうか?

 

その最も大きな要因の一つは、この13通の「ビアウォブウォツキ書簡」が全て、紛れもなく「純度100%」の本物だからである。

私が以前、ショパンが初めて書いた手紙である1823年の「マリルスキ書簡」について、「本物であるにも関わらず、本物であるが故に内容がつまらないため、ほとんど紹介される事がない。しかしそれこそが本物のショパンの手紙なのだ」と書いたのを覚えているだろうか?

つまり、この「ビアウォブウォツキ書簡」もまた、正に「それ」なのである。

 

つまり、この「ビアウォブウォツキ書簡」もまた、正に「それ」なのである。

 

ショパンと言うのは世界でも最も人気のある作曲家の一人であるが、日本におけるショパン人気も世界有数と言えるほど高いものがある(なにしろ、その名も『CHOPIN』と言うピアノ音楽誌があるくらいなのだ)。

ところが、そんなショパン好きの我々日本人でも、「ショパンの手紙」に関しては、現在でもまだその全てを日本語で読める状況にはない。中でも特に、この13通の「ビアウォブウォツキ書簡」に関しては、これを全て日本語で読める著書は今のところ一つもない。

それを最も多く読む事ができるのは、アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)と言う事になるのだが、これは元々、シドウ編纂の膨大な量の仏訳版書簡集を、ヘドレイが独自に英訳選集したものだ。原著のシドウ版にはもちろん「ビアウォブウォツキ書簡」全13通が掲載されているが、ヘドレイはそこから7通だけを選んで掲載している。ところが、それらはほとんど半分近く省略されてしまっているため、結局全体の三分の一から四分の一ぐらいしか掲載されていない。しかもその省き方がまた問題で、ヘドレイは、一般の読者の興味の対象となるよう音楽に関わる部分を中心に抜粋しているのだが、その一方で、ショパンがいかにビアウォブウォツキを思いやっていたかと言う、彼らの心の交流が描かれている部分をほとんど省いてしまっているのだ。

これだと、私自身もそうだったが、この選集でしか「ビアウォブウォツキ書簡」を知らない我々日本の読者や英語圏の読者は、彼ら2人の間にあった友情の真の姿を知る事ができず、誰も、ビアウォブウォツキの存在をヴォイチェホフスキほど重要だったとは思わないだろう。実際ヘドレイの選集では、ビアウォブウォツキがずっと足を患っていた事も、結局その病気のために1828年に若くして亡くなったと言う事も、どこにも書かれていないのだ。

それだけではない。ヘドレイは、最後の「ビアウォブウォツキ書簡」に含まれていた「ユゼフォーヴァの証言」部分もそっくり省いてしまった。「ユゼフォーヴァの証言」とはすなわち、「ショパン家の中年の料理番」である彼女が、ビアウォブウォツキが「死んだと言う噂」に嘆きながら、「なんと若い紳士だった事でしょう! ここへお出でになる他の全ての若い紳士達よりもハンサムでした! ヴォイチェホフスキさんもイエンドジェイェヴィツさんも、決して彼ほどハンサムではありません、どちらも決して! 神よ!」と祈っていたと、ショパンがビアウォブウォツキにそう書いていた部分を…である(※その「噂」はその時点では誤報だったのだが…)。しかもヘドレイの選集では、その手紙の直後に「ヴォイチェホフスキ書簡」の第1便が紹介されているので、この「省略」には明らかに何か作為的なものを感じざるを得ない

なぜならヘドレイは、「ヴォイチェホフスキ書簡」の全22通に関しては、所々細かい省略は多々あるものの、ほぼ89割方を掲載しており、彼が省略したその中には、こちらは逆にショパンとヴォイチェホフスキの友情に疑問を差し挟むような箇所が含まれているからなのである。

        それだけではない。パリ時代の「フォンタナ書簡」でもそうだ。実はそこには、ショパンがヴォイチェホフスキの事を批判している箇所があるのだが、ヘドレイはそれもそっくり「抹殺」した上、それを省略した事すら読者に知らせていないのである。これではまるで、「ショパンにとって唯一無二の親友は、ティトゥス・ヴォイチェホフスキただ一人でなくてはならない」と、強引に読者をそのように導いていると思われても仕方あるまい。 

 

次に「ビアウォブウォツキ書簡」の日本語訳が多く読めるのは、原田光子訳『天才ショパンの心』(第一書房)と言う本で、こちらはヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳CHOPINS LETTERSDover PublicationINCの邦訳選集である。オピエンスキー版にはもちろん全13通が掲載されているが、その邦訳版では、訳者の判断でその中から2通のみが掲載され、残りは断片的に抜粋でのみ紹介されるに留まっている。その際、訳者は、「フレデリックは足を痛めているヤン・ビアオブロツキーに、十二月までになお三通の手紙を書いた。何れも同じようなもので、その中から特色ある部分だけをぬきだすことにする」と言う断りを入れている。で、何が「同じようなもの」なのかと言えば、正にそれこそが、ショパンが毎回ビアウォブウォツキの足の容態を心配している様子そのものであり、ヘドレイが完全に抹殺してしまった部分なのだ。

一方、こちらの邦訳選集でも、やはり「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、その全22通が掲載されている(※ただし、こちらも所々細かい省略は多い) 

 

私は、何もこのような例を挙げてヘドレイ一人を批判しようとしているのではない。最も一般的に出回っている書簡集ですらこの有様なのだから、他の伝記の類では言わずもがなだと言いたいのである。

        ちなみに、ヘドレイの選集の原著であるシドウ版でも、またオピエンスキー版でも、「ビアウォブウォツキ書簡」自体はその全13通が省略なく掲載されてはいるものの、しかし肝心のビアウォブウォツキ本人のプロフィールに関しては一切註釈が施されておらず、この人物の生年没年すら記されていないのである。他の人物達は皆、資料上知り得る限りそれが記されているというのに…である。

 

 

繰り返しになるが、本物のショパンの手紙と言うのは、一般の読者の興味の対象となるような内容に乏しく、また、「まともな専門家」による詳細な註釈なしにはほとんど意味が分からない事が多い。そのため、本物であるにも関わらず、伝記等でもほとんど紹介される事が少ない。であれば、その逆もまた真実で、一般の読者の興味の対象となる内容に富み、註釈なしでも意味が分かるようなものは、すなわち偽物と疑ってみる必要がある事になる。

ショパンの書簡選集における、「ビアウォブウォツキ書簡」の扱いと、「ヴォイチェホフスキ書簡」の扱いの、その歴然とした差がそれを如実に物語っている。確かに「ヴォイチェホフスキ書簡」の基本部分は紛れもなく本物である。しかし、かなりの割合で加筆・改ざんが施されている事は間違いないのだ(うち、最晩年の2通は完全に贋作)。その疑わしい改ざん部分を取り除いてみると、実は「ヴォイチェホフスキ書簡」と言うものが、それこそ、本物であるが故につまらない「ビアウォブウォツキ書簡」と全く同種の内容である事が分かる。なぜなら、ショパンのこの両者に対する友情のニュアンスは、極めて似ているからである。

 

 

 

すなわち、今回から紹介していくこの「ビアウォブウォツキ書簡」は、のちの「ヴォイチェホフスキ書簡」における加筆・改ざんを暴くための試金石として打って付けの判断材料となるだけに、その内容自体が面白かろうがつまらなかろうが、その一言一句が貴重な証拠資料となる。

 

[2010年9月12日初稿/2010年10月23日改訂 トモロー]


 【頁頭】 

検証4-2.行間から読み取れるビアウォブウォツキからの返事

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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