検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――

Inspection XI: The journals of the second Viena's travel & the counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -

 


6.エルスネル書簡から分かるカラソフスキーの嘘―

  6. Lie of Karasowski becoming clear by the letter to Elsner from Chopin -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ノクターン 第20番▼≫
 

今回紹介するのは、ショパンがウィーンに到着してからエルスネル宛に書いた手紙である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのユゼフ・エルスネルへ■

(※原文はポーランド語)

1831126日、ウィーン

親愛なるエルスネル様、

私は、旅行の間に証明されたあなたのたくさんの親切を申し訳なく思い、また、あなたの方から先に手紙を下さった事に対して、もう一度私自身を恥ずかしく思います。

私は、到着したら直ぐに手紙を書くのが私の義務だと感じていましたが、でも私は、私に関するニュースは全て両親があなたに伝えていると確信していましたし、こんな事があなたの興味を引くとも思えなかったので、日々手紙を書くのを先延ばしにしていました。

また、私自身について何か確かな事が話せるようになるまで待ちたかったのです;しかし祖国での恐ろしい出来事を聞いて以来、私は一つの考え――私の国と私の親愛なる人達についての心配と憧憬――しか持たなくなりました。

マルファッティさんは、芸術家はコスモポリタンであるとか、あるいはそうあらねばならないと、私を説き伏せようと無駄な努力をしています。そうだとしても、私は揺籠から出たばかりの芸術家だし、それにも関わらず私は一人の男で、ポーランド人として兵士となって務める義務があります。ですから、私が未だに演奏会を手配する事について真剣に考えていないからと言って、あなたが私を責める事がないように望んでいます。

障害が、至る所から私を取り囲んでいます;哀れをもよおすピアノ演奏会が多く続いて、良い音楽をすっかり衰退させ、市民からの信用を無くしているばかりでなく、最近のポーランド情勢が私の立場に有害な影響を及ぼしています。

私が思うに、しかしながら――ヴェルフェルは、謝肉祭の間に私の最初の演奏会を開くと言う私の意向に、全く賛成しています。その立派なヴェルフェルは、ひっきりなしに病気しています。私はしばしば彼に会いますが、あなたについて楽しい思い出を持っているのを見い出します。

スラヴィク、メルク、ポクレット、その他のような、ここの第1級のタレント達との興味深い面識意外に、私がここでの滞在に満足する事はほとんどないでしょう。オペラは素晴らしく、そしてウィーン人はヴィルトとハイネフェッター嬢にうっとりしています;しかしデュポールは新しいオペラをほとんどやらず、芸術よりもポケットの方を大事にしているのが残念です。

シュタットラー神父は激しく不満をもらし、ウィーンはかつてのウィーンではないと言っています。彼はメシェッティから讃美歌を出版しています;私はその原稿で作品を見て感心しました。

あなたの四重奏曲については、ヨーゼフ・チェルニーは聖ヨーゼフの日には準備すると確かに約束しました。彼はちょうどシューベルトの作品を出そうとしていて、その多くが印刷中ですから、今まで手をつけられなかったのだと私に弁解しました。だから私は、あなたのものが遅れるのではないかと心配しています。

私が観察したところでは、チェルニーはこの市中で最も裕福な出版者の一人ではなく、なので“シュペール”でも“ルーミッシュ・カイザー”でも演奏されないような作品を印刷するリスクを負うのは簡単な事ではありません。

     “シュペール”“ルーミッシュ・カイザー”は、原田光子訳「天才ショパンの心」によると、「両方ともウィーンで当時非常に繁盛していた舞踏場のあるレストラン。」

 

ここではワルツが“作品”と呼ばれていて、そしてこれらの舞踏曲の演奏の際に第一ヴァイオリンを奏くランナーやシュトラウスが“力ペルマイスター”(バンド・マスター)と呼ばれています。

私は、これが一般的な言い方だと言うつもりはありませんが、と言うのも、それを嘲笑する人も沢山いますから;しかしながら、ワルツ以外のものはほとんど印刷されません。私には、メシェッティは進取的な性格に思えるので、彼の方があなたのミサ曲を出版しそうで、と言うのも、彼は有名な教会作曲家の楽譜を出版しようとしているからです。私は、あなたの素晴らしいミサ曲の事をメシェッティの帳簿係――思いやりのある賢明なサクソン人――に話したら、彼はそれらについて何か考えているようで、私が聞いたところでは、彼はビジネス上の事は全く自分の好きなようにしているそうです。私は今日、メシェッティに会うためディナーに招待されています。私は真剣にその件について彼と徹底的に話し合い、そして直ぐにあなたに手紙を書きます。ハスリンガーは今、フンメルの最新のミサ曲を出版していて、と言うのも、彼はただフンメルによって、フンメルのためにのみ生活しているからです;でもこれらの最新作はよく売れないと言われています;それに、ハスリンガーはその作品のために大きな謝礼を渡したので、今はあらゆる原稿を保留にして、シュトラウスの作品だけを印刷しています。

昨日私は、ニデツキのために台本を書いたシュタインケラーのところでニデツキと一緒になりました。彼はこのオペラに大きな望みをかけていて、そこでは、有名な喜劇俳優シュスターが出演する事になっています。これなら、ニデツキは名を挙げるかも知れません。私はこのニュースがあなたを喜ばせる事を望みます。

親愛なるエルスネル様、あなたは尋ねる事でしょう、なぜニデツキが私の第2協奏曲を勉強しているのか?と。 彼はただ彼自身の希望でそうしているだけなのです。彼はウィーンを去る前に公衆の前で演奏しなければならないし、それに、美しい変奏曲を除いて自作の中に適当なのがないのを知って、私の原稿を求めたのです。そうしているうちに、事態が大きく変わりました;彼はもはやピアノの名手としてではなく、オーケストラの作曲家として世に出ます。彼はきっと、自分自身でこの事をあなたに話すでしょう。私は、彼の序曲が私の演奏会で演奏されるように面倒を見るつもりです。あなたはまだ私達の事を誇りに思ってくれている事でしょう;とにかく私達の事を恥じてはいないでしょう。ピアニストのアロイス・シュミットは40歳を出た人で、古風な音楽を作曲していますが、批評家には酷評されています。

生徒達みんなと、あなた自身のサークルの方々によろしくお伝え下さい。あなたに対しては、私が常に抱いている無限の尊敬を保証し、それを受け取ってくださるようお願いします。

あなたのお気に入りの、そして忠実な弟子、

フレデリック・ショパンより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より

 

 

ショパンがエルスネル宛に書いた手紙はこれが2通目で、最初のは1826年の夏にライネルツから書いたものだった。

あの時はフランス語で書いていたが、今回はポーランド語で書かれている。

 

上記のものはカラソフスキーがドイツ語に訳して伝記に掲載したものだが、この手紙にはポーランド語による原文があり、それと比べるとやはり所々違っている。

なので、今回はその両者を比較しながらカラソフスキーの嘘を暴いていきたいと思う。

 

それでは、一つ一つの文章について検証していこう。

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #1

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

1831126日、ウィーン」

1831129日、ウィーン」

 

まず日付が違っている。

これはおそらくカラソフスキー版の誤植だろうと思われるが、いずれにせよ、曜日は「水曜日」と「土曜日」なので、その点に関しては問題ない(※下図参照)。

 

18311

 

 

 

 

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ポ原文

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ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #2

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「親愛なるエルスネル様、

私は、旅行の間に証明されたあなたのたくさんの親切を申し訳なく思い、また、あなたの方から先に手紙を下さった事に対して、もう一度私自身を恥ずかしく思います。

私は、到着したら直ぐに手紙を書くのが私の義務だと感じていましたが、でも私は、私に関するニュースは全て両親があなたに伝えていると確信していましたし、こんな事があなたの興味を引くとも思えなかったので、日々手紙を書くのを先延ばしにしていました。また、私自身について何か確かな事が話せるようになるまで待ちたかったのです;」

     この辺は、細かい違いはあるが文意は同じなので、さほど問題はない。

1.      「エルスネル様、」「エルスネル様!」

2.      「旅行の間」「ウィーンに出発して以来」

3.      「到着したら」「ウィーンに到着したら」

 

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #3

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「しかし祖国での恐ろしい出来事を聞いて以来、私は一つの考え――私の国と私の親愛なる人達についての心配と憧憬――しか持たなくなりました。」

「しかし1129日の事件を知った日以来、不安と心痛と郷愁ばかりで、」

 

ここは、かなりニュアンスが変えられている。

カラソフスキーの方は、いかにもカラソフスキーらしく、かなり愛国的に脚色されている事が分かるだろう。

原文に書かれている事の方が、実際のショパンの文章として遥かに自然だ。

 

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #4

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「マルファッティさんは、芸術家はコスモポリタンであるとか、あるいはそうあらねばならないと、私を説き伏せようと無駄な努力をしています。」

「マルファッティは、すべての芸術家はコスモポリタンであると、私を説き伏せようと無駄な努力をしています。」

 

ここは「マルファッティ」の敬称以外には特に問題はない。問題は次だ。

 

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #5

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「そうだとしても、私は揺籠から出たばかりの芸術家だし、それにも関わらず私は一人の男で、ポーランド人として兵士となって務める義務があります。ですから、私が未だに演奏会を手配する事について真剣に考えていないからと言って、あなたが私を責める事がないように望んでいます。」

「そうだとしても、私は芸術家としてはまだ揺り篭の中にいますが、ポーランド人としては20代に入りました;ですから、私が年上の方の感情に支配されて未だに演奏会を手配する事について真剣に考えていないからと言って、私をよくご存知のあなたが私を責める事がないように望んでいます。」

 

ここでは、カラソフスキーはショパンが20代に入った」としている部分を勝手に拡大解釈して、「兵士となって務める義務があります」などと変えてしまっている。

とにかくカラソフスキーは、事実を捻じ曲げてまでショパンを好戦的な革命支持者に仕立て上げたいのだと言う事がよく分かるだろう。

 

原文でのショパンは、いつものように、自らの政治的立場については一切コメントしていない。

彼はただ、戦争になりそうだと言う祖国の現状に対して反応し、憂えているだけなのである。

もしもショパンが、カラソフスキーが描いているように本当に好戦的な革命支持者であるのなら、こんなところでグダグダ言ってないで、誰が反対しようがとっととワルシャワへ帰り、義勇軍にでも何でも入ればいいだけの話しだろう。

だが、実際にこの時ショパンが取っていた行動は、遠いかの地でただ何も出来ずに嘆いていた事だけだ。

そもそも彼は、最初から祖国に不穏な動きがある中で、それを見越して国外脱出を図った節があると言うのに、今更戻って戦いたいも何もないだろう。

そうしてウィーンへやって来たものの、いざ本当に戦争が始まりそうだとなれば、家族や友人達の事を思って気が気ではなくなる。彼はただ、そんな当たり前の感情にとらわれているだけなのであって、それ以上でもなければそれ以下でもない。

 

だが、それこそがショパンの実像であり、ショパンとは常に、そういう人間なのである。

彼はミツキェヴィツなどとは違って、決して愛国的英雄の一人に祭り上げられるようなタイプの人間ではないのだ。

 

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #6

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「障害が、至る所から私を取り囲んでいます;哀れをもよおすピアノ演奏会が多く続いて、良い音楽をすっかり衰退させ、市民からの信用を無くしているばかりでなく、最近のポーランド情勢が私の立場に有害な影響を及ぼしています。」

     ここはほぼ同じだが、「ポーランド情勢」「ワルシャワでの出来事」になっている。

 

問題は次で、カラソフスキーは以下の一文を削除している。

 

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #7

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「パリなら、逆にそれは私に有利に働いたのかもしれません。」

 

ショパンはウィーンに到着して以来、ここで初めて「パリ」へ行く希望がある事を仄めかすような事を書いている。

おそらくこれは、1222日付の「家族書簡・第5便」で、

「僕は近いうちにイタリアヘ行くべきでしょうか、それとも待ちましょうか? 親愛なるパパ、どうかあなたと親愛なるママの希望を僕に知らせてください。」

と書いていた事に対する両親からの返事に、そのような由が書かれていた可能性が考えられる。これ以降の「家族書簡」には、もう「イタリアへ行く」事については一切コメントされなくなっているからだ。

したがって、これに先立つ「マトゥシンスキ贋作書簡」2通で、まだワルシャワから返事も届いていない時期に「パリへ行く」と書いてあった事が、明らかにカラソフスキーの作文だった事が分かる。

おそらくカラソフスキーは、その矛盾を隠蔽するために、この「エルスネル書簡」から上記の一文を削除したのではないだろうか。

同時に、カラソフスキーは、この頃のショパンから少しでも前向きな事柄を遠ざけ、その感情をあくまでも「ポーランド、わが祖国」に向けさせようと脚色してもいるのである。

 

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #8

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「私が思うに、しかしながら――ヴェルフェルは、謝肉祭の間に私の最初の演奏会を開くと言う私の意向に、全く賛成しています。」

「それにも関わらず、私は何とかなるように望みをつないで、謝肉祭の間に、ヴェルフェルがお気に入りの私の第1協奏曲を聞かせたいと思っています。」

 

この箇所は、ポーランド語原文のI-szy Koncert「最初の演奏会」と解釈するか「第1協奏曲」と解釈するか、正直私には判断が付きかねる(※この時まだショパンの協奏曲は出版されていないので、この場合の「第1協奏曲」とは、最初に作曲された《ヘ短調》▼の事である)。

既存の書物を見比べると、「第1協奏曲」としている方が一般的なようであるが、どちらでもいいようにも思える反面、逆にどちらも違うようにも思える。

たとえば、「最初の演奏会」とした場合、ショパンは1829年にウィーンを初訪問した際に、アマチュアとして無報酬ながらすでに2度の演奏会を開いているからだ。確かにプロとしてやるのは初めてだから、そう考えると決しておかしくはない事にもなるのだが。

一方、「第1協奏曲」とした場合だと、実際にはショパンは、このあとウィーンで開いた演奏会では、予定が流れたものも含めて、全て「第2協奏曲」《ホ短調》▼の方をプログラムに載せているからだ。ただしこの場合も、途中で考えが変わった可能性も十分考えられるから、そう考えるとこれもおかしくはない事になる。

 

まあ、その件については脇へ置くとして、ここで問題にしたいのは、原文には「私は何とかなるように望みをつないで」と言う前向きな記述があったのに、カラソフスキーはこれも削除していると言う点だ。

 

 

 

これ以降の記述は、以下の一箇所を除いてほとんど同じなので、割愛させて頂く。

 

ショパンからエルスネルへ(1831129日付) #9

カラソフスキー・ドイツ語版

ポーランド語原文

「あなたはまだ私達の事を誇りに思ってくれている事でしょう;とにかく私達の事を恥じてはいないでしょう。ピアニストのアロイス・シュミットは40歳を出た人で、古風な音楽を作曲していますが、批評家には酷評されています。」

フランクフルトから来たピアニストのアロイス・シュミットのように、あなたの名誉を傷つけない限り、あなたは私達に満足して頂けると思います。彼はここで(※演奏会を開いて)彼の鼻をへし折られたところで、彼は40歳を出た人だと思いますが、まるで80歳のような作曲をしています。」

 

この箇所は、「マトゥシンスキ贋作書簡」で以下のように流用アレンジされていた。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)■

「僕は、今は演奏会を行う事について何も考えていない。アロイス・シュミットと言う、フランクフルトから来たピアニストで、練習曲で有名な彼は、現在ここにいる。彼は40歳以上か何かだ。僕は彼と知り合いになって、僕に会いに来る約束をした。彼は演奏会を行うつもりだが、彼は器用な音楽家だと認めなければならない。思うに、音楽の事に関しては、我々はすぐに理解し合えるだろう。」

 

このように、カラソフスキーは、ポーランド語の原文から削除したパーツを自作の贋作に貼り付け、そうやって話を勝手に膨らませていた事が分かるだろう。

こういった例を見ると、「マトゥシンスキ贋作書簡」の中にあった、本当にショパンが書いたかもしれない文章については、カラソフスキーが黙殺した「家族書簡」から抜き出して貼り付けていた可能性が否定できなくなるのである。

 

 [2012年8月23日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証11-7:ショパンは本当に手記を書いていたのか?

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