検証1:ニコラ・ショパン、19歳の手紙・前編――
   Inspection I: Nicolas Chopin, a letter of 19 years old(part 1)-

 

1.        父ニコラ・ショパンの謎▼

2.        ワルシャワ、1790年9月15日 N.ショパン▼

3.        ショパン家の系図▼

4.        ニコラの育った家庭環境とは?▼

5.        ニコラをポーランドへ導いた人物とは?▼

6.        フランス時代のニコラは、一体どこで何をしていたのか?▼

7.        何故ポーランドへ渡ったのか?(その1)▼

8.        何故ポーランドへ渡ったのか?(その2)▼

9.        何故ポーランドへ渡ったのか?(その3)▼

    
     ≪♪BGM付き作品解説 ベートーヴェン:ピアノソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品27-2「月光」≫
       
[VOON] Beethoven:Moonlight Sonata Op.27-2 /Tomoro


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1.父ニコラ・ショパンの謎――
  1. A mystery of Chopin's father-

 

 

ショパンは比較的新しい時代に活躍していたにも関わらず、その生涯については謎が多いと言われている。その理由は、本稿の序章でも述べたように、彼に関する資料がことごとく失われてしまったからでもあるが、しかしショパンに関する謎というのは、一人ショパンのみが背負っていた訳ではない。そもそもその両親からして過去の経歴についてはほとんど詳しい事が分かっておらず、輪をかけて謎だらけなのだ。

「謎」と言うからには勿論、単に情報が少ないという事を意味するのでない。数少ないその情報に、腑に落ちない点が多々見られるという意味である。

偉人伝を書き始める時、それが誰であれ、まずその両親について言及しない事はないだろう。しかしショパンほどそれが厄介な人物も珍しい。「偉人伝に作り話は付き物」とは前にも書いたが、それが両親にまで及んでいるなどという例はそう多くはないだろう。それゆえこれは、本稿のテーマを正しく掘り下げるためにも決してお座なりに出来ない項目であり、したがって本稿の主人公であるフレデリック・ショパンについて語る前に、まずその父ニコラ・ショパンについて徹底的に検証しておかねばならない(※一方の母ユスティナについては、あまりにも資料が不足し過ぎているため、現在ほとんど何も検証する事が出来ない状況である)。

そしてそれは、息子フレデリックの謎を解き明かすのとほとんど同等の意味と価値を持ち、そしてそこに、実に興味深い物語が隠されていた事に気付かされるのである。

 

―凡例―

      ニコラ・ショパンはその名が示す通り生粋のフランス人である。日本では「ニコラス・ショパン」と表記される事も多いが、これは英文の洋書を翻訳した際に「Nicolas」をそのまま英語読みした事からくる。フランス語は単語の最後につく子音字を発音しないので、「Nicolas」を「ニコラ」と読む。つまりこれが彼の本名の正しい読み方であり、このクリスチャン・ネームはすなわちキリスト教の聖人である「ニコラオス」を指すものである。「ニコラオス」というのはギリシャ語で、これがラテン語になると「ニコラウス」となり、フランス、スペインでは「ニコラ」、イタリアでは「ニコラオ(またはニコラ)」、ドイツでは「ニクラス」、ロシアでは「ニコライ」、そしてポーランドでは「ミコワイ」となる。つまりポーランドへ渡ってからのニコラが公文書等で「ミコワイ」と書かれたりしているのは単に風土的な必然に過ぎず、ポーランド人作家達が主張したがるように、彼が特にポーランドへの帰依を表明した事を裏付けるものではない。かの「ニコラウス・コペルニクス」が、やはりポーランドでは「ミコワイ」となっているのも全く同じ事だ。その証拠に、結婚証明書ではニコラの名が「ニコラウム(Nicolaum)」と書かれていたり、フレデリックの出生証書では「ミコワイ・ショピン(Mikołaj Chopyn)」と書かれているか思えば(しかも本人はそこに、「ミコライ・ショパン(Mikolay Chopin)」とサインしている)、その一方でフレデリック、イザベラ、エミリアの洗礼証書ではいずれも「ニコライ(Nicolai)」と書かれているのである。他の伝記などでよく、「ニコラはポーランドに帰化した」と書かれているのを見かけるが、実のところ、「帰化」の事実を証拠立てる公的資料など何処にもない。そもそも帰化しようにも、ニコラの生きていたほとんどの時代において、ポーランドという独立国家自体が存在していないのである。つまり帰化したくても、する国そのものがないのだ(当時のポーランドに帰化するとは、それはすなわち、その支配国であるロシアに帰化する事に他ならないのである)。事実、彼がポーランドへ渡って20年以上が過ぎているにも関わらず、フレデリックの洗礼証書では、ニコラははっきり「フランス人」と書かれているし、ポーランドで生まれたフレデリック・ショパンの国籍でさえ、法的にはポーランドとはなりえず、あくまでもロシアなのである。だからこそニコラは、年金受給の際には出身地をフランス・ロレーヌの「マランヴィル」と書いてそれを「ロシア当局」に提出しているのだし、何よりも家族の間では呼び名も「ニコラ」で通していた(※後述するが、これらはいずれも確かな資料で事実確認する事が出来る)。ニコラはフランス語の教師としてポーランド社会にその地位を築いたのだから、むしろ国籍自体はフランスで通した方が有利だったのは当然である。勿論、ショパン関連のポーランド人研究者達は心情的にそれを認めたくないのだろうが、私は単に歴史的事実について語っている。そういった事情も鑑み、あくまでも客観的な立場で物を語る意味でも、本稿では、本名のフランス語表記である「ニコラ」表記を採用している。ショパンについて正しく検証する上で、ポーランド寄りに迎合する事の危険性については既に再三触れてきた。そのせいで私の論調を反ポーランド的と曲解されても困るのだが、それはむしろ、今までの極端な偏向振りに対するバランス感覚とでも受け取って頂ければ幸いである。

      尚、彼の息子フレデリック・ショパンは、遺伝子的にはフランスとポーランドの混血ではあるが、生まれも育ちも完全にポーランドである。その意味では本来、正式なポーランド名である「フリーデリック・フランチシェク・ショペン(?)」とでもすべきなのかもしれないが、彼の場合、本格的な職業音楽人としてその名を世界に広めたのがパリ移住後の後半生だった事もあり、「フレデリック・フランソワ・ショパン」というフランス(または英語)表記が世界的に通用している。日本でも一般にそれで親しまれており、国際的な偉人の呼び名は些事にとらわれるべき種類のものでもないので、本稿でもその慣例に従った。気のせいか、得てしてポーランド人(特にハラソフスキなど)やその関係者には、ポーランド語が正しく表記されない事に目くじらを立てる傾向が見受けられもするが、そもそも「慣例化」というものは、それぞれの国に特有の文化と愛着があって初めて生まれるものである事も忘れてはならない。たとえば、元ポーランド大統領でノーベル平和賞受賞者でもあるワレサ氏位になると、そういった「各お国柄の事情」をよくわきまえているので、彼は、自分が何処の国でどう呼ばれていようと、日本では「ワレサ」と呼んで欲しいみたいな趣旨の受け答えをしていた。さすが思慮も器も大きいと敬服するばかりである(ちなみに「ワレサ」は「ヴァウェンサ(Wałęsa)」が最も正確な発音に近いらしいが、ポーランド語固有の文字(発音記号)を含み、いずれも日本語には存在しない発音なので、このカタカナ表記すら完全とは言い難い)。たとえば日本ではお馴染みの「ベートーヴェン」というカタカナ表記でさえ、実は正式なドイツ語の発音からすればほど遠いのである。それを今更「ベートホーフェン(?)」に変えろと言われても、果たして我々はそれに馴染めるだろうか? 日本人の感覚では、「ベートーヴェン」という語感が彼のイメージにぴったりだからこそ愛着も沸くのだ。そしてそれこそが最も重要な事なのではないだろうか? 本来ギリシャ語で「ニコラオス」であるべきクリスチャン・ネームでさえ、各国の文化や言語感覚によって様々な慣例化を許してきたのである。要するに、国際化とやらがどれほどのものだかは知らないが、日本(もしくは各々の国)だけで通用する「愛称(通称)」のようなものが存在する事自体に、何の差しさわりもないはずだ。

      尚、一般に慣例化の対象とまで認知されていない「その他のポーランド人名や地名」に関しては、極力ポーランド語の発音に近付くよう私なりに勤めた。そのため他の和書と相違する表記も多々あり、引用の際は混乱を避けるよう注釈を施した。

      ここで一つ、敢えてショパンとは直接関係のない、現代のポーランドの作家の言葉を引用してみたい。

「愛国心はたしかにやっかいな問題だね。僕はこの映画(※「イッサの谷」)の中で民族間の葛藤をちょうど家庭内のいさかいのように示したかった。ドラマチックでも悲劇的でもない葛藤としてね。僕はいわゆる愛国的な、国粋主義的な作家じゃない。多くの民族が雑居するヴィルノで生まれ育ったからね。僕の理想は多元主義と寛容の精神だよ。愛国的な気分をかきたてるなんて恐ろしくてできない。国粋主義や熱狂的な愛国心は紛争の種をまくだけだ。」

タデウシュ・コンヴィツキ著/工藤幸雄・長與 容訳

ポーランドコンプレックス』(中央公論社)より 

これは、巻末に掲載されている1983年の「作者インタヴュー」からの抜粋だが、ちなみにこの人物は1926年生まれで、勿論戦時を知っている。『ポーランド・コンプレックス』という題名は何か象徴的なものを示唆してくれるが、「ジャパニーズ・コンプレックス」に囚われて生きている我々日本人同様、そろそろそれを正面から見据えて問いただす時が来ているのだ。何故、素人目にも明らかな「ショパンの贋作書簡」が、ここまで「アンタッチャブル」にされてしまうのか? それは、その検証がそのまま、一部のポーランドの偏狭な国粋主義者達との闘いを意味してしまうからなのだ。つまり、そんな事は本意ではないのに、「シュトゥットガルトの手記」を偽物だと告発する事自体が、あたかもポーランド人の愛国心に泥を塗る行為であるかのように受け取られかねないからだ。ただ音楽家について語りたいだけなのに、そんな「やっかいな問題」と係わり合いになるのは誰も好まぬだろう。だが、実際のショパンの愛国心や感情がどうだったかが問題なのではなく、あくまでも単なる資料的事実として、「書いていないものは書いていない」のである。「ショパンはこう考えていたはず――だからショパンはこう書いていたはず――」と言う憶測だけが唯一の根拠では、残念ながら、何一つ歴史的事実を証明し得ないのは言うまでもないだろう。

 

 

おそらく、ショパンの伝記を少なくとも二つ以上は読んだと言う方なら、彼の両親に関するページがいかに簡素で、それでいて、著書によってその内容がまちまちであるという現状をよくご存知だろう。しかも何かしら誤述を含まぬものは一つもないので、その一つ一つにいちいち反論していったら、それだけでもう本が一冊書けてしまう程だ(貴方なら、『ニコラをめぐる伝説の縺れ』THE SKEIN OF LEGENDS AROUND NICOLAS/TOMORO PRESSSaitamaなんて本があったら読みたいと思うだろうか?)。しかしそのような事は、ショパン伝ではあらゆる項目について日常茶飯事で、中でも両親に関するものほどそれが顕著な例はない。それは言うまでもなく、誰一人として、確かな資料を基に書いていないからである。もしも真実だけを書こうとしたら、ニコラの前半生は、ほとんど以下のような記述だけで終わってしまうだろう。

 

『ニコラ・ショパンは、1771415日にフランス・ロレーヌ地方のマランヴィルという田舎町で車大工の子として生まれ、1617歳の頃にワルシャワへ渡った後、フランス語とフランス文学の家庭教師となり、後にワルシャワ郊外のジェラゾヴァ・ヴォラという田舎町でスカルベク家に雇われ、そこでユスティナ・クシジャノフスカというポーランド人女性と出会い、35歳で結婚する。長女ルドヴィカに次いでショパンが生まれた直後、ワルシャワへ戻って公立学校の教授や寄宿学校の経営者にまで上り詰め、その間に次女イザベラと三女エミリアを授かった。』

トモロー著『ニコラをめぐる伝説の縺れ』より

TOMORO/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND NICOLASTOMORO PRESSSaitama

 

敢えて詳細は略したが、2008年現在、ニコラ個人の経歴について資料上確実に断言出来る話はたったのこれだけだ。その後の事については、神童の息子を持ったが故にほぼ万人の知るところだが、問題はそれ以外の、主にポーランドへ渡る前と渡った直後である。

 

ニコラに関する謎を、大まかに箇条書きすると、だいたい次のようになる。

 

1.         フランス時代の公文書が洗礼証書しか発見されておらず、関係者の証言すら一つとしてないため、その16年間に関するエピソードが完全に不明である事。

       ただし唯一、ニコラは晩年息子宛の手紙の中で、当時の思い出とも取れる話を書き綴ってはいる(詳細は後述)。

2.         ニコラは何故、ポーランドへ渡ったのか?

3.         ポーランドへ渡ってから結婚するまでの約19年間の足取りが、スカルベク家に雇われた事以外ほぼ不明である事。

       その間について語られている様々な逸話(煙草工場、コシチウシュコの反乱、マリー・ヴァレフスカ、等々…)には、全て資料的根拠が存在しない。

4.         ニコラは何故ポーランドで、自分の生年月日と出生地を偽っていたのか?

       現在では、フランスで洗礼証書が発見された事によりその正確なデータが明らかになってはいるものの、これについては長い間諸説入り乱れていて、そのためいくつも作り話が生み出される原因となっていた。

5.         そして何故、祖国や祖国に残してきた家族を一度も顧みる事なく、その生涯を閉じたのか?

       フランスへ渡った自分の息子を通じて再び連絡を取り合おうと思えば、簡単に出来たにも関わらず、である。

 

これら五つの謎は全て、それぞれがお互いに密接に結び付いていて、更に息子の代にまで引き継がれていく事になる。そしてこの中でも最大の謎と言えるのが、どのショパン伝でも必ず異口同音に唱えられる、「何故ポーランドへ渡ったのか?」という事になる。この疑問が人々の関心を集めてやまないのは、言うまでもなく、これこそが正にニコラ・ショパンにとって唯一の、そして人生最大の転機となったからだ。そしてこれ無くしては、少なくとも将来フレデリック・ショパンの指先から、あのマズルカやポロネーズが紡ぎ出される事もなかった。そして実を言えば、おそらくこの謎さえ解明出来れば、必然的に全ての謎も明らかになるはずなのである。

 

 

フランスからポーランドへ渡り、二度と祖国の土を踏む事なくこの世を去った父と、ポーランドからフランスへ渡り、二度と祖国の土を踏む事なくこの世を去った息子。この、まるで合わせ鏡のようにお互いの人生を映し合った父子は、間違いなく、暗黙の内に何かを了解し合っていた。

 

ショパンの手紙を検証する長い旅は、正にここから始まる。

 


【▲】 【頁頭】 【▼】

2.ワルシャワ、1790年9月15日 N.ショパン――
  2. Warsow, 15th September 1790 N.Chopin-

 

 

ここに一通の手紙がある。

現在知られているショパン関連の手紙の中で、最も古いものである。

これは、フレデリック・ショパンの父であるニコラ・ショパンが、19歳の時にポーランドのワルシャワから祖国フランスの彼の両親に宛てて書いたものだ。

何度も言うように、ニコラがポーランドへ渡った理由については、誰もがただ単に、漠然と「ポーランドへの憧れ」を口にするだけで、どの伝記でも結局「あまりよく分かっていない」とされている。だが、果たして本当にそうだろうか? と言うのも、1949年に発見されたこの手紙には、当時のニコラについて知る手掛かりが、極めて克明に記されていたからである。ところがそれにも関わらずこの手紙は、今までその内容についてほとんどまともに検証されて来なかったに等しい。逆に検証されて来なかったからこそ、解き得る謎が未だに放置されているのだとも言える。

この手紙は、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』の中で、その原物の全文を写真で確認する事が出来る。ただ残念な事に、これの筆跡鑑定に関する情報、及び発見から発表に至るまでの経緯等は、私の手持ちの資料では現在確認する事が出来ない(それが分かるだけでも重要な事実が裏付けられるのだが)。しかし内容的には、贋作書簡に必ずあるはずの目的、つまり、既存の仮説やスキャンダル(もしくは「ポーランド、我が祖国」)を裏付けようと目論むような、第三者の意図を匂わす記述も特に見られないので、したがって、本稿ではこれを本物と見なして検証を進める

 

それでは、この手紙から紐解いていく事にしよう。

手紙は、やや縦長ぎみの2枚の便箋(両面書きで4ページ)からなり、見るからに年代相応に痛んでおり、四つ折にされた跡もくっきりと残っている。ただし、書体そのものはかなり達筆で、一字一句はっきりと読み取る事が出来る上に、たとえば息子フレデリックの手紙に必ず散見されるような、間違いを線で消して書き直すというような事が一度もない。だがそれは、知的水準の問題と言うより、あくまでも性格上の問題であり、何よりも、双方が目指していた職業の違いからくるものだろう。ただし、シドウの解説によると、「しばしば古い綴りが見られ、文法は大雑把」だという事である。

 

■ワルシャワのニコラ・ショパンから、

フランスの両親への手紙■

(※原文はフランス語)

「親愛なるお父さん、お母さん、

私の手紙があなた方の許に届いているのかどうか、私には確かめられない状況なのですが、私はあなた方の健康状態について尋ね、あなた方に対する私の尊敬と愛情が真実である事を示すために、ほんの一言二言だけ書く事にします。あなた方から便りが頂けなかったこの2年間、私はこの事についてどう考えるべきかまだ分かりません。親愛なるご両親様、こうして遠く離れている事で、あなた方に会えず、あなた方に関する如何なる情報も得られず、それがどれほど長い間私から幸福を奪うかを思い知らされ、私のあなた方に対する尊敬の念は増していくばかりでした。ヴェイドリヒ夫人も同様に何通か手紙を書いて、ストラスブールでの用件について情報を下さるようお願いしましたのに、あなた方は返事を下さらなかった。私がお話しているのは、私達はマラルド氏にお金が支払われた事は確かに知っていますが、しかし彼が債権者の代わりにお金を受け取ったのかどうかが、はっきりと分からないという事なのです。パッツ伯爵の仕事がまだ終わらないので、彼は提出すべきマランヴィルの資産を報告するよう求めています。私はヴェイドリヒさんの代理で、前述の問題を解決するためにちょうどストラスブールに発とうとしていました。ところが、そちらで起こった革命のためにフランスがまだ平穏でないと聞き、出発を延期したのです。しかし私は、じきに発てる事を期待しています。何故なら、それにも関わらず、ヴェイドリヒさんがある銀行家と既に折り合いを付けたからです。その人は遅くならない内にフランスに向けて出発する予定です。そんな訳ですから、私が発つ前に、お願いですから、義勇軍(市民兵)が以前そうだったよりも規則が厳しくないかどうか知らせて下さい。何故なら私達は、18歳以上の若い独身者は皆兵士になると言われていましたから、私が外国にいられるようにするためにも是非それを知りたいのです。私はこちらで、ささやかながら自分の道を見出す事が出来ています。たとえ我が祖国とは言え、兵士になるという命令が除かれなければ、悲しい事ですが、私はここを離れる訳にはまいりません。ヴェイドリヒさんは、それはもう私に親切にしてくれました。それ以来私は、これからの幸運な成り行きを予感しているのです。ですから親愛なるご両親様、私が全く問題なく出発出来るように、そして親愛なる親戚の方々同様、あなた方に会える幸せを喜ぶ事が出来ますように、出来るだけ早く私に返事を下さるようお願い致します。

親愛なるお父さんとお母さんへ、

非常に控え目で従順なあなた方の息子より、最も深い尊敬と共に、慎みを込めて。

N.ショパン

ワルシャワ、1790915

 

ヴェイドリヒさんと夫人があなた方にたくさんの挨拶を贈り、彼等の敬意が司祭様に届くよう、あなた方へお願いします。

私からも同様のメッセージを彼に送ってくれるよう、あなた方にお願いします。

全ての親戚や友人達と同様に、私の姉妹を心から抱擁します。

手紙が迷子になってしまう事を恐れるので、というのも、私にはこの2年間手紙が来なかった事が信じられないので、私の住所を教えておきます。ここの住所は、

ドレスデン経由でポーランドのワルシャワへ、局留め、

ムッシュ、ムッシュ、ショパン、です。」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より
及び、

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

      この頃のポーランドは第一次分割(1772年)によってプロシア、オーストリア、ロシアの三国に領土を蝕まれてはいたが、この手紙が書かれた1790年当時は、まだ「ポーランド=リトアニア連合王国」としてその国土を保っていた。ちなみにこれが単一国家として「ポーランド王国」となるのが翌1791年で、そしてそれすらも消滅するは、その僅か4年後の第三次分割(1795年)によってである。

 

 

内容に関する細かい検証に入る前に、私がこの手紙を本物と見なす根拠を、もう少し具体的に説明しておきたい。この先、偽物を偽物と暴いていくためには、言うまでもなく、その判断基準として、まず本物を本物と認識する作業が必要となってくるからだ。

 

まず第一に、この手紙には、当事者である「本人しか知り得ない新事実」が書かれていた、という事である。

 

それは「ヴェイドリヒ」「パッツ伯爵」の存在で、実はこれらの名は、この手紙が発見されるまで一切知られておらず、しかも正真正銘実在の人物達だった。だからこそその後の調査で、彼等とニコラとの関係が他の公的資料によって結び付けられ、今まで謎とされていたニコラのポーランド行きの足掛かりも掴めたのである。このような事実確認の経過は、贋作書簡からでは到底辿り得ない。

そもそも「贋作書簡」というのは、決まって、以前から仄めかされていた既存の仮説やスキャンダルを裏付ける証拠資料として、「後付で捏造される」ものだ。あの有名な「ポトツカ贋作書簡」もその例外ではなく、かねてから「ショパンとポトツカの間には愛人関係があったのではないか」という噂は上っていた。つまり「ポトツカ贋作書簡」は、ある日突然この世に現れたのではなく、始めから、それに先行する既存の噂話があり、それを裏付ける物証として後から出てきたのである。したがってそこには、当然の事ながら、「当事者しか知り得ない新事実」など書き込まれているはずもなく、そこにあるのは単に、既知の情報や作り話だけとなり、そこで初めて明らかにされた新事実が他の客観資料によって新たに裏付けられるという過程を辿る事が絶対にない。当事者でもない贋作者に、そのような霊能力もどきの芸当が出来るはずがないからである。つまり、このような事がある以上、単に「ショパンが書きました」だけでは、筆跡鑑定がどうだろうと、純粋に本物として認める訳にはいかなくなる。そしてそれは、贋作書簡ならではの特徴の一つなのである。

      ちなみに、「ポトツカ贋作書簡」が贋作と証明されたからと言って、勿論、以前からあった噂そのものまでが完全に否定された事にはならない。それとこれとはまた話が別である。しかし、その噂を完全に否定してくれるのは、実は、唯一残されている「本物のポトツカ書簡」であり、それ以上に、彼女とショパンのそれぞれの人間性を見極める「我々の心」なのだ。つまり、「ポトツカ贋作書簡」の真偽について未だに結論が下せないという人は、まず、自分自身の心や人間性を疑う事から始めてみてはいかがだろうか。

 

そもそも人は、何故手紙を書くのか? それは、自分しか知り得ない(あるいは伝え得ない)何らかの話(新事実)を、その文通相手に伝えたいからである。当時はまだ、現代のように通信が発達していた訳ではなく、郵便は馬車で運ばれ、それさえも週に決まった曜日にしか配達されず、今日のように電話やEメール等で安く簡単に要件を済ませられるような時代ではなかった(そしてそれすらも、革命や戦争によってしばしば断絶を余儀なくされもした)。知人を介して手渡される短い伝言ならいざ知らず、国境を隔てるような正規の郵便であれば、その一通一通に込められる情報の量と質は決して軽いものにはならない。その意味でも手紙というものには、常に何かしらの「新事実」がそこに書き込まれていなければ不自然なのである。したがって、贋作書簡が一つの例外もなく皆全てそうであるように、単に、既知の話に仮説や空想が継ぎ接ぎされるだけなら、それは歴史小説を書くのと全く同じ作業でしかなく、そのようなものなら、出来の良し悪しは別にして、第三者の誰にでも書けてしまう。

つまり、この「ニコラの手紙」では、「ヴェイドリヒ」「パッツ伯爵」の名が、「本人しか知り得ない新事実」として、この手紙の信憑性を裏付けているのである。

 

そして第二に、それと同時に手紙というものは、決してそれ一通で完結する文章だけで構成されてはいないという事である。

 

必ずその前後に、相手からの返事も含め、話題の関連した文章が連なっており、それらを全て読み通す事で初めて、一つの話題が完結した文章となる。つまり手紙の一通一通とは、パズルのピースと同じようなものなのだ。したがって常に、たった一通の手紙から、それに連なっているはずの前後の往復書簡の内容までもが垣間見えてこなければ不自然なのである。たとえば文通が開始されたその「第1便」ですら、それは決して小説の「第1章」のようにはなり得ず、両者が最後に口頭で交わした別れ際の物語を途中から引き継いでいる(つまりそれを読む第三者の我々は、決して舞台の開演と同時に客席に座る事は出来ないのだ)。ところが贋作書簡には大抵それがない。一通一通がそれぞれ完結した文章に終始している事がほとんどで、これではまるで、自分が前に何を書いていようとお構い無しに、双方が自分の言いたい事だけを一方的にしゃべり、相手の話を全く聞かず相槌一つ打っていないのと同じである。勿論現にそのような人はたくさんいるが、果たしてショパンが、文通相手の友人達とそのような会話ばかりしていたと言えるだろうか? 

つまり、第三者がその一通だけを読んで、ほとんど注釈なしに全てを理解出来てしまうとしたら、逆にそれは手紙として不自然だという事になる。このような現象は、それが偽物である可能性を大いに示唆している。何故なら贋作者にしてみれば、その一通に折り込んだ自説を不特定多数の第三者に理解させる事だけが目的であって、したがって、その前後の手紙に何が書かれていて、それに対して文通相手がどう返事してきたかという事までは一切考慮されていないからだ。

たとえばこの「ニコラの手紙」で言うと、この手紙を読んだだけでは、「パッツ伯爵」という人物の存在を知る事は出来ても、文中の「パッツ伯爵」この時既に故人だった事など誰にも分からないだろう。しかし手紙の中の当事者達には、それは前提事項として最初から会話が成立しているのである。つまり部外者である我々は、この前後に存在するはずの手紙を何通も遡って読み通さない限り、「パッツ伯爵の仕事」というのが、実は「伯爵当人の遺産処理に関するもの」だったなどとは分かりようもなく、それに関する話題が文章として完結しないのである。だからこそ手紙はパズルのピースとなる。したがって、実際の文通相手にではなく、あたかも我々第三者に読まれる事を前提としているかのような「不自然な完結性(=小説的筆致)」もまた、贋作書簡ならではの特徴の一つであり、このような例は、「グジマワ―レオ書簡」や「ルドヴィカ―カラサンティ書簡」などに顕著である。

      ちなみに、ニコラがフランスの家族とやり取りした手紙は残念ながらこの一通しか現存しておらず、したがって「パッツ伯爵」この時既に故人であった事は後の調査で明らかになった事で、また、その「パッツ伯爵」の所領を「ヴェイドリヒ」が管理していた事から、この手紙の中心話題が「パッツ伯爵」の遺産処理に関するものだという事も分かったのである。まだそこまで詳しく調べられていなかった段階では、「パッツ伯爵」は当事まだ存命中だったと見なされ、その彼がマランヴィルの所領を売り払ったのだと主張した者もいた。その仮説は様々な事に辻褄を合わせるのに大変都合が良かったが、事実はもっと偶発的な事の積み重ねで成り立っていたのである。

 

このように、ショパンの贋作書簡にはいくつかのパターンがあり、今まで誰も知らなかった新事実を資料的根拠によって明らかにしてくれるものは紛れもなく本物であるが、単に既存の仮説を裏付けようとしただけの「都合の良い」ものや、単にスキャンダルをでっち上げただけのものはまず偽物であると疑ってよい。どういう訳か、このように誰にでも分かるような当たり前の理屈が一切通用していないというのが、古今東西に渡るショパン研究の実情なのである。贋作天国を作り上げているのは贋作者だけではない。それを無批判に信じてしまう我々もまた、十分それに加担して来たのである。そしてショパン伝が歪められてしまう最も大きな原因とは、資料そのものが存在しない事ではなく、せっかく存在している資料すら満足に読み解こうともしない事なのだ。

 

 

それでは、この手紙によってもたらされた情報やヒントを順に整理してみよう。

 

1.         ニコラはポーランド(厳密にはワルシャワ)へ渡ってから両親に手紙を送っていたが、2年」前からその返事が途絶えていて、その理由が本人にも分からない事。

2.         と言う事はつまり、最初の1年目までは普通に返事が来ていた事。

3.         「ヴェイドリヒ」なる人物(夫妻)の世話になっていた事。

4.         ニコラは仕事の関係で一旦フランスへ戻ろうとしていたが、「革命」(前年の1789年に起きたフランス革命)の影響でそれを延期していた事。

5.         フランスに帰国した際「義勇軍(市民兵)」に徴兵されたくないため、その事に関する情報を両親から得ようとしていた事。

6.         ニコラは当事18歳以上の」「独身」だった事。

7.         ポーランドでの生活がうまくいっていたらしい事。

8.         ニコラは当事「ワルシャワ」にいた事。

9.         ニコラにはフランスに「両親」「姉妹」(※複数形)がいて、それぞれが存命中だった事。また、「親戚や友人達」(※共に複数形)もいた事。※親族については、ニコラの公文書が1926年に発見された際同時に調べられており、この手紙が発見された1949年の時点では既に判明していた事であり、その事実ともぴったり符合したのである。

 

これらは皆、最初に挙げたニコラに関する五つの謎を解き明かすための重要な、しかも十分過ぎるヒントとなる。

この手紙の中では、「パッツ伯爵」の遺産処理に関する事が中心話題でパズルのピースだと説明したが、実はこの手紙自体が書かれた根本の動機はそれとは別のところにあり、それは5番目に挙げた項目、すなわち「帰国した際「義勇軍(市民兵)」に徴兵されたくないため、それに関する情報を両親から得ようとしていた事」である。つまりこの問題が解決しないとニコラはフランスへ一時帰国する事すら出来ず、彼が携わっていた「仕事」にも支障をきたすため、だからニコラは「出来るだけ早く私に返事を下さるようお願い」し、念入りに「住所を教えて」、何よりもまず「私の尊敬と愛情が真実である事」を示そうとしたのである。何故なら彼は、「便りが頂けなかったこの2年間、私はこの事についてどう考えるべきかまだ分か」らなかったので、だから今度こそ確実に返事がもらえるようにと、その時彼に考え得たあらゆる原因に対して考慮していたのである。

 

ところが、たとえばシドウなどはこの手紙について、彼の書簡集の略年表中で次のように解説している。

 

1790――ニコラ・ショパンがワルシャワから彼の父と母に書いた手紙は、1949年まで知られていなかった。そしてその発見は、この偉大な作曲家の父が、両親との不和が原因で外国へ逃げたのだという伝説を打ち壊した。」

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

一体この手紙の何処をどう読めばこのような解説が出てくるのか不思議でならないが、普通に考えれば、「2年間」も返事が来ていないのだから、逆に「両親との不和」を裏付けると解釈した方がむしろ自然だろう。他でもないニコラ自身がその可能性を疑っていたからこそ、彼はその誤解を解こうと必死で「私の尊敬と愛情が真実である事」を示そうとしているのである。私などはそのような「伝説」があった事すら初耳なのだが、いずれにせよそんな「伝説」はこの手紙とは何の関係もない。どうしてシドウがこんな事にしかこだわれないのかと言うと、とにかくポーランドの著述家達というのは、ニコラがポーランドへ渡った理由を、頑として「彼がポーランドに憧れを抱いていたからだ」とし、それ以外の説を一切認めたがらないのである。だからシドウは、本来単に手紙の冒頭と結びの「挨拶の常套句」でしかない「愛情」だとか「尊敬」だとかの単語を、言葉通り表面的に受け取る事しか出来ず、だからこそ、そんなものを大義名分に掲げて「不和伝説」とやらを勝手に「打ち壊し」てしまえるのである。だがコトはそんな単純ではないのだ。

確かに「ポーランドへの憧れ」もある意味決して間違いではない。だが決してそれが「全て」ではないし、まして「第一」ですらない。ブクレシュリエフも指摘しているように、文脈を全て「ポーランド、我が祖国」へ向けたい気持ちは痛いほどよく分かるが、それだけでは真実から目を背ける事にしかならない場面も多数出てくる。この手紙への解釈が正にそれだ。

 

したがって、敢えてここで先に結論を言ってしまうが、ニコラがポーランドへ渡った根本的な理由とは、ひとえに、全て「フランス革命の影響」によるものなのである。

 

よく考えてみて欲しい。フランスのみならず、世界史上に多大な影響を及ぼしたこの大革命が、ニコラの青春時代に、それも、正に彼の出国直後に勃発しているのである。しかもその火種は、彼が属していた最下層の第三身分の間で長きに渡ってくすぶり続けて来たものなのだ。これがどうして彼の人生と無関係であり得ようか? その事に言及する者は皆無に等しいが、音楽関係者だからと言って歴史の勉強をお座なりにする訳にはいかないのである。

つまりここから先は、先に挙げた五つの謎やそれを解くヒントが、それぞれどのようにフランス革命と深く結びついていたのかを検証していく事になる。

 

さあ、マリー・アントワネットの時代へタイム・スリップだ。

 


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3.ショパン家の系図――
  3. The genealogy of the Chopins-

 

 

ニコラ・ショパンの家系について初めて言及したのは、実は彼の母国フランスの作家ではなく、移住先となったポーランドの作家だった。

 

(※1873年出版の)MA.シュルツ(ショパンと彼の作品に関するポーランド語書籍の著者)によれば、ニコラ・ショパン(フレデリックの父)はポーランドの貴族の血を引く子供であって、その貴族はスタニスラス・レシチンスキ王と共にロレーヌにやって来て、そこでショパンと名乗るようになった、という事である。カラソフスキーの伝記は、ニコラ・ショパンの血統については我々に何も教えてくれない。しかし彼は、ニコラについてより多くの情報を家族から引き出し得るショパン家の友人だったのだから、(それ自体は決してあり得なくもなさそうな)シュルツの話の正否に対するこの沈黙は、彼が同意しているに等しいだけの効力を持つのかもしれない。ただ奇異に思われる唯一の点は、名前の変更である。ポーランド人統治者(※ロレーヌ公となったレシチンスキ)の死亡と、それに伴うロレーヌのフランスへの返還が、外国人には発音しにくいポーランド名を棄て去る事と、一体どのような因果関係を持つと言うのであろうか? この物語は見過ごせないものだが、しかしながら、情報源が何処にあるのか記載されていない以上、一つの風説として適切な注釈を施し、前面に押し出されるべきではない。脚注ヴォジンスキ伯爵(※ショパンの元婚約者マリア・ヴォジンスカの甥で、1886年にショパンに関する恋愛小説を出版した作家)は、ニコラ・ショパンの家系問題を未解決にしたまま、シュルツの話に尾ひれを付けて言及し、一部の伝記作家達が言うように、ニコラ・ショパンは、スタニスラス・レシチンスキの従者としてロレーヌに連れて来られた兵士、使用人、もしくは義勇兵であるショップなる人物の血筋であると偽った。] 実のところ、我々は議論の余地のない証拠を手に入れるまで、多かれ少なかれ寓話じみたこれらのレポートは完全に無視し、まず、よく確かめられた事実から始める事が望ましいようだ――すなわち、ニコラ・ショパンは、ロレーヌのナンシーという所で、1770年8月17日に生まれたのである。彼の国の他の青年達のように、彼がポーランドを訪問したいという願望を抱いた事以外は、彼の青春期については何も分かっていない。」

フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』

Niecks/Frederick Chopin as a Man and MusicianDodo Press )より  

 

      ニークスがここで記しているニコラのプロフィールは、誕生月が8月」と改められている以外は、カラソフスキーのデータと全く同じである(カラソフスキーは4月」としている)。この8月」説が何処から来たのか私には全く分からないが、いずれにせよこの中で実際に正しかったのは「ロレーヌ」と「4月」だけであり、それ以外は「ナンシー」も含め全て誤りである。だがこれに関してはニークスにもカラソフスキーにも一切何の責任もない。勿論後で詳述するが、誤伝の原因は全てニコラ本人にある

 

カラソフスキーが何故「シュルツの話」を否定も肯定もしなかったのかは、敢えて説明するまでもないだろう。彼は、自らが発起人として吹聴した「ポーランド、我が祖国」を援護射撃してくれるものであれば、いかなる作り話をも決して否定したりなどしない、単にそれだけの事だ。

ショパンの伝記の黎明期には、ニコラのポーランド行きに関するあらゆる事が、かくの如く全く憶測の域を出なかった。その後若干研究が進んだものの、このニコラの手紙が発見される1949年」以前の段階では、まだニコラのプロフィールについて、当事入手し得た資料を基に正確かつ客観的に記述しようとすると、たとえばオーストラリア出身のピアニストで評論家のマードックが自著(1934年出版)で書いているように、大体以下のような内容になるのだった。

 

「一生の間、フレデリックの父親ニコラス・ショパンはその一家或いはその青年時代に関して何一つ他人に打明けなかった。…(※この後、上記のニークスと同じ内容を紹介し)…さまざまなショパンの伝記作者たちの一般的な確信はニコラスがポーランド人の血を受けているということであった。彼等は公爵の周囲にいた廷臣たちの一人の息子として彼を浪漫的に想像し、彼がポーランドを訪ねようと欲したことは当然に過ぎないものと思った。しかしこれら一切のロマンスや空想は、当時ロシアの支配の下にあったポーランドに対するニコラス・ショパンの服務に関する書類が古い文書の中からロシアで発見されたために破壊されてしまった。ニコラスがワルソウ(※ワルシャワ)の陸軍学校教授の職を退こうとした時、その両親の名や出生の日附及び土地を書類の中に正確に記入することが必要であった。この資料から次の事実が明白にされた。すなわち父親はフランソア・ショパン、母親はマルグリットで、彼はヴォージュのマランヴィルという小さな村に一七七〇年四月十七日に生れたのである。

その出生地がわかると、彼の租先を探求することは割合容易であった。生死の登記はフランスでは大切に保存されるので、系図上の事実を辿ることはむずかしくない。証明書は発見され調査され、そしてワルソウで声明されたものと出生の日附のちがうこと以外にはすべてが符合した。ニコラスは一七七一年四月十五日に生れ、十六日に洗礼を受けた。その父親フランソア・ショパンは車大工と記され、母親はマルグリット・ドフランとなっている。ニコラスに一人の姉と妹があったことはその際に発見された。…(※この後、姉妹と祖父について書いているが略)…

一九二七年一月十五日の雑誌『ラ・ボローニュ』に掲げられたガンシュの重要な記述に従えば、エリザベート・バスティアンと結婚したニコラス・ショパンすなわちフレデリックの祖父(※曾祖父の誤り)より前に系図を溯ることは出来なかった。」

ウィリアム・マードック著/大田黒元雄訳

『ショパン評伝』(音楽之友社)より 

 

ここにも書かれているように、1926年に「ロシアで発見された」公文書を元に、フランスのエドゥアール・ガンシュがニコラの出生を突き止めるまで、ニコラがフランス革命以前の旧体制下における最下層身分である「第三身分」の、更にその中でも最下層に位置する「農民、もしくは職人」の子だったという事実は全く知られていなかった。だからこそ、先のMA.シュルツ」「(フレデリックの父)はポーランドの貴族の血を引くなどとでっち上げる事も出来た訳だが、いざニークスがその「名前の変更」に関して至って常識的な疑問を呈すると、それに反論するためにまた別のポーランド人作家が、その「貴族」とは「ショップ」であるとか「ショペン」であるとかでっち上げ、いかにも「名前の変更」が理に適っていたかのように吹聴し始めた。このような事は、ショパンに関する「不毛な綱引き」のほんの一例でしかない。

ところがそのような風潮は、現在においてすらさほど変化しているとは言えず、たとえば現在ショパン伝におけるこの項目に関して、ニコラの手紙発見以降2006年の時点では、ポーランドの研究者によって次のような研究結果が報告されている。

 

「ニコラ(ミコワイ)・ショパンは、1771415日、フランスのロレーヌ地方の首都ナンシーからおよそ30`周辺のマドン川沿いに位置する町、マランヴィルで生まれたロレーヌは以前、前のポーランド王スタニスラス・レシチンスキによって統治されていた独立公国であり、彼の死後、1766年にフランスに返還された。しかしながら、ショパン一族の実質的な歴史上の出身地は、アルプス山脈の高地ドーフィネ地方の聖クレパン(Saint-Crépin)の村落で、それはアンブランの司教に統治されていたサヴォイとの境界線上にあった。聖クレパンはおよそ1444年頃に、岩の多い岬に建てられた中世の城壁の町で、小さな城と、聖クリスパン[St. Crispin (Saint Créspin)]に献じた教会を備えていた。最初に文書化されたニコラの先祖は、バルテルミという地元の顧問で、教会の建設に参加していたらしい。ニコラのアルプスの先祖、シャパン(Chapin)家(これが彼等の名前の元の綴りだった)は聖クレパン周辺に住んでおり、たとえば、シャパン家は今日まで存在している。シャパン家は、羊飼い、工芸、副次的な農業などから生計を立てていた。これらのコミュニティでの生活水準はとても低かったので、より良い生活を探し求めながら、彼等の家計を維持するために様々な努力をした。

シャパン一家は、聖クレパンのアルプスの村に落ち着き、上記のバルテルミが生きていた1444年から、1676年頃にアントワンとマリー(旧姓ドラフール)の息子としてフランソワが生まれるまでに文書化された可能性が高い。おそらく父と息子は17世紀の終わり頃に、アルプスの丘がもたらしてくれるよりも良い生活を探すために聖クレパンを去った。アントワンのその後の運命は確認されなかったが、フランソワの方はロレーヌの州境にあるラモンのフランス村まで追跡する事が出来、そこで彼は1705年にカトリーヌ・ウドーと結婚した。結婚後シャパン家はロレーヌに移り、カトリーヌの生まれた村クシロクールに落ち着く。彼等の最初の子供の洗礼命名式から、その姓はショパン(Chopinとして綴られた(フランソワは密輸業者として暗躍していたかもしれないとも云われているが、これによって彼がその過去をうやむやにしたいと望んだ可能性は否定出来ない)。ニコラとフランソワの名は、次世代のショパン家の、多くの子供達の間で交互に付けられる事になる。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ニコラ・ショパン」に関する20061月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

      先のマードックの記述の中で、フランスのガンシュが「フレデリックの祖父(※曾祖父の誤り)より前に系図を溯ることは出来なかった」のは、ここにあるように、その時点で「姓」の変更(「シパン」から「シパン」へ)がなされていたためと考えられる。

 

このように、ショパン家の系図に関してはかなり詳細にはなったが、しかし残念な事にこのポーランド人研究者の報告は、この記述に限らず、全編に渡って「資料的根拠のある情報」と「伝記作家によるただの空想」とがない交ぜに列挙されていて、ニークスがそうしてくれていたようには、必ずしも常にその区別が明示されてはいないのだ。そのため、研究報告としては非常に誤解を招くものとなってしまっている。

たとえばここで言うと、先祖の「密輸業者」がそれである。別にショパン家の過去がきれいなままであって欲しいとも思わないが、これは資料的根拠もない上、話自体に無理がある。そもそも「姓」を変更する事でその過去を隠蔽したいのであれば、もっとはっきりと違う姓に変更するだろうし、しかもファミリー・ネームだけでなく、クリスチャン・ネームを代々受け継ぐのも避けるはずである。これでは簡単に足が付くばかりか、却って怪しまれるだろう。大体において常習的な犯罪者というのは、捕まって罰せられでもしない限り早々足を洗えないものであり、この時代であれば尚更そうなる。それに何よりもロレーヌは、「密輸業者」に対する罰則が特に厳しかった地域で、たとえば不法に塩を製造したりそれを密売したりすると、常習者などは焼印を押されて永久追放されたため、それを取り締まる側との間で殺人沙汰も起こっていたと、マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』(Mathieu/L'ANCIEN RÉGIME DANS LA PROVINCE DE LORRAINE ET BARROIS)にはそう書かれている。それも、正にちょうどフランソワが生活していた頃の話である。つまりロレーヌとは、そういった「密輸業者」などの先祖を持つような人間が移り住むのに適した場所とは言い難いのだ。

      ちなみに、「塩」というのは大昔から、何処の国でも国家や時の権力者がその製造や売買を厳しく取り締まっており、特に、

「ロレーヌは豊かな塩泉で有名だった。」

マーク・カーランスキー著/山本光伸訳

『「塩」の世界史―歴史を動かした、小さな粒』(扶桑社)より  

      と言う事もあって、ロレーヌにおいてはこのような事態が生じていたのである。

 

「姓」の変更という事についてもう少し掘り下げるなら、それは、実際そのように想像を逞しくするような問題でもないのである。現在の我々は当たり前のように「姓」を持っているが、そもそも「姓」とは何なのか? 単に個人を特定するだけなら「名」があればそれで事足りるのに、何故その上「姓」というものが存在するのか? その意義は? そしてその由来は?…という素朴な疑問から歴史を紐解けば、それは容易に見えてくるだろう。

 

「姓に用いられた名

居住地域関係、所属する部族・親子関係、容貌・身体または性格的特徴関係、職業または階級的身分関係に由来するものが主であるが、古文書のなかに記載された同一人の名についても、同じ筆者が異なった綴りで記入していたり、あるいは長い年月の間に発音や綴りの変化・消滅が生じたりして、語源をつきとめ原語の意義を調べることは極めて困難なことであるといわれている。」

島村修治著

『外国人の姓名』(帝国地方行政学会)より 

 

ショパン家の先祖となる「シャパン(Chapin)」が何に由来しているのかは分からないが、おそらくその響きの類似から、単純に「聖クレパン(Saint-Crépin)」という地名が関係している可能性が高いのではないだろうか。ただし、現代に生きる我々は、誰もが「姓」がある事を当たり前に思い、もはやその事自体に何の疑問も抱かないが、言うまでもなく昔は違う。

 

「姓は自分の家と他人の家とを区別する一種の方法であり、名は更に同姓の家の間において、自分と他人を区別する方法である。

経済的にも社会的にも狭小な閉鎖的地域仕会にとじこもって一生を送った前近代社会の一般庶民の間では、日々の生活には個人名だけでおおむね用がたりた。しかし、本人の名だけで用がたりない場合には、父親の名または家の所在地の地名あるいは職業名を頭につけ加えて呼べば、充分に事たりたのである。…(略)…

欧州にあっては、紀元前23世紀頃のローマの貴族間で家名()を用い始めているが、5世紀の西ローマ帝国滅亡とともに姓の使用も廃れ、9世紀に至って再び復活したものである。ただし、終始極めて狭い上流階層の間に限られていたようである。

ゲルマン民族の間では、13世紀頃から地方の豪族、貴族の間で姓を用い始めているが、社会の底辺にいた農奴、職人、農民など一般庶民には及んでいなかったと言われている。

極東の中国及びそれに隣接する一部地域を除いた、広い世界の各地域の庶民の間に、姓の使用が一般化したのは19世紀からであると言っても過言ではない。

この動きの中で注目されるのは、フランス市民革命の所産として1804年に制定されたナポレオン民法典の出現である。フランスの全国民は、同法典によって家系の名としての姓を、同一家族の子々孫々が代々相続して名乗ることを義務づけられたのである。また、当時フランスの勢力下にあった諸国民に対しても同様に、姓のないものは姓を創って名とともに名乗ることを命じたのである。

かくして欧州全域の各国民全体の間に創姓使用の気運が波及し、やがて20世紀になって国家社会の近代化に取組んだ後進地帯の諸国家間にも創姓運動が熱心にとりあげられるようになったのである。

このように国民のすべてに姓と名を名乗る制度を押進める原動力となったのは、国民皆兵の徴兵事務の合理化や効率的な徴税方法の改革など、近代社会に適応した新たな国家組織を確立するための行政上の必要性であった。」

島村修治著

『外国人の姓名』(帝国地方行政学会)より  

 

元々「姓の使用」「上流階層の間に限られていた」のは、彼等には子孫に受け継ぐべき財産や権力があったからであり(女性が婚姻によって姓が変わり、旧姓の相続から外されるのもそのためである)、したがってそのような財産を持たぬ身分の者にとっては、家名など始めから何の意味も持たず、せいぜい支配者側が徴税対象を管理するための方便にしかならなかった。であるならば、むしろそんな足かせのようなもの(姓)に固執する下層階級などいないと言っても過言ではあるまい。

 

身分の低い者がいかに「姓」に固執していないかという実例を挙げるなら、たとえば、実はフレデリック・ショパンの出生証書では、「ショパン(Chopin)」という「姓」「ショピン(Chopyn)」と書かれていて、かと思うと、ほとんどそれと同時期であるはずの洗礼証書ではそれが「ショッペン(Choppen)」と書かれているのである。これらの資料は全て、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で確認する事が出来る。

おそらくこれは、(勿論これを届け出たのはニコラだが)、その際彼が口頭で告げた「聞き慣れない外国人名」である「ショパン」を、書き手がポーランド的な感覚で勝手にこのように綴ってしまっただけなのだろう。何故ならその証拠に、その僅か1年後2年後のイザベラとエミリアの洗礼証書では、いずれもきちんと「ショパン(Chopin)」となっているからだ。これは、前者が田舎(ジェラゾヴァ・ヴォラ)で、後者が都会(ワルシャワ)で届出を行った事から来る、それぞれの土地における役所や教会の記載担当者の「知的レベル(フランス語に対する知識)」もしくは「お役所意識」の違いを物語るものなのだろう。そしてこれらの事実は、ポーランドに移住したニコラにも、子供達の誕生を機に、よりポーランド的な「ショピン」もしくは「ショッペン」に姓を変更する事も十分可能であった事をも物語っているのである。だがニコラは、それでも尚、やはりフランス姓の「ショパン(Chopin)」を貫いたのだ。その事実は、簡単に見過ごされるべきではないように思われる。

これらはあくまでもポーランドでの話だが、しかしフランスのショパン家の先祖の間でも似たような事が起こった可能性は十分にある。つまり記名の際に本人(もしくは第三者)によって「書き間違えられたのが公式化されていった」という可能性である。これは、当時のフランスの教育事情を考慮すれば、実はかなり現実味のある話なのだ。その根拠は、世界の教育に関する以下の書物がよく説明してくれる。同時にこれは、ニコラの少年時代が実際どのようなものであったかも、我々に垣間見せてくれる。

 

「アンシャン・レジーム(※フランス革命以前の旧体制の呼称)のフランスで、分益小作農を中心とする農民や職人など一般に貧しい民衆のための初等教育――これはおもに「プチト・エコール」(※直訳上は小学校に相当するが、むしろ日本で言う寺子屋に近い)とか「慈善学校」とか呼ばれる学校で行なわれた――の問題が強い関心をひくようになったのは十六世紀末のことである。…(略)…

そこでは、フランス語の読み、書きや数量計算などの知的学習も行なわれるが、最も力が注がれているのは教義問答書などによるキリスト教の学習であり、だいいち学校生活そのものがまったくキリスト教的である。…(略)…

こうした状態の「プチト・エコール」に、大きな教育効果を期待することは困難である。信仰の正統性、教義の清純性を確保する宗教教授と、これと関連した道徳教育とが眼目であったから、いわゆる知的学習の成果は問題ではなかったかもしれない。ともあれ学力調査など行なわれていないので、読み、書き、計算学習の成果がどの程度のものであったかを知る資料はほとんどない。わずかにその手掛りとなるものは、結婚に際しての自署率の数字である。地域差はあるであろうが、全国平均の数値は次のようである。

16861690

2906

1397

17861790

4705

2687

これによれば、十七世紀末には男約70%、女約86%が一生で最も大切な行事の一つである結婚時に自分の名を書くことができなかったことになる。また100年後の十八世紀末でも、男53%、女73%が署名不可能であった。この数字は、もちろん、貴族や僧侶を含んだものであり、さらに「プチト・エコール」が全コミューンに設けられていたわけでもなく、またすべての子どもが就学していたわけでもないので――正確な就学状況などは史料がなく不明である――この数字から、ただちに「プチト・エコール」の教育成果を測定することはできないが、それでもこれによって「プチト・エコール」の教育実態の一端を推測することはできるであろう。」

梅根悟監修/世界教育史研究会編

『世界教育史体系9/フランス教育史T』(講談社)より  

 

      これでいくと、「密輸業者」だったがゆえに「姓」の変更を行ったとされる先代のフランソワが1705年」に結婚した時、彼が自分の名前を書けた確立は大体30%」位という事になる。

      また、この「自署率」はちょうどニコラのフランス時代がごっそり抜け落ちているが、ニコラの父フランソワが結婚したのが「1769年」とされているので、その時フランソワが自分の名前を書けた確立は大体計算上40%弱」位となる。しかし彼等が結婚証明書に自分でサインしていたかどうかは調べれば簡単に分かる事で、それによってショパン家代々の就学事情もだいたい推測出来るのに、残念ながらそこまで詳細に記してくれている文献はない。

 

ただ注意して欲しいのは、このデータはあくまでも「貴族や僧侶を含んだもの」であるという点だ。

革命前のフランスは、第一身分=聖職者(僧侶)、第二身分=貴族、第三身分=平民という、三つの身分階級に分かれていて、中でも第一、第二身分の占める割合はたったの45%でしかなかったと言われており、そして彼等だけに限って言えば、その「自署率」は現代の我々とそれほど大きな差はなかった。つまりその彼等を除いた第三身分だけの「自署率」となると、当然これよりも下回る事になる。

更に第三身分にはブルジョワジーと呼ばれる裕福な特権階級もいて(彼等がフランス革命で指導的役割を果たす事になる訳だが)、ここから更にこのブルジョワジーを差し引くとなると、残った者達の「自署率」がどういう事になるかは言うまでもないだろう。ショパン家も勿論その第三身分に属してはいたものの、しかし彼等はその中でも、ここに書かれている「農民や職人など一般に貧しい民衆」という、ほぼ最下層の位置にいたのである。つまりそれがそのままフランソワ達の正確な「自署率」となるのだ。その数字はほぼ絶望的なものと考えて差し支えない。だがそのような事はたとえばこの日本でも、あの豊臣秀吉が、農民出身であるがためにまともに読み書きが出来なかった事を思えば、さして驚くにもあたるまい。

 

ニコラの「19歳の手紙」からも分かるように、ニコラは当たり前のように両親に宛てて手紙を書き、また当たり前のようにその返事を要求してもいた。したがって、少なくとも「ニコラの父フランソワは文章の読み書きが出来た」と考えるのが普通だろう。しかしそれはあくまでも現在の我々の感覚であって、この時代の教育事情の下では、その認識を完全に改めてから臨まなければいけない。何故なら、上記の「自署率の数字」というのは、単に「自分の名前が書けた」という事実しか証明し得ず、それ以上に手紙などの「文章の読み書きが出来た」という数字となれば、当然もっと遥かに低くなるはずだからである(また、「読める」事と「書ける」事は全くの別物である事も忘れてはならない)。

となると、フランソワが「文章の読み書きが出来た確率」が、一体どのような有様になるかは容易に想像がつくだろう。

そう考えていくと、おそらくニコラの手紙の中で言及されている「司祭様」が、手紙の代読や返事の代筆を請け負っていた可能性も十分に考えられる。私にはどうしても、手紙の追伸部分にあった、「ヴェイドリヒさんと夫人があなた方にたくさんの挨拶を贈り、彼等の敬意が司祭様に届くよう、あなた方へお願いします。私からも同様のメッセージを彼に送ってくれるよう、あなた方にお願いします」という記述が、それを示唆しているような気がしてならない。

と言うのも、これは後で詳述するが、仮にニコラが「プチト・エコール」に通っていた場合、そこで教育に携わっていたのは間違いなくこの「司祭様」だったからで、そしてそこでは、間違いなく「熱心で優秀な」生徒であったろうニコラが、さぞ彼に可愛がられていたであろう事は、誰にでも容易に想像出来るだろうからだ。

少なくとも、だからこそニコラは、手紙の中でこの「司祭様」の事を自分の親族と同列かそれ以上に書き記してもいるのだ。おそらく、将来のフレデリックにとっての師であるジヴニィやエルスネルのように…。

      仮にこの「司祭様」が代読や代筆を請け負ってくれていたとするなら、それは既に3年も前から始まっていた事なので、それに対する謝辞もこの頃には慣例化し、この手紙の記述のように簡素になっていたのだとも考えられる。それに何より、革命勃発と同時に返事が途絶えた事とも辻褄が合う。革命は正に、第一身分と第二身分の地位をおびやかすものだったからだ。つまり革命を機に、第一身分に属していたこの「司祭様」がいなくなってしまったため、フランソワには、他に手紙の代筆を頼める人がいなくなってしまった、という可能性も考えられるだろう。おそらく、当時の政治情勢からニコラ達の立場や事情を配慮するとなると、読み書きさえ出来れば誰に頼んでもいいという訳にもいかなかったのではないだろうか。

 

仮にフランソワが「文章の読み書きが出来た」とするなら、それは図らずも彼の学習能力の高さを物語る事にもなる訳だが、それよりも更にガクンと「自署率」の落ちる先代に関しては、彼等がどれほど「読み書きが出来たか」は全くの未知数だと言っていい。要するに、「姓」の変更を行った先代のフランソワが、自分の名前を「間違えずに」きちんと書けたかどうかなど、実際保証の限りではなかったという事だ。

 

このように、何も「密輸業者」だったなどと想像を逞しくせずとも、当時のフランスには、「姓」の変更に関して、至って日常的な根拠はいくらでも転がっている。したがって、(所詮これらも仮説に過ぎないが)、おそらくその程度の単純な理由だったのではないだろうか?

 


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4.ニコラの育った家庭環境とは?――
  4. The home environment where Nicolas Chopin was brought up-

 

 

それでは、ミスウァコフスキとシコルスキの研究報告の続きから、ニコラの父フランソワ・ショパンについて見てみよう。

 

「ショパン家のロレーヌ分家の最後のフランソワは、フレデリック(彼は伝統に従って、第二のクリスチャン・ネームにフランソワを授けられた)の祖父であった。熟練した車大工、及びマランヴィルのコミューンの管理者フランソワ17381814)は、マルグリット・ドゥフラン(17361794)と結婚した。

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ニコラ・ショパン」に関する20061月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

さて、ここに書かれている、「車大工」だったフランソワが、「マランヴィルの管理者」をしていた、という説にも資料的根拠がない。仮にフランソワがそのような地位にいたのなら、それは彼が、立派なブルジョワジーであった事を示す事になり、それはすなわち、彼は単なる職人ではなく、「親方」階級の身分だった事を意味するのである。さて、果たしてそれは現実的と言えるのだろうか? 

事実、ニコラの洗礼証書の原物はクリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で写真確認する事が出来るが、そこにはフランソワの職業は単に「車大工」としか書かれていないのだ。その全文は以下の通りである。

 

「マランヴィルの車大工フランソワ・ショパンと、その配偶者マルグリット・ドゥフランの法律上の息子ニコラは、1771415日に生まれ、16日に洗礼を受けた。彼の名付けの父(代父)として、ディアルヴィルの独身男性ジーン・ニコラ・ドゥフランと、名付けの母(代母)として、クシロクールの独身女性テレーゼ・ショパンが、ここに署名する。 ディアルヴィルの主任司祭、P.ルクレール」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

      ここに書かれている二人の名付け親が、ニコラの手紙にあった「親愛なる親戚の方々」のうちの二人の存在を裏付けている。しかしここで注目したいのは、母方の親戚「ジーン・ニコラ・ドゥフラン」は自ら署名(サイン)しているが、父方の親戚「テレーゼ・ショパン」は字が書けず、その代わりとして「+印のマーク」を書き込んでいるという点である。男女の「自署率」格差は2倍近いので、到底この2人の例だけで結論は出せないが、これによって、母方のドゥフラン家には教育の痕跡が見出せた事になるが、しかし、一方の父方の親戚であるショパン家は、少なくとも娘に教育を施すような家庭環境にはなかった事がここから分かるのである。

      ここに書かれている「車大工」はフランス語原文ではcharronとなっており、これは英語で言う「wheelwright」であり、「車大工、自動車工」の意味しか持たない。当時の「車」とは言うまでもなく馬車や荷車の事で、すなわち「車大工」とは「木工職人」に分類される「職人」であった。つまりここからだけでは、よく言われているようにフランソワが「熟練した」かどうかなど勿論分かりようもなく、まして「親方」であったとも「雇われの職人」であったとも、いずれも推測する事など出来ないのである。ニコラの手紙の追伸にも、フランソワの雇い主、もしくは逆にフランソワが雇っていた職人や使用人に関する名前は一つも書かれていない。

 

 

それではここで、フランソワが本当に「マランヴィルの管理者」をしていたかどうかを検証するために、今一度はっきりと確認しておこう。フランス革命以前の旧体制下における、つまり過去の時代の封建制度の下における「マランヴィルのショパン家の身分」というものが、一体どういうものだったのか?という事をだ。

 

「旧体制のもとでは第三身分のもとにすべての平民が包含されていた。最も貧困な賃労働者から最も裕福なブルジョワまで、シェイエスによれば国民の九六パーセントである。したがって第三身分とは法的な内在的本質であり、現実にあるのは社会的な諸構成分子である。最も重要な分子、大革命を指導し、そこから利益を得た分子は、ブルジョワジーだった。

ブルジョワジーは農民層を基盤として身をおこし、職人層を中間段階とした。労働と節約、さらにとりわけ商業の投機をし、運がよければ、きわめてつましい生活をしていた者も上昇することができたのである。メサンスは一七六六年にその『人口研究』の中で「農村に一人でも余分な男がいると、彼は町へ行き、労働者、職人、製造業者、商人になる。もし彼が活動的で倹約をし、頭がよければ、また彼が世にいう果報者なら、彼はじきに金持ちになる」と書いている。このようにフランスでは最初から、ブルジョワジーは、絶えざる運動によって、農民層から出ていたのである。」

アルベール・ソブール著/山崎耕一訳

『大革命前夜のフランス 経済と社会』(法政大学出版局)より  

 

さて、この記述を見ると、マランヴィルのショパン家にも「ブルジョワジー」たり得る可能性は十分にあったわけで、「…活動的で倹約をし、頭がよければ、また彼が世にいう果報者なら…」、これなどは正にニコラの事を指している言葉ではないだろうか? ではマランヴィルのショパン家は「ブルジョワジー」だったのだろうか? 

 

ブルジョワの基準の第一のものは、まぎれもなく財産である。それは、その量よりもむしろその起源、形態および管理と消費のしかたが問題であった。ブルジョワ風に暮らすということである。十八世紀のフランス人が、誰がアリストクラート層(※貴族と高位聖職者)に属すか、誰がブルジョワジーの出であるかを、苦もなく区別したことは疑いをいれない。「彼にはブルジョワくささがある」という感じである。

さらに進めて、最小限の体系化を可能とする定義を試みなければならない。…(略)…E・ラブルースは以下のようにみる。「役人、委員、官吏など、貴族位を与えられない管理職についているグループが一群の豪家である。ブルジョワ風に生活している土地所有者や金利生活者が、また一群の豪家である。…(略)…当然ながら自由業もまた、その語の変わらざる意味において、ブルジョワ的である。これら上層の部類は無数の企業主の家庭を母体としている。後者は数量的にこの階級の最大部分を占めているのである。彼らは、賃労働によって動かされる独立の生産手段の、所有者もしくは管理者である。そしてそこから生活手段の主要部分を得ているのであり、とりわけ商工業の利潤をわがものとしている。これは多様な家族を含む。上は金融業者、船主、マニュファクチュア経営者、交易商人、商人から、下は小カテゴリーの最低部分まで、すなわち小商店や仕事場の持主まで、また賃労働を用いて材料を加工し、自分のところでできた製品を直接に顧客に売る独立職人層にいたるまでが含まれるのである。」

P・ヴィラールはより体系的である。「…(略)…一、生産手段を自由に所持すること。二、労働力しか所持しない労働者を、自由な契約によって、生産手段にあてがうこと。三、こうして商品に実現された価値と適用された労働力への報酬の差額をわがものとすること。以上である。この定義による社会的天引きを直接間接に利用して生活しているのでない者はブルジョワではない。」

一と多様。ブルジョワジーというカテゴリーの構成は全く同質なのではなかった。固有の意味でのブルジョワを自認していたのは平民の中のほんの一部だった。働かずにすみ、自分の財産、すなわち土地、地代、および量的には少ないが有価証券で生活できるほどに豊かなものである。」

アルベール・ソブール著/山崎耕一訳

『大革命前夜のフランス 経済と社会』(法政大学出版局)より  

 

残念ながら、マランヴィルのショパン家がこの「ブルジョワジー」の定義に該当しそうにない事は一目瞭然だろう。

ちなみにミスウァコフスキらの研究報告では、この「管理者」administratorと英訳されており、これは他に「行政官、遺産管理人、管財人、(倒産手続きにおける)破産管財人」などの意味を持つ単語である。要するに「マランヴィルの管理者」というのは、ここで言う「役人、委員、官吏など、貴族位を与えられない管理職」であり、あくまでも「独立の生産手段の、所有者もしくは管理者」である。つまり明らかに「ブルジョワジー」なのだ。

したがって「ブルジョワジー」でないショパン家やフランソワには完全に「お呼びでない」話となる。

仮に彼等に「ブルジョワジー」たり得る資質があったとしても、彼等にはそうなろうと志すだけの物欲や権力欲というものが決定的に欠けていた。それは、将来ニコラがポーランドで築いた彼の家庭の慎ましさを見ればよく分かるだろう。彼等一族は基本的に善良であり、決して「必要以上の所有欲」にかられたり、狡猾に立ち回って「立身出世を目論む」ようなタイプの人種ではなかったのだ。この時代にブルジョワジーに成り上がるとは、大体においてつまりそういう事である。

 

フランソワは1769年の結婚を機にマランヴィルへ移って来たばかりで、つまりその3年後にニコラが生まれたこの時点では、単なる「車大工」でしかなかった事は資料上間違いないのだ。そしてその後「ヴェイドリヒ」がパッツ伯爵に雇われて本当の「マランヴィルの管理者」となるためにやって来たのが1782年、つまりその間たった11年の中で、どうして最下層身分のよそ者の職人が、「マランヴィルの管理者」などという「ブルジョワジー」の仕事を任されるようになり得ると言うのか?

おそらくこれは、ショパン家とヴェイドリヒ家を何とか結び付けようと都合した作り話なのだろうが、そのようなこじ付けなどせずとも、両者は小さな田舎町の領主と領民の間柄である、何でもない日常生活の中ですら、それこそ親密になる機会はいくらでもある。

 

 

更に続きを見ていこう。

 

「フランソワは、彼のアルプスの先祖よりは遥かに良い生活を楽しんだが、彼の社会的身分は非常に低いままだった。それにも関わらず、彼は自分の子供達に適度な教育を施すよう努めた。そうして、彼の息子ニコラ(1771年に生まれる)は、タンチモンで非常に評判の良い近所の中学校に通い、そこで彼は基本を学んだその間に、1782ポーランド人アダム・ヴェイドリヒが家族と共にマランヴィルにやって来た。ミハウ=ヤン・パッツ(17301787リトアニアのバール連盟の指導者だったジオロフの貴族で、当時フランスに移住していたリトアニアの紳士)によって購入された領地と城を管理する仕事に就くためだった。ヴェイドリヒの家族は、すぐに前途有望なニコラに注目し、そして度々城を訪問する事を許可した。更に、フランチスカ・ヴェイドリヒ夫人(ドイツ出身、パリの裕福な中産階級の家庭から来た)は、ニコラの中等学校終了後の継続教育を世話し、彼は数年後、フランス語、ドイツ語、そしておそらくポーランド語も、それから会計学、書道、文学、及び音楽に至るまで、高いレベルでマスターした

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ニコラ・ショパン」に関する20061月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

      既に説明したように、「マランヴィルの管理者」をするような「ブルジョワ」な人間が、「社会的身分は非常に低いままだった」などという矛盾した理屈は残念ながらありえないのである。何度も言うように、革命以前の旧体制下では「社会的身分」などそう簡単にどうなるものでもない。だからこそ革命が起こったのだ。

 

ニコラが「タンチモンで非常に評判の良い近所の中学校に通い、そこで彼は基本を学んだ」というのも資料的根拠がない。それどころか、実はこれも革命以前のフランスでは到底あり得ない話なのだ。その理由も以下のように至って簡単である。

 

「アンシャン・レジーム期に教育機関として最も重要な役割を果たし、成果をあげたのは中等教育機関、すなわちコレージュ(collège)であった。社会の第一線に立って活躍した科学者、文人、官僚、技術者、実業家、弁護士等は、そのほとんどがコレージュで教育を受けた連中であった。しかしこのコレージュは長期の修学期間を必要とし、それ相応の教育費も要したので、貧しい農民大衆や職人たちには縁のない存在であった。それはもっぱら貴族やブルジョワジーなど身分的あるいは経済的エリート階層の子弟を対象にした特権的学校であり、アンシャン・レジーム期の中心的な人材養成機関であった。…(略)…

子どもたちは原則として九歳からコレージュの課程を開始し、大体十八〜十九歳で教授免許の試験をうけるのが常であった。このような大学附属のコレージュのカリキュラムは、時に多少の変更修正は行なわれたが、その大綱は大革命前の時期を通じて大体同じであった。」

梅根悟監修/世界教育史研究会編

『世界教育史体系9/フランス教育史T』(講談社)より  

 

これを見ても明らかなように、当時のフランスの中学(中等教育機関)とはそれ自体が「継続教育」機関であり、「コレージュ(collège)が英語で言うところの「カレッジ(college)」である事からも分かるように、つまり現在の「大学」や「専門学校」に相当する上級教育機関なのだ。要するに「基本」を学ぶ場所ではない。つまり、「ヴェイドリヒ夫人」「ニコラの中等学校終了後の継続教育を世話」したなどという矛盾した話自体が、当時のフランスでは現実問題として成立し得ないのだ。「中等学校終了後」とはすなわち、もう既に「教授免許」を取得しているという事であり、その後にはただ「附属」「大学」があるだけであって、新たに世話するべき「継続教育」などない。旧体制下のフランスには、第三身分最下層のための「プチト・エコール」と、第一、第二、第三身分ブルジョワジーのための「コレージュ」と、完全に二極化された教育機関しかなかった。それにそもそもフランソワがニコラを中学に通わせるなど経済的に不可能であるばかりか、身分的な意味でも何の先行投資にもならず、全く動機となるべき根拠が見出せない話なのである。

これは完全に、フレデリック・ショパンの時代のポーランドの教育事情をそのまま安易に当てはめてしまっただけの話で、たとえば、以下がその典型的な例として挙げられるものである。

 

「ニコラス・ショパンは、一七七一年四月十五日にローレン(※ロレーヌ)のマレンヴィル(※マランヴィル)に生れた。彼は、車大工と葡萄作りの息子であって、中等学校を卒業した十七歳の時に、フランスを去ってポーランドにきたのである。」(※この原著の出版は1951年)

カシミール・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝共訳

『ショパン』(音楽之友社)より  

 

このウィエルジンスキというポーランド人作家は、正に「20世紀のカラソフスキー」と言える人物で、のちのショパン関連の著述家達に及ぼした悪影響には多大なものがあり、その功績は今日も尚生きている(勿論それについては追々触れていくが)、彼も当時のフランスの「中等学校」というものが「十七歳」では卒業出来ないという事をまるで知らない。

 

ステファン・キェニェーヴィチ編『ポーランド史』によると、ポーランドでは1772年の第一次分割を機に新しい政府が組織され、それによって国政改革を推進する事が出来、その過程で「国民教育委員会」(※同書より)という「ヨーロッパで最初の文部省が設立され」(※同上)、それがのちのフランス革命政府の教育改革案などをモデルにして「教育制度の再編」(※同上)を行ったのである。それが以下のシステムであり、それは今日までほぼ引き継がれている。

 

国中のすべての学校(「騎士の学校」を例外として)教育委員会に所属していた。ポーランドは二つの学校区に分けられ(王国とリトアニア)、その頂点には最高学府としてクラクフとヴィルノの改編した総合大学が立っていた。所属していたのは地区学校(高等学校)で、この下に小地区学校(中等学校)があった。中等学校は教区をもち、その管理と世話のもとに女子用の私立があった。最高学府はこの組織で中心的要素であった。…(略)…小学校(※教区学校)の維持は教区聖職者のイニシャティヴにまかされたままになっていたが、委員会はすでに存在しているこれらの小学校をも管理下に置いた。」

ステファン・キェニェーヴィチ編/加藤一夫・水島孝生共訳

『ポーランド史@』(恒文社)より  

 

つまりミスウァコフスキらもこのウィエルジンスキも、ポーランド人達の書いている事は皆、全てこれに則って話を進めてしまっている事が分かるだろう。彼等は完全にフランスの時代考証をお座なりにして、革命以前のフランスの教育事情もこうだったものと勝手に思い込んでおり、ニコラの少年時代についてもそのように語ってしまっている。

ところがこれらポーランド人のみならず、逆にショパンをフランス的に美化しようと目論むブールニケルのようなフランス人作家ですら、以下のような事を書いてしまっているのである。

 

「フランス人が祖先であることが確実なものと思われたとき、マランヴィルのシャトー(※城)が、あるポーランド人の伯爵(※パッツ)の持ち物だったということがわかった。この伯爵が、またはその管理人(※ヴェイドリヒ)が、ニコラ・ショパンの教育に興味を示し、ナンシーで中等教育を受けさせたらしく、これでは少年の母親は非難されないではいなかったろう。」(※原著の出版は1957年)

カミーユ・ブールニケル著/荒木昭太郎訳

『大作曲家ショパン』(音楽之友社)より  

 

仮に、ヴェイドリヒがニコラの「中等教育(コレージュ)」入学のために経済援助をしたのだとしても、彼等がマランヴィルにやって来たのが1782年」、仮にその年すぐにニコラと出会い、すぐに援助を申し出るというシンデレラ・ストーリーが起きたとしても、それでもその時既にニコラは11歳であり、「中等教育(コレージュ)」入学年の「九歳」はとうに過ぎてしまっている。しかもニコラは1617歳でフランスを後にしているのだから(※ブールニケルは17歳としている)、万が一「コレージュ」に通っていたとしても「十八〜十九歳で」「教授免許の試験をうけ」てもおらず、つまりニコラは明らかに卒業資格を得ていない事になる。これでは何の意味もない。

しかも、「これでは少年の母親は非難されないではいなかったろう」とは一体どういう意味なのか? 家父長制が支配していた当時の封建社会において、一職人の妻でしかなかった彼女に一体どんな権限があって、子供の教育に一体何をしてやれたと言うのだろうか?

このように、当のフランス人ですら音楽関係者ともなると(※ブールニケル自身は文学や絵画の方が専門のようだが)、自国の旧体制下の教育事情その他に関してまるで知識がなく、ポーランドの作家達同様、基本的な時代考証すら怠っている事がよく分かる。

 

したがっていかに才能があろうとも、世襲制の時代の単なる職人の跡取り息子でしかないニコラが、本来なら10年近くかかるはずの学業を、出国前の僅か5年足らずで、フランス語、ドイツ語、そしておそらくポーランド語も、それから会計学、書道、文学、及び音楽に至るまで、高いレベルでマスターしたなどというのが、完全に浮世離れした話である事が分かるだろう。

 

 

更にもう一点、おそらくほとんどの人が勘違いしているだろうから確認しておくと、当時は、読み書きが出来る出来ない以前の問題として、「フランス人だからと言って必ずしもフランス語そのものを正しく話せていた訳ではない」という事である。

 

革命はまずフランス語を国語にすることに意を注いだ。一七八九年に大多数のフランス人は方言か訛りしか話していなかったし、国の知的・公民的生活に参加していなかった。言葉の統一のみが国民の統一を決定的に強固にし、すべての人たち、ピカルディー人、ガスコーニュ人、ブルターニュ人、アルザス人、プロヴァンス人などに、彼らの立法者の事業を知らせるだろう。革命家たちは初等教育によってその目的を達しようと考えた。」

アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳

『フランス革命(下)』(岩波書店)より 

 

革命後、フランス人に母国語を正しく話させるための「初等教育」が優先視されたという事実は、革命前に祖国を発ったニコラのフランス語が、果たしてどういうものだったのかという疑問をも提示する。

つまり、彼が将来ポーランドの中〜上流家庭相手にフランス語の教師となるためには、ポーランド語が分かる以前に、まず正しい母国語(フランス語)を学ぶ事から始めなければならなかったという事だ。

ニコラが19歳になってから両親宛に書いたこの手紙が、一字一句丁寧に書いてありながらも「文法は大雑把」であるという事実は、いかにも彼が「現在フランス語を修得中である」という様子を如実に物語っている。ただ、この間たったの3年弱である事を考慮すれば、逆に彼の学習能力の高さが窺えるとも言えるだろう。しかしそんな彼の能力を安易に(しかも過度に)買い被るよりも、ポーランドへ渡ってからの彼が、いかに必死で勉学に励まなければならなかったかという方に思いを至らせるべきである。普通であれば「九歳から」入学して約10年かかる中等教育を、実質、ニコラはポーランドに渡った16〜17歳で始めた事になるのだから。

 

しかし何故、誰もが書いているように、ニコラがフランス時代に既に「ポーランド語も」習得する必要があったと言うのだろうか? これは普通に考えれば実に奇妙な話なのだ。

何故なら、ポーランド本国でしか話されていないような、しかも隣国から半分占領統治されていたような民族の、つまり外国には全く普及する可能性のない極めてマイナーな「ポーランド語」をわざわざ彼が学ぶ理由があるとしたら、それは彼が始めからポーランドに渡る事を前提としていない限り、まず考えられないはずだからである。ところが、彼のポーランド行きは予め計画されていたものではない。あくまでも「パッツ伯爵」の突発的な死によって、ヴェイドリヒが人生の選択を迫られた事に端を発しての事だったのである。

 

「僅か数年後の17876に、ミハウ=ヤン・パッツが思いがけなくストラスブールで亡くなり、ヴェイドリヒは自分達の今後について決定する事を余儀なくされた。彼等は、アダム・ヴェイドリヒの祖国ポーランドに帰る事を選んだ。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する20067月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

つまり、ニコラがポーランドへ渡る計画も、彼が「ポーランド語」を学ばなければならない理由も、パッツが亡くなった17876月」以降に初めて現実問題として浮上したはずなのである。そして実際にニコラがポーランドへ渡ったのはその年の秋で(詳細は後述)、つまりその間たったの34ヶ月程度の猶予しかない事になる。これではいくらニコラでもせいぜい日常会話ぐらいしか学べまい。したがって、ニコラが本格的に「ポーランド語」を学び始めたのは、彼がポーランドへ渡った後以外には考えられないのである。

 

 

今日、ニコラ・ショパンの知的能力は、実際以上に過大評価され過ぎている。

彼は決して、よく言われているような「語学の天才」などではない。彼はあくまでも「努力の人」である。だからこそ彼は海千山千の学者などにはならず、地道ながらも生涯「優れた一教師」たり得たのだ。単なる田舎の職人の息子でしかなかったニコラが、ワルシャワの公立学校で教授の地位にまで上り詰めるのに、ポーランドへ渡ってから早23年もの歳月が流れている。そしてそんな頃になってようやく、初めて彼は家庭を持つ事を現実のものとし(当事、35歳で初婚なら晩婚である)、その前後には浮いた話一つなく、晩年は年金生活でもってその老後を全うするに至った。

そんなニコラの生来の生真面目さや勤勉さは、彼が息子に宛てた手紙の至る所からも、父親らしい愛情に溢れた助言や説教と共にいくらでも滲み出て来る(妻であるユスティナが、借金をするのに彼にだけは内緒にしなければならなかったほどだ)。それは誰の目にも明らかで、そしてそれは、全て他でもない、彼自身の経験に裏打ちされたものでもあるのだ。そこから見えてくるニコラ・ショパンの人物像とは、決して「天才」などではなく、「努力の人」以外の何ものでもない。

逆に「天才」そのもので、まともな経済観念すらなかった息子フレデリックの手紙や人生から、ショパンが「努力の人」であったなどという人物像が連想された事が一度でもあるだろうか?

 

 

このように考えていくと、フレデリック・ショパンを起点にショパン家の系図を辿る際、決まってそこに浮び上がってくるのは、何やらそこには常に、「現状からの脱出」を余儀なくされるような事情が生じていたらしいという事だ。それは彼等の家系に共通して見られる「慎ましき才覚や向上心」に由来するものであり、それでいて、実力だけでは現状打破出来ない不条理な時代でもあったため、転地によって光明を見出すしかなかったのだろう、という事が想像されるのである。

 

それでは、そのニコラ・ショパンが打破しようとした現状とは、果たして具体的にどのようなものだったのだろうか? つまりそれこそが、彼がポーランドへ渡った理由そのものだったはずだ。

 


【▲】 【頁頭】 【▼】

5.ニコラをポーランドへ導いた人物とは?――
  5. The person who took Nicolas Chopin to Poland with-

 

 

ニコラがポーランドへ渡った理由を考える前に、まず、そのニコラをポーランドへ導いた人物について知っておかなければならない。ニコラをポーランドへ導いたのが「ヴェイドリヒ」であるという事実だけは揺るがない。そしてニコラの手紙からも、ヴェイドリヒ夫妻がどれほど彼を可愛がっていたかを窺い知る事も出来る。だがしかし、この両者がフランス時代に交際可能だった年月は、実は最大に見積もってもせいぜいたったの5年しかなかったのである。しかもその間のニコラは、まだ右も左も分からないような11歳から、正に思春期真っ只中の16歳までの狭間にいた。この短くも不安定な年代の中で、彼等がいつ知り合い、どのような親交を育んでいたのかなど知る由もないが、ただ先述したように、少なくともフランス時代の彼等の間には、まだ師弟関係は存在していなかったという事だけは確かだと言える。

 

それでは、そんな両者を一体何が惹きつけ合い、その後の運命を共にするまで親密にしていったのか?

 

ニコラ側のフランス時代の資料が既に出尽くしてしまっている以上、もはやそれは、ヴェイドリヒという人物、ひいては彼の家系を詳しく調べる事によってしか知る術はない。私などはずっと、「ヴェイドリヒ」というその名前から、彼は生粋のポーランド人ではなく、おそらくドイツ系の人物であろうという事ぐらいしか想像出来なかったが、ヴェイドリヒその人についての詳細は、ひとまずミスウァコフスキらの最新の研究報告から見ていく事にしよう。

 

ショパン家の歴史において決定的な役割を演じたのは、アダム・ヴェイドリヒと言う人物で、彼はニコラ(ポーランド名ミコワイ)・ショパンをフランスからポーランドへ移住させ、到着後の世話を請け負った

アダム・ヴェイドリヒ(しばしば誤ってアダム=ヤンと呼ばれている)は、プロシア西部に定住したドイツ人を祖先に持つ、高貴な市民階級の家系である。彼の祖父、クジシトフ・フォン・ヴェイドリヒはドイツの貴族で、アンナ・マリアと結婚し、1718世紀の境目辺りに、モラヴィアのブルノに近いポゾジチェで暮らしていた。彼等の息子フランチシェク(1764819日生れ)は、彼の家柄と高度な教育の修業証書をもって、仕事を探すために世の中へ出て行った。そして1721年に、彼はプロシア西部のヴィスラ川沿いのシフィエチェで見出される。彼はそこで、地元の教区管理者として働いていたと考えられている。ここで、彼と彼の妻クリスティーナ(旧姓ベルツ)との間に11人の子供が生まれ、そこには、最も若いフランチシェク(17381125日生れ、1814年没)とアダム、それからおそらくカジミエシュ(約1750年生れ、1770212日没)が含まれていた。フランチシェクは後にワルシャワの騎士養成学校でドイツ語とラテン語を教え、カジミエシュはヘウムノ学院の生徒だったその期間中に、若くして亡くなった。

アダム・ヴェイドリヒは17421022日にシフィエチェで生まれ、相当な教育を受けたに違いない。と言うのも、彼はまだ若かった頃に、ミハウ・ヴィエルホルスキ(ルイ15世時代のバール連盟の大使)に代わって、フランス国王(17701787)への外交使節の秘書として、ポーランドからかの地に赴いているからである。連盟が1772年に解消された際に、彼がこの地位を失った事は疑いない(特に、ヴィエルホルスキがポーランドに戻った事から考えても)。ヴェイドリヒは連盟の最も著名な代表者達に混じって、亡命者としてフランスに留まった

1775年に、ルイ16はヴェイドリヒに帰化証明書を授け、そして、立派な領地を所有するあらゆる特権と共に、彼と彼の子孫にフランスの市民権を与えた。

1777年に、ヴェイドリヒは裕福なパリジェンヌ、フランソワーズ・シェリングと結婚し、そして彼は、同じくフランスに亡命したバール連盟の指導者の一人、ミハウ=ヤン・パッツに雇われてその仕事に就いた。

1782年に、ヴェイドリヒはロレーヌのナンシーに近いマランヴィルで、パッツによって新しく購入された城と領地の財産管理人になった。そのマランヴィルの村で、ヴェイドリヒはショパン家とその運命を共にする事になる。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する20067月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

ヴェイドリヒはやはりドイツ系移民を先祖に持っていて、ニコラの父フランソワとほぼ同世代(4つ年下)である。元々が高貴な家柄だった事もあり、若い頃から「高度な教育」も受けていた。そして若くして「フランス国王への外交使節」としてポーランドからフランスへ渡り、後に亡命者となって当地で結婚し、家庭を築いた。身分的な違いは別にしても、ここまでの経緯はまるで、その後ニコラが辿る運命とよく似ている。

しかしここに書かれている事を全てそのまま鵜呑みにして良いのだろうか? だとしたら何故ヴェイドリヒは、これだけの「特権」を持ちながらパッツ伯爵の「雇われ管財人」などに甘んじているのだろうか? おそらく彼には、自身が「領主」として支配者的な地位に就きたいという欲が、根本的にないという事なのだろうか。だとすると彼は、「ブルジョワジー」たる資質を持ちながらもそれを目指そうとはしなかったショパン一族と、どこか馬が合うところがあったのかもしれない。

それはさて置き、ヴェイドリヒは、マランヴィルへやって来るまで少なくとも既に10年以上もフランスにいて、フランスに「帰化」し、フランスの「市民権」を持ち、そしてフランス人の妻を娶っていた。つまり彼は、「パッツ伯爵」の亡命と共にやって来た新参者のポーランド人ではなく、厳密には既にフランス人化していた元ドイツ系ポーランド人だった訳だ。パリ時代に生まれた長女もこの時もう4歳になっていた。となれば、11歳〜16歳までのニコラがこのような家庭(もしくはヴェイドリヒが管理していた城)に客人として招かれた時、その場で交わされていた会話は当然フランス語であり、しかもそのフランス語は、片や「フランス国王への外交使節」、片や「裕福なパリジェンヌ」という稀有な夫婦の口から放たれる、つまり地方訛りや方言ではない、極めて洗練されたものだったはずである。そんな彼等が、最下層身分の少年に対して分け隔てなく接し、きちんとその人物を見極めて情愛を示してくれていた事になる。これは極めてポーランド的な美徳と言えよう。

 

このような、ヴェイドリヒ家の営む貴族的で文化的な家庭の雰囲気に直接触れた事が、ニコラ少年に計り知れない感銘を与えたであろう事は想像に難くない。だがそれだけではまだ、未来の扉を叩くには遠く及ばない。少年をその行動に駆り立てるためには、それを後押しする何か決定的な外的要因が必要不可欠な時代だったからだ。

 

つまりそれが、フランス革命だった訳である。

 

「ミハウ・パッツが1787年に死んだ後、彼等は雇い主を失い、その上革命が予期された政治情勢だった事もあり、ヴェイドリヒはポーランドに戻る事を決め、1787年にワルシャワへの旅に乗り出した。この出来事がニコラ・ショパンにとって決定的であった事は間違いない。彼は家を出て、ヴェイドリヒに随伴する事を決めた。彼等は知的な17(※16歳の誤りではないだろうか)を、彼等のビジネスにおける非常に有益な助手と見なしたに違いない。ニコラの両親は、これを息子の人生にとっての好機と見なし、それが永遠になると分かっていながら、彼を手放す事に同意した。

ニコラ・ショパンは、1787年の終わりに、ヴェイドリヒと共にワルシャワに到着した。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ニコラ・ショパン」に関する20061月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

ちなみにこれはヴェイドリヒについて書かれた記事ではなく、ニコラについて書かれた記事からの抜粋なのだが、それにも関わらず、これは全て、あくまでもヴェイドリヒ側の視点と都合だけでしか語られておらず、ニコラ本人の意思については何一つ説明されていない。勿論、ヴェイドリヒに関する記事の方でも、以下のように同様の事しか書かれていない。

 

「僅か数年後の17876月に、ミハウ=ヤン・パッツが思いがけなくストラスブールで亡くなり、ヴェイドリヒは自分達の今後について決定する事を余儀なくされた。彼等は、アダム・ヴェイドリヒの祖国ポーランドに帰る事を選んだ。この先数年の間は、死亡した雇い主の未解決の財務処理に悩まされるだろう事が分かっていたので、ヴェイドリヒは、今や17(※16歳の誤りではないだろうか)になっていた知的で若いニコラ・ショパンが、彼の商取引の助手になり得ると考え、一緒にポーランドへ発つ事を提案した。彼等のワルシャワへの旅は、178710月か11に執り行われたが、おそらくアダム・ヴェイドリヒは、彼の残りの家族とニコラの到着に備えるために、一人で先に出発したはずである。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する20067月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

こちらの記事の方が半年も新しいのだが、逆にこちらでは「革命」については全く触れていない。

 

しかし普通に考えれば、「ヴェイドリヒとニコラ」という「領主と領民」は(厳密には領主はパッツ伯爵で、ヴェイドリヒはその管財人なのだが)、本来革命を起こされる側と起こす側に分かれて争っていてもおかしくはない立場にいたはずなのだ。

実際、パッツ伯爵の治めていたマランヴィルはいざ知らず、実は当事のロレーヌ自体は、革命前のフランス全土の中でも、決して農民にとって条件のいい地方ではなかった。

 

フランス農民が支払わなければならなかった様々な封建的諸税中、最も注目に値するものは、買戻しと相続税・財産収得税と売上税であった。貨幣価値の下落のために現物で支払われたこれらの税は最も重かった。様々な賦役や義務中、農民によって最も憤慨されたものは、強制的共同使用であり、それは領主の水車・葡萄の搾り器・かまどの強制使用を含むが、これらは主として独占の行使をめぐって増大する種々の悪用のためである。領主の税はフランスの他の地方よりも或る地方では一層重く、経済発展が遅れていたブルタニュ・ロレーヌ・オーヴェルニュでは、特に重かったが、封建判度の根が浅いノルマンディー・オルレアネェ・アングーモアでは比較的に軽かった。」

安達新十郎著

『大革命当事のフランス農業と経済―アーサー・ヤング『フランス旅行記』の研究』(多賀出版)より  

 

このような状況下で、領主と領民が親密に交際するなどという事が起こり得るとは、ちょっと考え難いだろう。しかしそれが起こり得たのは、つまり旧体制下ではまだ全国的に領地支配に統一性がなかったため、全ての領主が皆同じという訳ではなかったからなのである。

 

(※17919月)全国は、四三の県に分割され、県の下に郡と小郡が置かれた。「フランス王国は唯一にして不可分」と宣言された。旧体制のもとでは、外国人領主の領地や外国扱いされていた地方があり、かならずしもフランス王国の領土として認められていないものがあった。そのような習慣を廃止して、フランスを完全な統一国家にすることを宣言したのである。」

小林良彰著

『フランス革命史入門』(三一書房)より  

 

パッツ伯爵が治めていたマランヴィルは、正にここに書かれている「外国人領主の領地」だった。

そして何よりも、彼等が階級闘争に巻き込まれずに済んだという事実は、彼等がお互いに政治的主義主張にはほとんど関心を払わず、ただお互いの人間性のみに惹かれ合って交際をしていた事を如実に物語っていると言えよう。彼等は他の農村地帯の領主と領民のように、搾取する側とされる側という、長きに渡って革命の火種として燻ぶり続けてきた悪政とは無縁だった。そしてそんなヴェイドリヒだったからこそ、彼は、かつて「スタニスラス・レシチンスキ」がルイ15世からロレーヌ公国を与えられたように、ルイ16世からそれ相応の施しを受けてもいたのだろう。

 

さて、いずれせよこの時点では、2年後に控えたフランス革命はまだ起きていない。つまり旧体制下の世襲制の時代において、ニコラはショパン家唯一の跡取り息子であった事に変わりはないという事だ。そのニコラを、ヴェイドリヒ家の都合だけでどうこうする事が、果たして現実的と言えるのだろうか?

 

ニコラが「知的」であった事は間違いないが、しかしまだこの時点では彼とヴェイドリヒとの間には師弟関係もなく、当然ニコラにもまだここに書かれているような高度な教育など施されてもいなかった。また、ニコラもその父フランソワもヴェイドリヒやパッツ伯爵の使用人ですらなく、単に親しい領主と領民の間柄でしかなかった。それに、ニコラの両親が何故「それが永遠になると分かって」いたなどと言えるのだろうか? この混迷を極めた時代に、先がどうなるか予測出来る者などいやしない。それは現在の我々が、予め事の成り行きを全て知っているからそう思うだけであって、そのような未来人が過去の時代に舞い降りて当事者達に知ったかぶりをさせてみたところで、一体それに何の意味があると言うのか?

 

 

何か事件や物事が起こる時、それがたった一つの原因によって引き起こされる事はまずない。必ずいくつもの細かい要因が複雑に絡み合う事によって、初めてそれは起こる。たとえばフランス革命がマリー・アントワネットの浪費癖一つだけでは到底起こし得ないように、ニコラのポーランド行きもまた然りである。その意味では、ニコラにとっては、こういったヴェイドリヒ家の都合などむしろ「渡りに船」に過ぎず、まずショパン家の事情こそが検証されなければ何の意味もないだろう。

我々はどういう訳か、ニコラが「ポーランドへ渡った」という視点でばかり物を考えようとするが、実はニコラは、ポーランドへ渡る前に、まず「フランスを出た」のである。

つまり「ポーランド」とは、あくまでも「結果」であり、「原因」はあくまでも「フランス」にある。

確かにヴェイドリヒは「ショパン家の歴史において決定的な役割を演じた」が、彼の存在はあくまでも、「フランス」と「ポーランド」を結んだ「必然」の架け橋でしかない。「何故ポーランドに渡ったのか?」、その質問を繰り返している限り永久に答えに辿り着く事はないだろう。そうではなく、「何故フランスを出たのか?」、今一度心を無に帰してこの質問に問い直す事から始めない限り、決して何も見えては来ないだろう。そしてそれは、当事のショパン家が置かれていた現状を、フランス革命を基点にして歴史的見地から考察し直す事によってのみ、初めて浮き彫りになってくるはずなのだ。

 

決して楽な作業ではないが、現時点ではそれ以外に有効な手立てはない。しかしやってみる価値は大いにある。

 


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6.フランス時代のニコラは、一体何処で何をしていたのか?――
  1. Where on earth was Nicolas Chopin in the French times, and what did he do?-

 

 

ニコラの父フランソワの仕事が「車大工」だった事は資料上揺るぎない事実である。そして「マランヴィルの管理者」が論外である事も既に説明した通りだ。しかし様々な伝記や文献を読み比べると、それ以外では、単に「車大工」としているものもある一方、「葡萄作り」としているものもあり、あるいはその両方を兼業(もしくは転業)していたとするものまであって、それぞれ千差万別なのである。

しかしこれはどれが正しいかという事ではなく、ある意味どれも正しく、ある意味どれも間違っているようなのだ。

 

これに関しては現在確実な資料を確認する事が出来ないため、あくまでも推論にならざるを得ないが、あらゆる話を総合すると、フランソワが「車大工」だったのは、彼が親戚の仕事を手伝う事になったためで、元々フランソワ自身の実家は「葡萄作り」の農家だった、という事になるようだ。

      ちなみに、完全な余談になるが、オーストリアの巨匠ハイドン(17321809)は、このフランソワと同世代で、しかもちょうどショパンが生まれた頃に亡くなっているのだが、このハイドンの父親も片田舎の「車大工」の家系で、「葡萄作り」を兼業していた事もあるらしい。

 

ニコラスの父親は一七三八年十一月十一日に生まれて妻の死後六十二歳で再婚し、一八一四年一月三十一日に七十五歳で没し、二度目の妻のマルグリット・ラプレヴォートもまた六十二歳でフランソア・モルトフェールの寡婦であった。再婚後フランソア・ショパンは車大工の仕事をやめて、父親と同じく葡萄作りになった。」

ウィリアム・マードック著/大田黒元雄訳

『ショパン評伝』(音楽之友社)より  

 

フランソワはおそらく「再婚後」、時を同じくして彼の父(ニコラと同名のニコラの祖父)が亡くなったので、彼が実家の「葡萄作り」を継ぐ事になったのだろう。それは大体1800年以降となるのだが、この頃はもう既にフランス革命勃発から10年以上が過ぎており(1799年には、ナポレオンが軍事クーデターによって統領政府を樹立し、ブルジョワジーによる革命政府自体が倒されていた)、つまり農政改革によって土地の私的保有権などが農民にもたらされるようになっていた時代の話になるのである。したがって、フランスのブールニケルが書いている以下の話は、額面通りには受け取れない事になる。

 

「これは一八一四年に事実起こったことだった。父(※フランソワ)の死の際、かなりの額にのぼる遺産は、マランヴィルに残っていたふたりの姉妹のあいだで分割されただけだった。」

カミーユ・ブールニケル著/荒木昭太郎訳

『大作曲家ショパン』(音楽之友社)より  

 

この「遺産」を根拠に、後の著述家達は、マランヴィルのショパン家が「葡萄園を経営していた」と書くようになったようなのだが、元々が土地の人間ではない彼等が、ニコラがまだフランスにいた当初から既に農地を所有していたとはちょっと考え難い。したがって、これはあくまでも革命後にもたらされたものと考えるのが妥当である。

 

「十八世紀のフランス農民階級は同質の一階層からなっていたのではなかった。彼らのもとでも階層分化がおこり、それは次第に強められていた。この階層分化は諸農村小教区の間でも、諸階層の問でも、同時に現われ、また、各階層の内部においてすら現われていた。たとえば、土地所有の分布がそれぞれ異なっていたことから、各種の階層がそれに応じてそれぞれ区別されるのであるが、ラブルール(農業家。土地をもっとも沢山もっていて、その所有面積だけでも自分の要求を充分に満たすことのできた階層)やメナジェ(※篤農家。農業に熱心で研究的な人)が農民の土地をもつとも大量に所有していたのに対して、萄葡耕作農民の土地所有は、そのほとんどが全フランスを通じて、ラブルールの土地所有よりも三分の一も少なかった。『商工業従事者』 (製粉業者、居酒屋、商人、麦卸商人、卵商人等々……)はラブルールのすぐ次に位していた。そして、土地所有者の中で最後の階層として位置づけられたのは、日傭農(ジュルナリエ、マヌーヴル、ブラッシエ)、折半小作隷農、水呑、および、手工業者であった。」

ジャン・ルッチスキー著/遠藤輝明訳

『革命前夜のフランス農民』(未来社)より  

 

「土地所有農民層。「自営農(ラブルール)」と「篤農家(メナジエー)」――彼らは独立して生活するのに十分な土地を持っている。農民層の群の中で彼らは少数派のグループでしかない。しかし、その社会的影響力は大きい。農民共同体の中の有力者、村の顔役、一種の農村ブルジョワジーなのである。彼らの経済的役割は小さい。」

アルベール・ソブール著/山崎耕一訳

『大革命前夜のフランス 経済と社会』(法政大学出版局)より  

 

      仮にフランソワが「マランヴィルの管理者」が出来たとしたら、彼はこの「自営農(ラブルール)」もしくは「篤農家(メナジエー)」「農村ブルジョワジー」だったという事になるが、「車大工」、もしくは「葡萄作り」を兼業しなければならなかったフランソワ、もしくはその実家がこれに該当し得ない事はもはや言うまでもないだろう。

 

「まず、他人に雇用されて働かなくても独立の生計を立てうる経営者の――まして土地所有農民の――比率は、あらゆる地方において低かった。その次に位する範疇の農民ははるかに数が多かった。彼らは土地を持っているかあるいは借りているが、それのみで生計を立てることができず手工業や商業を営んだり時には日雇いとして労働力を提供せざるをえなかった。最後に、多かれ少なかれ可成りの数の農村居住者が賃銀だけで生活していた。仕事がなかったりパンが高すぎたりした時には、彼らは乞食する以外にもはや道がなかった。」

ジョルジュ・ルフェーベル著/柴田三千雄訳

『フランス革命と農民』(未来社)より 

 

つまり、マランヴィルのショパン家が当初から「かなりの額にのぼる遺産」を有し、自ら農場経営まで出来るくらいなら、フランソワが他で「車大工」をしなければならない理由も最初からなかったはずなのである。

 

この点についてはもう一つ別の見地からも根拠を示そう。

 

「農奴制が根強く残っていた北東部に多い死亡税としての土地財産は、これまでの慣行のように傍系親族に転売される代りに、保有農民がその土地に子供を残さないで死んだたび毎に領主留保地に合体された。自由農民の土地は、戦争その他の理由で放棄された場合、とくに三十年戦争(※フランスが介入していたのは163548年)のブルゴーニュとロレーヌでは、その土地もまた領主によって収奪された。」

アンドレ・デレアージュ著/千葉治男・中村五雄訳

『フランス農民小史』(未来社)より  

 

つまり、仮に、逆にショパン家が農地を所有していた場合、将来それを相続するはずのニコラがいなければ、その土地は「領主によって収奪」もしくは「領主留保地に合体された」のである(当時の法律には長男が最も優遇される「長子権」というものがあり、姉妹がそれを確実に相続出来るという保障はない)。という事は、それでもニコラをポーランドへ行かせる事に同意したという事は、当初彼等にはそのような「守るべき財産」などなかったという推測も成り立つのである。

 

「フランスの「ブルジョア革命」(一七八九年)は、…(略)…反封建的農民運動であった。…(略)…フランス革命は、封建地代を無償で根底より破棄して、領主の上級所有権を廃止し、農民の下級占有(権)を私的所有(権)に転化し、彼等を独立の小土地所有農民として解放する(農民解放)とともに、封建的土地所有の規範としての「経済外的強制」の体系を排除して、生産者を自由な商品生産者として解放したのである。」

安達新十郎著

『大革命当事のフランス農業と経済―アーサー・ヤング『フランス旅行記』の研究』(多賀出版)より  

 

言うまでもなく、革命前と革命後では、第三身分最下層の置かれていた環境には文字通り天と地ほどの差があり、マランヴィルのショパン家がこのような革命の恩恵を受けた事はほぼ間違いないのだ。

つまり、フランソワが亡くなった「一八一四年」当時の出来事とは、あくまでも革命後の話であって、それがそのまま革命前のニコラのフランス時代にも当てはまると考えるのは大きな誤りである。この歴然とした時代の変遷を無視しては、フランス時代のニコラ、ひいては彼の生涯に渡る謎、そしてその謎を「謎として沈黙させざるを得なかった悲劇」について、何一つ見えては来ないだろう。

 

それでは、そんなショパン家の置かれていた「革命前の現状」とは、具体的にどんな風だったのだろうか? 

 

一七六一年から一七八八年にかけてパンの値段は一斤〔四九〇グラム〕一スーから七スーに上った。農業生産の領域ではひじょうに深刻な葡萄栽培の危機が多くの地方におよんだ。当時葡萄栽培は今日よりはるかに広くおこなわれていて、多くの農民にとって葡萄酒は唯一の販売品だった。要するに、パンを買わざるをえなかった葡萄栽培地帯の住民は、その数と集中の度合いからいって都市的性格をもっていたのである。一七七八年から八七年にわたる売行きの不振と値段の下落の時期には、たくさんの葡萄栽培者たちが貧困につき落されたし、一七八九年から九一年にかけては不十分な収穫のため値段がまた釣り上ったが、生産減のため葡萄栽培者たちは立ちなおれなかった。こうして、一七八八年から八九年にかけて穀物の値段が上ると、葡萄栽培地帯の住民、とりわけ折半葡萄小作人と日傭労働者は貯えをすっかりなくして押しつぶされた。葡萄栽培の危機はフランス経済の一般的危機の典型的な一つだった。と同時に一七八六年にイギリスと結んだ自由通商条約が工業活動の減退をひきおこした。イギリスの工業がその生産用具の変革〔いわゆる産業革命〕を完了し、生産能力を増大させていたときに、やっと変りはじめたばかりのフランスエ業は国内市場そのものでイギリスと競争しなければならなかった。」

アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳

『フランス革命(上)』(岩波書店)より

 

かつて、元ポーランド王の「スタニスラス・レシチンスキ」が、義父となったルイ15世から与えられたロレーヌ公国を、

 

「彼の小さな公国を、農業を育成し工業と芸術を奨励してヨーロッパにおけるもっとも幸福な国の一つとした」

GP・グーチ著/林健太郎訳

『ルイ十五世 ブルボン王朝の衰亡』(中央公論社)より

 

と言うのはもはや過去の話で、このように当事のフランスでは、ニコラの父フランソワの「車大工」も、実家の祖父の「葡萄作り」も、決して楽な状況ではなかったのだ。

そしてそんな社会情勢を苦慮したからこそ、ヴェイドリヒはフランスに見切りをつけて帰国を決意したのである(彼はフランスに「帰化」していたので、厳密には第二の祖国を去ったという意味になる)。

それなのに、ヴェイドリヒが、ショパン家がこのような苦境にあると知っていながら、その跡取り息子であるニコラを、どうして自分の都合だけで引き抜くような真似をするだろうか? それに対して、そのヴェイドリヒに従って、ニコラ自身と彼の家族が、お互いにお互いを見捨て合うような人生の選択をしようなどと考えるだろうか? そしてそのような大きな決断が、パッツ伯爵の死後たった34ヶ月の間で、果たして下され得るものだろうか? 彼等それぞれの持つ人間性を鑑みても、そのような事はとても現実的とは思われないだろう。

ところが、それにも関わらず、現にニコラはポーランドへ渡っている。

この事実を、我々は一体どう説明すれば良いのだろうか? 

 

だが事象の綾というものは、その因果関係が単純でない方が却って真実を手繰りやすかったりするものだ。何本もの糸が複雑に絡み合っているのなら、それを一本一本丁寧に解きほぐしていけばいい。しかし糸が一本しかない場合だと、一見分かりやすそうに見えるがために、安易にそれを引っ張ってもし切れでもしたら、その時点で全てが迷宮に落ちてしまう。実は単純なものほど、大きな落とし穴が待ち受けているものなのだ。

 

では、それにも関わらずニコラがポーランドへ渡ったのには、一体どのような背景があったと言うのだろうか? 

 

 

ニコラの心理を推し量るために、今度はショパン家の現状から、ニコラ個人の現状に焦点を合わせてみよう。彼は16歳で祖国フランスを後にする訳だが、それでは、それまで彼は一体何処で何をしていたのだろうか? 

 

他の伝記等で書かれているように、ヴェイドリヒ家に世話されて学問に勤しんでいたはずのない事は、既に検証した通りであり、またニコラは間違いなく「中等学校(コレージュ)」にも通っていない。当時の中学は、それそのものが特権階級のための職業訓練校である。つまりそれに通っていないニコラに、ヴェイドリヒの使用人として「会計係」をする能力も当然まだない。「中等学校(コレージュ)」の入学年は9歳」だが、当時のフランスでは、初等教育は大体7歳から13歳までの6年間とされ、一般に13歳で仕事の修行を始めると言われている(ここからも、「プチト・エコール」に通う階層と、「中等学校(コレージュ)」に通う階層とが差別化されていた事が分かる)。

繰り返し書いてきたように、封建時代だった当時の職業というのは、言うまでもなく基本的に世襲制である。それに則って普通に考えるなら、ニコラは、少なくともフランスを発つ16歳までの3年間は、家業を継ぐための修行に励んでいた事になる。

 

「石工は蓄財すると進んで企業家になるから別であるが、他の職人たちは自らの社会的条件を抜け出すのが難しかった。遺言を調べてみると、彼らの子供や孫ももっぱら同じ職業にとどまっていることがわかるのである。ここには社会的移動性は存在しない。昇進は単に経済的な序列に関してである。」

アルベール・ソブール著/山崎耕一訳

『大革命前夜のフランス 経済と社会』(法政大学出版局)より

 

ここで言う「職人」とは、いわゆる「親方」と言われる小ブルジョワジーからそれに従属する「従弟」に至るまで「ピンきり」で、一概にひとくくりには語れない。

「車大工」とは「木工職人」に分類される「手工業」であり、しかもけっこうな力仕事で、とても一人で出来るようなものではない。荷車一つとっても、何を運ぶかによってその大きさもまちまちで、たとえばジャック・プルースト監修『フランス百科全書絵引き』(平凡社)には、18世紀当時の車大工の仕事場とその仕事風景が図版解説されているが、その中には、直径が自分の背丈ほどもある車輪のついた荷車を5人の職人で製作している様子が載っている。これは、いわゆるギルドという組合制度における親方の下で職人達が働いている姿なのである。

しばしば伝記等では、フランソワが「車大工の親方」だったという記述を見かけるが、今までの検証を総合して考えても分かるように、フランソワが自前の仕事場を持ち、親方として職人を雇っていたなどと言うのはまず考えられない。そのような身分の者が、仮に土地を相続したからと言って、わざわざ葡萄作り一本に転職するはずがないからである。

たとえば「感性の歴史家」アラン・コルバンによると、19世紀初頭のノルマンディー地方の田舎においては、

 

「二十世紀半ばまで、ここでは、工事車と二輪馬車、それに自転車が、人間の移動と商品の運搬とを決定し続けていた。目下のところ、工事車――あるいはバノーと呼ばれる小ぶりの荷車――が君臨していることが、車大工の重要性を如実に示している。その仕事場は、町の内部で、公共空間に大幅に浸出してきていた。」

アラン・コルバン著/渡辺響子訳

『記録を残さなかった男の歴史 ある木靴職人の世界 1798−1876』(藤原書店)より

 

とあり、つまりフランソワが葡萄作りに転職した頃でさえ、「車大工」は決して衰退した産業ではなかった。逆に言えば、フランソワは特に「熟練した車大工」でもなければ親方でもなかったからこそ、土地の相続と共に葡萄作りを引継ぐ事にも躊躇しなかったとも言えるだろう。フランソワが一職人として仕事場へ出勤していたとなると、ニコラが父の働く姿を日常的に目にしていた可能性も若干低くなると言えようか。

 

しかしいずれにせよ、常識的に考えても、ニコラは父の「車大工」か、あるいは祖父の「葡萄作り」を手伝っていたはずなのだ。彼が将来継ぐべき仕事は、その時点ではその二つに一つと約束されていたようなものだからだ。そして彼はどうやら、父の仕事の車大工ではなく、実家の祖父の方の「葡萄作り」を手伝っていたか、もしくは、少なくとも季節労働者として双方を掛け持ちしていたような節があるのである。

マードックは、

 

「隠居してから何年も後に、フレデリックの父親はワルソウで葡萄を作ることを楽しんだ。そして立派な実を結ばせるのに成功したことを大喜びで息子に報じた。彼の遺伝的本能は消し去られていなかったのである」

ウィリアム・マードック著/大田黒元雄訳

『ショパン評伝』(音楽之友社)より

 

 

と書いているが、現実的に「遺伝的本能」だけで葡萄が作れるはずもない。実はニコラは、その「息子に報じた」手紙に、次のように書いているのである。

 

「わたしはあまり出かけません。小さな庭にはでますが、ぶどうが幾株かにまじっていろんな種類の果樹が植えてある。それを見まわるのだが、よく熟している。ぶどう狩りをしたあのすばらしかった日々を思い出します。」(※18421016日付)

アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳

『ショパンの手紙』(白水社)より

 

ここでニコラが思い出している「あのすばらしかった日々」とは、一体いつの事を言っているのだろうか? 

同じ日付の、妹イザベラの手紙にこうある。

 

「お父さんは、葡萄畑が豊作になったので、子供達や孫達が葡萄狩りをするのを見て喜んでいます。この小さな庭が両親や私達にとってどれほどの楽しみとなっているか、あなたには信じられないでしょう。」

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

これを見ると、ニコラは明らかに葡萄作りのコツを知っていて、しかもその技術も高かった様子がうかがえる。これは、その昔彼が実家の家業を継ぐべく教育されていた事の証しと言えるのではないだろうか? という事は、「あのすばらしかった日々」とは、マランヴィルでのニコラの少年時代を指していると考えて良いのではないだろうか? 

つまりニコラ自身が、自分の父フランソワに連れられて祖父の実家で「ぶどう狩り」をして楽しんだという「思い出」である。しかもイザベラは兄に向かって、「あなたには信じられないでしょう」と書いている。この書き方はつまり、フレデリックがいたワルシャワ時代には、この家族では「葡萄狩り」をした事がないという事を示唆している。もしも彼等がそのすばらしかった日々を共有しているのなら、イザベラは決して「信じられないでしょう」とは書かず、「あなたにも想像出来るでしょう」と書くはずだからである。

 

ニコラのこの「葡萄畑」は、彼が年金生活を送っていた晩年に、彼の老後の楽しみとして「小さな庭」で行われていたものだが、ニコラがそれを仕事として手伝っていたマランヴィルの少年時代では、当然それは肉体労働であった。父フランソワの「車大工」にしてもやはりそうだ。要するにそれらはどれも、ニコラの持って生まれた資質にとって、決して適正な仕事とは言えないものだったのだ。ニコラが一般と同じように13歳で修行を始めたとなると、彼がマランヴィルで仕事に従事していたのは16歳で祖国を発つまでのたった3年弱である。これではそれほど多くの事も望めまいが、自分の適性を判断するには十分だろう。

 

 

このようにして、実際に父の仕事や祖父の仕事を見たり手伝ったりした経験があるからこそ、この少年の旺盛な知的好奇心は、自分が肉体労働よりも知的労働に向いていて、そして出来る事ならその方面の仕事に就きたいという望みを、いつの日からか、心の何処かに抱かせるようになっていったのではないだろうか? そしてそれが彼を、ヴェイドリヒの営む文化的で教養溢れる家庭に対する関心へと導いていき、またヴェイドリヒの方でも、そんな少年ニコラに対して好意を持って接するようになっていったのではないだろうか? 

 


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7.何故ポーランドへ渡ったのか?(その1)――
  7. Why did Nicolas Chopin leave for Poland?(part 1)-

 

 

ところが、である。この時代のニコラが、この時代のフランスで、仮に教職などに就く事が可能だったとしても、(事実、決して不可能な事でもなかった)、その仕事の実態がどのようなものだったかと言えば、実は、とても彼が憧れ得るような代物とは言い難かったのである。その実態を知る事もまた、彼のポーランド行きの謎を解くためのヒントとなる。以下がその実態である。

 

「大革命前のフランスには、教師を専門に養成する機関はなかった。いわゆる教師としての専門教育をうけた人間は存在しなかったのである。そこで、アンシャン・レジーム期以前にあっては、もっぱら司祭あるいは助祭が民衆初等教育を担当した。しかし、十六世紀以降になると俗人が学校経営者すなわち教師として登場するようになった。…(略)…司祭や助祭には固有の仕事が多数あり、司教の度重なる勧めにもかかわらず、なかなか司祭あるいは助任司祭自身が「プチト・エコール」に関係することは困難な事情があったのである。もちろん、俗人が教師となるためには、教師を求めている市町村の行なう試験をうけ、そのうえで司教の承認を得ねばならなかった。たとえばマチウはロレーヌ地方での教師採用試験の模様を、その著「アンシャン・レジームのロレーヌ」の中で次のように書いている。

 

教師志望者は、手に入れることのできた好都合な文書やあらゆる証明書類を持参して、教師を求めている村が教師を選定する日に出かけていく。そこで彼は歌を歌い、字を書き、すべての彼の才能を披露する。そして採用を許可されれば契約条件を取り決めて契約書に署名する。

 

…(略)…報酬、授業料ともに、金銭とは限らず、麦などの原物によって支払われることもあった。しかし概して教師の収入は乏しく、彼らは通常他の仕事を兼ねていた。最も多かったのは教会の仕事との兼務であった。…(略)…

教師の身分は、このようにみじめであったが、それと同時にきわめて不安定なものであった。教師の選定を行なうことのできたコミューン(※市町村からなる地方自治体の最小単位)の住民総会は、同時にまた教師の更迭罷免の問題をも取扱った。ところが教師たちは一般にコミューンの人たちからは「よそもの」とみられていた。「教師たちは市民とはみなされず、よそ者と考えられていた。だからコミューンの会議には入れてもらえなかった。放浪者や身分不明の人と同様に、彼らはいかなる決議権も有さなかった」のである。

こうした事情から教師がその職務にとどまり、あるいは有利に契約を更新するためには、コミューンの有力者に働きかけることも必要であった。当時の記録によれば、学校の教師は酒やブランデーを贈って、コミューンの有力者のごきげんをとりむすび、毎年賃金を更新したことも記されている。要するに、教師たちはコミューンの行政担当者や、富者や勢力ある人たちに従属し、司祭の下僕的役割をつとめていたのである。司祭の中には学校の教師を「わたしの教師」と呼んだものさえいた。教師には国家から何の保障も与えられず、またいかなる支援も受けなかったのである。このような状況の中で、いかにすれば教職に立派な人材を求めることができたであろうか。けだしそれは木によって魚を求めるにも似た至難のわざであった。

質の悪い教師に加えて、「プチト・エコール」の施設や設備がまたきわめて不十分なものであった。教場に充当された建物はしばしばわらぶきか、かやぶきの粗末な小屋であったり、また時としては所定の場所がなかったり、さらには納屋や、地下の穴蔵や牛小屋や馬小屋であったりした。多くの場合、一軒の家が教師の住居兼教場用に使用された。」

梅根悟監修/世界教育史研究会編

『世界教育史体系9/フランス教育史T』(講談社)より

 

 

      ニコラが「プチト・エコール」に通っていた場合、そこで直接、間接を問わず教育に携わっていたのが、彼の手紙に書かれている「司祭様」であった事がここからはっきりと裏付けられる。ニコラの手紙には「教師」という言葉は出てこない。したがって、ニコラの「プチト・エコ−ル」に教師がいたにせよいなかったにせよ、少なくともニコラと信頼関係にあったのはあくまでもこの「司祭様」だけだった。私が、この「司祭様」が手紙の代読や返事の代筆を請け負っていた可能性を指摘するのは、こういった事からである。

      ここに書かれている「コミューンの行政担当者」というのが、「マランヴィルの管理者」に該当するものと考えてよい。これを見ても、フランソワがこの地位にいたなどとは、到底想像出来ないだろう。

      しかしこんな環境下にあっても尚、「俗人」「学校の教師」という仕事にしがみ付くだけの価値は十分にあった。それは、仕事の内容そのものとは直接関係ないのでこの著書にすら記載されていないが、実は当時、「学校の教師」は兵役が免除され得たのである。しかしそれについては後述する。

 

引用が長大になってしまうので、これでも半分近く割愛したが、要するに、それほど当時のフランスの教育環境は劣悪なものだったのである。つまりニコラがその少年時代に通っていたであろう「プチト・エコール」の教師達の姿がここにあり、それを見て育ったであろう彼が、純粋にそのような仕事に憧れるというのもちょっと考え難いのだ。何度も言うように、ニコラは「中等学校(コレージュ)」以降の教育の場には縁がなかったのだから尚更だ。この事からも、とても教職を目指していたとは思えないフランス時代のニコラが、当時から既に、分不相応に高度な教育を施される理由が何処にも見出せない事が分かるのである。たとえ彼の知的好奇心は旺盛だったにしても、社会情勢のせいで苦境に立たされていた家族を見捨ててまで、就きたいと思える仕事ではなかったという訳だ。

 

だがしかし、これがフランスではなく、ポーランドでだったらどうだろうか? ポーランドの貴族や裕福な家庭の子息相手にフランス語を教える家庭教師だったら? それならフランスに比べればまだそんなに悪い話ではなかったし、現にそれで生計を立てているフランス人はたくさんいた。そのような話をいつしかヴェイドリヒから聞かされたであろうあたりから、彼の心に小さな葛藤が芽生え始めていた可能性はある。

 

「一七八一〜一七九〇年のあいだ、年間およそ一万七〇〇〇人の生徒が七四の中等学校に通っていた。多くの学校ではシュラフタ(※ポーランドにおける士族、貴族階級)以上の階級出身者が全生徒数の半数以上を占めていた。しかし、イエズス会やピアル派の学校と比較すると全生徒の数は、再編成によってひきおこされた組織や財政の困難の結果として落ちこんでいた。富裕なシュラフタの息子たちのなかでは、自宅で勉強するものも多く、外国に留学するものも少なくなかった。」

ステファン・キェニェーヴィチ編/加藤一夫・水島孝生共訳

『ポーランド史@』(恒文社)より

 

 

そして一方で、ヴェイドリヒ自身もまた、ワルシャワでの新しい人生に具体的なプランを抱いていたのである。それがあったからこそ彼は、ルイ16世から与えられた「市民権」やあらゆる「特権」を捨ててまで、第二の祖国を去る決心がついたのだ。

 

「アダム・ヴェイドリヒの弟フランチシェクは、士官候補生学校としても知られる騎士養成学校(「騎士の学校」)の教師をしていた。彼はヴェイドリヒ家に宿泊所を与えるため、自身は騎士養成学校の本部として用いられたカジミエシュ宮殿の敷地内の居住区である「士官候補生用の別棟」に移り、彼等にはクラコフスキェ・プシェドミェシチェ通り(土地台帳では406番地、現在の1番地)にある「宣教師の家」の彼のアパートを残した。これは、1792年からの居住者リストによって証明された、ポーランドにおけるニコラ・ショパンの「最初に記録された住所」として明るみに出た記録文書である。しかしながら、もう一つの記録文書は、ヴェイドリヒ家とショパンとの「初期の運命」を証言しているかもしれない。アダム・ヴェイドリヒは、ワルシャワに到着してから数ヵ月後の1788年の早春に、「女子のための全寮制学校」を建てているのである。それはノヴィ・シフィヤト(土地台帳では1259番地、現在の33番地)にあるアウグスチヌス修道院の中で、おそらく若いフランス人もまた、そこでまかないと雇用を見付け、約4年後まではヴェイドリヒ家と共に生活していたと考えられる。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する20067月の記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

1.         まず第一に、ヴェイドリヒには、ワルシャワで「教師」をしていた「弟フランチシェク」という伝手があった。

2.         第二に、彼には自分も教育者として文化的生活に身を投じたいという希望があった。

3.         そして第三に、これらの環境が、ニコラにも「仕事と勉学の機会」を無理なく同時に与える事が出来、彼の希望を叶えてやるのにも打って付けだと考えられた。

 

つまりこれが、パッツ伯爵の死をきっかけに、ヴェイドリヒがその後34ヶ月の間に思いを巡らせた今後の人生設計であり、同時に、ニコラにポーランドへ渡る「動機」を与えるに至った具体的な提案である。

 

しかしながら、誰もが言うところの「ポーランドへの憧れ」が額面通りに受け取れないのもこの点にある。

 

何故なら、何度も言うように、当時のポーランドは依然として、隣接するプロシア、オーストリア、ロシアという大国から虎視眈々と領土を狙われており、外交上は、革命以前のフランス以上に、常に緊張状態にさらされていたのである。それにも関わらずヴェイドリヒが、今回フランスの社会情勢と照らし合わせて、かつて自ら亡命して捨て去ったはずのポーランドに戻る事に決めたのは、何を置いてもまず、そこに頼るべき兄弟が残っていたからなのである。そしてニコラにしてみれば、彼は単にそのヴェイドリヒに付いて行ったに過ぎず、元々ニコラ個人には、自分の意思だけで「ポーランド行き」を望むような根拠もなければ、その伝手すら全くなかったのだ。

全てはヴェイドリヒが「渡りに船」となった事の結果でしかなく、要するに、たとえばそれがドイツだったら彼はドイツに行っていたし、イタリアならイタリアに行っていただけの話、と言える一方、それ以上に、ヴェイドリヒがいなければ、ニコラはフランスを出る事すらあり得なかった事になるからである。

「ポーランドへ渡る」理由を持っていたのはあくまでもヴェイドリヒであり、ヴェイドリヒにとっては「ポーランド」でなければならない理由があった。だがしかし、ニコラにあったのは、あくまでも「フランスを出る」理由だけであり、ニコラにとっての「ポーランド」とは、あくまでもヴェイドリヒに随伴した事の結果でしかない。

 

「凶作がますます早く相ついでおこった。貯蔵はもちろん跡方さえ残さずに消えてしまった。だからもし凶作が不意におこれば、その時には恐るべき窮乏がやってくるのは、さけられなかった。このような時には、多くの農民にとって、経営を続行することはできなかった。かれらは家を捨てた。…(略)…

そして農民の数が減少した一方、その貢租の総額は急速に増大し、それはますます少なくなる人数にわりあてられた。ついには、多くの農業地域から全住民が逃亡する心配さえおこったが、これはおどろくべきことではなかった。しかしどこへ? 当時外国への移住は、農民にとってほとんど不可能であった。」

カール・カウツキー著/堀江英一・山口和男訳

『フランス革命時代における階級対立』(岩波書店)より

 

 

      仮にどんなに「ポーランドへの憧れ」が強かったにしても、ニコラ個人にもその家族にも、何一つとして出来る事などなかったのである。

 

 

だが、それでもやはりまだ、それだけでは家族を残して祖国を発つまでには至らない。

ニコラには、将来の息子フレデリックのような、予め全てを約束されたかのような「天賦の才」もなければ、その「希望」を人々に訴えながら生きて来られた訳でもなかった。だからこそもう一つ決定的な何かが、この「田舎の職人の跡取り息子」の背中を押さなければならないのだ。

 

それは何か?

 


【▲】 【頁頭】 【▼】

8.何故ポーランドへ渡ったのか?(その2)――
  8. Why did Nicolas Chopin leave for Poland?(part 2)-

 

 

それは、迫り来る革命の気運と時を同じくして、皮肉にもニコラの身に迫っていた「義勇軍(市民兵)」への徴兵年齢である。

 

ニコラの手紙にも書いてあったように、「18歳以上の若い独身者は皆兵士になる」、という現実である。ニコラは祖国フランスへ一時帰国する際、徴兵されてワルシャワへ戻れなくなることを怖れていた。つまり、ニコラは最初から、兵役逃れのために祖国フランスを発ったのではないだろうか?という可能性が大いに考えられるのである。

 

農民は兵籍加入を免がれるために、手足を傷けたり、山や森に逃げ隠れたが、武器をもって追跡されなければならなかった。」

安達新十郎著

『大革命当事のフランス農業と経済―アーサー・ヤング『フランス旅行記』の研究』(多賀出版)より

 

 

徴兵に関するこのような話は、古今東西にわたって実際に枚挙に暇のない事なので、最も大きな理由の一つとしてその可能性は非常に高いと言えるだろう。

 

それでは、ニコラは兵役逃れのために外国へ渡ったのだろうか?

 

しかし、いかにもありそうな話だからと言って結論を急ぐのも危険だ。と言うのも、実は18歳以上の若い独身者は」―「皆」―「兵士になる」というニコラ自身のこの認識は、彼が出国した後の、あくまでも革命の翌1790年時点での風説であって、少なくともニコラが革命前にフランスを発った時点では、ロレーヌではこのように「究極的に厳しい」徴兵規則は布かれていなかったからである。

ニコラにこのような風説をもたらしたのは、勿論この前年の1789年の革命勃発に端を発している。

 

「「上奏書が空前の不正と呼んでいる軍役に関する兵籍加入は農民に関する、もう一つの恐ろしい鞭であった。そして、既婚の男子はそれより免がれたので、餓死するよりも他に少しものを得んがために世に生れるその有害な人口を、或る程度、引き起した。」

注 フランスの軍隊は、一七八九年、約六万人の軍役によって補充されていた。男子は抽籤(ちゅうせん)によって選ばれ、各地方はその割合に寄与する様に強制されたが、全特権階級は兵役を免がれ、義務はすべて農民の負うところとなった。」

安達新十郎著

『大革命当事のフランス農業と経済―アーサー・ヤング『フランス旅行記』の研究』(多賀出版)より

 

 

しかしここに至ってもまだ、必ずしも18歳以上の独身者がすべて徴兵されていた訳ではない。したがって、ニコラの言う18歳以上の若い独身者は」―「皆」という条件が現実のものとなるのは、実は手紙が書かれてから約2年半後の事なのである。

 

「一七九三年二月、国民公会は兵役法を発布したが、それは十八歳以上四〇歳未満のすべての未婚のフランス人の兵役義務を定めた。ただし代理はみとめられた。」

カール・カウツキー著/堀江英一・山口和男訳

『フランス革命時代における階級対立』(岩波書店)より

 

 

      ここにある「代理」とは、「兵役の身代わりを買収するゆとり」(※アラン・コルバン著『記録を残さなかった男の歴史』より)を持つ特権階級にのみ有効な手立てだった。つまり、金持ちが貧乏人に向かって、「自分の代わりに兵隊に行ってくれれば、それ相応の謝礼はする」という訳だが、その謝礼も「もしも生きて戻れたら」の話で、そうでない場合はその遺族がその恩恵に預かった。

 

この頃には、イギリスを中心に第一次対仏同盟が組まれ、フランス革命政府はヨーロッパ各国の干渉に対して戦争で対抗していた、いわゆる「フランス革命戦争」の真っ只中だったのだから、このように条件が厳しくても不思議ではないし、ある意味仕方のない事だったとも言える。

 

さて、それでは革命前の、つまりニコラの出国前の、それもロレーヌにおいてはどうだったのだろうか?

これに関しては、マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』によると、ロレーヌでは基本的に、まず「18歳から40歳までの男子と男やもめで、靴を履いていない状態で身長が5フィート以上ある者」(※同書より)が集められ、「代理長官の前でクジ引きで抽選して任命」(※同上)されていたと書かれている。

 

「それと平行して、代理長官に以下のような指示も与えた。

『…適正を偽ったり、または同情を買って免除を要求する行為が広まる事に警戒するように。何故なら、不正な免除を許した地域では間違いなく反抗する者が現れ、たとえ内心はその理由に反対し得なくとも、厳罰を強要する事になるからである。男の靴を脱がせて5フィートある者は免除しないように。さもなければ当方で退役させるので、貴君は2度目の抽選で後任の備えをしておくように。…』。」

マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』

(Mathieu/L'ANCIEN RÉGIME DANS LA PROVINCE DE LORRAINE ET BARROISより

 

ちなみに5フィート」は約152cmなので、兵役に就く成人男性に要求する身長としてはかなり低い設定基準と思われるだろうが、昔の人の平均身長は、欧米人においても現在のそれとは違っていた。それについては、アラン・コルバン著『記録を残さなかった男の歴史』にこうある。

 

「ピナゴがどんな身体つきをしていたかは、何もわかっていない。唯一わかっているのは、身長が一メートル六六センチだった、つまり背が高かったということだけである。この数字が、高い背丈を意味するのだと納得するには、一八〇二年から一八〇九年の間にモルターニュ郡で検査を受けた新兵の背丈や、一八一九年のクラス(*この年に十八歳になる青年の集まり。同年兵。徴兵に関連してよく使われる語で、学校の「クラス」とは無関係である)に属する、ベレーム小郡の若者の背丈を、彼の背丈を比べれば済む。」

アラン・コルバン著/渡辺響子訳

『記録を残さなかった男の歴史 ある木靴職人の世界 17981876』(藤原書店)より

 

 

      こう考えるとフレデリック・ショパンの170cmは相当高かったという事にもなる訳だが、虚弱体質というイメージがあるだけに意外といえば意外だ。また、これによって父ニコラが少なくとも152cm以上だった事も分かる訳だが、息子の身長を考えると彼もまた長身だった可能性は高い。

 

確かに出国前のロレーヌにおいても18歳以上の若い独身者」が徴兵対象だったのは間違いないが、やはり必ずしもそれが「皆」「兵士になる」訳ではなかった。

ニコラやマランヴィルのショパン家にそれが可能だったかどうかは別として、「兵役の身代わりを買収する」以外にも兵役が免除される可能性は多少なりとも模索出来たし、たとえそれが適わなくとも、市民兵はその中から更に「クジ引きで抽選」されていたのである。つまり最終的には「運次第」だったのだ。

したがって、手紙に書かれているニコラの感情は、あくまでも彼が19歳当時のものであって、それがそのまま16歳当時のものだったとは限らない事になる。

 

そして、以下が兵役免除の対象となる、つまりクジを引かなくても済むための諸条件だが、ニコラがこのいずれかにでも該当しさえすれば、彼は兵役逃れのために祖国を棄てる必要もなかった事になる訳だ。

      ちなみに、この中で私が下線を引いた項目は、多くのショパン伝でフランス時代のニコラが「こうだった」とされている伝説から、「それならばこれは該当し得るのでは?」と考えたものである。

 

「免除の事例は、革命まで2つの条例によって示された。1774年のフランス全土への一般条例と、1775年のロレーヌへの特別条例である。…(略)…

一般条例が免除したのは、教会の仮司祭(牧師補)、聖職者、王と王妃の血筋の者、王家と食卓を共にする者、あらゆる種類の長官、司法と財務関連の士官の息子、徴税請負事務所の職員、人頭税の徴収人、20分の1税を徴収する役人、代理長官とその子供、地方長官の事務所の使用人、橋と舗道の職員、郵便局の責任者、郵便配達夫、硝石製造人、種馬飼養所の番人、内科医と外科医、学校の教師、年齢が30歳で、司教に承認された者。この他、ロレーヌで免除されていたのは以下の通りである。

ラブルール(※農業家、自営農、独立耕作農民。土地を最も沢山もっていて、その所有面積だけでも自分の要求を充分に満たす事の出来た階層)の息子、または召使(使用人)

聖職者と貴族の利益のために働く召使(使用人)

自ら犂(※牛や馬に引かせて田畑を耕す農具)を使って耕作している男子。

男やもめ、もしくは未亡人となった粉屋の息子、または召使(使用人)。

粉屋自身、もしも彼が助成金を50リーヴル支払っている場合。

領主、穀物の支払いで農場を貸し与える大地主、あるいはコミュニティの羊飼いで、羊、または雌牛の母親を300頭管理している者。

助成金を60リーヴル支払っている卸売商人。

卸売商人の仲介人とその息子。

村の小商店主と職人で、個人的に助成金を60リーヴル支払っている者。

助成金を100リーヴル支払っている小商店主の息子の一人で、彼がそれを商売としていた場合。

助成金を40リーヴル支払っている未亡人の長男で、仕事場を持って彼女と共に暮らしている者。

内科医、外科医、薬剤師、軍医、3年前から軍の病院に随行している外科医と薬剤師の奉公人。

村のコミュニティに属する薬剤師の奉公人で、30年勤めてその技術を理解している者、配剤経験が3年ある者、ただしその主人または未亡人がその仕事を継ぐ息子を持っていない場合に限る。

国王の庭師の息子で、その仕事をしている者。

鉄工所の責任者。

鋳造工、鍛造工、精錬工、プラチナの鍍金工で、3年以上工場にいる者。

毛織物工場の主人、使用人、主な労働者。

製陶所、ガラス工場、製紙工場、製塩所の責任者と主な労働者で、抽選の3ヶ月前から働いていてこれらの責任者から請求を受けている者。

生まれつき外国人である者。

父親も母親もいない男子で、18歳以下の姉妹が一人でも一緒に暮らしている者。

ポーランド国王と食卓を共にする者、仕官、そして彼らの子供達。(※このポーランド国王とは、勿論最後のロレーヌ公スタニスラスを指すのだが、彼は既に1766年に亡くなっており、それと同時にロレーヌ公国もフランス王国に返還されているので、したがってこれは、1775年のこの条例発布時においても、当然まだスタニスラスへの恩恵が生きていたという事である)

領主の弁護士から依頼された者。」

マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』

(Mathieu/L'ANCIEN RÉGIME DANS LA PROVINCE DE LORRAINE ET BARROISより

 

逆に言うと、仮にニコラが兵役逃れのために外国へ渡ったとするなら、16歳当時の彼(すなわちパッツ伯爵が領主ではなくなり、ヴェイドリヒもポーランドへ帰るという状況下におけるニコラ)は、このいずれの免除条件にも該当していなかった事になる。

つまり、父フランソワが「マランヴィルの管理者」だったとか、「車大工の親方」だったとか、「パッツ伯爵またはヴェイドリヒの使用人」だった等の逸話が、これで完全に否定され得る訳だ。

なぜなら、ショパン家の身分がそのように高かったのなら、当然ニコラは、自動的に兵役免除の施しが受けられたからである。しかし実際はそうではなかったからこそ、ニコラは兵役免除の道を模索しなければならなかったのだ。

 

それでは、徴兵年齢を2年後に控えたニコラが、来るべき自分の兵役に対してどのような感情を抱いていたかを推し量るため、もう少しロレーヌにおける徴兵制の歴史を遡ってみよう。実はロレーヌは、その特殊な歴史的事情により、他の地方に比べても徴兵が厳しかった事が分かるのである。

 

フランス革命は、しばしば徴兵のせいで非難される。それは革命前において、新しい、そして未知の重荷として当時の人々に強制された事であろう。ロレーヌに関しては、この主張はすべて根も葉もない事ではない。18世紀の大部分を通じて、ナンシー、バール公国、リュネヴィルで、すべての委任事務において、彼等(市民兵)は抽選された。すでにレオポルト(※ロレーヌ公在位16901729年)の時代に、彼が1726年に再編成した連隊によってその運命は立ち上げられた。しかしこの君主とその後継者(※フランソワ3世。ロレーヌ公在位17291737年。のちの神聖ローマ皇帝フランツ1世)はほとんど少しの警備員しか持たず、2つの公領(※ロレーヌ公国とバール公国)に対してはすべての軍の負担が免除されており、彼等の治世の主な善行の一つだった。

スタニスラス(※ロレーヌ公在位17371766の治世の下では、フランスの同盟に伴いオーストリア継承戦争(※17401748と七年戦争(※17561763という二つの戦争に参加する事を余儀なくされたため、義勇軍(市民兵)の徴兵が繰り返され、無慈悲なムチのようにロレーヌの人々に重くのしかかったスタニスラスは、実際、中立の立場を保つほど十分には独立していなかった。そして彼はフランス軍の利益のために、男達、調達品、食料などを首相に開放し、2つの公領(※ロレーヌ公国とバール公国)を疲弊させた。

マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』

(Mathieu/L'ANCIEN RÉGIME DANS LA PROVINCE DE LORRAINE ET BARROISより

 

おそらく本稿の読者のほとんどが、あまたのショパン伝におけるニコラの項目で、初めてロレーヌ公「スタニスラス・レシチンスキ」の名を知り、その人徳や善政を称える文章を目にした事だろう。

そしてそれはある意味紛れもない事実である。だからこそポーランドの作家達は、それのみを根拠に、こぞってニコラの「ポーランドへの憧れ」を主張し得る訳なのだ。

だがしかし、その「スタニスラス」とて所詮は封建時代の「時の権力者」でしかなく、どんな名君でもその治世に「光と影」の両方を持たぬ者はいない。彼は「ポーランド継承戦争17331735)」に敗れて祖国を追われた元ポーランド国王で、その後幸運にも娘の結婚によってフランスのルイ15世の義父となり、復権の時を窺いながらも再び敗れ、またしても幸運にも娘婿であるフランス国王ルイ15世からロレーヌ公の地位を授かるに至ったような身分である。

もしも彼の人徳が厚いというのであれば、それは当然ルイ15世への忠義として、上記のような結果となって現れるのだ。このように、どんな名君であれ、きれいごとだけで世を治める事など、誰にも出来はしないのである。

 

さて、それでは、元ポーランド王「スタニスラス」の光と影を、歴史的かつ体験的に知っていたニコラやその家族が、その「スタニスラス」を根拠に果たして、どれほど「ポーランドへの憧れ」という幻想を抱き得るであろうか?

 

「スタニスラス」の施した恩恵とは、そのほとんどが貴族やブルジョワジーなど特権階級に向けられたものであって、そんな彼を称える文章を書き残したヴォルテールのような「ヴォーカル・マイノリティー(声の大きな少数者)」も所詮そこに属する者でしかない。

ニコラ達のような最下層身分の「サイレント・マジョリティー(物言わぬ大衆)」にとっては、「スタニスラス」はその忠義ゆえに、他の地方以上に重い税を取り立て「無慈悲」に徴兵するだけの「絶対君主」として記憶されていた可能性の方がはるかに高い、という事実を、我々は知らなければならない。

 

「光と影」…、言うまでもなく、歴史もしくは歴史上の人物について語ろうとする時、必ずこの点に留意しておかないと、確実に議論は盲目化する。人は、「光」だけの世界でも、「影」だけの世界でも、決してものを見る事は出来ないのだ。

 

それでは、ポーランド人作家達が決して見ようとはしない、「スタニスラス」のその「影」の部分をもう少し具体的に見てみよう。

 

17411748年には更に、13145人の男達が、自発的であるか半強制的であるかに関わらず、彼等の前の統治者である皇帝フランツ1世と戦うために地方長官の命令によって集められ、このレオポルトの息子は再び嘆き悲しむ事となった。

同時に、あらゆる種類の要求がコミュニティを嘆き悲しませた。農民達は彼等の干草、わら、牛を調達する事を強制され、それを運ぶため自ら遠方まで護送に出かけ、それで彼等の馬の多くが死んだ。

七年戦争は同様の窮乏を呼び戻した。教区司祭の助けを借りて会計監査室で作成された1762年の調査書には、それこそ行政区を減らすほどの、最も悲惨な詳述で満ち溢れていた。

ラヌーヴィルの司祭が書いたところによると、『90戸の家庭で構成される教区では、国王に奉仕するために20人以上の男子が取られ、私の教区の多くの農夫が、主に市民兵の抽選によって、あるいは義務上もしくは不意打ちの奉仕活動によって使用人や家族の男子が不足し、破滅させられた』。フーヴィルでは市民兵のせいで、まだ畑を深く耕す事も出来ないような男の子や女の子まで農夫として使わなければならなかった。アズロでは、土地の農産物の減少と被害にまで及び、『市民兵の召集兵数は村の男子の人口を激減させた』。ボクシエル=オ=シーンの教区司祭は、『市民兵に駆り出された男子の数が多いために、良い使用人を持つ事も困難である』と、同様の影響を書き留めている。

ゴンドルヴィルの教区司祭は、ヴァージルの有名な韻文を思い出させる記事を加えている。

『私は、一つの馬鍬を引いている一人の男と一人の女に会った。農夫、あるいは馬を見出す事が可能であるとは』。」

マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』

(Mathieu/L'ANCIEN RÉGIME DANS LA PROVINCE DE LORRAINE ET BARROISより

 

ニコラの父フランソワが18歳の徴兵年齢を迎えたのは1756年、つまりちょうどこの「七年戦争」が始まった年である。

この皮肉なめぐり合わせは一体どうだろうか? 何とフランソワは、自分の息子ニコラが、ちょうどフランス革命と同じ年に徴兵年齢を迎えてしまったのと、全く同じ運命を体験していたのである。

これを見る限り、圧倒的多数である最下層身分の人々は、少なくとも「スタニスラスの治世」よりも、先代の「フランソワ3世(「皇帝フランツ1世」)」や、その父「レオポルト」の時代を、さぞ懐かしんでいた事だろう。

 

では、そのスタニスラス亡き後、ロレーヌ公国がフランスに返還されて以降はどうだったのだろうか。つまりそれがニコラの時代である。

 

17661789(※ロレーヌ返還から革命)までについては、負担は終わる事も和らぐ事もなく、それどころか余計に重くなった。この期間中に、ロレーヌとバロワはそれぞれ710人の男達で4つの大隊を供給し、6年間勤めさせたので、必然的に、毎年6分の1ずつが新たに補充される運命にあった。…(略)…その6分の1の人数は、死亡によって必然的に幾分か変化した。様々な委任権を持つ地方長官によって委任を受けた代理人が、抽選するために、地域ごとにその追加の徴集定員を割り当てた。」

マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』

(Mathieu/L'ANCIEN RÉGIME DANS LA PROVINCE DE LORRAINE ET BARROISより

 

      ちなみにフランソワは1769年の31歳当時に結婚しているので、それが初婚なら、彼は18歳から25歳までの間のどこかで6年間」兵役に就いていた可能性も出てくる。これも調べれば簡単に分かる事なのだが、仮に兵役に就いていなかったとしても、少なくとも彼は、間違いなく結婚までの13年間、毎年クジを引かされ続けていた事になる。彼はその年月の経験を、息子ニコラに、果たしてどのように語っていたのだろうか…。

 

イングランドの有名な農業(経済)研究家アーサー・ヤングは、革命当時のフランスを訪れ、その著書に、当時のフランスの徴兵について、既婚の男子はそれより免がれたので、餓死するよりも他に少しものを得んがために世に生れるその有害な人口を、或る程度、引き起した」と書いていた。

これは要するに、兵役逃れのために無理やり結婚してしまうという事を意味しているのだが、これは同時に、何の特権も持たぬ貧民層に出来た唯一にして絶対的な「正当な」兵役免除の手段だった。しかしこれはあまり現実的でないばかりか、全くもって「利口な」やり方ではなかった。フランソワもニコラもこの手段は決して選ばなかったし、それどころか彼等はどちらも晩婚だった。フランソワは31歳で結婚し、その息子ニコラも将来ポーランドで35歳になるまで独身でいたが、実はこのような晩婚は、当時の彼等の階層においては非常に現実的で、極めて「堅実な」人生を歩んでいた典型と言えるのである。

 

たとえばフランソワ・ルブラン著『アンシアン・レジーム期の結婚生活』にはこうある。

 

…(略)…だが反面、経済的な状況がととのっていないときには、結婚はできない。つまり、所帯を維持できて、生まれてくる子どもを養えるようになったときにしか、結婚はできない。したがって、最低限必要な金がすこしずつたまるのを待ったり、父親から農地を相続したり小さな店を継いだりするのを待つのだ。…(略)…

以上のようなさまざまな点を見わたしてはじめて、平均初婚年齢という数値がもつ意味の全体がわかる。というのも、平均初婚年齢は、王侯貴族の結婚を根拠にして長い間信じられてきたより、はるかに高いのだ。たしかに、たとえば名門貴族においては、平均で男性が二一歳、女性が十八歳で結婚しているのだから、早婚が慣例だったといえる。また、ブザンソソの高等法院メンバーについてみれば、彼らの平均婚姻年齢は三〇歳二ヵ月ではあるが、彼らの妻は若く、平均で二一歳九ヵ月である。しかし、このような生まれや財産において特権的な少数派や、まだよく知られていないいくつかの地方的な例外(女性の大半が二一歳未満で結婚しているリモージュの南の農村部のように)を別にすれば、十七、十八世紀のフランスにおける平均初婚年齢は、都市においても農村においても、男性で二七歳〜二八歳、女性で二五歳〜二六歳である。このような晩婚傾向は、十八世紀を通じて強まるばかりであり、多くの数値のなかから選んで上に掲げる数値がそのことを十分に実証している。…(略)…

婚姻年齢の上昇は、むしろ、中世末期における「ふくれあがる世界の脅威」に対する反応だったのだろう。つまり、婚姻年齢の上昇は、食糧の総量が増加しないのに人口がふえすぎたという深刻な状況に対する、マルサス主義的な反応だったのだ。二七歳ないし二五歳になるまで結婚しないという、若い男女個々人の行動様式は、この社会全体の反応の一側面とみなされるべきである。なぜなら、彼らはその年齢までかかって、結婚して一人前になるための条件をととのえたのだから。」

フランソワ・ルブラン著/藤田苑子訳

『アンシアン・レジーム期の結婚生活』(慶應義塾大学出版会)より

 

 

こうして見ると、フランソワやニコラが結婚した年齢というのが、そのまま、彼等が「一人前になるための条件をととのえた」時だったと見なす事も出来るし、おそらくそう考えて間違いないだろう。つまり彼等は、たとえ兵役を逃れたいからと言って、それだけの理由で、それと同等かそれ以上に自殺行為かもしれない極貧生活に身を落とすほど、愚かでも衝動的でもなかったという事だ。

しかしそれは、当時にあっても極めて平均的な人々の考え方だった。しかし同時にまた、フランソワもニコラも、(勿論両者の事情はそれぞれに違うが)、彼等は平均よりも「一人前になるための条件をととのえた」のが遅かったと言う事も出来るのである。つまりそれは、彼等が、「父親から農地を相続したり小さな店を継いだりするのを待つ」事を運任せに期待するより、あくまでも自力で、「最低限必要な金がすこしずつたまるのを待ったり」するような身分だった事を示唆している。

 

 

このような環境下にあっては、ニコラでなくとも、ロレーヌに暮らす人々が特に心理的に不条理なものを感じていたとしても無理はないだろう。つまりその不公平感が、ニコラの「兵役逃れ」に対する強迫観念を煽る結果にもなった可能性はある。

そしてこれが平穏時であれば、ニコラもそれほど「兵役逃れ」に固執はしなかったかもしれない。だがこの時期ばかりは、徴兵されれば実戦は避けられないだろう事が容易に想像出来た。何しろフランス中の様々な地方で、それも特に農村地帯を中心にして、正にそのような暗雲が立ち込めていたのだ。

 

フランスの農民は、一七八九年に向けて、二重の圧迫をうけていた。すなわち、彼らは、一方では、特権身分の土地を賃借する者として、小作料の騰貴に堪え忍ばねばならなかったと共に、他方では、世襲的な土地保有農民として、領主制的反動から打撃をうけ、滞納地代を支払い、規則的に地代を支払い、すでに衰滅していた諸賦課の弁済を強制されていた。…(略)

領主制的反動の影響はたちどころに現われてきた。疑いもなく、この領主制的反動がフランス革命前夜の農業騒擾を惹き起したのである。一七八八年十月三日に、州知事のベルトラン・ド・モルヴィルがネッケル(※フランス革命前後に財務総監として財政改革にあたった政治家)に差出した報告書は、これらの騒擾の本来の性格をわれわれに示している。彼の言によれば、この一揆が起ったのは、飢饉による不安とか煽動者の影響とかに由来するのではなくて、民衆が貴族階級に対していだいていた憎悪――この憎悪は、一七八九年ごろに、もっとも激しくなったのであるが――に由来するものであった。彼は次のように説明している。『民衆のこうした激しい感情の動きは、貧窮から生じるのではなくて、封建制の重みで圧しつぶされた農民が、総じて、貴族階級や大土地所有者層に対して憤懣をいだいていたことから生じているように思われる。われわれは、この憤顧の過激化してゆく方向から、民衆がどのような面に不満をいだいていたのであるかということを認識することができる。すなわち、この方向から、民衆が次第に苛酷化する封建制度に従属せしめられていたことを知りうるし、さらにまた、彼らが租税のほとんど大部分を支払っていたことをも知ることができるのである』と。しかし、彼は続けて次のようにつけ加えている。『民衆の心の中に芽生えた謀叛』は絶対王政に対して向けられていたのではなくて、貴族や大土地所有者に対して向けられていたのであると。」

ジャン・ルッチスキー著/遠藤輝明訳

『革命前夜のフランス農民』(未来社)より

 

 

      この、「モルヴィルがネッケルに差出した報告書」「一七八八年十月」とは、ニコラの出国から僅か1年後の事であり、それはつまりフランス革命の前年である。

 

そしてこの暗雲は、パッツ伯爵の急死がヴェイドリヒにもたらした運命以上に、ニコラには既に重くのしかかっていた目前の現実であり、となれば、ヴェイドリヒとは違って自己決定だけでは行動出来ないニコラが、決してたった34ヶ月の間だけで結論を下した訳ではない事を説明するのにも十分過ぎるのではないだろうか。

革命の気運に背中を押されたのはヴェイドリヒだけはない、ニコラとて同じ事だったのだ。

 

農民は兵籍加入を免がれるために、手足を傷けたり、山や森に逃げ隠れたが、武器をもって追跡されなければならなかった。」

安達新十郎著

『大革命当事のフランス農業と経済―アーサー・ヤング『フランス旅行記』の研究』(多賀出版)より

 

 

いつの時代でも、何処の国でも、そしてそれがどのような社会情勢にあろうとも、人々がこのような「兵役逃れ」をする例は後を絶ったためしがない。そんな事はもはや論じるに足らないだろう。そしてニコラもまた、間違いなくその予備軍として少年時代を過ごしていたのである。それを指して非国民と呼ぶか、平和主義者と呼ぶかは、それを口にするそれぞれの立場が言わせる事であって、おそらく当人の関知する事ですらないだろう。

 

ただ、彼の持って生まれた資質や性格が、暴力や争い事を決して好まなかったという歴然とした事実だけが、私には重要な事に思われる。

 


【▲】 【頁頭】 【次回予告】

9.何故ポーランドへ渡ったのか?(その3)――
  9. Why did Nicolas Chopin leave for Poland?(part 3)-

 

 

ニコラがフランスを発った理由には、先に挙げたように大きく二つの事が考えられた。

 

1.         一つは、彼自身の「知的労働に対する渇望」という、積極的で肯定的な理由。

2.         もう一つは、「兵役逃れ」という消極的で否定的な理由。

 

そしてこの二つは、ニコラの中では表裏一体として対を成していたもののようにも思える。ただこの二つが、果たしてニコラの中でどのような比率でせめぎ合っていたかまでは分からない。

そしてこの二つは、いずれもフランス革命を目前に控えた歴史的背景において、間違いなくニコラの上に切実な現実としてのしかかっていた。だからこそ彼は、この二つを「打破し得る現状」として捉える事も出来、(仮に現実逃避という側面があったとしても)、あくまでも、自分という人間の持つ性格や適正の命ずるままに、ヴェイドリヒによって導かれた運命に身を任せ得もしたのだ。

そしてそんなニコラに対して、少なくとも父フランソワは賛同してやれる事が出来た。それもやはり、当時の社会情勢が後押しさせていたからなのである。もしもこれが平穏時であれば、フランソワには唯一の跡取り息子を敢えて手放す理由もなかったはずだからだ。

 

しかし、まだ何かスッキリしないものが残る。と言うのは、私にはどうしても、ニコラが始めから祖国や家族を棄て去るつもりでフランスを発ったとは思えないからだ。

 

ミスウァコフスキらは、「ニコラの両親は、これを息子の人生にとっての好機と見なし、それが永遠になると分かっていながら、彼を手放す事に同意した」などと書いていたが、それはニコラの手紙を読めば明らかなように、全くの出鱈目である。このような事はあくまでも、結果論でばかり物を語りたがる現代人の歴史観の悪癖に過ぎない。

実際ニコラは、「仕事」の関係で普通に一時帰国を計画し、家族との再会を楽しみにしていたのだから、出国時にすでに「それが永遠になる」などと考えたいたはずがないのである。

そしてその際、ニコラが今回の手紙の中で殊更徴兵について懸念していたのには、きちんと理由がある。

それは、マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』によると、徴募兵が召集されてクジを引くのが3月」だったからだ。つまり、それに先立って「冬に」なると、各地区の代理長官にその由の「御達し」が下るのである。

ニコラが手紙を書いたのが915日」なので、彼がその返事を待ってから出発し、ストラスブールで仕事を処理し、それからマランヴィルの実家を訪れるという旅程を考慮しても、おそらく彼が計画していた一時帰国は時期的に、徴募兵に関する御達しが下る頃に相当していた事は間違いない。たとえニコラが3月」の召集前にフランスを発つつもりだったとしても、このような時期に逃げるように外国へ行く事がそう簡単に許されるはずもなく、彼が何らかの形で拘束されてしまう可能性は高い。

つまり、少なくともこの時には、仮にニコラがヴェイドリヒの使用人として帰国したのだとしても、ヴェイドリヒ自身がフランスを去っている以上、それはもはや免除の対象としては効力を持ち得なかったのである。

 

ところで、915日」から3月」までは、半年近くも余裕があるという風に思われるだろうか? ちなみに、この時代の「馬車の旅行」がどれほど大変なものだったか、おそらく本稿の読者にはちょっと想像がつかないかもしれない。

たとえば、その「移動距離に対して要する時間」一つとっても、国によって、更に地域によって、またその時代や社会情勢によって、正確な数字を把握するのは容易な事ではないのだが、それではここで、特に混迷を極めていた当時のヨーロッパにおいて、「ワルシャワ⇔マランヴィル」間の外国旅行が果たしてどのようなものだったのかを考えてみよう。

 

「旅の快・不快を決定する大きな要素の一つは、道路の状態である。十八世紀のヨーロッパでは道路はかなり改善されてはいたが、それでも古代ローマ帝国のあの素晴らしい幹線道路との比較に耐えるのは、フランスくらいなものである。なにしろローマ時代の幹線道路は平らな大石を二層に重ねて敷き詰め、次に砕石・砂・石灰・火山土などからなるコンクリートを三〇〜五〇センチ敷き、さらにその上に舗石を敷き詰めるといった手間のかかった代物である。

これほど手間も金もかかる道路の整備は、小国の分立していた当時のイタリアやドイツにはおよそ無理である。中央集権の実があがり、王権の強大なルイ王朝の下で発達・整備された道路網がヨーロッパで最高水準に達していたのは決して偶然ではない。

もっともフランスでも全国的な道路網の整備に中央政府が本格的に取り組み、道路が飛躍的に良くなったのは、ルイ十五世の御代になってからのことである。これは道路工事に必要な労働力を確保するため、一七三八年にフランス全土の農民に夫役(コルヴェ)と呼ばれる義務を課したためである。…(略)…

道路の整備と馬車の改良のおかげで旅に要する時間は大幅に短縮された。たとえばパリからリヨンへの四六ニキロを走破するのに、十六世紀には十八日もかかったのに、十八世紀の中葉にはディリジャンスと呼ばれる急行の乗合馬車を使えば五日しかかからなかった(※これが冬だと6日になるそうである)。」

本城靖久著

『馬車の文化史』(講談社現代新書)より

 

 

現在の世界地図では、ポーランドとフランスの間にはその直線上にドイツやチェコ等が挟まれているが、ニコラのこの時代にはプロシア、ザクセン、オーストリア領などがそれにあたる。つまり当時の諸外国やポーランドの交通事情がここにある「十六世紀」のフランスと同程度だったと仮定した場合、「ワルシャワ⇔マランヴィル」間は直線距離にしておよそ「パリからリヨン」の3倍なので、単純に「十八日」を3倍して54日、つまり大体1ヶ月と3週間もの日数を要するという事になろうか。勿論この中には、冬の気象条件による影響や、その間にいくつも国境を超えなければならない等の手続き上の諸問題は一切含まれていない。

更にニコラの場合、彼はこの旅に出る前に、まず両親に出した手紙の返事を待たなければならなかった。

手紙の場合は、生身の人間を運ぶよりは遥かに必要とされる日数は少ないはずだが、それでも勿論、到底現在の我々の感覚で測れない事は言うまでもない。しかもこの場合、手紙は片道ではなく、往復分の日数を見なければならない。これに関しても、やはり間接的な資料から推測するしかないのだが、たとえば、フレデリック・ショパンがパリ移住後にワルシャワの家族と交わしていた手紙から、消印や日付の確認が出来るものをいくつか拾い上げると、当時パリからワルシャワへ手紙が届くまで最短でも15日、最長では26日かかっており(逆のルートはいわゆる「のぼり」になるためか、これが1016日となる)、つまりこれが往復となれば、最短でも25日、下手したら1ヵ月半近くも返事を待つ事になる。

      ちなみに直線距離だけで言えばマランヴィルの方がパリよりも遥かにワルシャワに近いのだが、両者には首都と片田舎という決定的な地域格差がある。ニコラの時代もフレデリックの時代も、手紙はドレスデン経由でやり取りされていた事が資料上確認出来るが、そこから何処で枝分かれしたにせよ、常識で考えても、「パリへ向かう郵便馬車」と「マランヴィルへ向かう郵便馬車」が同じ働きをしていたはずがない。

ニコラの19歳当時より遥かに通信事情も発達し、少なくとも当時よりはまだ平穏と言えた5060年後においても、文通にはこれだけの日数を要したのである。

 

つまり、ニコラが1790915日」に手紙を書いてから彼自身がマランヴィルに到着するまで、当時少なくとも3ヵ月近くもの日数は考慮しなければならなかったと考えていいだろう。勿論これは、全てが滞りなく進んだ場合であり、またこの中には、旅の第1目的であるストラスブール滞在の期間も含まれていない。したがってニコラのマランヴィル滞在は、彼自身がそれを懸念している通り、少なくとも徴募兵に関する御達しが下る時期、下手したら徴募兵の招集される3月」にも重なっていたのである。

 

このような、当時の外国旅行というものの実情一つを鑑みても、それを敢行して家族との再会を果たそうとしていたニコラは、やはり最初から家族や祖国を棄てるつもりで出て来た訳ではないのだ。

つまり、ニコラにしても家族にしても、決して誰も「それが永遠になる」などと考えてはいなかったのである。仮に、たとえ一時的には兵役を逃れるためだったとしても、免除される条件を自ら獲得して国に戻ればいいと、そう心積もりしていた可能性もなかったとは言い切れないからである。たとえばそれは結婚でも良かっただろうし、1774年のフランス全土への一般条例」で免除の対象とされていた「学校の教師」でも良かっただろう(※ただしこれは、マチウ著『アンシャン・レジームのロレーヌとバロワ地方』によると、ロレーヌでは、教区司祭のコネが得られる程度に「有能」でなければならなかった)。

 

いずれにせよ、今まで見てきたように、マランヴィルのショパン家は、「車大工」にせよ「葡萄作り」にせよ、それらの仕事に将来の望みを託せるような状況ではなかった

 

しかし、たとえ革命の気運はあったにせよ、革命が自分たちの生活にどのような恩恵をもたらしてくれるかなど誰にも分かりはしなかったし、そもそも革命が絶対に起こるという保障もなければ、仮に起こったところでそれが成功するという保障すらないのだ。だからこそ彼等は、唯一の跡取り息子にさえ、無理に家業を継がせようとも考えず、ヴェイドリヒの帰国後の仕事を手伝う機会に便乗させる事にも同意出来たのである(それは、当時のフランソワが「農場経営者」でもなければ「職人の親方」でもなく、まして「マランヴィルの管理者」でもなかった事の裏付けにもなり得る。何故ならそういったブルジョワジー達こそが、正に革命の担い手であり、指導的役割を果してもいたからだ)。かつてフランソワも、そして彼等の先祖達も、そうやってアルプスの山から流れてきたのだから…。

 

当時の農民達は領主に対して「憎悪」を抱き、各地で「農業騒擾」「一揆を」起こしていた。普通に考えたら、マランヴィルのショパン家の生活改善のためにも、ニコラは自らも革命に参加して闘うという選択肢もあって然るべきなのに、彼は決してそうしようとは思わなかったし、家族もまた同じ考えだった。つまりショパン家の人々は皆、基本的に平和主義者であり、たとえそれが社会的正義だと認識していたとしても、暴力に訴えるやり方には賛同出来ない人達だったのである(それはポーランドに渡ってからのニコラでも同じ事だ)。だからこそ彼等は、ポーランドへ渡った息子ニコラを非国民扱いして勘当する事もなく、その出国後も、普通に文通を続けていたのである。

 

という事はニコラは、自分が既婚者となるか、または他の地方のように多少条件が緩くなりさえすれば(つまり、自ら手紙に書いたように「以前そうだったよりも規則が厳しく」なくなれば)、再びマランヴィルに帰る事も十分にあり得た訳であり、その条件次第では、始めからマランヴィルを去る必要すらなかったかもしれないのである。

つまり、革命の気運がニコラをポーランドへ導いたのは事実だが、しかし彼は、最初から祖国や家族を「永遠に」捨てるなどは全く考えていなかった。それはフランスに残された家族にしても同じだった。

 

ところが結果的にそうなってしまったのは、奇しくも革命が現実のものとなった事によって、そうせざるを得ない状況に追い込まれてしまったからだ。

それはどういう事かと言うと、皮肉にも革命が成功して革命政府が樹立した事によって、必然的にニコラは、望む望まざるとに関わらず、「亡命者」、つまり反革命者の烙印を押される羽目になってしまったからである(厳密に言えば、その可能性を危惧せざるを得なくなってしまったのだ)。

つまり結果的に、たとえそれそのものが第一の目的ではなかったとしても、外国で「兵役逃れ」を敢行するには、あまりにもそのタイミングが悪過ぎたのである。

 

事実、革命によって特権を奪われた貴族の中には、「亡命貴族」として外国と手を結ぶなどして、方々で革命政府打倒を煽動する者も多数いた。勿論ニコラは貴族階級には属していない。だが彼はヴェイドリヒと行動を共にしていた。

ヴェイドリヒ自身は特に革命派でも反革命派でもないが(実際彼はそのような主義主張の下でいかなる行動も起こしていない)、彼は元来「フランス国王への外交使節」としてポーランドからやって来て、その後亡命者となり、「1775年」「ルイ16世」から「帰化証明書」を授けられ、そして「立派な領地を所有するあらゆる特権と共に、彼と彼の子孫にフランスの市民権」を与えられるに至ったのだから、その多大な恩恵から考えても、ヴェイドリヒは紛れもなく国王派に属する特権階級であり、したがって反革命派に回るだけの動機は十分に持ち得た人物として認識されていたはずだ。

他でもないヴェイドリヒ自身に、自分がそう思われても仕方ないという懸念があったからこそ、彼は、パッツ伯爵の遺産処理の問題で、自らはフランスへは戻ろうとせず、ニコラを「代理で」派遣しようとしていたのだ。誰もが、これを根拠に、ニコラが仕事上の理由でヴェイドリヒから信頼されていたと書いているが(勿論それもあるだろうが)、むしろそんな単純な話ではなく、あくまでも政治的な理由で、ヴェイドリヒ本人が直接フランスへ出向くよりも、ニコラの方がまだ亡命者扱いされる危険性が低いと、彼がそう考えていた可能性の方が遥かに高い。

つまり彼等は、この手紙やこの中で言及されている「ヴェイドリヒ夫人も同様に何通か手紙を書いて――という手紙などで、革命後のフランスが、今自分達にとってどのような状況にあるのか、探りを入れていたに違いないのである。

 

この手紙が書かれた翌年には、フランス革命が諸外国に及ぼした影響もそろそろ表面に現れ始めていた。そしてそれが、何故革命勃発と時を同じくして、マランヴィルから突然理由もなく返事が途絶えたのかをも説明してくれる。

 

「一七九一年を通じて立憲議会の立場は、国内の騒擾に対外的困難が加っただけに、ますます困難になった。革命のフランスと旧体制のヨーロッパが対立した。ルイ十六世は自分の絶対権力を再建しようとして外国に訴え、この軋礫に拍車をかけた。…(略)…

その間ヨーロッパの反動もまた遅れることなく姿をあらわした。貴族階級は領主制度の廃止の後に、僧族は教会財産の没収の後に反革命的になったし、ブルジョワジーは間断なく発生する騒擾に恐れをなした。亡命者たちは、旧体制の諸階級を革命のフランス打倒に立ち上らせようと全力をあげた。…(略)…すなわちアルトワ伯はマドリッドで武力干渉を要求した。それによって、南部フランスで彼が煽動している一揆が支援されるというわけだった。一七九〇年十一月以来亡命者政府〔コブレンツに出来た〕の大臣だったカロンヌはプロシャに期待をかけていた…(略)…

ロシアのエカチェリーナ二世は表面上、反革命十字軍の思想に大変な熱意を見せた。「フランスの無政府状態を打ち破ることは、不滅の光栄を準備することである。」 スウェーデンのグスターフ三世は同盟軍を指揮すべく、エックス=ラ=シャペル〔ライン地方の都市、ドイツ名アーヘン〕に居を構えた。プロシャ王フリードリッヒ・ヴィルヘルムニ世と、サルジニァ王ヴィクル=アメデ三世もまた同盟に加わった…(略)…

政治面ではブリソ派が、戦争になることを恐れないラ・ファイエット派の支持をえて議会をリードし、革命の敵にたいして立ち上った。亡命貴族と忌避僧侶を目標にした四つの法令が議決された。一七九一年一〇月三一日の法令は、プロヴァンス伯に二ヵ月の猶予をあたえ、その間に帰国しない場合は王位への権利を剥奪することを決めた。十一月九日の法令は亡命貴族たちに同様の警告を発し、二ヵ月以内に帰国しない者は〔革命にたいして〕陰謀をたくらむものとみなされ、彼らの財産からあがる所得を差押えて、国民の用に供すると規定した。」

アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳

『フランス革命(上)』(岩波書店)より 

 

      ニコラの手紙によれば、ヴェイドリヒが問題にしていたのは、売却した領地や城の代金をまだ受け取っていない事で、つまり、彼の売買契約は事実上履行されていない状態だったのである。これでは、もしも革命の混乱によって買主がそれを放棄してしまった場合、土地も財産もすべて宙に浮き、革命政府に没収されてしまう事になる。おそらく、その後、ニコラもヴェイドリヒも問題解決のためにフランスへは戻れなかったらしい事から考えても、その通りになってしまった可能性は極めて高いのではないだろうか? 最悪の場合、革命の混乱に乗じて、買主がまんまとただで手に入れてしまった可能性すら考えられなくもないだろう。

 

「コミューンと議会の影響のもとに祖国防衛はきびしく押し進められた。義勇兵の大隊が大急ぎで徴集され、武装され、装備されて国境にさし向けられた。コミューンは武器や馬や教会の鐘や銀器を徴発し、最初の被服工場を組織した。

その間、プロシャ軍の前進が目立ってきた。九月二日には次第に反革命に浸透されていたヴェルダンが降服した。九月八日に敵軍はアルゴンヌ州に近づいたが、そこではいたる所でデュムーリエに指揮されたフランス軍にぶつかった。…(略)…

プロシャ軍はデュムーリエと交渉し、停戦ののち退却した。その道中、彼らはひっきりなしに降る雨で水浸しになった土地の上を、つらい行軍でへとへとになり、流行性の赤痢によって多くの犠牲者を出し、さらに侵入者と亡命貴族打倒に立ち上っていたロレーヌ州やシャンパーニュ州の農民たちに悩まされた。」

アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳

『フランス革命(下)』(岩波書店)より 

 

これが、いわゆる「フランス革命戦争」の始まりであり、「革命フランス」とプロシアとの間では、正にその先陣を切って戦争が起こっていたのである(プロシアは、ロレーヌとワルシャワを隔てるそのちょうど中間に位置しており、手紙の経由地だったドレスデンもまた然りである)。そしてニコラが両親から一番聞きたかった返事、すなわち、義勇軍が以前そうだったよりも規則が厳しくないかどうか知らせて下さい」という問いに対する答えも、先の「一七九三年二月、国民公会は兵役法を発布した」を待つまでもなく、ここにある通り絶望的なものだったのだ。

このような有様では、この両国間で郵便が途絶えるのも当然であり、ましてパッツ伯爵の遺産処理問題など、売却した城や領地がその後どうなるのかなど、革命の混乱のさなかでは誰の保証の限りでもあるまい。ヴェイドリヒなどは、「〔革命にたいして〕陰謀をたくらむものとみなされ」ていたかもしれないのである。

 

そしてその2年後には、フランスでは以下のような、ニコラ達にとって恐るべき法整備が進められていた。これは国王の処刑から約2ヵ月後の事だ。

 

「革命裁判所は一七九三年三月一〇日に創設され、「あらゆる反革命の企図と、自由、平等、統一、共和国の不可分性にたいするあらゆる加害行為」を審理した。…(略)…亡命者にかんする諸法律が三月二八日に一本にされ、強化された。亡命者たちは民法上死亡者と宣言され、永久に追放され、帰国すれば死刑を課せられ、彼らの財産は没収された。」

アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳

『フランス革命(下)』(岩波書店)より 

 

更にその半年後には、次のような法改正までなされている。

 

「メルラン・ド・ドゥエの報告にもとづいて採択された、反革命容疑者にかんする法律(一七九三年九月十七日)は、恐怖政治樹立への大きな前進をしめすものだった。この法律は容疑者について大幅な定義をあたえ、国民のすべての敵をやっつける権限を政府にあたえている。「圧制と連邦主義の味方と自由の敵たち」は容疑者とされ、また公民証の交付を拒否された人びと、休職ないしは免職させられた役人、亡命者の親戚、帰国した亡命者たちは容疑者とされた。監視委員会が容疑者のリスト作製の任に当った。」

アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳

『フランス革命(下)』(岩波書店)より 

 

時代は正に、フランス革命がもたらした負の遺産、いわゆる「恐怖政治」の時代を迎えようとしていたのである。

      10ヶ月ほどの間に、フランス全土で約2万人もの反革命者が処刑され、私刑や獄中死なども含めるとその数は約4万にものぼると言われている。もちろん一般市民も多くその犠牲となった。

 

この時点で、ヴェイドリヒが「反革命容疑者」としてブラックリストに載った可能性ももはや否定出来ないだろう。これではニコラも、そのヴェイドリヒに帯同して祖国を発っている以上、もはや帰れば自分だけでなく、マランヴィルの家族にも危険が及ぶかもしれなかった。これを機にニコラは、家族や祖国と縁を切らざるを得なくなり、その後の彼の行動が示しているように、フランスの国境を越える事に対して異常に神経質になったのである。そしてそれは、ナポレオン帝政の時代を経ても、王政復古の時代を経ても、生涯変わる事はなかった。

 

つまりニコラは、結果的に帰りたくても帰れないような状況に追い込まれてしまったのだ。

 

フランスの家族からの返事が突然理由もなく途絶えたのも、正に革命勃発のその年からであり、貴族の亡命が始まり、手紙の代読や代筆を請け負っていた可能性のある「司祭様」がその地位を追われたのと完全に時を同じくしている。

ところがその頃には、もう既にニコラもヴェイドリヒもワルシャワにいたため、彼等はそういったフランス側の現状をよく把握していなかった事だろう。「私の手紙があなた方の許に届いているのかどうか、私には確かめられない状況とはつまりそういう事だ。

両国がこれほどの緊張関係にあったのでは、敵国側の詳しい情報など一般市民に届くはずもない。だから彼等はあまり深く考えもせずに、2年間」も返事の来ない手紙を出し続けていた訳だが、それらは検閲によってほぼ家族の許へは届けられていなかった事だろう。そして彼等がその事実を知った時、その時になって初めてニコラは、自分が革命政府に対して、手紙の中で「亡命(=反革命)宣言」をしてしまったに等しい事に気付かされたはずである。だからおそらくこの手紙が、ニコラが家族に書いた最後のものとなったに違いない。

      この手紙がいつ何処で、どういう経緯で発見されたのかだけでも分かれば、これが実際家族の許へ届けられていたのかどうかも推測可能なのだが、私の知る限りでは、どういう訳かどの著書でも何の典拠説明もなされていない。また、それら何らかの典拠情報を基に仮説を述べていると思われる著者も見受けられない。こういった腑に落ちない現状は何か気にかかる。単なる研究者の怠慢か、検証の放棄か、それとも…。

 

 

自由と平等と博愛を謳ったフランス革命は、皮肉にも、ニコラとマランヴィルの家族を完全に引き裂いてしまったのである。

 

結果的に、革命はマランヴィルのショパン家に「農民解放」という恩恵をもたらしはしたが、その一方で、「恐怖政治」がニコラの帰国を困難なものにしてしまった。

そうして実家にもたらされた財産を守るためにも、ニコラはもはや死んだ事にしてお互いに忘れてしまわなければならなったのだ。

彼等はそれを、「闘いを放棄した者の報い」として諦め、その運命を無言のうちに受け入れていたのだろうか…それは私には分からない。いずれにせよその現実は、王妃マリー・アントワネットが、反革命者としてその首と胴体を切り離された17931016日に決定的になったと言えよう。ニコラ達がたとえどのような状況下に置かれていようと、そのニュースだけは、国の内外を問わず、ほぼリアルタイムでヨーロッパ中の隅々にまで行き届いていたはずだからである。勿論それに先立つ同年121日には、ヴェイドリヒに「帰化証明書」「市民権」を与えた国王ルイ16世も、革命政府の名の下に同じ刑に処されていた。

 

国王夫妻の辿った運命は、そのままニコラとヴェイドリヒにも致命的な影を落とし、彼等のその後の人生を理解させるのに十分な事件だった。

 

するとその僅か一年足らずのうちに、更なる悲劇がすぐに追い討ちをかけ、我々に、無言の内に何かを訴えかけようとする。

 

つまり、ニコラの母マルグリット・ショパンが、その国王夫妻が処刑された翌年の1794年に、58歳で亡くなっているのである。

 

彼女は、国王夫妻の処刑に何を見、何を思いながらこの世を去っていったのだろうか…。もはや生きて息子の顔を拝める事は二度とないのだと、その残りの日々を悲嘆のうちに過ごしていたのではないだろうか…自らの死期を、早めてしまうほどに…。

 

ニコラとヴェイドリヒが「運命を共にする」とは、正しくこのような意味において初めてそう言える事なのである。

 

[2008年6月5日初稿/2008年9月11日改訂 トモロー]


 【▲】 【頁頭】

―次回告―

 

次回、ポーランドへ渡った父ニコラ・ショパンの青年時代と、その虚飾に満ちた伝説の数々を徹底検証する、

検証1:ニコラ・ショパン、19歳の手紙・後編
Inspection I:Nicolas Chopin, a letter of 19 years old(part 2)

をお楽しみに。

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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