序章:ショパンの手紙は贋作だらけである――
   Introduction: Most of Chopin's letters are fakes-

 

1.        全体の30~40%はほとんど信用できない▼

2.        「贋作天国」はなぜ起こったのか?▼

3.        最初の書簡編集者カラソフスキー、その欺瞞の数々▼

4.        カラソフスキーとショパン家の「交際」の実態(その1)▼

5.        カラソフスキーとショパン家の「交際」の実態(その2)▼

6.        ショパン自身に起因する問題▼

    

 ≪♪BGM付き作品解説 練習曲 第12番 「革命」▼≫

    


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1.全体の30~40%はほとんど信用できない――
  1. Total 30-40% are untrustworthy in Chopin's letters-

 

 

ショパンの手紙は贋作だらけである。

 

本ホームページは、ショパンに関する書簡資料や伝記等を詳細に検証し直す事で、ショパンの手紙に紛れ込んでいる「知られざる贋作書簡」の正体を暴き、ショパン伝における様々な疑問に新たな光を当てていく事を目的とするショパン研究サイトである。

 

たとえば過去に、有名な贋作として認知されているものに「ポトツカ贋作書簡」というのがあった。これは、ポーランドの由緒ある貴族の娘で、当代きっての彩色兼備を謳われていたポトツカ夫人と、ショパンとの間に愛人関係があったのではないかという噂を元に捏造された手紙だが、これについては、イェージー・マリア・スモテル著/足達和子訳『贋作ショパンの手紙―デルフィナ・ポトツカへ宛てたショパンの“手紙”に関する抗争』(音楽之友社)に詳しく、既に決着のついている問題であり、改めてそれに付け加える事もないのでここでは検証しない(ただし、唯一現存する本物のポトツカ書簡を検証するという形で、噂そのものの論争にも終止符を打つ事には意義はある)。

 

ここで取り上げようとしているのはそれ以外の、現在本物として認知されている手紙を含めた全て、可能な限りその全てである。したがって、既に定説として語り継がれている伝説に対しても、その真偽について真っ向から勝負を挑んでいかなければならなくなった、そういう問題も多い。

      得てして偉人伝に作り話は付き物だが、検証する事自体に意義を見出せないような他愛無い話や、スキャンダル趣味な逸話の類に関しては、アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』(Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINに詳しい。そこに集められた雑多な資料情報は大変役に立つものだが、ただし、本稿で扱う問題はそのようなものとも根本的に違う。むしろその著書にすら異議を唱える内容が含まれている

 

それではここで、本稿の表紙に列挙した目次項目を補足する意味でも、予告も兼ねて、それら知られざる贋作改ざんの例をいくつか挙げてみよう(登場人物その他、ある程度予備知識がないと分からないという読者もおられると思われるが、本編では初心者にも分かりやすく解説してあるのでご安心を)。

 

1.      父ニコラに関する多くの謎は、彼が自分の両親宛に書いた唯一の手紙によってほぼ完全に解明し得る。それによって、ニコラの青年時代に関する伝説のほとんどが作り話だった事が判明した。

2.      ショパン伝において、必ず唯一無二の親友として紹介されるティトゥス・ヴォイチェホフスキ書簡。現在知られているのはヴォイチェホフスキの手による「写し」であり、しかも信じ難い事にオリジナルの方はヴォイチェホフスキが生前に全て処分してしまった。そのため、ショパンの自筆原文を見た者が当事者以外に誰もおらず、したがってヴォイチェホフスキがその一字一句を全て正確に書き写していたかどうかは甚だ疑問である。そしてその「写し」を最初に借り受けた伝記作家のカラソフスキーは、更にそこから半分近くを削除し、加筆改ざんまで施した上で発表していた事も分かっている。手紙として不自然な点があまりにも多く、したがって、初恋の相手として登場する「理想(の女性)」が、カラソフスキーの国粋主義的な目的から捏造された作り話だった事も判明した。

3.      ヴォイチェホフスキがショパンのウィーン行きに同行したという話は、そもそもそれ自体が極めて怪しいものである。

4.      ウィーン時代のヤン・マトゥシンスキ書簡(※ワルシャワ高等中学校時代からの友人)は全て贋作。これらは、これを最初に発表したカラソフスキーが捏造したもの。その内容は、同時期に書かれた家族宛の手紙からの流用と、明らかに史実と食い違う創作部分とで成り立っている。

5.      「シュトゥットガルトの手記」。その内容は明らかに後世の第三者でなければ書き得ないものであり、そもそも自他共に認める筆不精のショパンに、日記を書く習慣があった事を証明する自筆資料すら確認されていない。

6.         ユリアン・フォンタナ書簡(※少年時代からの友人)。ここにも、数少ないがいくつかの贋作と改ざんが紛れ込んでいる。フォンタナ書簡には、他の書簡とはっきり区別されるべき特有の項目がなければならない。

7.         ド・キュスティヌ書簡(※パリ時代の知人)。その極めて奇妙な内容から、これはキュスティヌ本人による自作自演である可能性が極めて高い。

8.         アーサ-・ヘドレイが、彼の編集する書簡選集に採録したフィルチ書簡(※ショパンとリストに師事した少年ピアニスト)。これはジャン=ジャック・エーゲルディンゲルも指摘している事だが、その内容のほとんどが他人の著作物からの流用で成り立っている。

9.         イギリス時代のヴォイチェフ・グジマワ書簡(※パリ時代からの友人)。これは現在調査中でまだ断定出来ないが、やはり怪しい点が多々見られる。

10.      最期の病床からのヴォイチェホフスキ書簡2通。その内容が、掲載著書の解説にある史実認識の誤りとリンクしている。

11.      グジマワがショパンの最期について報告したオーギュスト・レオ(※銀行家)宛の手紙。当事者では有り得ない致命的な誤述があまりにも多過ぎる。これも完全に贋作で、仮に本人が書いたものだとしてもその内容は全て嘘である。

12.      ショパンの死をきっかけに姉夫婦が不仲になった事が記された「ルドヴィカ―カラサンティ書簡」。これは、義弟の名声に対する嫉妬が生んだ確執という、いかにもありそうなメロドラマだが、その記述を詳細に検証すると、これが、内容的にも物理的にも、現実の郵便物として成立し得ない事は明白である。これは、無実の人間を悪人に仕立て上げた、最も悪質な贋作書簡として特に許し難いものである。

 

驚くべき事だが、全体の3040%はほとんど信用出来ないものと考えて差し支えないほどだ。ショパンの伝記を一つでも読んだ事のある方なら、たったこれだけの箇条書きでさえ天変地異的な告発に思われるであろうが、その真偽の程は本編にてご判断頂きたい。

本稿では、このような事を順を追って詳細に、それぞれ具体的かつ客観的に検証し、その内容はもとより、可能な限り捏造の張本人まで特定し、勿論その犯行の動機をも明らかにしていくつもりである。無論、私個人の希望的観測や根拠のない憶測、公私混同した感情論等は一切排除すべく努力している事だけは、予め断っておきたい。そうでないと、この手の話は全て、単なる水掛け論に終わってしまうだろう。

 

   ―凡例―

      尚、ショパンの手紙は全て「赤文字」で表示し、ショパン以外の手紙や他の著作物からの引用は全て「青文字」で表示した。残りの黒文字は引用文中の(※黒文字の註)も含め、全て私自身による。研究テーマの性格上、他の著作物からの引用が多くなる事は避けられないが、あくまでも著作権法上の定める「引用」の定義に従い、単なる無断転載にならぬよう細心の注意を払った。

      その際、抜粋、省略、要約等は、故意に原著者の意図を歪曲する悪質なイメージ操作になり得るため、極力それらの手法を用いない方針なので若干長めになる事も多いが、予めご了承願いたい。その代わり、重要箇所のみを拾い読みして頂いても構わぬよう、論点となる部分を下線で示す事にした。下線は全て私による。

      引用文が余りにも長大となる場合は、論点と直接関係のない記述や過多な例示を「…(略)…」で省略したが、それ以外は一切手を加えていない。ただし、引用文自体に設けられている注釈等については、私の判断で省略もしくは適切な場所へ挿入し直し、煩雑にならぬよう便宜を図った。それ以外は、旧漢字、旧仮名遣いを読み易いよう現在のものに差し替え、明らかな校正上のミスや誤字脱字についてのみ一部修正した箇所もあるが、文意に影響がない限り、その都度指摘していない。

      また、本稿で言う所の「家族書簡」、「ヴォイチェホフスキ書簡」等、「――書簡」と表記された呼称は、基本的にショパンとの間でやり取りされた双方の手紙(一方通行のみの物も含め)を意味するが、稀に関係者同士の間でやり取りされただけの物(たとえば「フィルチ書簡」)等も含まれる。

      ショパンの生年月日については様々な議論がある。本稿では混乱を避けるため、便宜上現在の定説である「181031日」説を採用して話を進めていくが、実は私個人はこれとは違う考えを持っている。しかしそれについては、追々、本編で自説を紹介するにとどめようと思っている(⇒検証2-1:ショパンの本当の生年月日(誕生日)は一体どれなのか?▼)。

    邦訳者の記載がない洋書は全て私による翻訳で、その際に施した『仮の邦題』も私が原題を直訳したものである(ただし、ポーランド語でしか参照できない資料については専門家に翻訳を依頼し、それを私が自分の文章に直して発表している)。

 


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2.「贋作天国」は何故起こったのか?――
  2. Why are fakes heaven generated in Chopin's letters?-

 

 

「何故このような贋作天国が起こってしまうのか?」という事について、もう少し詳しく書いておかなければならない。その最も大きな原因はまず、手紙の原物がほとんど残っていない事にある。つまり、事実確認するための証拠資料が、数々の歴史的不幸に見舞われ、ことごとく失われてしまったのだ。

 

一口に贋作と言っても、完全な贋作もあれば、部分的に改ざんされている物もあり、元々書かれていなかったものが後から加筆されている事もある。その真偽の疑わしい物をいちいち挙げていったらそれこそ切りがない。ただし、原物が残っている本物の手紙や、原物は残っていないがそれを写真コピー等で確認出来る物もあり、それらは贋作の正体を暴く上で重要なヒントとなってくれる。しかしその数は余りにも少なく、それが無法地帯に拍車をかけている一番の原因でもある。しかも残念な事に、ポーランドにおける(公的機関以外の)筆跡鑑定には非常に疑問の余地があり、必ずしも物理的な検証だけでは、その真偽を鵜呑みには出来ないのである。

      たとえば、前出の「ポトツカ贋作書簡」の筆跡鑑定において、その鑑定結果が二転三転するというドタバタ劇が演じられた。

      他にも、父ニコラの遺言(遺体を解剖して欲しいと書かれたメモ)が、ずっとショパンのものとして取り扱われ、近年の筆跡鑑定で明らかにされるまで、多くの伝記等で誤解を流布させる原因となっていた。このように、原物が残ってさえいれば後で鑑定のしようもあるが、この例でいくと、たとえば、まともな筆跡鑑定を経ないままに失われてしまった贋作書簡の多くが、あたかも本物として既成事実化されてしまっている可能性も否定出来ない事になる。そしてそのような物が現にたくさんあるのだ。そしてそれらはもはや、自筆の現存しない「他者の手による写し」や、出版物の中でのみ残された記述など、そういった物だけが典拠となってしまっているのである。

 

ショパン研究家の一人であるブロニスワフ・エドワード・シドウは、約800通にも及ぶショパン関連の書簡を集め、これを3冊の仏訳本にまとめて出版した(彼は志半ばで亡くなったため、その作業はその後幾人かの人の手を経て完成に至った)。それ以前にも、ヘンリー・オピエンスキーその他によってショパンの手紙はいくつか出版されていたが、シドウ版がそれらと違った点は、ショパンが書いた手紙だけではなく、彼の家族や友人知人がショパン宛に書いた手紙、更に関係者同士の間でショパンについてコメントしている手紙や日記までもが含まれている事だった(全793通のうち約半分がそれにあたる)。

またそれとは別に、シドウは「ポトツカ贋作書簡」を本物と確信し、英訳などして自らその布教に努めていたが、この本の編纂に関わった協力者達の反対にあって書簡集への収録は見合わせた。彼自身、その経緯を序文に書いて未練を偲ばせていたが、幸いな皮肉とでも言おうか、しかしそのお蔭で、彼自身の権威はともかく、この書簡集の権威だけはかろうじて命拾いしたとも言えよう。

 

シドウのライフ・ワークとなったこの仕事に費やされた時間と労力は、純粋に敬意に値するものだが、残念な事に様々な点で問題も多く、たとえばブルガリア出身の作曲家で評論家のアンドレ・ブクレシュリエフなどは、次のように指摘している。

 

「シドウが省略したり、よく考えて切り落とした手紙は、ショパンが受け取ったものにある。しかしそうは言っても、歴史的真実を望むとすると、評価は低くなる。なぜなら歴史的真実が「ポーランド、我が祖国」という文脈に向けられているからだ。ジョルジュ・サンド、すなわち第二の、しかしショパンが選んだ第二の祖国への微妙な過小評価に向けられた文脈だからだ。…(※この後、その具体例を挙げて批判しているが略)…

「手紙」への注釈が、あまりにも同じ方向からだというのも気になる。シドウの意向に添うような導きがある。参考文献となるものの注釈では、先入観を抱かせないようにしなければならないのではないだろうか。シドウとともにいると気詰まりに感じるのは、子供じみているほど組織だっていることだ。そのため彼の編集は警戒を促すことになり、結局、非常に残念なのだが彼の編集への不信を招くことになる。ショパンに関わるものすべてが崇高なものでなければならず、そうでなければショパンではないと考えたのだろうか。だからシドウはその前書きの最初のフレーズを次のようにしている。「天才の作品がそうであるように、ショパンの稀に見る人間性が書簡の中にも光っている」。そんなことはない。誰が考えても、この断言は馬鹿げている。ショパンの有名な書簡は(家族とのものは)事実に基づいているし、(編集者とのものは)実利主義で楽しげで、(女性たちとのもの、そこにサンドのものがあるが)中性的なものから低俗なものまである。どの場合も、才能溢れるショパンの作品とのバランスを取ることなどできない。」

アンドレ・ブクレシュリエフ著/小坂裕子訳

『ショパンを解く!』(音楽之友社)より 

 

この指摘は、全くもって正しいと言わざるを得ない。ただ、私はその道の専門家ではないので、残念ながら、参照する事の出来る資料には自ずと限界がある。したがって本稿でも必然的に、このシドウ版から最も多くを頼らざるを得ないのだが、その「前書き」には、手紙の原物が失われた経緯も含め、各資料の典拠に関する興味深い情報が記されている。以下の引用はそこからの抜粋である。

 

ショパンは、親しい者達から送られてきた手紙を保管していた。また彼の文通相手も、ショパンからの手紙を大切な記念品のように思っていた。この双方の心情のおかげで、重要で興味深い書類の数々が保存された。

偉大な作曲家が彼の家族に宛てた手紙は、二人の姉妹、ルドヴィカ・イエンドジェイェヴィツ(※原文通り。本来ポーランドの女性姓は「イエンドジェイェヴィチョヴァ」と表記されるべきである)とイザベラ・バルチンスカの間で分配されたそれ以来、18311845年に書かれた手紙がバルチンスカ夫人、それ以外のものがイエンドジェイェヴィツ夫人の許にあったと考えられる。1863年より以前から、モーリッツ・カラソフスキー[作曲家で、ショパン伝の執筆を計画していた音楽学者]は、家族からこれらの手紙を参照する事を許された。

しかし残念な事に、彼はそれらをほとんど有益に扱おうともせず、その結果重要な文書が失われてしまった。彼は手紙の大部分を書き写す作業を行ったが、カラソフスキーはその全てを入念に、また望まれるべき敬意を払って全てのコピーを作成しなかった。また、彼は判読困難な語句をほとんど解読しようともせず、そればかりか、無礼にも巨匠の文体を修正してしまった。たとえば、しばしば現れる、親しい者同士に特有のくだけた表現や辛辣な表現などを、陳腐で味気ない語に書き換えてしまった。他の人が所有していたオリジナルとカラソフスキーの引用とを比較した結果、それが証明された。

悲しいかな、1863年の919日に、不規律なロシア軍がこの巨匠の妹が住んでいたザモイスキ宮殿を破壊し、イザベラ・バルチンスカがこの時まで所有していた大部分の手紙と記念品も破壊されてしまった。したがって、これらの手紙の文章がモーリッツ・カラソフスキーの著書に書き込まれていた事は、非常に幸運ではあったのだ。一方イエンドジェイェヴィツ夫人の所有していた書簡は、細心綿密に複写されたものだったが、喜びもつかの間だった。現に、イエンドジェイェヴィツ夫人の相続人であるチェホムスキ家が1944年まで所有していたこれらの書類は、もはや存在しない。それらはワルシャワの反乱が失敗した後、1944~1945年の冬にヒトラーの軍隊が撤退した際、彼等によって都市もろとも消失させられた

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale)より

 

      シドウのこの論調を見てもお分かり頂けるように、あまりにも対象を主観的かつ感傷的に崇め過ぎる人物の書物を読む時は、やはりそれなりの注意が必要である。このシドウにせよ、そのシドウが批判しているカラソフスキーにせよ、事ある毎に「偉大な」だとか「巨匠」だとか言う単語を使い過ぎる。そんな分かり切った敬称を連発されると、それだけでもう客観資料としての信用性に不安を抱いてしまう。だがショパン関連のポーランド人研究者達の基本姿勢は、誰もが大体このようなものなのだ。

 

シドウの論調はさて置き、このように、ショパンの手紙が辿った運命は、「ポーランドの不幸な歴史」そのものを象徴していると言っていい。そして同時にそれこそが、ポーランドの伝記作家達に手紙の改ざんや贋作行為を促す動機として働きかけたのだとも言える。

ポーランドの長きに渡る不幸な歴史は、自然ポーランド人の愛国心と独立心を強固なものにし、その結果彼等は、自国の誇る最も世界的芸術家であるショパンを通じて、その思いを世界中に発信しようと考えた。ところがショパンは、彼がポロネーズやマズルカ等の自国の民族音楽で表現しているほどには、その愛国心を自らの言動では表に出していなかった。ショパンの手紙の原物を実際に目にしたポーランドの作家達は、それを歯痒く思い、そしてその懸念を払拭すべく、敢えて手紙の改ざんや贋作を行うに至ったのだ。

そしてそれを最初に行ったのが、ここに書かれている「モーリッツ・カラソフスキー」その人なのである。

彼の著作『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(Friedrich Chopin, Sein Leben, seine Werke und Briefe)は、ショパン個人を描くのとほとんど同等に祖国の歴史を語り、また愛国心を強調する事に重点が置かれている。それは彼自身が、ショパンと同じように歴史に翻弄される形で祖国を追われているからで、ポーランド出身の作家には、そのような境遇をショパン伝執筆の動機にし、自らの悲運を主人公に重ね合わせている者が少なくない。そんな彼等の心情は大いに理解出来るし、察するには余りある問題だ。しかし、だからと言ってそれが、他人の手紙を如何様に改ざんしても構わないという理由になど決してなりはしない。

そしてそのカラソフスキーを批判するシドウですら、純粋な書簡集の編纂にさえ「ポーランド、我が祖国」を投影しないではいられないのだ。

 

ショパン伝において、ポーランド人が殊更愛国心を強調したがる理由はもう一つある。

ショパンは元々、その名が示すようにフランス人を父に持つ移民の子であり、それでいてその後半生をずっとフランスで過ごした事から、ショパンをフランス人だと思っていた人はかなり多く、またポーランドが音楽後進国だった事も手伝って、彼の本当の国籍については世界的にあまりよく知られていなかった。今現在でさえ、ショパンという名やその作品は知っていても、「では彼の国籍は?」と聞かれて「ポーランド」と即答出来る一般の人は意外と少ない。音楽の大家となるとどうしても、ドイツ、オーストリア(ウィーン)、イタリア等がまずイメージとして浮んでしまうだろう。

それゆえ19世紀のフランスの論壇では、ショパンに関する権利を自国が有するものとして誇るような風潮すらあった。無論、本家のポーランド人達がそれに反発を覚えたのは当然であり、それ以降この両国間では、ショパンに関する不毛な綱引きが絶えなかったという実情がある。

 

そもそも、ショパンの時代のポーランドというのは、ロシア、オーストリア、プロシアに分割支配されていて、独立国家としては地図上に存在してなかったのである。

 

「ショパンが住んでいたころのポーランドは、数多(あまた)の悲劇的な出来事に満ちていた時代であった。一七九五年には、隣国のロシア・オーストリア・プロイセン(プロシア)によって国土を三つに分けられ、祖国を失ってしまった。ショパンが三歳になる前には、モスクワ郊外から敗走して来たナポレオン軍の敗残軍を追って、ロシア軍がワルシャワに侵入してきた。一八一五年には、ウィーン会議の結果、ポーランド王国ができたが、ロシア皇帝のアレキサンダーⅠ世がポーランド王として君臨した。ポーランドは政治的、軍事的な意味で国家としての存在をまったく失ったが、人々はなおかつ、自国の伝統と連帯感を持ち続けようとし、そのためには、教育、科学、文化の発展が一番必要だったが、その活動もさまざまなレベルで制約されていった。」

アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳

『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より  

 

ここに書かれている「ポーランド王国」(=ポーランド立憲王国)とは、ナポレオンが1807年にプロシアから奪い取って建てた「ワルシャワ公国」が、彼の失脚に伴い「ウィーン会議の結果」ロシア領となって出来たものだ(会議の議定書の宣言は建前上あくまでも「連合」であるが)。

したがってショパンは、時代考証的に厳密に言えば「ロシア領ワルシャワ出身」という事になり、ポーランド人の言う本来の意味での「ポーランド」とは、あくまでも、愛国的な民族意識として、不屈の精神と共に人々の心の中にのみ存在していたのである。

 

「ショパンの手紙の最初の編集者」として有名なカラソフスキーが、そのショパンの手紙を改ざんし、更にその伝記部分に多くの作り話を書き込んだ事は今ではよく知られているが、それを初めて指摘したのはドイツのニークスだった。音楽家でもある彼は、1888年の自著の序文で次のように書いている。

 

「彼(※カラソフスキー)の業績には感謝しつつ認めなくてはならないが、その一方で、彼の主人公に対する無限の賞賛、抑制される事のない偏愛、逸話や噂などへの無批判な容認と空想的な脚色、そしてショパンのパリ移住と共に始まるそれ以降の時代に関する極端な情報の不足、私はこれらの欠点を指摘しない訳にはいかない。」

フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』

Niecks/Frederick Chopin as a Man and MusicianDodo Press )より  

 

本稿の主要目的である「ショパンの贋作書簡の検証」は、その諸悪の根源とも言えるこの「カラソフスキーの欺瞞」を暴く事から全てが始まると言ってもいいだろう。

 

その点に関しては、ニークス以降、アーサー・ヘドレイやアダム・ハラソフスキ等も詳細な具体例を挙げてカラソフスキーを批判しているが、しかしそれらは皆、シドウ同様いずれも表面的な些事にとらわれ、残念な事に、物事の本質からはかけ離れた空論と化してしまっている。

 と言うのも、彼等のうち誰一人として、カラソフスキーの行った最も罪深い改ざんについては言及していないし、また、カラソフスキーは手紙を改ざんしただけではなく、伝記部分に多くの作り話を書き込み、その証拠を捏造するために完全な贋作書簡までをも創作し、掲載していたからだ。そしてそれらの贋作書簡は今現在も尚、「ショパンが書いた本物の手紙」として取り扱われ、あらゆる伝記や研究書等で引用され続けている。

 

現時点で、完全にカラソフスキーの創作であると断定出来る贋作書簡は、以下のものである。

 

1.      「ウィーン時代のマトゥシンスキ書簡」全2通。※ただしこれらは、後世においてそれが更に改ざんされ、34通に分けられるなどして、いくつも異稿が混在している

2.      「最晩年のヴォイチェホフスキ書簡」全2通。

 

つまり本稿は、その事実を世界で初めてここに告発する事になる。 

その具体的な検証は本編にて詳述するが、ここでは、カラソフスキーがそれらの贋作書簡を創作するに至った動機と、その背景とを明らかにしたいと思う。

 


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3.最初の書簡編集者カラソフスキー、その欺瞞の数々――
  3. Karasowski, first Chopin's letters editor, the diversity of deception-

 

 

それでは、何故、「カラソフスキーに対するシドウ等の追及」がそれほどまでに手ぬるいのか? それは、ショパン関連の著述家達が、一人の例外もなく、その出足から大きな認識間違いをしているからだ。これについては、大きく二つの点が挙げられる。

 

まず、「ショパンが家族に宛てた手紙」には、典拠の違う二種類のものがあるのだが、実はこの件に関しては、もっと深く関心が払われなければならないのだ。

と言うのも、シドウは「前書き」で、「偉大な作曲家が彼の家族に宛てた手紙は、二人の姉妹、ルドヴィカ・イエンドジェイェヴィツとイザベラ・バルチンスカの間で分配されたと書いていたが、そもそもこれが大きな誤りだからである。

何故なら、手紙は「分配された」のではなく、実際は、始めから「それぞれが個別に受け取ったもの」を、それぞれが所有し、別々に保管していたに過ぎなかったからだ。この点を疎かにすると、「カラソフスキーが実際に手にしていた書簡資料」の正体が見えてこず、彼の改ざんは指摘出来ても、贋作にまで気付く事は出来ない。

 

まず、姉のルドヴィカだが、ルドヴィカは、ショパンがパリに移住した翌年の1832年に結婚し、それ以降亡くなるまでずっと実家を出ていたのである。

伝記等でそこまで細かく言及しているものはなく、ほとんどの一般の読者が、ワルシャワのショパン家は娘婿共々皆で同居していたかのように錯覚させられているが、そうではない。両家は同じワルシャワ市内でそれほど遠く離れてはいなかったが、決して近所でもなかった。そのためショパンは、以降、実家の「父ニコラ宛」と、ルドヴィカの嫁ぎ先である「カラサンティ・イエンドジェイェヴィツ宛」と、二通りの宛先に手紙を出していたのである。これは、それぞれの宛名を確認する事の出来る手紙がいくつか存在する事と、その内容に明らかな違いが見られる事からも分かる。

      基本的に、「実家に送られた手紙」は、家族皆で集まって回し読みし、あれこれと話題に花を咲かせ、それからそれぞれが返事を書き、それをまとめてショパンに返信していた。それがショパン家全体の最も幸福な団欒のひと時となっていて、彼等があたかも同居していたかのように錯覚させられてしまうのも、そんな事情があるからなのだ。

ルドヴィカはそれ以外にも、彼女がパリでショパンを看取った際に、遺品として残された、家族や友人知人からの「ショパン宛の手紙」の多くを持ち帰っていて、それも自分で保管していた(その中には、元婚約者マリア・ヴォジンスカとの悲恋の思い出『我が悲しみ』の書簡束も含まれていた)。そしてそられはルドヴィカの死後、彼女の娘の嫁ぎ先で「イエンドジェイェヴィツ夫人の相続人であるチェホムスキ家」に引き継がれた。

 

一方、妹のイザベラも、1834年に結婚して一度実家を出ていたが、この夫婦は子供が授からなかった事もあり、後に再び親と同居していた。その結果イザベラは、母の死後、「実家宛の手紙」全てをそのまま引き継ぐ事になったので、したがって彼女の所有していた手紙が18311845のものに限定されているはずがなく、実際は、そこには、少ないながらも「それ以外の」期間(少年期の1824年から没年の1849年まで)の実家宛の手紙も含まれていた。

      勿論、実家を出ていた当時の「イザベラ夫妻宛の手紙」も一緒に保管されていた。しかしそれらはもはや、その存在を数通だけ、他の書簡の記述から間接的に確認し得るのみである。

それらは全て、身内以外誰の目にも触れる事なく消失してしまったため、その全容を確認する事が出来ないだけだ。シドウは18311845に書かれた手紙がバルチンスカ夫人、それ以外のものがイエンドジェイェヴィツ夫人の許にあったと考えられると書いていたが、この1831~1845年に書かれた手紙がバルチンスカ夫人」の所有となっていたのは、要するに、この期間とは、パリ移住直後から父が亡くなるまで(1844年没)を意味しており、これは単に、父の存命中には、基本的にほとんどの手紙が「実家宛」に出されていたからなのである。そしてこれらの手紙がきれいに失われ、ショパンの書簡資料からごっそり抜け落ちている訳だが、しかし同じ年代の手紙でも、「ルドヴィカ宛」は少ないながらも残っている。これはつまり、それらは別の住所に出されていて、個別に保管されていたからなのだ。

 

このように、何故シドウが「分配された」などという認識間違いを犯すのかと言うと、父の死を受けて、1845年」以降は必然的に「ルドヴィカ宛」の量が増え、そしてそれらが多数残っているために、あたかも手紙が、後から年代別に「分配された」かのように見えてしまうからなのだ。

だが、始めから「イザベラ所有の手紙」と「ルドヴィカ所有の手紙」をきちんと区別していれば、「分配された」だとか「…と考えられる」などと当て推量せずとも、失われている手紙が何故失われていて、残っている手紙が何故残っているのかが、それぞれの所有者とその保管場所を根拠に、全てきれいに説明がつくのである。

 

したがって、ショパンの手紙を検証する上で、この二種類の典拠ははっきりと区別されなければならず、同じ「家族書簡」という括りで扱うべきではないのだ。

何故ならそれによって、「カラソフスキーが実際に手にしていた書簡資料の実態」も明らかにされ、彼の欺瞞を暴くための決定的な状況証拠となり得るからだ。と言うのも、カラソフスキーはこの二つの典拠のうち、「イザベラ所有の手紙」しかその存在を認識しておらず、「ルドヴィカ所有の手紙」については一切言及していないからである。

 

 

そして、もう一つの認識間違いは、誰もが、「カラソフスキーがショパンの家族と親交があって、手紙やその他の記念品を全て見る事が許されていた」と思っている事だ。しかしこれも大きな誤りである。

 

そもそもそれは、カラソフスキーが自分でそのように吹聴しているだけの話に過ぎず、実際は、カラソフスキーが「参照する事を許された」手紙とは、妹のイザベラが所有していた「実家宛」のものだけなのだ。

もっと厳密に言えば、更にその中から、

1.         1828年の「ベルリン旅行」時の手紙が3通、

2.         1829年の「第1回ウィーン訪問」時の手紙が7通、

3.         そして1830年に祖国に別れを告げた直後の「ウィーン時代」の手紙が10通、

…と、この、3つの「ドイツ語圏の旅行記」から、内容的に当たり障りのないものが厳選され、カラソフスキーに資料提供されていただけなのである。

      たとえば、「ウィーン時代」の手紙には、丸々5ヶ月もの空白期間がある。ウィーン時代の手紙は大体「月に2通ペース」で普通に書かれているが、この時期に突然のこの空白は考えられず、しかもその空白の前後の手紙の内容には何の繋がりもない事から、この空白期間にも確実に手紙は存在しているはずで、したがってそれらの手紙がカラソフスキーに資料提供されていなかった事は明白なのだ。

 

カラソフスキーの著書に掲載されている家族書簡とは、実際これで全てなのだ。これは、このすぐ後でドレスデンに亡命する事になるカラソフスキーが、ドイツの読者を対象にショパン伝を書こうとしていた事実と無関係ではあるまい(彼は後にモーツァルトとシューマンの伝記も書いている)。彼はそれを口実に、やっとイザベラからこれらの手紙だけを入手する事に成功したのだと考えて間違いない。何故なら、ワルシャワ時代の家族書簡は、それ以外にも1824年~1827年にかけてワルシャワ郊外の旅先から実家に宛てた手紙が4通確認されているが、そのいずれもカラソフスキーは知らないからだ。その証拠を挙げるのは簡単だ。

 

1.         14歳の時に初めて書いたシャファルニャからの家族書簡1824810日付)

       この手紙について彼は何も触れていないし、その内容も伝記には一切反映されていない。また、それと同時期に遊びで書かれた、新聞のパロディである『シャファルニャ通信』に関しても、「家族の者が蒐集したフレデリックの記念物の中に、一八二四年の分が二冊ある」(※モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より)と書いているが、実際は現在、『シャファルニャ通信』は全部で少なくとも4~6紙が知られており、しかも「一八二四年の分」も何も、『シャファルニャ通信』は「一八二四年」にしか書かれていないのだ。

2.         15歳の時、やはり夏休みにシャファルニャから出された家族書簡1825826日付)。

       これもカラソフスキーは知らず、1825年のエピソードにはシャファルニャでの休暇自体が触れられていない。何よりも、以上の2通には、ショパンの少年期における最大の親友であるヤン・ビアウォブウォツキについての記述が見られるにも関わらず、カラソフスキーの伝記には、この重要人物の事がその名前すら一言も書かれていないのである。

3.         16歳の時にライネルツから出された家族書簡1826811日付)。

       これは現存していないが、少年期のピアノ教師ジヴニーが、その手紙に対してライネルツのショパン宛に返事を書いていた事から(同19日付)、その手紙の存在とおおよその内容が間接的に確認出来たのである。それによると、有名なライネルツでの慈善コンサートは、そのジヴニーのアドヴァイスに負う面もあった事を示唆している。しかしカラソフスキーはそれを知らないため、単にショパン一人による美談にしてしまっている。これでは、当時世間一般に流布していた上っ面な情報を、そのまま流用していたに過ぎない事が暴露されるだけである。

4.         17歳の時にコヴァレヴォから出された家族書簡

       この手紙についても何も触れられていないし、また、読んでいた事を裏付けるような記述も一切見出せない。

 

ワルシャワ時代の家族書簡は、この後、先述した1820歳までの「ドイツ語圏紀行」へと続き、それ以降はもう「パリ時代」に入る。14歳から19歳までのショパンは、毎年夏になると休暇で旅行に出かけており、その旅先から手紙を出す以外に、家族に手紙を書くという機会そのものがなかった。したがって現在確認されている、「パリ時代」以前の手紙の24通という数字は、(ウィーン時代の5ヶ月の空白を除けば)ほとんど実数と見なしても構わないほど、失われている手紙はそう多くはないと考えて良いだろう。

 

しかし、もっと問題なのは「パリ時代」の手紙で、これについてカラソフスキーは、何と驚くべき事に、「読んでいながら、写さずに家族に返却した」と、自著の序文で臆面もなくそう告白しているのである。

この、「書簡資料を売り物にしているはずの伝記作家」としておよそ信じ難い言動も、完全に嘘である。

その子供じみた嘘を暴くのも、至って簡単だ。何故なら、カラソフスキーが手紙を掲載する代わりに自ら書き込んだ「パリ時代の伝記部分」は、ほとんどが他人の著作物からの流用か、後に判明した事実とは食い違った憶測や作り話ばかりだからだ。「パリ時代」のものは「実家宛」と「ルドヴィカ宛」とがおそらく半々位だろうが、1863年」の暴動の際に誰の目にも触れる事なく完全消失した「イザベラ所有の手紙」とは違い、「チェホムスキ家」がワルシャワに住んでいなかったお陰で、「ルドヴィカ所有の手紙」は、ショパン宛の手紙も含め、その内容が後世に知られているものが多い。それなのに、その内容は一切カラソフスキーの著書には反映されておらず、したがってカラソフスキーが「ルドヴィカ所有の手紙」を一通たりとも読んでいなかった事もまた明らかなのである。その証拠も挙げたら切りがないが、ざっと例を挙げると次のようになる。

 

1.         カルクブレンナー(ショパンも尊敬していた当時の巨匠ピアニスト)への3年間の弟子入りに関して、カラソフスキーはショパンの両親が承諾したと書いているが、父ははっきりと疑問を呈していたし、母はこの件に関して一切コメントしていない。

2.         ショパンの記念すべきパリ・デビュー公演を失敗と見なし、報酬も名声も得られなかったと書いているが、事実はその逆である。これは後の研究で明らかになった事で(※小沼ますみ著『ショパン 若き日の肖像』(音楽之友社)より)、この件について書かれているはずの家族書簡は失われてしまっているが、もし事実がそうであるなら、家族を安心させるためにショパンがそれを報告していないはずがない。

3.         ショパンが祖国を発ってから5年振りに両親と再会を果たした際、両親は、彼等にとっての初孫で、ショパンにとっての甥となる、当時2歳になるルドヴィカの子供(長男のヘンリク)も連れて来ていたのに、その事が書いていない。

4.         婚約者のマリア・ヴォジンスカがショパンを裏切って伯爵と結婚し、その傷を癒すためにジョルジュ・サンドと交際したと書いているが、ショパンとヴォジンスカの婚約を破棄させたのは彼女の親であり、しかもヴォジンスカが伯爵と結婚したのは、ショパンとの破談から4年も後の事で、一方のショパンは、ヴォジンスカとの破談の翌年には、もうサンドと交際し始めていたのである。これでどうやって、ヴォジンスカにショパンを裏切れると言うのか? しかもヴォジンスカが結婚した伯爵とは、かつてのショパン家の雇い主で、ショパンの名付け親にもなったスカルベク家の息子だというのに、カラソフスキーはそれすら知らないのだ。この事実はルドヴィカによって、驚くべき事件として、ショパンに手紙で報告されている事なのである。

5.         ショパン最期の年の6月、ショパンは、看病を頼むために、手紙でルドヴィカを呼び、彼女は8月にはパリに来ていたのに、カラソフスキーはそれも知らず、そのルドヴィカ到着を、ヴァンドーム転居後の10月と書いている。

 

このうち「パリ・デビュー」に関しては、イザベラ所有の「実家宛の手紙」で報告されていないはずのない重要な話で、それ以外は全て、「ルドヴィカ所有の往復書簡」ではっきりと事実確認する事が出来る。

 

つまりカラソフスキーは、「パリ時代の手紙」は、実家宛のものもルドヴィカ所有のものも、一切読んでなどいないのである。

 

だが読んでいないばかりでは済まされまい。要するに、こういった事に関する情報が、ショパンの家族からカラソフスキーに、口頭でさえも告げられていなかったという事だ。だからこそカラソフスキーは、その情報の欠如を他人の著作物からの流用と作り話でもって埋め合わせたのである。ニークスも指摘しているところのパリ移住と共に始まるそれ以降の時代に関する極端な情報の不足」とは、果たして手紙を書き写さなかった事から起こる現象だろうか? 違うだろう。読んでいないからこそ起こるのであり、それ以外の理由など有り得ない(カラソフスキーに記憶力というものが完全に欠落していると言うのなら話は別だが)。

 

こんな事で、果たしてショパン家と交際していたなどと言えるのだろうか?

カラソフスキーの伝記が、実際はこのような条件下で執筆されていたと分かれば、彼の犯した罪が「無礼にも巨匠の文体を修正してしまった」どころでは済まされない事が容易に想像出来るだろう。

 


【▲】 【頁頭】 【▼】

4.カラソフスキーとショパン家の「交際」の実態(その1)――
  4. Karasowski and Chopin's family, the actual situation of their friendship (Part.1)-

 

 

それではここで、カラソフスキーとショパン家との、その「交際」なるものの実態を具体的に明らかにするとしよう。

 

先述したように、彼がショパン家と交際していたというのは、あくまでもカラソフスキー自身が自著の序文でそう語っているだけの話に過ぎず、それ以外に何一つそれを裏付ける第三者的な証拠資料はない。カラソフスキーとの接触を確認し得る家族とは、あくまでも妹のイザベラただ一人だけなのだ。にも関わらず、彼はその事実を曖昧にして、敢えて「家族」としか表現していないところに、カラソフスキーの欺瞞の全てが凝縮されている。

そしてその序文とは以下の通りである。

 

「原著者の序文

私は幾年かの間フレデリック・ショパンの家族と交際していたから、彼の手紙に接することもそれ等を世に出すことも出来た。ちょうど第一集(彼の青年時代の手紙)の書き写しを終り、第二集(パリよりの消息)を年代順によって纏めていた時、ポーランドには一八六三年の暴動が起り、祖国の時局のために喚起された感情は、文学及び芸術上の所産に対する公衆の趣味を減退させた。で私はショパンの手紙の刊行を延期するのが得策だと考えた。

私がショパンの家族へ原文の手紙を返した時、それ等が数ヶ月の間に失われようとは夢にも思わなかった。事の起りは適当な場所で説明しよう。この損害は甚大また回復し難いものである。なぜかとなら、ショパンが最も華々しいまた最も興味ある時代に、パリより送った手紙の数は決して僅少でなかったからである。

私はショパンの友人や崇拝者の多数の希望に従い、彼の生き残った姉が提供してくれた材料と、私がワルソウ(※ワルシャワ)で出版した彼の手紙、及びその他友人に与えた若干の手紙をもとに、彼の一生の略図を描こうと企てた。

ショパンの年少時代に関する詳細を、残すところなく収めたこの書において、私はドイツ及びフランスの雑誌や著書に見出される間違った日附及び誤述を訂正した。もし私がこの不滅の芸術家の生けるが如き肖像を、首尾よく読者に紹介し得たなら、それは私の愛の努力に対する最高の報酬であろう。

著者識」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より  

 

この邦訳版では、「幾年かの間」「交際」という訳が当てられているが、どうやらこれは英訳版からの重訳のようだ。実はカラソフスキーの原著はドイツ語で、そこではこの箇所は直訳上「長年の交友関係」という意味の語句Langjähriger Freundschaftが使われている(ちなみに英訳版はSeveral years of friendship)。カラソフスキーとショパン家との交際期間がどれくらいあったかを推測する上で、これでは、意味も印象も全く違ってしまう。したがって、残念ながら邦訳版は、引用するにあたっては注意が必要なようである。

      「彼の生き残ったと書かれているのは誤りである。姉のルドヴィカは当時既に亡くなっており、「一八六三年の暴動」後も生き残っていたのは妹のイザベラだけなのだ。しかしこれは単に訳者の認識不足からくる誤訳で、これは、ショパン伝において常に姉の存在ばかりが大きく扱われる事と、西洋の言葉には日本語の兄弟姉妹のようにその上下を区別する単語がない事にも起因している。原著のドイツ語版では、この箇所に「シュヴェスター(schwesterという、英語で言うところの「シスター(sister」に相当する単語が単数形であてられており、しかも「年上の」とも「年下の」とも書かれていないので、ショパンについて詳しい知識のない者には、この序文を読んだだけでは、これが姉なのか妹なのかを特定する事が出来ない。しかし、この一見もっともらしく見えて実は曖昧な書き方は、明らかにカラソフスキーの確信犯的なレトリックで、邦訳版における誤訳もその結果として引き起こされたものなのだ。つまりカラソフスキーはこう書く事で、彼が実際に面識のあった家族が実は妹ただ一人だけだったという事実から、巧みに読者の目を逸らそうとしたのである。先述したように、ショパンの手紙の典拠を明らかにする上で、それが姉か妹かを特定する事は非常に重要な事なのだ。実は、カラソフスキーの伝記の執筆自体は1862年から雑誌に連載する形で始まったのだが、しかしこの「序文」に関しては、原著が1877年に二巻本としてまとめられた際に後付けで書き足されたもので、その原著の序文にはきちんと「ドレスデン、1877年。モーリッツ・カラソフスキー。」と記名されている。しかしこれはおそらく初版だけで、翌1878年の第二版以降は増補改定されているためか、文章は同じだがこの年号入りの署名だけが序文から削除されている(この著書には古今東西に渡って何通りもの版違いが存在するので、いちいちその全てを確認した訳ではないが、第二版を使用している邦訳版や第三版の英訳版の序文にもこの署名はない)。この「序文」が書かれた1877年」の時点でもイザベラはまだ存命中であり、したがってカラソフスキーの本では、ショパンの家族紹介で唯一彼女だけ没年(1881年)が記されていない。つまりそこまで読み進まないと、「序文」のこの「シュヴェスター(schwesterが誰であるか一般の読者には全く分からないのである。

      ポーランドのショパン協会のオフィシャル・ページには、ドレスデンのカラソフスキー夫妻がイザベラと手紙の交換をした事を示す資料が掲載されていたのだが、どういう訳か今現在では画像が削除されていて(初めからなかったのか?)、残されている見出しと説明文には、「アレクサンドラとモーリッツ・カラソフスキーよりイザベラへ、そしてショパン作品の新版と同様にその作曲家の伝記に関する、カラソフスキーへの彼女の応答」とある。これだけ見ると、カラソフスキーはイザベラに頼んで、ワルシャワのショパン関連の出版物に関する最新情報を得ていただけのようにも思われる。しかしこれでは、交際していたと言う割にはあまりにも事務的なやり取りだし、それに、元々ワルシャワで出版業界に属していたカラソフスキーが、何故そのような情報をわざわざ一般人のイザベラから引き出そうとしなければならないのかという点にも不審が残る。

      カラソフスキーは「パリより送った手紙の数は決して僅少でなかった」と書いているが、「僅少でなかった」どころではない。たとえば先述したように、「パリ時代」以前の家族書簡は確認されているだけでも24通しかなく(そのうちカラソフスキーが実際手に入れたのは20通だけ)、それに対して「パリ時代」以降は、あらかじめ定期的に手紙を出すように約束されていたらしく、父ニコラは息子から手紙が2週間届かないだけで不安を口にし、もっとまめに書くように催促しており(18341124日ワルシャワ消印の手紙等)、その事から推測して、仮にショパンが最低でも月に2通は書いていたとすると、単純計算で、18年間で優に400通を超える数にのぼる事になる(ウィーン時代が大体このペースで書かれている。勿論、筆不精なショパンであるから、それより下回る可能性がかなり高いが、仮に月に1通としても結構な量だ)。それを「決して僅少でなかった」などというピントのずれた表現でしか書けないところに、カラソフスキーがショパンの手紙の全貌を全く把握していなかった事が察せられる。しかも「パリ時代の手紙」は、必ずしもパリからのみ出されていた訳ではない。そのうちの少なくとも3分の1前後が、旅行先であるスペインのマヨルカ島から、あるいはジョルジュ・サンドの別荘のあるノアンから、あるいはイギリス遠征中にはイギリスから、その他それぞれの出先からも多数出されているのだ。したがって、「パリ時代の手紙」を安易に「パリより送った手紙」と総称してしまう事自体が、カラソフスキーが断じて「パリ時代の手紙」を読んでなどいないという事実の裏付けにもなるのである。

 

カラソフスキーの子孫を自称するアダム・ハラソフスキは、カラソフスキー個人とその著書に関する興味深い情報を提供してくれる。ハラソフスキ自身はどういう訳か、せっかくの情報や資料を羅列するだけで満足してしまっているが、実はそれと照らし合わせる事によって、カラソフスキーの「序文」の虚偽がより明白となる。

 

「モーリッツ・カラソフスキーは、1823922日にワルシャワで生まれ、1892420日にドレスデンで死んだ。…(略)…カラソフスキーはワルシャワにいた時、ショパンの家族(イエンドジェイェヴィツ家とバルチンスキ家)と交際していて、家族が持っていた全てのショパンの手紙と自筆譜に自由に接する事が出来た。これらの貴重な材料が、ショパンの伝記を編纂するため彼によって使われた。彼はその事によって最も有名である。(ショパンの姉ルドヴィカ・イエンドジェイェヴィツ(※原文通り。本来ポーランドの女性姓は「イエンドジェイェヴィチョヴァ」と表記されるべきである)―旧姓ショパン―は18551029日に、彼の母親は1861101日に、妹のイザベラ・バルチンスカ―旧姓ショパン―は188163日にそれぞれ亡くなった)。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より  

 

ハラソフスキもシドウ同様、「家族が持っていた全てのショパンの手紙と自筆譜に自由に接する事が出来た」、という認識間違いをしている。

しかしこれは、単に誰もがカラソフスキーの序文をそのまま鵜呑みにしてしまっているだけの話なのだ。そもそもショパンの遺族が、どうして身内でもない人間(しかもジャーナリスト)に、自分の家族のプライベートを無防備にも全て公開するような真似をするというのか? 常識で考えても分かりそうなものである。しかもショパンの手紙は、あのモーツァルトほど悪ふざけはしていないものの、決して優等生的な文章だけで貫かれていた訳ではないのだから。

たとえばショパンの家族は、ワルシャワ音楽院時代の師であるエルスネルに対してさえ、ショパンから送られて来た手紙を直接彼には見せず、ショパンからの伝達事項だけを拾い読みして聞かせていたのである(18311127日付、ルドヴィカからの手紙)。他にもたとえば、イザベラが結婚して実家を出ていた当時、母が父に内緒でした借金の返済をショパンに頼み、その返事をイザベラの嫁ぎ先であるバルチンスキ宛に出すよう指示した母からの手紙がある(1842321日付)。これは、バルチンスキ家が実家から離れていたお陰で、ルドヴィカ宛にするよりも、秘密を守るのに都合が良かったからである。このように、ショパンの手紙には、身内の恥を晒すようなものまであったのだ。このような事情からも、ショパンが、「実家宛」と「ルドヴィカ宛」と「イザベラ宛」と、それぞれに分けて手紙を出していたのには必ずそれなりの理由があり、(中には、ルドヴィカが結婚した際に、その夫となったカラサンティ個人に宛てた祝福の手紙すら含まれている)、したがって、姉妹が個別に所有していた物が「全て」一つところに集結する事などあり得ないのである。

 

1863、ロシアの抑圧に対するポーランドの反乱が悲劇に終わった後、カラソフスキーは1864年初頭にドレスデンに移住し、そこで彼は、サクソン・ロイヤル・コート・オーケストラ[現在のドレスデン州立オーケストラ]のチェロ奏者になった。彼は、1892年に亡くなるまでこのポストに就いた。ドレスデンのサクソン古記録文書館のお蔭で、ドレスデン州立劇場における宮廷音楽家としてのカラソフスキーの経歴について、若干の興味深い詳細が得られた。まず第一に、彼のドレスデン到着は1864年であり、故J.ライス教授の『ポーランドの音楽と音楽家の百科全書』(P321)に記されているように1868年ではなかった…(略)…

カラソフスキーはドレスデンでの滞在期間に、ショパンに関する彼の最初の研究に精力を注ぎ、1862年にワルシャワで『フレデリック・ショパンの青年時代』というタイトルの下で開始された。それは186210月に最初にワルシャワの定期刊行物に掲載され、その後1869年まで続けられた。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より  

 

この段階でまず、以下の事が明らかになる。

 

1.         カラソフスキーが連載を開始した186210月」とは、ショパンの母が亡くなった1861101日」のちょうど一年後であり、その時既に、ショパンの家族はもはやイザベラ一人しか生き残っていなかった。つまり彼は、実際はイザベラ夫婦としか面識がなかった可能性があるという事。それはカラソフスキー自身が自著の序文で、「彼の生き残った(※実際はが提供してくれた材料」を基に執筆したと書いている事からも十分にうかがわれ、要するに、彼の執筆活動には、初めからイザベラ以外の遺族は一切関与していなかったのだ。たとえば、姉ルドヴィカは生前、ショパンやその他の関係者達のプライベートを守る事に対して非常に頑なで、ショパンの死から僅か2週間後に、リストがショパンの伝記を書くためルドヴィカに質問状を送った時、彼女はそれを完全に無視したという事実がある(※このエピソードやリストの著書に関して、ハラソフスキらが的外れな誤解を流布しているが、それについてはまた別章で詳述しよう)。生前のショパンがそうだったように、あくまでもジャーナリズムに対して一線を引こうとするこのルドヴィカの決意行動が、慎ましやかなショパン家の人々の倫理観や価値観を代表していると考えていい。そんな中、音楽家としても文筆家としても友人としても、リストに遠く及ばないカラソフスキーが、このような「ショパン家の牙城」を崩して、伝記執筆のための協力要請など果たせるものだろうか? そこで彼は、ルドヴィカ亡き後、更に中でも最も慎ましかったショパンの母が亡くなるのを見届けてから、一番人の良さそうな(つまり取り入り易そうな)イザベラが一人残されたのをいい事に、おそらくポーランド的な理由を盾に(彼がリストに勝るとしたらこれしかない)言葉巧みに接触を図り、やっと「ドイツ語圏紀行」の手紙だけを借り受けた……、何かそんな様子が目に浮んでくるようだ。

2.         したがってその連載の内容は、当然の事ながら、「『フレデリック・ショパンの青年時代』というタイトル」が示すように、始めから「ワルシャワ時代」に限定されていたのだ。元々「パリ時代」は資料提供されていなかったのだから、当初「パリ時代」までは考慮されておらず、この「タイトル」がその何よりの証拠である。したがって、「第一集(彼の青年時代の手紙)の書き写しを終り、第二集(パリよりの消息)を年代順によって纏めていた」というのが明らかに嘘である事。彼が「パリ時代」を構想したのはあくまでも「一八六三年の暴動」以降で、彼がドレスデンに亡命した後の話だ。

3.         しかもその連載は、「その後1869年まで続けられた」のだから、その間に「一八六三年の暴動」が起ころうが起こるまいが全く関係なく、彼は実際は「ショパンの手紙の刊行を延期」などしていなかった事。つまりこれも完全に嘘である。それにそもそも、仮に「刊行を延期」するからといって、何故それが執筆作業そのものまで中断して手紙を返却しなければならない事の理由になるのか? それとこれとは全く別の問題であるはずだ。直ぐに発表しなければ何の意味もないと考えていたなら話は別だが、カラソフスキーのショパンへの「愛の努力」(ニークスの言葉を借りれば抑制される事のない偏愛」とは、そんな程度のものではないはずだろう。

4.         カラソフスキーは「幾年かの間フレデリック・ショパンの家族と交際していた」と書いているが(実際は「長年の交友関係があった」と書いていた訳だが)、彼自身1864年」にドレスデンに亡命して以降二度とポーランドの土を踏む事なく死んでいるのだから(彼はその辺の自分の経歴については一切触れていない)、唯一面識のあったイザベラでさえもせいぜい2~3年程度の付き合いしかなかったという事。つまり(およそ事務的としか思われない)異国からの手紙の交換を含めた場合に限って、「長年の」という表現が正当性を持ち得るに過ぎない(まさかそのアリバイ工作のために、わざわざイザベラにあのような手紙を出したのだろうか?)。

5.         更にそれに関連して、何故『ポーランドの音楽と音楽家の百科全書』では、カラソフスキーのドレスデン到着が1868年」とされていたのだろうか? おそらくこれは、カラソフスキー本人が、自分が「一八六三年の暴動」から半年足らずの翌年に亡命したという事実を、世間の目から隠そうとしていた可能性がある、という事を示唆しているのではないだろうか? 彼の著書には、はっきりと反ロシア的論調が見られるため、彼が当局の追及を逃れようと経歴を詐称していた可能性は大いにある。ハラソフスキは、カラソフスキーがその後、名前の綴りを2度変えた事について言及し、それを、綴りをドイツ風にして彼がドイツに馴染むためと解釈しているが、果たしてその程度の理由で2度も綴りの変更を行うだろうか? それに、そもそもポーランド人のカラソフスキーが、何故ワルシャワにいた当初からその原著をドイツ語版で執筆し始める必要があったのか? その理由も、そのような政治的事情と無関係ではないだろうが、同時に、わざわざ翻訳という手順を踏めば、「不幸にもドイツ語に移すことの出来ないものが沢山ある」(※モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より)という事を大義名分にして、却って手紙の改ざんや贋作もやり易くなり、かつ、その痕跡をうやむやにするのにも好都合だったから、という憶測も十分に可能である。当時の状況を突き詰めて考察すると、カラソフスキーがショパン伝執筆を思い立った時期と、当時ワルシャワを支配していたロシアに対するポーランド人の反乱の機運の高まりとは、完全に時を同じくしている。ジャーナリストでもあるカラソフスキーは、当然、その市民感情を代弁する使命感と、何らかの政治活動に加担する動機とを抱いていた。そこで音楽家でもある彼は、ショパン、及びその父親を必要以上にポーランド的に美化する事で、その目的を果たそうと考えたのだ。しかしそれも僅か1年後、ついに勃発した「一八六三年の暴動」が失敗に終わった事によって、彼の立場は微妙なものとなってしまう。しかし彼は敢えて伝記執筆を継続するためにも、早々とドレスデンに亡命したのである。

 

このように、カラソフスキーの伝記執筆の背景の、驚くべき実態が白日の下に晒されれば、以下のようなハラソフスキの嘆きが全く無意味で的外れである事も分かるだろう。

 

「何とも哀れな事に、カラソフスキーとはいかに不満足な伝記作家であったか! 彼には、ワルシャワのショパンの家族の親友であるという、ユニークで又とない機会があった。彼は、作曲家の姉であるルドヴィカ・イエンドジェイェヴィツと、彼女の娘のルドヴィカ(後のチェホムスカ)、またショパンの妹であるイザベラ・バルチンスカと、彼女達のそれぞれの夫であるカラサンティ・イエンドジェイェヴィツとアントニ・バルチンスキを知っていた。彼は全てのショパンの手紙と原稿に自由に接し、ショパンの親友や、彼の人生に直接知識のあった多くの人々に会った。それなのに彼は、何とまずいやり方で、これらの極めて稀な機会を無駄にした事か!」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より  

 

カラソフスキーは、決して「不満足な伝記作家」でもなければ、「稀な機会を無駄に」もしていない。まして「ショパンの家族の親友ですらない。彼はただ嘘をついているに過ぎず、ハラソフスキらが単にそれに騙されているだけなのである。しかも、ルドヴィカ夫妻とイザベラ夫妻を知っているはずの人間が、何故母のユスティナだけ知らないのか? ルドヴィカ夫妻が存命中の晩年には、イザベラ夫妻とユスティナは同居していたのだから(この事自体はカラソフスキーの伝記にも書いてある)、したがって、両夫妻を知っていてユスティナだけ知らないなど、そんな事は物理的にあり得ない話なのだ。それは要するに、「いつ」イザベラと知り合ったのかという時間軸的な事実を、言外に匂わせてしまっている事にしかならないはずだ。つまり、ユスティナの死後である。ユスティナの死後という事は、つまり、もはやイザベラしか生き残っていない時期を意味する。

同様に、ルドヴィカ夫妻を知っているはずの人間が、彼等の子供達のうち「娘のルドヴィカ(後のチェホムスカ)」しか知らないなどと言う事も常識的にあり得ない話だ。子供は全部で4人いたのだから。つまりどう考えても、カラソフスキーがルドヴィカ及び彼女の嫁ぎ先であるイエンドジェイェヴィツ家と面識があったはずもないのである。たとえば彼は、以下のようにしかこの家族を紹介していない。

 

「長女のルイザ(※ショパンの姉のルドヴィカの事)は一八〇七年の四月六日に生れ、極めて行き届いた教育を受け、間もなく大いに両親の手助けになった。彼女は異常な知識上の才能と勉強と頗るすっきりした風采とに勝れていた。彼女は妹イサベラと協力して、労働者階級を向上させる最善の手段を研究した著述を幾冊か書いた。一八三二年にエトルゼウィッチ(※イエンドジェイェヴィツ)教授と結婚してからは、子供(※原著では一応複数形ではある)の教育に一身を捧げ、文学には以前ほど注意しなくなった。とはいえ全然ペンを棄てた訳ではなく、種々な雑誌に青年の教育に関する論説を発表した。彼女は一八五五年の十月二十九日に死んだ。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より  

 

この、ルドヴィカの「頗るすっきりした風采」とは、一般的によく知られている、彼女の若かりし日(22歳当時)の肖像画によるイメージに過ぎず、彼女の晩年(と言っても享年48歳なのでその数年前だが)の肖像画のイメージとはやや異なる。しかも実際に面識のあった者が、このような事務的な履歴データの羅列だけでその人の紹介を済ませられるものかどうか、よく考えてみて欲しい。直接会った者にしか持ち得ない印象やエピソードといったものが、ここには一つも書かれていないではないか。

更に、彼女の夫カラサンティの没年は1853年なので(このデータはカラソフスキーも別章に記載している)、仮にカラソフスキーがカラサンティと面識があったとするなら、彼等は少なくともそれ以前から知り合いでなければならない事になり、それは実に、カラソフスキーが伝記の執筆を開始するちょうど10年前になるのである。しかしカラソフスキーの筆致は、とても10年来の付き合いのあった者のそれではない。

そしてイエンドジェイェヴィツ家の4人の子供達とは以下の通りである。

 

名前

生年-没年

カラサンティ没年時の年齢

カラソフスキーと接触可能な交際期間

長男、ヘンリク

18331899)享年66

20

18531892)=39年間

長女、ルドヴィカ

18351890)享年55

18

18531890)=37年間

次男、フレデリック

18401857)享年16

13

18531857)=4年間

三男、アントニ

18431922)享年79

10

18531892)=39年間

      「カラサンティ没年時の年齢」とは、すなわちカラソフスキーがカラサンティと面識があった事を前提とした場合、彼が子供達と知り合っていたはずの当時の最長年齢。いずれも十分に会話が可能である。

      「カラソフスキーと接触可能な交際期間」とは、それを基準に双方の没年から換算した年数(カラソフスキーは1892年没)。つまり直接間接を問わず、友人知人として遺族から情報を得るのに、カラソフスキーには更にこれだけの年月の猶予があった事を示す。

 

さて、このような、「ショパンの家族の親友であるという、ユニークで又とない機会」を、カラソフスキーは有効に使っていたのだろうか?

 

1.         このうち長男のヘンリクは、先述したように、パリ移住後のショパンが5年振りに両親と再開した時に同伴しており、当時2歳とはいえショパンとは面識があり、その事はルドヴィカ所有の彼女宛の手紙に書いてある。しかしこの手紙の存在を知らないカラソフスキーは勿論その事を知らず、当然彼の伝記にはその事までは触れられていない。ヘンリクにとっては唯一の、叔父に関する取るに足らない自慢話かもしれないが、それについてカラソフスキーは、たとえ面識があったとしても、本人からすら口頭でも知らされていないという事だ。

2.         次男のフレデリックは、その名が示す通りショパンが名付け親になっており、その事もやはりルドヴィカ所有の手紙に書いてある。皮肉にも名付け親以上に若くして亡くなったが、それはルドヴィカの死の2年後なのだから、カラソフスキーはルドヴィカ夫妻以上に、彼の夭折についても知っていなければおかしいのだ(父親の僅か4年後に後を追うというのも、ショパンの辿った運命と酷似している)。まして「ショパンの家族の親友」と言うのなら、彼等それぞれの葬儀にすら出席していてもおかしくはなかろう。

3.         三男のアントニは、おそらくイザベラの夫が名付け親だと思われるが、彼についてはショパンの手紙からは直接的なコメントがあまり見出せない。しかし間接的にはその存在が確認される書かれ方はしている。その分ショパンに関する情報がほとんど見込めない人物だとも言え、彼は名付け親同様に比較的長寿であるにも関わらず、名付け親以上に、ショパン伝からはほぼ完全に置き去りにされた「甥」である。

4.         カラソフスキーがこの4人の中で触れているのは、唯一、ショパンの姪にあたる2番目の子供のルドヴィカだけなのである(しかもその書き方も非常に曖昧で、とても面識のあった人のそれではない。それについてはこの直ぐ後で説明しよう)。だが、要するにそれは、単に彼女だけがショパン関連の遺産を直接母親から引き継いでいたからに過ぎず、カラソフスキーの関心が始めから完全にそこにしかなかった事の証なのだ。つまりそれが、彼が何の目的でショパン家に急接近していたかを如実に物語っている。

 

これでは「交際」という言葉も空しく響くだけだろう。

 


【▲】 【頁頭】 【▼】

5.カラソフスキーとショパン家の「交際」の実態(その2)――
  5. Karasowski and Chopin's family, the actual situation of their friendship (Part.2)-

 

 

更にハラソフスキは、カラソフスキーを批判してこう続ける。

 

「彼の序文から、我々は彼がワルシャワでショパンの家族からたくさんのショパンの手紙を借りて、最初のシリーズ(すなわち、ショパンの青年時代の手紙)を、ちょうどポーランドでの1863年の反乱の発生以前に写していたという事を知っている。カラソフスキーがまだその時ワルシャワにいたのかドレスデンにいたのかははっきりと分かっていないが、しかしおそらく彼は両国間を行き来していて、そして最終的に、1864年初頭に永久にドレスデンに定着する。…(※ここでカラソフスキーの序文を引用して)…その論理性のない説明から浮かび上がる事は、カラソフスキーが全てのショパンの手紙を利用するつもりだったという事と、政治的理由のためにしばらくの間それらの刊行を延期したという事だけである。」

アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』

Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS AROUND CHOPINDA CAPO PRESSNew York)より  

 

ハラソフスキは、あれほどの情報を集めておきながら、どうしてこの程度の解釈でとどまる事が出来てしまうのだろうか? 先述したように、カラソフスキーの「序文」はあくまでも、原著のドイツ語版が本としてまとめられた際、そのために後付けで書かれたものだという事を忘れてはならない。つまり、所詮は、欺瞞を覆い隠すための「辻褄合わせ」に書かれたものだという事だ。ドイツの読者は、この本の元となった「ワルシャワでの連載状況」など一切知らないのだから、カラソフスキーが後付けで書いたドレスデン版の「序文」の内容など事実確認のしようがない。

だからカラソフスキーは、このように読者を欺く事が平気で書けるのである。

 

      ドレスデン版の翌年以降には、早くも英訳版がニューヨークやロンドンでも相次いで出版されている。ところが肝心の本国ポーランド語版は、実に、最後の生き証人であるイザベラが亡くなる1881年」の翌年まで待たされるのだ。このようにカラソフスキーの行動は、いちいち、最も重要な遺族が「死人に口無し」となるのを見届けてからなされており、それはまるで、関係者からの抗議や批判を避けるための保身としか思えない(カラソフスキーが連載を開始した186210月」が、母ユスティナの亡くなった1861101日」のちょうど一年後だった事を思い出して欲しい)。実際、彼の伝記のポーランド語版が出版された1882年には、ショパンの姪であるルドヴィカ・チェホムスカが、ショパンの臨終に関して、カラソフスキーの記述を部分的に完全否定する内容の手記を発表しているのだ。彼女は、ショパンの臨終に「確実に」立ち会った事が証明され得る数少ない証人の一人で、何よりも、他の著名で「不確実な」無数の証人達のように、ショパンの臨終に立ち会った事を己の功名心のために利用して吹聴したがるような卑しい動機も持っていない。

      また、カラソフスキーの初版本が出版された翌年に、ショパンの名付け親であるスカルベクの『回想録』が出版されているのだが、その際カラソフスキーは、それによって完全否定されてしまった父ニコラに関する自説を、何とその4年後に増補改定されたポーランド語版において、自ら削除してしまったのである(この事はニークスによって指摘されているが、詳細は次章にて)。ところがその一方で、更にその翌年に公表されたチェホムスカの手記によって否定された内容に関しては、その後も彼はいかなる変更も行っていない。それは何故か? 実はスカルベクが著名な学者で作家でもあったのに対し、チェホムスカには何の肩書きもなく、その上カラソフスキーは、情報源を明らかにしていない自説(要するに自分で書いた作り話)は何の躊躇もなく削除出来るが、情報提供者の名を明らかにして謝意まで述べている記述に関しては、双方の利益と名誉のためにも、簡単に非を認めて削除する訳にはいかないのである。この事からも、この人物の狡猾な立ち回り振りが垣間見えてくるようだ。

 

何度も言うように、「カラソフスキーが全てのショパンの手紙を利用するつもりだった」その「手紙」とは、あくまでも「イザベラ所有の実家宛」のものだけなのだ。

それは同時に、カラソフスキーの言う「私がショパンの家族へ原文の手紙を返した時、それ等が数ヶ月の間に失われようとは夢にも思わなかった」と言うその「手紙」もまた、あくまでも「イザベラ所有の実家宛」のものだけで、彼はルドヴィカが別に所有していた他の往復書簡の存在を全く知らなかった(あるいは、知っていながら入手出来なかったために黙殺した)。

そして実際に彼がイザベラから借り受けた手紙には始めから「パリ時代」のものなど一通も含まれてはおらず、全てそれ以前の「ドイツ語圏紀行」だけに限定されており、カラソフスキーはそれを手に入れると同時に連載を開始し、一年かそこいらのうちにその全てを書き写し終わったので直ぐにイザベラに返したのだ(借り受けたのは全部でたったの20通。そのうち1通半を数行に要約してしまったので、実際に書き写したのは高々18通半である)。

そしてそんな頃に「一八六三年の暴動」が起こり、反ロシア的な内容を盛り込んでいたため身の危険を感じた彼は、半年足らずのうちに翌年ドレスデンに亡命してしまった。そのせいで彼はワルシャワでの現地取材が全く出来なくなってしまい、その不自由な環境からもたらされる情報の不足を、無数の作り話と贋作書簡とで埋め合わせたのだ。

ところが、「暴動」に巻き込まれて手紙が失われてしまった事は、却ってカラソフスキーには好都合となった。何故ならそのお蔭で、あかたも彼が全ての手紙を読んでいたかのように読者に思わせ、その上でどんな作り話や贋作書簡をでっち上げても、証拠が消滅してしまった今、その嘘が暴かれる心配がなくなったと思ったからだ。とにかく彼は、イザベラ所有のものがショパンの手紙の全てだと思い込んでいた(あるいは、そういう事にしてしまおうとしていた)のだから。

そしてその嘘に信憑性を持たせるために、「私は幾年かの間フレデリック・ショパンの家族と交際していたから、彼の手紙に接することもそれ等を世に出すことも出来た」などと、半分本当で半分嘘の書き方をして身内の振りをし、まんまと読者を欺いていたのである。

 

そして以下がカラソフスキーの言う、「暴動」によってその「手紙」が失われた時の、「事の起りは適当な場所で説明しよう」というその「説明」である。これは、「第二集」にあたるパリ時代の章に移る直前に挿入されている。

 

「一八三一年にパリヘ到着してから一八四九年の死に至るまで、ショパンは家族との文通をつづけた。けれども不幸にして、この多数の手紙は一つとして残っていない…(略)…

        現在の我々はそれが事実ではない事を知っている。彼はイザベラ所有のものがショパンの手紙の全てだと思っているからこそ、このように断定してしまえるのである。

残忍な無情な兵隊が、ショパンの姉(※これも妹の誤訳)の住んでいた二階に来た時、家族の者全体が敬虔な注意を以て秘蔵していた偉大な芸術家の忘れがたみも、あわれにも破壊されてしまった。ショパンが初期の教導を受け、最初の音楽観念の腹心の友であり註解者であったピアノ――ブッフホルツ製の――はこうして野蛮人のために往来に投げ出された[プレーエルのピアノは幸にも田舎に住んでいたショパンの姪のツィエヒョムスカ(※チェホムスカ)嬢の所有になっていた]。彼らは夜になると打ち壊された家具をコペルニカス(※コペルニクス)の像の足下にある四辻に山と積み、湯沸しに葡萄酒や砂糖を一杯入れ、火を囲み、パンチ酒を作り、騒々しい歌を唄ってはしゃぎ廻った。絵画、書籍、紙類――ショパンが十八年間家族の者と取り交わした手紙もその中にあった――は、火焔をあげるために投げ込まれた。目撃者の話によると、或る友人の描いたショパンの肖像を手にした一士官は、言われ無き所為をする前に永い間熱心に眺めていたそうである。この町を照らした反映は軍人恐怖の時代が始まったことを、脅かされた市民に予告した。

        このようなロシア兵の蛮行を、カラソフスキーが身の安全を確保して思う存分書くためには、当然他国へ亡命する以外になかった訳である。尚、ここでもショパンの「妹」を「姉」と誤訳してしまっているが、これも序文の時と全く同じ理由によるものだ。ちなみにニークスの邦訳版である『フレデリック・ショパン―人および音楽家としての―』(田辺 節訳述/全音楽譜出版社)でも、このエピソードをカラソフスキーから引用しているためか、はやり同じように「姉」という誤訳を引き起こしてしまっている。この箇所は英語版原著でも「his sister」としか書かれていない。

けれども他の如何なる記念物の喪失よりも嘆かわしいのは、ショパンが家族に対する情愛、故国に対する愛、芸術に対する心酔、美であり崇高であるあらゆるものに対する嘆美を流露した手紙の隠滅である。パリから両親に送った手紙は日毎に新たな月荏冠を集め、主立った芸術家や著名の政治上の人物と交際した時代に書かれたもので、最大の興味があるばかりでなく、当時の忠実なまた目に見えるような絵として歴史的価値がある。何となればショパンはきびきびした、機智のある手紙の中で一言か二言かで、同時代の有名な人達に就いて、多くの長い念入りな記事に見出されるよりも更に真に迫れる人物評を与えているからである。

        このように、あたかもパリ時代の手紙を読んだかのように書いておきながら、その具体例を、彼はサンドの顔を中傷する以外に、一つとして紹介してもいない。それにショパンには、そのような評論家じみた文才などないし、また興味もない。

こうしてワルソウに於ける破壊工事のために、報道の価値ある始源を奪われたとは云え、伝記者は個人的知識[例えば一八三一年の秋の出来事の記事がそれである(※これは、ショパンが祖国を発った直後に起きたワルシャワの反乱がやはりロシア軍に鎮圧されたという、上記の「一八六三年の暴動」と似たような事件を指すが、こちらに関しては、当時カラソフスキーは8歳である)。家族のものに与えた初期の手紙は一八六三年より前にワルソウにて写されていた(※これが例のドイツ語圏紀行の18通半である)]とショパンが親しくしていた信用の出来る男女の陳述及び他の場所に保存されていた、友人に与えた手紙に安心して頼ることが出来る。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より

 

 

先にも触れたが、ここに書かれている「ショパンの姪のツィエヒョムスカ嬢」について、カラソフスキーはこれ以上何も説明していないのである。この「ショパンの姪」とは、再三触れている「姉ルドヴィカの娘のルドヴィカ・チェホムスカ」の事だが、しかしカラソフスキーはそこまで詳しく書いていないばかりか、イザベラ夫妻に子供がいなかった事についても触れていないため、全編を通じてこの「ツィエヒョムスカ嬢」が一体誰の娘なのか、知らない人には全く分からない書き方をしている。

      要するにハラソフスキはこの記述だけを見て、カラソフスキーがチェホムスカを知っていたかのように思い込んでしまっているようだが、カラソフスキーはチェホムスカについてはこの「プレーエルのピアノ」の事と「ショパンの臨終に立ち会った事」しか触れておらず、たったそれだけの話なら、おそらくそれはイザベラからそう聞かされていただけで、直接チェホムスカ本人と面識があった訳ではあるまい。それにチェホムスキ家は当時ワルシャワには住んでいなかったのだ。そもそもカラソフスキーの伝記の何処をどう読んでも、彼自身はイエンドジェイェヴィツ家と交際していたなどとはっきり書いてはいないのである。彼は単に、「イザベラとしか面識がなかったという事実」を曖昧にしていただけだ。ハラソフスキはそれを誤解して勝手に拡大解釈しているに過ぎない。

また、チェホムスカは14歳当時に、母ルドヴィカと共にパリでショパンを看取ったにも関わらず、カラソフスキーは当時のエピソードを綴るのに、その彼女をつかまえてたった一度、「親戚へは容態を通知したので、一番上の姉ルイーズ・エドルゼエウィッチ(※ルドヴィカ・イエンドジェイェヴィツ)夫人が早速夫ととを連れて、急いで彼の許に来た」(※同上より)と書いたそれきりなのである。ここでもその「娘」をチェホムスカだとは説明していないので、要するにカラソフスキーの本を読んだだけでは、このルドヴィカの「娘」「ショパンの姪のツィエヒョムスカ嬢」が同一人物である事が全く分からないのである。

      カラソフスキーの伝記は、無知の読者を騙すと同時に、逆にショパンに関する予備知識があればあるほど、そのレトリックに踊らされるという仕組みになっている。

しかも、夫婦娘共々面識がありながら、この重要な局面において、たったこの程度の書き方のみで終わるなど考えられないだろう。もしも面識があったのなら、その当事者から聞き出すべき話はいくらでもあったはずだからだ。

カラサンティの没年はショパンの没年のたった4年後なのだから、もしもカラソフスキーがカラサンティを知っていたと言うなら、彼はショパンの臨終に関して、少なくとも4年以内の最新情報を最も確実な当事者(※ルドヴィカ母娘。カラサンティだけは臨終までパリに留まる事が出来なかった)から聞き得た事になるはずなのだ。

ところがカラソフスキーは迂闊にも、この当時のエピソードを、増補改定された第二版において、何と、交際していたと言う家族を差し置いて、「悲しい最後の数日を通じてこの大作曲家の死の床を離れなかったパリのガヴァール氏のお陰を蒙っている」(※同上より)と、その情報源を自らそう説明してしまっているのである。

その後チェホムスカが、このカラソフスキーの記述を否定する内容の手記を発表している事や、一家のパリ到着を8月ではなく10月と誤認している事も含め、これで、カラソフスキーがイエンドジェイェヴィツ家とは一切面識がなかった事がはっきりと証明されるだろう。

この「ショパンの姪」が、「ルドヴィカ宛の手紙」と、彼女がこの時に持ち帰った、「家族や友人知人がショパンに宛てた手紙」を引き継いで所有していたのである。ところがカラソフスキーは、「プレーエルのピアノ」の事しか知らないので、「不幸にして、この多数の手紙は一つとして残っていないなどと言い切ってしまえるのである。しかし現在の我々は、「ルドヴィカ所有の手紙」がその「ショパンの姪」によって「プレーエルのピアノ」と共に田舎で保管されていて、「一八六三年の暴動」の時点ではまだ消失していなかった事を知っている。「他の場所に保存されていた」のは、何も「友人に与えた手紙」ばかりではない。そしてそれらはシドウの序文にもあったように、第二次世界大戦の時、1944~1945年の冬にヒトラーの軍隊が撤退した際、彼等によって都市もろとも消失させられたのだ。

つまりそれらの手紙は、カラソフスキーが欺瞞に満ちた「序文」を書いた「1877年」から数えても、実に67年もの間人知れず生き延びていたのである。更に厳密に言うと、そのルドヴィカ所有の手紙の内容は、チェホムスカの娘の時代になって初めて公表されるに至った(その頃には、とうにカラソフスキーもこの世にいない)。

ショパンは亡くなった後でも尚、やはり代々女性達の手によってのみ保護され続けてきた訳だ。彼は音楽の揺り籠に守られた、永遠の乳飲み子なのだ。

 

 

かつて姉のルドヴィカがリストに対して取った行動が示すように、ショパン家の人々が、他人のプライベートを食い物にするジャーナリストのような人種に対して、どのような態度を取っていたかを想像するのはたやすい。他ならぬルドヴィカやイザベラ自身ですら、共同で労働問題に関する著書を執筆し出版するだけの知性と文才を持ちながら、自らはショパンの伝記を書く事になど全く関心を示さなかった。

つまりカラソフスキーが、手紙の改ざんや贋作を行う事でショパン家の人々の善良さを事もなげに踏みにじる事が出来、また、多くの作り話を書く事で他の関係者らの名誉すら平然と傷付ける事が出来たのも、ショパン家の人々がいかに彼を信用していなかったかという事実に対する、報復的な心根が働いていた可能性は決して否定出来ないのである。

何故ならカラソフスキーは、同じようにショパンの手紙を資料提供したヴォイチェホフスキに対しては慇懃に礼を書き添えているのに(先の「ガヴァール氏」も同様である)、ショパン家の人々(実際にはイザベラ)に対してはそのような言葉を一言も贈ってなどいないからだ(どちらも等しく存命中であったにも関わらずだ)。

最も重要であるはずの資料提供者に対する、このような敬意や感謝の欠如は、文筆家の執筆態度としては勿論、一人の人間としても常識的に考えられない事だろう。参考までに、以下が彼等に対するその謝意の記述である。

 

「友人ティツス・ウォイシエヒョフスキイ(※ティトゥス・ヴォイチェホフスキ)に送った手紙――氏は極めて親切にもその写しを自分に提供してくれた――を通して、我々は彼が次の数年をどんな風に送ったかを、ショパン自身より聞くのである。最も親しい友人がこの天稟の芸術家の手紙の一宇一句を、神聖な記念物のように大切に保存して置いたことは、我々にとって非常な仕合せである。」

「私がこの章に掲げたショパンの終焉に関する多くの新しい詳細な記事は、悲しい最後の数日を通じてこの大作曲家の死の床を離れなかったパリのガヴァール氏のお陰を蒙っている。この菩書の第一版が発行されて間もなく、ガヴァール氏は親切にもその第二版にてなされた多くの増補に対する材料を送って下さった。私は当然これに対して心からの感謝を表さなければならない。ガヴァール氏の父君は既に記載した通り、この偉大なピアニストの永年変らない友人であった。ガヴァール氏の妹エリーゼ・ガヴァール嬢は、ショパンの気に入りの弟子であった。

ショパンは彼女に子守唄(作品五七)を捧げた。ガヴァール嬢は原作の草稿をこの不朽の先生の最も貴重な記念品として秘蔵している。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より

 

 

シドウは、カラソフスキーが「判読困難な語句をほとんど解読しようともせず」と書いていたが、カラソフスキーは本来「解読」などする必要のない立場にいたはずなのである。何故なら、そんなのは直接イザベラから確認を取ればそれで済んでしまう話だからだ。ところが彼は、そんな当たり前の事すらしていない。しなかったのか? それとも出来なかったのか? つまり、本来当然なされるべきそういった所作の中に、彼とイザベラとの間で、実際どんな事務的で冷淡なやり取りが交わされていたかを垣間見る事が出来るのである。

      実はこの点に関しては、ヴォイチェホフスキ書簡を始め、他の存命中の友人達から借り受けた手紙にも同じ事が言えるのだが、彼等の場合、共犯的に贋作改ざんが前提とされていた可能性があるため、家族書簡と同列に語る事は出来ない。

それを証拠立てる例はいくつも挙げられるが、たとえばカラソフスキーは、リストに対して彼がショパンの病弱を強調し過ぎていると批判し、その際、その根拠として次のような証言を紹介している。

 

「ショパンの遊び仲間でまた学友だったウィルヘル・フォン・コルベルクはショパンが成人になるまでにたった一度病気になっただけだと断言した。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より

 

 

何故カラソフスキーは、このようなプライベートな話を、誰よりも一番よく知っているはずの肉親であるイザベラから確認も取らずに、「学友」の証言だけでそのように「断言」してしまうのだろうか。カラソフスキーが書き込んでいるエピソードの数々は、万事皆この調子なのだ。

カラソフスキーとイザベラの交際の実態を更に裏付ける意味で、そのカラソフスキーがショパン家の三姉妹について記述した箇所を全文紹介しよう。ルドヴィカのくだりは先の引用との重複になるが、彼のイザベラに対する扱いがどのようなものかを知るためにも、敢えてそのまま引用したい。

 

「長女のルイザは一八〇七年の四月六日に生れ、極めて行き届いた教育を受け、間もなく大いに両親の手助けになった。彼女は異常な知識上の才能と勉強と頗るすっきりした風采とに勝れていた。彼女は妹イサベラと協力して、労働者階級を向上させる最善の手段を研究した著述を幾冊か書いた。一八三二年にエトルゼウィッチ教授と結婚してからは、子供の教育に一身を捧げ、文学には以前ほど注意しなくなった。とはいえ全然ペンを棄てた訳ではなく、種々な雑誌に青年の教育に関する論説を発表した。彼女は一八五五年の十月二十九日に死んだ。

ニコラス・ショパンの二番目の娘、イサベラは視学官で後に汽船会杜の支配人になったアントン・バルツィンスキイと結婚した

末の娘エミリイは非常な美人で、最高の望をかけられていたが、一八二七年の四月十日に十四歳で死んだ。彼女は年齢以上に教養があり、いつも陽気で、それに頓智のある、上機嫌を振り撒くという幸福な天稟を持っていた。で皆の者から大層愛されていた。そして彼女の頓智、情愛の籠った嬉しがらせ、若しくは道化た物真似は両親に通じても、姉達や兄にさえ分りにくいことが度々あった。

クレメンチン・タンスカ女史の著作は、エミリイに、女流作家になることを一生の目的としたほどに深い感動を与えた。で彼女は熱心に母国の言葉を研究して、間もなくそれを自由に駆使出来るようになった。彼女が折に触れて書いた幾つかの詩は形式が典雅で、音楽に充たされていた。エミリイと姉のイサベラはドイツの作家ザルツマンの物語をポーランド語に翻訳し始めた。けれども不幸にしてエミリイの早死が仕事の完成を妨げた。今もなお残っている彼女の詩作から判断すると、エミリイは生きていたならば、弟が音楽上で得たと同様な華々しい位置を、ポーランド文学上に得たかも知れない。彼女は不治な胸の病に罹り、臨終の際には取り囲んでいた親族の者の苦痛と失望とを眺めながら、次の詩句を繰り返した。

 

地上に於ける人間の運命のみじめさよ、

あだかも汝が苦痛は汝の運命の如し。

 

こうしてまだ十四歳で、早熟の智的発達がこのように著しかった天才少女は現世から去った。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より

 

 

唯一本当に面識があり、一番詳しく知っているはずのイザベラがその容姿についてすら触れられず、一番おざなりなのは一体どういう事なのか? そして一番知らないはずのエミリアが、一番詳しく、しかも美化されて書かれている(※実は、このくだりはカラソフスキーが自分で取材したものではなく、エミリアの死の直後にスカルベクが雑誌に投稿した追悼記事をそのまま流用していただけだったのである)。この箇所は、カラソフスキーの著書の第一章で家族紹介をしている部分で、本来であればこの場を借りてイザベラに対する謝意が示されていなければならないはずだ。ところがそれをしてしまうと、彼の面識のあった家族が彼女一人だけだったという事実を告白してしまう事にもなるので、その意味でも、彼はここをこのように素通りしたのである。確かにイザベラの事だから、ひょっとすると本人が自ら希望して、唯一存命中であった自分と夫については必要最小限の事しか書かないで欲しいと、そのようにカラソフスキーに頼んでいた可能性は大いにある。だがその点を差し引いたとしても、先のヴォイチェホフスキとガヴァールへの謝辞と、このショパンの家族紹介の記述との違いはどうだろうか。言うまでもなくこの違いこそが、直接面識のあった者に対する書き方(主観情報)と、そうでない者に対する書き方(客観情報)との違いなのである。

だがそれだけではない。

カラソフスキーはイザベラとしか面識がなかった。つまり、彼女とは面識があったからこそ、彼女のジャーナリストに対する警戒心を直接肌で感じ、謝礼すら書く気になれないような印象を抱いてしまったのかもしれない。

逆に、そんな善良なショパン家の人々とは違って、功名心を持ってジャーナリストに尻尾を振り、喜んで資料提供して故人や関係者らのプライベートの暴露も辞さないヴォイチェホフスキやガヴァールのような人間に対しては、カラソフスキーは決して謝辞を忘れない。そうして彼等をショパンにとって最も価値のある関係者として持ち上げれば、それで両者の利害もめでたく一致する。だとしたら、これではスキャンダル雑誌の記者がやっている事と何も変わりはしないだろう。そしてその標的にされた著名人(故人)の遺族が、いつも一番泣きを見る事になる。

 

つまりこれがカラソフスキーの言う、ショパン家との「交際」の実態なのである。

 

実際はイザベラとしか面識がなかったものを、あえてそれを曖昧にして「ショパンの家族」と表現する事で、彼はあたかも父のニコラとさえも面識があって、直接本人から話を聞いてきたかのような口振りで、ニコラについても好き放題作り話を書き殴っている。それでいて、読者がそれをちっとも不自然だとは思わないような立ち位置を、ものの見事に手に入れていたのである。そして誰もが、「ショパンの家族と交際していたと言う者が書いているのだから…」と、そのように信じてしまっていた。

逆に言えば、カラソフスキーがそのような行為を平然とやってのけられたのも、影でそれを後押しした共犯者達(つまりヴォイチェホフスキやガヴァールのような人間達)があればこそだとも言える。

      ちなみにパリ時代の友人グジマワに至っては、自らショパン伝を執筆しようとまでしていた。しかしその原稿を見せられたジェーン・スターリング(ショパンのピアノの生徒の一人)がルドヴィカと協議して止めさせた。ハラソフスキなどはそれを痛く残念がっていたが、私に言わせれば、スターリングの見識をこそ褒め称えたい(※この件についてはまた別章にて詳述)。

 

しかし、カラソフスキーがどんなに言葉巧みに装ったつもりでいても、真実は常に、きちんと行間に刻み込まれてしまうものだ。何故なら、「交際」していたと宣言してしまう事によって、逆に、それなら当然知っていなければならないはずの事が無数に出てくるのに、カラソフスキーはあまりにもそれを知らな過ぎ、その状況証拠を自ら山のように残す羽目になってしまったからだ。知ったかぶる人間は、必ず己の無知に足をすくわれる。

 

 

 

これで、カラソフスキーの資料の取り扱い方や記述の間違いを指摘して、単にその揚げ足取りをしていても全く意味がないという事がよく分かって頂けただろう。問題視すべきは正にそこであり、ハラソフスキやヘドレイ等のように、「カッセルのドイツ人の評論をどのように書き換えたか?」だとか「ショパンの墓に撒かれたポーランドの土が何処から来たか?」などと、そんなどうでもいい話にもっともらしく反論したところで、一体誰が浮かばれると言うのか? 

 

これはカラソフスキーに限った事ではないが、ショパンの書簡集の編纂に携わった者達の犯した罪は重大である。

カラソフスキーを筆頭に、タルノフスキー、カルロヴィツ、オピエンスキー、シドウ、ヘドレイ、コビランスカ等々、これらは皆、お互いに相手の仕事をなじり合いながらも、自説に都合のいい作り話だけは結束して守ろうとする(そしてまた、「サンド憎し」を公言してはばからない)。

 

「書簡集」がタチが悪いのは、最も信頼すべき資料であるはずなのにも関わらず、実はどさくさに紛れて自説を贋作改ざんという形で紛れ込ませるのに打って付けであり、しかも素知らぬ顔で「原物は戦争等で焼けてしまった」とお決まりの文句を添えておけば、誰もそれに気付かず反論も出来ず、他の著作物等に引用されて流布され、そしていつの間にか既成事実化してしまう事だ。

それに比べれば、単なる伝記作家達の事実無根の空想の方が遥かに罪がなく、害がない。良識のある人が読めば、単に「そういう解釈もある」で笑って済ませるからだ。

 


【▲】 【頁頭】 【次回予告】

6.ショパン自身に起因する問題――
  6. A problem to happen because of Chopin himself-

 

 

ショパンの手紙が「贋作天国」化してしまうもう一つの理由は、実はショパン自身の性格や資質に起因している部分もある。

 

最初の方でも触れたが、彼の愛国心はその作品によって誰の目にも明らかだったにも関わらず、ショパンという人は、当時のポーランドに生を受けた人間にしてはちょっと考え難いほど、日常生活においては政治的発言がほとんど皆無に等しかった。その事は、同時代に交流のあったリストもそのように証言していて、後世のポーランド人作家達がそれをさぞ歯痒く(もしくはリストに対して苦々しく)思ったであろう事は先述した通りである。

その点に関しては更に踏み込んで、その都度、本編にて詳しく検証していく事になるが、それともう一つ、ショパンという人は自他共に認める「筆不精」であり、(この事実に関しても、後で嫌と言うほどその実例を挙げていく事になろう)、そのため、彼の「本物の手紙」はほとんどの場合、実務的かつ日常会話的であるため、たとえば、手紙を独白や手記の代用品にしていたような、他の有名な書簡集を残している筆達者な著名人達とは違い、プライベートな心情を吐露するような事もなく、何か哲学的な主義主張を織り込んで読み手を啓発するような事もなく、したがって(たとえ当事者にとっては重要であろうとも)一般的な読者の興味を引くような内容にも乏しく、その上母国語のポーランド語のものから移住先のやや不慣れなフランス語のものまであり(会話には不自由しなかったが、それと書く事とは全く別である)、つまりたとえ本物であっても、一見同一人物のものとは思えないようなものがいくつもあるのである。

したがって、表面上は誰にでも容易に真似しやすく、それを読まされる方も、ひょっとしたらショパンがこのような事を書いたのかもしれないと、簡単に信じてしまうのだ。

そうなるとどうなるか? 

皮肉な事に、その内容が、第三者の誰にとっても興味深くて分かりやすく、ほとんどの伝記で引用されているような有名な手紙ほど、贋作改ざんされている可能性が高いという事になるのである。

 

 

これに関連して、もう一つ理由がある。それはショパンの母国語であるポーランド語からもたらされる問題なのだが、それについては、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著『決定版ショパンの生涯』の訳者関口時正氏による「訳者あとがき」が雄弁に語ってくれているので、そこから引用させて頂こう。

 

「訳者あとがき

ポーランドの研究者が書いたショパンの伝記を、直接ポーランド語から日本語に訳したものがない――ショパンを好む人が多い国にしては不思議なことだが、その事情は説明できないこともない。もちろん障害となっているのはポーランド語の「壁」で、なかでも最大の難関はショパンの手紙自体である。

シューマンやリストと違って、評論のようなものを残さなかったショパンであるから、人間ショパンに興味を抱く人にとっては、その手紙一通一通がまさに値千金であるといっていい。問題は、まずほとんどの場合公表されるとはショパン自身が予期していなかったその手紙が、解読するにも翻訳するにもひじょうに難しい、一筋縄ではゆかないものだという点にある。一つには彼固有の文体があるということ、一つには手紙のやりとりを促した具体的な周辺状況を完全に把握することはできないということ、そして一つには言語そのものが古いということがある(日本で言えば為永春水や頼山陽の時代のものである)。ポーランド人だからわかるというような単純なテクストでもけっしてない。翻訳にあたっての手強さにかけては、同時代の文学作品の上をゆくといってもいい。文学作品はそれなりの約束事に従って書かれているが、ショパンの手紙にそれを求めることはできないからである。

日本でのショパン像がくっきりとしない一つの理由は、音楽以外の最大の手がかり、つまり彼の書いた、そして彼に宛てて書かれたポーランド語書簡のまともな翻訳がないということである。もちろんポーランド語以外の言語に訳されたものをさらに和訳するという二重の操作は長い間なされてきたが、その不幸な操作によって原文の匂いや勢いはほとんど跡形もなく消え、意味は変質した…(略)…

ショパンを専門に研究しているわけでもない私が、あえてこの伝記の翻訳を引き受けた理由は、右のような事情だった。それなりにポーランド文化やその歴史を学んだ者でなければ、手紙の引用を大量に含むこの書の翻訳は難しいからである。それにつけても、原語からの書簡集の和訳がないのが残念だと思う。ここでは詳述しないが、実は彼の書簡は本文校訂からしてきわめて難しく、それも含めて、「ショパン全書簡」というようなものが日本語で出ることは、まず何十年先になるか、あるいは永遠にないことかもしれない。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

翻訳する事と、それを掘り下げて読み解く事とはまた別の作業だが、ここに書かれている「手紙のやりとりを促した具体的な周辺状況を完全に把握することはできない」という問題は、ショパンの手紙を読み解く上でもやはり最も基本的な課題である。

 

しかしながら、もはやタイムマシンでもない限り完全な時代考証など不可能なそれら外的要因よりも、私が本稿で最も重要視したいのは、ショパンに手紙のやり取りを促した内的な「動機」の方であり、あくまでも心の問題なのだ。

これさえしっかりと肝に銘じて把握する事が出来れば、実は「彼固有の文体」「言語そのものが古い」という問題も、案外予測の範囲内に収まってくれる事が多い。何故なら手紙は決して独り言ではなく、必ず相手に向かってなされる会話だからだ。したがってその文章は常に、「何を言おうとしているのか?」ではなく、「何を伝えようとしているのか?」に終始している。

つまり、日記やメモなどとは違って、文通相手が読んで理解不能な文章など決して書かないという事だ。

そうすると必然的に、その文体は、当人同士にしか分からない「楽屋落ち」も含め、相手の数だけそれぞれに特有の癖が生じてくる事になる。殊にショパンという人は、誰に対しても全く同じ態度で接するようなタイプの人間ではないため尚更そうなる。しかも筆不精の彼がペンを取るからには、確実に、その都度何か重要な伝達事項が動機として働いているはずだからである。

この点は概して見過ごされているが、ショパンの手紙を読み解く上で、これは最も重要な項目の一つなのである。そしてショパンがその文通相手に手紙を書いた「固有の動機」から言葉の綾を手繰っていけば、目的地は案外明るい事に気付く。

つまり、ショパンが家族に向けて書くような書き方を、友人に対しては決してしないという事だが、しかし同じ家族ですら、父に書くような書き方を姉にはしないし、同じ友人ですら、ヴォイチェホフスキに書くような書き方をマトゥシンスキには決してしないのだ。そんな事は当たり前のように思われるかもしれないが、その当たり前が極めて混乱しているのがショパンの手紙の全体像なのである。

したがって、このそれぞれの違いを一つ一つ厳密に特定してはっきり区別する事こそが、ショパンの手紙を読み解く作業そのものだと言ってもいい。

 

それは図らずも、今までほとんど関心が払われてこなかったショパンの文通相手達の人物像を、一人一人くっきりと浮き彫りにし、双方の人間関係に深くメスを入れていく作業でもある。

それによって、手紙の原物のある無しなど無関係に、本物と偽物とがいとも簡単に焙り出せるようになる。

何故なら贋作者も改ざん者も、誰一人そのような事を考慮して文章を作成してなどいないからだ。彼等の興味の対象は、とにかく自説をショパンに語らせる事にしかなく、その文通相手の顔が誰であるかなど、最初から全く関心のない事だからだ(仮に関心があったところで、不純な動機しか持たぬ彼等にはその区別もつけられまい)。

 

 

ショパンの手紙で最も重要なものは、その真偽を問わず、母国語のポーランド語で書かれたものである。

しかしこのポーランド語自体がこの国限定のマイナーな言語であるため(公用語として使用している国はポーランドのみ。ただし、アメリカ、ドイツ、リトアニア、イギリス等、多数のポーランド人が移住してコミュニティを形成している地域では勿論使われている)、その原資料はほぼポーランド人に独占されたまま、ほとんどの外国人が、小出しにされたそれらの資料を、それぞれの言語に訳したものでしか理解する事が出来ないという現実がある。

しかもそのポーランド語の原文の手紙ですら、原物が残っていないものに関しては各ポーランド人作家の著作中における記述を信用する以外なく、それにも関わらず、それらは各著書によって内容がまちまちであったりする。それが更に重訳されていくうちに「原文の匂いや勢いはほとんど跡形もなく消え、意味は変質し」、訳者諸氏の主観によって、まるで意味が逆になっている物まであるといった有様である。

しかし最も警戒すべき点はそれら重訳がもたらす弊害ではなく、もっと根本的な問題で、そもそも原文そのものが「本当に信用出来る物なのか?」という事なのだ。

皮肉な事ではあるが、ショパンに関する著作で最も客観性に欠けるのは母国ポーランドの作家によるもので、次は移住先となったフランスの作家によるもの、中立の立場にいる作家達は言葉の壁と錯綜する資料情報に阻まれて、客観どころかほとんど傍観者に近く、核心に辿り着くにはあまりにも遠過ぎるというのが現状なのだ(ただし、ヘドレイを除けば、著述姿勢に私情や愛国的偏見がないのが何よりの救いで、それによってもたらされる、「至って常識的な問題提起」には見逃せないものが多い)。

したがっておそらく、日本で「ポーランド語書簡のまともな翻訳」による「ショパン全書簡」が出たら、逆に「日本でのショパン像」は今まで以上に「くっきりと」しなくなる事だろう。日本人は幸か不幸か国際問題に疎いがために、却って偏見なくその全文を見渡せるので、嫌でもその矛盾に違和感を覚えるはずだからである。今までのように、抜粋されたものばかりをかき集めていくら読み漁ってみても、それは何処までもピースの欠けたパズルでしかなく、矛盾に気付くための材料にはなり得ない(だが、誤解を恐れずに敢えて言うが、ショパン像がくっきりとしている国などあるのだろうか? 一部のポーランド人達のように、愛国心を根拠に、排他的なまでに実像を歪めておきながら、それを神のごとく妄信出来るような国以外で)。

 

ショパンの手紙の真偽を、その内容からだけでは容易に判別しにくくしている原因は、実はそういったところにもあり、誰もが何も気付かず無批判に見過ごしてしまい勝ちになるのもそのせいなのである。そして贋作者達の付け入る隙もそこにある。外国語に堪能になる事が目的の前に立ちはだかってしまっていては、限られた人達以外は皆敬遠してしまう。素人目にも信じ難いほどの、ショパン研究の「閉鎖性」と「次元の低さ」は、全てこれに端を発しているのだ。

      ここで敢えて白状しておくが、他でもないこの私自身、ポーランド語は言うに及ばず、フランス語もドイツ語も勿論、英語ですら全く分からぬ外国語音痴である。

また、得てして音楽関係者(特にショパン関連の)は、ヨーロッパ全体の歴史に無頓着であるか偏見に満ちている事が多く、その事も相まって、客観的な立場で論理的に判断を下せるような人間が、悲しいかな圧倒的に人材不足なのである。

      本当にショパンを語ろうとしたら、「それなりにポーランド文化やその歴史を学んだ」だけでは全く足りず、それと同じ位に、少なくともフランス文化やその歴史にも精通していなければならず(今までのように、そのどちらかしか知らないだけでは、延々と「不毛な綱引き」を繰り返すだけだ)、その上で、せめて作曲家程度の音楽経験ぐらいは持ち合わせていないと、必ず何処かしらで迷宮に陥り、とても主人公の本質にまでは肉薄出来ないだろう。しかしそんな人間が一体何処にいると言うのだ?

だが心配する事はない。外国語を学ぶ前に、まず自分の母国語を、つまり一般常識や人間心理にもっと堪能になる事を心がける方が遥かに大切である。

母国語に堪能であるという事は、つまり言葉そのものに堪能であるという事であり、そうでありさえすれば、実はどんな外国語もさほど怖くはないものだ。違うのは単に外枠の入れ物だけで、結局中に入っている「人の心」に大差などありはしないのだから。母国語に堪能でない人は、たとえ何ヶ国語話せようとも、決して物事の核心には辿り着けない。ショパンの手紙を検証していくと、結局答えはいつもそこに行き着くという事がお分かり頂けるだろう。

つまり、贋作や改ざんを行うような人間達に欠落している人間性そのものを、自らに補う努力こそが肝心だと言う事だ。

 

それ故、このような人物達の仕事を何処まで信用していいのかという警戒心を、どうしても解く事が出来なくなるのである。

そして非常に悲しい事に、これがショパンの書簡資料の基礎となっているのだ。土台がこの有様だから、その上に積み上げられるものも暗黙のうちに先例を踏襲する。実を言えば、あの有名な「ポトツカ贋作書簡」も、その流れの中から出てきた大きな「膿」の一つに過ぎないのである。

その「膿」の数々を明るみにし、検証し、紹介して行こうというのが本稿の目的である。

 

ただ何度も言うように、残念ながらほとんどの場合、今日手紙そのものの物理的な真偽が問えない状況である以上、当然の事ながら実証は不可能であり、徹底的にその内容を検証して行く以外に方法は残されていない。

しかし実を言えば、それこそが最も本質的な事であり、それでいてあまりにも今まで見過ごされて来た事でもあり、だからこそ、むしろそれで十分なのだとも思っている。と言うのも、たとえそれが本物だと認定されていたとしても、ポーランドの(公的機関以外の)筆跡鑑定がいかに信用出来ないかは最初にも触れた通りで、案外手紙という特殊な言語記録は、物的証拠性よりも、むしろその内容の方が遥かに確証となり得るからである。何故ならショパン関連の手紙には、重要な関係者が自ら進んで虚偽を記している場合すらあり、たとえ本人の筆跡である事が証明されたとしても、その内容を鵜呑みに出来ない例が多数実在するからだ。

しかし結局は、それが暴かれようと暴かれまいと、いつどんな形であれ、「嘘つき」に対して下されるべき天罰は必ず下っていくものだ。

 

[2008年1月30日初稿/2008年4月13日改訂 トモロー]


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―次回予告―

 

次回、謎に満ちた父ニコラ・ショパンの少年時代とフランス出国を徹底検証する、

検証1:ニコラ・ショパン、19歳の手紙・前編
Inspection I:Nicolas Chopin, a letter of 19 years old(part 1)

をお楽しみに。

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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