検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――
Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–
6.そして本当の文通が始まった――
6. And the true correspondence of Chopin and Bialoblocki began.-
BGM(試聴) ショパン作曲 マズルカ 第14番 ト短調 作品24-1 by Tomoro
[VOON]
Chopin:Mazurka 14 Op.24-1 /Tomoro
今回紹介するのは「ビアウォブウォツキ書簡」の第4便だが、この手紙の意味するところは、前回の第3便に引き続いて非常に大きい。端的に言うと、この手紙から、ショパンとビアウォブウォツキの「本当の意味での文通」が始まったと言えるからである。
たとえば今まで見てきた第1便〜第3便には、いずれも、「その時でなければならない用件」が含まれていた。
1. 【第1便】 病気の治療のため休学してワルシャワを離れたビアウォブウォツキから、姉伝手にメッセージが届いたので、ショパンがそれに対して返事を書いたもの。そしてこれは、ショパンが初めて夏休み以外に書いた手紙でもある。
「君に手紙を書くという、そのような良い機会がある事は幸運だ。…(中略)…君の足の具合が良くなったかどうか、そして、君が無事家に到着したかどうか僕に報せてくれるように。」
2. 【第2便】 試験中に届いたビアウォブウォツキからの手紙に返事したもの。夏休みを直前に控えて、ショパンが休暇先でビアウォブウォツキと会えるよう、前もって連絡しておく必要があった。
「君が僕に会いたいなら、真っ先に来てくれたまえ。もう一人の賢者のせいで、僕の良き保護者女性は、僕が君の所へ行くのを許してくれないのだ。」
3. 【第3便】 ショパンは、やっとソコウォーヴォ訪問を許されて当地へ行ったのに、予定より1日遅れてしまったため、二人は行き違いになってしまい、結局会う事が出来なかった。そのためショパンは、ビアウォブウォツキにその由を知らせる必要があった。これはそのための「置手紙」。
「僕がどれくらい残念に思っているか、君は信じられないだろう!――帰宅の途に着くのが嫌になるほどだよ。何のために馬車で苦労してここまで来なきゃならなかったのか、館で誰にも会えなかったのに! しかし少なくとも、君は僕が来た事は分かってくれるだろう。」
そしてこの年の夏休みは終わりを告げ、ショパンが「失意のシャファルニャ」から9月「22日」にワルシャワに帰宅すると、すぐに学校の新学期が始まる。
去年までなら、それと同時に、「暑中見舞い同然のショパンの手紙」の執筆活動も終わりを告げるはずである。なぜなら、ショパンの友人達もまた、皆ワルシャワに戻って日々の生活を共に過ごす事になるので、そのような日常の中にあっては、ショパンには手紙を書く意味も必要も生じないからである。だからこそ、ショパンがこれまでに書いた手紙は、全てショパンが夏休み中に書いたもので、
1.
【1823年】 「マリルスキ書簡」(9月)、
2.
【1824年】 「家族書簡」(8月10日)、『シャファルニャ通信』(8月16日〜9月3日)、「コルベルク書簡」(8月19日)、
3.
【1825年】 「家族書簡」(8月26日)、「マトゥシンスキ書簡」(9月8日頃)、「ビアウォブウォツキ書簡/第3便」(9月19日頃)、
例外は、1825年の「ビアウォブウォツキ書簡」の第1便と第2便の2通しかない。これらはいずれも夏休み前に書かれたものだった。
ところが今年は、休みが明けてもショパンの手紙執筆は途絶えず、それは新学期が始まって以降も引き続き行われる。ただし、ショパンが手紙を書く相手は、翌1826年の夏休み期間を除けば、もっぱらビアウォブウォツキただ一人である。なぜなら、彼一人だけが、休みが明けてもワルシャワへは戻って来なかったからだ。そして、そのような「ショパンの手紙執筆の傾向」は、ビアウォブウォツキが亡くなるまで一貫している。
つまり二人は、何か急を要する用件がある訳でもないのに、純粋な友情の感情にのみ突き動かされて手紙をやり取りし合うほど、それほど特別な仲になっていたと言う事なのだ。すなわち、これまでの手紙が「実用的な伝言手紙」だとすれば、ここからは、「本当の意味での文通」が始まったと言う事なのである。
だがそれだけに、その内容は、色々な意味で一筋縄ではいかない。
なぜなら、それが今までのような「実用的な伝言手紙」であるなら、その執筆動機は誰の目にも明白なので、ショパンの書く意味不明な文章も何とか解釈にこぎつけやすいが、そうでない場合は、内容に一貫性がなく、話は飛ぶし取り留めのないものになるため(※しかもショパンは滅多に改行をしてくれない…)、解釈どころか、単に翻訳するのさえ困難を極めるからだ。
と言う訳で、今回も、まずは一切の註釈なしに読んでいただきたい。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第4便)■ (※原文はポーランド語で、部分的に「ポーランド語表記のフランス語」が混在) |
「[ワルシャワ] 木曜日、9月[8日]、[1825年] 親愛なる最愛のヤシ! 特別に、更に特別に、しかも最高に僕を喜ばせた君の手紙:それを読んで僕はすぐに、ソコウォーヴォでのあの日曜日、パンタレオン、リンゴ、その他の楽しく過ぎ去った時間を思い出したよ。特別に、更に特別に、しかも最悪にがっかりしたよ、君が僕の長い沈黙に驚かされていた事を思うとね、君が手紙を受け取らなかったのは、折り返しの馬車でシャファルニャに送ってしまったからなんだ。だから僕がいつ手紙を書き始めたか知っても驚かないでくれたまえ! 他にも、いくつかの戸棚や引き出しや楽譜がピアノの上に乱雑に放り出されていて、まるでエンドウマメとキャベツが混ざったみたいにだ、数えてさえいないが、フンメル家の人々、リース家の人々、カルクブレンナー家の人々(彼らの屈辱も含めたその運命が割り当てられた場所、それほど広大なコミュニティにおける、プレイエル氏、ヘメルレイン氏、ホッフマイスター氏たちの館で)、みんなが横たわって僕を待っている! マチェイェフスキ先生、ヤシンスキ先生、マトゥシェフスキ先生、コンツェヴィッチ先生、ジェコィンスキ先生らが、来るべき“例の修業試験”について何を言おうともだ! 僕は、2週間に渡る出来事を君に報告したいと望んではいるのだが、その一部だけ君に報告したいと思う;ソコウォーヴォからの手紙でお叱りを受けない事を願ってるよ!――それで今は、自分の肩から最大の重荷を降ろそうとしている訳だ、しかも2倍の重荷をだ、なぜって僕には、また手紙を書き始める以外に弁解する事ができないのに、手紙はいつも僕の苦手だからだ(僕がマカロニを突き出すのを許してくれたまえ)。僕は、僕の真実の文学、別名「手紙の通信」とも言うが、に移るとしよう、そして君に報告する。まず第一に、僕らはみんな健康だという事、――第二に、今度僕らに、冗談好きの新入生が仲間として増えた事。それはテクラ・チャホフスカの兄弟の息子で、つまりユリウシュ・チャホフスキの甥なんだが、彼は僕の事をフリチオ叔父さんと呼び、姉妹達の事をズージア叔母さん、ルドヴィカ叔母さん、イザベラ叔母さん、それにエミルカ叔母さんと呼んで、いつも家族みんなの笑いを誘っている。第三に、ワルシャワで開かれている展示会の事。会場は市役所の建物の中とか大学のホールとかだ。――どこに何があるのかは君に教える事が出来ない。何故なら、見るべきものがまだないから、僕もまだ見ていないんだ:しかし間もなく僕のゴーグルは、綺麗な絵、美しい肖像画、素敵な機械、良いピアノ、興味深い演劇、全体として何か非常にすばらしいものを目に留める事だろう。僕の手で君に説明を書く。そしたら、ドブジン村からの使いの人が持って行く。音楽ニュースとして僕らが聞いているのは、確かゴールドン某氏というのがワルシャワに来る予定という事だ。彼はワルシャワでミネラル・ウォーターの店を経営している女性の息子で、プラハ芸術学校の生徒だという事だ。そして、彼の演奏はイヴのリンゴと同じくらい興味深いという事だ。それについてはまた後で君に話そう。これで僕のニュースは終わりだ、同時にそれは、僕の手紙の終わりでもある。そうしないと、手紙を書いているうちに木曜日が終わってしまう、何故って、もうすでに4時なのだ。したがって、恵み深いお方(神様)の慈悲に託し、僕があるがままの僕でいれるように、いや、それよりも更に良い人間になれるように、今まで生きて来た以上に長生きできるように祈りたい。 F.F.ショパン 僕から君のパパに挨拶を送る。それと、ヴィウッツカ夫人はずっと前に自分で手紙を書いてくれているはずだと伝えておいてくれたまえ! 僕の姉妹がコンスタンチア嬢とフロレンティナ嬢にキスを送る。僕は彼女達の手にキスを。 シャファルニア村(の皆さん)によろしく。プウォニ村、ゴウビニ村、ウゴシチ村、その他の村(の皆さんにも)よろしく。 ママとパパ、そして子供達が心の底から君によろしくと。手紙を書いてくれたまえ。デケルト夫人、バルジンスキ氏、ジヴニー氏、彼らからも君によろしくと。 [手紙の裏面に] (手紙の用紙を使って)封筒の形にはしません。ただし、オピッツからの手紙から今離したばかりの、この指で掴んでいるものだけ自分用に使うものとする。急いでいる! 例の封筒を使いたい:しかし、残念ながら(紙が)短か過ぎる;隅を曲げる事も試したけれど、どうにもならなかった。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)より
並びに、ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE
DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue Musicale)、
及び、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy
Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej
Młodzieży Akademickiej)より
※
ソウタン版の註釈には、「使用された紙は白、2枚、各用紙のサイズ:21.5
x 19cm。紙の端に透かし模様あり。」とある。
まずは手紙の日付について。
ソウタンはこれを「木曜日、9月[8日]、[1825年]」と推定し、それについて次のように説明している。
「手紙の原本には“木曜日...9月”と明瞭に記されている。ところが日付の数字は、前述したように、手紙の最後で紙の端が(手紙の)筆者によって切り捨てられているため、ほとんど読み取れない―単数で、3、5、8、あるいは、単に“d”であるかも知れない―。この手紙は、シャファルニャから帰って来てすぐに書かれたと想像され、その事は手紙の最初の部分が示唆している。―したがって、ショパンが夏休みをシャファルニャで過ごした1824年か1825年のどちらかである。おそらく1825年であろろうと示唆しているのは、“例の修業試験”と言う記述。ショパンが高校での勉強を終了したのは1826年7月であり、すなわち1825/1826年度の学級年度は、高校の最後の学級(6年生)で学んでいた。さらに、1825年の「9月」においては、「木曜日」に該当する単数の日付は8日であった事。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
このソウタンの推定は、他のどの書簡集でもそのまま採用されている。
確かに「ビアウォブウォツキ書簡」だけで考えるなら、この推定で間違いはないはずである。しかしながら、同じ[1825年]に書かれた「家族書簡」と「マトゥシンスキ書簡」の記述と照らし合わせると、この「9月[8日]」と言う日付では、どうしても辻褄が合わないのだ。なぜなら、前回も書いたが、[1825年]のショパンの夏休みのスケジュールは、その「家族書簡」と「マトゥシンスキ書簡」の記述、及び「ビアウォブウォツキ書簡」第2便と第3便の記述から、だいたい以下のようだった事が分かっているからだ(※下図参照)。
―1825年における、ショパンの夏休みのスケジュール― |
||||||||||||||
1825年 8月 |
|
1825年 9月 |
||||||||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
|
1 「発」 |
2 ⇒ |
3 「到着」 |
4 |
5 |
6 |
|
|
|
|
1 小旅行 |
2 小旅行 |
3 小旅行 |
|
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
4 小旅行 |
5 小旅行 |
6 小旅行 |
7 第1水 |
【8?】 マトゥシ |
9 |
10 |
|
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
|
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 家族書 |
27 小旅行 |
18 「昨日」 |
19 第3便 |
20 「出発」 |
21 ⇒ |
22 帰宅 |
23 |
24 |
|
28 小旅行 |
29 小旅行 |
30 小旅行 |
31 小旅行 |
|
|
|
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
|
1.
ショパンはマトゥシンスキに、「ワルシャワで、22日に。僕はそれより早くそこへ帰れない」と書いており、そしてそれは「2週間」後だとも書いている。つまりその手紙を書いたのはちょうど「9月8日(木曜日)」頃になる訳だから、したがってショパンが「9月[8日]」にワルシャワに帰宅していたはずがない。
2.
仮に、この手紙がソウタンの推定どおり「9月[8日]」に書かれたのだと仮定しても、ショパンはビアウォブウォツキに「2週間に渡る出来事を君に報告したい」と書いているのだから、それだと、ショパンがワルシャワに帰宅したのが「2週間」前の「8月25日」頃だった事になってしまう。しかしそれもあり得ない。なぜならショパンは、ちょうどその「8月25日」頃、つまり「8月26日」に、シャファルニャからワルシャワの家族に宛てて手紙を書き送っているからだ。
3.
ソウタンの時代には、これらの「家族書簡」や「マトゥシンスキ書簡」がまだ発見されていなかった。だから彼の推定にはその事実が考慮されていないのである。ソウタンの場合はそれでも仕方ない。しかし、オピエンスキーやシドウその他はそれらの手紙も自著に掲載しているのだから、当然その前後関係を確認できるのだし、またしなければならないはずなのに、そんな事すらしていないと言うのがよく分かる。
それでは、この手紙は1825年に書かれたのではなく、前年の1824年に書かれたのだろうか?
しかしそれも、1824年の夏に書かれた他の手紙の記述と照らし合わせると、「9月[8日]」ではやはり辻褄が合わないのだ。
―1824年における、ショパンの夏休みのスケジュール― |
||||||||||||||
1824年 8月 |
|
1824年 9月 |
||||||||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 到着? |
|
|
|
1 2週後 |
2 |
3 シャ通 |
4 |
|
8 |
9 |
10 家族書 |
11 |
12 |
13 |
14 |
5 婚礼 |
6 |
7 |
8 3週後 |
【9?】 |
10 |
11 |
|
15 |
16 シャ通 |
17 |
18 |
19 コルベ |
20 |
21 |
12 |
13 |
14 |
15 4週後 |
16 |
17 |
18 |
|
22 |
23 |
24 シャ通 |
25 |
26 1週後 |
27 シャ通 |
28 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
|
29 |
30 |
31 シャ通 |
|
|
|
|
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
|
|
1.
同年「8月19日」付の「コルベルク書簡」には、「僕らは4週間後にはまた会えるんだね」と書かれていた。そこから、ショパンが9月の中旬あたりにワルシャワへ帰る予定だった事が分かる。
2.
そうすると、日付の数字が「単数」で尚且つ「木曜日」と言うのは、この場合「9日」しか考えられず、それだと帰宅予定の1週間前になってしまい、やはりここでも同様の矛盾が生じてしまう。
つまり、1824年でも1825年でも、どちらの場合でも「9月[8日]」では辻褄が合わず、矛盾が生じてしまうのである。
それでは、1826年以降だろうか? いや、それもあり得ない。ソウタンも指摘している通り、1826年の「9月」には、ショパンは“例の修業試験”も終えてすでに学校に通っていないのだから、“例の修業試験”について「未来形」でコメントするはずがない。
これは一体どう解釈したらいいのだろうか?
私の考えでは、「コロンブスの卵」で、要するに、ショパン本人の書き記した“9月”と言うのが、「そもそも間違っている」…と言う事だ。
この手紙の記述から、少なくとも「曜日」が“木曜日”である事だけは間違いない。しかしどう考えてもそれが“9月”であるはずがない。いかにショパンが成績優秀な学生であろうとも、それが「物理的にあり得ない日付」である以上、明らかに「間違っている」と断定しなければならない。
そしておそらく、他ならぬショパン自身が、手紙を出す最後の土壇場になって、その間違いに気付いた可能性がある。
つまり、「紙の端が(手紙の)筆者によって切り捨てられているため、ほとんど読み取れない」のはそのためで、これは、ショパンが間違った日付を切り捨てようとして、それがうまくいかずに中途半端に残ってしまった結果だったのではないだろうか? なぜなら彼は、その時「急いでいる!」状態だったからだ。なぜそんなに「急いでいる!」のかと言えば、それは、ソウタン版の「序文」に書かれている以下の記述から容易に分かる。
「第1便(※実際は第3便)の手紙、及び他の人の手を通して送り届けられたもの以外は、全て郵便で、ワルシャワからプウォツクとリップノを経てデゥルヴェンツァ河畔のドブジン村ヘ送付されている。中でも、“プウォツク”への郵便物は、毎週月曜日と木曜日の夕刻6時にワルシャワから発送されているが、あらゆる種類の郵便物は、発送時刻前の午後5時までに郵便局へ持ち込むべきものとされていた。これが、なぜショパンが月曜日と木曜日に手紙を書いたかの理由である。しかも、郵便局から発送される時刻に合わせるため、ぎりぎりの時間帯に書かれており、このため、ほとんどの手紙の書き終わりが5時の直前となっている。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』より |
ショパンは手紙の中で、「手紙を書いているうちに木曜日が終わってしまう、何故って、もうすでに4時なのだ」と書いている。これはつまり、「発送時刻前の午後5時までに郵便局へ持ち込むべき」と言う、「その時刻が迫っている」と言う意味なのである。だから「5時」までに郵便局へ持ち込めなければ、その時点で「木曜日(の配送業務)が終わってしま」い、次の「月曜日」まで手紙が出せなくなると言う訳だ。
ところが、彼はそう書いて一旦サインしたにも関わらず、その後も追伸その他を書き連ね、挙句の果てに「封筒」云々の話で四苦八苦している始末なのだ。そんな時、ショパンは土壇場になって日付の間違いに気付き、ペンで書き直している暇がなかったので、慌ててその箇所を「切り捨て」ようとしたが、うまくいかずに中途半端に文字が残ってしまい、そのまま手紙を郵便局に持ち込んでしまった…と言う訳なのである…。
※ 【追記】 実は、ショパンが実際に日付の書き間違いをしていると言う実例は、「ビアウォブウォツキ書簡」に限っても2つある。1つは「第11便」で、その手紙には郵便局のスタンプが「10月2日」と押されているのに、ショパン自身が手紙に記した日付は「11月2日」になっているのである。もう1つは「第13便」で、そこでは、本来「月曜日、3月12日」と記されるべきところを、「月曜日、3月14日」と書き間違えている。
この仮説が正しいなら、それでは今回の「ビアウォブウォツキ書簡」第4便の「正しい日付」はいつになるのだろうか?
手紙の内容や、この手紙の前後に書かれた他の手紙の記述と照らし合わせると、「1825年10月6日、木曜日」と考えるのがもっとも自然である(※下図参照)。
―1825年における、ショパンの夏休みのスケジュール― |
||||||||||||||
1825年 8月 |
|
1825年 9月 |
||||||||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
|
1 「発」 |
2 ⇒ |
3 「到着」 |
4 |
5 |
6 |
|
|
|
|
1 小旅行 |
2 小旅行 |
3 小旅行 |
|
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
4 小旅行 |
5 小旅行 |
6 小旅行 |
7 第1水 |
8? マトゥシ |
9 |
10 |
|
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
|
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 家族書 |
27 小旅行 |
18 「昨日」 |
19 第3便 |
20 「出発」 |
21 ⇒ |
22 帰宅 |
23 |
24 |
|
28 小旅行 |
29 小旅行 |
30 小旅行 |
31 小旅行 |
|
|
|
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
10/1 |
|
|
10/2 |
10/3 |
10/4 |
10/5 |
10/6 2週間 |
10/7 |
10/8 |
1.
「マトゥシンスキ書簡」に書かれていた通り、ショパンが9月「22日」頃にワルシャワに帰宅していたのであれば、その後ビアウォブウォツキに「2週間に渡る出来事を君に報告したい」と書いている事から、帰宅からすでに「2週間」が過ぎている事になり、すなわちそれは「10月6日」頃になる。
2.
また、ソウタンの言う「単数で、3、5、8、あるいは、単に“d”であるかも知れない」と言うその数字が、実は「6」であった可能性だって十分に考えられるだろうから、それなら、ちょうど「木曜日」とも一致する。
これなら、何の矛盾も生じる事なく、全てにおいて辻褄の合う日付となる。
それでは、今回も手紙の内容について、全て順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#1. |
「親愛なる最愛のヤシ! 特別に、更に特別に、しかも最高に僕を喜ばせた君の手紙:それを読んで僕はすぐに、ソコウォーヴォでのあの日曜日、パンタレオン、リンゴ、その他の楽しく過ぎ去った時間を思い出したよ。特別に、更に特別に、しかも最悪にがっかりしたよ、君が僕の長い沈黙に驚かされていた事を思うとね、君が手紙を受け取らなかったのは、折り返しの馬車でシャファルニャに送ってしまったからなんだ。」 |
※
「パンタレオン」とは、ソウタン版には註釈が施されていないが、オピエンスキー版の註釈によると、[18世紀のピアノに属する特定種の名前であるが、ハンマーを振り下ろして打鍵する仕組みは、多くのグランドピアノに用いられた]とある。一方シドウ版の註釈には、[パンタレオンは、パンタレオン・ヘーベンシュトライトによって発明されたピアノの種類。≪プレイエル≫や≪エラール≫がそうであるように、製造者にちなんで≪パンタレオン≫と呼ばれた]とある。
前回の第3便では、ショパンとビアウォブウォツキがソコウォーヴォで行き違いになってしまったのだが、ここでは、今度は手紙が行き違いになってしまったようだ。それにしても、この書き出しは、第2便の時と似ている。
「僕の愛しい人!
君が僕に書いてくれた手紙は僕を喜ばせた。けれども見たところ、それは悲報を含んでいる。君の足は君を痛めつけている。僕はそれで深く悲しんでいる。手紙から察するところでは、君はすっかり陽気なようで、それが僕に元気を与えて、最高の気分にさせてくれる。」
いずれも、ビアウォブウォツキから届いた手紙の内容についてショパンがコメントを返したもので、それぞれ吉報と悲報について順にコメントしている。これは、この手紙が「文通の中の1通」であり、そしてそれが交互にやり取りされているからこそ、話の内容があたかも会話帳のごとくこのようにキャッチボールされているのである。このような筆致は、「手紙の文章」としては至って当たり前の事だが、何度も言うように、この当たり前こそが重要なのだ。
さて、ここで着目したい点は二つある。
まずは吉報に対するコメントで、「ソコウォーヴォでのあの日曜日」と言う記述である。
これは、ビアウォブウォツキがショパン宛に送って来た手紙にその事が触れてあり、彼もショパンのソコウォーヴォ訪問について懐かしんでいる…と言う様子が見て取れる。
しかしだ、それはいいのだが、問題なのは、そのソコウォーヴォ訪問とは、一体いつの事について言っているのだろうか?と言う事だ。
前回の第3便では、ショパンはビアウォブウォツキに会うためにソコウォーヴォへ行ったものの、二人は行き違いになってしまって会えなかった。なのでその時の「ソコウォーヴォ訪問」は、とうてい「あの日曜日」と懐かしむようなものではあり得ないし、あの手紙の切羽詰った様子から、ショパンがこの夏、あの日以前にもソコウォーヴォに行っていたとはちょっと考えにくい。考えにくいのだが、実は行っていたのだろうか? それとも、これは去年の事について回想している事なのだろうか?
去年の事だとすると、去年ショパンがソコウォーヴォに行ったのは、家族宛に手紙を書いた日、つまり「1824年8月10日火曜日」だった事が分かっている。その時の記述をもう一度確認してみよう。
「土曜日には、多くの人々がシャファルニャに来ました。ポドフスキさん、スミンスキさん、ピウニツキさん、ヴィブラニェツキさん、そしてビアウォブウォツキ。日曜日には、僕達は皆でゴウビニ村のピウニツキさんの家に行きました。今日はソコウォーヴォで、ヴィブラニェツキさんの家にいます。」
さらに『シャファルニャ通信 1824年8月16日』号には、ショパンがその翌日である「本年の8月11日」にシャファルニャに戻っていた事が記載されている。したがって私は、この時のショパンのソコウォーヴォ滞在は、「火曜日」の一日だけだったのではないかと考えていた。しかし、よくよく考えると、必ずしもそうとばかりは決め付けられない。なぜなら、この時ビアウォブウォツキ親子は「土曜日」にシャファルニャに来て、ショパンはその彼らと一緒に「日曜日」に「ゴウビニ村のピウニツキさんの家」を訪れている。ならば、仮にその日のうちに「ゴウビニ村」を出発して一緒にソコウォーヴォへ行ったのであれば、ショパンのソコウォーヴォ滞在は、「日曜日」から「火曜日」までの3日間あった事になる。
仮にそうだとすると、ショパンにとってその「日曜日」こそが、彼がソコウォーヴォを訪れた記念すべき最初の日となる訳だ。つまりそれは、今回の第4便で「ソコウォーヴォでのあの日曜日」と懐かしく回想するのに相応しい、それこそ二人にとって特別な日だった…と、そう考えてもちっとも不思議ではない事になるのではないだろうか。
したがって、今回の第4便に書かれている「あの日曜日」とは、おそらく去年の事について回想したものと思われる。なぜなら、ショパンにとって去年のソコウォーヴォ“初”訪問がいかに印象的なものだったかを裏付けるものとして、それに続いて「パンタレオン」と言う「極めて特殊な楽器」の名前が書き連ねられているからだ。
ここで少し、その「パンタレオン」なる楽器について言及しておきたい。
この楽器は、作曲家兼演奏者でもあったパンタレオン・ヘーベンシュトライト(Pantaleon Hebenstreit c.1667−1750) によって、ダルシマーと言う民族楽器(※ピアノの遠い祖先とされ、12世紀にヨーロッパに伝わってきた)を基に考案されたもの。彼は、ドイツのバロック・オルガン製作者ゴットフリート・ジルバーマン
(Gottfried Silbermann 1683−1753)に依頼してこの楽器を製造した。
ヘーベンシュトライトは、18世紀初期のフランスとドイツの音楽サークルでは、この楽器の唯一の巨匠として有名になり、優秀な弟子も何人かいた。1705年にはルイ14世の前で演奏し、感動したルイ14世がこの楽器を「パンタレオン」と命名させたそうで、ヘーベンシュトライトはそれによって富と名声を得た。
ところが、イタリアの楽器製作家バルトロメオ・クリストフォリ(Bartolomeo Cristofori 1655−1731)によって所謂アルピチェンバロ・ピアノフォルテ(※現在のピアノの元祖)が発明されると、その普及と共に「パンタレオン」人気は衰退していく。その過程で、ジルバーマンが「パンタレオン」で得た技術を生かしてクリストフォリのピアノを改良したものを製作した。するとそれに対してヘーベンシュトライトは、自分のアイディアを盗まれたとして訴訟を起こし、ジルバーマンに「パンタレオン」の複製を禁じた。そのせいで、元々量産されていなかった「パンタレオン」もヘーベンシュトライトの引退と共に完全に消え去り、その構造上の詳細も残される事なく、現在では、文献資料によってしかその存在が確認されない「歴史上の楽器」となる。
そのヘーベンシュトライトが亡くなったのが1750年であるから、ショパンがビアウォブウォツキの家で「パンタレオン」を弾いた1824年もしくは1825年と言うのは、それからすでに半世紀と四半世紀が過ぎ去っている訳である。
そうすると、そのような特殊な楽器が19世紀初期のポーランド、それもソコウォーヴォなどと言う田舎にあるなんて、どう考えても現実的ではないだろう。おそらく、ビアウォブウォツキの家にあった「パンタレオン」とは、厳密には正規の「パンタレオン」そのものではあり得ないはずである。
「パンタレオン」の構造上の詳細は分かっていないが、文献資料によれば、この楽器は、基本的にはダルシマーを大型化したもので、2メートルに及ぶ共鳴版を2枚使い、ガットとメタルの弦を2〜3本ずつ並べ、およそ200本もの弦を使用していたらしい。一番の特徴は、弦の振動を止めるダンパー装置を持っていなかった事で、そのため弦同士が共鳴し合って振動し、それが当時としては全く新しい感動を呼び覚ますものだったそうだ。そしてそのアイディアが、クラヴィコードのような初期の鍵盤楽器でも採用され、ダンパーを外すための様々なメカニズムを生み出すのに一役買い、そしてそれは、俗に「パンタレオン・ストップ」と呼ばれていたそうである。
と言う事は、その「パンタレオン・ストップ」を採用したクラヴィコードを指して、ショパン達がそれを単に「パンタレオン」と呼んでいた可能性も十分に考えられるのではないだろうか。つまり、ビアウォブウォツキの家にあった「パンタレオン」とは、実際はそう言う類の楽器だったはずである。
いずれにせよ、そのような楽器は、当時一般に普及していたピアノとは違う珍しいものだった事は間違いないので、ショパンがこれほどソコウォーヴォに対して思い入れがあるのも、一つにはその楽器の音を初めて聴いた場所であり、また、それを聴ける唯一の場所だからだと言うのもうなずける。ひょっとするとその楽器は、ヴィブラニェツキ氏がビアウォブウォツキのために特注で作らせたものなのかもしれない。と言うのも、これは第8便の時に詳述するが、ヴィブラニェツキ氏はこのあと、「コラリオン」と言う特殊なオルガンを特注で作らせ、それを教会に寄贈しているからである。
いずれにせよ、それほどこのヴィブラニェツキ氏は、音楽に対して非常に理解のある人物だったと言う事であり、ショパンとビアウォブウォツキが彼を慕っていたのもよく分かる。
※ 【追記】 このソコウォーヴォの「パンタレオン」は、実際は「エオロパンタレオン」と言う楽器だったと考えて間違いあるまい。その根拠は、以下の記述による。
「ショパンには前衛、進取の気性があった。一八二四年ワルシャワで、新種の鍵盤楽器が考案され、出現したとき、実際に興味を持って、演奏も試みた最初の人間がショパンであったのも不思議ではない。 ことの始まりは、ワルシャワの職人アウグスト・ブルンネルが、エオロメロディコン[エオリメロディコンの綴りもある]という楽器を製作したことにある。これはのちのハルモニウムの原型ともいうべきもので、ここの楽器の音を容易に模倣できる、ダイナミックで色彩豊かな音源発生装置だった。引き続きこの発明を取り入れ、やはりワルシャワの鍵盤楽器・ピアノ製作者ユゼフ・ドゥウゴシュが、エオロメロディコンとピアノを組み合わせたユニークな楽器オエロパンタレオンを発表。この楽器には、弦を張った(ピアノ同様の)共鳴箱とともに、下部には足で操作する(オルガン同様の)ふいごが備わっていた。鍵盤は、各ストップを使い分けることによって、一方または他方、そしてまた両方のメカニズムを同時に用いることもできた。 …(中略)… ドゥウゴシュのエオロパンタレオンを世に披露する機会もほどなくやって来た。五月二七日(※1825年)、音楽院で慈善音楽会が催され、学院生にまじってフリデリックも出演した。演奏曲目は、モシュレスの≪協奏曲 ヘ短調≫からアレグロ、そして自作――エオロパンタレオンのための≪幻想曲≫である。演奏は大成功を収め、好評に応えてその後二度も同じ演奏会を行っている。これについては海外でも反響があり、結果としてフリデリック・ショパンの名が初めて外国の新聞雑誌に載ることになった。ライプツィヒの特派員がこう書いたのである。「若きショパンの即興演奏は、その音楽的な発想の豊かさで群を抜いていた。この楽器の真の名人ともいうべき彼の操るエオロパンタレオンは、まことに強烈な印象を残した」。 こうした楽器がどのような音を発していたのか、こんにち想像することは難しい。その後、世に広まることもなく、現代には伝わっていないからである。このときショパンが創作した≪幻想曲≫の譜も残っていない。…(後略)…」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
さて、次は悲報に対するコメントの方で、「君が僕の長い沈黙に驚かされていた」と言う記述について。
ショパンはその事について、「君が手紙を受け取らなかったのは、折り返しの馬車でシャファルニャに送ってしまったから」と説明している。
おそらくこれは、ショパン(※おそらくルドヴィカも)が無事にワルシャワに帰還したので、ニコラがジェヴァノフスキ氏にお礼の手紙を書き、それを「折り返しの馬車」でシャファルニャへ送った際に、ショパンのビアウォブウォツキ宛の手紙も一緒に送ってしまったのではないだろうか?
それはさて置き、いずれにせよ、要するにこれは、前回の第3便と今回の第4便の間に、「紛失した手紙」が存在している事を示唆している。ソウタンは「序文」で次のように書いている。
「果たして、ビアウォブウォツキ宛に書かれた手紙は全て保存されていたのだろうか、それとも、下記の13通以外にも紛失した手紙があったのだろうか? 第5便の手紙及び第12便の手紙の一部内容から憶測すれば、“新年のお祝いの挨拶”、これはこの収蔵物の中にはないが、ショパンとビアウォブウォツキとの間に頻繁に文通がなされていた事から見て、まだ他にも手紙があったと思われる。また、ソコウォーヴォで紛失したものもあるだろう。上記したように、数回に渡る文書の長い旅の間に紛失したものもあるだろう。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』より |
ショパンが「特別に、更に特別に、しかも最悪にがっかりした」と書いているところから察すると、「シャファルニャに送ってしまった」手紙は結局ビアウォブウォツキの許には届けられていない可能性が高い。その根拠については後述する。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#2. |
「だから僕がいつ手紙を書き始めたか知っても驚かないでくれたまえ! 他にも、いくつかの戸棚や引き出しや楽譜がピアノの上に乱雑に放り出されていて、まるでエンドウマメとキャベツが混ざったみたいにだ、数えてさえいないが、フンメル家の人々、リース家の人々、カルクブレンナー家の人々(彼らの屈辱も含めたその運命が割り当てられた場所、それほど広大なコミュニティにおける、プレイエル氏、ヘメルレイン氏、ホッフマイスター氏たちの館で)、みんなが横たわって僕を待っている! マチェイェフスキ先生、ヤシンスキ先生、マトゥシェフスキ先生、コンツェヴィッチ先生、ジェコィンスキ先生らが、来るべき“例の修業試験”について何を言おうともだ!」 |
これは、いかにもショパンらしい独特の言い回しだが、一般の人には全くチンプンカンプンだろう。
「エンドウマメとキャベツが混ざったみたい」と言うのは、シドウ版の註釈によると、「ポーランドで≪乱雑な≫を意味する決まり文句」と言う事である。
この中にズラリと登場する個人名については、「ホッフマイスター氏」の1名を除き、全てソウタン版の註釈で解説されている。その情報を基にこの箇所を意訳すると、以下のようになる。
「だから僕がいつ手紙を書き始めたか知っても驚かないでくれたまえ! 他にも、いくつかの戸棚や引き出しや楽譜がピアノの上に乱雑に放り出されていて、まるでエンドウマメとキャベツが混ざったみたいにだ、数えてさえいないが、フンメル(ドイツのピアニスト兼作曲家)の楽譜、リース(ドイツの作曲家)の楽譜、カルクブレンナー(ドイツのピアニスト兼作曲家)の楽譜たちが、プレイエル氏の工場で製造したピアノで演奏されるために、ヘメルレイン氏(詳細不明)や、ホッフマイスター氏によって出版されて、この部屋で広大なコミュニティを形成し、それが彼らにとって屈辱的な運命だとしても、みんなが横たわって僕に演奏されるのを待っている! たとえ学校のマチェイェフスキ先生(ラテン語とギリシャ語担当)、ヤシンスキ先生(数学担当)、マトゥシェフスキ先生(理科担当)、コンツェヴィッチ先生(歴史と地理担当)、ジェコィンスキ先生(ポーランド語担当)たちが、来るべき“例の修業試験”について何を言おうともだ! つまり、僕にとっては学校の勉強よりも音楽の勉強の方がずっと大事になってきている」
この人物達のうち、「リース」については、昨年「1824年8月10日火曜日」の「家族書簡」に、
「僕達は、お父さんが来るのがものすごく待ち遠しいです。僕に関しては、ブルゼジイナ(※楽譜商店)で買い物をお願いしたいです。リースの《ムーアのアリアによる4手のピアノのための変奏曲》で、それを持って来て欲しいのです。」
と書かれており、「カルクブレンナー」については、同じく昨年の『シャファルニャ通信』に、
「本年の8月15日:シャファルニャにおいて音楽の集いがあり、ピション氏、若干名の名士とそれほどでもない名士達の前で、カルクブレンナーのコンチェルトを披露。」
と書かれていた。したがって、ショパンがこれらの作曲家達の楽譜をいくつも持っていた事は間違いない。
1.
ヤン・ネポムツェン・フンメル(Jan
Nepomucen Humel 1778−1837)
2.
フェルディナンド・リース(Ferdynad
Ries 1784−1838)
3.
フレデリック・ヴィルヘルム・カルクブレンナー(Fryderyk Wilhelm Kalkbrenner 1788−1849)
いずれも日本では馴染みのない音楽家達で、世界的にも今ではほとんど忘れ去られてはいるが、みんな当時としては著名な音楽家達である。ベートーヴェンより少し若い世代で、古典派とロマン派の橋渡し的な役割を果たしたと言える。それだけに、音楽的なイメージもその評価も定まりにくい嫌いはある。ただし、ショパンが若い頃に第一線で活躍していた音楽家達であるから、ショパンに直接影響を与えていた事は間違いない。言い方を変えると、彼らが蒔いた種をショパン達の世代が結実させたのだとも言えよう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#3. |
「僕は、2週間に渡る出来事を君に報告したいと望んではいるのだが、その一部だけ君に報告したいと思う;ソコウォーヴォからの手紙でお叱りを受けない事を願ってるよ!――それで今は、自分の肩から最大の重荷を降ろそうとしている訳だ、しかも2倍の重荷をだ、なぜって僕には、また手紙を書き始める以外に弁解する事ができないのに、手紙はいつも僕の苦手だからだ(僕がマカロニを突き出すのを許してくれたまえ)。」 |
この箇所も、ショパンが何を言おうとしているのかちょっと分かりにくい。
しかしだ、先ほども書いた通り、仮に「シャファルニャに送ってしまった」手紙がビアウォブウォツキの許に届けられなかったとすれば、この箇所は、それを前提にした記述だと考えられるため、それですんなりと意味が通じてくるのである。
つまりこの箇所は、「手紙はいつも僕の苦手だ」と言うのに、せっかく書いたその手紙が、「シャファルニャに送ってしまった」ためソコウォーヴォへ届けられなかったので、そのせいでショパンはその「紛失した手紙」の内容をもう一度書かねばならなくなり、その事を指して「2倍の重荷」と表現しているのである。だからショパンは、それを面倒くさがって、「2週間に渡る出来事を君に報告したいと望んではいるのだが、その一部だけ君に報告したいと思う」と前置きし、その事に対して「お叱りを受けない事を願ってる」と書いているのである。
だからショパンは、最初の方で「特別に、更に特別に、しかも最悪にがっかりした」と書いていたのである。
と言う事は、シャファルニャのジェヴァノフスキ邸に送ってしまった「ビアウォブウォツキへの手紙」は、そこで差し止められてしまい、ソコウォーヴォへは届けてくれないと言う事になる。
だとすれば、前にも書いた通り、ここからも、ジェヴァノフスキ氏とヴィブラニェツキ氏が仲たがいしていたのではないか?と言う節が見受けられ、それでジェヴァノフスキ氏がショパンをソコウォーヴォへ行かせたがらなかったのではないか?と想像されるのだ。
もう一つ、(僕がマカロニを突き出すのを許してくれたまえ)と言うのもちょっと意味不明な言い回しだ。
ちなみにオピエンスキー版では、ここは「僕が少しマカロニ式にすべるのを許してくれたまえ」と言うようなニュアンスで英訳されている…何となく分かるような分からないような…。
これもショパン独特のジョークなのだろうが、参考までにウィキペディアで「マカロニ」を調べてみると、そこには以下のような事が書かれている。
·
16世紀から17世紀にかけて、イタリア語にラテン語のような語尾をつけて、風刺に使うのが流行したことがあり、これをマカロニ・ラテン語(英語:macaroni Latin または macaronic
Latin)と呼んだ。転じて異なる言語をごちゃ混ぜにして書いたり喋ったりすることをマカロニックと呼ぶ。
·
18世紀のイギリスでは、イタリアで最先端の流行に触れ、それを持ち帰って広めた者や最先端の流行に対して「マカロニ」という言葉が使われた。また、大変奇抜なファッションに身を包み、奇抜な言葉遣いをする男性も「マカロニ」と呼ばれた。
ここにあるように、「異なる言語をごちゃ混ぜにして書いたり喋ったりする」とか、「奇抜な言葉遣いをする」とかは、まさにショパンの手紙そのものである。つまり、(僕がマカロニを突き出すのを許してくれたまえ)と言うのは、まさしくそう言う事を言っているのだろう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#4. |
「僕は、僕の真実の文学、別名「手紙の通信」とも言うが、に移るとしよう、そして君に報告する。まず第一に、僕らはみんな健康だという事、――第二に、今度僕らに、冗談好きの新入生が仲間として増えた事。それはテクラ・チャホフスカの兄弟の息子で、つまりユリウシュ・チャホフスキの甥なんだが、彼は僕の事をフリチオ叔父さんと呼び、姉妹達の事をズージア叔母さん、ルドヴィカ叔母さん、イザベラ叔母さん、それにエミルカ(※エミリア)叔母さんと呼んで、いつも家族みんなの笑いを誘っている。」 |
この「冗談好きの新入生」と言うのは、ショパン家の寄宿舎に入って来た新しい生徒の事である。
この人物については、ソウタン版では、「おそらく、ユリアン・ピオートゥル・コンスタンティ・チャホフスキ」としてその詳しいプロフィールを掲載しているが、オピエンスキー版やシドウ版では、「ユリウシュ・チャホフスキ」がその彼であると言う風に訳されている。いずれにせよ、ショパンにとって親戚関係にあるようなのだが、この人物はショパン伝においては全く重要ではなく、しかもここにしか登場しないので、本稿ではこれ以上触れない。
それより、ここでショパンが、彼の従姉妹である「ズージア」の事を、完全に自分の「姉妹達」の一人として書き連ねている点に注目したい。
ソウタンの時代には、この「ズージア」に関する情報が全くなかったため、彼は彼女に対して註釈を施す事ができなかった。
その後、ソウタン版からしばらくして1931年に出版されたオピエンスキー版の書簡集では、[ズージアはショパン家の女中だが、家族同様に扱われていた]と、間違った註釈が施されていた。これに関しては、イワシュキェフィッチが1938年の自著にこう書いている。
「このズースカ(※ズージア)の身分については、ノウァチニスキーが多くのあり得ないような馬鹿げた主張をし、しかもそれを老コールベルグ(※コルベルクの父)の責任だとした。ズースカはいなか出の女中ではなく、ユスティーナ夫人の親戚であった。夫人とズースカとは家にあって、若主人にとっていつも面倒な寄宿学校の管理ということでショパン家を助けたのであった。フレデリックは手紙の中で四、五回ズースカのことに触れているが、いつも姉妹と同じように扱っている。」 ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳 『ショパン』(音楽之友社)より |
ところが、それよりもずっとあとに出版されたシドウ版では、「ズージア」には一切註釈が施されていない。
前にも書いたが、「ズージア(=ズザンナ・ビエルスカ)」は、ショパンの母ユスティナの姉マリアンナの娘で、つまりショパンの従姉妹になる訳だが、どう言う事情があったのかは分かっていないが、彼女はショパン家に預けられ、1820年代において彼らと一緒に暮らしていた。
彼女はショパンの姉ルドヴィカより3歳ほど年上なだけなので、ショパン家の子供達とはほとんど同世代と言っていい。なので、「ズージア」がショパン家の仕事に関与していたとするイワシュキェフィッチの主張は、ちょっと微妙なようにも思われる。私の考えでは、ショパン夫妻は彼女を自分の子供達と全く同じように扱っていたはずで、それが一つ屋根の下で暮らしているのだから、もやは事実上の姉妹同然の仲になるのも当然だろう。ただでさえショパンの家族はみんな仲がいいのだから、「ズージア」がその中に溶け込むのに、何の苦労も時間も要らなかったはずである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#5. |
「第三に、ワルシャワで開かれている展示会の事。会場は市役所の建物の中とか大学のホールとかだ。――どこに何があるのかは君に教える事が出来ない。何故なら、見るべきものがまだないから、僕もまだ見ていないんだ:しかし間もなく僕のゴーグルは、綺麗な絵、美しい肖像画、素敵な機械、良いピアノ、興味深い演劇、全体として何か非常にすばらしいものを目に留める事だろう。僕の手で君に説明を書く。そしたら、ドブジン村からの使いの人が持って行く。」 |
ここで、また例の「ポーランド語表記のフランス語」が出てくる。
要するにこれが、ショパンが突き出す「マカロニ」の一つと言う訳である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#6. |
「音楽ニュースとして僕らが聞いているのは、確かゴールドン某氏というのがワルシャワに来る予定という事だ。彼はワルシャワでミネラル・ウォーターの店を経営している女性の息子で、プラハ芸術学校の生徒だという事だ。そして、彼の演奏はイヴのリンゴと同じくらい興味深いという事だ。それについてはまた後で君に話そう。」 |
ショパンは第1便でも、「クレスネルとビアンキ夫人が月曜日にコンサートを行う」と言う風に「音楽ニュース」を書いていた。第2便と第3便は「急ぎの用件」としての色合いが強い手紙だったので、このような雑談は少なく、手紙の内容自体も短いものだった。しかしこれ以降の手紙には、「急ぎの用件」としての手紙はなくなるため、この手の「音楽ニュース」もかなり詳細になっていく。
これは言うまでもなく、ショパンとビアウォブウォツキの共通の趣味に音楽があるからで、ショパンは決して、自分の趣味のためだけに「音楽ニュース」を書いている訳ではない。これはあくまでも文通の手紙であり、決して日記や手記の類ではないのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#7. |
「これで僕のニュースは終わりだ、同時にそれは、僕の手紙の終わりでもある。そうしないと、手紙を書いているうちに木曜日が終わってしまう、何故って、もうすでに4時なのだ。したがって、恵み深いお方(神様)の慈悲に託し、僕があるがままの僕でいれるように、いや、それよりも更に良い人間になれるように、今まで生きて来た以上に長生きできるように祈りたい。 F.F.ショパン 」 |
ショパンがこのように神に祈るような事を書くのは、時々あるけれども比較的珍しい方だと言えよう。
思えば、幼年期のショパンが両親の命名日や誕生日に贈ったグリーティング・カードの内容は、大体みんなこんなような感じだった。
ショパンはここでサインをし、一旦手紙を終わるが、いつものようにここから追伸の挨拶に入る。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#8. |
「僕から君のパパに挨拶を送る。それと、ヴィウッツカ夫人はずっと前に自分で手紙を書いてくれているはずだと伝えておいてくれたまえ!」 |
まずは、ビアウォブウォツキの継父ヴィブラニェツキ氏への挨拶。
今回はここで、「ヴィウッツカ夫人」と言う人物についてコメントしているが、これはおそらく、ビアウォブウォツキからの手紙に、ヴィブラニェツキ氏からショパンへの伝言が書いてあり、そこで彼女について尋ねられていたらしい。これはそれに対する「返しのコメント」である。これも「文通の手紙」ならではのものだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#9. |
「僕の姉妹がコンスタンチア嬢とフロレンティナ嬢にキスを送る。僕は彼女達の手にキスを。」 |
次は女性陣への挨拶。
ビアウォブウォツキの姉「コンスタンチア嬢」への挨拶は毎度お馴染みだが、今回は、前回に引き続き、ヴィブラニェツキ氏の従姉妹「フロレンティナ嬢」へも挨拶している。ただし、この「フロレンティナ嬢」の名前が出てくるのはこれが最後なので、やはり彼女は、普段はソコウォーヴォで生活している人ではないようだ。つまり、今回のこの「フロレンティナ嬢」への挨拶と言うのも、ビアウォブウォツキからの手紙に彼女からの挨拶が書かれていた事を意味しており、だからこそショパンは、それに対してここで返答していると言う事なのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#10. |
「シャファルニア村(の皆さん)によろしく。プウォニ村、ゴウビニ村、ウゴシチ村、その他の村(の皆さんにも)よろしく。」 |
去年「1824年8月10日火曜日」にソコウォーヴォで書いた「家族書簡」には、「日曜日には、僕達は皆でゴウビニ村のピウニツキさんの家に行きました」と書かれていた。つまりこれらは、ショパンがビアウォブウォツキとヴィブラニェツキ氏と共に訪れた、双方に交流のある人々がいる近郊の村々と言う事で、ショパン一人が訪れた村や町は含まれていない。だからここには、今年の夏にショパンが訪れた「トルン」などは入っていないのである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#11. |
「ママとパパ、そして子供達が心の底から君によろしくと。手紙を書いてくれたまえ。デケルト夫人、バルジンスキ氏、ジヴニー氏、彼らからも君によろしくと。」 |
例の表現、「ママとパパ、そして子供達」である。
前にも書いた通り、ここでも、ショパンが自分の姉妹達を指して「子供達」と言う時の「2つの絶対必要条件」がきちんと満たされている。
1.
手紙の追伸部分の挨拶でしか使われない事。
2.
その際、必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記される事。
今までこの表現は、去年と今年の「家族書簡」の中にそれぞれ出てきていただけだったが、今回、それ以外で初めて、「ビアウォブウォツキ書簡」の中でも使われた事になる。
「デケルト夫人、バルジンスキ(※バルチンスキ=将来のイザベラの夫)氏、ジヴニー氏」の3人は、「ビアウォブウォツキ書簡」の追伸においては常連である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第4便#12. |
「[手紙の裏面に] (手紙の用紙を使って)封筒の形にはしません。ただし、オピッツからの手紙から今離したばかりの、この指で掴んでいるものだけ自分用に使うものとする。急いでいる! 例の封筒を使いたい:しかし、残念ながら(紙が)短か過ぎる;隅を曲げる事も試したけれど、どうにもならなかった。」 |
「オピッツ」と言うのは、おそらく誰かの名字だと思われるが、その詳細については不明である。
「例の封筒」と言うのも、我々部外者には全く意味不明だ。しかし、ショパンが「例の封筒」と書くだけで、それが何を指しているのかがビアウォブウォツキには分かると言う点が重要だ。おそらく、ビアウォブウォツキがショパンに、「この封筒を使って僕に手紙を出してくれ」とか言って、療養先で土産に買った封筒でも送って来ていたのかもしれない。
前回の第3便でも、ショパンは[手紙の裏面に]追加して書いていたが、今回もそのパターンである。ただし、前回は切羽詰った内容だったが、今回は同じ「弁明」でも、かなり他愛のない内容だ。
これは、前回とは打って変わって、あれから「2週間」が過ぎ去り、ショパンの心もすっかり平常心を取り戻している事を意味している。
それはなぜなのだろうか?
今回の手紙で特徴的なのは、いつも必ず書かれるはずのビアウォブウォツキの病気に関する記述が、ただの一度も出てこなかったと言う事だ。おそらくその理由は、この手紙を書くきっかけとなった「ビアウォブウォツキからの手紙」に、そもそも病気の事が一切触れられていなかったからに違いないのだ。
それでショパンの方でも、ビアウォブウォツキが病気である事を一瞬忘れ、まだ彼が足を患う前の、かつて元気にワルシャワにいた頃のような感覚で語りかけていたのではないだろうか。この手紙からは、「ビアウォブウォツキ書簡」には珍しく、そんなショパンの心の平穏が見て取れる…。
それだけに、この手紙の書き出しの「ソコウォーヴォでのあの日曜日」と言うのが、ビアウォブウォツキがまだ足を患う前の事、つまり去年の夏の出来事を指しているとしか思えないのである。それどころか、もしもこの手紙に“例の修業試験”と言う一言が書かれていなかったら、ひょっとするとこの手紙は去年の秋に書かれたのか?とも考えてしまいかねないような筆致なのだ。
それでは、なぜビアウォブウォツキは今回、ショパン宛の手紙の中で自分の病状について触れなかったのだろうか?
その理由は、次回の第5便で明らかになる。
そして、ショパンのひと時の心の平穏も、一気にまた現実に突き落とされる事になるのである。
[2010年11月5日初稿/2010年11月28日改訂 トモロー]
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