検証2:汚れなき初期書簡の意義――
   Inspection II: The significance of the early letters without the dirt -

 


3.手紙を書くより、楽譜を書く方が2年も早かった――
  3. For Chopin, it was a point that he wrote score than his writing a letter.-


≪♪BGM付き作品解説 ショパン:ポロネーズ 第11番 ト短調≫

 

 

さて、今まで18161817年までのグリーティング・カードを見てきたが、この1817年と言う年は、実はショパンにとって記念すべき年でもあった。

ショパンの作品が初めて出版されたのである。

それは現在《ポロネーズ 第11番 ト短調》として知られている作品だが、なぜ、これが最初の作品なのか?

 

この頃、ショパンは当時8歳(※通説では7歳)にして、自発的に作曲を始めたのである。これは、単に早熟とか言う一言だけでは片付けられない、極めて異例な事だと言える。

なぜなら、先述したように、ショパンの両親は共に正式な音楽教育を受けては来なかったし、音楽はあくまでも素人の趣味程度のものでしかなく、ショパン家は音楽家の家系とは全く無縁だったからだ。それでも子供達がピアノを学ぶ事が出来たのは、ニコラが、自分の経営する寄宿学校の教養の一環としてそれを取り入れていたからであり、これはあくまでも、ピアノが一般に普及し始めた時代の流れを反映した事なのである。だから、よく言われているような、単に「この両親が特に音楽好きだった」と言うような事とはちょっと違うのだ。

したがってショパンは、偉大な先人達とは違って、世襲制等によって音楽家となる事を約束されていた訳でも、またそれを義務付けられていた訳でもなかった。それにも関わらず、ショパンはそのような環境下でピアノを学んだに留まらず、作曲まで始めたのである。これは誰が望んだのでもない、彼本人が自発的にそれを始めたと言う事であり、正に、もって生れた才能の萌芽なのだ。

 

たとえば、モーツァルトの場合、彼は既に5歳で作曲を始めたとされているが、そもそも彼の父レオポルトは優秀な音楽教師であり、作曲もした。当然、その息子は生まれた時から音楽家として将来を渇望され、英才教育も施されていた。

しかしそれでも5歳で作曲を始めるというのは尋常ではない。たとえば、同じように音楽家の家系に生れて英才教育を施されていたバッハでも、作曲を始めたのは18歳頃とされており、同様にベートーヴェンでも、彼が作曲を学び始めたのが11歳で、処女作となる変奏曲を書いたのは12歳の時である。12歳や18歳でも十分に早いとは言えるが、ただこの二人の場合は、自発的に始めたと言うよりも、彼らの家系の教育プログラムの一環として段階的に作曲を始めたという色合いの方が強い。そう考えると、モーツァルトの5歳とショパンの8歳というのは規格外とも言える程のもので、この両者が自発的に作曲をし始めない限り、このような事はとうてい起こり得ないだろう。なぜなら、楽器演奏の習得なら教われば子供にでも出来るが、作曲だけは、教えられたからと言って誰にでも出来るようになるものでもないからだ。

 

ショパンがこの頃に書いた作品は数曲ある。だが、そのうちのどれが処女作だったのかは分かっていない。

今のところ楽譜が確認されているのは《ポロネーズ 第11番 ト短調 作品番号なし 「ヴィクトリア・スカルベク伯爵令嬢に献呈」《ポロネーズ 第12番 ロ長調 遺作》2曲だけで、そのうち前者は、当時狭い地域で出版されている。それ以外の曲は、その《ポロネーズ 第11番 ト短調》が出版された際に、それに寄せられた翌18181月の『ワルシャワ評論』の中で、次のように言及されている

 

「『一八一七年度出版のポーランド作曲家作品表』

作曲家というものは、常に作家の中に含まれていないが(.この人たちもまた常に著者であるという事実にもかかわらず)、われわれは一友人の手によって印刷され、頒布された次の作を黙殺することができない。「ヴィクトアル・スカルベック伯爵令嬢へ献呈、八歳のフレデリック・ショパン作曲、ピアノのためのポロネーズ」八歳のポーランド舞曲の作曲家は、真の音楽的神童である。彼はワルシャワ予備学校のフランス語、および文学の教授ニコラス・ショパンの息子であり、最も至難なピアノ曲を最も容易に、卓越した趣味で演奏し得るばかりではなく、数曲の舞曲、変奏曲をも作曲しているが、それらは驚嘆すべき手練と、特殊な新鮮な構想に満ちたものである。もし彼が、ドイツあるいはフランスに生まれていたならば、その名声はすでに今日までに全世界に広まっていたであろう。願わくば、この記事を読む読者は、われわれの国にも天才は生まれる、そして彼らは一般大衆の認識不足のために、広く知られることがないということを心に留めてほしいものである」

カシミール・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝共訳

『ショパン』(音楽之友社)より 

 

        「ヴィクトアル・スカルベック伯爵令嬢」(ヴィクトリア・スカルベク(Wiktoria Skarbek 1791-1828))は、ショパンの代父フレデリック・スカルベクの妹。この記事は、そのフレデリック・スカルベクが寄稿したものだとされている。

        この著書では「ニコラス・ショパン」と翻訳されているが、ポーランド語の原文では「ミコワイ Mikołaiaと書かれている。これは、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、その原物を確認する事が出来る。

        ここに書かれている「数曲の舞曲、変奏曲」と言うのが何であるかは、現在確認されていない。ショパン作品のどれかを指すのか、それとも何らかの形で別の曲に生かされて残っているのか、それとも永遠に失われてしまった作品なのか、全く分からない。

 

したがって、これらの作品のうち、どれがショパンの処女作だったのかも分かっていない。

一般的には、この時リアルタイムで出版された《ポロネーズ 第11番 ト短調》だとも言われているが、それはまだショパン研究が進んでいない時代に唯一確認されていた曲だから「そうとされてきた」だけの事であって、実際は定かではない。

楽譜が確認されている2曲のポロネーズを比較してみると、さすがに出版されただけあって《ト短調》の方が出来がいい。別に《変ロ長調》が出来が悪い訳ではなく、これはこれでまた才能の片鱗を感じさせはするのだが、しかしこちらはまるでモーツァルトが書いた曲のようで、いわゆる「ショパンのポロネーズ」らしさが希薄なのである。

≪BGM付き作品解説 ショパン:ポロネーズ 第12番 変ロ長調▼≫

 

それに対して《ト短調》の方は、当時流行していたオギンスキのポロネーズの影響を指摘する声もあるが、確かに他の初期ポロネーズはそうだが、この曲に関しては私の耳にはそうは聴こえず、むしろこの曲は、後の2つのポロネーズ 作品26で結実するに至る「何か」を持っているように感じられる。

 

それにしても、ショパンがこの頃に書いた作品の中でも、特にポロネーズが際立っている事に気付くが、その点は注目に値するだろう。なぜなら、仮にショパン家がずっとジェラゾヴァ・ヴォラの田舎にいたままだったら、ひょっとするとそれはマズルカになっていたかもしれないからだ。

 

「同じ3拍子のポーランド舞曲でも、「ポロネーズ」がシュラフタ(士族)や貴族が中心の踊りだとすると、「マズルカ」は、農民がその中心になった踊りである。」

下田幸二著

『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』(潟Vョパン)より  

 

この事は、ワルシャワにおける当時のショパンの生活環境がどのような様子だったのかを物語っている。すなわちそれは、ショパン家が、ワルシャワの上流階級と交際していた事の反映に他ならず、ショパンがポロネーズを演奏し、あるいは作曲したのも、そのような集いの場でそれが求められていたと言う事なのである。

ショパンがもう一つのポーランド舞曲であるマズルカに注目し始めるのは、もう少し先の事になる。

 

 

ちなみに、これらのポロネーズを採譜したのはニコラだと云えている著書は多い。しかし、それは音楽家の常識から言って絶対にあり得ない話である。

「採譜」とは、曲を聴いてそれを楽譜に書き取る事を言い、俗に「譜面起こし」などとも言われるが、これは、高度な音楽教育を受けていない限り、素人などにはとうてい出来ない芸当だからだ。

何度でも言うが、ニコラはそのような高度な音楽教育など受けてきてはいないのである。それは、彼の生まれた身分やその育った環境から明白な事であり、彼はただ単に、老後になってからやっと趣味でヴァイオリンを弾き始めたに過ぎないだけの完全なド素人で、その姿を娘達に大笑いされているような代物である。そんな人間に採譜など出来るはずがない。ニコラ・ショパンは決してレオポルト・モーツァルトではないのだ。

 

では、なぜそのように言い伝えられているのか? この誤伝にも、きちんとカラクリがある。

実は、出版されなかった方の《ポロネーズ 変ロ長調》は、ニコラの手による「写譜」によってその存在が確認されていたのである。その原物は失われてしまったため現存していないが、その写真コピーと言うのが残っていて、これは、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で確認する事が出来るが、そこでも、その楽譜は「ニコラ・ショパンの手によるコピー」と紹介されており、あくまでも「写譜」なのである。つまりこれは、既に採譜されて清書されている楽譜を単に書き写しただけのものであり、そんな事なら、音楽の知識などなくても字さえ書ければ誰にでも出来る。したがって、これをもってニコラが「採譜」が出来たという根拠になどなりはしないのに、そんな音楽の知識もない者が早合点してそのように言い伝えてしまったのだ。

実際、この楽譜の写真を見ると、これが本当にニコラの筆跡なのかどうか私には分からないが、きちんと丁寧に清書されたもので、間違いを直したり後から書き足したりしているような箇所は一つもない。なので、これが明らかに「写譜」である事は一目瞭然である。おそらくニコラは、幾人もの人に求められて、このような「写譜」には慣れていたに違いない。

もしも「採譜」のオリジナル原稿であれば、もっと素描っぽくて、専門家や本人にしか分からないような記譜や、書き足しや訂正などがあって然るべきなのだ。したがって、当時、少年ショパンの紡ぎ出す新曲に対してそのような「採譜」をしていたのは、ジヴニー以外には考えられないのである。

 

 

さて、このようにしてショパンは、既にプロ顔負けのピアノ演奏をし、8歳頃から作曲も始め、そのうちの一曲が狭い地域ながらも出版され、しかもそれが『ワルシャワ評論』「天才」と賞賛される事となった訳である。

こうなると、もはや世間が放っておかなかった。

『ワルシャワ評論』が出た翌月の224日には、ワルシャワ慈善協会の晩餐会において、ショパンにとって初めての公開演奏が行われる事となる。この演奏会については、必ず以下のエピソードが紹介される。

 

「その演奏(ギロウェッツのピアノ協奏曲を弾くことになった)の始まる少し前に、「フリッツ坊」(ショパン)は椅子に載せられて、多人数の中に初めて出るにふさわしい衣服を着せられた。小児はその短衣を殊に立派なカラーをよろこんだ。演奏会を終わってから、出席しなかった母親が彼を抱いて「皆さんには何が一番お気に召して?」と訊ねた。フレデリックは無邪気に「ねえ、お母さん、誰も僕のカラーばかり見ていました」と答えて、彼の演奏の無駄ではなかったことを表明した。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

これについて、アメリカのアトウッドは次のように書いている。

 

「フレデリックの母であるショパン夫人は、どういう訳か息子のコンサートには顔を出さなかったが、息子に晴れの舞台にふさわしい衣装をつけさせようと心を配り、黒のベルベットの上着と半ズボン、白い靴下、幅広のレースのカラーを自らの手で用意してやった。

…(中略)…

今では伝説となっているこのコンサートのエピソードどおり、フレデリックはその晩、家にかけもどると真っ先に母親のところへ行って、お客は自分の演奏よりもレースのカラーに気を引かれたようだと話した。この言い古された逸話には作り話の気がなくもないが、ショパンが大人になってからも身なりに気を使ったのはまぎれもない事実である。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社)より  

 

アトウッドはこのように慎重だが、私などは、この「カラー」のエピソードは、完全にカラソフスキーの作り話だと思っている。

何故なら、本稿の序章でも書いた通り、カラソフスキーは、ショパンの家族では妹のイザベラとしか面識がない。となれば彼は、このようなプライベートなエピソードは、当然そのイザベラの証言からしか得られようがない訳だ。さて、それでは聞くが、もしもあなたが伝記作家だとして、そのあなたが直接イザベラに取材して、彼女からこのようなエピソードを聞かされたとしよう、その際、あなたは必ず、「どうしてお母さんは息子さんの晴れ舞台を見に行かなかったのですか?」と聞くだろう? それが気にならない人などいないはずだ。いや、それどころか、イザベラの方からそれについては最初に説明があって然るべきだろう。たとえば、たまたまその日は体調を崩して行けなかったとか何とか…。しかしカラソフスキーはそんな事など一切気にも留めず、このようなエピソードを紹介してのけている。こんな不自然な執筆態度は考えられないだろう。考えられるとしたらそれは、このエピソードが、カラソフスキー自身による「作り話」である場合だけである。このように、カラソフスキーの作り話はいつも穴だらけなので、その子供のような嘘を暴くのは至って簡単なのだ。

 

「カラー」のエピソードは作り話にしても、この演奏会が行われた事は事実であり、前々回のショパンの生年月日の項でも紹介したように、きちんと資料も残っている。

 

 

そして、こういった一連の出来事が、この少年の心に、己の天分をはっきりと意識させる事となる。その事を如実に物語っているのが、この年の12月に父に贈った命名日のグリーティング・カードである。そこに書かれた祝詞は、もはや去年までの常套句の羅列とは、明らかに一線を画している。

 

■フレデリック・ショパンから、

ニコラ・ショパンへのグリーティング・カード■

(※原文はポーランド語)

「親愛なるパパ

僕の気持を音符で表せるものなら、その方がずっとやさしいのですが、立派な協奏曲を持ってしても、貴方への愛情を十分には表現しきれないでしょう。ですから親愛なるパパ、単純な言葉を使って僕の心を伝えなければなりませんが、最大の感謝と、息子としての愛情を貴方に捧げます。

1818126日 F.ショパン」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

        これの原物は現存していないが、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、その複製の写真コピーを見る事が出来る。

        ちなみに、ここに書かれている「立派な協奏曲」を、「立派な演奏会」と翻訳している著書も多いが、それは間違いである。この箇所は、ポーランド語原文ではKoncertとなっており、ポーランド語では「コンサート(Concert)=演奏会」も「コンチェルト(Concerto)=協奏曲」も、どちらもKoncertと表記するため、これを「コンサート(演奏会)」と訳すか「コンチェルト(協奏曲)」と訳すかは文脈で異なる。この場合、前後の文脈から明らかなように、これは父への祝辞を「作曲」と「作文」との対比で表現しようとしているのだから、ここは「協奏曲」と解釈するのが正しいのである。それに、当時のコンサートと言うのは、現在の我々が想像するものとはちょっと違うのだ。そもそも「Concert」とは「共同で行う」と言う意味の言葉であり、すなわち当時の「コンサート=演奏会」とは、音楽や演劇等を含めた、その他大勢による雑多な催し物を意味し、現在のように、一人のピアニストによるリサイタル形式のようなものはまだなかったのである(※それは、後にリストによって行われる事になる)。そのような雑多な催し物では、とてもこの祝詞の文脈にはそぐわない事が分かるだろう。「協奏曲」と言うのも、この「共同で行う」という意味から転じて用いられるようになったのである。

 

ここに至って初めて、彼の書き記した文章に、音楽家としてのフレデリック・ショパンのパーソナリティが表出した事が分かるだろう。

 

 

この後ショパンは、社交界に欠かせない存在として、ワルシャワの貴族達から引っ張りだこにされていく。

 

        ただし、ショパンが演奏したのはもっぱら貴族のサロンや晩餐会などの「くだけた場」だけであり、彼が次に公開演奏会に出演するのは5年後、つまりワルシャワ音楽院の院長でもあるユゼフ・エルスネルに師事するようになって以降になる。そうなった事については、多くの著書で、ショパンの両親が教育上の問題で公開演奏会への出演を許さなかったからだと書かれているが、そうではないだろう。公開の演奏会だろうがサロンだろうが、まだプロではない以上、求めに応じて人前で演奏する事には何の変わりもない。教育上の問題を言うのなら、むしろサロンで弾く方がよっぽど教育上よろしくないだろう。

        たいがいのショパン伝では、ニコラの事を美化して語るために、「モーツァルトの父親とは違って」、あるいは「リストの父親とは違って、息子を金儲けの道具にはしなかった」…みたいに語りたがる傾向があるが、何度も言うように、世襲制によって息子を音楽家として育てた彼らと、両親が音楽ど素人のショパン家とでは、その環境も事情も最初から全く違うのである。私は常々、ショパンを語る際に、このように他の芸術家やその家族を貶めるような書き方がやたら多く見受けられる事に憤りを感じている。その一番の被害者はジョルジュ・サンドだろう。

        したがってこれは、おそらくショパン自身が、一度公開演奏会と言うものを経験してみて、その過度に緊張を強いられる事に抵抗を感じたからに違いないのだ。つまり、本人が公開演奏会に出たがらなかったのである。後にショパンがリストに告白したように、ショパンの演奏会嫌いは有名で、実際彼は、必要に迫られない限り演奏会には出たがらなかった。それがエルスネルに師事したのち行われるに至ったと言う事は、すなわちショパンがプロの音楽家を目指して本格的に勉強を始めた事を意味しているのであって、そうとなれば、嫌でも演奏会に出ない訳にはいかないからだ。ショパンが演奏会に出ないで済むようになるためには、然るべき場所で然るべき名声を獲得し、作曲とレッスンとサロン演奏だけで収入を得られるようになるまで、しばらくは我慢しなければならないのである。

 

 

先のグリーティング・カードから13ヵ月後には、当時、ワルシャワ公演のためにパリから来ていたイタリアの歌手アンジェリカ・カタラーニが、あるサロンでショパンの演奏を聴いて感激し、「マダム・カタラーニより10歳のフレデリック・ショパンへ。ワルシャワ、182013日」と文字を刻んだ金時計を贈った。ショパンはこれを終生手放さず、この懐中時計は現在もワルシャワのショパン協会に所蔵されている。

また、カラソフスキーの伝記には、これと同時期のエピソードに次の事が書かれている。

 

「フレデリックの最初の作曲は舞踊、ポロネエズ、マヅルカ、ワルツであった。彼は更に*行進曲を作曲して、これをコンスタンチン大公に捧げた。…(中略)…大公はこの行進曲を大スコーアに直させて、サクソン広場の傭兵場にて屡々演奏させた。 *この行進曲は後にワルソウにて出版されたが、作曲家の名は載っていなかった。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

        「コンスタンチン大公」は、当時ポーランドを分割支配していたロシア皇帝の弟で、当時のポーランド軍総司令官

        カラソフスキーの伝記には、ショパンの記念すべき初出版作である《ポロネーズ ト短調 作品番号なし ヴィクトリア・スカルベク伯爵令嬢に献呈》について触れられていない。彼が伝記を書いていた当時、まだこの楽譜は発見されていなかったからである。

        しかし逆に、ここで触れられているこの「行進曲」については、現在もまだ、これに関する資料は確認されていない。しかしこれは奇妙ではないだろうか? 何故なら、ショパンは既に出版経験もあり、それが雑誌でも天才の作と評され、もはや有名人でもあったと言うのに、そのショパンの作品が、最大の売り文句である「作曲家の名」も載せずに出版されるなど、そんなおかしな話があり得るだろうか? ショパンが「コンスタンチン大公」に招かれていたのは事実のようで、それは関係者の証言にもあったが、「行進曲」については、おそらくこれは、例によって、《ポロネーズ ト短調》の出版について正しい知識のなかったカラソフスキーの作り話なのではないだろうか。おそらくカラソフスキーは、「この癇癪の強い」(※同書より)「コンスタンチン大公」を、どうしてもショパンの前にひれ伏せさせたくて、このような話を捏造したのではないだろうか?

 

 

 

ショパンは父宛のグリーティング・カードに、「僕の気持を音符で表せるものなら、その方がずっとやさしいのですが」と書いていたが、実際にショパンがそれを出来るようになる日が、ついにやって来る。

1821年、ショパンが初めて自分で書いたとされる楽譜が登場するのである。

 

■フレデリック・ショパンから、

ヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴニーへ■

(※原文はフランス語)

「A・ジヴニー氏に捧げる、その生徒フレデリック・ショパンが作曲した、ピアノ独奏用のポロネーズ。1821423日、ワルシャワにて」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

ここに記されている日付はジヴニーの命名日であり、つまりこれは、ショパン流の恩師へのグリーティング・カードなのである。そしてこの記念すべき作品は、同時に、ショパンにとって、「ジヴニー学校の卒業証書」を意味するものでもあった。これをもって、もはやジヴニーには、弟子に教えられる事は何もなくなったのである。

 

 

この後、ショパンが初めて「手紙と言うもの」を書くようになるまで、あと2年の歳月が流れる事になる…。

 

 [2010年6月23日初稿 トモロー]


【頁頭】 

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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 
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