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検証9:ヴォイチェホフスキ書簡・第2期――

Inspection IX: The letters to Wojciechowski, Part II -

 


15.告別公演の告知―

  15. Notice of the farewell concert by Chopin-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 歌曲・酒宴▼≫
 

今回紹介するのは、「ヴォイチェホフスキ書簡・第17便」である。

まずはカラソフスキー版による手紙を読んで頂きたい。改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ポトゥジンのティトゥス・ヴォイチェホフスキへ(第17便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語、一部フランス語が混在)

1830105日、ワルシャワにて

僕は君の手紙をとても切望していて、それは僕の気持をいくらか落ち着かせてくれた。君には想像できまい、どれほど僕が、ここでのあらゆる事に耐えがたく、また疲労困憊しているか(低抗できない感覚だ)。僕の第2協奏曲をオーケストラの伴奏で試演したところ、その後で、僕は今月11日の月曜日に、それを携えて劇場に出演する事に決まった。こういう事は僕にはまったく相応しくないのだけれども、この作品が大衆にどんな影響を与えるのかを知りたいのだ。僕は、ロンド(終楽章)が一般に良い印象をもたらす事を望んでいる。ソリヴァは、“それは君に多くの名誉をもたらす”(※フランス語)と言った;クルピンスキは、それは独創的だと考えており、そしてエルスネルは、リズムが非常に小気味良かったと。本当の意味での良い音楽会を催し、同情を誘うクラリネット(※単数形)やフラジョレット(※木管楽器で、前面に4穴、背面に2穴ある。これも単数形)の独奏を避けるために、グワトコフスカ嬢とヴォウクフ嬢がいくつか独唱をする事になっている。序曲には、《レシェック》のものも《ロドイスカ》のものも選ばず、《ウィリアム・テル》のものにするつもりだ。

その婦人達が歌うための許可を取り付けるのに僕が持った困難を、君はほとんど想像できないだろう。イタリア人(※彼女達の師匠ソリヴァ)はすぐに承諾したが、僕はまだもっと上の当局者の許へ行かなければならなかった;大臣のモストフスキも結局は同意したが、と言うのも、こういう事は彼にとって重要ではないからだ。彼女達が何を歌うのか、まだ僕には分からないが、ソリヴァが僕に話すには、アリアを1つ合唱させる必要があるそうだ。

僕が、演奏会の1週間後にはワルシャワにいない事は確かだ。僕はトランクを買い入れ、旅装を調達し、楽譜を集め、ポケット・ハンカチーフは縁を縫い、新しい靴下やコートを試着したり、その他色々した。唯一暇乞いする事だけが残っているが、それが全ての中で最も難しいのだ。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より 

 

 

それでは、今回の「ヴォイチェホフスキ書簡」も、その内容をオピエンスキー版と比較しながら順に検証していこう。今回の手紙は随分と短いが、実はカラソフスキーは半分以上も省いていたのである。

       オピエンスキー版の引用については、現在私には、オピエンスキーが「ポーランドの雑誌『Lamus.1910年春号」で公表したポーランド語の資料が入手できないため、便宜上、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながら、私なりに当初のオピエンスキー版の再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。今までの手紙は、本物であると言う前提の下に検証を進める事ができたが、「ヴォイチェホフスキ書簡」に関しては、そもそも、これらはどれもショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかね、そのため、「ビアウォブウォツキ書簡」等と同じ手法では議論を進められないからである。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

1830105日、ワルシャワにて」

[1830]105日 火曜日 [ワルシャワにて]

 

まず日付についてだが、前回の「第16便」は922日」なので、今回はそれから約2週間後である(※下図参照)。

 

18309

 

183010

 

 

 

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14便

 

 

 

 

 

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出発?

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15便

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演奏会

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ショパンは前回「どんなに泣こうが悲しもうが容赦なく、僕は来週の土曜日に出発する決心をした」と書いていたが、結局それもまた延期されたのである。

 

 

さて、今回も、カラソフスキーは以下の冒頭の挨拶を削除している。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「我が最も親愛なる生命よ!」

 

これまでショパンは、「第12便」に書かれていたポトゥジン訪問以降、4通連続でヴォイチェホフスキの事を「偽善者」呼ばわりしていたが、前回からそれは収まっている。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は君の手紙をとても切望していて、それは僕の気持をいくらか落ち着かせてくれた。君には想像できまい、どれほど僕が、ここでのあらゆる事に耐えがたく、また疲労困憊しているか(低抗できない感覚だ)。」

 「僕は自分を落ち着かせるためにも、君の手紙が必要だった;君には想像できまい、どれほど僕が、この呪われた、しかし自然な成り行きでもある混乱にうんざりしているか。」

 

ここでショパンは、ヴォイチェホフスキから手紙を受け取ったと書いている。

しかしながら、ショパンは前回の手紙で「僕は来週の土曜日に出発する決心をした」と書いていた訳だから、本当なら今頃ウィーンに向けて馬車に揺られているはずであり、したがってこの時期ヴォイチェホフスキがショパン宛に手紙を書くはずがない。、それなのにどうしてヴォイチェホフスキから手紙が来ているのだろうか?

それは、続く以下の記述によって推測できる。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕の第2協奏曲をオーケストラの伴奏で試演したところ、その後で、僕は今月11日の月曜日に、それを携えて劇場に出演する事に決まった。」

「第2協奏曲をオーケストラでリハーサルした後、それを大衆の前で披露する事に決まって、次の月曜、すなわち今月の11日に、僕は出演する。」

 

前回の手紙は、その日これから協奏曲をオーケストラ伴奏で試す予定だったので「朝」書き、それをポレティウ伯爵に手渡してもらうために彼をリハーサルに招いていた訳だが、そのリハーサルの結果を受けてショパンが演奏会を開く事になったため出発が延期され、その由をポレティウ伯爵がその場で聞かされ、伯爵がヴォイチェホフスキに会った際にその知らせを口頭で伝えたからなのである。

 

ちなみに、ショパンがリハーサルを行なった日の2日後に、その時の事が新聞で以下のように報道されている。

 

ポフチェクニ―・ズィエニク・クラヨヴィー、一八三〇年九月二十四日、ワルシャワ

音楽を愛する者やわが国の音楽家に、喜びとともに、取り急ぎお知らせしたい。フレデリック・ショパンが二曲目のすばらしい協奏曲を完成させた。ショパンは一昨日、自宅という親しみやすい舞台で、友人や耳の肥えたこの町の演奏家、評論家を前に、その作品の初演奏を行なった。ここでは聴衆の言葉を長々しく述べるのではなく、簡素に一言で評価したい。これは天才の所作であったと。独創性や優美な曲想、豊かな想像性、完璧なオーケストレーション、そして最後になったが最も重要な彼の特徴である卓越した演奏が聴衆を歓喜させた。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 下巻』(東京音楽社)より

 

 

この新聞は、ショパンが半年前に行なった最初の《ヘ短調・協奏曲》▼の時も、自宅でのリハーサルについて報道していた。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「こういう事は僕にはまったく相応しくないのだけれども、この作品が大衆にどんな影響を与えるのかを知りたいのだ。」

「一方では残念だが、もう一方では一般への効果に興味津々なのだ。」

 

細かい事だが、カラソフスキー版では、ショパンが謙虚なようなニュアンスで書かれているが、オピエンスキー版では、こんな時に演奏会を開かなければならなくなった事を「残念」がっている。

ショパンは、この半年前に行なわれた2度に渡るプロ・デビュー公演が終わったあと、「第7便」で以下のように書いていた。

3回目の演奏会を開いて欲しいという希望があらゆる方面で述べられているが、僕はそれをしたくない。君には、演奏前の数日間に感じなければならない緊張が信じられないだろう。僕は、第二協奏曲の最初のアレグロを休暇前には仕上げたいと思っている。それで、この次は更に聴衆が多くなるだろうと確信してはいるものの、とにかく復活祭が終わるまでは待つつもりだ。と言うのも、まだ「身分の高い人々」(※フランス語)は全く僕の音楽を聴いていないからだ。2回目の演奏会の時、平土間から大きな声で“公会堂でやってくれ”と叫んだ人がいたが、僕がこのアドヴァイスに従うかどうかは疑問だ。もし演奏するとなれば劇場でだろう。」

ショパンはこの時すでに、自分の“演奏会嫌い”をはっきりと自覚していた。

ただし、この先は外国で成功するためにはそんな事言ってられない訳だが、しかし現段階では、これ以上国内でどんな評価を上積みしても何の足しにもならないため、できる事なら出発前の演奏会は避けたかったに違いない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕は、ロンド(終楽章)が一般に良い印象をもたらす事を望んでいる。」

「僕は、ロンド(終楽章)がみんなに感銘を与えると考えている。」

 

ここも細かい事だが、カラソフスキー版では、ショパンがやはり謙虚なようなニュアンスで書かれているが、オピエンスキー版では自信を持って話している。

だがこれは、オーケストラ・リハーサルの4日前に行なわれた四重奏でのリハーサルの時に、

「この前の水曜日に僕は、僕の協奏曲を四重奏の伴奏で試してみたが、完全には満足していない。リハーサルに出席した人達は、終楽章が最も成功した楽章だと言っている――おそらく一番分かりやすいからだ。」(※「第15便」より)

と書かれていた時の評判を受けて言っている事なので、ショパン自身の自惚れとかそう言う事ではないのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「ソリヴァは、“それは君に多くの名誉をもたらす”(※フランス語)と言った;クルピンスキは、それは独創的だと考えており、そしてエルスネルは、リズムが非常に小気味良かったと。」

「ソリヴァは、“それは君に多くの名誉をもたらす”(※フランス語)と言った;クルピンスキはその独創性について話し、エルスネルはそのリズムについて小言を言った。」

 

ここでは、カラソフスキー版のエルスネルは「リズム」を褒めているが(※ちなみにヘドレイの英訳版とその邦訳版などを見ても、カラソフスキー版同様、エルスネルは「リズムをほめている」と翻訳されている)、しかしオピエンスキー版のエルスネルは、その「リズム」について「小言を言った」と書いてある。

実は、ポーランド語原文で使われているこの単語は、「褒める」と言う意味で使われる事もあるそうなのだが、しかしそれは一般的ではないそうで、語源的には「正しくする、正しくさせる」と言う意味につながり、「褒めてもよいが、文句を言ってもよい」と言うニュアンスがあるのだそうだ。

ショパンの文中には、そのどちらかを特定する言葉は含まれていないが、しかし彼は前回の手紙で、

「クルピンスキ、ソリヴァ、そして音楽界のエリートが出席するだろうけど、しかし僕はエルスネルを除いて、彼らの意見をあまり信用していない。」

と書いていたから、作曲の師匠であるエルスネルだけは、他の人々とは違って、弟子に対して決して耳に快い事だけを言う人物ではない事が分かる。だからこそショパンは彼を「信用」しているのだ。

今回の手紙を見ても、ソリヴァもクルピンスキも褒め言葉しか言っていない。

したがってここでは、やはりエルスネルは師匠らしく「小言を言った」と、一般的な意味でもって翻訳する事が適当であろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「本当の意味での良い音楽会を催し、同情を誘うクラリネット(※単数形)やフラジョレット(※木管楽器で、前面に4穴、背面に2穴ある。これも単数形)の独奏を避けるために、グワトコフスカ嬢とヴォウクフ嬢がいくつか独唱をする事になっている。」

しかし、(僕はいわゆる“気持ちの良くなる夕べ”を準備する事ができると思うので)、ピアノ曲の間に入れるお粗末なクラリネット(※複数形)やファゴット(※複数形)を避けなければならない;それで、グワトコフスカが第1部で、そしてヴォウクフが第2部で歌う事になっている。

 

この箇所は、オピエンスキー版とカラソフスキー版ではニュアンスが違うが、実はオピエンスキー版自体も、ポーランド語原文と英訳版とではニュアンスが違う。

·           オピエンスキー・ポーランド語版⇒しかし、(僕はいわゆる“気持ちの良くなる夕べ”を準備する事ができると思うので)、」

·           オピエンスキー・英訳版⇒君が良い夕べだったと称する事ができるようアレンジするために」

英訳版の方だと、これではまるでショパンがヴォイチェホフスキを演奏会に呼ぼうと考えているかのように受け取れてしまう。しかしポーランド語版の原文にはそんな事は書いてないし、実際この手紙でヴォイチェホフスキを演奏会に呼ぼうとするはずがない。

なぜならヴォイチェホフスキは、ショパンが演奏会を開く事自体はすでにポレティウ伯爵伝手に聞かされていたが、その日程についてはこの手紙で初めて知らされたからだ。

演奏会はこの手紙の日付から6日後であるから、ヴォイチェホフスキがこれを受け取ってからワルシャワヘ駆け付けたのではもう間に合わない。

それに、ショパンはもう、ヴォイチェホフスキがショパンの演奏会のためだけにワルシャワを訪れるような事がないのを知っている。

それは、この夏にポトゥジンのヴォイチェホフスキ宮殿を初訪問した際に、「嫌気が指すほどの偽善者」から思い知らされていたからだ。

したがってショパンは、それ以前は、演奏会のプログラムに、友情の印としてヴォイチェホフスキに献呈した《お手をどうぞによる変奏曲》▼を入れるつもりでいたのに、どうせ来ないからとそれをやめてしまったのである。

 

そして、この箇所を読めば分かるように、ショパンは、グワトコフスカが「理想の人」だから自分の演奏会に出演依頼したのではない。

ワルシャワの音楽レベルでは、下手な器楽奏者に出演してもらうよりも、この2人の新人歌姫の方が遥かにましだったから依頼したのである。

そして、その中でもアイドル的人気を博している「ヴォウクフ」を第2部に回したのは、言うまでもなくその集客力を見込んでの事だ。

もしもショパンが「理想の人=グワトコフスカ」が目的だったのであれば、むしろ「ヴォウクフ」の方などどうでもいいはずである。それなのに、どうしてこの2人はいつでも必ずセットなのか? それは、ソリヴァの許可が必要である以上、彼の2人の愛弟子のうち、どちらか一方を特別扱いする事は許されなかったからである。

これらの文章群から、ショパンの彼女達への個人的感情など微塵も読み取れないだろう。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「序曲には、《レシェック》のものも《ロドイスカ》のものも選ばず、《ウィリアム・テル》のものにするつもりだ。」

        ほぼ同じ。

       《レシェック》 「エルスネル作曲、歌劇《レシャック・ビアリイ》の序曲」 これは、ショパンのプロ・デビュー公演のプログラムで1曲目に選ばれていた。

       《ロドイスカ》 オピエンスキーの註釈によると、[ケルビーニによるオペラ。初演は1791]

       《ウィリアム・テル》 オピエンスキーの註釈によると、[ロッシーニによるオペラ。初演は1829]

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「その婦人達が歌うための許可を取り付けるのに僕が持った困難を、君はほとんど想像できないだろう。イタリア人(※彼女達の師匠ソリヴァ)はすぐに承諾したが、僕はまだもっと上の当局者の許へ行かなければならなかった;大臣のモストフスキも結局は同意したが、と言うのも、こういう事は彼にとって重要ではないからだ。彼女達が何を歌うのか、まだ僕には分からないが、ソリヴァが僕に話すには、アリアを1つ合唱させる必要があるそうだ。」

「僕を哀れんでくれ、君は分からないだろう、2人の婦人達が歌う許可を申請するのに、僕がどんな経験をしたか。イタリア人(※彼女達の師匠ソリヴァ)は全く同意する事を厭わなかった;しかし僕は、もっと上の、モストフスキの許へ行くように言われた;しかし彼は全く無関心で、寛大に同意した。彼女達が何を歌うのか、まだ僕には分からないが、イタリア人(※ソリヴァ)が僕に話したところでは、アリアを1つ合唱させなければならないそうだ。」

 

 

次の箇所はカラソフスキー版では削除されている。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「《マグパイ》(※=《盗人のエルステル=泥棒かささぎ》2回だけ上演された。1回目の時、グワトコフスカは少しナーバスになっていて、最初のカヴァティーナ(※オペラの短いアリア)2回目ほどには上手に歌えなかった。彼女がこれを歌った時、それは称賛に値した;

(※ここでショパンは五線譜にメロディを書き、音符をスラーでつないで表現の滑らかさを描写している)

彼女は、マイエル夫人のように短く切る事はせず、しかしこのように歌った;

(※ここでショパンはもう一度同じメロディを書き、今度は音符にデクレッシェンド(次第に弱く)を付けている)

それは速いグルペット(※装飾音符のターン)のようではなく、8つの音符がきちんと歌われていた。最後の幕では、ロッシーニの《マホメット》[*マホメット2世。初演は1820]から祈祷が加えられたが、と言うよりは、葬送行進曲のあとに挿入されていて、《マグパイ(泥棒かささぎ)》のだと、高くて彼女の声に合わないからだ。オペラについてはこれで十分だ。ヴォウクフは今《理髪師》(※=《セビリアの理髪師》と、それから《イタリア・オペラ(の旅)[*フィオラヴィンテによる]を勉強しているところで、彼女達はこの中からデュエットを歌う事になっている;それが、ソリヴァが僕の演奏会で彼女達にデュエットを歌って欲しくない理由なのだ。――僕は、ベルヴィルが以前僕に弾かせなかったあの楽器で弾くつもりだ。」

 

前回ショパンは、

「グワト(コフスカ)嬢が《マグパイ》に出演した後、ヴォウクフ嬢が《理髪師》に出演する事になっているが、僕はどちらも見ないだろう。

と書いていたのだが、演奏会のために出発がまた延期されたので、結局見る事になった訳である。

 

そしてここには、「それが、ソリヴァが僕の演奏会で彼女達にデュエットを歌って欲しくない理由なのだ」とあるが、これは、先ほどの「彼女達が何を歌うのか、まだ僕には分からないが、イタリア人(※ソリヴァ)が僕に話したところでは、アリアを1つ合唱させなければならないそうだ」を受けての説明である。

つまりだ、なぜショパンがグワトコフスカとヴォウクフの2人に出演を依頼したのかと言うと、彼は彼女達に「デュエット」を歌って欲しかったからなのである。

要するに、ショパンは最初からこの2人をセットで考えていたと言う事だ。

仮にショパンがグワトコフスカを「理想の人」と崇めていて、本心では彼女1人だけ出演して欲しかったのにそれをカモフラージュするためヴォウクフにも声を掛けた…と言うのであれば、親友のヴォイチェホフスキに手紙でそのように説明するはずだろう。それは恋する者の心理として極めて自然である。

しかしそうではないのだ。

ショパンはこのように、最初から彼女達の演目について希望があったのである。

そもそもショパンにしてみれば、自分の演奏会に花を添える目的もあって彼女達に出演依頼したのだから、事前にそれくらいの思惑があったとしても不思議ではないだろう。

 

それともう一つ着目すべき点がある。

ショパンがグワトコフスカの《マグパイ》について、「《マグパイ》が2回だけ上演された」と報告している点だ。

私は以前、ショパンがグワトコフスカのデビュー公演についてヴォイチェホフスキ宛に報告した時、その話題はすでに3週間以上も過去のものだったと説明した。

つまり、ショパンにとってグワトコフスカの話題などその程度の関心事でしかないのだと言う事だが、それに関しては今回も同じなのである。

なぜなら、ショパンがこの手紙を書いている時点でグワトコフスカはすでに2回」の公演を行なっていた訳だが、そのうちの1回目」についてはリアルタイムで報告されず、今回の手紙でまとめて書かれているからだ。

何度でも言うが、仮にショパンにとってグワトコフスカが「理想の人」であると言うのなら、その1回々々の公演について、その翌日にはペンを取って事細かに報告せずにはいられないはずだろう。しかしショパンは一度だってそんな事をしていないのである。それをするのは自分の演奏会について報告する時だけなのだ。

つまりそれが、ショパンのグワトコフスカ達に対する「関心の程度」を如実に表していると言う事なのである。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

「僕が、演奏会の1週間後にはワルシャワにいない事は確かだ。僕はトランクを買い入れ、旅装を調達し、楽譜を集め、ポケット・ハンカチーフは縁を縫い、新しい靴下やコートを試着したり、その他色々した。唯一暇乞いする事だけが残っているが、それが全ての中で最も難しいのだ。」

遅くとも来週、演奏会の後、僕はワルシャワからいなくなる。すでに旅行カバンは準備してあり、旅行の準備は出来ている、楽譜も装丁されている、ハンカチも縁取りが出来ている、ズボンも縫ってある。――残るは、さよならを言うのみで、これが最も悲しい事なのだ。

 

ここには、「残るは、さよならを言うのみ」とあるが、実は、ショパンが書いた歌曲の中に《酒宴》と言う作品があるが、それは、その「さよならを言う」ための宴会の際に書かれたものだったそうである。

       それについての詳細は、私のBGM付き作品解説ブログ「歌曲『酒宴』 作品74-42台ピアノ版)▼」で。

 

 

カラソフスキー版はここで終わっているが、オピエンスキー版には続きがある。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

君の愛している誰かが、この悲しみを感じる。僕の両親と子供達も;彼らは良い子達だ;長い間彼らを喜ばせるものが何もなかったから、君からの手紙にあった友情溢れるエールを彼らに伝えたよ。僕は、今日は手短に書かなければならず、なぜなら、僕は朝のうちに、クラツェルのためのコーラス隊の参加を依頼するため、エルネマン氏の所に行かねばならず、もしも彼が僕のために(彼らを)貸してくれる事に合意するならだしかし僕は、こう言った事に苦労している。」

 

ここは厳密には追伸部分ではないが、「子供達」と言う表現が出てきている。

本文中にこれが出てくるのはこれで2度目だが、今回は「僕の両親」が併記されているし、書いてある内容自体は追伸っぽいものであるから、準追伸と考えられない事もない。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

ニュースだ;老グルスキ氏、いつも“この”、“この”と言ってる人[*おそらく、彼はどもっていたのかもしれない]が、ポンゴフスカ嬢と結婚した;しかし、(彼の)家族はそれについて誰も何も知らないのだ。想像してくれたまえ、彼が結婚式のためにビエラニィ町へ出発した時、彼の息子が彼の所に来て、一緒に散歩に行きたいと言うんだよ(自分の父親が、花嫁を乗せる結婚式用の馬車に乗り込む準備をしているとも知らずに)。父親は彼の誘いを拒否して、《プレチオザ(宝石細工)》(※オペラ?演劇?)を鑑賞するチケットを与えた。とは言え、彼(父親)自身が牡鹿に良く似合っている(※ポーランドでは、妻に裏切られた夫の事を牡鹿と言うそうで、このオペラ?演劇?にそんな役があるのかも知れないと考えられるそうである)。翌日、ヴァジョ(※男性名=ヴァディスワフ)が、ヴィンツェンティ・スカルジンスキと共、誕生日祝いの挨拶のためにやって来たが、彼らが不思議に思う事があった。父親が、何かそわそわしながら窓の外を頻繁に眺めている。しかし、老ポンゴフスキが(グルスキと)同じ借家に住んでいた。いよいよグルスキが馬車に乗り込む事になり、息子は、(父親が)居酒屋に行くつもりだと思った。だから家から出る際に、(すでに継母である)ポンゴフスカ嬢と(彼女の)母親に出会った時、特に何かあるとも思わなかった。(息子は)父親と別れの挨拶をし、父親は彼をいつもの通り簡単にあしらったので、気を悪くして、ちょうど昨晩帰宅していたジェコィンスキの所へ行った。その家に入って、義理の父(※この辺の家族関係については不明)と挨拶をしたら、義理の父が言うには、“昨夜はあまり良く寝ていない。”と嘆く。――“何故だ。”と聞くと、――“馬鹿な話だが、君(息子)の父親が結婚式のために全ての敷き布団を持って行ったからだ。”と。――“何だって?”――“君(息子)は自分の親父の家から今出て来たばかりだろう。”――“あり得ない話だが、そんな事は何も僕(息子)に言わなかった。”―― “馬車の供をしていた召使に聞いてごらんよ。”――この、この、と言う父親が心もとない事をしてくれたと、息子は悲しくなった。ジェコィンスカ夫人はこの事を何も知らない。君(ヴォイチェホフスキ)はポンゴフスカ嬢を知っているだろう、何故なら、プルシャック夫人のところで彼女を見知っていただろうから――背丈が小さくて、案外に綺麗な子だ:若いグルスキは彼女を気に入っていたはずだ。想像するに、だから父親は彼のために結婚したのだろう。デケルト神父(君は知っているだろう)が結婚式の司式をした。

 

この話は笑い話なのだろうが、ちょっと意味不明だし訳しにくい。

 

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「フーベはイタリアへ行った。ノヴァコフスキはビァウィストック市にいる。あの町の状況を調べるためで、何故なら、あそこに彼の仕事が見つかったからだ。彼は帰って来ないと思う。俳優であるノヴァコフスキはクラクフにも興味を持っていた。残念だ。しかし、ドゥムシェフスキが言うには、(ビァウィストックでは)彼を引き付けておく事は出来ない、何故なら、非常にきつい(生活)条件が提示されているからだと。最初の問題:彼の妻は楽器を弾くが、何もまともに出来ない。――これから老プルシャック氏のところに出向く。その前に、エル(ネマン)氏のところにも行く。――彼に対して大きな関心事があるから、それだけではないけど;この事について君に書く事は出来ないが、しかし、話は別の事で、乳色に覆われていると言うより、むしろ、袋の中に一からげと言うものだ。僕を快く受け入れてくれてくれるだろう事を知っている。キスしてくれたまえ、最愛の友よ、僕は確信している、君が僕を愛してくれている事を、そして、君が僕に対して暴君であるかのように、絶えず君を恐れている。――何故そうなのかは分からないが、とにかく君が怖い。本当に君のみが僕を圧する力を持っている。君と…君以外に誰もいない。――これが君宛に書く最後の手紙になるだろう。

死に至るまで君の      

F.ショパン      」

 

ショパンは、ついこの間まではヴォイチェホフスキの事を散々「偽善者」呼ばわりしていたのだが、ここでは「暴君」と言っている。

これは今までの罵り言葉とは明らかに意味もニュアンスも違う。

これはつまり、彼ら2人の間にある力関係と言うか、そう言ったものが対等ではなく、常にヴォイチェホフスキの方が上で、ショパンに対して支配的だと言う事である。しかしこれは誰のどんな人間関係にでも言える事だし、友情でも恋愛でも、相対する両者の力関係が完全に対等だと言う事の方がむしろ稀だろう。

ショパンはヴォイチェホフスキの事を精神的な拠り所と考えているが、おそらくその逆はないだろう。

また、ショパンは相手に振り回されたり待ちぼうけを食らわされたりしているが、これについてもやはりその逆はないだろう。

もちろん、それぞれの性格もあるが、要は、ショパンの方が惚れた弱みでそうなっていると言う事であり、それがそのままこの両者の力関係を形成しているのである。

 

 

以下は追伸部分。

 

ショパンからヴォイチェホフスキへ 第17便#16.

カラソフスキー・ドイツ語版

オピエンスキー・ポーランド語版

 

「子供達、両親、ジヴニー氏、スカルジンスキら、いつも君がどうしているかと聞いている。それはそうと、音楽院のお嬢さん達(※フランス語)がずっと前に君に宜しく伝えて欲しい、と。グワト(コフスカ)嬢とヴォウクフ嬢は、更にこれからの1年間、ソリヴァの指導の下にい続ける――彼女らは、もう飽きてきたと僕に白状している。

火曜日、105日。     」

 

この追伸部分にも「子供達」の表現があり、やはり「両親」が併記されている。

 

さて、ここで注目すべきは、「音楽院のお嬢さん達」、すなわち「グワト(コフスカ)嬢とヴォウクフ嬢」が、もう一年ソリヴァの下で勉強すると言う事だ。

つまり、彼女達は現時点でもまだワルシャワ音楽院・声楽科の生徒だと言う事であり、また、ここに書かれている事を普通に解釈すれば、彼女達の卒業は来年の1831年秋だと言う事になる。

ショパンは同学院の作曲科に1826年の秋から3年間在籍し、卒業は1829年秋である。

仮に、グワトコフスカとヴォウクフの在籍期間も同じ3年で、卒業が1831年秋になるのなら、彼女達の入学は1828年秋と言う事になる。

 

私は以前、「第12便」を検証した際に、以下のような事を書いた。

 

「ショパンは、前の年の四月二一日、音楽院の学生による発表会で初めて、この藍色の目をした、金髪のソプラノ歌手を見かけ、たちまちその虜になった。彼女の歌声も美貌もショパンに強烈な印象を残した。だが彼女に個人的に近づこうとするには、フリデリックは内気すぎた。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

この「四月二一日」という日付は、確かに「第4便」(103日」付)で「半年もの間、黙って忠実に仕えてきた」と書いてあった時期とほぼ重なる。

しかし、よく考えてみて欲しい。

グワトコフスカがワルシャワ音楽院・声楽科に入学したのが何年だったのかはちょっと不明だが、少なくとも、その「四月二一日」より更に半年前の前年1828年の秋以前だった事は間違いないのである(※日本では春が入学シーズンだが、言うまでもなく欧米では秋である)。

だとすれば、彼女はその頃からすでにソリヴァの愛弟子として彼の音楽夜会の常連だった訳だ。となれば、ショパンが彼女と出会ったのは、「四月二一日」「音楽院の学生による発表会」などと言う公の場であるはずがなく、間違いなくそれ以前にソリヴァの夜会ですでに個人的に知り合っていたはずだろう。

ショパンの手紙でも、彼が彼女と会うのは決まってソリヴァ絡みである事が分かっているのだから、そう考えるのが現実的であり、むしろ「音楽院の学生による発表会」だとする方がよっぽど不自然なのである。

 

この仮説は、今回の手紙の記述によって、一つの裏付けが取れた事になる。

 

ちなみにバルバラ・バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカは「彼女の歌声も美貌もショパンに強烈な印象を残した」と書いているが、今までショパンの手紙を見てきても明らかなように、当初ショパンは「歌声も美貌も」ヴォウクフの方が上と見なしていたし、それについては現在においても、「歌声」についてはともかく、少なくとも「美貌」については未だにヴォウクフを上に見ているし、それは次回の手紙でもそう書かれているのである。

 

 [2012年3月26日初稿 トモロー]


【頁頭】 

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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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