検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――
Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–
7.ビアウォブウォツキとジヴニーの密約(その1)――
7. A confidential letter of Białobłocki and Żywny (Part.1) -
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第15番 ハ長調 作品24-2 by Tomoro
[VOON] Chopin:Mazurka 15 Op.24-2
/Tomoro
今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡」の第5便である。
この手紙からは、ショパン家の経営する寄宿学校におけるピアノ教師ジヴニーの役割と、そしてそのジヴニーとショパンとの人間味あふれる交流を読み取る事が出来る。まずは、註釈なしに読んでいただきたい。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ビショフスヴェルダーのヤン・ビアウォブウォツキへ(第5便)■ (※原文はポーランド語) |
「ワルシャワ、1825年10月30日[日曜日]。 親愛なるヤシ! 親愛なるヤレック、― もう一度、親愛なるヤシェック! 君は、僕がなぜ長い間君に手紙を書かなかったかについて疑問に思っていると思う。驚かないでくれたまえ。最初に、僕の前の手紙を読んで、それから以下の続きを読んでくれ: 一昨日、ペンを手に取って机に座ったのに、まだ“親愛なるヤレック”としか書いていない。これは手紙の書き出しだが、それがあまりにも音楽的に響いたので、ジヴニー氏に向かって、最大限に仰々しく読み上げた。彼はピアノの前に坐って居眠りしているグルスキのそばにいた。ジヴニー氏は手を叩いて、鼻をかみ、ハンカチをトランペットの形に丸めて、自分よりもかなり疲れきった緑色の厚いフロックコートのポケットに突っ込み、かつらを真っすぐに直して、それから質問し始めた。:“して、貴殿は誰に手紙を書いているのかね?”
― “ビアウォブウォツキに。” と僕は答えた。― “フーム、ビアウォブウォツキ君にかね?” ― “はい、ビアウォブウォツキに。” ― “ところで、貴殿は宛先をどこにしたのかね?”
― “どこって? いつも通り、ソコウォーヴォです。” ― “して、ビアウォブウォツキ君の容体がどんな様子か、貴殿はご存知かの?” ― “だいぶいいそうです。足の具合はずっと良くなっています。”
― “何と! 良くなっているかね。フム、フム、それはけっこう。ときに、ビアウォブウォツキ君はフリードリッヒに手紙を書いてきたのかな?” ― “はい、書いて来ましたけど、でも、もうかなり前です。” と僕。― “して、どれくらい前かの?”
― “先生はどうしてそんなに色々聞くのですか?” ― “へ、へ、へ、へ、へ” ジヴニー氏は笑う。僕はびっくりして聞いた。― “彼について何か知っているのですか?”
― “へへへへへ”(彼は頭を左右に振りながら、さらに笑い込んだ)。― “彼は先生に手紙を書いて来たのですか?” ― “そうじゃ、書いて来た。” とジヴニー氏は答えた。そして、君が足の具合が良くなくて、旧プロイセンに治療に出かけたという知らせがもたらされ、それが僕達を悲しくさせた。― “しかしどこへ?”
― “ビショフスヴェルダーへ。” その町の名前を、初めて人の口から聞いた。これが別の時だったら、そんな地名は僕を笑わせたのかも知れないが、君がその事を僕に知らせてくれなかったから、この時だけはそれを恨みに思ったよ。とにかく、君が僕に手紙を書くのが順序というものだ。それで、僕はすぐに手紙を書くのを止めた訳だ。何を書くべきか、あるいはどのように書くべきか、それにどこ宛に書くべきかが分からないので、それで手紙を郵便局に出すのが遅れたんだ。 [手紙の中で、ジヴニー氏との話の箇所の欄外に、下記の追記がある] 追記:ジヴニー氏に、なぜ君の事を僕達に話さなかったのかと尋ねたら、彼宛の手紙の中で、君が僕達にメッセージを送っていなかったから何も言わなかったのだと言っていた。それで彼はママからこっぴどく叱られていたよ。 デケルト夫人とチェジンスカ夫人から、君によろしくと言っている。 [欄外終わり] このように、僕にとって重要なニュースが思いもかけずに口から口へと伝わって来た事を分かって欲しい。だから手紙を書くのが遅れても、僕を許してくれるだろうと願っている。君を楽しませられるかもしれないので、いくつかニュースを話すとしよう。でも以下の事を除いては、他に話す事もないんだけど。〈セビリヤの理髪師〉が土曜日に劇場で上演された。これはドゥムシェフスキ、クドゥリッチ、ズダノウィッチの監督の下に指導されている。僕の見たところ、良い出し物だった。ズダノウィッチ、シュチュロフスキ、ポルコフスキは上手く演じていた。アシュペルゲロヴァ夫人や他の二人の声楽家達もよかった:その内の一人は絶え間なく鼻をかんでいて、咳をしていた。:もう一人は泣いていて、やせていて、スリッパを履いていて、室内ガウンを着ていて、絶えずあくびをしていた。その他に、レムビエリンスキ某というのがパリからワルシャワにやって来ていた。彼は総裁の甥で、パリに6年いて、今まで誰も聴いた事のないようなピアノを弾いた。それが僕達にとってどんな喜びだったか、君には想像できるだろう、ここじゃ本当に卓越した演奏なんて今まで聴いた事がなかったからね。彼はプロのアーティストではなく、アマチュアだ。彼の速い、滑らかな、丸味のある演奏についてはこれ以上説明しない。しかし、一人の演奏家で、左手が右手ほどに強いのは稀に見る事だと言う事だけは君に教えておこう。なぜなら、彼のすばらしい才能について君に書くためには、紙の全面が必要になるからね。デケルト夫人はあまり具合が良くない。その他は、僕達はみんな元気だ。さようなら、我が生命よ、もう終わりにしなければならない。何故なら、マチェックが僕を待っているから。彼は僕を捕まえて離さないだろう。僕に手紙を書いてくれ、我が生命よ。僕らの手紙がシンコペーションのように空を飛び交ってくれたら良いのだが。 キスしてくれ、僕は心から君を抱きしめる。 F.F.ショパン (心からの友) ブニアーミンが君について僕に尋ねている。そして、君が彼に何も書かなかった事に驚いていたよ。僕達みんなから君のパパへよろしくと伝えてくれたまえ。 家族のみんなが君に抱擁を送りたいと言っている。子供達は、君が健康を取り戻すように、ママとパパは、君がどんな具合か手紙に書いてくれるように待っている。愛情を込めてお別れの抱擁を送る。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE
DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue Musicale)、
及び、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy
Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej
Młodzieży Akademickiej)より
※
ソウタン版の註釈には、「使用された用紙は明るい黄色、2枚、各用紙のサイズ:22.5 x 18.5cm。第2ページに使用された用紙には透かし模様:文字と数字。」とある。
まずは日付について。
今回は、日付について特に問題はない。ショパンはきちんと「ワルシャワ、1825年10月30日」と書き記してくれているし、この日付自体も、ショパン自身が間違っていると言う事もない。
ソウタン版の註釈には、「ワルシャワで初めて“理髪師”が公演されたのは1825年10月29日」とあり、この手紙の日付はその翌日にあたる。ソウタンはその日付に[日曜日]と付け足しているが、これは前回も引用した通り、「“プウォツク”への郵便物は、毎週月曜日と木曜日の夕刻6時にワルシャワから発送されているが、あらゆる種類の郵便物は、発送時刻前の午後5時までに郵便局へ持ち込むべきものとされていた。これが、なぜショパンが月曜日と木曜日に手紙を書いたかの理由である」と言う事で、ショパンは、今回はぎりぎりの「月曜日」当日ではなく、その前日に手紙を書いていた事を示すためであろう(※下図参照)。
1825年 10月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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6 第4便 |
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26 |
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28 一昨日 |
29 理髪師 |
【30】 第5便 |
31 月曜日 |
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それでは、手紙の内容を全て順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#1. |
「ワルシャワ、1825年10月30日[日曜日]。 親愛なるヤシ! 親愛なるヤレック、― もう一度、親愛なるヤシェック! 君は、僕がなぜ長い間君に手紙を書かなかったかについて疑問に思っていると思う。驚かないでくれたまえ。最初に、僕の前の手紙を読んで、それから以下の続きを読んでくれ:」 |
ショパンは前回の第4便で、配送の手違いによって手紙が「2週間」空いてしまった事を指して「僕の沈黙」と表現していた。その第4便が書かれたのは、私の推定では「10月6日(木)」である。一方今回の第5便は、それから3週間以上もの日数が過ぎ去っている。そしてそれを指してショパンは、「長い間君に手紙を書かなかった」と言っている訳だ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#2. |
「一昨日、ペンを手に取って机に座ったのに、まだ“親愛なるヤレック”としか書いていない。これは手紙の書き出しだが、それがあまりにも音楽的に響いたので、ジヴニー氏に向かって、最大限に仰々しく読み上げた。彼はピアノの前に坐って居眠りしているグルスキのそばにいた。」 |
ジヴニーは1756年生まれであるから、この時彼は御年69歳。
ここに出てくる「グルスキ」とは、ソウタン版の註釈によると、「カイェタン・グルスキKajetan Górski(?)、ミコワイ・ショパンの寄宿生。」との事であるから、おそらくこの光景は、ジヴニーが寄宿生のグルスキにピアノのレッスンをしている最中に、そのグルスキが「居眠り」をぶっこいている…と言う事なのではないだろうか?
前にも書いた通り、ジヴニーは、ショパン家の寄宿学校において、あくまでも寄宿生達にピアノを教えるために雇われたのである(※決して、よく言われているようにショパンのために雇われたのではない)。ピアノが普及し始めた当時においては、それが貴族や士族などの上流階級の嗜みとして流行していたからだ。したがって寄宿生達にとって、ピアノは単に教養の一環として上から押し付けられた「お稽古事」に過ぎない。
しかしながら、自らが望んでピアノを習い始めた訳ではなくても、たとえばビアウォブウォツキのように芸術に関心の高い生徒であれば、当然ピアノも熱心に学び、その結果ジヴニー先生とも個人的に親しくもなるだろう。一方、もちろんその逆もある。元々芸術にそれほど関心のない生徒であれば、いやいやながら仕方なくピアノを弾かされるような感じにもなるだろう。そしてその結果、このように、「グルスキ」にレッスン中に「居眠り」をさせ、そしてそれを老ジヴニー先生も特に咎めだてしない…と言うような暢気な光景にもなるのである。だから、この「グルスキ」と言う寄宿生がショパンの手紙に出てくるのもこれが最初で最後なのだ。このようなタイプの人間は、とうていショパンとは友達になり得ないからである。
ジヴニーは本職がヴァイオリンで、プロのピアニストでもないのだから、あくまでもニコラから定額の給料をもらっていたはずで、決して生徒一人ひとりからレッスン料を取っていた訳ではないはず(※それだと、いかに金持ちの子息相手とは言え、生徒の学費負担が大きすぎると考えたのだろう)。おそらく、三食昼寝付の給料制で安く雇える友人だったからこそジヴニーだったはずなのだ(※そしてそれなら、ほとんどタダ同然でショパン家の子供達4人のレッスンも見てもらえるのである)。ちなみにヘドレイは自著の解説で以下のように書いている。
「なお当時のワルシャワには主な楽器工場が三十もあり、ピアノ教師が六十人、九軒の楽譜商と五つの音楽堂があった。」 アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳 『ショパンの手紙』(白水社)より |
つまり、最初から「我が家の神童フレデリック」のためにピアノ専門の優秀な教師を雇うつもりなら、他にいくらでも選択肢はあったと言う事である。
だからこそジヴニーは、生徒の中にピアノに興味のない者がいたとしても、別に音楽院に入るための予備校じゃあるまいし、無理に強制して弾かせるような真似もしないのだ。親から「習い事」を押し付けられてモノになるかならないかは、たまたま本人にその適正なり興味なり素質なりがあったかなかったかの話であり、それは現代においても何ら変わりはしない。
ショパンが伸び伸びと自由にその才能と個性を育む事ができたのも、このような暢気で片手間の老ピアノ教師が、優秀すぎる弟子の要求に応える事ができた間だけ、それを優しく見守ってあげられていたからなのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#3. |
「ジヴニー氏は手を叩いて、鼻をかみ、ハンカチをトランペットの形に丸めて、自分よりもかなり疲れきった緑色の厚いフロックコートのポケットに突っ込み、かつらを真っすぐに直して、それから質問し始めた。:」 |
この箇所は、ショパンには珍しく、極めて描写的である。
想像するに、昨日観て来たばかりの歌劇に触発されてこんな調子になっていたのかもしれない。
ショパンはここで、ジヴニーの取った動作の一つ一つを、見たままをありのままに描写して見せている。そのお陰で我々は、ジヴニーのその動作から、この時の彼の心理をつぶさに観察する事が出来るのだ。ここで重要なのは、ショパンがジヴニーに向かって“親愛なるヤレック”と「仰々しく読み上げた」のに対して、ジヴニーが最初は拍手をしてみせたものの、そのあと、ショパンのそのような道化に対してはコメントを返さず、かなりもったいぶった仕草をしながら間を置き、それからいきなり「質問し始めた」事である。
つまりジヴニーは、最初から「何か」を隠していて、それを「ショパンに告げるべきかどうか」について考えあぐねていたのだ。ところが、ここでショパンの「知らぬが仏」のような無邪気な道化振りを見せられて、「これは、場合によっては話さねばならない」と思うに至り、それで「取り敢えず探りを入れてみる」事にしたのである。
ショパンはもちろん、これを書いている時点では、すでに、そう言ったジヴニーの動作の意味があとになって合点がいっている。だからこそ、その上でこうしてそのままを書いているのであり、だからこれは、単なる客観描写ではない。これを書く事によって、きちんとジヴニーの心理を読み手(=ビアウォブウォツキ)にほのめかしているのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#4. |
「“して、貴殿は誰に手紙を書いているのかね?” ― “ビアウォブウォツキに。” と僕は答えた。― “フーム、ビアウォブウォツキ君にかね?”
― “はい、ビアウォブウォツキに。” ―」 |
※
このように、この手紙の前半部分に見られるような、会話の内容を対話形式でそのまま描写すると言う書き方は、モーツァルトの手紙にはしばしば見られるが、ショパンの手紙ではおそらくこれが唯一のものだろう。
ジヴニーはショパンに、まず、「誰に手紙を書いているのか」と質問し始めている。「誰に」だって? そんな事は最初から分かりきっているはずなのにだ。ショパンが「ヤシ」とか「ヤレック」とかの愛称で呼び、尚且つ手紙を書くほど親しい「ヤン」は2人しかいない。そのうちの1人はヤン・マトゥシンスキだ。しかし彼は同じワルシャワに住み、ショパンと同じ学校に通い、今はその学校で毎日彼らは顔を合わせている。したがってこの時期にそっちの「ヤン」に手紙を書くはずがない。
したがって、ショパンは当然“ビアウォブウォツキ”と答える。するとジヴニーは、“フーム、ビアウォブウォツキ君にかね?”などと、最初から分かっていたくせに、わざと念を押してくるのだ。これはつまり、「やっぱりそうじゃったか…しかしこれは少々困った事になったわい…」と言う意味である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#5. |
「“ところで、貴殿は宛先をどこにしたのかね?” ― “どこって? いつも通り、ソコウォーヴォです。”
―」 |
ここでジヴニーの「探り」が具体的に始まる。
それに対して、ショパンはこの時点で、そんなジヴニーに対してすでに不審なものを感じ取っている。だから彼は、“どこって?”と思わず聞き返しているのだ。つまりこれは、「どうしてそんな分かりきった事を聞くんだろう?」と言う意味である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#6. |
「“して、ビアウォブウォツキ君の容体がどんな様子か、貴殿はご存知かの?” ― “だいぶいいそうです。足の具合はずっと良くなっています。”
―」 |
ここでジヴニーは、ついに核心に迫る質問を投げかける。
なぜなら、もしもジヴニーの知っている「ビアウォブウォツキ情報」がショパンの知っている「ビアウォブウォツキ情報」と同じなら、それはそれで問題はないからだ。ところが、ショパンから返ってきた答えは、案の定、ジヴニーの知っている情報とは違うものだったのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#7. |
「“何と! 良くなっているかね。フム、フム、それはけっこう。ときに、ビアウォブウォツキ君はフリードリッヒ(※フレデリックのドイツ語名、つまりショパンの事)に手紙を書いてきたのかな?” ― “はい、書いて来ましたけど、でも、もうかなり前です。” と僕。―」 |
さて、両者の持っている情報が違うとなると、そうすると、あとジヴニーにとって問題なのは、ショパンのその情報が「いつ」もたらされたものなのか?である。仮に自分の知っている情報よりも新しければ、まさに「それはけっこう」になる訳だが、もしも逆なら、ジヴニーが最初に危惧した通り、最悪の事態である。そして案の定、ショパンから返ってきた答えは、「もうかなり前」と言うものだった。
ちなみに、どうやらジヴニーは、普段ショパンの事を「フリードリッヒ」と呼んでいたようだが、これは「フレデリック」のドイツ語名になる(※ショパンは「Fridrich」と綴っているが、本来は「Friedrich」)。
ジヴニーはチェコ出身である。チェコと言えば、地理的には北にポーランド、西にドイツと隣接している国で、公用語はチェコ語であるが、当時のボヘミアの共通言語はドイツ語だったという事だそうである。そしてジヴニーは、ポーランドにあってはドイツ語で読み書きをしていた事が分かっている。彼が書き残した手紙は現在2通が知られているが、いずれもドイツ語で書かれている。
※
そのうちの一つは、次回紹介する「ビアウォブウォツキ書簡」の第6便で、ショパンがビアウォブウォツキ宛に書いた手紙に、ジヴニーが自ら追伸を書き込んだもの。もう一つは、翌1826年の夏に、転地療養でライネルツに滞在中のショパン宛に書いたもの▼(※こちらでもジヴニーは「フリードリッヒ殿!」とドイツ語名で呼びかけている)。どちらも非常に短いメッセージ程度のものだが、全てドイツ語で書かれている。
これらの事実から、ジヴニーは会話においても、基本的にはドイツ語で話していた可能性があり、おそらく彼のポーランド語は非常にドイツ語訛りの強いものだったらしい事が窺われる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#8. |
「“して、どれくらい前かの?” ― “先生はどうしてそんなに色々聞くのですか?” ―」 |
ここでまたジヴニーは、念を押すようにその正確な日付を知ろうとする。
するとショパンは、いよいよ怪しいと勘付き、しかも何か良からぬものを感じ取ったので、ジヴニーの質問には直接答えず、ついに、逆に質問し返してしまうのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#9. |
「“へ、へ、へ、へ、へ” ジヴニー氏は笑う。僕はびっくりして聞いた。― “彼について何か知っているのですか?”
― “へへへへへ”(彼は頭を左右に振りながら、さらに笑い込んだ)。― “彼は先生に手紙を書いて来たのですか?” ―」 |
そんなショパンの態度に、ジヴニーは「先に勘付かれてしまった」と思い、思わず笑ってごまかすのだ。
なぜなら、ジヴニーの知っている「ビアウォブウォツキ情報」が、決して明るいものではなかったからだ。そして、それをそのまま悲劇的な調子でショパンに伝えるのも、彼には憚れたからだ。彼は彼なりに、どうやってショパンの受けるショックを最小限にとどめるか、もはやそれだけが残された問題となっていた。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#10. |
「“そうじゃ、書いて来た。” とジヴニー氏は答えた。そして、君が足の具合が良くなくて、旧プロイセンに治療に出かけたという知らせがもたらされ、それが僕達を悲しくさせた。―」 |
ここに至って、ジヴニーも、もう白状するしかないと腹を括る。
そうしないと、ショパンはビアウォブウォツキのいないソコウォーヴォ宛に、とんちんかんな内容の手紙を書いて送らねばならない羽目になってしまからだ。さすがにそんな「フリードリッヒ」の姿を見て見ぬ振りするなど、ジヴニーに出来ようはずがない。
しかし、ジヴニーがショパンにどう言う言い方でその事実を伝えたのか、もはやそれについては具体的な言葉では描写されていない。その時のショパンはもう、ジヴニーの言葉を感覚でしか聞いていなかったからだ。ジヴニーがどう言う言い方をしたにせよ、それほどショパンの受けたショックが大きかったと言う事である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#11. |
「“しかしどこへ?” ― “ビショフスヴェルダーへ。” その町の名前を、初めて人の口から聞いた。これが別の時だったら、そんな地名は僕を笑わせたのかも知れないが、君がその事を僕に知らせてくれなかったから、この時だけはそれを恨みに思ったよ。とにかく、君が僕に手紙を書くのが順序というものだ。それで、僕はすぐに手紙を書くのを止めた訳だ。何を書くべきか、あるいはどのように書くべきか、それにどこ宛に書くべきかが分からないので、それで手紙を郵便局に出すのが遅れたんだ。」 |
※
「ビショフスヴェルダー」は、ソウタンの註釈によると、「(ポーランド語で)ビスクピエッツ(Biskupiec)、ドイツ語でビショフスヴェルダー(Bischofsverder)。東プルシア地方のスーハ郡にある小さな町。」とある。
ショパンはようやく我に返り、ジヴニーにビアウォブウォツキの所在について問いただす。
要するに、ショパンがジヴニーからこの話を聞いたのが「一昨日」の金曜日だったと言う訳である。ショパンは、その日はもうショックで手紙を書く事ができず、書き出しの“親愛なるヤレック”を書いた時点で止まったまま、それっきりその手紙をうっちゃっていたのだ。
そしてその翌日の「土曜日」に「劇場」へ行って気分転換をし、少し頭が冷えた今日の[日曜日]になって、やっと手紙の続きを書き始めた…と言う訳である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#12. |
「[手紙の中で、ジヴニー氏との話の箇所の欄外に、下記の追記がある] 追記:ジヴニー氏に、なぜ君の事を僕達に話さなかったのかと尋ねたら、彼宛の手紙の中で、君が僕達にメッセージを送っていなかったから何も言わなかったのだと言っていた。それで彼はママからこっぴどく叱られていたよ。 デケルト夫人とチェジンスカ夫人から、君によろしくと言っている。 [欄外終わり]」 |
※
オピエンスキー版では、なぜかこの箇所だけ省かれてしまっている。
今回の手紙で最も注目すべきは、この「追伸:」部分である。
ショパンは、ジヴニーのこの説明を聞いて、本当に彼の言葉をそのまま信じただろうか?
ジヴニーはショパン家の寄宿学校のピアノ教師である。つまり、彼は毎日ショパン家に出勤し(※あるいは住み込みだったのだろうか?)、彼らと共に多くの時間を、それこそ家族同然に過ごしている。そんな日常を共通体験として持っているビアウォブウォツキが、ジヴニー宛に手紙を書いて、ショパン家の人々へ「メッセージを送っていなかった」なんて事が考えられるだろうか?
仮にそうだったとしても、ジヴニーがビアウォブウォツキから手紙をもらったのなら、たとえショパン家の人々に「メッセージを送って」いようがいまいが、ビアウォブウォツキの大の親友である「フリードリッヒ」にその事を話さない訳がない。どう考えても話さないはずがないのである。それなのに話さなかったと言う事は、すなわち「話せなかった」からであり、つまり、なぜ「話せなかった」のかと言えば、他でもないビアウォブウォツキ本人とそのように密約していたからに違いないのだ。そうでもない限り、ジヴニーが手紙の事をショパン達に内緒にしなければならない理由など、断じてないはずである。
では、なぜビアウォブウォツキは、そのようにして、わざわざ内緒でジヴニー宛に手紙を送って来たのか?
言うまでもなく、ビアウォブウォツキの病状が思わしくなかったからだ。そしてその事を、ショパン達には言いにくいような状況になりつつあったからなのである。だから彼はその事をジヴニーに相談するため、ショパンに内緒で手紙を書いたのだ。ソウタン版の「序文」には、その事実を裏付ける「ビアウォブウォツキから彼の家族への手紙」の内容が紹介されている。
「彼は、高等中学校ではすでに“体の弱い”生徒であると格付けられていた。時間が経つにつれて、頻繁に体調を壊す日が多くなり、色々な病に見舞われている事を手紙で嘆いていた。ヴォンジン村での養療生活も助けにならず、ビスクピエッツ町に於ける温泉療法も助けにならず、トルンの医者の手当ても役に立たなかった。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
※
「ヴォンジン」は、ソウタンの註釈には「同名の湖畔にある持ち地所。ポモジェ地方ブロドノ郡。」とある。
ここに書かれている「ヴォンジン村」、「ビスクピエッツ町(ビショフスヴェルダー)」、「トルン」のうち、「ビスクピエッツ町に於ける温泉療法」と言うのが、すなわち現在進行形の話である(※「トルン」については、ビアウォブウォツキが「1827年12月28日」に書いた家族宛の手紙で言及されている。それはまだ先の話なので、追って紹介する)。
ここでは、ビアウォブウォツキが書いた手紙の内容が要約の形で紹介されているため、最初の「ヴォンジン村」の話が具体的に何年の何月頃なのかは分からない。しかしいずれにせよ、「ヴォンジン村での養療生活も助けにならず」と言うのはすでに過去の話であり、しかもこの地名はショパンの手紙には出てきていない。つまりそうすると、ビアウォブウォツキはすでにその頃から、もうそう言った事実をショパンには知らせていなかった可能性がある。
それでも、一方のショパンは、ビアウォブウォツキの病気が良くなる事を期待して、彼を励ますためにも「苦手」な手紙をせっせとしたため続けている。ショパンの家族もみんな思いは同じだ。それなのにビアウォブウォツキの方では、そんな彼らの期待に応えられるような「良い知らせ」を送る事ができずに思い悩んでいたのである。だんだん申し訳ない気持にもなるだろうし、周りの愛情や励ましが次第に重荷に感じ始めてもくるだろう。
だから彼は、前回のショパン宛の手紙では病気の事について一切触れず、過去の美しい思い出である「ソコウォーヴォでのあの日曜日」について語って見せたり、今回の「もうかなり前」に書いたと言うショパン宛の手紙では、“足の具合はずっと良くなっています”と嘘を書いたりもしていたのだ。しかし、もはやそれすら辛くなって、ついにどうするべきかジヴニーに手紙で相談して来たのである。ジヴニーは、ショパン家を囲む重要人物達の中では最年長者だったし、何と言っても、ビアウォブウォツキとショパンの共通の恩師である。ニコラやユスティナでは生真面目すぎるし、ショパンに近すぎる。その点、ひょうきん者で変わり者の老ジヴニー先生なら、内緒の相談役としては打って付けだったのだ。
それに対してジヴニーは、ビアウォブウォツキが直接ショパンに言いにくいような事は、自分が代わりに機を見て話すようにするから、自分にだけは本当の事を教えておいて欲しいと、そして、あとは心置きなく治療に専念して欲しいと、かつての教え子にそのように返事していたはずなのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#13. |
「このように、僕にとって重要なニュースが思いもかけずに口から口へと伝わって来た事を分かって欲しい。だから手紙を書くのが遅れても、僕を許してくれるだろうと願っている。君を楽しませられるかもしれないので、いくつかニュースを話すとしよう。でも以下の事を除いては、他に話す事もないんだけど。」 |
ショパンは、そんなビアウォブウォツキの気持を察して、間違っても彼を責めるような真似はしない。自身が普段から病気がちであるから、誰よりも病人の気持ちをよく理解できるからだ。
するとここから、ショパンは気持を入れ替え、手紙の調子も一変する。
さて、私は以前、アーサー・ヘドレイと言うイギリスのショパン研究家によって編集された書簡集における、その作為的な編集方針について指摘した。
彼の書簡集とはすなわち、シドウが三巻本として編纂した仏訳版の全793通の中から、ヘドレイが347通(独自に追加した数通も含む)を選集し、さらに省略や解説を施して一冊に英訳したものである。原著のシドウ版では、「ビアウォブウォツキ書簡」は一切の省略なしに全13通が掲載されていた。しかしヘドレイは、その中から7通だけを選び、さらにその半分近くを省略してしまったので、結局「ビアウォブウォツキ書簡」は全体の3分の1から4分の1程度しか掲載されていない。そして、ヘドレイが編集した書簡選集で最初に紹介された「ビアウォブウォツキ書簡」と言うのが、実は今回の第5便なのである。
しかも、この手紙自体がヘドレイの書簡選集における3通目の手紙で、
1.
1通目は父ニコラへの「僕の気持を音符で表せるものなら」云々と書いたグリーティング・カードであり、
2.
2通目が『シャファルニャ通信』から音楽に関する記事だけを3つ抜粋したものであり、
3.
そして3通目がこの「ビアウォブウォツキ書簡」第5便となる訳だが、
しかもこの手紙の前半部分、つまりここまでのショパンとジヴニーのやり取りは「……」を施しただけで全てごっそり削除してしまい、ヘドレイはそれに続く以下の部分のみを掲載しているのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#14. |
「〈セビリヤの理髪師〉が土曜日に劇場で上演された。これはドゥムシェフスキ、クドゥリッチ、ズダノウィッチの監督の下に指導されている。僕の見たところ、良い出し物だった。ズダノウィッチ、シュチュロフスキ、ポルコフスキは上手く演じていた。アシュペルゲロヴァ夫人や他の二人の声楽家達もよかった:その内の一人は絶え間なく鼻をかんでいて、咳をしていた。:もう一人は泣いていて、やせていて、スリッパを履いていて、室内ガウンを着ていて、絶えずあくびをしていた。その他に、レムビエリンスキ某というのがパリからワルシャワにやって来ていた。彼は総裁の甥で、パリに6年いて、今まで誰も聴いた事のないようなピアノを弾いた。それが僕達にとってどんな喜びだったか、君には想像できるだろう、ここじゃ本当に卓越した演奏なんて今まで聴いた事がなかったからね。彼はプロのアーティストではなく、アマチュアだ。彼の速い、滑らかな、丸味のある演奏についてはこれ以上説明しない。しかし、一人の演奏家で、左手が右手ほどに強いのは稀に見る事だと言う事だけは君に教えておこう。なぜなら、彼のすばらしい才能について君に書くためには、紙の全面が必要になるからね。」 |
ヘドレイは、これ以降に続く追伸部分も全て省略してこの手紙の紹介を終えている。
ちなみにヘドレイは、この手紙のこの箇所を紹介する際、以下のような的外れな解説を前置きにしている。
「学友ヤン・ビアウォブウォーツキに書いたたくさんの少年らしい手紙がのこっている。これらの手紙はたいへん素朴な調子で書かれていて、これはこの時代に書いた若いショパンの音楽を思わせるものである。彼はフランス語とポーランド語をごちゃまぜにして、毎日の日常茶飯事をあふれるばかりに書いている。身辺のふざけた話やことこまかなワルシャワ生活の話にまじって、彼の音楽上の関心のいろいろな面を知ることができる。」 アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳 『ショパンの手紙』(白水社)より |
※
ちなみにこの邦訳版では、このあと、「〈セビリヤの理髪師〉が土曜日」と言う箇所が「日曜日」と誤植されている(※原著ではきちんと「土曜日(Saturday)」になっている)。
ビアウォブウォツキは断じて「学友」などではない(※原著では「school-friennd」となっている)。ショパンが高等中学校に編入した時、ビアウォブウォツキはすでに卒業して大学に通い始めていたのだし、しかも病気のためにもうその大学にすら通っていないのだ。彼は、あらためて言うのも馬鹿馬鹿しいが、ショパン家の寄宿学校で知り合った「純粋な親友」であり、しかも10年来の幼友達である。
たとえば、同じ書簡集の編者でも、これがソウタンであれば、彼は「ビアウォブウォツキ書簡」について、当たり前のように「序文」で以下のように書いてみせる訳である。
「まず、友人に対するショパンの普通以上の愛情が表現されている事。その次には、暢気さと言うか、子供じみた、心の温まる明るい彼のユーモア、その他に、まだ稀であるが、短調節のマズルカの作曲家にとって非常に典型的な悲しみの音律、彼の精神的なもので、心の深底から流れ出て来る、説明しがたい悲しみなどに留意したい。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
どちらの編者の方がまともな「情報処理能力」を有しているか、それ以上に、どちらの編者の方がまともな「文章読解能力」を有しているか、もはや言うまでもないだろう。
「ビアウォブウォツキ書簡」の中心をなしているのは、今までの第1便から第5便までを読んだだけでも誰の目にも明らかなように、言うまでもなくショパンとビアウォブウォツキの友情である。
ショパンはあくまでも、病気のせいでワルシャワを離れなければならなくなった親友を思いやる気持から、これらの手紙をしたためているのであり、そこに書き込まれている音楽関連の話は、この二人がそれを共通の趣味として分かち合っていたからこそ書かれているのである。その大前提をないがしろにしてこんな話だけを抜粋紹介したところで、それでヘドレイは一体、読者に対して何を伝えようと言うのだろうか? しかもヘドレイはこの後も、ビアウォブウォツキがずっと患い続けている足の病気の事には一切触れず、彼が1828年に亡くなった事すら読者に知らせていないのだ。
こんな書簡集でしか「ビアウォブウォツキ書簡」を知らない英語圏の読者や日本の読者には、ビアウォブウォツキと言う人物が、ショパンにとってどれほどかけがえのない存在だったか、これではとうてい知る事ができないだろう。ただし、もちろんヘドレイはそれを知っている。知っているのにわざと黙殺したからには、明らかにそこに何か作為的な感情が働いている証拠である。それについては後々説明する事になるが、ここでは取り敢えず、アーサー・ヘドレイなるショパン研究家が、過去の書簡集の編者達、すなわちカラソフスキー、オピエンスキー、シドウらと同様、いかに信用の置けない人物であるかを小耳に挟んでおいて欲しいのである。
さて、話を手紙の内容に戻そう。
ここで言及されている「セビリヤの理髪師(Cyrulik Sewilski)」とは、ソウタンの註釈によると、「ロッシーニの歌劇。1825年10月29日にワルシャワで初めて上演された。」とある(※実はショパン本人の書いた原文では、故意か間違いかは分からないが、「セルビラの理髪師(Cyrulik Serwilski)」と綴られている)。
また、「監督」を努めたと言う3人については、
※
ルードヴィック・アダム・ドゥムシェフスキ(Ludwig Adam Dmuszewski 1777年−1847年)。演劇俳優、演劇作家、1826年まで歌劇や地方のオペラ劇場で愛人役を演じていた。後ほど、新聞“ワルシャワ通信”の出版権を買い取り、それを編集していた。
※
ボナヴェンツラ・クドゥリチ(Bonaventura Kudlicz)。演劇女優、1848年に死去。
※
ユーゼフ・ズダノヴィッチ(Józef Zdanowicz 1786年−1889年)。「国民劇場」の優秀な俳優。主に喜劇やオペラに出演していた。
と註釈され、それ以外の俳優(声楽家)達については、
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ヤン・ネポムツェン・シュチュロフスキ(Jan Nepomucen Szczurowski 1771年−1835年)。ポーランドの優秀な声楽家(バス)。
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カタジナ・アシュペルゲロヴァ(Katarzyna Aszpergerowa)。才能ある演劇女優であり、声楽家であった。ファンから愛された。1835年死去。
と註釈されている。いずれも、当時のポーランドとしては「優秀」とされていたようである。
ところがだ、実際にショパンが目にしたものは、これはどう贔屓目に見ても「田舎の学芸会」の域を出ないような代物だろう。演者が劇中に鼻はかむわ、咳はするわ、あくびはするわ…、要するに、これが当時のポーランド、と言うかワルシャワの芸術レベルの「程度」だったと言う事なのだ。それはちょうど、ジヴニーのレッスン中に居眠りをする寄宿生の姿とオーバーラップしている。しかもショパンは、それらを捕まえて「良かった」と評しているのである。これは皮肉と捉えても差し支えないのだろうが、それよりもむしろ、そう言ったグダグダな「ツッコミどころ」を含めて、ショパンが「ワルシャワで上演される劇」と言うものを楽しんでいる…と解釈した方が正解だろう。それこそが、ショパンの持つウィットやユーモア感覚に則した解釈であろう。だからこそショパンは最初に、「君を楽しませられるかもしれないので」と前置きしているのである。
したがって、「レムビエリンスキ某」と言うピアニストについては、ソウタンの註釈では、
※
「アレクサンデル・レムビエリンスキ(Aleksander Rembieliński)。才能のあるピアニスト、若死にした。」
とあり、この人物の叔父にあたる「総裁」については、
※
「多分、ライムンド・レムビエリンスキ(Rajmund Rembieliński 1775−1841)のこと。ワルシャワ高等学校を監督していた、マゾフシェ県委員会の総裁。」
とある。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#15. |
「デケルト夫人はあまり具合が良くない。その他は、僕達はみんな元気だ。さようなら、我が生命よ、もう終わりにしなければならない。何故なら、マチェックが僕を待っているから。彼は僕を捕まえて離さないだろう。僕に手紙を書いてくれ、我が生命よ。僕らの手紙がシンコペーションのように空を飛び交ってくれたら良いのだが。 キスしてくれ、僕は心から君を抱きしめる。 F.F.ショパン (心からの友)」 |
「ビアウォブウォツキ書簡」の追伸では、「デケルト夫人」、「バルジンスキ氏」(※バルチンスキ=将来のイザベラの夫)、「ジヴニー氏」の3人が常連であるが、今回は、ジヴニーはさておき、「バルジンスキ氏」のみが欠席である。実は彼は今忙しいからなのだが、その訳は第8便の時に分かる。
それはそうと、ジヴニーとバルチンスキはショパン家の寄宿学校で教師をやっているから常にショパンの身近にいるのは分かる。しかし、「デケルト夫人」はどうなのだろうか? 彼女については情報が錯綜していて実際のところよく分からないが、これだけ常にショパンの身近にいるのだから、ショパン家の寄宿学校と何か関係があるのだろうか?
ちなみに、「マチェック」と言うのは今回初登場だが、同時にこれが最後の登場でもあり、どの書簡集でも註釈が施されていないので詳細は不明である。しかし、ビアウォブウォツキも知っている人物であるから、おそらくワルシャワに住んでいるのだろう。前回は「発送時刻」に急かされていたが、今回は手紙の発送日である「月曜日」でも「木曜日」でもなく、[日曜日]であるから、この「マチェック」なる人物に急かされていた訳である。
「僕らの手紙がシンコペーションのように空を飛び交ってくれたら良いのだが」と言うのは、多少不規則でも山あり谷ありでもいいから、躍動感のあるリズムで手紙の交換がしたいと言うような意味なのだろう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#16. |
「ブニアーミンが君について僕に尋ねている。そして、君が彼に何も書かなかった事に驚いていたよ。僕達みんなから君のパパへよろしくと伝えてくれたまえ。」 |
「ブニアーミン」とは、ソウタンの註釈によると、「間違いなくベニアミン神父(Benjamin)の事 ― 説明は手紙第8便。」とある。これは英語名で言うところの「ベンジャミン」で、シドウの註釈では、「ショパンはベニアミン神父の事をふざけてこのように言っている。」とある。いずれにせよ、彼は「神父」である。つまりビアウォブウォツキは、その「神父」にさえ話せないような事を、ジヴニー先生には相談できると言う事なのだ。ここから、この師弟の間にある情愛と信頼関係を垣間見る事ができるのではないだろうか。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第5便#17. |
「家族のみんなが君に抱擁を送りたいと言っている。子供達は、君が健康を取り戻すように、ママとパパは、君がどんな具合か手紙に書いてくれるように待っている。愛情を込めてお別れの抱擁を送る。」 |
前回の第4便に引き続き、今回も例の表現、「子供達は、君が健康を取り戻すように、ママとパパは、君がどんな具合か手紙に書いてくれるように待っている」が使われている。
前にも書いた通り、ここでも、ショパンが自分の姉妹達を指して「子供達」と言う時の「2つの絶対必要条件」がきちんと満たされている。
1.
手紙の追伸部分の挨拶でしか使われない事。
2.
その際、必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記される事。
今回はジヴニーが大活躍だったが、実は彼は、次回の第6便においても、極めて異例な、しかも不思議な形で登場する。
[2010年11月8日初稿 トモロー]
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