7.第7便/ドレスデンより――
7. The journals of the first Viena's travel No.7-
今回紹介するショパンの手紙は、「ウィーン紀行・第7便」で、ウィーンからワルシャワヘ帰る途中で立ち寄ったドレスデンから家族に宛てた手紙である。ただし、手紙が書かれた場所自体はドレスデンであるが、その内容は、ドレスデン到着前、つまり、プラハでの後日談とテプリッツ滞在中の出来事が大半を占めている。
これは、カラソフスキーのドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表されたもので、文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによる。
■ドレスデンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第7便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語で、一部イタリア語、フランス語、ドイツ語が混在) |
「1829年8月26日、ドレスデンにて 僕は陽気に、健康に過ごしています。1週間前にウィーンにいた時には、ドレスデンに来る事になるとは想像もしていませんでした。僕らのプラハ訪問は電光石火のようでしたが、無駄には過ごしていません。ハンカ氏は、僕がもたらしたスカルベクの近況を聞いて喜んでいました。僕達は彼の訪問者名簿に署名しなければならず、それはプラハ・ミュージアムを訪れた者で特にハンカ氏と関係のある者が書くようになっています。その中に、ブロジンスキ、モラフスキ[*2人共ポーランドの有名な詩人]、その他の名前を見つけました。 僕らはそれぞれ、彼への詩や散文など、心に浮かんだものを何でも書く事にしました。僕のような音楽家に、何か読むに値するものが書けるでしょうか? 幸い、マチェヨフスキが四行詩のマズルカを書く事を思い付いたので、僕がそれに曲を付け、こうして僕達は、最も独創的なやり方で僕達自身を不朽のものにしたのです。 ハンカ氏はその思い付きを大変喜んでいました;それは、彼のスラヴ民族の研究に対する功労を賛美する、彼のためのマズルです。彼は僕に、スカルベクのためのプラハの絵を数枚託しました。ハンカ氏が僕達に見せてくれたものを、全て手紙で伝えるのはとても不可能でしょう。その素晴らしい景色、聖ヨハネの銀の像を蔵めた荘厳な大伽藍、紫水晶(アメジスト)やその他の宝玉をちりばめた聖ウェンセラウスの美しい礼拝堂、その他様々なものを、僕は口頭で説明しなけれぱなりません。 僕は、ブラヘトカやヴェルフェルの手紙のお蔭で、ピクシス氏(※フリードリッヒ・ピクシス、1785−1842。プラハ音楽院の院長でヴァイオリニスト)から友好的な歓迎を受けました。彼は自身のレッスンを切り上げて僕を家へ招待し、色々な事を訊ねました。僕は、テーブルの上にクレンゲル(※アウグスト・クレンゲル、1783年−1852。ドレスデンの宮廷オルガニスト)の名刺があるのに気付いたので、ドレスデンのあの有名なクレンゲルと関係があるのですかと聞いてみました。“そのクレンゲル自身がここにいるのですよ、”とピクシスは答え、“私が外出している間に訪ねて来たのです。” 僕は、その人宛の手紙をウィーンから預かっていたので、この芸術家と知り合いになれる見通しができて喜びました。その事についてピクシスに話すと、彼は僕に、午後に来るように誘ってくれて、もしクレンゲルに会いたいのなら、その頃には来るだろうからと。僕達は、ピクシスの家の階段で偶然クレンゲルと顔を合わせ、そこで初対面を果しました。僕は、2時間以上も彼のフーガを聴きました;僕は求められなかったので弾きませんでした。クレンゲルの演奏は僕を喜ばせましたが、しかし率直に言いますと、僕はもっと良い何かを期待していたのです(この事は誰にも話さないようお願いします)。彼は僕に、次のようなアドレスで紹介状をくれました:“最も高名な騎士モラッキ 王室楽団の第1指揮者”(※イタリア語);彼はこの紳士に頼んで、僕をドレスデンの全ての音楽関係者に引き合わせ、特にペヒヴェル嬢に紹介してくれるとの事です。このご婦人はクレンゲルの弟子で、彼の意見によると、ドレスデンにおける第一級のピアニストなのです。彼は僕に対してとても愛想よくしてくれました。彼は出発前に――彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりです――僕は2時間ほど一緒にいましたが、僕達の会話は決して途切れる事はありませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、僕はチェルニーとのそれよりも更に高く評価しています;でも親愛なる皆さん、この事も話さないで下さい。 プラハでの楽しい3日間は、気付かぬうちに終わってしまいました。あなた方もご存じのように、僕はひどくぼんやりしています、それで僕達が出発する日に、突然何の気なしに他人の部屋に飛び込んでしまったのです。“おはよう”と元気に声をかけられてしまいました。場臆は、“失礼しました、部屋の番号を間違えました。”と言って、大急ぎで逃げ出しました。僕達は個人用の四輪馬車を借りて正午にプラハを出発し、夕方にテプリッツに到着しました。その翌日、浴場の名簿に、ルドヴィク・レムピッキの名を見つけました;僕はすぐに彼を訊ねて行きました。彼は僕に会った事をたいへん喜び、ここにはポーランド人が幾人もいると話しました;その中で、老プルシャック、ユゼフ・ケルレル、力ミオナから来たクレトコフスキ諸氏の名を挙げました。レムピッキが言うには、彼らはたいてい“ジャーマン・ホール”で食事を共にするが、しかし今日はクラリイ公爵のお城に招待されているのだそうです。この公爵は、オーストリアの貴族の中でも最も有名な家柄に属しています。非常に裕福で、テプリッツ市を所有しています。 クラリイ公爵夫人[*アロイジア・フォン・クラリイ公爵夫人は非常に人当たりの良い女性だった。彼女は優れたピアニストで、真に善良な心と教養とを併せ持つ稀な女性だった。芸術家および詩人は、もてなしのよい彼女の家で、この上ない心からの歓迎を受けた。公爵夫人は最晩年に至るまで、文学上および芸術上のあらゆる問題に心から関心を抱いていた。]は、旧姓ショテック伯爵令嬢で、ボヘミアの今の城主の姉妹です。レムピッキはクラリイ公爵とは非常に懇意にしているので、公爵と引見する時に僕を紹介して、晩餐の際に僕の名を披露してあげると言いました。その夜は約束が何もなかったので、喜んでその提案を受け入れました。 僕達はここで見る価値のあるものはすっかり見物しました。それからワルトシュタイン伯爵の邸宅があるデュックスヘも行きました。僕達はアルブレヒト・ワルトシュタイン(またはワレンシュタイン)が突き殺された鉾槍と、頭蓋骨の一片、その他の記念品を見ました。その夜劇場へ行く代りに、正装をして、レムピッキと一緒にお城ヘ行きました。僕は白手袋をはめて行きました(ウィーンの演奏会からお払い箱になっていたやつです)。来客は多くありませんが、非常に選ばれた人達でした;オーストリアの公爵;オーストリアの将軍、この人の名は忘れました;英国海軍の大尉;2、3人のエレガントなダンディ(オーストリアの公爵か伯爵だと思います);それにザクセンのフォン・ライゼル将軍で、この人は顔に傷痕、たくさんの勲章をほどこしていました。僕は、クラリイ公爵と一番多く話をしました。お茶の後で、公爵夫人の母君であるショテック伯爵夫人が、僕に演奏してくれと言いました。楽器はグラーフ製の立派なものでした。僕はピアノの前のイスに坐り、即興演奏のテーマを与えて下さるよう一同にお願いしました。テーブルを囲んでいるご婦人方は、すぐに囁き合いました;“テーマ、テーマ”(※フランス語)と。 3人の美しい若い姫君は、ちょっと相談してから、クラリイ公爵の1人息子の家庭教師であるフリッチェ氏[*1836年〜48年の間に上演されて戌功した幾つかの短い喜劇の作曲家]に任せると、フリッチェ氏は、ロッシーニの《モーゼス》の中のメイン・テーマが宜しかろうと言い、一同は異議なく賛成しました。僕は即興演奏を弾きましたが、そこそこ上手くいったように思います。と言うのは、後でフォン・ライゼル将軍が僕と長話をされたからです。僕がドレスデンに行こうとしていると話すと、将軍はすぐにフォン・フリーゼン男爵に宛てて次のような紹介状を書いてくれました: “ライゼル将軍よりザクセン国王陛下の式部官フリーゼン男爵閣下へ、ムッシュ・フレデリック・ショパンをご紹介いたします、彼のドレスデン滞在中のお役に立てるよう、我々の第一級の芸術家の多くにお引き合わせ願いたし。”(※フランス語) その下にドイツ語でこう書いてありました:“ショパン氏は、私が聴いたピアニストの中で、最も立派な者の一人であります。” (※ドイツ語) 親愛なる皆さん、僕はあなた方のために、将軍が鉛筆で書いた手紙を原文通りに写しておきました。 僕は4回演奏しなければなりませんでした。公爵と公爵夫人は、僕のテプリッツ滞在を延ばし、次の日も彼らと一緒に晩餐をするすよう頼まれました。レムビッキは、ここにもう2、3日留まるのなら、彼が一緒に僕をワルシャワまで送ってあげると言いました、でも僕は、仲間と引き離されるのを聞き入れる事ができなかったので、色々と感謝の言葉を述べて双方の申し出を辞退しました。 僕達は、昨日の朝5時に、馬車(2ターレル払いました)に乗って出発し、午後4時にドレスデンに到着して、レヴィンスキとラベッキに迎えられました。この旅行中の出来事は、僕にとって何もかもが非常に幸運でした。《ファウスト》の第一部が今日上演される事になっていて、さらにクレンゲルは、土曜日にはイタリア・オペラがあると話していました。 僕は昨夜この手紙を書き始め、今日書き終るつもりでだったのです。今から僕は、フォン・フリーゼン男爵とモルラッキを訪問するため正装しなければならないので、時間の余裕がありません。僕達は一週間以内にここを出発するつもりでいますが、ただし天候が許すなら、ザクセン・スイスへ行かない訳にはまいりません。ヴロツワフで2、3日ほど過ごして、そこから真っ直ぐ家へ帰るつもりです。親愛なる御両親様、僕はあなた方にお会いしたくてたまらず、いっその事ヴィエシロフスキのお宅へは伺いたくないくらいなのです。 おお、説明しなければならない物語や冒険がいかにたくさんある事か、そしてそのそれぞれがどんどん面白くなって行くのです。 追伸 式部官フォン・フリーゼン男爵はたいへん親切にもてなしてくれました。彼は、僕がどこに滞在しているかと尋ね、宮廷バンドのディレクターをしている侍従がちょうどドレスデンにいないのを残念がっていました。でも代りの者を見つけて、短い滞在中に出来るだけ見る価値のあるものを見せてくれるそうです。それに対して、僕の方でもたくさんのお辞儀と感謝の意を述べました。残りの話は、僕がヴロツワフから出す次の手紙でお話します[*私はヴロツワフから送った手紙を一通も見出さなかった。おそらくショパンは、口頭で述べるために帰路を急いだのであろう。]。僕は、前にも訪れた事のある、世界に名高い美術館、物産陳列所、公園にも行きました。今から劇場へ行こうと思っています。僕が1日に期待するにはでこれで十分でしょう! 第二の追伸 今は夜です。僕は《ファウスト》[*ゲーテの《ファウスト》の第一部は、ドレスデンではその夜初めて上演された。ルートヴィッヒ・ティークが必要な短縮を行った。]を見た劇場から帰って来たばかりです。入場券を買うのに、5時前から事務所の外に行列しなければならなかったくらい大入りでした。演技は6時に始まり、11時まで続きました。ペルリンで見たドゥブリアン[*カール・ドゥブリアンは、偉大なるルイス・ドゥブリアンの甥に当る三人兄弟の長兄]がファウストに扮していました。恐ろしくもあり、しかし素晴らしいファンタジーです! 幕間にシュポールの歌劇《ファウスト》の1部分が演奏されました。今日はゲーテの生誕80年祭が行われました。 これで寝床ヘ入ります。明日の朝、僕はモルラッキ(※フランチェスコ・モルラッキ、1784−1841。ウェーバーの死後、ドレスデンの歌劇場の後任指揮者となった。イタリア生れの音楽家で、オペラ、宗教著楽等の作品が多く、当時の名声は高かった)を待ち受け、僕と彼とで一緒にペヒヴェル嬢のところへ行くのです。すなわち;僕が出掛けて行くのではなく、彼が僕のところへやって来るのですよ。 ハッ、ハッ、ハッ! おやすみなさい。 あなた方の フレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
ここまでのウィーン紀行7通と、ショパンのスケジュールは以下の通りである。
1829年8月(ここまでのウィーン紀行) |
||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
|
|
|
|
7/31 到着 |
8/1 第1便 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 第2便 |
9 |
10 |
11 演奏会 1回目 |
12 第3便 |
13 第4便 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 演奏会 2回目 |
19 第5便 (出発) |
20 |
21 |
22 第6便 プラハ |
23 |
24 |
25 |
26 第7便 ドレス |
27 |
28 |
29 |
30 |
31 |
|
|
|
|
|
今回の「第7便」にも、カラソフスキーのドイツ語版の他に、宛先が「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているポーランド語版があり、それは「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されている。
この手紙は2日に渡って執筆されているため、けっこう長い。
長いにも関わらず、意外な事に、カラソフスキー版とヴォジンスキ版とを比較すると、今回もやはりさほどの違いは見られず、明らかに違う箇所は以下の箇所くらいである。
第1回ウィーン紀行・第7便#1. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕らはそれぞれ、彼への詩や散文など、心に浮かんだものを何でも書く事にしました。僕のような音楽家に、何か読むに値するものが書けるでしょうか? 幸い、マチェヨフスキが四行詩のマズルカを書く事を思い付いたので、僕がそれに曲を付け、こうして僕達は、最も独創的なやり方で僕達自身を不朽のものにしたのです。」 |
「僕らはそれぞれ考え始めました;一人は詩を、もう一人は散文。スジェコフスキは大袈裟なスピーチを書きました。音楽家はこんな時何ができるでしょうか? 幸い、マチェヨフスキが四行詩のマズルカを書く事を思い付きました;僕がそれに曲を付け、僕は詩人と共に、できるだけ独創的な筆致で書いたのです。」 |
カラソフスキー版には、ヴォジンスキ版にある「スジェコフスキ」の名前がない。
この人物の名はここにしか出て来ないので、これが何者なのかは現在全く不明であるが、しかしこれだけで家族にはしっかりと意味が通じていると言う事は、当事者達の間では、最初からプラハにいる事が分かっていた知人である事は間違いないだろう。
※ ちなみに、ここで言及されている「四行詩のマズルカ」については、私のBGM付き作品解説ブログ「ショパン:歌曲『マズル・どんな花』(遺作)」▼にて歌詞やメロディなども紹介させていただいておりますので、宜しかったらご覧下さい。
第1回ウィーン紀行・第7便#2. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「クレンゲルの演奏は僕を喜ばせましたが、しかし率直に言いますと、僕はもっと良い何かを期待していたのです(この事は誰にも話さないようお願いします)。」 |
「彼は上手に弾きましたが、しかし僕は、彼がもっと(静かに)弾いたら好きになっていたでしょう。」 |
言いたい事は結局同じだが、ずいぶんとニュアンスが違っていて、カラソフスキーの方には明らかに余計な一言が追加されている。
第1回ウィーン紀行・第7便#3. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「彼(※クレンゲル)は僕に対してとても愛想よくしてくれました。彼は出発前に――彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりです――僕は2時間ほど一緒にいましたが、僕達の会話は決して途切れる事はありませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、僕はチェルニーとのそれよりも更に高く評価しています;でも親愛なる皆さん、この事も話さないで下さい。」 |
「彼(※クレンゲル)はとても愛想よくしてくれました;彼は出発前に2時間ほど僕と一緒にいました。彼はウィーンおよびイタリアヘ行くつもりで、僕達はその事について色々と話さねばなりませんでした。これは非常に気持ちのよい交際で、貧弱なチェルニーとのそれよりも感謝しています(しっ!)」 |
カラソフスキーは、ショパンが「チェルニー」を評して「貧弱」と書いたのを削除している。
ショパンは「第5便」の時も、「チェルニーは、あの方のどの作品よりも暖かな人でした」と書いていた。しかしこのような書かれ方は、芸術家としてはむしろ屈辱的で、逆にこれがベートーヴェンであれば、「あの方の作品は素晴らしいけど、決して人格者ではない」とか言われたりして、しかし芸術家としてはその方がよっぽどいいだろう。
チェルニーと言えば、そのベートーヴェンの弟子にしてリストの師匠であり、肩書きだけ見ればかなりのものなのだが、一方彼の作品はと言えば、現在ではピアノの教則本ぐらいでしかその名は知られていない。
おそらく当時のショパンは、そんなチェルニーに対してかなり過度な期待を抱いていたのではないだろうか? それで実際に会って直接その作品に触れてみて、相当な肩透かしを食らった思いがしていたのではないかと想像される。要するに、芸術家としてのチェルニーからは、何も得るものがなかったと言う事なのであるが、カラソフスキー版ではそのニュアンスがやや柔らかくされている。
第1回ウィーン紀行・第7便#4. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「プラハでの楽しい3日間は、気付かぬうちに終わってしまいました。あなた方もご存じのように、僕はひどくぼんやりしています、それで僕達が出発する日に、突然何の気なしに他人の部屋に飛び込んでしまったのです。“おはよう”と元気に声をかけられてしまいました。場臆は、“失礼、部屋の番号を間違えました。”と言って、大急ぎで逃げ出しました。」 |
「プラハにはたった3日しか滞在しませんでした。捉えどころがないほど、時間が早く過ぎて、僕は終始忙しく、そのおかげで出発の前日に半分身仕度をしただけで、間違って他人の寝室に飛び込んでしまったのです。その部屋の陽気な旅行者が驚いて“おはよう!” (※ドイツ語)と言った時には、もうその部屋の中にいたのでした。“失礼!” (※ドイツ語)と言って僕は逃げ出しました。部屋がまるでそっくりなのです。」 |
ここも何だがちょっとニュアンスが違う。
内容自体はさほど問題ないのだが、多少問題なのは、会話文のセリフの部分と説明の部分とが入れ替えられている点だ。
ポーランド語版ではセリフ部分が全てドイツ語になっているので、おそらくカラソフスキーは、ショパンがドイツ語に堪能である事をほのめかしたかったのかもしれない。
第1回ウィーン紀行・第7便#5. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕達はここで見る価値のあるものはすっかり見物しました。それからワルトシュタイン伯爵の邸宅があるデュックスヘも行きました。僕達はアルブレヒト・ワルトシュタイン(またはワレンシュタイン)が突き殺された鉾槍と、頭蓋骨の一片、その他の記念品を見ました。」 |
「僕達はあっちこっち歩いて、ワルトシュタイン伯爵の邸宅があるデュックスヘも行きました。僕達は、偉大な指導者が突き殺された鉾槍と、頭蓋骨の一片、その他の記念品を見ました。」 |
ここも少し違う。
第1回ウィーン紀行・第7便#6. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「お茶の後で、公爵夫人の母君であるショテック伯爵夫人が、僕に演奏してくれと言いました。楽器はグラーフ製の立派なものでした。僕はピアノの前のイスに坐り、即興演奏のテーマを与えて下さるよう一同にお願いしました。テーブルを囲んでいるご婦人方は、すぐに囁き合いました;“テーマ、テーマ”(※フランス語)と。」 |
「お茶の後で、彼女(※公爵夫人)の母君が僕に、“お気が向きましたら”ピアノの前にお座り下さいと言いました。グラーフ製の良いピアノでした。僕は“気が向いて”おりましたので、彼らに“お気が向きましたら”即興演奏の主題を賜りたいと言いました。テーブルを囲んでいるご婦人方は編み物をしながら、すぐに囁き合いました;“テーマ”(※フランス語)と。」 |
ヴォジンスキ版では、この会合に参加しているご婦人方は「編み物」をしながら優雅にその場を楽しんでいる様子が分るが、カラソフスキーは、それではショパンの演奏を聴く態度として失礼と感じたのか、それを削除している。
第1回ウィーン紀行・第7便#7. |
|
カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「あなた方の フレデリックより」 |
「あなた方の フレデリックより」 |
今回に限っては、ヴォジンスキは手紙の写しを取る際に、このショパンの署名部分を省略していない。
[2011年8月16日初稿 トモロー]
【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証8-6:第6便/プラハより▲】 【筆者紹介へ▼】
Copyright © Tomoro.
All Rights Reserved. |