検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
3.ヴォイチェホフスキの英雄的行為は事実なのか?――
3. Is the heroic action of Wojciechowski
a fact? -
今回紹介するのは、ショパンがウィーン到着してから家族宛に書いた手紙のうち、確認されているものの中で2番目のものである。まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第5便)■ (※原文はポーランド語、一部フランス語が混在) |
「ウィーン、 クリスマス前の水曜日 (僕は手許にカレンダーを持っていないので、日付が分りません。) 最も親愛なる両親と姉妹達、 僕があなた方の許を去ってから、昨日で7週間になります。何のために? でも、そうなのですから、仕方ありません。 僕は昨日、ヴォラ村へ案内された時と同時刻に、ワイベルハイム家の小さなダンス・パーティに招待されました。そこには、旧式でもなければユダヤ人らしくも見えない美貌の持主が何人もおりました。 僕はコティヨン(※フランス語。フランスの社交ダンスの一種で、動きの激しいのが特徴。また、社交界にデビューする娘達のお披露目舞踏会の意味もある)に加わるよう迫られました;それで、何回か踊り廻って、それから帰宅しました。女主人と愛想の良い娘さん達は、幾人かの人に演奏を求めていましたが、でも僕はピアノを弾く気分にはなれませんでした。 ルイーズ(※姉ルドヴィカの事)が知っているリクル氏を、僕に紹介してくれました。彼は善良で誠実なドイツ人で、僕の事を偉大な人間だと考えています;なので僕は、僕が相応しい気分でない時に演奏して、彼の良い評価を壊したくありませんでした。僕は他に、パパがよく知っているラムピの甥と話をしました。彼はハンサムで、気持ちの良い若者で、とても上手に絵を描きます。絵と言えば、昨日フンメルとその息子に会いました。後者は今、僕の肖像をほぼ仕上げかけています。それはなかなか良く描けていて、誰もそれ以上に描けるとは思えないほどです。僕は正装して坐り、霊感を受けたような表情をしていますが、その美術家がなぜ僕にそんな表情を与えたのか、僕には分りません。この肖像画は、4つ折り型で、チョークで描かれていますが、銅版のように見えます。老フンメルは非常に礼儀正しくて、僕に古い友人のケルントナー・トール劇場の支配人デュポール氏を紹介してくれました。後者は著名な舞踊家で、とてもケチな人だと言われています;しかしながら、彼は僕には非常に愛想が良かったのですが、思うに、おそらく、僕が彼のために無報酬で演奏するとでも思っているのでしょう。彼は間違っている! 僕達は一緒にある種の商談ををやっていますが、しかしはっきりした事は少しも決まらないのです。デュポール氏があまり安くするつもりなら、僕は大レドウテン・ホールで僕の演奏会を開くでしょう。 ヴェルフェルは(※体の具合が前より)良くなりました;僕は先凋、彼の家で、優れたヴァイオリニストのスラヴィクに会いました。[*ヨゼフ・スラヴィクは1806年にボヘミアに生れ、ウルブナ伯爵の出費でプラハ音楽院に入リ、ピクシスの下で学んだ。彼は1833年にペスツにて死んだが、ちょうど一大演奏旅行を始めたばかりのところだった。] 彼はせいぜい26歳くらいで、僕はとても気に入りました。僕達がヴェルフェルの家を出た時、彼は僕に、故郷へ帰りたいかと訳ねたので、僕は肯定で返事しました。すると、“その代りに僕と一緒に来たまえ、君と同郷のバイエル夫人のところへ。”とスラヴィクは言いました。僕は同意しました。ちょうど同じ日に、クラシェフスキがドレスデンから、僕にバイエル夫人に宛てた手紙を送って来たのですが、でも何もアドレスがなくて、バイエルというのはウィーンによくある名なのです。それで僕は早速手紙を取って来てスラヴィクと一緒に行く事に決めました;すると、驚くなかれ! 正にそのバイエル夫人の許へ行ったのです。彼女の夫はオデッサから来たポーランド人なのです。彼女は僕の事を聞いた事があると言って、スラヴィクと僕とを次の日のディナーに招待してくれました。 ディナーの後、スラヴィクが演奏したのですが、パガニーニ以来誰よりも、僕を際限なく喜ばせました。僕の演奏もまた彼に受け入れられ、僕達は一緒にヴァイオリンとピアノの二重奏曲を作る事に決めました。僕はワルシャワにいた時にも、そうしようと考えていた事なのです。スラヴィクは、実に、偉大なまた才能あるヴァイオリニストです。僕がメルクと会った時には、僕達は三重奏曲をやる事が出来るでしょう。僕は近日中にメシェッティ(メヘッティ)家で彼に会える事を望んでいます。 昨日ディアベリ家でチェルニー(ツェルニー)に会いましたが、ディアベリは次の日曜日の夜会に僕を招待してくれまして、そこでは芸術家以外の人と会う事はないでしょう。日曜日にはリクト家でも夜会がありまして、そこでは貴族の音楽家が集って、四重奏の序曲を演奏する予定です。土曜日には、キーゼヴェッテル家(音楽関係の著者)で、古い教会楽の演奏があります。 僕は4階に住んでいます;ある英国人が僕の住居をたいへん気に入って、80グルテンで借りたいと言ってきました;僕はその提案にとても喜んで応じました。若くて気持ちの良い僕の女主人フォン・ラハマノヴィッチ男爵夫人は、フォン・ウスザコフ夫人の義理の姉妹で、4階に20グルテンの広いアパートを持っていますが、これは僕をすっかり満足させました。僕には、あなた方の言いたい事が分かります、“可哀想な奴、屋根裏部屋に住んでいるんだな。”とね。でもそうではないのです;僕の部屋と屋根との間にはもう一階あり、どちらも80グルテンの価値はあります。それにも関わらず、人々が僕を訪問しに来ます;フッサルゼフスキ伯爵さえ上って来ました。市の中心にあるこの街は、僕には都合の良い位置にあり、僕が最もよく行きたい所に近いのです。アルタリアは左手に、メシェッティとハスリンガーの家は右手にあり、ロイヤル・オペラ・シアターは後にあります。僕にとってこれ以上便利な場所があるでしょうか? エルスネル氏には書きませんでしたが、今までチェルニーの所にいました。今日までのところ、四重奏曲は発表されていません。 マルファッティ医師は、僕がシャシェック夫人のディナーに2時でなく4時に行ったので僕を叱りました。僕は来週の土曜日に再びマルファッティと食事する事になっていますが、もしもまた遅刻したら、マルファッティは――彼がそう脅すのですが、僕に痛い手術を施してやるぞ、と。 僕は、親愛なるパパが、僕の軽率さと年長者に対する尊敬の不足を大目に見てくれると想像します;でも僕は改めます。僕は、マルファッティが本当に僕を好いている事を自慢して言っています。ニデツキは毎日僕の所へ弾きに来ます。もしも僕の2台ピアノのための協奏曲が満足いくように出来上ったら、僕達は一緒に公衆の前で弾くつもりですが、でも僕は最初は一人で弾くつもりです。 ハスリンガーはいつも感じの良い人ですが、出版の事については一言も話しません。僕は近いうちにイタリアヘ行くべきでしょうか、それとも待ちましょうか?[*おそらく、半島に広がっている騒動について言及している] 親愛なるパパ、どうかあなたと親愛なるママの希望を僕に知らせてください。 ママはおそらく、僕がワルシャワに戻らなかった事を喜んでいるでしょうけど、僕にはそちらにいる方がどんなにいい事か! 僕に代わって親愛なるティトゥスを抱擁してやって、そして僕に2言3言書き送るよう頼んで下さい。 僕は、あなた方が僕の愛情と深い愛着とを信じているのを知っています;でも、あなた方の手紙が僕にとってどれほど大きな喜びであるか、あなた方には想像できないでしょう。なぜ郵便はもっと早く来ないのでしょうか? あなた方は、僕があなた方の事をとても心配していて、しきりに消息を待ちわびているのを当然の事と思うでしょう。 僕は非常に気持ちの良い知人を得まして、ライベンフロストという若者で、ケスレル家の友人です。僕達はよく会い、また招待されない時でも一緒に街で食事をします。彼はウィーンをすっかり知っていますから、見る価値のある所ならどこでも僕を連れて行ってくれるでしょう。たとえば、昨日などは、大公、公爵、伯爵、一言で言えばウィーンの貴族全てが集まる城砦へ、すばらしい散歩を試みました。僕はスラヴィクに会って、そして僕達は、僕達の変奏曲のためにベートーヴェンの主題を選ぶ事になっているのです。 ある理由では、僕はここにいる事をとても喜んでいるのですが、他の理由では!…… 僕の部屋はとても気持ちがいいです;向かい側に屋根が見え、下を歩いている人達がまるで小人のように見えます。僕が最も幸せな時は、グラーフ製の楽器(※ピアノ)で心行まで弾く時です。これから僕は、あなた方の手紙と共に眠るつもりです;ですからあなた方の事だけを夢に見るでしょう。 昨日、バイエル家でマズルカが踊られました。スラヴィクは、あばた顔をした鼻の大きな伯爵夫人と組みましたが、彼女は上品に古風な服を着ており、頭を彼のコートの広い縁に載せていました。けれども皆、そのカップルを、特にパートナーの婦人を敬い、面白い人達で、上流社会の作法(※フランス語)をよく心得ています。 ウィーンの色々な娯楽のうち、最も人気のあるのはガーデン・コンサートで、そこでは人々が夕食をとっている間に、ランナーやシュトラウスがワルツを演奏します。ワルツが終わる毎に、その音楽家達は騒々しいブラボーを受けます。人気のあるオペラのメロディーや、歌曲やダンス曲で始まるお好みが演奏されると、ウィーン人の熱狂には際限がありません。 僕は、この手紙と一緒に僕の最近作のワルツを送りたかったのですが、郵便馬車が行ってしまいますし、それを書き写す時間がないので、また別の機会にしなければなりません。マズルカ(※複数)もまた、僕は最初に写さなければなりません;でもそれらは、踊るためのものではないのです。 僕はもうさようならを言いたくありません;僕はもっと書く喜びに浸りたいです。もしもあなた方がフォンタナに会いましたら、じきに僕から手紙が届くだろうと伝えて下さい。マトゥシンスキにも、今日か、あるいは次の郵便で長い書簡を送ります。[*ヨハネス・マトゥシンスキは1809年12月9日にワルシャワに生れ、高等中学校ではショパンの学友で、また最も親しい友人の一人であった。彼は医学を研究し、1830年の自由のための戦争中は軍医の任命を受けた。4年後に栄転してチュービンゲンに赴き、そこからパリヘ出て、再びショパンに会った。彼は不幸にも、過度の勉強のため1842年に亡くなったが、その時は医学々校の教授であった。] さようなら、僕の最も親愛なる方々 あなた方のフレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER
LIMITED 1938)より
どう言う訳かカラソフスキーは、この手紙において初めてマトゥシンスキのプロフィールを読者に紹介している。
前回の「第4便」でもマトゥシンスキについては言及されていたし、それ以前のヴロツワフからの「第1便」にも彼の名はあった。そして実はその「第1便」が、カラソフスキーの伝記でマトゥシンスキの名が出てくる最初の手紙だったのである。
たとえばオピエンスキー版においては、マトゥシンスキの名はワルシャワ時代の「ヴォイチェホフスキ書簡」にも出てきていた。ところが、なぜかカラソフスキー版ではそれらは削除されていた。なぜだろうか?
これもグワトコフスカのパターンと一緒で、その頃のカラソフスキーには、まだマトゥシンスキの存在を利用して贋作書簡をでっち上げようと言う構想がなかったからである。そのため、彼の名をそれほど重要視していなかったからなのだ。
「マトゥシンスキ贋作書簡」については前々回にその「第1便」を紹介したが、それは後世の何者かによるもので、カラソフスキーが書いたものではない。カラソフスキーの伝記においては、今回の「家族書簡・第5便」の次に「マトゥシンスキ書簡」が初めて登場する。そしてそれが全ての贋作書簡の発端となっている。
前回も書いた通り、その手紙は完全にカラソフスキーによる贋作である。
したがって、今回の「家族書簡・第5便」の最後で、「マトゥシンスキにも、今日か、あるいは次の郵便で長い書簡を送ります」と書き加えているのもおそらくカラソフスキーであり、この一文はショパン本人のものではないだろう。ショパンなら、「今日か、あるいは次の郵便で」などと書くはずがないからだ。
いつも説明しているように、ショパンが手紙を書く時、彼は必ず郵便馬車の日程に合わせて手紙を書き始め、そしてその出発時刻に合わせて手紙を書き終える習慣があるからだ。ワルシャワ時代と同様に、当時、ウィーンからワルシャワ方面へ出る郵便馬車は毎日あった訳ではない。ウィーン時代の「家族書簡」の日付を調べると、その全てが「水曜日」か「土曜日」に限られている事が分かる。だからこの手紙でも、「カレンダーを持っていないので、日付が分りません」としていながらも、それが「水曜日」である事だけはしっかりと認識しているのである。したがって、もう郵便局へ持ち込む時間が近いからこそペンを置こうとしているはずで、そんな時に、「今日か、あるいは次の郵便で」などとショパンが書く訳がないのだ。「今日」(=「水曜日」)は、もうこの手紙を書き終えた時点で郵便馬車も終わりであり、したがって、たとえ「今日」これから手紙を書いたとしても、結局それがウィーンを出るのは「次の郵便」(=「土曜日」)になってしまうからだ。どうせ「土曜日」にウィーンを出る手紙なら、誰だって「土曜日」まで待って最新の情報を書いて送ろうとするだろう。だったら最初から「今日」はなく、「次の郵便」しか選択肢がない事はショパンなら当然分かっている事なのである。したがってこれもやはり、カラソフスキーが当時の郵便事情と言うものをきちんと把握していない証拠であり、だからこそカラソフスキーは、「マトゥシンスキにも、今日か、あるいは次の郵便で長い書簡を送ります」などと言う頓珍漢な事が書けてしまうのである。
カラソフスキーは、自分で書いた「マトゥシンスキ贋作書簡」を次回に紹介する事への伏線として、この一文と[*註釈]をわざわざここに付け加えているのだろう。おそらく、前回の「第4便」におけるマトゥシンスキの記述も、カラソフスキーが書き加えた可能性が高いと思われる。あそこには、「その仲間達を補完にするためには、もう1人マトゥシンスキがいて欲しいだけです。彼はもう熱病から回復しましたか?」と書かれていたが、これにしても、当時は疎遠だったはずのこの2人の関係からはちょっと考えにくい記述だからである。
さて、今回のこの手紙についても、前回と同様、カラソフスキーによるドイツ語版の他には、やはりカラソフスキーによるポーランド語版があるだけで、それ以外に資料はない。両者を比べると、ところどころに違いがあるにはあるのだが、大体の意味はどれも同じなので、意訳の範囲内で片付けられる類のものである。
そしてこの手紙もやはり、ほとんど読んで頂いた通りの内容で、いかにもショパンの旅行記らしく、とにかくただひたすら日々の出来事が淡々と、そしてウンザリするくらい取りとめもなく綴られている。
まず、日付について見てみよう(※下図参照)。
1830年12月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
11/28 |
11/29 蜂起 |
11/30 |
1 第4便 |
2 |
3 |
4 |
5 news |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 第5便 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
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前回の「第4便」では、11月29日に勃発した「ワルシャワ蜂起」のニュースがまだウィーンに届いていなかったから、ショパンは「知らぬが仏」のような調子で手紙を綴っていたが、今回はその調子が一気にトーンダウンしている。
もちろん、前回からすでに3週間が過ぎ去っており、ショパンの許にも蜂起のニュースが届いていたからだが、ちなみにそのニュースがウィーンに届いたのは、12月5日以降の事だと言われている。
つまり、ウィーン⇔ワルシャワ間で情報が行き来する最短の日数が「6日」と言う事になる訳で、しかもこれは緊急の場合である。
カラソフスキーは、この手紙を紹介する前に以下のような前置きをしている。
「国民が15年間、筆紙に尽し難い忍苦と屈服とを以て堪えて来たコンスタンチン大公の暴虐な支配と勝事気ままな専制的な性質とは、遂に1830年の11月20日に、ワルソウで勃発した革命を誘致した(※この「20日」は誤植。原著ではちゃんと「29日」になっている)。 ポーランドの不穏の報知に接して、ティツス・ウォイシエヒョフスキイは直ちに軍隊に加わるためにウィーンを去った。ショパンはこうした際に、家族や友人達からこんなに遠く離れている事に辛抱し切れなかったから、ティツスと同様な行動を取りたいと思ったが、両親の懇請のため家に帰ることを妨げられた。両親は息子の健康が、戦争の辛苦に適しないのをよく知っていた。ショパンの家族が今や多くの犠牲を払って漸く入り込み、既に良好な成功をおさめた芸術家の生活を中断させたくなかったのは当然である。けれども両親や姉についてのショパンの心配は非常なものであったから、早速特別郵便馬車で友人の後を追った。もし追いついたなら、たしかにワルソウに帰ったに相違ない。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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「ポーランドの不穏の報知に接して、ティツス・ウォイシエヒョフスキイは直ちに軍隊に加わるためにウィーンを去った」
もしもこの時、本当にヴォイチェホフスキがショパンと共にウィーンに来ていたのなら、確かに彼はこの通りにしただろう。
だがその場合でも、このような非常時に、外国にいるポーランド人が帰国するなんて事が容易に出来たとは考えにくいのである。
一つには旅券(パスポート)の問題もある。
たとえば、ショパンが祖国を発とうとしていた時期、近隣諸国で起きていた騒動によって人々が旅券の発行を拒否されていた事を思い出して欲しい。
ショパンはモリオール家がコンスタンチン大公とつながっていたお蔭で特別待遇にしてもらえていたが、一方のヴォイチェホフスキは一体どうやって旅券を発行してもらえたと言うのか?
彼はワルシャワへは来ていないのだから、ショパンと同じコネは使えないはず。したがって別のルートで旅券を発行してもらわなければならない訳だが、はっきりと革命派に属するヴォイチェホフスキにそのようなコネなどあるのか?
しかも更に彼の場合、逆にウィーンからポーランドへ戻る時にだって同様の問題が付きまとっていたはずだ。
今回は反乱であるから、それ以上に入出国の手続きは厳しいものになっているはずで、しかも、いかにも革命に参加しそうな鼻息の荒い屈強な若者を、ロシア当局がおいそれと入国許可するなど常識的に考えられない事である。
となると逆に、もしもヴォイチェホフスキが本当にこの戦争に参加していたのであれば、実際の彼は、本当はこの時期ポーランドを離れていなかった可能性の方が高いのではないかと考えた方が現実的に思えてくる。つまり、ショパンに同行してウィーンに行っていたと言うのは作り話だと言う事だ。
なぜなら、ショパンがワルシャワを発つ前、近隣諸国では騒動が頻発していて、ショパンは安全が確認されるまで何度も出発を延期していた。そんなさ中、ワルシャワでも支配国ロシアに反抗する気運が水面下で起こっていた。だからこそニコラは、その前に息子を外国へ逃がしてやりたかったはずで、そのような時期に、ヴォイチェホフスキのような愛国的人間が、1ヶ月もの長きに渡って自分の所領を留守にするなど、まず考えられないからなのである(※仮にそれが「移住」だと言うのなら尚更だろう)。
それでも、仮にカラソフスキーの伝記に書かれている通り、ヴォイチェホフスキが本当にウィーンに来ていて、当地で蜂起の知らせを受けてから無事帰国する事が出来たのだとしてもだ。それでも彼が義勇軍に加わったのは、どんなに早くても1ヶ月は遅れてからだった事になるだろう。しかも彼は士官学校にいた訳でもなく、普通の高等中学に通って普通の大学を卒業したばかりの若者なのだ。そのような人間がそのような状況で、どのような功績を挙げてのし上がったのかは知らないが、とにもかくにも「大尉補」などと言う地位にまで就き、「これを称えて軍事騎士号の金製十字勲章を拝受した」とまでされているのである。だが本当なのだろうか? もしもそれが事実なら、やはり彼は最初からずっとポーランドにいたのではないだろうか? そして彼は、実は水面下で革命の準備にまで携わっていたのではないだろうか? そう考えた方がよっぽど現実的なのではないだろうか? だからこそ彼は、ショパンがプロ・デビュー公演をしようが告別公演をしようがお構いなしに、ワルシャワに近付く事自体を避けていたのではないのだろうか? そしてその地下活動のアリバイ工作の一環として、ショパンに同行していた事にしていたのではないのか? そう考えれば、ヴォイチェホフスキと言う人物の数々の挙動不審に、きちんと一本筋が通ってくるのである。
「両親は息子の健康が、戦争の辛苦に適しないのをよく知っていた」
この言い方だと、あたかも、もしもショパンが病弱でなかったら、両親は息子にも革命戦争に参加して欲しかったみたいな含みが持たされてしまっているが、そんな事はあり得ないだろう。このような時、平和主義者のショパン家の取る立場は、保守中立しか考えられない。
本稿でニコラ・ショパンについて検証した時にも書いたが、ポーランド人作家によるショパン伝と言うのは、基本的に国粋主義的思想の投影をその執筆動機としているものが圧倒的に多い。だから、我々一般の外国人がショパン伝を通して見るポーランド人と言うのは、誰もが国家の独立を望んでいたかのように錯覚させられている。だが、事実はそうではない。
そこで、ここで一旦、きちんとしたポーランドの歴史書に目を通して見る事にしよう。そうする事で、ショパン伝史観による左派一辺倒のポーランドではない、現実世界の左右複雑なポーランドがあると言う事実を知っておくべきである。
「一八三〇年十一月蜂起の発生 一八三〇年のフランス七月革命の知らせはポーランド人にとって驚きであった。しかし支配階級であるマグナートや地主も、また支配階級と手をむすんでいる裕福なブルジョアジーも、ロシアとの関係を断ち切ろうとする意図は少しもなかった。ツアーリのもとで受けている失望は、民衆蜂起はかなりの危険をともなうという事実を変えることはできなかった。」 ステファン・キェニェーヴィチ編/加藤一夫・水島孝生共訳 『ポーランド史A』(恒文社)より
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そしてそんな彼らと親密に交際し、彼らから様々な恩恵を受けていたショパンが、単純な愛国心のみを根拠に革命派に属していたはずもなく、したがってこう言った事は全て、カラソフスキーの国粋主義的な脚色でしかないのである。そのためにカラソフスキーは、ショパンの手紙からことごとくモリオール家やスカルジンスキ家の名を削除しまくっていたのだから。
さらに、実際の「ワルシャワ蜂起」がどのようなものだったのかも知っておくべきだろう。
「しかし不満は民衆のあいだで高まっていた。国際的緊張は商工業の面で直接の影響を与えた。賃金はますます下がり、失業は広がり、生活費は急上昇した。ワルシャワの貧民たちは現状にとりわけ不満であった。 一年以上ものあいだ、ワルシャワで新しい秘密結社が活動をしていた。そのメンバーはおもに歩兵士官学校の候補生であった。この青年たちは将校になれる見込みもなく、ワルシャワのザクセン広場付近で意味のないパレードをしたり訓練したりすることに飽きていたから、反乱に本気で取りくんだ。彼らの指導者のピョートル・ヴィソツキは、ワルシャワの文学サークルや大学生との接触をたもっていた。彼は政治的野心をもたず、また急進的なプログラムを明確に述べることはなかったが、もし必要がおこれば闘いの合図をする用意があった。民衆は自分のあとにつづくものと信じていたのである。 フランスとベルギーにおける政変からヨーロッパ戦争が今にもおこりそうであった。ニコライ一世は、西欧の革命に反対して干渉を企てるよう、プロイセンとオーストリアに働きかけた。しかし、カルボナリ党に加入していた組織をふくむドイツ、イタリアやポーランドでの愛国サークルや秘密結社は、フランスやベルギーに組みし、援助しようとしていた。ポーランド軍は神聖同盟が予定していた干渉に参加するはずであった。もし軍隊が西へ行ってしまったら、王国はロシアの支配下におかれる危険があった。そのことは、ツアーリ・ニコライがみずからの計画を実行して憲法を廃止するフリーハンドをもつことを意味していた。そのためポーランドの陰謀家たちは、軍隊が外国へ派遣されるまえに闘争を開始しなければならないと判断した。最初の動員命令が十一月十九〜二〇日付のワルシャワの新聞に出て、数日中に闘争が開始されることが決定された。 陰謀の指導者たちは直接の政治目的では合意に達しなかった。モフナツキは彼らのうちにあってただ一人、みずからの革命政府樹立の必要を指摘した。彼の同志たちは重要人物、愛国者に知られている人気のある将軍たち、さらに国会内の反対派議員に期待していた。そして超然としていたが自分たちを激励してくれたレレヴェルに個人的に接近した。勃発のほんのニ、三日前のあいだだけ、陰謀家たちはヴイスワ河の西岸地域で職人や貧民たちのあいだとワルシャワの旧市街を直接に歩きまわり、支持を訴えたにすぎなかった。 十一月二九日の夕方、市民の地下組織はコンスタンティン大公を殺害する目的で、ベルヴェデレ宮殿を攻撃した。同時に士官候補生はワジェンキ公園近くのロシア軍騎兵隊兵舎を強襲した。将校たちはポーランド連隊に立ちあがるよう要請した。この一連の同時行動は失敗した。隠れていた大公は救いだされた。士官候補生たちはワジェンキ公園から押し返され、ブルジョア地区の無関心のなかで市中において戦わざるを得なかった。ほとんどのポーランドの将軍たちは蜂起に加わることをはっきりと拒否した。そのうち何人かは蜂起側によって裏切り者として殺害された。しかし、民衆が自発的に兵器庫を襲い、武装してロシア連隊と交戦すると、その晩、形勢は一転した。十一月三〇日の夜明けまでワルシャワの旧市街は革命派の手にあった。コンスタンティン大公はロシア騎兵隊と彼を見捨てなかったポーランド連隊をもち、市の南部地域をにぎっていた。彼はあえて市の中心の狭い街頭上で戦おうとせず、むしろポーランド保守派が革命を鎮圧することを期待していた。 この勝利のあとでさえ、蜂起者たちは革命政府を樹立しようとはしなかった。求めれば持ちえた権力は、革命に反対する者たちによって、たちどころに取られてしまったのである。」 ステファン・キェニェーヴィチ編/加藤一夫・水島孝生共訳 『ポーランド史A』(恒文社)より
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ショパン伝でしかポーランドの歴史に関する知識がないと、まるでショパンを含めた全てのポーランド人が革命支持者であったかのように錯覚してしまうが、どの国のどの歴史を見たってそのような単純な事例は存在しない。世の中が急激に変わろうとする時、そこにはいつだって賛成派もいれば反対派もいる。そしてもちろん中立派もいるのだ。
そう言った現実の中にショパンやショパン家の人々を置いて考えた場合、果たして彼らがどのような立場を取るか? その性格や生活基盤から、保守中立以外には考えられないのである。
ポーランドの偏向的な作家達がどんなに言葉で取り繕おうと、実際にショパンの取っている行動が全てそれを証明している。
人は、行動では嘘をつけないのだ。
「けれども両親や姉についてのショパンの心配は非常なものであったから、早速特別郵便馬車で友人の後を追った。もし追いついたなら、たしかにワルソウに帰ったに相違ない」
この箇所に限って言えば、現在ではこれはカラソフスキーの作り話であると言うのが定説化している。
当たり前だろう。
もしも本当にショパンに帰る気があったのなら、ヴォイチェホフスキに追いつこうが追いつくまいがそんな事は関係ない。ショパンは去年だって、ウィーンからワルシャワヘの帰国を経験しているのである。ここで重要なのは、カラソフスキーがそのようにして、とにかくショパンの愛国心やヴォイチェホフスキへの依存心を過剰に演出していると言う点なのだ。つまり逆に言うと、カラソフスキーがそのように脚色しなければならないほどに、実際のショパンの手紙や言動に政治的痕跡が見られないと言う事なのだ。
そこから更に逆算して考えると、もしもショパンがヴォイチェホフスキの後を追って帰国を試みたと言うエピソードが作り話だと言うのなら、やっぱりヴォイチェホフスキの同行そのものも作り話だった事になるのではないか? なぜなら、その帰国エピソードこそがショパンの愛国心を強調するためのハイライトで、そのためにわざわざヴォイチェホフスキが遥々ポトゥジンからやって来たのであれば、その帰国エピソードが嘘なら最初からヴォイチェホフスキは同行する意味もその必要もなくなるからだ。
だいたい、そもそもヴォイチェホフスキは一体何の目的でウィーンへ来たのか? その動機がさっぱり分からないのだ。
ショパンの保護者としてか?
その必要などないだろう。ショパンはすでにウィーン旅行を経験済みなのだし、一昨年だってベルリン旅行を経験しているのである。
しかも、あれほどショパンにもワルシャワへも近付こうとしなかった男が、何でここへ来て急にそのような行動に出たのかも極めて不可解だ。
では単なる観光旅行か? それとも、一部の研究者が書いているように「移住」のためか?
それも考えにくいのだ。国内情勢が水面下で緊迫していたこの時期なのだから。
それに、伝記の上では、結果的に彼がポーランドを離れていたのは1ヶ月間だった事になる訳だが、もしも「蜂起」が起きなければ一体彼はいつまで仕事を放ったらかしにして自分の所領を留守にし続けるつもりだったと言うのか?
どこにも納得のいく答えが見い出せないのである。
また、「ワルシャワ蜂起」と言うのは、11月29日の時点ではまだ、単に「一部の士官候補生達によるコンスタンチン大公暗殺計画の失敗」でしかなかった。これが本格的にポーランドとロシアの戦争にまで発展していくのは翌1831年2月以降の事であり、それまでは革命派と保守派の間で政治的な駆け引きが錯綜する状態にあったのである。
つまり、そんな最初期の段階で、ウィーンでそのニュースを得たヴォイチェホフスキが、そんな単なる「反乱事件」に参加するために急遽帰国すると言う発想を持つ事自体がおかしいのだ。たとえばこれが、家の事が心配だからポトゥジンに帰ると言うのならまだ分かる。しかしいきなり戦争に参加するためにワルシャワへ行くと言うのは、どう考えても順番がおかしいだろう。それではまるで、これから先この事件が戦争にまで発展していくのが最初から分かっていた事になるではないか。
つまり、この時ヴォイチェホフスキが取った行動と言うのは、明らかに、最初から事の顛末を全て知っている後世の人間によって書かれたシナリオでしかあり得ない、そんな行動なのである。
結論として、ヴォイチェホフスキのウィーン同行は、どう考えても取って付けたような現実味のない話としか言いようがないのだ。
カラソフスキーは続ける。
「ショパンはウィーンヘ引返して、父の希望に従い、再び音楽会を催す考えを始めた。 けれどもそれはあまり迅速に纏まらなかった。ウィーンの好楽家の趣味は、やや活気を失っていた。それに新に到来した芸術家の中には情深いもしくは有名な友人がなかった。無報酬で演奏する際には、助力者は容易に得られたが、今は事情が変化してしまった。でフレデリックは彼が度外視されていると悟った。ウィーンの人が用心からポーランド人を疎外したという事は、メッテルニヒ時代にはありそうなことである。 ショパンはこれら障碍に打勝つに必要な勢力を欠いていた。以前の知人のある者は病み、或者はウィーンを去り、残りの者はこの優雅な、教育のある、非常な天才をもつ芸術家が成功の結果ウィーンに定住し、こうして危険極まる競争者とすることを恐れていた。多くの者は彼の客間での成功に不愉快をさえ感じていた。それにポーランドでの軍事上の事件が迅速に続いたことが、保護者を威嚇してショパンのために尽力させなかった。また一方ではショパン自身も音楽より政治に心を奪われていた。 愛国的熱誠の気持で書かれたショパンの手紙の中には、家宅捜索をさえ始めたロシア政府の手に落ちるのを恐れて、両親が破ってしまったのが幾通もあった。戦争のために彼が書いたものの多くは、全然ワルソウにつかなかった。故国の悲しい状態は、幸福にも悲嘆にも同様に敏感であったこの若き芸術家の心に、深い悼ましい感銘を与えた。以前は受取人を喜ばせた彼の手紙の陽気な軽快な調子は、或る不満と悲哀とに変った。彼の面白い機智でさえ、次の消息より読者にも会得されるように、まま苦い冷評に変じた。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より
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ここでカラソフスキーは、「愛国的熱誠の気持で書かれたショパンの手紙の中には、家宅捜索をさえ始めたロシア政府の手に落ちるのを恐れて、両親が破ってしまったのが幾通もあった」と書いているが、この文章は完全に矛盾している。
もしも「両親が破ってしまった」であれば、どうして彼はそのような「愛国的熱誠の気持で書かれたショパンの手紙」の存在なり内容なりを知り得たと言うのか? そんなものは最初からなかったはずなのだ。なぜなら、外国からの手紙は当然ロシア当局が検閲しているだろう事ぐらい誰にでも想像はつくだろう。であれば、手紙に「愛国的熱誠の気持」など綴れば、家族を危険にさらしかねない事ぐらい分からぬショパンではない。だからこそ今回の「家族書簡・第5便」でも、その手の事には全く触れていないのである。今後の「家族書簡」でも同様である。
つまり、カラソフスキーとヴォイチェホフスキが結託して、ヴォイチェホフスキがウィーンへ同行した事にしたのも、さらには「マトゥシンスキ贋作書簡」を捏造したのも、全てはショパンの手紙における「愛国的熱誠の気持」の欠如を補うためだったのである。
何度も言うが、私はショパンに愛国心がないと言っているのではない。
ショパンには当然愛国心はあり、それは彼の残したポロネーズやマズルカが何よりも雄弁に語っている。
だが、それと現実の革命を支持するしないは全く別の話だと言っているのである。
ショパンが、このヨーロッパ情勢の混迷する中、特別扱いで旅券を発行されたのは一体誰のお蔭だったのか?
もちろん彼の生まれ持った才能が特別なものだった事が全ての始まりだが、それを愛して後押ししてくれたモリオール家やスカルジンスキ家など、他ならぬコンスタンチン大公とつながっていた有力者達とショパンが懇意にしていたからだろう。
その結果彼は大公から「紹介状」まで預かってウィーンへやって来られたのである。
そんなショパンが革命を支持するとは、すなわち、そう言った恩義に対して恩を仇で返す事に他ならない。
そんな事をすれば、ワルシャワに残してきた家族にどんな災いが降りかかるか?
ショパンやショパン家のような立場の人間にとって、この時代に自らの立ち位置を決定するのはそう単純な話ではないのだ。
次回はカラソフスキーの手による「マトゥシンスキ贋作書簡」を検証するが、実は今回の「家族書簡・第5便」の内容と言うのは、その次回にこそ重要な意味を持つ事になる。
[2012年7月21日初稿 25日改訂 トモロー]
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