検証12:シュトゥットガルトの手記は贋作である――

Inspection XII: Is the note of Stuttgart genuine? -

 


2.このアルバム(日記帳)は何処から出て来たのか?―

  2. Where did this album(diary) come out of?-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 前奏曲 第24番 ニ短調 作品28-24▼≫

 

前回は、まず「シュトゥットガルトの手記(日記)」の全文を読んで頂き、それに関する疑問点を掻い摘んで説明したが、今回からは、その細部にわたって徹底的に検証していきたいと思う。

 

 

【1.典拠について】

前回も説明した通り、この手記は最初、完全な全文の形としては公表されていなかった。

その発見者であるフスタニスラフ・タルノフスキーは、信じ難い事に、ショパンの自筆資料を最後まで提出しようともせず、ショパンの「小さな手帳(ポケット・ブック)」の概要の説明と、そこに書き込まれていたとする日記の中から、いくつかのテキストを断片的に抜粋し、講演と言う形で解説してみせただけだった。

その講演の内容を、JT.タンカレーと言うポーランドの大学教授が小冊子の形に編集し、さらにそれが英訳され、『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』として出版された。

以下がその序文と思われる部分の書き出し部分である(※実は、ハラソフスキも指摘している事だが、この本は、編者による序文と著者による本文との区別が全く付けられていない)。

 

「このスケッチは、1871年にクラクフで、大学に所属する貧しい学生達のために行われた公開講演の講義の一つとして書かれたものである。ショパンに関するノートは、マルチェリーナ・チャルトリスカ公妃のたっての依頼により、彼女の管理の下で書かれた。著者は彼女から、ショパンによって書かれた手紙と同じくらい興味ある詳細記述をたくさん受け取った。その中で巨匠が示唆しているのは、彼の作品の多くについて、それらがどのような条件下で書かれていたかと言う事である。

20年の間、そのヴィルトゥオーゾ的なスタイルとインスピレーションに関しては、活字になり、また、活字にならずとも沢山の事が論じられてきたが、しかしスタニスラス・タルノフスキー伯爵の原稿は、その親密な知見に関して全て原典としての価値は失われていない。下記に述べる詳細が講演で語られた時、マルチェリーナ・チャルトリスカ公妃は、スケッチに述べられている各々の一節を演じて見せ、光栄なる聴衆に、ショパンの人間としての、また音楽家としての“鋭敏な複雑さ”に関する楽しく且つ好評であった実地教育を行なった。」

スタニスラフ・タルノフスキー著・JT.タンカレー編/ナターリア・ヤノータ英訳

『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』(ロンドン:ウイリアム・リーヴス83 チャリング・クロス通り W.C.

CHOPIN: AS REVEALED BY EXTRACTS FROM HIS DIARY(LONDON: WILLIAM REEVES.83, CHARING CROSS ROAD, W.C.)より

 

これが発表されたのは1871年の事で、ショパンが没してから既に22年が過ぎ去っていた。

この発表から60年後の1931年に、ヘンリー・オピエンスキーがショパンの書簡集『CHOPINS LETTERS』を編纂した時、その本の英訳を担当したE.L.ヴォイニッヒ夫人は、その序文で次のように書いている。

 

…(略)…彼の故国に対する愛情は、その話し方、引用することわざ、そのユーモア、その歌、その習俗などによって疑う余地はない。そしてどんなに頭の固い読者でも、外国からの抑圧に対する必死の闘いに、彼が寄せた共感の誠実さを疑う事はできないだろう。それにも拘わらず、その共感は奇妙な宿縁に彩られていた。彼がその闘いに参加しなかった事に対して我々が驚く必要はないだろう。風はその価値のあるところに吹くものだ。つまり、創造的な芸術家は、その共感がどんなに強いものであっても、己の芸術における衝動の下に生きなければならない。しかし、ポーランドの愛国者には少々ショッキングな事ではあるが、彼はロシア皇帝から与えられたダイヤの指輪を単に所持していただけではなく、誇りをもって大切にしていて、1831年以降でさえもコンスタンチン大公からの好意を受け入れている

これに劣らず困惑させられるのは、ワルシャワがロシア軍に攻撃されて占領されたというニュースを受けて1831年にシュトゥットガルトで書かれた日記の断片14850ページ)で、これは故スタニスラフ・タルノフスキー伯爵を典拠とし、あるポーランドの大学教授が1871年に発表したものだ。ショパンが、家族や友人達の安否を聞き知るまでの間苦しまなければならなかったであろう事は、その過酷な日々に作曲された音楽によって推し量る事も出来よう。同様に、彼の母親が殺されたとか、若い姉妹が酔った兵士達につかまってもがいているかも知れないという悪夢のイメージに、彼が取り付かれていたと信じる事も容易である。しかしこのような日記とそのような音楽が、同じ週に同じ手からもたらされたと言うのは、いくら何でも少し奇妙だ。

他の人々もこの謎には戸惑ったようで、私はその断片の信憑性と正確さに関して、オピエンスキー博士に意見を求めた。すると彼は、迅速で丁寧に、次のように返答した。タルノフスキー伯爵は、ショパンの友人であるマルチェリーナ・チャルトリスカ公妃から手書きの文書(オリジナル? それとも写し?)を受け取った。オリジナルは後にアクシデントによって失われた。しかしオピエンスキー博士は、“ポーランドの伝記作家はこれまで誰も疑わなかった”と、タルノフスキー版を私に保証した。そして、私の疑念を晴らすための精神的な確証となるように、まず、そこから誘発された音楽との、まさしくその偶然の一致について言及した

彼の信念に敬意を表し、私はその断片を本書に含める事にした。日記がもはや存在せず、それと関係のある全ての人々が亡くなってしまっている以上、それぞれの読者が、この種のものがニ短調プレリュードやハ短調エチュードの激しい情熱と一致するのか、または、ホ短調プレリュードの押し殺された苦しみと一致するのか、自分自身で決めなければならない。人間の心とは不思議で混乱したものだ。だから、ショパンが本当にそのように書いたのかもしれない。しかし、死者の物言えぬ口から、いかに安易に――そしていかに無邪気に――決まり文句と適当な感傷とが語り伝えられているかを思い出す時、いかに多くの、出所の怪しい代物がショパンの人生に付いて回っている事だろう。疑わしきは罰せずの原理を与える事だけが、彼に対して公正な事のように思われる。…(略)…

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より

 

ヴォイニッヒ夫人は敢えて断定を避けてはいるが、この文面から、彼女が「シュトゥットガルトの手記」を贋作と確信し、またオピエンスキーの子供じみた説明も鵜呑みにしていない事は容易に察しがつくだろう。

“ポーランドの伝記作家はこれまで誰も疑わなかった”だとか、「音楽との、まさしくその偶然の一致」などと言う説明は、何の論理的根拠にもなっておらず、それでは逆に、信用できる物的証拠が何もないと認めてしまっているようなものだ。それに、ポーランドの伝記作家がこれを疑おうとしないのはむしろ当然の事で、これは言わば、ポーランド人にとっては愛国心に対する踏み絵のようなものだからだ。

このように、この手記(日記)は、発見から60年経って関係者が全員亡くなっているにも拘わらず、ショパンの自筆資料である「オリジナル」はついに世に公表されず、その理由として、「オリジナルは後にアクシデントによって失われた」からであると、この1931年の時点ですでにそう説明されていたのである。

そのような事情であったから、このオピエンスキー編纂の『CHOPINS LETTERS』における「シュトゥットガルトの手記」は、前回紹介したような全文では掲載されていない。単に、タルノフスキーが発表したテキストの断片をそのまま繋ぎ合わせただけになっている。

ところがその後、その失われてしまったはずのショパンのアルバムの中から、どう言う訳か問題の「シュトゥットガルトの手記」のみ、その直筆資料が再発見(?)されたとして公表されたのである。

だが、それがいつ、誰によって、何処で発見され、そしてどう言った経緯で日の目を見るに至ったのか、それについては全く何も分からない。それについて説明してくれる文献資料がどこにもないのだ。

 

実はこの一連の流れは、興味深い事に、後に1945年以降に巻き起こった「ポトツカ贋作書簡」の、その事件の経緯と全く同じである事に気付く。

つまり、

1.      誰かがショパンに関する新資料なるものを発見する…、

2.      だが、何故かその発見者は決して直筆資料を証拠提出しない…、

3.      その結果、そのショパンらしくない内容に真偽が疑われ始めると…、

4.      その議論に終止符を打とうと目論んだ別の何者かが、何処からともなく直筆資料なる代物を出してくる…

と言う流れだ。

「ポトツカ贋作書簡」の時は、筆跡鑑定の結果が二転三転したものの、最終的にその直筆資料なるものが完全に贋作であると証明され、それによって反対派が勝利を収めるに至った。しかし「シュトゥットガルトの手記」に関しては、すでにその直筆資料なるものが戦火に失われてしまったため、もはや最新の科学的な筆跡鑑定にかける事がかなわない。そのため、依然として擁護派が勝利を握ったままでいる。

だが、本当にそれでいいのだろうか?

 

この日記の発見者であるタルノフスキーと言うのは、貴族にして大層な肩書きをいくつも有する者ではあるが、その人物像はかなり胡散臭いものがある。

たとえば、「ポトツカ贋作書簡」が出現するずっと前から、「ショパンとポトツカは愛人関係にあったのでは?」と言う噂は長い事燻り続けてきた。実は、その根も葉もないスキャンダラスな噂を広めるのに加担した人々の中に、実はこのタルノフスキーが名を連ねていたのである。

以下がそれである。

 

「他にも――間接的にだが――ショパンとデルフィナの関係を仄めかした発言がある。スタニスワフ・タルノフスキがクラクフ市で発行されていた「時」誌の編集者諸氏について書いた文章の中である。タルノフスキは文中、マウリッツィ・マンの経歴に触れ、この出版事業家が若い頃パリに滞在していてショパンに会い、「感傷的な気持ちでそれを追憶していた。その際、デルフィナ・ポトツカさんもよく見かけたそうで、ショパンはクラシンスキ(※彼女と愛人関係にあったポーランドの詩人)の幸せなる前任者の一人に違いないと、最後の最後まで確信していた」と記したのである。」

イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳

『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)より

 

このような事を書く人物の著作物に対しては、どうしたって警戒心を抱かない訳にはいかなくなってしまうだろう。

 

 

【2.筆跡鑑定について】

「シュトゥットガルトの手記」の直筆資料は、発見者であるタルノフスキーによれば、「オリジナルは後にアクシデントによって失われた」と言う説明がなされ、彼は証拠資料を提出する事なくこの世を去った。

そして、既に失われているはずの直筆資料が出て来たのはずっと後になってからである。

それが出て来た時、当然問題となったであろう筆跡鑑定について教えてくれているのは、アダム・ハラソフスキの1880年の本で、彼はその中で、タルノフスキーの本について、「よりロマンチックな半分の真実(嘘混じりの作り話はいっそうロマンチックになる)」と題して次のように書いている。

 

1871年に、スタニスラフ・タルノフスキー伯爵(18871917)―クラクフ大学のポーランド文学の教授、ポーランド科学アカデミーの学長、著名な作家で講師―が、ショパンのいわゆるシュツットガルトの日記を発見した。それは、1831年の反乱におけるポーランドの人々の不等な闘いにおいて、ワルシャワがロシア人の手に落ちたというニュースを受けた後の、苦々しく痛切な感情の発露を含んでいた。(ショパンはその時、ミュンヘンからパリへ移動中だった)。

これらのページの文体は、悪意、憎悪、そして絶望に満ち溢れ、ショパンが彼の家族や友人達の身に起きたであろう最悪の事態を想像した際に、彼らを助けられない事に対して自分を責め、その事は、自分が死んでいたらと望む最後の数行に最もよく描かれている:

“僕の心は僕の中で、しばしの間、死んだ。ああ、どうして永遠にではないのだ! その間だけ、僕は苦しみに耐える事が出来る。僕はそれほど孤独だ! どんな言葉も僕の惨めさを表現する事は出来ない…”

それは、いつものショパンの手紙の冗談めかした文体とは違っていたので、この日記の信憑性は、しばらくの間、筆跡鑑定の専門報告がこれらの言葉は間違いなくショパンによって書かれたと認めるまで疑われていた。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

この「筆跡鑑定」がいつ、誰によってなされたものなのか、その経緯について詳しく説明してくれる文献資料は見当たらない。それどころか、私の知る限り、「シュトゥットガルトの手記」の「筆跡鑑定」について言及しているのはこのハラソフスキの本くらいなものなのである。

問題は、ここに書かれている「筆跡鑑定の専門報告」とは、果たして本当に信用にたるものなのだろうか?と言う事だ。

たとえば、「ポトツカ贋作書簡」の例では、三度にわたる筆跡鑑定について、いつ、誰が、誰に依頼したのかまではっきりと記録されている。

その顛末は以下の通りである。

 

「一九七三年四月十九日、ワルシャワのフレデリック・ショパン協会は有能な調査官ルフィアン・ファイエルに専門調査を依頼した。彼は一九七三年六月二五日付けの分析結果の見解書において、「ショパンの問題の手紙は[……]オリジナルであるかどうかは、大いに警戒を要するものである」と述べている。

数週間の時を経て――今度は、当時、ポーランドに一時的に滞在中であったグリンスキ(※強硬な擁護派の一人)の(一九七三年七月二四日付けの)依頼により――写真コピーに写る文字のグラフィック比較調査がワルシャワ大学刑法研究所犯罪捜査研究室で行われた。調査の結果は思いがけずもグリンスキに有利であった! ワルシャワ大学犯罪捜査研究室主任ズビグニェフ・チェチョット博士は「専門調査に提出された抗争中の手紙の手紙は、フレデリック・ショパンが書いたもの」であるという見解を一九七三年八月十七日付けで表明した。チェチョットはマテウシ・グリンスキへ宛てた手紙の中で、チェチョットの意見が“デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの手紙の信憑性に関する抗争に決着をつける”ことを希望もしている。

自分に有利な調査結果を得たマテウシ・グリンスキは一九七三年八月十八日、――ポーランド通信社を通じて――ショパンのデルフィナへの手紙が本物だと認められたと(ファイエルの逆の見解には一瞥だに与えず!)、世界に発表したのである。

…(略)…

このような状況下にあって、フレデリック・ショパン協会科学評議会は一九七三年一〇月八日の会議の席上、「問題解明に寄与し得るあらゆる資料、情報、手段を考慮し、その上で再調査を遂行すべき義務を感ずる」との決定を行った。

抗争中の“手紙”の写真コピーはもう一度、人民警察庁中央司令部ワルシャワ犯罪捜査研究所の全面調査に委ねられ、調査経過および結果はヴワディスワフ・ヴイチック大佐がフレデリック・ショパン協会科学評議会に一九七四年十二月十六日付けで提出した。協会の科学評議会は当専門調査の結果報告書全文を細部に至るまで検討、更に討議を行った末、全面的に専門家諸氏の見解に賛同したのである。

…(略)…

検討対象の手紙がフォト・モンタージュという手法で作成されたものだったことは、反論の余地もなく明らかとなった。偽作者はショパンの本物の資料の複製写真をあちこちの、したがって、質も色調も同一でないショパン研究書の写真から取り集めて利用した。」

イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳

『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)より

 

このように、鑑定結果が二転三転している訳だが、贋作であるとした二件はいずれも、中立の立場を取っていた「ショパン協会」が公の機関筋に調査を依頼したものなので、あくまでも公正で、調査にも慎重に時間をかけており、公の機関らしく結論も断定口調ではなく、非常に信頼性の高いものだと言える。

しかし一方の本物とした一件は、グリンスキと言う強硬な擁護派が個人で私的機関に依頼したものなので、その手続き自体が既に公正を欠いている上に、調査にかけた時間も短く、結論も断定口調で、その性急さはますます我々に警戒心を抱かせるばかりなのである。

スモテルは続ける。

 

「誰が、いつ、誰に頼まれてこのような偽せ物を作ったのか? 今日、われわれはまだこの問いへの反駁の余地のないような答えは出しかねている。確認出来ることは、ただ、写真コピーの偽造に先立ち、この謎が広く熱心に研究され、準備されただろうということだけである。万が一にも失敗することがないよう、テキストの信憑性が偽造写真によって証明されるよう、全力が、そして、あらゆる努力が傾注されたに違いない。ところが、結果は全くその意に反したのである。偽造写真はむしろ、伝説から発し、伝説と共にあったショパンのデルフィナへ宛てた“手紙”に、致命的な一撃を加えたのであった。」

イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳

『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)より

 

このような事実を知るにつれて私が危惧したのは、もしも「シュトゥットガルトの手記」の「筆跡鑑定」を依頼した人物が「グリンスキ」のような強硬な擁護派、もしくはカラソフスキーのような熱狂的な国粋主義者で、しかもその鑑定を引き受けたのが公の機関ではなかったとしたら、果たしてその「筆跡鑑定の専門報告」は、本当に信用にたる最終結論と見なしてもいいものなのだろうか?と言う事だ。

 

そもそも、「シュトゥットガルトの手記」を本物であると擁護する人間は、まずそのほとんどが国粋主義的な考えに傾いていると言えるだろう。

国粋主義者と言うのは、古今東西を問わず、いつでも強硬なやり方で、必ず自己の都合のいいように歴史を捏造するものだ。それはカラソフスキーのような人物を筆頭に、今までショパンの伝記に関わったポーランドの作家達がしてきた事を見ればよく分かるだろう。なので、そう言った人達が音頭を取った「筆跡鑑定」が果たしてどのような結論を導き出すか、それは上記の「ポトツカ贋作書簡」の例を見ても明らかだろう。それは言わば、最初から出来レースのようなものだからだ。

だがしかし、そんな事より何よりも、これは「ポトツカ贋作書簡」の場合でもそうだったが、たとえ「筆跡鑑定」の結果がどうであれ、そこに書かれている内容が現実的にあり得ないと言う矛盾の方が、実際は遥かに重要なのである。その矛盾とは、前回指摘したように、グワトコフスカの件だったり、パスポートの件だったり、ピアノの件だったりだ。そう言った矛盾が解決されない以上、むしろ「筆跡鑑定」の結果がどうだろうともはや問題ではないと言ってもいいくらいなのである。

 

 

【3.贋作者の動機について】

これが贋作だと仮定した場合、それを捏造した贋作者の製作動機とは一体何なのだろうか?

それは再三言ってきたように、国粋主義思想である。

 

それでは、タルノフスキーの『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』と言う本(講演)が、いかに国粋主義的な思想に貫かれているか、その一端を紹介しよう。

以下は、先に挙げた序文の続きである。

 

「優れた才能のある3人のポーランド人――ミツキェヴィチ、クラシニスキ及びスロバツキ――彼らはエオリアン・ハープを胸中に持っていると詩に謳われ、絡み合った3人組の美声歌手としてショパンに先行していた。しかしながら、“分割”されたポーランドには、4人目の、そしてより偉大な、多くの不滅のメロディーの作曲者が出現する事になった。ショパンは人生のハープを選び、曲が葬送行進曲のような表現できないほどの哀愁を帯び、かつ絶望的な哀調のこもったものであっても、タランテラ曲の奔放さを持ったものであっても、それを力強く叩いた。事実、ショパンだけがポーランド詩の特色である独創的な、哀愁を帯びた、素朴な、且つ愛国的なそのインスピレーションのアイデアを外国人に伝える事が出来る。何故なら彼の音楽は、その同じインスピレーションにより活性化・感銘化され、言うなればその詩の実現であり、その翻訳であるからだ。

したがって、我が国の歴史にあっては、彼の音楽は、国の分割の次に大きな重要性と功績を有する。彼の音楽は、我々の心情の主導的な精神を外の世界に主張し、しかも徹底的に主張するので、それとともに、我々のために栄光を勝ち得、我々が以前には所有していない音楽界での市民権を得た。それはその中に我々の詩を創造した精神の真髄とその表現を含んでいる。

ショパンと現代の詩人達との間には相似性があり、そのフィーリングとインスピレーションの類似、そしてその心情にさえいくつかの類似点が存在する。真に、ポーランドの最初の音楽家、現在までで唯一の偉大な音楽家として、芸術の世界で名誉ある地位を獲得した。彼は、我々の記憶と感謝を要求できる特別な権利を持っている。そして、このためには、美しく高貴な感性を、豊かで鮮明な想像力を、とても非凡な知性を、他人の苦しみに対して稀な優しさを、これらそれぞれを有し、妙に貴品のある洗練された心情を追加しなければならない。さすれば誰もが、最も魅惑的で興味ある現代のポーランドの著名人の一人を形成する要素を発見するのである。」

スタニスラフ・タルノフスキー著・JT.タンカレー編/ナターリア・ヤノータ英訳

『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』(ロンドン:ウイリアム・リーヴス83 チャリング・クロス通り W.C.

CHOPIN: AS REVEALED BY EXTRACTS FROM HIS DIARY(LONDON: WILLIAM REEVES.83, CHARING CROSS ROAD, W.C.)より

 

このように、話の趣旨が、ショパンを語る事以上に、同胞民族への愛国的呼びかけに傾いている事がよく分かるだろう。

更に続ける。

 

「彼を取り巻く同情、また、彼に言及する全てものを興味あるものにする同情は、彼の芸術や音楽についての立場を評価する資格のない者をも、一般に知られていない彼に関する少しの詳細記述、例えば、手紙や覚書に温存された、あるいはアルバムの中に不用意にスケッチされ残された彼の感傷や印象の名残に出会う事が出来たと勇気づける事になる。それは、偉大な音楽家を評価するものでもなく、一人の人間の一生と人格をスケッチする事でもないが、彼の一生と作品――彼の栄光と我々の名声のために、これらを、既に長い間待った――の全体図を将来完了する予定のショパンの伝記収集に保存する価値ある詳細記述を追加する事になる!」

スタニスラフ・タルノフスキー著・JT.タンカレー編/ナターリア・ヤノータ英訳

『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』(ロンドン:ウイリアム・リーヴス83 チャリング・クロス通り W.C.

CHOPIN: AS REVEALED BY EXTRACTS FROM HIS DIARY(LONDON: WILLIAM REEVES.83, CHARING CROSS ROAD, W.C.)より

 

これを読んで思い出すのは、イワシュキェフィッチが「ポトツカ贋作書簡」について語った以下の言葉だ。

 

…(略)…この手紙はわれわれがショパンの発言に物足りなさを感じる空白の部分をあまりにもはっきりと埋めている。我々がショパンにこう語って欲しいと思うようなことを、彼は発言しすぎている。」

イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳

『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)より

 

国粋主義者にとっての「シュトゥットガルトの手記」こそ、正に、「ショパンにこう語って欲しいと思う」願望の究極の具現化だと言えるだろう。

それに関連して、ハラソフスキも次のように指摘している。

 

本小冊子のタイトルは非常に紛らわしい。何故なら、シュトゥッガルトの日記からの抜粋は、それに該当する音楽的な説明を合わせても、全66ページ中9ページ以下(2533ページ)を占めるだけであり、残りの部分は、ショパンの作品と、ポーランド国家における彼の作曲家としての重要性に関する詩的な記述に費やされているからである。

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

タルノフスキーは更に、ショパンの作品に関しては、「諸君、帽子を取りたまえ、天才だ!」を始めとするシューマンの評論文を2ページ以上にもわたって引用する事で代弁させたりもしている。つまりタルノフスキーは、自分自身の言葉では音楽や音楽家を語る能力を持ち合わせていないと言う事を自ら暴露してしまっているのである。

たとえば以下のような具合にである。

 

 

【4.タルノフスキーの嘘の数々】

 

「やや驚くべきことに、シュトゥッガルトの日記からの抜粋は、ワルシャワ陥落の過酷なニュース(183198日)によって創作意欲を掻き立てられたと考えられている練習曲・ハ短調・作品1012(革命のエチュードと呼ばれている)によって説明されるのではなく、前奏曲・第24番(ニ短調)及び第2番(イ短調)によって説明されている。タルノフスキーの説得力あるその箇所を引用すると(25ページ)、

“…戦争が終了してワルシャワ占領のニュースを受けた時、彼は自分が感じた事を、あの同じ小さなアルバムに明らかにしている。苦痛、落胆、呪い、神への冒涜、涙、全てがすぐに表われ、そして最も恐ろしい全ての事、あらゆる不安、不安と懸念とが表れた。最も激しい気質への容赦ない拷問、狂気へ向かう傾向のある、優しく神経質な何か。ポーランドと、愛するワルシャワに対する全ての悲しみと嘆きの中で、神に関する、また神への苦情の中で、彼の父や母や姉妹達はどうなったのか?と言う、この身悶えするような問い掛けが、リフレインのように繰り返し、そこで混じり合う…(※ここで日記の抜粋がいくつか紹介されている).全てこれは、彼の音楽創作の一つに反映されている。前奏曲・第24番である。おそらく、余り重要でない小さな作品かもしれないが、最も絶望したものの一つで、最も特徴あるものの一つでもある。”

シュトゥッガルトの日記の更なるページを論じた後に、タルノフスキーは続ける(33ページ)、

この心情を、写真のように事実の通りに、かつ正確に描写した一つの音楽創作がある。その作品では、この単調で不屈な一つの思いと、ほとんど麻痺した絶望の、物言えぬ静かなトーンを聞くことになる。これが、前奏曲・第2番である。そのような状態を長く続ける事は出来ない。それは、完全な狂気になるか、――そうでなければ終わらせなければならない――ここで言及するなら、苦痛の影響下において、この性質の病気がどのようなピッチで成長するかを証明することになる。それは続いたが、幸運にも短期間であった。ショパンは、シュトゥットガルトでの恐るべき滞在の後に、パリにいた。

タルノフスキーが、あたかもこれら二つの前奏曲はシュトゥッガルトで、すなわち1831年に作曲されたごとくこれらを語る時、実際はこれらの曲は更に後になってから作曲された(おそらく1837年に着手し、183839年の冬の期間にマジョルカで完成した)のであるが、我々は彼の誤りを咎める事はできない。何故ならば、二つの前奏曲は、ショパンがシュトゥッガルトで感じたであろう憂鬱と絶望の感情を優れてよく表しているからである。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

驚くべき事に、これらの意見には何の資料的根拠も示されていない。それのに、タルノフスキーは一体何を根拠にこのような事を断言しているのだろうか?

     彼に資料提供したマルチェリーナ・チャルトリスカ后妃は、確かにルドヴィカからショパンの前奏曲に関する自筆資料を2点預かっていた。それについてはエーゲルディンゲルが『ショパンの響き』(音楽之友社)で書いている。だが、そのどちらの資料にも、上記の「二つの前奏曲」と結びつく書き込みはない。

だがこれは、その内容もその口ぶりも、カラソフスキーが伝記に書いていた≪革命のエチュード▼≫のエピソードとほとんど同じで、単にそれを流用アレンジして曲名だけ変えたようなものなのである。

 

「ミューニッヒ(※ミュンヘン)での成功に励まされて、ショパンはこの寛容な都を後にして、苛重な試練が待ち受けていたスツッツガルトヘ向った。その試練とは一八三一年九月八日にワルソウ(※ワルシャワ)がロシア人に略取された報道であった。家族の者や愛人の運命を思うての悲嘆、心痛、絶望は彼の不幸の桝を充たした。こうした感情の影響下にあって、彼は「革命のエチュード」と呼ばれるかの壮大なハ短調の練習曲(最初の蒐集の際リストに捧げた)を書いた。左手の急速な経過の狂乱の嵐の中に、或時は熱狂的に、或時は倨傲な威儀を以て現われ、感奮せる聴者の心に、地上をめがけて烈しく雷電を投げつけるツォイス神(ギリシャの主神)の姿をもたらしている。

こうした気分で、ショパンは一八三一年の九月末にパリを指して出発した。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

要するにタルノフスキーは、単純にカラソフスキーの作り話からインスパイアされて「シュトゥットガルトの手記」を贋作したと言う事なのである。

更に驚くべき事は、それにも拘らず、このハラソフスキのように、愛国心の強いポーランドの人々は、このような意見に対してはとにかくほぼ無批判に受け入れてしまうと言う事なのだ。

だが我々のような外国人の客観的な目から言わせて頂くと、そんな事を言い出したら、他の全てのショパン作品が、資料的根拠など何もなくても聞き手のイメージだけで勝手に作曲者の作曲動機を決め付けていい事になってしまう。たとえば短調で書かれたポロネーズなどは、1817年(当時8歳)に書いた≪第11番 ト短調▼≫.から1841年(当時32歳)の≪第5番 嬰へ短調▼≫に至るまで、どれも革命を連想させると言えばそのように聞こえてしまうし、スケルツォもまた然りである。それではもはや“何でもあり”状態だ。

だからハラソフスキは、タルノフスキーの愛国的な空想に関しては、たとえそれがどんなに無茶苦茶なものでも同胞民族として見過ごしてくれるのだ。だがその一方で、ナショナリズムの絡まないエピソードに関しては、とにかく容赦なく批判するのである。

ハラソフスキは続ける。

 

「しかしながら、タルノフスキーがポロネーズ・変イ長調・作品53に関して空想的な物語や伝説を無批判に繰り返し語る場合は、彼を正当化するのはかなり難しい(39ページ)。

“このポロネーズは、彼が1840年にスペインから帰国した時に書かれた。作者の想像力は非常に興奮していたので、彼がそれを書き終えた時に、同夜、彼は疑う余地のない幻覚に取り付かれた。”

この段階で誰もが、タルノフスキーが、どのような方法で、その幻覚に関する全ての事を知り得たのかと尋ねるに違いない。彼はこう続ける。

“彼は自分の部屋で、一人で仕事中にピアノを弾いていた。それを弾き終えた時、彼の神経は非常に興奮した状態にあった。突然、アコーディオン・ドアが開き、そこから民族衣装を着けた戦いの亡霊の行進が入って来た。女性達はフープ・スカートと胸衣を着け、あたかも彼の音楽に合わせて踊るように、みんなで厳かに列をつくり、彼の前を通り過ぎて行った。そして、彼はこの事に恐怖を抱いたので、他のドアから逃亡し、その夜は戻らなかった。”」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

あの《英雄ポロネーズ》の醸し出すイメージが、このようなエピソードとどう結びつくと言うのだろうか?

 

更に、次のようなエピソードも考えられないものである。

 

「タルノフスキー伯爵は、ショパンが演奏会のために(グートマンの)大き過ぎるコートを借りると言う、起こりそうもない物語をもっともらしく繰り返す(14ページ)。

“彼は、決して自分を満足させるようなスーツが作れた事がなかった。演奏会の前には、いつも幾つかの夜会服を別々の仕立屋に注文した。それら全ての試着をするのだが、彼に気に入る服はなかった。演奏会に登場する前の最後の瞬間に、巨匠は、彼の友人で教え子の、彼の二倍の体格をしたグートマンの長すぎるコートを掴み、それを着て舞台に現れた。”

ショパンのドレスに関する潔癖さは、彼自身の手紙と共に、彼に関する最近の描写からもよく知られている事なので、この話は全く架空の事として棄却しても支障はなく、またショパンの演奏会はそれほど頻繁にあった訳でもないので、彼は夜会服を注文する機会がなかったであろう。彼は“自分の体の倍の大きさ”(グートマンは巨大な男であった)のコートを着て現われるよりは、むしろ死んでも見られたくない方を選ぶであろう。ウイリアム・マードックはショパンの伝記に関する彼の著書に、ショパンの生徒であるジョルジュ・マティアスによる、ショパンの容姿に関する記述を引用している(299ページ)。

“ほっそりとして、気品があり、通常はふじ色かブルー色かベイジュ色の織り目の細かい布で作られているフロックコートのボタンを首まで掛けて閉じ、常にスマートに服を着ている。彼の足は小さくて細いが、常に鏡のように輝いているエナメル靴をスマートに履いていた。誰もが彼は指の先まで紳士であり、人間としても、音楽家としても、貴族的であったと言うだろう。”

この、上品でドレスに誇りを持つ男が、公開の演奏会で、自分の体の二倍も大きい長い服を案山子のように着て演奏する事を、実際に誰が想像できようか?」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

ショパンがおしゃれに気を使うのは有名で、その傾向は既に少年期の手紙からも窺い知る事が出来た。

 

ショパンの作曲方法に関しても、誰が考えてもあり得ないようなとんでもない話を書いている。

 

「同様に、ショパンの作曲方法に関するタルノフスキーの記述もありそうもない話である(14ページ)。

“作曲する時は、彼の考えを表現する最後の形式を決めなかった。彼はそういう時、友人(度々子供であったが)を呼び入れて、その一つを選ばせようと全ての楽節を演奏した。彼らの生まれながらの本能に頼って、その子供が最も可愛いと考えるフレーズを選択するのであった。”

ショパンが子供に、たとえばピアノソナタ・ロ短調のための的確なフレーズの選択を頼むなど、そのようなアイデアは言葉にするには余りにも馬鹿げた事である。ショパンの天賦の才能は、彼が最も初期の幼児期から、音楽の領域では独自の方法を的確に知っていたという事実にある。彼が作曲について誰の助けも必要としなかったのは確かであり、ましていや子供の助けを必要とした事などあり得ない。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

これらの出鱈目なエピソードの数々は、タルノフスキー自身の創作でないとしたら、資料提供者であるチャルトリスカの創作だと言う事になる。つまり「シュトゥットガルトの手記」とは、このような嘘を平気でつらつらと書き連ねるような人達が典拠なのだと言う事実を忘れてはならない。

ただ、それはそれとして、ハラソフスキもハラソフスキで、彼はこのようにまともな論評を続けたかと思えば、再び愛国的な箇所が出てくると、途端にタルノフスキーを容認してしまうと言った有様なのだ。

ハラソフスキは続ける。

 

「タルノフスキーは、ショパンの夜想曲とマズルカの説明においては遥かに恵まれている。“陽気さの中の絶望”の典型として、マズルカ・作品562が引用されている。ピアノソナタ・変ロ短調の葬送行進曲について話す時には、タルノフスキーはショパンを、ポーランドの国民的な吟遊詩人であるミツキェビッチと比較している(45ページ)。

“全国民の葬送の野外劇において、その葬儀を見た時に、陽気で、断腸の想いであった全ての事を、この鐘の響きの中で聞くことが出来るからである。それは瞬時に百万人の胸中から発せられる溜息ほど深く強力ではない。そしてショパンは、ミツキェビッチのように、彼もまた百万の溜息に悩まされたと話す権利はないのか?”

ショパンの音楽に関するタルノフスキーの意見が遠慮がちなのは(“酷使した憂鬱さ” “沈着さ不足” “不可解な考え”のように)、彼(タルノフスキー)が、より近代的なショパンのハーモニーの革新性を判断するには余りにも保守的過ぎていた事を証明するものである。本著作は、ミツキェビッチのもう一つの並置、詩人とショパン・作曲家で終了する(66ページ)。

“そしてその詩人が、1831年にポーランドが征服された影響下で他国へ移住し、最も美しい作品を祖国にもたらしたように、それゆえ同じ感覚の影響を受けているその音楽家は、最もポーランド的な精神で、その後の全生涯における悲哀から憧れまでを、同様に、希望と確信に満ちた和音を用いて、最高のインスピレーションを生み出す。”」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

もはや、基準となっているのは批評家としての客観的な意見ではなく、ポーランドへの愛国心になってしまっている。

なので、ハラソフスキは以下のように結論付ける。

 

「タルノフスキーはこれらの文章で、ショパンはポーランドの最も偉大な外交使節になる運命であったと共に、彼の音楽は、ポーランドの愛国的な詩人達の詩よりもよっぽど効果的な、世界に向けたメッセージであったという事実を正確に強調している。

そのような霊感をうけた言葉が、上記に引用したように、嘘混じりの作り話、あるいは全くの伝説と一緒くたにされているのは残念な事である。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より

 

私が常々、ポーランド人の書いたショパン伝こそ安易に鵜呑みにしてはならないと警戒を促してきた意味がお分かり頂けるだろうか?

もちろん、私はポーランド人が全てそうだなんて事は言っていない。誤解されたくないが、私はショパンを愛するのと同じようにポーランドやポーランドの人々に対して非常な親近感や愛情を抱いている。ポーランドのショパン関連の作家や研究者の中にだって、「ビアウォブウォツキ書簡」を編集したソウタンや、「ポトツカ贋作書簡」をまとめたスモテルや、その他大勢、尊敬に値する素晴らしい仕事をした人物は勿論いくらでもいる。

だが残念な事に、そう言った人々の仕事や意見は往々にして歴史に埋もれがちで、どうしても「声高な少数派」がクローズアップされて一人歩きしてしまうのが世の常である。

「シュトゥットガルトの手記」は正に、“戦火”と言う証拠隠滅によって永遠に保護されると言う皮肉の下に、そうやって現在に至るまで「本物」として生き残ってしまっている…私にはそう思えてならないのである。

 

 

先述したように、「シュトゥットガルトの手記」と「ポトツカ贋作書簡」にはいくつもの共通点があった訳だが、今度は、両者の相違点について考えてみよう。

まず、最も大きな違いは、その典拠に権威があったかなかったかだだろう。

 

「ポトツカ贋作書簡」の発見者はパウリーナ・チェルニツカと言う自称・音楽学者で、彼女はポトツカの旧姓であるコマル家の縁者だと名乗り、そしてそれが資料の入手先だと説明していた(※後の調べで、彼女のコマル家はポトツカとは縁もゆかりもないコマル家だった事が判明している)。つまり、この人物は何処の馬の骨とも分からない無名の一般人だった。

一方「シュトゥットガルトの手記」の発見者であるタルノフスキー伯爵は、大層な肩書きをいくつもぶら下げているだけでなく、実際にショパンと交際していたチャルトリスカ后妃からその資料を受け取ったと説明し、現物の提出はなかったものの、チャルトリスカ自身もその講演活動に協力した。

つまり、同じ挙動不審な発見者でありながらも、その権威には雲泥の差があり、それが各々の資料の信憑性を推し量る判断材料にもなったのである。

 

だが私に言わせれば、チャルトリスキ家の人間が絡んでいると言う時点で、十分注意が必要になってくる問題だと言える。

確かにショパンはその最晩年において、このマルチェリーナ・チャルトリスカ后妃には世話になっているし、彼女の人間性も評価しており、そんな内容の手紙も書き残している。

だがそれは、あくまでも彼女個人に関しての問題であって、たとえ彼女個人はそうだとしても、彼女の背後にある家の問題が絡んでくればまた話は別になる。

と言うのも、このチャルトリスキ家はポーランドの名門貴族で、中でもアダム・イエジィ・チャルトリスキAdam Jerzy Czartoryski 17701861は、1830年に起こった対ロシアの11月蜂起に参加し」、その失敗後、パリにおいて「ポーランドからの亡命貴族の中心的存在となって、将来のポーランド国王ともくされていた」と言うような人物である(※東 貴良監修『ショパン パリコレクション』より)。つまりチャルトリスキやその遺族には、それこそロシアを憎む理由がありあまるほどあったと言う訳で、そう考えると、なるほど、つまりそんな家系の人間なら、国粋主義的なタルノフスキーと結託して「シュトゥットガルトの手記」のようなものを捏造する動機は十分にあると言えるだろう。

 

実際、タルノフスキー著『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』と言う本は、先述したように、あまりにも嘘が多すぎる。

資料的根拠の示されている話と言えば、シューマンの「諸君、帽子を取りたまえ、天才だ!」を始めとする批評文等からの引用くらいなものなのである。

その本の序文にある通り、「著者(※タルノフスキー)は彼女(※チャルトリスカ)から、ショパンによって書かれた手紙と同じくらい興味ある詳細記述をたくさん受け取った」と言うのが本当なら、それらの話をでっち上げたは資料提供者であるチャルトリスカだと言う事になる。

チャルトリスカでないとすれば、必然的にタルノフスキーになる訳だが、いずれにせよ、そもそもこの講演内容を依頼したのはチャルトリスカであり、自らもそれに参加して「実演」までして見せている以上、この二人はやはり共犯なのである。

 

[2013年2月15日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証12-3:自他共に認める筆不精のショパンが、果たして日記など書くのか?

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