検証3:ショパン唯一の文学作品 『シャファルニャ通信』――
Inspection III: KURYER SZAFARSKI by Chopin -
4.『シャファルニャ通信』 1824年8月24日号――
4. KURYER SZAFARSKI, 24 August 1824.-
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第4番 変ホ短調 作品6-4 by Tomoro
【訂正とお詫び】 今回の検証項目は、私が2010年8月18日に「初稿」として発表いたしましたものを、新たな資料の入手によって根本的な見直しを迫られ、「改訂稿」として書き直したものです。 前回の『シャファルニャ通信 1824年8月19日号』と今回の『シャファルニャ通信 1824年8月24日号』につきましては、「初稿」執筆時には、私にはその正しい典拠となる資料が確認できず、手持ちの乏しい資料を総合して憶測する事しかできませんでした。 歴史上の人物について語ると言うのは、往々にしてこのような作業の繰り返しであるとは言え、そのために、私の仮説や解釈に誤りと混乱が生じ、読者の皆様に誤解を与え、大変ご迷惑をおかけしてしまいました事を深くお詫び申し上げます。 [2011年2月4日 トモロー] |
今回紹介する『シャファルニャ通信』も、抜粋でしか知られておらず、一般的な資料として出回っているのは、以下のシドウ版による仏訳されたものである。
■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ■ (※原文はポーランド語) |
「『シャファルニャ通信』 1824年8月14日 [部分] 外国通信欄 本年の同月20日:オブロフで収穫祭が催されました。特別にウォッカを飲んだ後、村人達は城の前に集まり、心から喜んでいました。そして子供達は甲高い声で、耳障りなほど調子っぱずれに、次のように歌いました: 『城の前、アヒルは池に、我らが御婦人、真っ金々 城の前、ロープを張って、我らが紳士、潜水す[おそらく、深々としたお辞儀] 城の前、ヘビ垂れ下がり、我らがマリアンヌ嬢、嫁に行く 城の前、夫人用帽が一つ、我らが奥女中、お馬鹿さん』 送信を許可する。 検閲官、L.D.」 |
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE
DE FREDERIC CHOPIN(La Revue Musicale)より
※ 今号の『シャファルニャ通信』に関する資料も、ショパンのポーランド時代の資料を全て網羅した写真資料集であるクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には一切掲載されていない。その本に載っていないと言う事は、すなわち原物も複製も現存していないと言う事である。
今号も、前号同様、[部分]と言う断りの下に抜粋されたものしか紹介されておらず、しかもたった一つの記事しか掲載されていない。
しかし、前回紹介した原資料であるヴィチツキ版では、この号に関しては以下のように書かれている。
「「8月24日」発行の“通信”の「国外通信欄」に下記のような事が記載されている: “今月の20日、オブロヴォで収穫祭があった。村人達は館の前に集まってお祝いをしていた、特に酒(ウォッカ)を飲んだ後では、娘たちが金きり声で、旋律を狂わせて歌っていた: アヒルが館の前の水溜りの中で、私たちのご夫人が金に埋まれて、 館の前に紐がぶら下がっている、叔父さんが水の中に潜りこもうとしている。 館の前に蛇がぶら下がっている、私たちのお嬢様マリアンナが蛇の後を追いかける、 館の前に帽子が置き捨てられている、私たちの女中さんがそれを眺めている。” (※二行ずつ、語尾で「韻」を踏んでいる) ここにこの歌の一部を引用するのは、次の理由からである。すなわち、小さい時から(彼は)民謡を知る機会を得ていたし、それらに興味を抱いていた。いかに彼がこれらの民謡に興味を持っていたかは、ショパン(Szopen)のマズルカが証明している。 ここにもう一つの出来事を引用する。これは、子供の時から彼がいかに民謡の旋律を捕らえていたか、それらをどのように聴いていたかを示すものである。ある冬の日の夕刻、父親と共に散歩からの帰り道で、酒場で元気の良い弾き手がマズルカやオベレクをヴァイオリンで奏でていた。その独創的な、明確な曲の性格に胸を打たれて、その酒場の窓の下に立ち止まり、父親にこの民謡の弾き手の演奏を聴かねばならないと懇願して、半時間ほども聴き入っていた。その間、帰宅を促されたが、弾き手が最後の曲を弾き終わるまで窓の下から動かなかったことがあった。“シャファルニャ通信”のその続きには、農村での毎日の生活状況を語っている。それはユーモア溢れる文章であったので、さぞ読者を喜ばせたに違いない。毎回の発行番号の下に記載がある:“送信を許可する。検閲責任者 L.D.(ルドヴィカ・ジェヴァノフスカ)”。この時フリデリック・ショパン(Szopen)は14歳であった。」 カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴィチツキ著『ワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地 第II巻』 Kazimierz
W?adys?aw Wojcicki / CMENTARZ POWAZKOWSKI POD WARSZAWA vol. II(Warsaw, 1856)より |
※ これと照らし合わせると、このシドウ版の発行日「1824年8月14日」が誤植である事が分かる。正しくは「24日」である。
カラソフスキーは『シャファルニャ通信』について、自著「で家族の者が蒐集したフレデリックの記念物の中に、一八二四年の分が二冊ある」と書いておきながら、こちらの号からは記事を一つも引用していない。
仮にカラソフスキーが、直接自分でイザベラから原資料を借り受けていたのなら、その中からヴィチツキが引用した以外の記事を紹介する事はいくらでもできたはずである。しかし、少なくとも全部で6紙はあったはずの『シャファルニャ通信』を「一八二四年の分が二冊ある」と書いている時点で、それはもはや、彼が単にヴィチツキの著書からの情報に依存していただけだった事は歴然としている。
ちなみにカラソフスキーはこの中から、「父親と共に散歩」の「引用」の部分を、『シャファルニャ通信』とは直接関係のない箇所で、以下のように要約して流用している。
※ この「父親と共に散歩」の「引用」の部分と言うのは、ヴィチツキの書き方が紛らわしいが、「ある冬の日」と書かれているので、これは『シャファルニャ通信』の夏の出来事ではない。
「父と一緒に郊外へ遠足に行ったり、休暇を田舎で送る時は、いつも草刈る人の歌や農夫の奏くヴァイオリンの曲調に聴き入り、これを記億に留めて、その独創的な表情をもつメロディーを観念化するのを悦んだ。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より |
ヴィチツキの記述によれば、今回の『シャファルニャ通信 1824年8月24日号』には、少なくとも以下のような記事が掲載されていた事になる。
1. 「収穫祭」の記事。
2. 「農村での毎日の生活状況」の記事。
これらが「ユーモア溢れる文章」で書かれ、最後には“送信を許可する。検閲責任者L.D.”の署名が入っていた。
ただし、最初の「収穫祭」の記事以外は、ヴィチツキがショパンの文章をそのまま引用せずに要約してしまったため、後世の伝記作家達はそれらを『シャファルニャ通信 1824年8月24日号』からは除外してしまい、現在までそのように伝えられているのである。
私は最初、まだこのヴィチツキの原資料を知らない頃、この記事はおそらく贋作だろうと考え、初稿ではその仮説を基に検証を進めていた。
以下が、私が初稿で書いたその仮説である。
実は、『シャファルニャ通信』紙上において、ショパンがこのようにポーランド民謡の歌詞を引用する例は、この1週間後に発行される「8月31日」号にも出て来る。その号は完品の複製が現存しており、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で写真確認できるが、そこには次のように書かれている。 「外国通信欄 本年の同月29日:ピション氏、ニェシャヴァ村を通りかかった際、村のカタラーニが牧草地の柵に腰掛け、声を限りに歌っている所に行き合う(※ショパンが10歳の時に金時計を贈られたイタリアの有名歌手アンジェリカ・カタラーニに見立てている)。非常に興味をそそられ、礼節を持ってその歌声に耳を傾けるも、歌詞までは聞き取れず、いささか欲求不満に。柵の手前を行ったり来たりするも、田舎の人の歌う歌詞ゆえ、その意味まではつかみ切れず、そこで氏は、ポケットからコインを3枚取り出し、これをあげる代わりにもう一度歌ってくれまいかと歌い手と交渉。長い事そのカタラーニは、なんやかんやと唇を尖らせて拒み続けたが、やがてコイン3枚に釣られたか、意を決してマズルカを一曲歌ってくれた。編集者は当局と検閲官の許可の下、冒頭の一節をサンプルとしてここに掲載する: 『見てごらん、裏山で、オオカミ一匹踊ってる 裏山で、オオカミ一匹踊ってる いえいえ、嫁さんいないとて、何でそんなに悲しがる(繰り返し)』」 ※ これはシドウ版の仏語訳からの重訳だが、足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)の注釈によると、この「山」はポーランド語原文では方言の「義足」になっており、両者の発音が似ている事から、いわゆる駄洒落に聞こえたと言う事らしい。そのような事は、専門家でなければとうてい分からないだろう。
こちらも同じように、ポーランド民謡の歌詞を引用する内容なのだが、一読して両者の違いがはっきりと分かるだろう。 こちらには、あくまでも『シャファルニャ通信』の「編集者」である「ピション氏」の、彼独特のユーモアや勿体ぶった言い回しがあるのに、前者にはそう言ったものが一切ない。ただ単に「収穫祭」の様子をそのまま描写しているだけで、そこには何のヒネリもなければ、そのような記事をわざわざ『シャファルニャ通信』に載せようと考えたショパンの動機すら見えてこないのである。 1. 後者の記事では、「ピション氏」は「村のカタラーニ」の歌う「マズルカ」の「歌詞」に「非常に興味をそそられ」て、「コインを3枚」はたいてまで「交渉」し、その調査結果をここに報告している。 2. ところが、前者の「収穫祭」の記事には、ショパンが、その光景を見てどのような感想を持ったのかとか、なぜその歌詞を引用する気になったのかとか、そう言ったものが全く書かれていない。つまり、これは単なる客観描写なのであって、「ピション氏」の主観的な筆致とは明らかに異なる。 ※
したがって、足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)にも、この号だけ一切何の注釈も施されていない。つまりこの「収穫祭」の記事は、ポーランド語さえ分かれば、専門家でなくとも、誰にでも読んだまま意味が通じると言う事なのである。 要するに、そのようなものなら、ショパン本人でなくても、後世の第三者の誰にでも書けてしまう…と言う点が問題なのだ。他の全ての『シャファルニャ通信』と比較しても一目瞭然だが、『シャファルニャ通信』の記事と言うのは、当然の事ながら、全て、必ず「ピション氏」の主観を通して描写されている。つまり、「誰が書いても同じになる」ような匿名記事など一つもないと言う事だ。その中にあって、この「収穫祭」の記事だけが、「誰が書いても同じになる」ような単なる「客観報告」に過ぎず、ここには、これを「ピション氏」が書いたと証明するような筆致が一切含まれていない。この違和感は歴然としている。 この記事が仮に本物であれ偽物であれ、いずれにせよ、このポーランド民謡の歌詞がこうしてショパンの『シャファルニャ通信』に掲載された事で、この歌が世界的に不朽のものとなった事だけは間違いないだろう。逆に言えば、それ以外には何もない。つまり、それこそが、この記事がどうして書かれたのかと言う、その動機を暗示しているのである。つまるところ、そこにあるのは、ショパンの贋作資料の特徴の一つである、「ポーランド、我が祖国」、ただそれだけなのである。 しかしながら、前号の「ドングリ・コーヒー」の記事同様、これも典拠が分からない以上、断定する事も出来ないので、取り敢えずここでは棚上げせざるを得ない。 |
私がこのように考えたのも無理はない。
前回も説明したように、そもそもこの『シャファルニャ通信』を一番最初に抜粋して紹介したヴィチツキの本と言うのが、「ロシア帝国に占領されていた時代のポーランド民族独立精神を啓蒙する」事を目的に書かれていたからだ。
つまり、元々今号の『シャファルニャ通信』には、本来そのような愛国的偏見を抱かせないような内容の事が書かれていたはずなのに、ヴィチツキの抜粋の仕方によってそのように見えてしまっていたのである。
ショパンが、単に客観描写のための客観描写などしないと言うのは事実である。
それは、彼が翌1825年の夏に再び訪れたシャファルニャから家族宛に書いた手紙にも、同様に歌の歌詞を引用している箇所があるが、そこでもやはり、彼はそれを引用するにたる面白おかしい理由をきちんと説明している。
したがって、ヴィチツキがその説明箇所を省いてしまっていた可能性は非常に高いと、私はそのように考えている。
[2010年8月18日初稿/2011年2月4日改訂 トモロー]
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