検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――

Inspection XI: The journals of the second Viena's travel & the counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -

 


4.贋作マトゥシンスキ書簡はこうして作られた―

  4. The counterfeit Matuszy?ski letter was made in this way -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 歌曲・戦士▼≫
 

今回紹介するのは、ショパンがウィーンに到着してからマトゥシンスキ宛に書いた手紙のうち、2番目に書かれたとされているものである。ただし、カラソフスキーの伝記においては、これが「マトゥシンスキ書簡」の1通目となっている。

まずはそのカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。文中の*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ書簡・第2便)■

(※原文はポーランド語、一部フランス語が混在)

「ウィーン、

日曜日、クリスマスの朝。

去年のこの時は、僕はベルンハルディーネ教会にいたが*コンスタンツヤ・グワトコフスカ嬢はいつも、音楽院に近いベルンハルデォーネ教会に通っていた。]、今日は一人で化粧着を着て座り、僕の可愛い指輪にキスしながら書いている。

親愛なるヤシュ、

僕はちょうど、有名なヴァイオリニストのスラヴィクの演奏を聴いて帰って来たことろで、彼はパガニーニに次ぐ唯一の者だ。彼は弓のワン・ストロークで69のスタッカートを弾くのだ! 全く信じられない事だ! 彼の演奏を聴いた時、僕はべートーヴェンのアダージョによるピアノとヴァイオリンの変奏曲をスケッチするために急いで家へ帰りたくなった;でも、(家から手紙が来ていないか尋ねるために)いつもその前を通る郵便局をちらっと見ると、僕の欲求は逸らされた。

この神聖な主題が僕の眼にもたらした涙は、君の手紙を濡らした。僕は君からの言葉を、言いようもないほど待ち焦れている;何故なのかは君も知っているだろう。

僕の平和の天使についての知らせは、いつもどれほど僕を喜ばせる事だろう!

僕は、嵐のような感情だけではなく、ドナウ川の岸に今も尚こだまして漂っている歌――ヤン・ソビエスキ王の軍隊が唄ったその歌を、呼び覚ますような弦に触れるのをどんなに嬉しく思うだろう。

君は僕に、(※そのような軍歌を書くために)詩人を選ぶようアドバイスしてくれた。でも君も知っての通り、僕は優柔不断な人間で、僕の人生ではたったの一度しか良い選択をした事がないんだ。

僕は進んで父の重荷になるつもりはない;それを恐れないなら、僕は直ぐにでもワルシャワに戻るだろう。僕はよく、愛する我が家を去ったあの瞬間を呪う気分になる事がある。君は僕の境遇を理解してくれるに違いないが、ティトゥスが去ってしまって以来、突然あまりにも多くの事が僕に降りかかっている。僕が出席しなければならない多くの晩餐会、夜会、演奏会、それに舞踏会は、ただ僕をうんざりさせるばかりだ。僕は憂鬱だ。僕はここで見捨てられかのように寂しく感じていて、いまだに僕が好きなような生活が出来ないのだ。僕は正装していなければいけないし、客間では機嫌よさそうに見せなければいけない;でもまた自分の部屋へ帰って来ると、僕はウィーンでの最良の友として僕のピアノに話しかけ、僕の悲しみの全てを吐露するのだ。ここには全面的に信用できる人は一人もいないのに、でも僕は誰も彼も友人として扱わなければならないのだ。まったく、沢山の人達が僕を好いてくれているようで、僕の肖像画を描いたり、しきりに交際を求めたりするが、彼らは君の代わりになどなりはしない。僕は心の平和を失ってしまい、ただ君の手紙(※複数形)を読んだり、シギスムンド王の記念碑の事を考えたり*コンスタンツィヤが寄宿していた音楽院は、シギスムンド王の像の近所にあった。]、あるいは僕の大切な指輪を眺める時に幸福を感じるだけだ。

許してくれたまえ、親愛なるヤシュ、こんな愚痴を書いている事を、だが僕の心は君にこうして話が出来る時は軽くなったような気がするし、それに僕はいつだって、僕自身に関係する事は何もかも君に話して来たのだ。一昨日、君は僕からの短い手紙を受取ったかい? 君は家にいるのだから、僕の走り書きなんか君には重要ではないだろうが、でも僕は君の手紙(※複数形)を何度も読んでいるのだ。

フライエル医師は、僕がウィーンにいる事をシューフから聞いて23回会いに来た。彼は僕に沢山の面白いニュースをもたらし、そして僕が君の手紙のある部分を、僕を悲しませたある部分を読んで聞かせると、とても満足していた。彼女はそんなに変って見えるのか? 君は彼女が病気だと思うのか? 彼女は、これが全くありそうもないくらいに、それほど繊細な性質なのだ。しかし、おそらく、それは君の想像に過ぎないか、さもなければ彼女は何かに怯えているのだ。彼女が、何か僕が原因で悩んでいるなんて事は断じてない! 彼女の事を慰めてくれたまえ、そして僕の心臓が鼓動する限り、僕が彼女を敬慕するのを止めない事を彼女に保証してくれたまえ。僕が死んだ暁には、僕の灰は彼女の足下に撒かれるのだと彼女に話してくれたまえ。でも君が僕のために彼女に話してもいい事は半分もない。僕が自分で彼女に手紙を書こう、それに、実のところ、僕が耐えている苦悩から逃れるためにも、ずっと以前にそうするべきだったのだが、でも僕の手紙が他人の手に渡るような事にでもなったら、彼女の評判を傷付けはしないだろうか? だから、君が僕の考えの仲介者となるべきなのだ;僕のために、“私が適任でしよう。” (※フランス語)と話してくれたまえ。君のこのフランス語は、僕が君の手紙を読んだ時、稲妻のように僕を貫いてきらめいた。あるウィーン人が、その時偶然僕と一緒に歩いていたのだが、僕の腕を掴んで、辛うじて僕を抑える事が出来た。彼には、僕に何(※どんな内容の手紙)が来たのか分からなかった。僕は、通りがかった人達みんなを抱擁してキスする事が出来て、と言うのも、君の最初の手紙が、何日もの間、僕の心を軽く感じさせてくれたからだ。

親愛なる我が友よ、僕はきっと君を退屈させているに違いないが、しかし僕の心に触れたものはどんなものでも君に隠しておくのは難しい。一昨日、僕はバイエル夫人と一緒に晩餐をしたが、彼女もまたコンスタンツヤと呼ばれているのだ。僕は彼女を訪問するのがとても楽しい。何故なら彼女には、僕にとって口では言えないほど愛しい名がついているからだ。もしも“コンスタンツヤ”と書いてあるハンケチかナプキンが僕の手に入るなら、なおさら嬉しいのだけどね。スラヴィクが彼女の友人なので、僕はしばしば彼と一緒に彼女の家へ行くのだ。

昨日はクリスマス・イヴなので、僕は午前と午後に演奏した。天気は春のようだった。僕は夕方に男爵夫人の団欒から帰って来たので、しずかに聖シュテファン教会へ入った。僕は一人だったのだが、と言うのも、スラヴィクが帝室礼拝堂へ行かなければならなかったからだ。教会は空っぽで、僕は崇高で偉大な建物の全景を見るために、一番暗い角で柱に寄りかかった。広大で、アーチの華麗さは言葉では表せない;人は自分自身で聖シュテファンのものを見るべきだ。最も深奥な沈黙が、蝋燭を灯すために入って来る堂守の足音の響きに破られるだけで、辺りを支配していた。

僕の前にも後にも、頭上以外には、本当に至る所に墓があって、僕はこれまでになかったほど孤独で見捨てられた感じがした。燈火がすっかり灯り、大伽藍が人で一杯になり始めた時、僕は外套で身体を包み(君は僕がクラクフの郊外でどんな風に歩き回ったか知っている)、そこを出て、帝室礼拝堂のミサヘ急いだ。陽気な群衆の中を縫うようにして、僕が宮殿へ歩いて行くと、そこでは幾人かの眠そうな音楽家達がミサ曲を3楽章演奏するのを聞いた。僕は朝の1時に帰宅し、君の、彼女の、そして僕の親愛なる子供達を夢に見るためにベッドに入った。*ショパンは時々姉妹達の事を子供達と呼んだ。]

翌朝、僕は、有名な金持ちの銀行家の妻になっているポーランドの婦人エルカン夫人からの晩餐の招待状によって起された。その日、僕が最初にした事は、幾つかの陰気なファンタジアを弾く事で、それからニデツキ、リーベンフロシュト、及びシュタインケルラアの訪問を受けてから、マルファッティと一緒に晩餐するために出掛けた。この優れた人物は、あらゆる事に考えが及んでいる;彼はポーランド風に料理した御馳走までしてくれた。

有名なテノール歌手のヴィルトが晩餐後にやって来た。僕は、彼が見事に歌った《オセロ》中のアリアを、記億に基づいて彼のために伴奏した。ヴィルトとハイネフェッター嬢は、帝室歌劇々場のスターだ;他の歌手は、人が期待しているほど良くはない。だがハイネフェッター嬢のような声は極めて珍しい;彼女の抑揚もまた常にピュアで、彼女の音色は洗練されていて、本当に、歌い方には全く欠点はない;でも彼女は冷たいのだ。彼女は、特に男仕立ての衣装の時に見るとハンサムに見える。僕は、平土間で危く鼻を凍らせるところだった。僕は、《理髪師》よりは《オセロ》での彼女の方が好きで、そこでの彼女は、活発な、機智のある娘の代わりに、完璧な浮気女の役を演じていた。彼女は、《ティトゥス》の中のセクストゥスの時には、非常に華麗だった。23日中に、僕がしきりに見たがっている《盗人エルステル》が上演されるだろう。《理髪師》のロジナとしてはヴォウクフ嬢の方が僕を喜ばせたが、彼女はハイネフェッター嬢のような声をもっていない。僕はパスタを聞きに行くところだった。

君は、僕がザクセンの宮中からミラノの摂政女皇に送る手紙を持っている事を知っているが、しかし僕はどうするのが一番良いだろうか? 僕の両親は僕の希望に任せているが、むしろ僕に指示して欲しい。パリへ行こうか? ここの友人達は、僕にウィーンにいるようアドバイスする。それとも家へ帰ろうか、それともここに留っていようか、それとも自殺してしまおうか、それとも、もう君に手紙を書くのをやめようか? どうすべきか僕にアドバイスしてくれたまえ。どうか、いつも僕に大きな影響力を持つワルシャワのある人に聞いてくれたまえ。彼女の意見を伝えてくれたまえ、僕はそれに従おう。

君が戦争に行く前に、もう一度消息を聞かせてくれたまえ。アドレスは、ウィーン市、局留めだ。僕の親愛なる両親やコンスタンツヤに会いに行ってくれたまえ;そして君がワルシャワにいる間は、どうか僕の姉妹達を頻繁に訪ねてやって、君が僕に会いに来て、僕が隣の部屋にいると彼女達が思うかもしれない;それが僕だと彼女達が思うように、彼女達と一緒に座っていてくれたまえ;一言で言えば、家で僕の代わりになってくれたまえ。

僕は、今は演奏会を行う事について何も考えていない。アロイス・シュミットと言う、フランクフルトから来たピアニストで、練習曲で有名な彼は、現在ここにいる。彼は40歳以上か何かだ。僕は彼と知り合いになって、僕に会いに来る約束をした。彼は演奏会を行うつもりだが、彼は器用な音楽家だと認めなければならない。思うに、音楽の事に関しては、我々はすぐに理解し合えるだろう。

タールベルクもまたここにいて、たいへん上手に弾くが、しかし僕にとっては好みではない。彼は僕より若く、ご婦人方にはたいそう人気があり、《唖娘》からメドレーを作り、手ではなくペダルを使ってフォルテ(強)とピアノ(弱)とを表現し、僕がオクターブを弾いているかのように10度を弾き、シャツにはダイヤモンドの飾りボタンをつけている。彼はモシェレスを全く賞賛しない;だから、僕の協奏曲の総奏(tutti)だけが彼を喜ばせた唯一のパートだとしても、驚きはしない。彼もまた協奏曲(※複数形)を書いている。

僕はこの手紙を終わりにするが、これを書き始めてから3日後になったので、馬鹿げた走り書きをもう一度読み通した。親愛なるヤシュ、郵便料金を払わなければならないのを許してくれたまえ。今日、イタリアン・レストランで食事をしている時、僕は、“神は、ポーランド人を造るというミスを犯した。”と誰かが言うのを聞いた。僕の感情が表現出来ないほど興奮したのは少しも不思議ではないだろう? 別の誰かが、“ポーランド人から取り出せるものは何もない。”と言ったから、だから君は、ポーランド人である僕から何も新しいものを期待してはならない訳だ。

ここには、あらゆる種類のソーセージを作るフランス人がいて、過去1ヶ月間というもの、毎日何かしら新しいものがあるので、人目を引く彼の店の周りに大勢の人々が集まった。幾人かの人々は、それらをフランス革命の遺物を見ているかのように想像し、絵のようにぶらさげたソーセージやハムを気の毒そうに眺め、さもなければ、自分の国にも沢山豚がいるのに、ここで肉屋を開業したこの革命的なフランス人に憤慨している。彼はウィーン中の話題になっていて、もしもここで暴動が起きたら、このフランス人がその原因になるだろうと一般に恐れられている。

もうお終いにしなければならなず、と言うのもすっかり時間になってしまったからだ。僕に代わって、僕の親愛なる友人達みんなを抱擁してくれたまえ、そして、僕は僕の両親、姉妹達、及び彼女を愛さなくなるまでは、君を愛するのを止めないだろう。僕の最も親愛なる者よ、すぐに23行でも書き送ってくれたまえ。君は、そうしたかったら彼女にこれを見せてもいい。僕は今日、再びマルファッティの所へ行くつもりだが、最初に郵便局へ行く。僕の両親は、僕が君に手紙を書いた事を知らない。それで君は彼らに話してもいいが、手紙を見せる事だけはしないでくれたまえ。*ショパンのコンスタンツヤに対する情熱は、彼の家族には秘密にしてあった――おそらく家族に隠していた唯一の秘密だったろう事はほとんど言う必要はない。]

僕は、僕の愛しいヤシュと別れる方法を知らない。去るがよい、この野郎! もしもW……が、僕がするように暖かく君を愛しているなら、それならコン……するだろう。いや、僕はその名前を書く事すら出来なくて、僕の手はあまりにもそれに相応しくないのだ。おお!彼女が僕の事を忘れたかと思うと、髪を掻きむしりたくなる。今日の僕はまったくオセロのような感じだ。僕は、手紙を封筒に入れず折りたたんで封しようとしていた、誰にでもポーランド語が読める所へ出すって事も忘れて。少し余白があるから、ここでの僕の生活を説明しよう。

僕は立派な通りの4階に住んでいるが、しかし下を通り過ぎるものを見たかったら注意しなければいけない。僕が帰国したら、君は僕の新しいアルバムの中に、若いフンメルが親切にも描いてくれたその部屋を見る事だろう。部屋は広く、窓が5つあって、その反対側にベッドがある。僕の素晴らしいピアノが右手に、ソファが左手に、窓と窓との間に鏡があり、部屋の中央には実に大きくて立派なマホガニーの丸テーブルがある。床にはワックスが塗ってある。驚かないでくれたまえ!……

“紳士は午後には接客しないものだ、”それで僕は、回想の中で君と一緒にいる事が出来る。我慢できないほど馬鹿な使用人が朝早くに僕を起す。僕は起きると、コーヒーを飲み、それが時々冷めたくなっていて、何故なら僕が音楽に従事している間に朝食を忘れてしまうからだ。僕のドイツ語の教師が時間通り9時に現れる;それから、僕は通常書きものをし、フンメルが僕の肖像画を描きに来て、ニデツキが僕の協奏曲を学びに来る。僕は12時まで快適な化粧着を着ていて、時間になるとライベンフロスト医師が僕を訪ねて来る。天気がいいと、一緒に(城の堀の外壁の)斜堤まで散歩する。それから僕は大学生の集合所“ツム・ベエミッシェン・ケシン”で食事をし、そしてその後、僕らはここの習慣に従い、最高のカフェ・ハウスの一つに行く。それから人を訪問し、夕暮れ時に家へ帰ると、夜会服に着替え、家から家へと夜会に行く。およそ11時か12時(決してそれより遅くならない)頃に僕は帰って来て、ピアノを弾き、笑い、読み、それからベッドに入り、灯りを消し、君達の事を夢に見る。

僕の肖像画――それは君と僕との間では秘密だが――はとても良い出来だ。もしも君が、彼女がそれを欲しがっていると思うなら、僕はシューフを通してそれを君に送ってもいいが、彼はおそらく来月の15日頃にフライエルと一緒にここを出発するから。僕はこの手紙を全く平明に書き始めたが、しかし君が読むのに多少苦労するような書き方になってしまった。僕の大学の友人達を抱擁してくれたまえ、そして、出来れば彼らに僕宛に手紙を書かせてくれたまえ。エルスネルには、心から宜しくと。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より  

 

ウィーン時代の「マトゥシンスキ贋作書簡」については以前にその「第1便」を紹介したが、それは後世の何者かが捏造したもので、カラソフスキーが書いたものではなかった。カラソフスキーの伝記においては、今回の「マトゥシンスキ書簡」がその最初のもので、前回も書いた通り、この手紙はショパンが書いたものでない。明らかにカラソフスキーが創作して書いたものだ。

今まで本稿に根気強くお付き合い下さって来た読者であれば、この手紙を読んで、多かれ少なかれ何かしらの違和感を覚えられたのではないだろうか? おそらくところどころに、ショパンの書く手紙の文章とは違う何かを感じられたのではないだろうか?

 

 

それでは、その一つ一つの文章について検証して行こう。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#1■

「ウィーン、

日曜日、クリスマスの朝。

去年のこの時は、僕はベルンハルディーネ教会にいたが*コンスタンツヤ・グワトコフスカ嬢はいつも、音楽院に近いベルンハルデォーネ教会に通っていた。]、今日は一人で化粧着を着て座り、僕の可愛い指輪にキスしながら書いている。」

 

まずこの書き出しだが、いきなりカラソフスキーによる注釈付の前置きが目に付く。

確かに前回の「家族書簡・第5便」でも、

「クリスマス前の水曜日

(僕は手許にカレンダーを持っていないので、日付が分りません。)」

と言う、日付に関するちょっとした注意書きのような書き込みがあったが、それは、過去にも「ヴォイチェホフスキ書簡」において、

1830410日、ワルシャワにて

(エミリアの年忌)

とか、

1830417日、ワルシャワにて

(パパの誕生日)

と言うような例はあった。

しかし、いずれも今回のような、いかにも小説口調のモノローグ的なものではなかった。

それに、何度も言ってきたように、当時ショパンが恋をしていた相手は[グワトコフスカではない。それはカラソフスキーのでっち上げた嘘であり、ショパンが本当に恋をしていたは、その嘘のためにカラソフスキーがことごとく手紙から削除していた「モリオール嬢」なのだ。

そして、これも何度も書いてきた事だが、ショパンが「日曜日」に手紙を書き始める事など極めて考えにくいのである。

何故なら、ウィーンにおけるショパンの「家族書簡」の日付は、全て「水曜日」「土曜日」に限られているからだ。それについては、1829年の「第1回ウィーン紀行」においても、今回の「第2回」においても同じなのである(※下図参照)。

 

18298月 第1回ウィーン紀行

 

 

 

 

 

1

1便

2

 

3

 

4

5

6

7

8

2便

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10

 

11

演奏会

12

3便

13

4便

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17

 

18

演奏会

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5便

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31

 

 

 

 

 

 

     「第4便」だけ「木曜日」になっているが、これは急遽決まった追加公演の知らせを手短に書いたものなので、例外的に「緊急の手紙」なのである。ただし、ショパンがこれを人伝手に送ったのか郵便で送ったのかについては、その文面からはちょっと判断できない。しかしながら、この中でショパンは、「どうかエルスネルに僕のニュースを全部伝えて下さい、そして、僕が彼に手紙を出さない事を許してくれるようお願いして下さい。なにしろ僕の時間は本当にふさがっていて、時間的余裕がほとんどないのです」(もちろん追加公演の準備のため)と書いているので、とにかくこの時のショパンは、取り急ぎ緊急の要件を書くだけ書いておいて、2日後の土曜日に投函だけしたものと考えられる。

 

2回ウィーン紀行

1830121日 家族宛

水曜日

18301222日 家族宛

水曜日

1831129日 エルスネル宛

土曜日

1831514日 家族宛

土曜日

1831528日 家族宛

土曜日

1831625日 家族宛

土曜日

1831716日 家族宛

土曜日

1831720日 家族宛

水曜日

     エルスネル宛の手紙については、カラソフスキー版では日付が26になっている。ただしその場合でも、曜日は「水曜日」である。

 

2年間に全部で13通あるが、例外的な1通を除き、その全てが「水曜日」「土曜日」である。

これらがなぜ「水曜日」「土曜日」なのかと言えば、その曜日にしかワルシャワ方面の郵便馬車が出ないからだ。これはあくまでも「公の事情」である以上、言わば絶対的なものなのである。

したがってそれ以外の曜日に手紙を書いたのでは、その時その時の最新情報をワルシャワへ書き送れない事になる。だからショパンは、必ず郵便馬車の出るその日に手紙を書くのである。また、元来が筆不精のショパンであるから、ぎりぎりになって尻を叩かれないと手紙を書く気にならないと言う事情もそこには含まれている。

これはワルシャワ時代から一貫しているショパンの習慣である。

例外は緊急の場合か、もしくは手紙を正規の郵便では送らない場合だけで、その際は、誰か人伝手に手紙を手渡してもらえる事になっており、その由も必ず手紙に書かれているからすぐに分かる。

今回のこの手紙は「郵便」で送ると書いてあるから、ショパンがそのつもりで書き始めたのなら、その日付が「日曜日」になる事はまずない。今回の手紙には緊急で知らせなければならないような事も書かれていないのだし、仮に「日曜日」に書いたところで、どうせ4日も後の「水曜日」にならなければ郵便馬車は出ないと分かっているからだ。

つまり、他ならぬカラソフスキーが書いているからこそ、そのようなショパンの日常的な習慣すら踏まえていないのである。これが「ビアウォブウォツキ書簡」を編集したソウタンのようなちゃんとした人物なら、そのような見落としは決してしないだろう。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#2■

「親愛なるヤシュ、

僕はちょうど、有名なヴァイオリニストのスラヴィクの演奏を聴いて帰って来たことろで、彼はパガニーニに次ぐ唯一の者だ。彼は弓のワン・ストロークで69のスタッカートを弾くのだ! 全く信じられない事だ!」

 

この記述も、ショパン本人が書いているのならまずあり得ないものだ。

何故なら、「スラヴィク」の話題については、4日前に出したばかりの「家族書簡」で、既に次のように書いていたからだ。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第5便)■

「僕は先凋、彼(※ヴェルフェル)の家で、優れたヴァイオリニストのスラヴィクに会いました。彼はせいぜい26歳くらいで、僕はとても気に入りました。…(中略)…

ディナーの後、スラヴィクが演奏したのですが、パガニーニ以来誰よりも、僕を際限なく喜ばせました。」

 

細かい違いはあっても、基本的にはほぼ同じ内容である。

だが、マトゥシンスキは、ワルシャワから遠く離れてポトゥジンに張り付いていたヴォイチェホフスキとは違い、ずっとショパン家と同じワルシャワにいるのである。

それはつまり、彼が、ショパンが家族宛に書いた手紙を読む事が出来る環境にいたと言う事でもあるのだ。その場合、家族宛で既に知らせてあるのと同じ話を、4日後の手紙にもう一度書くような面倒な真似を、あのショパンがするはずがないのである。

カラソフスキーは、マトゥシンスキ宛の手紙はショパンの姉妹から手渡してもらうよう手配してあったと説明している。それにショパンは、家族宛の追伸に「マトゥシンスキにも、今日か、あるいは次の郵便で長い書簡を送ります」と言う彼宛のメッセージも書いている(※たとえそれがカラソフスキーによる加筆改ざんだとしてもだ)。それほどマトゥシンスキとショパン家が密にやり取りしている状況であれば、尚更マトゥシンスキは、手紙とかのショパンに関する情報を、ショパン家から提供されていなければおかしいだろう。

となれば、ショパンはそんなマトゥシンスキに対しては、家族宛に書いたのと同じ内容をわざわざ書く必要もない事になる訳で、したがって、このような無駄な重複をショパンが書くはずもないのだ。

この手紙には、前回の「家族書簡」との重複が多過ぎる。

確かにワルシャワ時代の「ヴォイチェホフスキ書簡」においては、「第1回ウィーン紀行」との重複がかなりあった。しかしそれは、ヴォイチェホフスキがワルシャワにはおらず、そのため「家族書簡」を読む事が出来ない環境にいたからなのである。

カラソフスキーは、そう言った両者の環境の違いも考慮せずに、「マトゥシンスキ書簡」でも同じ手法が使えると思ってしまったと言う訳なのである。

 

それに根本的な問題として、この手紙は「クリスマスの朝」に書き始めていると言うのに、どうして「僕はちょうど、有名なヴァイオリニストのスラヴィクの演奏を聴いて帰って来たことろ」なのだ?

日曜の朝から演奏会かパーティでもあったと言うのか?

意味が分からない。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#3■

「彼の演奏を聴いた時、僕はべートーヴェンのアダージョによるピアノとヴァイオリンの変奏曲をスケッチするために急いで家へ帰りたくなった;」

 

これも同じで、先の「家族書簡」から、以下の箇所を流用しているのである。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第5便)■

「僕はスラヴィクに会って、そして僕達は、僕達の変奏曲のためにベートーヴェンの主題を選ぶ事になっているのです。」

 

 

次もあり得ない。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#4■

「でも、(家から手紙が来ていないか尋ねるために)いつもその前を通る郵便局をちらっと見ると、僕の欲求は逸らされた。」

 

ショパンが家族宛に手紙を出す曜日が決まっているのと同じように、逆にワルシャワの家族の方もショパン宛に手紙を出す曜日が決まっているのである。

つまりショパンは、家族から手紙が来るとすれば、それが何曜日にウィーンの郵便局に到着するのかちゃんと分かっているのである。となれば、このように、あたかもショパンが毎日のように郵便局通いしているかのような行動を取るはずがない。

しかも、この手紙の中ではショパン宛の手紙は「局留め」扱いにされているようだが、そもそもそれが事実ではないのだ。

なぜならショパンは、翌1831515日」付のヴァーツラフ・ハンカ宛の手紙で、郵便物を送る際には自宅へ届けてくれるようにと、「コールマルク、1151番地、3階」と言う完全なアドレスをちゃんと教えているからなのである。

ハンカに対してそうなら、当然ワルシャワの家族や友人知人達に対してもそうしていたはずである。

つまり、この手紙における「局留め」設定は完全にカラソフスキーの作り話と言う事だ。

しかも、この文章表現にしても、いかにも芝居がかったクサい言い回しで、ショパンはこんな文学口調な描写などしない。こういうのは全て、明らかにカラソフスキーの文体である。

以下に続く表現も同様である。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#5■

「この神聖な主題が僕の眼にもたらした涙は、君の手紙を濡らした。僕は君からの言葉を、言いようもないほど待ち焦れている;何故なのかは君も知っているだろう。

僕の平和の天使についての知らせは、いつもどれほど僕を喜ばせる事だろう!」

 

カラソフスキーの伝記上では、ショパンはマトゥシンスキを通じてグワトコフスカに手紙を渡す約束になっていた…と言う設定なのだが、仮にそれが事実だとしてもだ、所詮は片思いの相手でしかない「平和の天使についての知らせ」とやらをマトゥシンスキがもたらした程度の事で、あのショパンがいちいち「涙」など流すだろうか?

この手紙におけるショパンは、まるで三文芝居の中の大根役者のように、異常なまでに感傷的すぎるのだ。

前回も書いたが、この時期に祖国ポーランドで起きていた事と言うのは、たかだか一部の士官候補生達による「大公暗殺の失敗」でしかなく、ポーランド人ですらその事件に対して冷ややかな態度を取っていたくらいで、そしてニコラなら当然、そのような状況を正確にショパンに伝えていたはずである。

となれば、ショパンが、「コンスタンチン大公が殺され損なった事」に対して、ここまで憂鬱になる理由が一体どこにあると言うのだろうか? それは正しく、純然たる国粋主義者であるカラソフスキーの感情そのものではないのか?

ショパンならむしろ、現時点に限って言えば、大公が暗殺される事によってその後ろ盾を失う事の方が、遥かに憂鬱の原因となったはずである。

 

 

以下に続く記述も全く同様である。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#6■

「僕は、嵐のような感情だけではなく、ドナウ川の岸に今も尚こだまして漂っている歌――ヤン・ソビエスキ王の軍隊が唄ったその歌を、呼び覚ますような弦に触れるのをどんなに嬉しく思うだろう。

君は僕に、(※そのような軍歌を書くために)詩人を選ぶようアドバイスしてくれた。でも君も知っての通り、僕は優柔不断な人間で、僕の人生ではたったの一度しか良い選択をした事がないんだ。

僕は進んで父の重荷になるつもりはない;それを恐れないなら、僕は直ぐにでもワルシャワに戻るだろう。僕はよく、愛する我が家を去ったあの瞬間を呪う気分になる事がある。」

 

この「ヤン・ソビエスキ王」と言うのは、ポーランド王ヤン三世ソビエスキ(16241696)の事で、彼の軍隊は神聖ローマ皇帝を助けて1683年にトルコ軍を打ち破り、ウィーンを解放した。

つまり、かつてのポーランドの軍事的英雄を称えて愛国心を表現している訳だが、しかしあのショパンがこんな好戦的な事を書くだろうか?

手紙がロシア当局に検閲されている可能性が大いにあると言うのに、そのような状況で、このように革命支持を表明するような事を、この時期のショパンが、たとえ本当にそう思っていたとしても、ワルシャワの家族や友人宛の手紙に書くはずがないのである。そんな事をしたら彼らを危険に巻き込むだけで、それくらい誰にでも分かる。だからこそ前回の「家族書簡」では事件について何も触れていなかったと言うのに、それと一緒に同封して送っている設定のこの「マトゥシンスキ書簡」に、ご丁寧にもそんな事を書いていたとしたら、それこそ何の意味もないだろう。

このように、カラソフスキーの創作と言うのは、いちいち矛盾だらけで、もはやシナリオが破たんしているのである。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#7■

「君は僕の境遇を理解してくれるに違いないが、ティトゥスが去ってしまって以来、突然あまりにも多くの事が僕に降りかかっている。」

 

私は、ヴォイチェホフスキのウィーン同行はカラソフスキーらによる作り話だと考えているので、あくまでもその立場から言わせてもらえば、当然ショパンがこのような事を書くはずもなく、したがってこれも完全にカラソフスキーの創作文である事になる。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#8■

「僕が出席しなければならない多くの晩餐会、夜会、演奏会、それに舞踏会は、ただ僕をうんざりさせるばかりだ。僕は憂鬱だ。僕はここで見捨てられかのように寂しく感じていて、いまだに僕が好きなような生活が出来ないのだ。僕は正装していなければいけないし、客間では機嫌よさそうに見せなければいけない;でもまた自分の部屋へ帰って来ると、僕はウィーンでの最良の友として僕のピアノに話しかけ、僕の悲しみの全てを吐露するのだ。」

 

何度も言うが、この時期はまだ、ポーランドとロシアが戦争に突入する2か月以上も前なのである。

そして、実際にそうなるかどうかなんて事は、当然まだ分かっていない状況でもあった。

したがって、ショパンがこのように「憂鬱」になるにはまだまだ早過ぎるのである。

要するに、この後ポーランドの歴史がどう動いていくかを予め知っている後世の人間が、その史実を前提にショパンの心理を描いてしまっている事がもはや明白なのである。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#9■

「ここには全面的に信用できる人は一人もいないのに、でも僕は誰も彼も友人として扱わなければならないのだ。まったく、沢山の人達が僕を好いてくれているようで、僕の肖像画を描いたり、しきりに交際を求めたりするが、彼らは君の代わりになどなりはしない。僕は心の平和を失ってしまい、ただ君の手紙(※複数形)を読んだり、シギスムンド王の記念碑の事を考えたり*コンスタンツィヤが寄宿していた音楽院は、シギスムンド王の像の近所にあった。]、あるいは僕の大切な指輪を眺める時に幸福を感じるだけだ。

許してくれたまえ、親愛なるヤシュ、こんな愚痴を書いている事を、だが僕の心は君にこうして話が出来る時は軽くなったような気がするし、それに僕はいつだって、僕自身に関係する事は何もかも君に話して来たのだ。」

 

これも嘘である。

前にも書いたが、この当時のショパンとマトゥシンスキは、高等中学校時代とは違ってお互いに疎遠になっており、そんな彼らが本当の意味で親密になるのはパリ時代に同居生活をし始めてからなのだ。

そう言った事情をきちんと踏まえて見ると、この時期にショパンがマトゥシンスキに向かって、「彼らは君の代わりになどなりはしない」だの「僕自身に関係する事は何もかも君に話して来た」だのと書いているのは、しらじらしいにも程があると言うくらい違和感を覚えてしまう。

実際ショパンは、1825年の高等中学校時代の夏休みにマトゥシンスキと手紙の交換をした事があったが、その時、ショパンは病気で引きこもっていたビアウォブウォツキの事で頭が一杯で、家族宛の手紙でははっきりその感傷を口にしていたのに、それと全く同時期に書いたマトゥシンスキ宛の手紙には、そのような感傷など微塵も見せず、逆にどこまでも明るく楽しげに振舞っていただろう。

つまり、ショパンは決して、マトゥシンスキに対して「僕自身に関係する事は何もかも君に話して来た」事実などないのである。

当時の2人はそこまで深い関係にはなかった。

カラソフスキーはそれらの手紙をどれも知らないので、当時のショパンとマトゥシンスキの関係が実際はどのようなものだったのかも分からないのだ。

だが知っている我々にしてみれば、この時期のショパンがマトゥシンスキに対して、まるでヴォイチェホフスキに書くような事を書くはずがない事ぐらいすぐに分かる。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#10■

一昨日、君は僕からの短い手紙を受取ったかい?」

 

手紙でこんな間抜けな事を書くやつはいないだろう。

だいたい、この「一昨日」と言うのは、一体何を基準に「一昨日」など言っているのか?

たとえば、ショパンがこれをクリスマスの朝の「日曜日」に書いているのなら、そのショパンからすれば「一昨日」は「24日(金曜日)」になる訳だが、それを指して「一昨日」と言っているのか? だとしたら、そう書いているこの手紙が実際にマトゥシンスキの許に届く頃には、その「24日(金曜日)」はとうの昔に「一昨日」ではなくなっているだろうが。

それともショパンは、マトゥシンスキがこの手紙を受け取るであろうその日を基準に、その2日前に届いているはずの「短い手紙」について「一昨日」と言っているのか?

それもあり得ない話だ。

何故ならさっきも書いたように、この手紙は「日曜日」に書かれてはいるが、実際に郵便局に持って行くのは、どんなに早くても次の水曜日になるのはこの時点でも分かっている事なのだ。だとすれば、これの前に送った手紙は先週の水曜日に送った「家族書簡・第5便」であり、その「短い手紙」とやらはそれと一緒にショパン家へ送られていた事になる。つまり、今回のこの手紙が実際にワルシャワに届くのは、前の手紙から1週間後なのである。1週間も前に届いていたはずの手紙に対して、「一昨日」などと書くはずがないだろう。

この手紙が本当に当事者(=ショパン)によって書かれたものなら、そんな単純な時系列上の間違いなど犯すはずがないのである。

これは、前回の「家族書簡・第5便」で、「マトゥシンスキにも、今日か、あるいは次の郵便で長い書簡を送ります」と書かれていたのが、実はカラソフスキーによって加筆改ざんされていたものだった事を裏付けていると言えるだろう。つまり、そこに書かれていた「長い手紙」がすなわち今回のこの手紙の事で(実際うんざりする程くどくて長い)、それを「長い」と表現している裏には、先に「短い」方がその「家族書簡・第5便」に同封されていたと言う事だからだ。

今回のこの手紙が贋作である事は疑いの余地がないので、実際のショパンがそんなモノについて予告コメントするはずがないからだ。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#11■

「君は家にいるのだから、僕の走り書きなんか君には重要ではないだろうが、でも僕は君の手紙(※複数形)を何度も読んでいるのだ。」

 

これも、ショパンのマトゥシンスキに対する友情が過剰に捏造されている。

これは、かつてショパンがヴォイチェホフスキ相手に書いていた事をそのまま流用したものに過ぎない。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#12■

フライエル医師は、僕がウィーンにいる事をシューフから聞いて23回会いに来た。彼は僕に沢山の面白いニュースをもたらし、そして僕が君の手紙のある部分を、僕を悲しませたある部分を読んで聞かせると、とても満足していた。」

 

ここに出てくる「フライエル」だとか「シューフ」だとか言った人物達の名は次回の「マトゥシンスキ贋作書簡」にも出てくるが、そこでは「フーベ」らと共に列挙されていて「旧友」とされている。

だが、「フーベ」とは違って、この2人の名前は後にも先にもウィーン時代の「マトゥシンスキ贋作書簡」にしか出てこない。カラソフスキーが勝手に考えた架空の人物でないとしたら、おそらくは、カラソフスキーが他の「家族書簡」から削除したものをここで流用している可能性も考えられるだろう。

実際にカラソフスキーは、イザベラから借り受けたウィーン時代の「家族書簡」を伝記の中では全て掲載しておらず、たとえば「1831720日付」の手紙については、その内容を短く要約しただけで終わらせてしまっている。

ショパンの手紙と言うのは、基本的に日々の生活を女性のおしゃべりのように取り留めもなく綴っている事がほとんどなので、カラソフスキーにとってさして重要とは思われない手紙については、過去の例から考えても、その手紙そのものが黙殺されている可能性は大いにあると思われる。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#13■

「彼女はそんなに変って見えるのか? 君は彼女が病気だと思うのか? 彼女は、これが全くありそうもないくらいに、それほど繊細な性質なのだ。しかし、おそらく、それは君の想像に過ぎないか、さもなければ彼女は何かに怯えているのだ。彼女が、何か僕が原因で悩んでいるなんて事は断じてない! 彼女の事を慰めてくれたまえ、そして僕の心臓が鼓動する限り、僕が彼女を敬慕するのを止めない事を彼女に保証してくれたまえ。僕が死んだ暁には、僕の灰は彼女の足下に撒かれるのだと彼女に話してくれたまえ。でも君が僕のために彼女に話してもいい事は半分もない。僕が自分で彼女に手紙を書こう、それに、実のところ、僕が耐えている苦悩から逃れるためにも、ずっと以前にそうするべきだったのだが、でも僕の手紙が他人の手に渡るような事にでもなったら、彼女の評判を傷付けはしないだろうか? だから、君が僕の考えの仲介者となるべきなのだ;僕のために、“私が適任でしよう。” (※フランス語)と話してくれたまえ。」

 

これも前に書いたが、ショパンはこんな風に妄想や想像で手紙にコメントしたりするような事はしない。必ず事実に即した話しかしないのである。しかもこの文章そのものも、いかにも文学調と言うか三文芝居調と言うか、とにかくこのような文章は「ショパンの文体」ではあり得ず、完全にカラソフスキーのものだ。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#14■

「君のこのフランス語は、僕が君の手紙を読んだ時、稲妻のように僕を貫いてきらめいた。あるウィーン人が、その時偶然僕と一緒に歩いていたのだが、僕の腕を掴んで、辛うじて僕を抑える事が出来た。彼には、僕に何(※どんな内容の手紙)が来たのか分からなかった。僕は、通りがかった人達みんなを抱擁してキスする事が出来て、と言うのも、君の最初の手紙が、何日もの間、僕の心を軽く感じさせてくれたからだ。」

 

これもあり得ない。

どんなに嬉しいからと言って、あのショパンが見ず知らずの通り掛かりの人々に抱き付いてキスするか?!

ショパンをそのような道化にさせる力など、マトゥシンスキにも恋愛にもない。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#15■

「親愛なる我が友よ、僕はきっと君を退屈させているに違いないが、しかし僕の心に触れたものはどんなものでも君に隠しておくのは難しい。一昨日、僕はバイエル夫人と一緒に晩餐をしたが、彼女もまたコンスタンツヤと呼ばれているのだ。僕は彼女を訪問するのがとても楽しい。何故なら彼女には、僕にとって口では言えないほど愛しい名がついているからだ。もしも“コンスタンツヤ”と書いてあるハンケチかナプキンが僕の手に入るなら、なおさら嬉しいのだけどね。スラヴィクが彼女の友人なので、僕はしばしば彼と一緒に彼女の家へ行くのだ。」

 

ちなみにここにも「一昨日」が出てくるが、これについては、言うまでもなくショパンが手紙を書いている現時点を基準にした「一昨日」である事は分かる。だとすれば余計に、それじゃあさっきの「一昨日」は一体何なんだ?と言う話になるだろう。

 

さて、ショパンはこの手紙の中で、グワトコフスカの事を一貫して「コンスタンツヤ」とファースト・ネームで書いている。

が、しかしそれもあり得ない事なのである。

ショパンは自分の恋愛対象について誰かに手紙で言及する時、決してファースト・ネームでは書かないからだ。そのような例はただの一つもないのである。

たとえば、ショパンは「ヴォイチェホフスキ書簡」において、モリオール嬢への本当の恋を告白していたが、その彼女の事にしても、一度たりとも「アンドリーヌ」とファースト・ネームで書いた事はなかった。

パリ時代におけるジョルジュ・サンドもそうである。ショパンが彼女についてコメントする時、必ず「サンド夫人」等と書き、ペンネームであれ本名であれ、決してファースト・ネームでは書かない。

何故ファースト・ネームでは書かないのか?

それはショパンが、自分の恋愛対象について誰かに語る時、必ず節度と言うか、一線を引いているからなのである。つまり、それを日本語でたとえると、「僕の愛しいアケミちゃんがねぇ…」などと言う調子で馴れ馴れしく書いたり、そのような突っ込んだ内容を手紙に書いたりはしないと言う事なのだ。実際そのような事をショパンは書かない。だから必ず、一歩引いたような感じで「田中さんが…」みたいに畏まって書くのである。

いかにもショパンらしいと言えるだろう。

     ちなみに、婚約者だったマリア・ヴォジンスカについては、ショパンが彼女の事を第三者宛の手紙の中でコメントしている例がない(そのような手紙が現存していない)ため、ちょっと分からないが、そのような場合にはおそらく、やはり「ヴォジンスカ嬢」と書いていたはずである。マリア・ヴォジンスカに関しては、直接ヴォジンスキ家との手紙のやり取りの中で語った以外に資料が残っていない。そしてその場合においては、家族や本人が相手なので、もちろん「ヴォジンスカ嬢」などと苗字で呼ぶはずもなく、したがって常にファースト・ネームの「マリア」「マリア嬢」で書かれている。

 

「ヴォイチェホフスキ書簡」の中ですら、グワトコフスカについてコメントする時は一つの例外もなく全て苗字だったと言うのに、どうして「マトゥシンスキ書簡」だけいきなり全てファースト・ネームなのか?

どう考えても不自然だろう。

おそらくカラソフスキーは、そうする事でショパンの彼女への感情の高まりを演出しようとしたのだろうが、それが却って、実際のショパンの習慣を踏み外し、馬脚を現す結果となってしまっているのである。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#16■

「昨日はクリスマス・イヴなので、僕は午前と午後に演奏した。天気は春のようだった。僕は夕方に男爵夫人の団欒から帰って来たので、しずかに聖シュテファン教会へ入った。僕は一人だったのだが、と言うのも、スラヴィクが帝室礼拝堂へ行かなければならなかったからだ。教会は空っぽで、僕は崇高で偉大な建物の全景を見るために、一番暗い角で柱に寄りかかった。広大で、アーチの華麗さは言葉では表せない;人は自分自身で聖シュテファンのものを見るべきだ。最も深奥な沈黙が、蝋燭を灯すために入って来る堂守の足音の響きに破られるだけで、辺りを支配していた。

僕の前にも後にも、頭上以外には、本当に至る所に墓があって、僕はこれまでになかったほど孤独で見捨てられた感じがした。燈火がすっかり灯り、大伽藍が人で一杯になり始めた時、僕は外套で身体を包み(君は僕がクラクフの郊外でどんな風に歩き回ったか知っている)、そこを出て、帝室礼拝堂のミサヘ急いだ。陽気な群衆の中を縫うようにして、僕が宮殿へ歩いて行くと、そこでは幾人かの眠そうな音楽家達がミサ曲を3楽章演奏するのを聞いた。」

 

このような描写的な文章もショパンらしくない。

たとえば、ショパンが何か情景描写をする時と言うのは、必ず何かそこに印象的な事があってそれを語るためだったり、ジョークのオチにするためだったりして、ただ単に素晴らしいものを見ただけなら大概その一言で片付けてしまう事がほとんどで、こんな風に長々と小説チックに「描写のための描写」など決してしないのである。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#17■

「僕は朝の1時に帰宅し、君の、彼女の、そして僕の親愛なる子供達を夢に見るためにベッドに入った。*ショパンは時々姉妹達の事を子供達と呼んだ。]

 

これも嘘である。

これについては既に何度も説明してきたが、ショパンは決して姉妹達の事を「僕の親愛なる子供達」などとは呼ばないし、実際にそのように手紙に書いた事は一度もない。

それをそのように表現するのは、「パパとママとその子供達」だから「子供達」と書いているのであって、決してショパンが自分の子供であるかのように表現している言葉ではないのだ。

したがってショパンが、たとえ愛情表現のためだとしても、自分の母親代わりですらある姉の事を「子供」扱いする事など決してない。

カラソフスキーにはその程度の文章読解力すらないため、ショパン特有の表現を曲解してこのような注釈を施しているが、それは明らかに間違いである。

たとえば、パリ時代にジョルジュ・サンドがショパンの事を自分の子供扱いしていたように、実際に子供扱いされているのはショパンの方なのだ。カラソフスキーは、何かとショパンの事を男性的なキャラクターとして描きたがっているようだが、どう考えたってそれには無理がある。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#18■

「翌朝、僕は、有名な金持ちの銀行家の妻になっているポーランドの婦人エルカン夫人からの晩餐の招待状によって起された。その日、僕が最初にした事は、幾つかの陰気なファンタジアを弾く事で、それからニデツキ、リーベンフロシュト、及びシュタインケルラアの訪問を受けてから、マルファッティと一緒に晩餐するために出掛けた。この優れた人物は、あらゆる事に考えが及んでいる;彼はポーランド風に料理した御馳走までしてくれた。」

 

この中では、「エルカン夫人」について、121日付の「家族書簡・第4便」に以下のような記述があった。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第4便)■

「僕はまだ、ラシェック嬢、フォン・エルカン夫人、ロスチャイルド、フォークト家の人達、そしてその他多くの興味深い人達を訪問していません。」

 

また、「マルファッティ」については、ショパンは去年の「第1回ウィーン紀行」の時にも彼の事を褒めちぎっていたし、もちろん今年の「第2回ウィーン紀行」でも再三に渡って好印象ばかり綴っている。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#19■

「有名なテノール歌手のヴィルトが晩餐後にやって来た。僕は、彼が見事に歌った《オセロ》中のアリアを、記億に基づいて彼のために伴奏した。ヴィルトとハイネフェッター嬢は、帝室歌劇々場のスターだ;他の歌手は、人が期待しているほど良くはない。だがハイネフェッター嬢のような声は極めて珍しい;彼女の抑揚もまた常にピュアで、彼女の音色は洗練されていて、本当に、歌い方には全く欠点はない;でも彼女は冷たいのだ。彼女は、特に男仕立ての衣装の時に見るとハンサムに見える。僕は、平土間で危く鼻を凍らせるところだった。僕は、《理髪師》よりは《オセロ》での彼女の方が好きで、そこでの彼女は、活発な、機智のある娘の代わりに、完璧な浮気女の役を演じていた。彼女は、《ティトゥス》の中のセクストゥスの時には、非常に華麗だった。23日中に、僕がしきりに見たがっている《盗人エルステル》が上演されるだろう。《理髪師》のロジナとしてはヴォウクフ嬢の方が僕を喜ばせたが、彼女はハイネフェッター嬢のような声をもっていない。僕はパスタを聞きに行くところだった。」

 

この辺は比較的ショパンの手紙らしいと言えるが、しかしこう言った事は、当時のウィーンの音楽関連の資料を調べれば誰にでも想像で書けてしまう。

「ヴィルト」「ハイネフェッター嬢」については、これ以降の「家族書簡」において何度も報告されている。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#20■

君は、僕がザクセンの宮中からミラノの摂政女皇に送る手紙を持っている事を知っているが、しかし僕はどうするのが一番良いだろうか? 僕の両親は僕の希望に任せているが、むしろ僕に指示して欲しい。パリへ行こうか? ここの友人達は、僕にウィーンにいるようアドバイスする。それとも家へ帰ろうか、それともここに留っていようか、それとも自殺してしまおうか、それとも、もう君に手紙を書くのをやめようか? どうすべきか僕にアドバイスしてくれたまえ。どうか、いつも僕に大きな影響力を持つワルシャワのある人に聞いてくれたまえ。彼女の意見を伝えてくれたまえ、僕はそれに従おう。」

 

これも完全に嘘である。

なぜなら、ここには「僕の両親は僕の希望に任せている」とあるが、この記述は、前回の「家族書簡・第5便」に書かれていた、ショパンの以下の質問に対する両親の答えを指しているからだ。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第5便)■

「僕は近いうちにイタリアヘ行くべきでしょうか、それとも待ちましょうか?*おそらく、半島に広がっている騒動について言及している] 親愛なるパパ、どうかあなたと親愛なるママの希望を僕に知らせてください。」

 

つまり、ショパンが訊ねていた「親愛なるパパ」「親愛なるママの希望が、「両親は僕の希望に任せている」と言う返事として送られて来ていた…と言う話になっている訳である。

しかしそんな事は絶対にあり得ないのだ。

なぜなら、前回の「家族書簡」の日付は「クリスマス前の水曜日」22日)であり、つまり、今ショパンがマトゥシンスキ宛に書いている「クリスマスの朝」の、そのたった4日前に郵便局へ持って行ったばかりだからだ。当時の郵便馬車がたった4日でウィーン⇔ワルシャワ間を往復できる訳がない。少なくとも2週間は見なければならず、だからショパンは前回、「なぜ郵便はもっと早く来ないのでしょうか?」と嘆いていたのに、何とその手紙はウィーンからワルシャワまで片道たったの2日でかっ飛んでのけ、着いたと思ったらもう返事が出されてそれがまた2日後にウィーンへ戻って来ていた…と言う事になってしまっているのだ。

だが実際には、4日前に出した手紙は今頃はヴロツワフあたりにいるはずで、まだワルシャワにすら着いていないはずである。

したがって、この時点で「僕の両親は僕の希望に任せている」などと言う返事をもらっている訳がないのである。不可能なのだ。

お分かりだろう。

この手紙の中では、現実には起こり得ない超常現象が平然と闊歩しているのだと言う事が。

要するに、全てはカラソフスキーの空想の世界の産物なのだ。

     ちなみに、イギリスに蒸気機関車による旅客輸送の鉄道が開通したのがちょうどこの年だったが(1830915日)、それはまだ、リバプールとマンチェスターの2区間(56キロ)のみを結ぶ短いものでしかなかった。カラソフスキーがショパン伝を書き始めたのはそれから32年後の1862年だが、その当時ですら、ウィーン⇔ワルシャワ間を4日で往復できるような交通機関など、世界中のどこを探しても存在しない。ちなみに現在であれば、列車で片道8時間程度、飛行機なら片道1時間ちょっとだそうである。

 

また、「君は、僕がザクセンの宮中からミラノの摂政女皇に送る手紙を持っている事を知っているが」とあるが、これは、ショパンがプラハから送った「家族書簡」で言及されていた話からの流用である。

 

■プラハのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第2回ウィーン紀行・第3便/カラソフスキー版)■

「伯爵夫人は誕生日のお祝いをしていました。僕が賀辞を述べるか述べないうちに、ザクセンの内親王が2人入って来ました。故フレデリック・アウグスツス王の1人娘で「正義の人」と緯名されているアウグスタ内親王と、元のルカの内親王で、現王の嫁に当るマキシミリアン親王妃とで、この親王妃はまだ若くて面白い人です。

僕は、これらのご婦人方の前で演奏しました。すると、イタリアヘ送る手紙を数通僕に下さる約束をしてくれました。これは僕の演奏が喜ばれた事の証しでした。実際に翌日、2通の手紙がホテルに届きました。ドブジツカ伯爵夫人も僕の後を追って、数通ウィーンヘ送ってくれる事でしょう。ウィーンでの僕の住所を知らせておきました。2通の手紙はネープルスにいるシチリアの女王とローマにいるウラシノ親王妃に宛てたものでした。全盛のルカ公爵夫人とミラノの摂政王に宛てた推薦状も下さる約束ですが、これはクラシェフスキ氏の親切な配慮でいただく事になっています。」

 

 

それに、ショパンは決して「自殺」など考えるようなタイプの人間ではない。

たとえば、彼はパリ時代の最晩年において、ジョルジュ・サンドとも破局して病気に臥せっていた最悪の時、とにかくその現状からの救いを求めて、半ば強引に姉のルドヴィカをワルシャワから呼び寄せているのである。つまり彼は、それほどまでに「生」に執着していて、その最期の病床においても、最後の最後まで病気と闘いながら息を引き取っていったのである。

そのような人間は決して「自殺」など考えない。

それに、何度も言うが、まだこの時点では祖国では「ポーランド・ロシア戦争」は起きてはおらず、ワルシャワの家族も友人知人達も皆安全が確認されているのである。

そのような状況で、なぜ「自殺」など考える必要があると言うのか?

カラソフスキーは後世の人間であるから、当然、この1年後に革命が失敗してワルシャワが陥落する事を知っている。だから彼は、ショパンの心理をその歴史的悲劇につながるように描写したい訳なのだが、しかし時代考証上、そのような心理状態になるのはあまりにも時期尚早過ぎるのだ。 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#21■

君が戦争に行く前に、もう一度消息を聞かせてくれたまえ。」

 

これもあり得ないだろう。

ここには「君が戦争に行く」とあるが、つまりそれは、マトゥシンスキがショパンに送ってきた手紙にそう書いてあると言う事なのだが、さっきも書いたように、ロシア当局の検閲が考えられるような状況下において、マトゥシンスキが自分で「戦争に行く」事を手紙に書くはずがない。

逆に、ショパンもショパンで、「君が戦争に行く」なんて事をオウム返しにワルシャワ宛の手紙に返事する訳がない。これではまるで、わざわざ自分達で“我々は謀反人です”と密告しているようなものだ。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#21■

アドレスは、ウィーン市、局留めだ。僕の親愛なる両親やコンスタンツヤに会いに行ってくれたまえ;そして君がワルシャワにいる間は、どうか僕の姉妹達を頻繁に訪ねてやって、君が僕に会いに来て、僕が隣の部屋にいると彼女達が思うかもしれない;それが僕だと彼女達が思うように、彼女達と一緒に座っていてくれたまえ;一言で言えば、家で僕の代わりになってくれたまえ。」

 

これもない。

さっきも説明したように、ショパンは翌1831515日」付のヴァーツラフ・ハンカ宛の手紙で、郵便物を送る際は自宅へ届けるようにと、「コールマルク、1151番地、3階」と言う完全なアドレスを教えているのである。

したがって、当然ワルシャワの家族や友人知人達に対しても、直接自宅へ送るようにアドレスを教えていたはずだからだ。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#22■

「僕は、今は演奏会を行う事について何も考えていない。アロイス・シュミットと言う、フランクフルトから来たピアニストで、練習曲で有名な彼は、現在ここにいる。彼は40歳以上か何かだ。僕は彼と知り合いになって、僕に会いに来る約束をした。彼は演奏会を行うつもりだが、彼は器用な音楽家だと認めなければならない。思うに、音楽の事に関しては、我々はすぐに理解し合えるだろう。」

 

この「アロイス・シュミット」については、翌1831129日付のエルスネル宛の手紙に、以下のように同じような記述が出てくる。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワのユゼフ・エルスネルへ(カラソフスキー版)■

「ピアニストのアロイス・シュミットは40歳を出た人で、古風な音楽を作曲していますが、批評家には酷評されています。」

 

ショパンがエルスネル宛に書いている話を、1ヶ月以上も前にマトゥシンスキ宛に書いているのである。しかも先に書いたマトゥシンスキ宛の方が話が膨らませられていて詳しいのだ。

なぜそのような事になっているのかと言うと、実は、カラソフスキーは「エルスネル書簡」のポーランド語原文から削除した文句を、「マトゥシンスキ書簡」に貼り付けていたからである。そのポーランド語原文は以下の通り。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワのユゼフ・エルスネルへ(ポーランド語原文)■

フランクフルトから来たピアニストのアロイス・シュミットのように、あなたの名誉を傷つけない限り、あなたは私達(※ショパンとニデツキ)に満足して頂けると思います。彼はここで(※演奏会を開いて)彼の鼻をへし折られたところで、彼は40歳を出た人だと思いますが、まるで80歳のような作曲をしています。」

  

こういった例を見ると、今回の「マトゥシンスキ贋作書簡」の中にある、本当にショパンが書いたかもしれない文章については、カラソフスキーが黙殺した「家族書簡」から抜き出して貼り付けていた可能性がますます否定できなくなるのである。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#23■

「タールベルクもまたここにいて、たいへん上手に弾くが、しかし僕にとっては好みではない。彼は僕より若く、ご婦人方にはたいそう人気があり、《唖娘》からメドレーを作り、手ではなくペダルを使ってフォルテ(強)とピアノ(弱)とを表現し、僕がオクターブを弾いているかのように10度を弾き、シャツにはダイヤモンドの飾りボタンをつけている。彼はモシェレスを全く賞賛しない;だから、僕の協奏曲の総奏(tutti)だけが彼を喜ばせた唯一のパートだとしても、驚きはしない。彼もまた協奏曲(※複数形)を書いている。」

 

ショパンがウィーンで「タールベルク」と会った事は、翌1831528日付の「家族書簡」で以下のように書かれている。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第7便)■

「昨日の午後、僕はタールペルクと一緒に新教の教会ヘ行きました。」

 

この「タールベルク」への批判にしても、いかにもカラソフスキーの文章臭いものだ。

何故ならカラソフスキーは、リストを始めとする、非ポーランド人のショパンのライバル達を一切認めていないからだ。

しかも、仮にこれがショパンの書いたものなら、ショパンは誰かを批判する時には必ずその根拠を述べるのに、ここでは何故「好みではない」のかその理由が何も語られていない。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#24■

「僕はこの手紙を終わりにするが、これを書き始めてから3日後になったので、馬鹿げた走り書きをもう一度読み通した。親愛なるヤシュ、郵便料金を払わなければならないのを許してくれたまえ。」

 

これによると、要するにこの手紙は、書き始めたのは「クリスマスの朝」1226「日曜日」)だが、書き終えたのは3日後」だと言っている。

この3日後」と言うのは、この手紙を書きあげるのに3日」を要したと言う意味で、つまり書き始めた日を含めて3日後」と言う事で、すなわちそれは「28日(火曜日)」になるのである。

実は、この手紙の現物を「複製」したとか言うものが『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)に掲載されているが、その「複製」とやらは日付が1830122628日]となっている。

だが、本当なら、手紙を書き終えるのはその次の日の「29日(水曜日)」でなければいけないはずなのだ。なぜなら郵便馬車が出るのがその日だからで、したがってその日まで投函するのを待てば、「僕は今日、再びマルファッティの所へ行くつもりだ」と予告しているその最新エピソードまで書けるからだ。それなのに、どうしてそうせず、わざわざ郵便馬車の出ない28日]に投函する必要があるのか?

明らかにおかしいのである。

これもやはり、カラソフスキーが書いているからこそ、こんな支離滅裂な事になってしまっているのである。

しかも、カラソフスキーは次回の「マトゥシンスキ書簡」において、マトゥシンスキ宛の手紙はニコラ・ショパン宛の「家族書簡」に同封してワルシャワへ送り、それをショパンの姉妹達がマトゥシンスキに手渡す事になっていると、そう説明しているのである。それなのにこの手紙は、直接マトゥシンスキ宛に、しかも「料金」着払いで送っている設定になっている。

このようにカラソフスキーと言うのは、何を書く場合でも、その時その時の思い付きで設定をころころ変えるので、話の前後が全く噛み合わない事だらけなのだ。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#25■

「今日、イタリアン・レストランで食事をしている時、僕は、“神は、ポーランド人を造るというミスを犯した。”と誰かが言うのを聞いた。僕の感情が表現出来ないほど興奮したのは少しも不思議ではないだろう? 別の誰かが、“ポーランド人から取り出せるものは何もない。”と言ったから、だから君は、ポーランド人である僕から何も新しいものを期待してはならない訳だ。」

 

この箇所ではいつになくショパンの愛国心が強調されているが、こう言った記述はいかにもカラソフスキーが書きそうなものだ。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#26■

「ここには、あらゆる種類のソーセージを作るフランス人がいて、過去1ヶ月間というもの、毎日何かしら新しいものがあるので、人目を引く彼の店の周りに大勢の人々が集まった。幾人かの人々は、それらをフランス革命の遺物を見ているかのように想像し、絵のようにぶらさげたソーセージやハムを気の毒そうに眺め、さもなければ、自分の国にも沢山豚がいるのに、ここで肉屋を開業したこの革命的なフランス人に憤慨している。彼はウィーン中の話題になっていて、もしもここで暴動が起きたら、このフランス人がその原因になるだろうと一般に恐れられている。」

 

この記述にしても、事実関係は不明である。

ただ、多少の政治色はあるにしても、ショパンらしいと言えばショパンらしい文章と言えなくもないので、これもやはり、ひょっとするとカラソフスキーが他の「家族書簡」から削除したものをここに流用していた可能性は考えられる。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#27■

「もうお終いにしなければならなず、と言うのもすっかり時間になってしまったからだ。僕に代わって、僕の親愛なる友人達みんなを抱擁してくれたまえ、そして、僕は僕の両親、姉妹達、及び彼女を愛さなくなるまでは、君を愛するのを止めないだろう。僕の最も親愛なる者よ、すぐに23行でも書き送ってくれたまえ。君は、そうしたかったら彼女にこれを見せてもいい。僕は今日、再びマルファッティの所へ行くつもりだが、最初に郵便局へ行く。」

 

「すっかり時間になってしまった」とあるが、このような場合にショパンの言う「時間」とは、すなわち手紙を郵便局へ持ち込む締め切り時間の事であり、そしてそれはウィーンにおいては「水曜日」「土曜日」に限られている。

ところが、この手紙を書き終えようとしているこの時点では、まだ曜日は「火曜日」なのである。もちろんショパンが「火曜日」に手紙を郵便局へ持ち込む事はないので、これもやはり嘘である。

しかも、「すっかり時間になってしまった」と書いておきながら、この後、異様にくどくて長い追伸と追記が続いている。こんなに書いていたら、郵便局はとっくに閉まってしまうだろう。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#28■

僕の両親は、僕が君に手紙を書いた事を知らない。それで君は彼らに話してもいいが、手紙を見せる事だけはしないでくれたまえ。*ショパンのコンスタンツヤに対する情熱は、彼の家族には秘密にしてあった――おそらく家族に隠していた唯一の秘密だったろう事はほとんど言う必要はない。]

 

この記述も矛盾している。

ショパンは前回の「家族書簡・第5便」で、「マトゥシンスキにも、今日か、あるいは次の郵便で長い書簡を送ります」と書いていたばかりだと言うのに、それがどうしてここでは、「僕の両親は、僕が君に手紙を書いた事を知らない」などと書いているのか?

しかもこれらの手紙は、ニコラ・ショパン宛の「家族書簡」に同封してワルシャワへ送り、それをショパンの姉妹達がマトゥシンスキに手渡しする事になっていると、カラソフスキーが自分でそう説明しているのである。

そんな状況で、どうやってこのマトゥシンスキ宛の手紙の存在を両親に内緒にできると言うのか? もう言っている事がとにかくメチャクチャなのである。要するに、それこそがカラソフスキーの成せる業なのであり、ショパンがこんな出鱈目な手紙を書ける訳がないと言う事の裏付けでもある。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#29■

「僕は、僕の愛しいヤシュと別れる方法を知らない。去るがよい、この野郎! もしもW……が、僕がするように暖かく君を愛しているなら、それならコン……するだろう。いや、僕はその名前を書く事すら出来なくて、僕の手はあまりにもそれに相応しくないのだ。おお!彼女が僕の事を忘れたかと思うと、髪を掻きむしりたくなる。今日の僕はまったくオセロのような感じだ。」

 

再びグワトコフスカへの未練たらしい三文芝居が追加されている。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#30■

「僕は、誰にでもポーランド語が読める所へ出すと言う事も忘れて、手紙を封筒に入れず折りたたんで封しようとしていた。」

 

ここでもまた「ポーランド」だ。

とにかくこの手紙では、やたらと「ポーランド」が連呼され過ぎるのである。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#31■

「少し余白があるから、ここでの僕の生活を説明しよう。

僕は立派な通りの4階に住んでいるが、しかし下を通り過ぎるものを見たかったら注意しなければいけない。僕が帰国したら、君は僕の新しいアルバムの中に、若いフンメルが親切にも描いてくれたその部屋を見る事だろう。部屋は広く、窓が5つあって、その反対側にベッドがある。僕の素晴らしいピアノが右手に、ソファが左手に、窓と窓との間に鏡があり、部屋の中央には実に大きくて立派なマホガニーの丸テーブルがある。床にはワックスが塗ってある。驚かないでくれたまえ!……」

 

これも、前回の「家族書簡・第5便」に書いた事からの流用とアレンジである。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第5便)■

「僕は4階に住んでいます;…(中略)…

僕の部屋はとても気持ちがいいです;向かい側に屋根が見え、下を歩いている人達がまるで小人のように見えます。僕が最も幸せな時は、グラーフ製の楽器(※ピアノ)で心行まで弾く時です。」

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#32■

「“紳士は午後には接客しないものだ、”それで僕は、回想の中で君と一緒にいる事が出来る。我慢できないほど馬鹿な使用人が朝早くに僕を起す。僕は起きると、コーヒーを飲み、それが時々冷めたくなっていて、何故なら僕が音楽に従事している間に朝食を忘れてしまうからだ。」

 

これもあり得ない話である。

ウィーン時代のショパンに、「使用人」など雇う金銭的な余裕があったはずがない。

今回の旅が貧乏旅行だった事は、このあとの「家族書簡」で幾度となく触れられている。

これ以降の家族宛の手紙でも「使用人」の事など一切触れられていないし、それどころかショパンは幾度となくカネの無心をしているような有様なのである。

それに、そもそもショパンが「使用人」を雇えるような身分になるのは、パリ時代にその名声を確立して以降の話なのだ。それまでは、彼はパリに到着してから5ヵ月が過ぎた時点ですら、「僕は1人で主人と使用人とを兼ねている」と、ヴォイチェホフスキ宛の手紙に書いているくらいなのである。

参考までに、パリ時代にショパンに師事したレンツの証言を引用しよう。

 

「ついに私はショパンの家に赴いた!…(中略)…

玄関で、私はリストの名刺を召使に差し出した。奉公人を持つことは、パリでは贅沢の証である。ましてや、芸術家としては、破格の存在だった。」

ヴィルヘルム・フォン・レンツ著/中野真帆子訳

『パリのヴィルトゥオーゾたち ショパンとリストの時代』(ショパン)より

 

これでも、ウィーン時代のショパンが「使用人」を雇っていたなんて話が信じられますか?

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#33■

僕のドイツ語の教師が時間通り9時に現れる;」

 

これもあり得ない。

ショパンは既にドイツ語に堪能なので、今更「ドイツ語の教師」など雇ってさらに無駄な出費を重ねるなど、特にこの時期においてはとうてい考えられない話だ。

母ユスティナ以外のショパン家の人々が皆ドイツ語に堪能な事は、これまでのショパン関連の手紙を全て読んでいれば自ずと分かる。

ところがカラソフスキーは、ショパンの手紙についてはそのほんの一部分しか知らないため、その事実すら知らず、その上、イザベラやヴォイチェホフスキにすらその辺の確認取材をしていないのである。

彼はいつだって、既成の資料と妄想だけで勝手にものを書き、自分で何かを調べて時代考証なり何なりをしようと言う事がない。作家としては怠慢この上ないと言わざるを得ない。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#34■

「それから、僕は通常書きものをし、フンメルが僕の肖像画を描きに来て、ニデツキが僕の協奏曲を学びに来る。僕は12時まで快適な化粧着を着ていて、時間になるとライベンフロスト医師が僕を訪ねて来る。天気がいいと、一緒に(城の堀の外壁の)斜堤まで散歩する。それから僕は大学生の集合所“ツム・ベエミッシェン・ケシン”で食事をし、そしてその後、僕らはここの習慣に従い、最高のカフェ・ハウスの一つに行く。それから人を訪問し、夕暮れ時に家へ帰ると、夜会服に着替え、家から家へと夜会に行く。およそ11時か12時(決してそれより遅くならない)頃に僕は帰って来て、ピアノを弾き、笑い、読み、それからベッドに入り、灯りを消し、君達の事を夢に見る。」

 

ここに書かれている事も、既に4日前に家族宛に書いた以下の内容からの流用である。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワの家族へ(第5便)■

「絵と言えば、昨日フンメルとその息子に会いました。後者は今、僕の肖像をほぼ仕上げかけています。それはなかなか良く描けていて、誰もそれ以上に描けるとは思えないほどです。僕は正装して坐り、霊感を受けたような表情をしていますが、その美術家がなぜ僕にそんな表情を与えたのか、僕には分りません。この肖像画は、4つ折り型で、チョークで描かれていますが、銅版のように見えます。

…(中略)…

ニデツキは毎日僕の所へ弾きに来ます。もしも僕の2台ピアノのための協奏曲が満足いくように出来上ったら、僕達は一緒に公衆の前で弾くつもりですが、でも僕は最初は一人で弾くつもりです。

…(中略)…

僕は非常に気持ちの良い知人を得まして、ライベンフロストという若者で、ケスレル家の友人です。僕達はよく会い、また招待されない時でも一緒に街で食事をします。彼はウィーンをすっかり知っていますから、見る価値のある所ならどこでも僕を連れて行ってくれるでしょう。たとえば、昨日などは、大公、公爵、伯爵、一言で言えばウィーンの貴族全てが集まる城砦へ、すばらしい散歩を試みました。

…(中略)…

僕が最も幸せな時は、グラーフ製の楽器(※ピアノ)で心行まで弾く時です。これから僕は、なた方の手紙と共に眠るつもりです;ですからあなた方の事だけを夢に見るでしょう。」

 

したがって、ワルシャワでこの「家族書簡」を読む事の出来る立場にいるマトゥシンスキに対して、ショパンがこのように重複した内容を書くはずがないのだ。

また、「ニデツキが僕の協奏曲を学びに来る」と言う箇所については、以下の「エルスネル書簡」からの流用である。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、ワルシャワのユゼフ・エルスネルへ■

「親愛なるエルスネル様、あなたは尋ねる事でしょう、なぜニデツキが私の第2協奏曲を勉強しているのか?と。」

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#35■

「僕の肖像画――それは君と僕との間では秘密だが――はとても良い出来だ。もしも君が、彼女がそれを欲しがっていると思うなら、僕はシューフを通してそれを君に送ってもいい。彼はおそらく来月の15日頃にフライエルと一緒にここを出発するから。僕はこの手紙を全く平明に書き始めたが、しかし君が読むのに多少苦労するような書き方になってしまった。僕の大学の友人達を抱擁してくれたまえ、そして、出来れば彼らに僕宛に手紙を書かせてくれたまえ。」

 

また「彼女」(=グワトコフスカ)押しだ。

ワルシャワ時代の「ヴォイチェホフスキ書簡」における「グワトコフスカ嬢」の書かれ方を思い出して欲しい。

最初に「理想の人」が告白された当初は、彼女の名はひたすらカラソフスキーによって削除され続け、その「理想の人」が実はグワトコフスカだったと設定変更されて以降は、元々書かれていなかったところにさえ「彼女」(=グワトコフスカ)を登場させていた。だが、それでもここまで執拗にくどくどと言及されてはいなかった。

なぜならそれは、基本的には本物である「ヴォイチェホフスキ書簡」が原本となっていたので、加筆改ざんについては必要最小限で事足りたからだ。

ところが、最初から1通丸々贋作するとなると、自分の好き放題に次々と話題をこしらえる事になるので、その結果、このように、主眼となる捏造の「恋愛物語パート」がここぞとばかりに充実される事になる訳である。

なので、カラソフスキーの伝記におけるグワトコフスカの存在は、その時その時の作者の都合と思惑によって、それこそ回を増すごとに激しいものになっていき、ショパンがそんな事を書く訳がないと言う程までにエスカレートしていく。そしてそれは次回でピークを迎える。

 

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#36■

「エルスネルには、心から宜しくと。」

 

これもおかしいだろう。

言うまでもなく、エルスネルはワルシャワ音楽院の院長であり、一方マトゥシンスキはワルシャワ大学の医学生である。そしてマトゥシンスキは、ヴォイチェホフスキとは違ってショパン家の寄宿学校には入っていなかった。それで、そんなマトゥシンスキとエルスネルに、一体どのような接点や交流があったと言うのだろうか?

たとえばこれが、同じ音楽仲間のフォンタナ宛の手紙だったらまだ分かる。しかしマトゥシンスキではどうなのか?

しかもショパンは、家族宛の手紙で常にエルスネルには挨拶を送っているのだから、それなのにわざわざ懇意とも思えないマトゥシンスキを通じてエルスネルに挨拶を送るなんて、そんな事が現実的にあり得るとはちょっと考えにくいのである。

それに、ショパンはこの1ヶ月後にエルスネル宛に手紙を書いているが、そこではマトゥシンスキの事など何も触れられていないのだ。

 

 

 

さて、実はこの手紙は、後世においてその現物が発見されたとされているものなのである。

残念ながらその現物自体は残っていないが、その「複製」は残っており、『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)には、その手紙の「複製」なるものが写真資料として掲載されている。

その資料については、次のような解説が付されている。

 

「ショパンの手紙 ワルシャワのヤン・マトゥシンスキ宛て [1830122628日]、ウィーン。複製。

オリジナルは第2次世界大戦中、ワルシャワの国有美術収集品管理局より紛失。」

『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)より

 

しかしながら、この手紙の現物が後から発見されるなんて事は、現実的にあり得ない話なのである。

なぜなら、カラソフスキーによれば、この手紙は1863年にワルシャワで暴動が起きた際に、ショパン家で保管されていた「家族書簡」と一緒にロシア兵によって焼かれてしまった事になっているからだ。

この手紙を最初に公表した人物が、現物はもうこの世には存在していないと説明しているのに、どうしてそれが後になってから出て来得ると言うのか?

つまり、後から出て来たこの手紙の「オリジナル」とやらは、何者かによって捏造されたものである可能性が極めて高いと考えるのが自然なのである。

それにしても、その「オリジナル」とやらがもしも「紛失」していなければ、公の機関できちんと筆跡鑑定する事で、それが贋作である事がはっきりと証明されたかもしれないだけに、それを思うと残念でならない。

 

現在オピエンスキー版やシドウ版などのショパンの書簡集に掲載されているのは、その「オリジナル」とやらに書かれていた文章が原本となっており、カラソフスキーが最初に公表したものとは少し違う。

ところどころに少しずつ文章が追加されるのである。しかもその追加されている文章と言うのは、どれもこれも、もしもそれが本当に最初から手紙に書かれていたのなら、あのカラソフスキーが削除するはずがないと言うようなものばかりなのだ。

要は、カラソフスキー版を基にして偽の「オリジナル」を捏造した人物が加筆しているのが見え見えだと言う事だ。

 

たとえばこんな感じである。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#13■

「彼女はそんなに変って見えるのか? 君は彼女が病気だと思うのか? 彼女は、これが全くありそうもないくらいに、それほど繊細な性質なのだ。しかし、おそらく、それは君の想像に過ぎないか、さもなければ彼女は何かに怯えているのだ【それはきっと29日の件で怯えているんじゃないのか?】

     カラソフスキー版では単に「何か」だったものが、29日の件」(大公暗殺計画の失敗)と具体的に特定されている。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#22■

【僕は丹念に新聞を読んでいる;僕はポーランドの日刊紙を予約した。】 僕は、今は演奏会を行う事について何も考えていない。」

     ここでも、足されているのはとにかく「ポーランド」である。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#29■

「おお!彼女が僕の事を忘れたかと思うと、髪を掻きむしりたくなる。【グレーザー! ベゾブラズフ! ピサレフスキ! こう言う奴らめ!】 今日の僕はまったくオセロのような感じだ。」

     ここに列挙されている名は、グワトコフスカの気を引こうとして彼女の周りに集まっていたロシア将校達なのだそうだ。そんな憎っくき連中をせっかくショパンが罵ってくれていると言うのに、あのカラソフスキーがそれを削除するなどとうてい考えられないだろう。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(ウィーン時代のマトゥシンスキ贋作書簡・第2便)#追伸部分■

【ウィーンで今評判なのはクロピキで、哀悼されているのはポトキで、そうかと思えばヴォリキが公爵と会談したとか、呆れ果てて笑うしかない。連中が我々の名前を扱う時のやり方のとんでもない出鱈目さと言ったら】

     ここに列挙されている名は、本当なら「クロピキ」「フウォピツキ」「ポトキ」「ポトツキ」「ヴォリキ」「ヴォリツキ」となるのだそうだ。

 

このように、いずれも贋作者の思惑がはっきりと読み取れる改変ばかりなのだ。

ショパンの贋作書簡には、必ず国粋主義的な意図が反映されている。私がかねてからそう指摘し続けている事の意味が、これらの例を見てもよくお分かり頂けるのではないかと思う。

 

 [2012年8月12日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証11-5:贋作マトゥシンスキ書簡、その

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