検証2:汚れなき初期書簡の意義――
   Inspection II: The significance of the early letters without the dirt -

 


2.幼年期のグリーティング・カードが語るショパンの家庭環境――
  2. Home environment of Chopin whom greeting card of his early childhood recites-
   
   BGM(試聴) ショパン作曲 前奏曲 第7番 イ長調 作品28-7 by Tomoro
   [VOON] Chopin:Prelude Op.28-7 /Tomoro
   

 

ショパンが書き残した文章で最も古いものは、1816年に両親の命名日に書いたグリーティング・カード(※クリスマス、誕生日、結婚などの際に、祝いの言葉を書いて贈るカード)における祝辞の韻文である。

 

      ちなみに、この「命名日(名の日)」というのは、我々一般の日本人にはちょっと馴染みのない習慣なのだが、これは「聖名[霊名]祝日」とも言い、自分が命名されたのと同じ名の聖人の祝日で、命名に際して名を取った「聖者の祝日」を指す。だからキリスト教圏では、姓に対する名(ファースト・ネーム)をクリスチャン・ネームと言うのである。時々、この「命名日」を誕生日と混同して翻訳している著書を見かけるが、この二つは全く別物である(あるいは、説明が面倒なので、そういう事にしてしまったのかもしれないが…)。これについては、以下の著書が非常に参考になるので、紹介させて頂きたい。

 

「部屋には、ショパンや家族の肖像画の他に、幼いショパンが、両親の「名の日」に送ったお祝いの手紙なども飾られていた。聞けばポーランドでは、誕生日よりも「名の日」を盛大に祝うらしい。

「名の日」とは、自分と同じ名のキリスト教の聖人を祝うもので、スラブ地域で広く行われている習慣だという。「たとえば、私はマウゴジャタですけど、私の名の日は」と、通訳の女性がスケジュール帳を取り出し、彼女の誕生日である九月一四日以降で、最初に「マウゴジャタ」と書かれた日付を指さし、「この日になるということです」と説明した。では、聖人の名以外の名前を付けた人はどうなるのでしょうと聞くと、「ポーランドでは、あらかじめ定められた一覧表の中からしか、名前をつけられないんですよ」という答えが返ってきた。」

堀内みさ・文/堀内昭彦・写真

『ショパン紀行 あの日ショパンが見た風景』(東京書籍)より  

 

    ポーランド以外でも、一神教の国々では「あらかじめ定められた一覧表の中からしか、名前をつけられない」というのは多い。

    ショパンの手紙の多くからも、家族同士、友人同士、常にこの命名日を意識し、お互いに祝い合っていた様子がうかがえる。

 

 

それでは、その1816年のグリーティング・カードから見ていこう。

 

■フレデリック・ショパンから、

ニコラ・ショパンへのグリーティング・カード■

(※原文はポーランド語)

「僕のパパへ、命名日とは、世界中の人々が貴方に祝辞を告げる日であり、それは僕にも同様に喜びをもたらします。大きな心配事もなく幸福に暮らせますように、また、神様が常に、貴方が望む通りの運命をお恵み下さいますように、貴方のためにここに書き記すものであります。

F.ショパン 1816126日」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

1.         これは、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』でその原物を確認する事が出来るが、それを見ると、ショパンは当時7歳(通説では6歳)だったにも関わらず、文字はしっかりとしたペン字できれいに書かれている。ここからは、父ニコラによる教育がいかによく行き届いていたかがうかがえる。

2.         また、このグリーティング・カードには、極めて美しい絵も描かれている。祝詞の文字の周りを、柏とオリーブの枝が丸く取り囲み、それを、下でリボンの蝶結びで結んでいる。ショパンには、絵の才能もあった事が数々の資料から知られているが、これは、その早熟振りを如実に物語るものである。

3.         さらに、絵の頂点にはNCと言う父のイニシャルが飾り文字で施されており、これは、ショパン家において、父の名は「ミコワイ」ではなく、あくまでも本名の「ニコラ」であった事を示している。たとえばこの韻文が、仮にフランス語で書かれていたのなら、単に言語を統一する意味で「ニコラ」となっているのだと主張する事もできようが、しかしこれの本文はポーランド語なのである。言語を統一する意味でも本来ポーランド語名の「ミコワイ」の「M」となっていた方がむしろ自然であるはずなのに、それにも関わらずやはりフランス語名の「ニコラ」のNとなっている。つまり、「ミコワイ」というポーランド名は、あくまでも便宜上のものであり、外交的に用いられていたに過ぎないのである。

4.         一方、祝詞の内容の方に目を向けてみると、当時の年齢を差し引いても、ここにはまだ、フレデリック・ショパンの個性を感じさせるものは何一つとしてない。いかにも子供らしくて可愛いとは言えるが、これは、普段、この少年の生活環境の中で習慣的にやり取りされている常套句をなぞらえたものであり、おそらくは、信心深かったと伝えられている母ユスティナの影響が色濃く出ているものと思われる。この他にも、長女ルドヴィカ、フレデリック、次女イザベラ、三女エミリアの連名で書かれた「父への誕生カード」と言うものがあるが、それも大体これと似たような内容なのである。

 

 

この頃には、少年ショパンは、60歳の老ピアノ教師ヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴニーから正式にピアノを習うようになっていたと伝えられている。

 

 

次は、翌1817年に書かれた母宛のグリーティング・カード。

 

■フレデリック・ショパンから、

ユスティナ・ショパンへのグリーティング・カード■

(※原文はポーランド語)

「ママ、僕は貴方の命名日を祝います! 僕が心の中で願う事を、神様が叶えて下さいますように。貴方が常に健康で、一日でも長く、最高に満ち足りた人生を送る事が出来れば、それが僕の幸せです。

F.ショパン 1817616日」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

1.         これも、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』でその原物を確認する事が出来る。

2.         これは文字だけで、絵は添えられていない。

 

 

次は同1817年の父宛のもの。

 

■フレデリック・ショパンから、

ニコラ・ショパンへのグリーティング・カード■

(※原文はポーランド語)

「僕が心の中で感じる喜びは、どれほど大きい事でしょう。

今日という日はそれほど楽しく、愛しく、そして厳粛に始まり、そしてこれから先の長い年月を、幸福で、健康で、活気に溢れ、平和で、幸運に恵まれながら過す事が出来ますように、ここに祝辞を申し上げるものであります。

天の恵みが豊かに、貴方の上に降り注ぎますように。

F.ショパン 1817126日」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)より  

1.         これは原物が残っておらず、その「複製」を、『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)で見る事が出来る。

2.         これも文字だけで、絵は添えられていない。

 

 

 

以上、18161817年のものを三つ見てきたが、どれもその内容は似たり寄ったりで、その文章からは、後のフレデリック・ショパンの個性をうかがわせるものは何も見出せない。しかし、その事は逆に注目に値する。なぜなら、翌1818年のグリーティング・カードには、もう、将来の音楽家としてのそれがはっきりと見出されるようになるからだ。

それでは、そういった事を踏まえて、当時のショパンの家庭環境に目を向けてみる事にしよう。この神童は、いかにして育まれたのか? それとも、この神童は、一人で勝手に育ったのか?

 

 

 

さて、ショパンの少年期の家庭環境については、現在では、どの伝記でも、だいたい以下のように説明されている。まず、その両親については、

 

「一八〇二年、ミコワイはまさにそうした家庭教師として、ジェラゾヴァ・ヴォラにやって来たのだった。そしてそこで、クシジャノフスカ嬢と知り合い、次第に親密な仲になっていったのである。二人を結びつけたものの一つに音楽があった。ユスティナ嬢はよくピアノを弾き、歌を歌い、ミコワイはロレーヌから携えてきたヴァイオリンやフルートで合奏に加わった。四年にわたる親交と恋は、やがて一八〇六年六月二日、ソハチェフ郡ブロフフ教区教会でとり行われた結婚式となって結実した。ユスティナ二四歳、ミコワイ三五歳のことである。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

前章でも書いたが、「ニコラとユスティナが恋愛結婚だった」とするこのような書かれ方は、ミスウァコフスキらも指摘していたように、当時の常識に照らしても非常に考えにくい。これはイワシュキェフィッチも書いていたが、当時の常識では、「ユスティナ二四歳、ミコワイ三五歳」と言うのは、それが初婚であれば、明らかに「行き遅れの売れ残り」以外の何物でもないからだ。そんな二人が、同じ屋根の下で働いていながら「四年にわたる親交と恋」を育むなど、全く無意味で不毛な話であり、とても現実的とは言えない。当時そんな事をしていたら、逆に周りから訝しい目で見られるだろう。仮に恋に落ちたと言うのなら、両者には何の障害もないのだから、当然、即結婚の運びになるはずである。

なのでこれはやはり、ミスウァコフスキらが書いていたように、「スカルベク伯爵夫人によってアレンジされた」結婚と考えるのが自然なのだ。つまり、この両親は明らかに見合い結婚であり、そしてそれが当時の習慣として最も普通の事だったのである。前章でも検証した通り、ユスティナは、彼女の父親が1805年に亡くなった事がきっかけで、元の雇い主だったスカルベク家に世話されて、その1805年以降に、ニコラの結婚相手としてスカルベク家に連れて来られたのだ。

 

そうなると、「二人を結びつけたものの一つに音楽があった」とする「いかにもな話」も、当然の事ながら怪しいものだと言う事になってくる。

 

実は、この二人の音楽的素養については、それを裏付ける資料が非常に弱い。ない事はないのだが、しかしそれらの資料は、あくまでもショパンが成人した後に限られており、しかも、とうてい「それが神童を育んだ」などと胸を張れるような代物ではないのだ。

 

1.         まず、あのカラソフスキーですら、この両親の音楽的素養については一切触れていないのである。

2.         ショパンと直接交流のあったリストの伝記(1852年)も然りである。

3.         さらに、ショパンの代父スカルベクの『回想録』1878年)にも、そのような事は書かれていなかった。

4.         また、ショパンの関係者から直接取材したニークスの伝記(1888年)でも、この両親の音楽的素養については触れられていない。

 

それが最初に見出されるのは、ショパンの元婚約者マリア・ヴォジンスカの甥であるヴォジンスキの小説『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』1886年)である。この本のいい加減さについては前章でも触れたが、ここではそれは置いておくとして、そこには、以下のような記述が見られる。

 

「彼女(※ユスティナ)はきちんとした教育を受けており、年配の立派なフランス人(※ニコラを指す)と会話ができるだけのフランス語を話し、そしてクラヴサンを弾いた。」

アントニ・ヴォジンスキ伯爵著『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』

LE COMTE WODZINSKI / LES TROIS ROMANS DE FRÉDÉRIC CHOPIN PARIS CALMANN RÉVY 1886より

 

      「クラヴサン(clavecin)」とはフランスにおけるチェンバロの呼び名で、英語で言うところのハープシコードであり、つまりピアノの前身楽器である。しかしピアノの特徴である強弱の変化に乏しいため、現在ではほとんどバロック音楽のためにしか使われない。

 

そしてこれが、ユスティナの音楽的素養について言及された最も古い文献なのである。しかしここでさえ、一方の父ニコラの音楽的素養については、何も書かれていない。それにも関わらず、現在では、「ミコワイはロレーヌから携えてきたヴァイオリンやフルートで」云々と言う話が定説化してしまっている。

では、この話は一体どこから来たのか?

ニコラについての、このような話の出所は、私が調べた限りでは、1951年に書かれた以下の本が、おそらくその最初だろうと思われる。

 

「一七八七年の終わりごろに、ニコラス・ショパンはワルシャワに到着した。数冊のヴォルテール、一提のヴァイオリンと一本のフルート、そして茫然たる希望が旅袋のすべてであった。彼は当時流行の興奮剤だった嗅煙草製造を業とした、一フランス人所有の小さな工場で、簿記係という退屈な仕事に従事した。」

カシミール・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝共訳

『ショパン』(音楽之友社)より 

 

ここには、既に前章で検証し尽くした通り、何一つとして真実が書かれていない。

 

1.         まず、ニコラがワルシャワに到着したのは「1787年の秋」であり、様々な事情から鑑みて、「一七八七年の終わりごろ」、つまり「冬」ではあり得ない。

2.         次に「数冊のヴォルテール」だが、「ヴォルテール」16941778)はフランスの小説家で、啓蒙思想家でもあり、フランス革命の思想的基礎を築いたとも言われている。ところがニコラは、そのフランス革命に背を向けて兵役逃れをしたために亡命者となったような人間なのである。その彼が、どうしてヴォルテールなど愛読する理由があると言うのか? もしもニコラがヴォルテールを読んだとすれば、それは、彼がポーランドへ渡った後、彼がフランス語とフランス文学の教師となるべく勉学に励む過程で、ヴェイドリヒ家の書斎で手にした可能性が考えられるだけである。この本の著者ウィエルジンスキは、ニコラがフランスの両親に宛てた「19歳の手紙」を知らない。そのウィエルジンスキにとっては、ニコラが、ポーランドのために「コシチウシュコの反乱」に参加したとされる事への動機付けとして、おそらく「数冊のヴォルテール」を彼に持たせたかったのだろう。しかしニコラにとっては、その「コシチウシュコの反乱」も「フランス革命」も、所詮は全く同じものでしかない。ニコラにとって思想など問題ではないのだ。彼にとって問題なのは、彼の息子が将来そうしたのと同様に、ただひたすら「暴力沙汰からの逃避」、それだけなのである。

3.         「嗅煙草製造を業とした、一フランス人所有の小さな工場」云々についても、たとえこの話の出所がスカルベクの『回想録』だとしても、とうてい事実ではあり得ない。ニコラはヴェイドリヒに伴ってワルシャワへ渡り、彼が建てた「若い女性のための全寮制学校」を手伝いながら、自らも教師となるべく勉学に励んでいたのである。後にニコラが寄宿学校を成功させ得たのも、ひとえに、その全てのノウハウをそこで学んだからこそなのだ。

4.         さて、残るは「一提のヴァイオリンと一本のフルート」だが…

 

しかしながら、実際にこのような事実を裏付ける資料など、どこにもないのである。

これを書いたウィエルジンスキと言う作家は、正に「20世紀のカラソフスキー」とも言えるような人物で、彼の本業は詩人だが、ナチの侵略によって祖国ポーランドを追われた経歴といい、それゆえ過剰な愛国心をもってショパンをポーランド的に美化する点といい、客観性に欠ける小説的文体といい、このウィエルジンスキとカラソフスキーには非常に共通点が多い。何よりウィエルジンスキは、例の「ポトツカ贋作書簡」にいち早く飛びつき、その真偽が問われる前にこれを自著の中で紹介し、世界中に広めるのに貢献した。そう言う点でも、カラソフスキーと著しくその悪名を競い合う者なのである。

 

前章でも検証したように、単なる車大工の息子でしかなかったフランス時代のニコラに、ヴァイオリンだのフルートだのと、そのような優雅な嗜みがあったはずがない。

ただし、ニコラは晩年になってから、突如ヴァイオリンを始め、そしてその姿を娘達に笑われていた、と言う事実がある。姉のルドヴィカが、パリのショパンに宛てた183529日付の手紙に、その事が書いてあるのである。

 

■ワルシャワのルドヴィカ・イェンドジェイェヴィチョヴァから、

パリのフレデリック・ショパンへ■

(※抜粋。原文はポーランド語)

お父さんの自尊心を少し傷付けてしまうかもしれませんが、私はあなたに正直に告白します。あなたは驚くでしょうが、お父さんはヴァイオリンを弾いています。あなたを驚かせて咎められないようにお父さんに頼まれていましたが、この気持は手紙を書いている間もずっと続いていて、あなたに話さずにはいられません。私達は時々心の底から大笑いしますが、こんなのはめったにない事です。私は、これらの(家族)コンサートのうち一つでもあなたがピアノを弾くために立ち会ってくれたらと願うばかりです。栄冠は結局、時々ちょっと即興で『跳躍舞踏』を披露するジヴニーのものとなるんですもの。お父さんは第一ヴァイオリン、バル(※バルチンスキ、イザベラの夫)が第二ヴァイオリン、おばあちゃんは歌を唄い、おちびさん達は手や頭で拍子を取って、低音部の伴奏をしています。」

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

この微笑ましい光景が、「プロ並みの腕を持つ」と云われるような人物の姿だと言えるだろうか? これははっきり「ズブの素人」の笑い話なのであって、もしもニコラが昔からヴァイオリンを弾いていたのなら、ルドヴィカはショパンに「あなたは驚くでしょうが」なんて書きはしないだろう。この書き方はつまり、「ニコラ・ショパンと言う堅物が、いかに楽器演奏とは縁遠いか」と言う事に他ならない。そのニコラ本人は、この件に関して、同日付の息子宛の手紙で、「以前お前がおもちゃ代わりにフルートを与えられた時のように、新鮮な気持で楽しんでいる」(※同上)と書いているのである。つまりこれは、あくまでも「老後の趣味」として始めた事であって(※ニコラは当時60代半ばである)、ニコラが昔からヴァイオリンを弾いていたと言う事ではないのだ。ジヴニーはピアノよりもヴァイオリンの方が堪能だったと伝えられているので、ニコラも「バル」も、おそらく彼にヴァイオリンを習ったのだろう。

また、「フルート」に関しても、ニコラのこの書き方からは、彼が息子に与えた「フルート」が、自分が「ロレーヌから携えてきたヴァイオリンやフルート」だと言うようなニュアンスは微塵もない。仮にニコラがフルートに堪能だったとしたら、こんな風に「おもちゃ代わりに」なんて言うだろうか? 生真面目なニコラの事だから、おそらく、きちんとその奏法も含めて、あくまでも「楽器として」伝授したはずである。それに、仮にニコラがフルートを吹けたのであれば、それ以外の楽器を演奏して見せたところで、ルドヴィカはショパンに「あなたは驚くでしょうが」なんて書き方はやはりしないだろう。

 

おそらくウィエルジンスキは、これらの家族書簡の記述を曲解し、ニコラが「音楽をたしなみ、ヴァイオリンやフルートを演奏」した事にしてしまったのだろう。

 

        ちなみに、このルドヴィカの手紙に出てくる「おばあちゃん」とは、おそらく、ルドヴィカの子供である「おちびさん達」にとっての「おばあちゃん」、つまり母ユスティナを指すものと思われる。ショパンやルドヴィカにとっての祖母に当たる人物のうち、ニコラがフランスに残してきた母親は既に亡くなっており、一方ユスティナの母親は夫が亡くなった1805年以降、ユスティナの姉マリアンナと共に消息が途絶えているので、ショパン達とは面識すらない可能性が高い。

 

 

それでは、一方のユスティナについてはどうだろうか? 彼女が歌を唄う事はルドヴィカの手紙にも書いてあった。しかしユスティナは、現在当たり前のように伝えられているように、本当にピアノ(あるいは「クラヴサン」でもいいが)が弾けたのだろうか? その唯一の参考文献が例のヴォジンスキの小説『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』では、あまりにも心もとない。しかしながら、この件についての関係者の証言と言えば、せいぜい以下のようなものしかないのである。

 

「ショパン家の雰囲気については、偉大な作曲家リストが恋して『ロマンス』の曲を捧げた絶世の美女、ユゼファ・コシチェルスカが思い出を記しているが、彼女の家族はショパン家と友情に満ちた長い交流があり、彼女の弟たちもショパン家寄宿舎に滞在していた。

 

(※略)……ショパン家は温かい家庭だったが、特に母のユスティナは心温かく、非常に魅力的な人であり、そうした性質を一人息子に伝えたように思える。また息子のフレデリクは、母から音楽の才能も受け継いだようだ。ショパン家の家族は皆音楽性に優れており、特に姉のルドヴィカは大変素晴らしくピアノを弾いた。」

アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳

『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より

 

 

しかしこれはあまりにも社交辞令的で、しかもあまりにも曖昧な書かれ方である。

具体的にコメントされているのは姉のルドヴィカだけで、その彼女が「特に」「大変素晴らしくピアノを弾いた」のなら、では、その母のユスティナは一体どうだと言うのか? ショパンが母から受け継いだと言う「音楽の才能」とは、具体的に何だと言うのか? これでは全く分からない。

「ショパン家の家族は皆音楽性に優れて…」と言うが、父ニコラのヴァイオリンの腕前はどうかと言えば、娘達の笑いの種でしかなかったと言うのに、そんな事実には触れてもいない。この程度の証言であれば、特に親しくなくとも、後世の人間なら誰にでも受け売りで書けてしまう。

 

1.         ここにあるように、「姉のルドヴィカは大変素晴らしくピアノを弾いた」と言うのは事実である。ショパンが新しい曲を出版すると、それを家族に弾いて聴かせるのは彼女の役目だった事がニコラの手紙に書かれているし、またショパンの手紙には、ルドヴィカがマズルカを作曲していた事も書かれていたほどなのである。

2.         妹のイザベラも、ルドヴィカほどではないにせよ、ショパンの曲を練習できるくらいにはピアノが弾けた。その事は、彼女自身がショパン宛の手紙の中で報告している。

        14歳で夭折した三女エミリアの音楽的素養については、それを伝える資料や証言が一切ないためちょっと分からないが、おそらく、彼女も一応ピアノを習ってはみたが早々に挫折していた可能性があり、むしろ彼女は音楽よりも文学への関心が非常に高く、その方面で「ショパン家の二人目の神童」とすら言われていた。それらについての詳細は、検証6-4:『二人目の神童エミリアショパン、その14歳の死』

3.         また、ニコラの寄宿学校は、ほとんどが金持ちの息子を対象にしていたので、勉強だけでなく、文化的な素養にも気が配られていた。その一つに音楽があり、ニコラの生徒達は皆ピアノを学んでいた。ジヴニーは元々そのためのピアノ教師として招かれていたのであり、多くの伝記で、あたかもショパン一人のために雇われたかのように書かれているが、そうではない。寄宿学校のショパンの友人達がピアノが弾けたという事は、あらゆる資料から確認する事ができる。確実な者だけでもざっと挙げると、コルベルク、ビアウォブウォツキ、ヴォイチェホフスキ等々…、これらは、ショパンの手紙や、ショパンが彼らに献呈した楽譜などで確認が取れる。

 

そうなのだ、このように、ショパンの直接の関係者であれば、家族であれ友人であれ、ピアノが弾ける者は皆、確実な資料によってちゃんとその確認が取れるのである。それなのに、何故、母たるユスティナだけが一人曖昧模糊としているのか? これはもう、ユスティナはピアノが弾けなかったとしか考えられないのではないだろうか?

 

前章でも触れたが、ミスウァコフスキらの調査によれば、ユスティナの両親は以下のように報告されている。

 

「彼女(※ユスティナ)の父親はヤコブ・クシジャノフスキ(1729年頃〜1805年)で、彼は、ユスティナが生まれた時はドウゥギエ領の賃借人であり、以前はイズビツァ領の管理者だった。母親はアントニーナ・コウォミンスカで、双方共に上流階級の出身だった。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ユスティナ・ショパン」に関する20061月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

つまりユスティナの父は最初、まだスカルベク家が零落する前の、つまりジェラゾヴァ・ヴォラの片田舎に移って来る前の所領である「イズビツァ領の管理者」として、スカルベク家に仕えていたのである。であれば、それはそれなりの「上流階級の」家庭(悪くても中流階級)だったと言う事であり、そこで生れた彼女がピアノを弾けたとしても不思議ではないはずである。

ただし、ここにもあるように、ユスティナが生まれた頃には既にスカルベク家は傾きかけており、それに伴ってクシジャノフスキ家も「ドウゥギエ領の賃借人」に成り下がっていた。となると、そんな状況下で生れた娘達(※ユスティナと姉)にピアノを習わせるだけのゆとりがあったかどうか、かなり疑問である。

 

と言うのも、まず、ニコラは公称ではちょうどベートーヴェンと同い年であり、ユスティナも勿論その世代に属する訳だが、実はこの世代の子供時代と言うのは、まだまだピアノと言う楽器が一般的なものではなかったからなのだ。

 

「ピアノが登場した一八世紀にも、もちろんレッスンは行われていました。モーツァルトもベートーヴェンもピアノを教えて生計の足しにしています。しかし弟子はまだ少なく、ピアノ人口が急激に増えるのは一八二〇年代になってからです。

市民階級の台頭につれて、上流や中流の家庭の子女たちが教養としてピアノを習うようになり、教則本や練習曲(エチュード)もたくさん出版されるようになりました。」

「ピアノを読む本 もっと知りたいピアノのはなし」

(ヤマハミュージックメディア)より 

 

今でこそピアノは「楽器の王様」などと形容されてはいるが、楽器全体の歴史から見れば当時はまだ新参者で、ここで言う「一八二〇年代」とは、すなわち、ショパンがようやく10代になった頃の話である。ニコラの寄宿学校における音楽の嗜みにピアノが選ばれていたのも、要するにこのような時代背景によるものであり、ショパンは正にそんな時代の申し子として生まれ育ったのである。であれば、その母親世代の話ともなれば、状況はガラリと変わってくると言う事が容易に分かるだろう。

ヴォジンスキは彼の小説『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』の中で、ユスティナが「クラヴサンを弾いた」と書いていたが、当時そのようなものが弾けたのは、上流階級のほんの一握りの人間だけだったのである。当時のユスティナの家庭環境を考えれば、彼女が「クラヴサンを弾いた」可能性ははっきりゼロだと断言していいだろう。

つまり、ユスティナには、その「クラヴサン」よりも後進で、それよりもずっと高度な演奏技術を要求されるピアノが弾けたはずがないのである。これは、彼女の生まれ育った時代やその環境から考えて、また、そのような確かな証言が一つも得られない事から考えても間違いないだろう。

 

 

しかしながら、ショパンの両親の音楽的素養に関して、たとえ真実がそのような有様だったとしても、それが一体どうだと言うのだろうか? たとえユスティナがピアノが弾けなくても、「歌」だけは、どこの誰がどんな身分だろうと、そしてそれが貧しかろうと何だろうと、一切関係ないだろう。感情表現に限界があるが故に過去の楽器となった「クラヴサン」よりも、感情表現こそが全てと言えるような「歌」の方が、はるかに息子の「音楽の才能」に貢献していたはずである。

 

 

「ショパンは、両親と姉と妹とともに、穏やかで愛情あふれる家庭の一人息子として、ほんとうにのびのびと大切に育てられていった。音楽家の家庭を調べると、そこには音楽家になるまでの紆余曲折が見えてくることが多い。例えば同じ時代を生きた作曲家シューマン(18101856)は母親に音楽家になることを反対され、法学部の学生であることを隠れ蓑にしている時代があった。作曲家ベルリオーズ(18031869)は医者である父親の意向から、医学を目指さねばならず、両親の反対を押し切って音楽を本格的に勉強しだしたのは、二十歳を過ぎてからだった。

その一方で才能があるからと、音楽家への道を強制する親もいる。後で詳しく述べる音楽家リスト(18111886)のように、音楽家になる以外の選択肢を親から取り上げられる場合もあった。」

小坂裕子著

『ショパン 知られざる歌曲』(集英社)より

 

 

このような家庭環境だったから、勿論ショパンは、バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンらとは違い、世襲制等によって最初から音楽家となるべく将来を約束されていた訳でもなければ、またそれを義務付けられていた訳でもなかった。したがって、文学とフランス語の一教師でしかなかったニコラは、息子の才能を認めて自由にさせてはいたが、それを自分の虚栄心や金儲けの道具に使おうなどとも思わず、これを特別扱いする事もなく、普通の子供と同じように育てたのである。

ショパンの慎ましやかな性格はこの両親によるところが大きく、そして同時に、この時期のグリーティング・カードの平凡極まりない文章群は、正にそういった事を物語っているのである。

 

[2010年6月7日初稿 トモロー]


 【頁頭】 

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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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