検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
10.奇妙な「家族書簡・第7便」――
10. A strange letter from
Chopin to his family-
今回紹介するのは、ウィーン時代の「家族書簡・第7便」である。まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第7便)■ (※原文はポーランド語) |
「1831年5月28日、ウィーン 僕はちょうど郵便局から帰って来たばかりなのですが、でも、またしても僕宛の手紙は来ていませんでした! 僕は水曜日に、ヤロツカ夫人から親愛なるパパの追伸付きの一通を受け取りまして、それはとても短いけれども、僕にはとても貴重なものでした。それは、少くともあなた方皆が元気でいる事を僕に告げてくれました。マルツェリとヤンに関しては、僕の要請にも関わらず、もしも彼らが一言二言だけしか書き送れないほど出し惜しむのなら、全く手紙をくれないように願います。僕は手紙を開封せずに送り返せるくらい怒っています。もちろん彼らは、時間がないと言う使い古された弁解をするでしょう! 毎週詳細に手紙を書く時間があるのは僕一人だけです。でも、その貴重な時間は、なんて早く経過するのでしょう。既に5月の末で、そして僕はまだウィーンにいて、おそらく6月中はずっといるでしょうが、と言うのも、クメルスキ[*ショパンをパリヘ連れて行く事になっていた尊敬すべき友人]がまた病気で寝ていなければなりませんので。 この手紙がとても退屈なものだという事は、既に僕にも分っていますが、でもあなた方は、これが軽い病気の兆候だなどと気遣うような推測はしないで下さい。それどころか、僕は全く元気で、すばらしく楽しく過ごしています。今日は朝早くから午後の2時まで演奏しましたし、それから食事をしに家を出て、あの偉いカントレルに会った時、彼は親切にもケルビーニとパエールに宛てた手紙を書いてあげようと申し出てくれました。 夕方には、我が病人を訪ね、それから劇場へ行き、そこでは演奏会があって、ヴァイオリニストのエルツが演奏する事になっています。彼はイスラエル人(ユダヤ人)で、ワルシャワでのヘンリエッタ・ゾンターク嬢の演奏会の時にデビューしましたが、シッと野次られて危うく舞台から引っ込まされるところでした。ピアニストのデーラーもまたチェルニーの作品を幾つか弾く事になっていて、最後にエルツがポーランドのアリアによる自作の変奏曲を弾きます。かわいそうなポーランドのモチーフ達よ、お前は公衆を引き寄せるために、“マユフェス”(ユダヤ人のメロディ)と一緒にどんな過度な色付けをされ、それで“ポーランド音楽”の名を施されるかなんて、少しも思いもよらないだろう。 もしもあなた方が本当のポーランド音楽とそれらの模造品とを区別し、前者をより高い位置に割り当てるほど率直だったら、あなた方は気が狂っていると思われる事でしょう。特にチェルニーのようなウィーンの神託の場合、軽食みたいな彼の音楽製品には、まだポーランドのテーマによる変奏曲を少しも含んでいません。 昨日の午後、僕はタールペルクと一緒に新教の教会ヘ行きまして、そこではヘッセと言うブレスラウ(ヴロツワフ)から来た若いオルガニストが、ウィーンの聴衆の中でも最も選ばれた人達の前で演奏する事になっていました。音楽界のエリート達が出席していました;シュタットラー、キーゼヴェッテル、モーゼル、ザイフリート、それにギロヴェッツ。ヘッセには才能があって、オルガンの扱い方をよく理解していました;彼は僕にアルバムを託しましたが、しかし僕は、何かを書くのに十分な機智を持っていないように感じました。 水曜日に、僕はスラヴィクと一緒に朝の2時までバイエルの所にいました。彼は、僕がここで本当に友達らしい個人的な交際をしている芸術家の一人です。彼は第二の、それも若いパガニーニのように演奏しますが、いずれパガニーニを凌駕する見込みがあります。僕も、既に何回も聴いていなかったなら、そうは思わなかったでしょう。ティトゥスがスラヴィクと知り合いにならなかったのがとても残念で、と言うのも、彼は聴き手を魅了して、彼らの涙を誘うからです;彼はティーゲルさえ泣かせました;G公爵やイクル公爵も彼の演奏にはとても感動しました。 あなた方はいかがお過ごしですか? 僕は常にあなた方の事を夢見ています。殺戮はまだ終わらないのでしょうか? 僕は、あなた方の答が何であるかよく分かっています;それは“忍耐”です。僕は絶えず同じ思いで自分を慰めています。 木曜日にフークス家の夜会がありました。ここで一番優れた芸術家の一人であるリムメルが4つのチェロのために書いた自作を披露しました。メルク[*ショパンはメルクに、彼の《チェロとピアノのための序曲と華麗なるポロネーズ》を捧げた。]は、いつものように、彼の生命に充ちた演奏によって、実際の作品よりも美しくしました。僕達は12時までいまして、と言うのも、メルクが僕と一緒に彼の変奏曲を演奏して楽しんだからです。彼が自分から僕にそう言ったので、彼と一緒に演奏するのはいつも非常な喜びです。僕達はお互いに相性が良いのだと思います。彼は僕が本当に尊敬する唯一のチェリストです。 僕はどうしたらノルブリン[M.L.ペーテル・ノルブリンは1781年ワルシャワに生れ、パリのグランド・オペラ劇場の第一チェリストで音楽院の教授だった。1852年に亡くなった。]のようになれるか分かりません;どうか彼宛の手紙を忘れないで下さい。」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER
LIMITED 1938)より
この手紙は、オピエンスキーの英訳版もシドウの仏訳版も、あるいは「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」のポーランド語原文も内容は同じであるから、現時点ではこのカラソフスキー版しか資料が存在していない事が分かる。
それにしてもこの手紙の内容は奇妙だ。
ところどころにおかしな箇所があり、おそらく、その全てが贋作ではないにせよ、かなりの部分がカラソフスキーによって加筆改ざんされているものと思われる。
まず日付についてだが、この手紙は、前々回紹介した「家族書簡・第6便」のちょうど2週間後に書かれている(※下図参照)。
1831年5月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 第6便 |
15 ハンカ |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 第7便 |
29 |
30 |
31 |
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それでは、今回はその一文ずつを見ていこう。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#1■ |
「僕はちょうど郵便局から帰って来たばかりなのですが、でも、またしても僕宛の手紙は来ていませんでした!」 |
まず、この書き出しがおかしい。
前回の「ハンカ書簡」でも説明した通り、ウィーン時代のショパンは、ウィーン到着当初こそホテル住まいをしていたが、12月には「表通りのコールマルク」にアパートを借り、以来、ウィーンを出るまでそこに住んでいたのである。
そして、ハンカ宛の手紙では「コールマルク、1151番地、3階」という「完全なアドレス」を教えて、郵便物を直接自宅へ送るように指示していた。
つまり、当時のショパンは「局留め」では郵便の受け渡しはしていなかったのであり、その事実が「ハンカ書簡」によって判明しているのだ。
となれば、今回の手紙に書かれているように、ショパンが家族からの手紙を「郵便局」で受け取っていたはずがないのである。
この「局留め」と言うのは、あくまでもカラソフスキーが勝手に考え出した設定に過ぎず、彼が「マトゥシンスキ贋作書簡」の中で三文芝居的な感傷エピソードを捏造する必要から用いたのであり、実際の事実とは一致していない。
したがって、今回のこの書き出しの文句もショパンが書いたものではあり得ず、カラソフスキーが自作の贋作書簡との辻褄合わせに、そして、ウィーン時代のショパンを実際以上に孤独に描こうとして加筆改ざんしたものだ。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#2■ |
「僕は水曜日に、ヤロツカ夫人から親愛なるパパの追伸付きの一通を受け取りまして、それはとても短いけれども、僕にはとても貴重なものでした。それは、少くともあなた方皆が元気でいる事を僕に告げてくれました。」 |
この箇所については何とも言えない。
この「ヤロツカ夫人」と言うのは、1828年にショパンをベルリンに連れて行ってくれた「ヤロツキ教授」と関係があるのかもしれないが、それについて説明してくれる著書は見当たらない。
この箇所は、実際の「第7便」に書かれていた可能性があると考えても差し支えないと思われる。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#3■ |
「マルツェリとヤンに関しては、僕の要請にも関わらず、もしも彼らが一言二言だけしか書き送れないほど出し惜しむのなら、全く手紙をくれないように願います。僕は手紙を開封せずに送り返せるくらい怒っています。もちろん彼らは、時間がないと言う使い古された弁解をするでしょう!」 |
この箇所はおかしい。
以前「マトゥシンスキ贋作書簡」を検証した際にも説明した通り、ここに書かれている「マルツェリ」とは「マルツェリ・ツェリンスキ」の事で、彼は1829年の夏にショパンがウィーンを初訪問した際に同行した4人の友人達のうちの1人であるが、しかしショパンは、彼の事を決してファースト・ネームでは書かないのだ。過去の「家族書簡」においても「ヴォイチェホフスキ書簡」においても、必ず「ツェリンスキ」と名字で書いているのである。
そして、もう一方の「ヤン」と言うのはマトゥシンスキの事なのだろうが、だが彼は今頃は軍医として戦場にいるはずなのではないのか?
それなのに、どうしてそのマトゥシンスキに対して「手紙をくれ」などと暢気な事を、しかもそれを家族伝手に「要請」しているのか?
この支離滅裂なシナリオ破綻は、正にカラソフスキーならではのものだろう。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#4■ |
「毎週詳細に手紙を書く時間があるのは僕一人だけです。でも、その貴重な時間は、なんて早く経過するのでしょう。既に5月の末で、そして僕はまだウィーンにいて、おそらく6月中はずっといるでしょうが、と言うのも、クメルスキ[*ショパンをパリヘ連れて行く事になっていた尊敬すべき友人]がまた病気で寝ていなければなりませんので。 この手紙がとても退屈なものだという事は、既に僕にも分っていますが、でもあなた方は、これが軽い病気の兆候だなどと気遣うような推測はしないで下さい。それどころか、僕は全く元気で、すばらしく楽しく過ごしています。今日は朝早くから午後の2時まで演奏しましたし、それから食事をしに家を出て、あの偉いカントレルに会った時、彼は親切にもケルビーニとパエールに宛てた手紙を書いてあげようと申し出てくれました。」 |
この辺は、おそらく実際の手紙に書かれていた可能性は高いと思われる。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#5■ |
「夕方には、我が病人を訪ね、それから劇場へ行き、そこでは演奏会があって、ヴァイオリニストのエルツが演奏する事になっています。彼はイスラエル人(ユダヤ人)で、ワルシャワでのヘンリエッタ・ゾンターク嬢の演奏会の時にデビューしましたが、シッと野次られて危うく舞台から引っ込まされるところでした。ピアニストのデーラーもまたチェルニーの作品を幾つか弾く事になっていて、最後にエルツがポーランドのアリアによる自作の変奏曲を弾きます。かわいそうなポーランドのモチーフ達よ、お前は公衆を引き寄せるために、“マユフェス”(ユダヤ人のメロディ)と一緒にどんな過度な色付けをされ、それで“ポーランド音楽”の名を施されるかなんて、少しも思いもよらないだろう。 もしもあなた方が本当のポーランド音楽とそれらの模造品とを区別し、前者をより高い位置に割り当てるほど率直だったら、あなた方は気が狂っていると思われる事でしょう。特にチェルニーのようなウィーンの神託の場合、軽食みたいな彼の音楽製品には、まだポーランドのテーマによる変奏曲を少しも含んでいません。」 |
この箇所は、その全てではないにせよ、カラソフスキーがかなりニュアンスを変えて改ざんしている可能性が高いだろう。
確かにショパンは、「チェルニー(ツェルニー)」の作品に対してはあまり良い印象を持っておらず(ただし人柄については評価していた)、それは1829年の「第1回ウィーン紀行」でも再三に渡って触れられてはいた。
しかし、ここでのチェルニー批判は少し度が過ぎている。
どうしてチェルニーが「ポーランドのテーマ」を用いないだけでこんなに批判されなければならないのか?
また、「エルツ」に対する批判も同様である。
確かにショパンは「ユダヤ人」を蔑視する傾向があるが、この批判もちょっと異常な印象を受ける。
ショパンが自国の音楽を愛してやまない事は確かだが、しかしそれをこのように、外国人に対してその優位性を振りかざしたり、敬意を払わない事を批判したり、果たしてショパンがそんな事を考えるだろうか? これはとても、母国の音楽に対する愛着などと呼べる次元の話ではなく、これでは単なる国粋主義思想の権化でしかない。つまりは、カラソフスキーそのものだと言う事だ。
「マトゥシンスキ贋作書簡」がそうだったように、とにかくカラソフスキーは、執拗なまでに「ポーランド」、「ポーランド」と、やたらと「ポーランド」を強調し過ぎるのである。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#6■ |
「昨日の午後、僕はタールペルクと一緒に新教の教会ヘ行きまして、そこではヘッセと言うブレスラウ(ヴロツワフ)から来た若いオルガニストが、ウィーンの聴衆の中でも最も選ばれた人達の前で演奏する事になっていました。音楽界のエリート達が出席していました;シュタットラー、キーゼヴェッテル、モーゼル、ザイフリート、それにギロヴェッツ。ヘッセには才能があって、オルガンの扱い方をよく理解していました;彼は僕にアルバムを託しましたが、しかし僕は、何かを書くのに十分な機智を持っていないように感じました。」 |
この辺は特に問題は感じられない。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#7■ |
「水曜日に、僕はスラヴィクと一緒に朝の2時までバイエルの所にいました。彼は、僕がここで本当に友達らしい個人的な交際をしている芸術家の一人です。彼は第二の、それも若いパガニーニのように演奏しますが、いずれパガニーニを凌駕する見込みがあります。僕も、既に何回も聴いていなかったなら、そうは思わなかったでしょう。ティトゥスがスラヴィクと知り合いにならなかったのがとても残念で、と言うのも、彼は聴き手を魅了して、彼らの涙を誘うからです;彼はティーゲルさえ泣かせました;G公爵やイクル公爵も彼の演奏にはとても感動しました。」 |
この箇所もちょっと変だ。
なぜなら、この「スラヴィク」の話題は、すでに「第5便」で以下のように書いているからだ。
「僕は先凋、彼の家で、優れたヴァイオリニストのスラヴィクに会いました。彼はせいぜい26歳くらいで、僕はとても気に入りました。僕達がヴェルフェルの家を出た時、彼は僕に、故郷へ帰りたいかと訳ねたので、僕は肯定で返事しました。すると、“その代りに僕と一緒に来たまえ、君と同郷のバイエル夫人のところへ。”とスラヴィクは言いました。僕は同意しました。ちょうど同じ日に、クラシェフスキがドレスデンから、僕にバイエル夫人に宛てた手紙を送って来たのですが、でも何もアドレスがなくて、バイエルというのはウィーンによくある名なのです。それで僕は早速手紙を取って来てスラヴィクと一緒に行く事に決めました;すると、驚くなかれ! 正にそのバイエル夫人の許へ行ったのです。彼女の夫はオデッサから来たポーランド人なのです。彼女は僕の事を聞いた事があると言って、スラヴィクと僕とを次の日のディナーに招待してくれました。
ディナーの後、スラヴィクが演奏したのですが、パガニーニ以来誰よりも、僕を際限なく喜ばせました。僕の演奏もまた彼に受け入れられ、僕達は一緒にヴァイオリンとピアノの二重奏曲を作る事に決めました。僕はワルシャワにいた時にも、そうしようと考えていた事なのです。スラヴィクは、実に、偉大なまた才能あるヴァイオリニストです。」
これとはまた違う日の話題なのだとしても、「スラヴィク」、「バイエル」、「パガニーニ」と、話の内容自体がほとんど一緒なのである。
おそらくは、ここで再び「ティトゥス」の名を出してヴォイチェホフスキの同行を裏付けておこうとでもしているかのようだ。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#8■ |
「あなた方はいかがお過ごしですか? 僕は常にあなた方の事を夢見ています。殺戮はまだ終わらないのでしょうか? 僕は、あなた方の答が何であるかよく分かっています;それは“忍耐”です。僕は絶えず同じ思いで自分を慰めています。」 |
ここに書かれている「殺戮はまだ終わらないのでしょうか?」と言う一言は、おそらくショパンの本音であり、これこそが本来のショパンらしいコメントだと言える。
要するに、彼の望みはただひたすら“早く戦争が終わる事”であり、ポーランドが独立するとかしないとかに関しては、結局は保守中立の立場でしかものを考える事ができないと言う事だ。
したがって、前々回の「家族書簡・第6便」でカラソフスキーが勝手に加筆改ざんして自ら削除した、
「あなた方は、ストチェクでのドウェルニッキイ将軍の勝利をどう思いますか?
神よ、我々のために戦い続けてください!」
と言う文章が、いかにショパンの言葉としてそぐわないかがよく分かるだろう。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)#9■ |
「木曜日にフークス家の夜会がありました。ここで一番優れた芸術家の一人であるリムメルが4つのチェロのために書いた自作を披露しました。メルク[*ショパンはメルクに、彼の《チェロとピアノのための序曲と華麗なるポロネーズ》を捧げた。]は、いつものように、彼の生命に充ちた演奏によって、実際の作品よりも美しくしました。僕達は12時までいまして、と言うのも、メルクが僕と一緒に彼の変奏曲を演奏して楽しんだからです。彼が自分から僕にそう言ったので、彼と一緒に演奏するのはいつも非常な喜びです。僕達はお互いに相性が良いのだと思います。彼は僕が本当に尊敬する唯一のチェリストです。 僕はどうしたらノルブリン[M.L.ペーテル・ノルブリンは1781年ワルシャワに生れ、パリのグランド・オペラ劇場の第一チェリストで音楽院の教授だった。1852年に亡くなった。]のようになれるか分かりません;どうか彼宛の手紙を忘れないで下さい。」 |
この手紙でもっとも奇妙な点とは、このちょうど2週間後の6月11日(土)に行われる事になる慈善公園への出演について何も触れられていない事だ。
この時点ではまだその話はなかったのかもしれないが、次回に紹介する「第8便」にも書かれていない。
ただし、「第8便」は慈善公演からちょうど2週間後なので、おそらくそれに関する報告は15日(水)付の手紙でなされていたはずなのだ。したがってその手紙が失われている事になる。
そうするとつまり、延期された挙句に中止となった4月の「歌手ガルシア・ヴェストリスの演奏会」を含め、ウィーン時代における数少ないイベントに関して報告していたはずの手紙ばかりが、どう言う訳かことごとく失われているのである。
これについては、イザベラが最初からカラソフスキーに資料提供しなかったのか、それとも、提供されていたにも関わらず、カラソフスキーがショパンのウィーン時代をとにかく不幸の一色に描きたいがために抹殺してしまったのか、断定はできないが、今回の手紙の奇妙さを考える時、どうも後者の可能性を捨てきれないのである。
[2012年9月18日初稿 トモロー]
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