検証3:ショパン唯一の文学作品 『シャファルニャ通信』――

Inspection III: KURYER SZAFARSKI by Chopin -

 


3.『シャファルニャ通信』 1824年8月19日号――

  3. KURYER SZAFARSKI, 19 August 1824.-

 

BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第13番 イ短調 作品17-4 by Tomoro

[VOON] Chopin:Mazurka 13 Op.17-4 /Tomoro

 

 

 

【訂正とお詫び】

今回の検証項目は、私が2010812日に「初稿」として発表いたしましたものを、新たな資料の入手によって根本的な見直しを迫られ、「改訂稿」として書き直したものです。

今回の『シャファルニャ通信 1824819日号』と次回の『シャファルニャ通信 1824824日号』につきましては、「初稿」執筆時には、私にはその正しい典拠となる資料が確認できず、手持ちの乏しい資料を総合して憶測する事しかできませんでした。

歴史上の人物について語ると言うのは、往々にしてこのような作業の繰り返しであるとは言え、そのために、私の仮説や解釈に誤りと混乱が生じ、読者の皆様に誤解を与え、大変ご迷惑をおかけしてしまいました事を深くお詫び申し上げます。

[2011年2月4日 トモロー]

 

 

今回紹介する『シャファルニャ通信 1824819日号』は、抜粋でしか知られていない。

そのため問題も多い。

ちなみに、ショパンのポーランド時代の資料を全て網羅した写真資料集であるクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、今号の『シャファルニャ通信』に関する資料は一切掲載されていない。その本に載っていないと言う事は、すなわち原物も複製も現存していないと言う事である。

まずは、取り敢えず以下のものを読んで頂きたい。これは、現在最もよく知られているシドウ編の仏訳版の書簡集に掲載されているものを、そのまま和訳したものである。

 

■シャファルニャのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ■

(※原文はポーランド語)

『シャファルニャ通信』 1824819日 [部分]

 

国内通信

本年の815日:シャファルニャにおいて音楽の集いがあり、ピション氏、若干名の名士とそれほどでもない名士達の前で、カルクブレンナーのコンチェルトを披露。この仕事はしかしながら、ピション氏が次に演奏した《小さなユダヤ人》と同じ様には、とりわけ低年齢層の著名人達〔僅かにして重要な聴衆〕からは、さほど喝采を得られなかった。

本年の同月18日:F.F.N.J.ショパン氏、ドングリ・コーヒーを7杯飲む。これを8杯飲まなければならなくなる日も間近か。

 

送信を許可する。

検閲官、L.D.」

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FREDERIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

        「ピション氏」とは、「ショパン」の綴りをもじった変名で、これも自分の事。

        《小さなユダヤ人》とは、のちに出版される事になるマズルカ 第13番 イ短調 作品17-4の初稿とされている。しかしこれについては異説もあり、後述するが私も個人的に疑問がある。

        「F.F.N.J.ショパン氏」も、自分の事。

 

このように、 [部分]と言う断りの下に、2つの記事しか紹介されていない。

 

私は最初、この抜粋引用は、一番初めにショパンの書簡資料を出版したカラソフスキーが、イザベラから資料提供されたものに対して行なったものだと思っていた。

なぜなら、カラソフスキーが自著の中で、以下のように書いていたからだ。

 

「日曜にはきまってする文通の代りに、当時ワルソウで発行していた新聞「ワルソウ新聞」を型どって、「クルエル・シァファルスキー」という表題で、小さい週間新聞を発行しようと思いついた。家族の者が蒐集したフレデリックの記念物の中に、一八二四年の分が二冊ある。第一号の最初にはこう書いてある七月十五日、ピション氏(フレデリックの仮名)は大小数人の出席したシァファルニアの音楽会にあらわれ、カルクブレンナアの協奏曲を弾いた。だがこれは同紳士が演奏した歌曲ほどの熱狂を、殊に若い聴衆の間に惹起しはしなかった』。当時多くの猶太人(※ユダヤ人)が穀物を買いに、オボロフ(ロモッキ氏の所有地)という隣村にいたこともまた、この新聞に載っていた。フレデリックは猶太人を数人居間に招いて「マユフェス」と称する一種の猶太人の結婚行進曲を弾いた。その演奏はお客さん達が踊り出したばかりでなく、近くに行われる猶太人の結婚式に来て、微妙な音楽をもっと聴かせて呉れと、頻りに懇願したほどの心酔を起させた。*『あの人は生れつきの猶太人のように弾いた』と大層気に入った猶太人が言った。

 

* 此の話はウラディスラウス・カシミル・ウォイシッキがその著「ツメンタルツ・ポワツコフスキイ」の中で書いている。

 

「クルエル・シァファルスキー」の他の欄には、村の日々の出来事が面白く描写されている。次ぎの事実は、ポーランドの変った事情をほのめかしている。この新聞の各号は、ワルソウにて今日でさえも行われている習慣に依り、検閲官に審査される。この検閲官の役目は、毎号に「成規の発行部数」(※「送信を許可する」と書き入れることであった。当時その事務所はシァファルニアの地主の娘、ルイズ・ジュワノフスカ嬢の宅に置かれてあった。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

ところがだ、カラソフスキーはこの中で、「オボロフ(オブロヴォ)」のユダヤ人に関するエピソードのみを指して「此の話はウラディスラウス・カシミル・ウォイシッキがその著「ツメンタルツ・ポワツコフスキイ」の中で書いている」と註釈しているが、実はそれは嘘なのだ。彼がここに書いている事全てが、その「ツメンタルツ・ポワツコフスキイ」という本の中に書かれている事なのである。カラソフスキーは、さもその一部分だけを引用したかのように書いているが、実際は、この箇所の全文が、ほぼそのままその本から流用されている。

この「ツメンタルツ・ポワツコフスキイ」という本は、カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴィチツキワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地』と言う本で、「ポヴォンスコフスキ墓地」に埋葬されている人々についての追想が列挙されているものなのだが、その墓地には「エミリア・ショパン」も眠っていると言う事で、その『第II「エミリア・ショパンに関する追想」が掲載されている。

なので、元々はエミリアについて書かれているのだが、もちろん兄フレデリック・ショパンについてもエミリアと同等以上に触れられており、その中で、今回問題とする『シャファルニャ通信』が、本邦初公開として紹介されていたのである。

以下がその『シャファルニャ通信 1824819日号』に関する箇所の全文である。

 

彼は家庭における躾けと教育を受けた後、直接にワルシャワ高等学校の4年生の学級に編入する事を許された。夏季のヴァケーションを毎年、“古いマゾフシェ”のリップノ郡シャファルニャ村にある、ジェヴァノフスキ家の館で過ごしていた。ここで自分が編集する新聞“シャファルニャ通信”を発行して、それをワルシャワの家族に送り届けていた。今筆者の目の前に“通信”が二部ある:1824819日」24日」発行のもの。新聞の大きさは、横に長い“ワルシャワ通信”と同じサイズを模倣している。印刷されている文字は小さく、丸く、1ページが2列に分けられている。最初の列のトップに「国内通信欄」がある:“本年の815、子供たちを含めて聴衆十数人のシャフルニア村音楽会でJP.ピション氏[彼はそのように自称している]がカルクブレンナーのコンチェルトを演奏した。その演奏は特に小さな聴衆者たちを喜ばせたのみならず、彼は“ジデック(?ydek)”[ユダヤ人のこと、嘲笑した意味合いがある]をも弾き、これが聴衆に大いに受けた。”[ここに説明が必要である。すなわち、この演奏会が開催される前に、隣村であるオブロヴォへユダヤ人たちが穀物の買い付けに来た際、彼らの要望に従ってフリデリックが“マユフェス”(ユダヤの宗教音楽)を演奏した。彼の演奏にユダヤ人たちが引き込まれ、浮かれて、演奏されている曲の音頭を取り、踊りまくった。挙句の果てには、何もかも忘れてしまう程までに演奏家に興味を持ち、その村の土地継承者(地主)を通して、彼らの予定している結婚式に演奏して欲しいと頼み込んだ:“彼は生まれながらのユダヤ人であるかの如く弾いてくれた”からだと]。

18日、FF.M.J.Chopinはコーヒー(どんぐりを挽いたもの)を7杯も飲み干し、近い将来8杯目を飲むことは必定である。”

…(※このあと、824日」発行の“通信”「国外通信欄」から引用しているが、それは次回紹介するので、ここでは略)…

“シャファルニャ通信”のその続きには、農村での毎日の生活状況を語っている。それはユーモア溢れる文章であったので、さぞ読者を喜ばせたに違いない。毎回の発行番号の下に記載がある:“送信を許可する。検閲責任者 L.D.(ルドヴィカ・ジェヴァノフスカ)”。この時フリデリック・ショパン(Szopen)は14歳であった。

カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴィチツキワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地 第II

Kazimierz W?adys?aw Wojcicki / CMENTARZ POWAZKOWSKI POD WARSZAWA vol. IIWarsaw, 1856)より

 

見てお分かりのように、カラソフスキーの伝記に書かれていた事は、この本に書かれている以上の情報は何一つ提供してくれてはいない。

彼にカラソフスキーがイザベラから『シャファルニャ通信』の現物を見せてもらっていたのなら、ここまでヴィチツキの記述と一致しないはずである。要するにカラソフスキーは、イザベラから『シャファルニャ通信』を借り受けてなどおらず、全てヴィチツキの著書から流用していただけだったのである。

そして、現在抜粋でしか知られていない、こられ『シャファルニャ通信 1824819日号』『シャファルニャ通信 1824824日号』の記事と言うのは、つまるところ、このヴィチツキの本に書かれていた事のみがその典拠となっていたのである。

       ちなみにヴィチツキは、ショパンの年齢を18248月」の時点で14歳」としている。この本にはショパンの誕生日は記されていないが、少なくともヴィチツキはショパンが生まれた年を1810年と考えていたようだ。おそらく、この点に関しては直接ショパンの遺族から確認は取っておらず、単にカラソフスキー版以前の定説に則っているだけのようだ。

 

カラソフスキーが彼のショパン伝を雑誌に連載し始めたのは1862年からで、ヴィチツキの本はその6年前の1856年に出版されている。

このワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地』と言う本は、著者であるヴィチツキによって、「ロシア帝国に占領されていた時代のポーランド民族独立精神を啓蒙する」事を目的に書かれている。だから彼は、上記の資料を引用する際、以下のような前置きをしている。

 

巨大なこの音楽の天才は比類なき程にドラマチックな芸術家としての演奏において、ポーランド語の文章を書く事においても、風刺画を描く事においても、しかも、即妙な冗談を語る事においても、そのタレント性を見せた。ここには未だ知られておらず、出処に最も信用の置ける、フリデリックの幼い頃のお話を紹介したい。我々の読者は、ここに伝える小話が我々民族の言葉で書かれている事により、興味深く、感謝の念を持って受け入れてくれるであろう。なかんずく、フリデリック・ショパン(Szopenは永遠に我々の誇りである。

カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴィチツキワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地 第II

Kazimierz W?adys?aw Wojcicki / CMENTARZ POWAZKOWSKI POD WARSZAWA vol. IIWarsaw, 1856)より

 

したがってこのように、ヴィチツキは、目録タイトルである「Emilija Chopin」、及び引用句のみ「Chopin」の綴りを用いている以外は、本文中においては全てショパンの綴りをSzopenとしている。

       ポーランドでは、「Chopin」「ショペン」と発音するので、その発音をそのままポーランド語表記にするとSzopenになるのである。ポーランドでは、一部の国粋主義者達によって、ショパンの名前をこのように綴ろうという動きがあったが、一般には全く浸透しなかった。ショパン本人が一度もそのような綴りを用いていないのだから、当たり前である。

この本が書かれた当時のポーランドは、こう言った愛国者達の活動によって、まさに革命の気運が高まっており、その動きは、1863年のワルシャワ暴動へとつながっていく。

この本には、『シャファルニャ通信』の他にも、ショパンとエミリアが父の命名日のお祝いのために二人で書いた寸劇(韻を踏んだコメディ)『間違い、または誤解を呼び起こした道化師』のシナリオも紹介されている。

       この寸劇の題名は、ポーランド語原文ではOmy?ka czyli mniemany filutとなっている。これは、カラソフスキーの英訳版ではThe Mistake; or, the Imaginary Rogue(間違い;あるいは想像上の悪戯っ子)、ミスウァコフスキらによる「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトではThe Error, or Presumed Joker(失敗、あるいは推定されたジョーカー)と英訳され、C・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝=共訳『ショパン』(音楽之友社)では『間違い、あるいは偽悪漢』と訳されている。

この資料を引用する際にも、手書きの原本は今筆者の目の前にある」と言う断りがあり、それ以外にも、ショパンが学校の授業中にリンデ校長の似顔絵を書いた時のノートも紹介しており、どうやらこのヴィチツキと言う人物は、この本でエミリアについて書くために、ショパンの遺族から直接これらの資料を借り受けていたらしい。その他にも、ショパンの少年時代のエピソードがたくさん書かれており、後世のショパン伝で紹介されているショパンの少年期のエピソードは、そのほとんどがこの本を典拠にしていた事が分かる。

要するに、その6年後にカラソフスキーが書いたショパン伝と言うのは、ショパンの遺族から直接資料を借り受けた点と言い、その極端なまでの愛国的な論調と言い、まさしくこの本をお手本にして企画されたものだった事が分かる。だからカラソフスキーは、ヴィチツキがワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地』の中で紹介している数々のエピソードに関しては、あたかも自分が取材して聞いてきたかのような口振りでもって、その全てを流用している。

私が最初にこの2冊の『シャファルニャ通信』の抜粋記事を読んだ時に、そこに贋作の可能性を感じてしまったのも、結局は、こう言った愛国的な著者による、このような恣意的な抜粋の仕方のせいだったのである。本稿の序章でも書いたが、カラソフスキー、ウィエルジンスキ、オピエンスキー、シドウ等々…を始めとする(そして今回ここにヴィチツキも加えるが)、この手の人物達の書いたものを読む時には、やはりそれなりの心積もりが必要だったのだ。

たとえば、もしもこれらの号をきちんと全文通して読む事ができていたならば、他の完品の号を読んだ時と同じように、そのような愛国的偏見は抱かなかったのではないだろうか。

 

 

さて、原資料の出展背景については以上の通りであるが、今号の『シャファルニャ通信』の内容についても少し触れておきたい。

 

まずは日付に関する考察。

前号の816日号」では、以下の記事が最新ニュースとして扱われていた。

 

「本年の同月15:我々の元に大変なニュースが入ってまいりました:屋根裏の片隅に偶然しゃがみ込んでいた七面鳥から、若い七面鳥がこの世に生を授かりました。この大きな出来事によって、これらの鳥達に家族が増えただけでなく、ジェヴァノフスキ家の財政収入にも一役買う事が見込まれるでしょう。」

 

そして今号の819日号」では、国内通信欄」の最初のニュースがそれと同じ日付で始まっている。

 

「本年の815:シャファルニャにおいて音楽の集いがあり、ピション氏、若干名の名士とそれほどでもない名士達の前で、カルクブレンナーのコンチェルトを披露。」

 

仮にこれらの日付が全て正しいと仮定した場合、以下のような仮説が成り立つ事になる。

1.       前号の「七面鳥」の記事は、15日」午前中に起きた出来事であり、

2.       今号の「音楽会」の記事は、その晩の出来事である。

3.       つまりショパンは、前号の816日」号は、その発行日の16日」に書き上げたのではなく、15日」の午前中の時点で全て書き上げていたのではないか?と言う可能性が浮上してくる。となると、発行日の16日」とは、本文を書いた日付ではなく、検閲官の署名を得て封をした日付と言う事になる。

        しかしよくよく考えると、実際の新聞も、現在のように夕刊でもない限り、発行日と同日の記事が掲載されるはずはなく、最新ニュースは必ず発行日の前日になるのだから、この『シャファルニャ通信』も、実はその常識に則って発行されていたのである。

4.       だからその結果、15日」の晩の「音楽会」の記事は、次号にもちこされる事になったのではないだろうか。

 

日付に関してもう一つ。

この号の発行日である819日」と言うのは、実は前回紹介した「コルベルク書簡」と同じ日付なのである。

上記の理屈から言えば、今号で扱われる最新ニュースはその発行日の前日になるので、そうすると、以下のもう一つの記事が今号の最新ニュースだった事になる。

 

「本年の同月18:F.F.N.J.ショパン氏、ドングリ・コーヒーを7杯飲む。これを8杯飲まなければならなくなる日も間近か。」

 

つまりショパンは、この18日」の時点で『シャファルニャ通信』の方は書き終えており、その翌日19日」検閲官からサインをもらって最後に日付を入れ、その一方で「コルベルク書簡」も書き、そしてその2つを一緒にワルシャワへ送ったのだろう。

以上が、今号の日付に関する考察である。

 

 

次は、《小さなユダヤ人》と言う曲名について。

ヴィチツキの本でポーランド語原文を確認すると、ここは“ジデック(?ydek)”となっている。これはユダヤ人を意味するのだが、[嘲笑した意味合いがある]言葉なのである。

       通常、ポーランド語で「ユダヤ人」は“ジト(?yd、複数形=?ydzi)”で、『シャファルニャ通信』には「ユダヤ人」が何度も登場しているが、ショパンは他の箇所では普通に“ジト(?yd)”を使っている。

カラソフスキーはこの言葉のニュアンスに問題があると思ったらしく、これをドイツ語に訳す際、単に「歌曲」としてしまった。

       ちなみにこの「歌曲」は、カラソフスキーのドイツ語原版ではLiedchen(=小歌曲)」となっており、その英訳版では単にsongとされている。

シドウの仏訳版では、「ミコワイエック(Miko?aiek)」「プチ・ニコラ(petit Nicolas)」にしたのと同じ要領で、ジデク(?ydek「プチ・ユダヤ人(Petit Juif)」としている。つまり、《小さなユダヤ人》である。しかしこのフランス語でも、結局はポーランド語原文にある[嘲笑した意味合い]は伝わらない。

実は、この《小さなユダヤ人》と言う曲名は、現在知られている『シャファルニャ通信』の中で最も日付の新しい182493日、金曜日」号にも出てくる。この曲に関しては、その時にまた詳しく検証したいと思う。

 

最後に、二つ目の「ドングリ・コーヒー」の抜粋記事について。

この記事は、前号にあった記事、「ジャック(ヤクブ)・ショパン氏は毎日6杯のドングリ・コーヒーを飲み」を受けており、要するに、あの時6杯」だったのが、ここへ来て7杯」となり、さらに今後8杯飲まなければならなくなる」であろう事を皮肉っているのである。これは、このコーヒーを薬として飲まされているからこそのジョークなのだ。

       シドウ版で「F.F.N.J.ショパン」とあるのは、ヴィチツキ版のポーランド語原文では「FF.M.J.Chopin」となっている。このイニシャルは、全て前号の文中に出てきており、それを一つにまとめたものである。

1.       「F」Fryderyk

2.       「F.」Franciszek

3.       「M.」Miko?aiek

4.       「J.」Jakob

       ちなみに、フレデリックショパン研究所Narodowy Instytut Fryderyka Chopinaと言うサイトに掲載されているポーランド語原文では、誤植なのかどうか分からないが、ここの「J.」なぜか「I.」になっており、さらに前号のJakobの綴りも一般的なJakubに換えられている。足達和子著『ショパンへの旅』(未知谷)でもそうなっており、注釈に次のように書かれている。「八月十六日号に出ていたフレデリック・フランチーシェック・ミコウァイェック・ヤクブという名のイニシャルを並べたものだと思われる。ヤクブ(Jakub)のイニシャルを I としているが、ポーランド語の j の発音は、これが冒頭に来る場合以外は、ほぼ i と同じである」。しかしながら、これらはいずれも、ショパン自身による原資料の綴りに則っていない。

 

  

 [2010年8月12日初稿/2011年2月4日改訂 トモロー]


 【頁頭】 

検証3-4:『シャファルニャ通信』 1824年8月24日号

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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