検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
9.ハンカ宛の手紙から分かるカラソフスキーの嘘――
9. Lie of Karasowski to
understand from a letter to Hanka-
今回紹介するのは、ウィーン時代のショパンがプラハのヴァーツラフ・ハンカに宛てた手紙である。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、 プラハのヴァーツラフ・ハンカへ■ (※原文はポーランド語) |
「1831年5月15日、ウィーン 敬愛する慈悲深い御方! W.A.マチェヨフスキ教授が、私を通じて、敬愛する貴殿に例の小包のことをお忘れなき様にご注意せよと、ご親切にも警告されました。その小包を貴殿がロムアルドゥ・フーべ氏から直接にお受け取りくださるべく、そのフーべ氏が既に貴殿宅を訪問されていますので、彼にその小包を直接マチェヨオフスキ教授にお渡し頂きたくようにご依頼頂くか、あるいは、ウィーンにおります私のところまでお届け頂きたくお願い致します。私の滞在しているアドレスは、コールマルク、1151番地、3階です。(時期としては)可能ならば、6月1日の前までに。この日は、多分私がウ ィーンに滞在を予定している最後の日となります。 受け取り次第、直ちにお待ちになっておられる教授にお渡しします。その小包の中には(教授が)早速お仕事を始めることを可能にする資料が入っています。 仮に、私のこの手紙によって貴殿にご迷惑をお掛けするのであれば、お許し願いたく存じます。それと共に、この機会を利用して、貴殿に対する敬意を心より表し、今後とも変わらず、お引き回しを頂くよう心からお願い申し上げる次第です。 F.F.ショパン。」 |
この手紙は、前回紹介した「家族書簡・第6便」の翌日に書かれている(※下図参照)。
1831年5月 |
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14 第6便 |
15 ハンカ |
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ハンカと言えば、ショパンが1829年の夏に初めてウィーンを訪れた際、その帰りの道中でプラハに立ち寄った時に知り合った人物で、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著・関口時正訳『決定版
ショパンの生涯』によると、「スラヴ語の研究者であり、チェコ民族とチェコ語の復興を願って奮闘する愛国詩人だった」。
ショパンは、「1829年8月26日」付のドレスデンからの家族書簡に次のように書いていた。
「ハンカ氏は、僕がもたらしたスカルベクさんの近況を聞いて喜んでいました。僕達は彼の訪問者名簿に署名しなければならず、それはプラハ博物館を訪れた者で特にハンカ氏と関係のある者が書くようになっています。ブロジンスキ、モラフスキ(2人ともポーランドの有名な詩人)、その他の名前が既にそこにありました。なので、僕らもそれぞれ何か考えて書かねばならず、一人は韻文を、もう一人は散文を、スジェコフスキは長いスピーチを書きました。音楽家はこんな時どうすればいいのです? 幸い、マチェヨフスキが四行詩のマズルカを書く事を思い付いたので、僕がそれに曲を付けて、我が詩人と共にできるだけ独創的な筆致で署名しました。ハンカ氏は喜んでいました;それは、彼のスラヴ民族の研究に対する功労を賛美する、彼のためのマズルです。」
※
この時に書いた歌曲が《マズル・どんな花》▼である。
今回のこの手紙は正規の郵便で送られたものではなく、文中に書かれているように、「フーべ」によって直接プラハのハンカへ届けられたものだ。
日曜日に郵便局が開いているはずもないし、手紙の内容も、ほとんど用件を伝えただけの短いもので、人伝に送るメッセージ手紙の特徴そのままである。
この手紙はシドウの仏訳版書簡集で初めて公表されたものなので、それ以前に編纂されたオピエンスキーの英訳版書簡はもちろんの事、さらにそれ以前のカラソフスキーの時代にも発見されていなかった。
この手紙について、シドウは以下のように注釈している。
「この手紙はこれまで未発表だったもので、プラハのエンジニアであるヤロスラフ・プロハスカ氏が、『ボヘミアのショパン』という彼のエッセイを執筆するためにプラハ国立博物館の書庫で研究していた時に、彼が私に送ってきたものである。この手紙は、ウィーンでのショパンの完全なアドレスを教えてくれる。」 ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』 CORRESPONDANCE
DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue
Musicale)より |
ショパンのウィーンでの住所については、すでに「1830年12月1日」付の「家族書簡・第4便」において、
「僕達は表通りのコールマルクに部屋を予約しました;3階に3部屋で、本当に心地よくて、素晴らしく、エレガントな家具付で、月極の部屋代も安いのです。」
と書かれていた。
私の考えでは、ここは「僕達」ではなく「僕」だったはずだが、それはさて置くとしても、カラソフスキーはこの箇所から「コールマルク」と言う具体的な名称を削除し、「青物市場に近い大通りに」と書き換えていた。
さて、私がここで問題にしたいのは、ショパンがこのハンカ宛の手紙の中で、郵便物を直接自分の住所宛に送るように指示している点だ。
だからこそショパンは「コールマルク、1151番地、3階」という「完全なアドレス」を教えているのであり、それについては、当然ワルシャワの家族やエルスネルやその他の友人知人達に対しても同じだったはずである。
と言う事は、必然的に、「1830年12月26日」付の「マトゥシンスキ書簡」で、ショパンがマトゥシンスキに向かって「アドレスは、ウィーン市、局留めだ」と書いていたのが、やはりショパン本人が書いたのではなく、カラソフスキーによる嘘だった事が分かるのである。
あの手紙の中では、ショパンはウィーンの郵便局で手紙を受け取り、道すがらそれを読んで感動し、周りの人々に抱きついてキスしていた事にされていたが、実際には手紙は「局留め」ではなく自宅へ届けられていたはずなのだから、そんな三文芝居など起こりようがないのである。
[2012年9月4日初稿 トモロー]
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