検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
15.カラソフスキーが切り捨てた「家族書簡・第10便」――
15. The letter from Chopin to
his family part 10-
今回紹介するのは、ウィーン時代の「家族書簡・第10便」なのだが、この手紙は、カラソフスキーが伝記の中でそのほんの一部分を要約する形で紹介したものが残されているのみで、したがって、ウィーン時代の「家族書簡」の最後となるのは、本来は前回の手紙ではなくこの手紙だったはずなのである。
以下がそのカラソフスキーによる伝記の記述である。
「一八三一年の七月二〇日に、ショパンは同日にクメルスキーと共にリンツ及びザルツブルグを通ってミューニッヒ(※ミュンヘン)に向って出発するつもりだと両親に通知している。彼は達者で、金の用意もしてあると書いたが、永続きのしないことを恐れ、ミューニッヒヘ向けて更に若干金を送ってもらうように乞うた。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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以前にも書いたが、父ニコラがミュンヘンの息子宛に書いたと言う「1831年6月29日」付の手紙は、もしもそれが本物であるのなら、間違いなく上記の手紙に対する返事として書かれたものであったはずで、すなわちニコラは日付を一ヶ月間違えて書いていたと考えるのが自然だろう。かつてショパンも日付を一ヶ月間違えて書いていた事が実際にあった。
カラソフスキーは続ける。
「ここではパリヘ旅立つ金をもちながら数週間滞在しなければならなかった。これが彼に、ミューニッヒに於げる第一流の芸術家と知り合いになる機会を与えた。その中にはベルマン、ベルグ、シュンケ及びシュトゥンツが居た。シュトゥンツはショパンの演奏と作品とを喜び、フィルハーモニー協会の音楽会で演奏するようにと彼に説きつけた。これらの音楽会の一つで、フレデリックはオーケストラの伴奏でホ短調協奏曲を弾いた。作品の美と弾奏の魅力と詩とに心を奪われて、聴衆は衷心からの、また純真な嘱采を以てこの若い名手を圧倒した。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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ここには、ショパンがミュンヘンで演奏会に出演した事が書かれているが、その様子は当時ミュンヘンでは以下のように報道されていた。
「フローラ(娯楽時報)、一八三一年八月三十日、ミュンヘン 今月二十八日、ワルシャワ出身のF・ショパン氏が音楽協会の講堂でマチネーの演奏会を催し、会場には選りすぐりの聴衆が集まった。ショパンは「ピアノ協奏曲 ホ短調」を披露し、演奏家としての優れた力を示した。主題の個性に満ちた美しい弾き方と愛らしい繊細さが、彼の洗練されたスタイルの特徴であった。作品は全体として華麗で巧みに仕上げられているが、哀愁と明るい旋律の一風変わった取り合わせが独自の味を醸し出す第一主題とロンドの中ほどの部分を除けば、際だって独創的でもなく、また深みが感じられたわけでもない。彼は演奏会の最後にポーランドの歌をもとにした幻想曲を演奏した。スラヴ民謡には聴く者に感動を与えずにはおかない何かがある。ショパンの幻想曲は会場中のかっさいを浴びた。」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より |
※ ここには他に、「シュトゥンツ」が指揮を務めていた事、共演者の中に「ベルマン」がいた事なども書かれている。
これと見比べると、ミュンヘンのショパンに対する批評を、カラソフスキーがあくまでもショパンに好意的に捻じ曲げていた事が分かる。
カラソフスキーはさらに続ける。
「これはショパンがドイツの土地に於ける最後の歌であった。何となれば外遊十八年を通じて、ドイツでは二度と公開の演奏をしなかったからである。最後のウィーン訪問はその方面に於ける彼のあらゆる欲望を抑制したらしかった。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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この解釈はちょっとおかしいのではないか。
「最後のウィーン訪問」が不首尾に終わった事と、その後のショパンが「ドイツでは二度と公開の演奏をしなかった」事とは全く関係がない。
カラソフスキーはウィーンとドイツを全く同列に論じてしまっているが、ショパンはパリ時代以降にもしばしばドイツの地を訪れてはいるのだ。
ただし、その頃にはショパン自身が、苦手な演奏会活動からすでに身を引いていた時期だったので、単にそのような事情で演奏会をしなかったに過ぎず、「最後のウィーン訪問」に絡めてドイツに悪印象を抱いていたなどと言う事ではない。
カラソフスキーは殊更にショパンのウィーン時代を暗黒の一色に塗りつぶしたいようだが(オーストリアがポーランドを分割支配して消滅させた国の一つだからだ)、確かにショパンは、こと演奏活動に関して言えば「最後のウィーン訪問」においては不遇ではあった。しかしながら、全く見過ごされてはいるが、実は作曲に関して言えば、この時期のショパンは水面下において非常な成果を挙げつつあったのである。
たとえば、この時期のショパンは、以下のような重要な作品群をものにしていたからだ。
1. ≪ワルツ 第3番 イ短調 作品34-2 『華麗なる円舞曲』▼≫
これらは、パリで成功を収めた後すぐに出版される事になる作品群で(ワルツだけはもう少し後になるが)、ここで重要なのは、いずれもがピアノ独奏用の小品であり、つまり演奏会ではなくサロンで演奏される事を意識して書かれた作品であると言う点だ。
ウィーン時代のショパンは、まともな演奏会にこそ恵まれなかったが、上流階級の夜会にはそれなりに頻繁に出入りしていた。
そんな日々の中で、自分のあるべき音楽家像が無意識のうちに育まれていき、その結果がこれらの作品として結実していったと言っていいのではないだろうか。
すなわち、ウィーン時代がショパンにもたらした不遇は、逆にショパンの本分を開花させる事につながっていたのだとも言えるのである。
[2012年11月5日初稿 トモロー]
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