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検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――

Inspection XI: The journals of the second Viena's travel & the counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -

 


11.「家族書簡・第8便」と「失われた手紙」―

  11. The eighth letter from Chopin to his family & another letter which were lost-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ノクターン 第1番▼≫
 

今回紹介するのは、ウィーン時代の「家族書簡・第8便」である。まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第8便)■

(※原文はポーランド語、一部フランス語が混在)

1831625日、ウィーン

僕はまったく元気で、そしてそれで万事満足しなければなりません、と言うのも、僕の出発はいまだ遥か遠くに見えるからです。こんな状況にはこれまで遭った事がありません。あなた方は、僕がどれほど優柔不断か、それに、一歩進むごとに僕が障害に遭う事もご存知です。僕は毎日パスポートの事で待たされ、ただ警察に預けてあるものを取り戻すために、ヘロデからポンティウス・ピラトヘ駈けて行きます。僕は今日、僕のパスポートは何処かに置き忘れて見付からないと言う嬉しい知らせを受け取りまして、それで僕は、新しいのをもらうようにしなければなりません。考えられる限りのあらゆる災難が、我々憐れなポーランド人に降りかかるのが不思議です。僕は何時でも出発する準備が出来ているのですが、そうする事が出来ないのです。

僕はバイエル氏の忠告に従って、僕のパスポートにイギリス行きの裏書をしてもらいまして、けれどもパリにだけ行くつもりなのです。マルファッティは、友人のパエールに宛てた紹介状をくれます;カントレルは既に『ライプツィゲル・ムジックツァイトゥング』(※ライプチヒの音楽雑誌)で僕について言及しています。

僕は昨日、夜中まで家に帰らなかったのですが、と言うのも、聖ヨハネの日で、またマルファッティの誕生日だったからです。メシェッティはマルファッティを驚かしたいと考えて、エムメリッヒ嬢、ルッツェル嬢、ヴィルト、シシマーラ、そしてあなた方のフレデリックとを誘い、彼の名誉のために演奏会を催しました。この演奏はほとんど“完全” (※フランス語)なものと評される価値がありました。僕は、《モーゼ》の中の四重奏曲がこれ以上立派に演奏されたのを聞いた事がありません;でもワルシャワでの僕の告別演奏会の時、グワトコフスカ嬢は、更に感情を込めて「オ!・カント・ラクリメ」を歌いました。ヴィルトは優れた声で歌い、僕は準指揮者を務めました。*「シシマーラが言うには、僕ほど上手に伴奏した者はウィーンには一人もなかったそうです。僕は心の中で、長い間この事を確信していたと思いました。しっ!」(ショパンの批評)]

この家のテラスには、かなりの人の群れが集って音楽を聴いていました。月が驚くほどに輝き、噴水が真珠の柱のように上り、空気はオレンジ畑の香りで満たされていました;一言で言えば、魅惑的な夜で、素晴らしい環境です!

それでは、僕達が演奏した部屋を描写しましょう。天井から床に達する窓はテラスに向って開かれていて、そこからウィーン全体が見渡せます。壁には大きな鏡が掛かっています;でも室内は薄暗く照らされていて、窓を通して流れ込む月光の効果を高めていました;そして、客間の左手に接する“控えの間”の広さは、建物全体に雄大な雰囲気を与えていました。主人の愛想よさと丁寧さ、賑かで上品な来客、煌きのある機智、それに素晴らしい晩餐が、我々の散会を遅らせたほどでした。僕は出来るだけ質素に暮していて、1クロイツァーでさえ、ワルシャワにいた時の指輪*この指輪はアレクサンダー皇帝が1825年のワルシャワ滞在の際ショパンに贈ったもの。]のように見なしています。あなた方は、あれを売ってもいいですよ、と言うのも、僕はすでにあなた方にずいぶんと経済的な負担をかけてしまいましたから。

一昨日、僕達は力ーレンペルクとレォポルトシュペルクに行きまして、クメルスキと、僕を毎日訪れて僕に相当な友情を示してくれているチャペックと共に;彼は僕に、必要なら旅行の費用を貸そうと申し出てくれました。その日は素晴らしい天気で、僕はこれほど美しい散歩をした事はありませんでした。レオポルトシュベルクからは、ウィーン全体、アグラム*ショパンはワグラムと書くつもリでいたに違いない。]、アスペルン、プレスブルク、それからリチャード獅子王がしばらく幽閉された城、クロスターノイブルクさえ見えます。朝食後、カーレンベルクヘ行きました。ここはヤン・ソビエスキ王が天幕を張って、ウィーンの総督シュターレンベルク伯爵にポーランド軍の接近を告げる事になっていた狼煙を上げた所です。ここにはまた、トルコ人の来襲前に、王が王子ヤコブをナイトに任じ、自身はミサを司祭したかのカマルドレーゼの僧院があります。僕は、今は植物で蔽われている場所から、イサペラのために一枚の葉を摘み取りました。

そこから僕達は、夕方に、クラップフェンの森の美しい渓谷へ行き、子供らしい滑稽なお祭り騒ぎを見ました。数人の腕白小僧が自分の頭から足までを木の葉で覆い、茂みが歩いているかのような恰好で宿屋から宿屋へと這って行きます。葉で覆われ、頭を木の枝で飾ったある男の子は、“復活祭の王様”と言われています。これは復活祭の季節の習慣的な戯れなのです。

数日前、僕はアロイ・フックス家の夜会に行きました*アロイ・フックスは1799年オーストリア・シレジアに生まれ、しばらくオーストリア朝廷付きの音楽史編纂官、及び故実家となっていた。有名な音楽家の親筆及び肖像を数多く所蔵し、また16世紀及び17世紀の大作家の総譜及びモーツァルト自身が書いた作品を幾つかもっていた。フックスは非常に上手にチェロを弾いた。そしてべートーヴェンの親友の一人であった。べートーヴェンの所有物の売立の際、他の原稿の中から小品集を一冊買って、それ尊敬の象徴としてメンデルスゾーンに送った。この小品集のもう一冊はマイエルベールの兄弟ウィリアム・ベールが買った。フックスの立派な蒐集は彼の死のために離散した。]。彼は僕に、自伝的作品の豊富な蒐集(約400)を見せてくれました。僕の2台ピアノのためのロンド*このロンドは遺稿の中から作品73として出版された。]もその中にありました。来客の中には僕と親しく交際したがっている人がいました。フックスは僕に、ぺートーヴェンの筆蹟の見本を一枚くれました。

あなた方の最近の手紙は僕に大きな喜びをもたらしまして、と言うのも、僕は一枚の紙の上に、僕の最も親愛な人達みんなの筆蹟を見たからです。ウィーンで見い出したどんなものよりも魅力ある、あなた方の手と足にキスさせて下さい。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

この手紙は、オピエンスキーの英訳版もシドウの仏訳版も、あるいは「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」のポーランド語原文も内容はほぼ同じであるから、現時点ではこのカラソフスキー版しか資料が存在していない事が分かる。

 

さて、今回の手紙に関しては、特に問題にすべきような点は見られない。

ただし、私はここで【訂正とお詫び】を申し上げなければならない。

それは、ショパンのウィーン時代における演奏会活動について、私はカラソフスキーが一切何も触れていないとコメントしてきたのだが、それが誤りだったと言う点である。

実は、カラソフスキーはこの手紙を紹介した直後に、遅まきながらその事について言及していたのであった。

それは以下の通りである。

 

「遂にショパンは首尾よくウィーンにて音楽会を催した。彼はこの都では一個の外国人であったから、他人の忠告に依頼しなければならなかった。そして邪推したり信用しなかったり或は子供のように信頼したりした。故国の騒乱は、ポーランド人としての彼からウィーンの貴族紳士の保護を奪った。また一方芸術家仲間では冷遇を受け、時折嫉まれた、こうして彼はぐずぐずしながら意気沮喪の裡に、音楽季節中に利益と人気とを得た他のピアニストを目撃した。声楽家ガルチア・ウェストリ夫人が大きなレダウテン楽堂にて四月の四日に催した昼興行に加わっただけだった。彼はただ一回音楽会*を催した。まだ音楽季節に遅れてはいなかったが、金持の人達はいつもの習慣と幾分はまたコレラの沸行のためとでウィーンにいなかった。予期されていた如く入場者は少数で、費用は収人を超過した。

家族や友人に与えた次の手紙にはこの事は書いてない。またも旅行の準備のことを云っている。

 

*一八三一年九月二一日発行のアルゲマイネ・ムジカリッシェ・ツァイトゥング紙上にて、カントレル(たぶん)がこの音楽会に短評を加えている。それにはこう書いてある。「先年来訪して第一流のピアニストであることを示したフレデリック・ショパン氏は音楽会を開催した。真摯な性質を持つ自作の新しい協奏曲の演奏は、我々の最初の批評を変更する何等の必要も与えなかった。真の芸術を衷心から崇拝する人はあらゆる名誉に価するものだ」。他のウィーンの新聞も、彼の作品に就いて同様なことを述べ、彼の熟達した表情的演奏を称揚した。けれどもこれらの承認はこの若い天才の希望と願いを満足させなかった。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

だが、ちょっと言わせてもらうなら、「声楽家ガルチア・ウェストリ夫人が大きなレダウテン楽堂にて四月の四日に催した昼興行」については、どうして今頃になってやっと言及しているのか?と言いたくもなる。それを書くなら514日」付の「第6便」の前にしてくれなければ、時系列的に話が合わないだろう。

しかも、その演奏会は実際には結局行われていないのだ。

「第6便」の時にも説明したが、それについてはバルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカが以下のように書いている。

 

「一八三一年春、約束の公演は実現されると思われた。三月一六日、ケルンテン門劇場の仮面舞踏会ホールで、歌手ガルシア・ヴェストリスの演奏会が予定され、そこにショパンの出演も予定されていた。しかし歌姫は突然日程変更を申し出て、二度にわたってこの演奏会は延期された。最終的な日程は四月一七日と決まり、自作《協奏曲 ホ短調》を演奏する事になっていたショパンの名前入りで、ポスターも印刷された。ところがこの日付もまた紙の上だけのものに終わった。理由は不明だが、結局演奏会は開かれなかったのである。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

カラソフスキーの書いている「四月の四日」と言う日付は、実は最初に延期された時のものだったのである。したがってその日には確実に演奏会は行われていない。なので、カラソフスキーが伝記に書いている事は誤りだと言う事だ。

 

もう一つ問題なのは、カラソフスキーの書き方だと、「ウェストリ夫人」「昼興行」と、「ただ一回音楽会*を催した」と言う演奏会とが混同されているような印象を受けてしまうのだが、これはハッキリと別のイベントである。

もう一つの方、つまり実際に行われた方の演奏会は、王室バレエ団の第一舞踏手ドミニク・マティスのために捧げられた慈善公演である(611日)。

なので、カラソフスキーが紹介している「一八三一年九月二一日発行のアルゲマイネ・ムジカリッシェ・ツァイトゥング」の批評というのは、その慈善公演についてのものだったはずなのだ。

さらにカラソフスキーは、「他のウィーンの新聞も、彼の作品に就いて同様なことを述べ、彼の熟達した表情的演奏を称揚した」と書いているが、事実は以下の通りだった。

 

「コンサート後現れた数少ない論評のうち、ショパンの曲は独創的で深みがあると認めたのは、『アルゲマイネ・テアターツァイトゥング』一紙だけである。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

要するに、カラソフスキーの伝記は誤情報だらけなのである。

 

いずれにせよ、ショパンのウィーンにおける唯一の演奏会出演について、カラソフスキーは「家族や友人に与えた次の手紙にはこの事は書いてない」などと書いているが、そんなはずはない。前回も説明したように、当然ショパンはその演奏会についての報告をワルシャワの家族宛に書き送っていたはずなのだ。つまり、その手紙が失われていると言う事なのである。

これについては、イザベラが最初からカラソフスキーに資料提供しなかったのか、それとも、提供されていたにも関わらず、カラソフスキーがショパンのウィーン時代をとにかく不幸の一色に描きたいがために抹殺してしまったのか、断定はできないが、今回の手紙の奇妙さを考える時、どうも後者の可能性を捨てきれない…と私は前回そのように考察したのだが、カラソフスキーのこの誤情報ぶりを見ると、彼は本当に事の顛末を知らなかったようなので、やはり最初からイザベラが資料提供していなかったようである。

 

 

ただ、カラソフスキーがショパンのウィーン時代を実際以上に不幸に描きたかったのは事実である。

なぜならこの手紙においても、彼はそのようなちょっとした改ざんを行っているからだ。

この手紙では一箇所だけ、ポーランド語版とドイツ語版で表現を書き換えているところがある。

それは、

「僕は毎日パスポートの事で待たされ、ただ警察に預けてあるものを取り戻すために、ヘロデからポンティウス・ピラトヘ駈けて行きます。」

と言う箇所である。

ここにある「ヘロデ」とはユダヤの専制君主で、「ポンティウス・ピラト」とはローマ総督であり、つまりこれは、キリストの裁判において、イエスが尋問を受けるためにこの両者の間を行ったり来たりさせられたと言う逸話にたとえられている。

ところが、実際にショパンがポーランド語の原文に書いていたのは、以下の通りだったようである。

「僕は毎日パスポートの事で待たされ、ただ警察に預けてあるものを取り戻すために、アナニヤからカイアファヘ駈けて行きます。」

これは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第2便」に出て来たのと同じ表現で、その時には以下のように説明した。

 

ワルシャワのショパンから、ポトゥジンのヴォイチェホフスキへ 第2便(18281227日付)

「僕はアナニヤからカイアファまで飛んだ。今日はウィンチェンゲロード夫人のイヴニング・パーティに行き、そこからもう一箇所キッカ嬢の所へ行った。」

     「アナニヤ(Ananias ポーランド語原文ではAnasz)」は、新約聖書(使徒言行録)に出てくるイエスの弟子で、「主は恵み深い」という意味がある。嘘をついた事で神罰を受けて死んだ。

     「カイアファ、またはカヤパ(Caiaphas ポーランド語原文ではKaifasz)」は、イエス時代のユダヤの大祭司で、キリストの死刑を判決した最高法院の議長。

     「アナニヤからカイアファまで」と言うのは、オピエンスキーの註釈によるとPeter to Paulとあり、要するに「甲から乙へ」のような意味になるらしい。

 

 

もう一つ、カラソフスキーによる加筆改ざんと思われる一文があるが、それは以下の箇所だ。

「僕は出来るだけ質素に暮していて、1クロイツァーでさえ、ワルシャワにいた時の指輪*この指輪はアレクサンダー皇帝が1825年のワルシャワ滞在の際ショパンに贈ったもの。]のように見なしています。あなた方は、あれを売ってもいいですよ、と言うのも、僕はすでにあなた方にずいぶんと経済的な負担をかけてしまいましたから。」

何度も言うように、当時ロシア当局の検閲が考えられる状況下において、このような反ロシア的な事を手紙に書いて家族に送るなど、常識的に考えられない事である。

それに、現実問題としてこのような“いわく付きの「指輪」”を売る事など不可能なのではないか?

 

 [2012年9月24日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証11-12:父ニコラ・ショパンからの手紙?

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