6.第6便/プラハより――
6. The journals of the first Viena's travel No.6-
今回紹介するショパンの手紙は、「ウィーン紀行・第6便」で、ウィーンからワルシャワヘ帰る途中で立ち寄ったプラハから家族に宛てた手紙である。これは、カラソフスキーのドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表されたもので、文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによる。
■プラハのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第6便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語) |
「1829年8月22日、土曜日、プラハにて 感動的なお別れをしてから――実際それは感動的で、と言うのも、ブラヘトカ嬢[*レオポルダ・ブラヘトカは、1822年11月15日ウィーンに生れた有名なピアノの名手で、チェルニーとモシュレスの弟子。幾回も演奏旅行をし、至る所で最高の称讃を得た。その愛らしさゆえ一般に人気があった。]が、お土産として署名付きの彼女の作曲の写しを僕に贈ったり、彼女の父が、僕の善良なるパパと親愛なるママへの最高に暖かい心遣いと、僕のような子供を持った事への祝辞とを申し上げて下さいと言われたり、若いシュタイン(※ピアノ製造者の息子)が泣いたり、シュパンツィッヒ、ギロウェッツら要するに芸術家達みんなが深く感動したりしたからなのです――こういった心優しいお別れを済ませてから、僕はすぐに帰って来るという約束をして、馬車に乗り込みました。ニデツキと、その他にトリエストヘ出発する二人のポーランド人が、少しの間道連れになりました。そのうちの1人のニーゴレフスキという人は、偉大なるポーランドから来ていて、家庭教師というよりは友人に近い、ワルシャワ大学出の学生と一緒に旅行をしているのです。僕達はウィーンで会って、度々話をした事がありました。フッザルジェスカ伯爵夫人(夫人もご主人も立派な方です)は、僕がお別れに伺った時、ディナーまでいて欲しかったようでしたが、ハスリンガーの所へ行かなければならなかったので、そうする時間がありませんでした。ハスリンガーは、あわただしい中での面会に、色々と心からの希望を述べた後で、極めて厳かに、秋の演奏会に何か新しいものを提供するため、5週間以内に僕の変奏曲を出版すると約束しました。親愛なるお父さん、あなたにすれば会った事ない人ではありますが、くれぐれも宜しく伝えて欲しいとの事です。 僕達が馬車の中で席を確保していた時、若いドイツ人が1人乗り込んで来ました。なにしろ2夜と1日の間一緒に座っている事になるのですから、僕達は知人になりました。この人はダンツィッヒから来た商人で、ブルチァッカ、ワプレフのシェラコフスキ、ヤヴレック、エルネマン、グレッセルやその他の人達を知っていました。彼は2年前ワルシャワにいて、今回はちょうどパリから帰って来たところだったのです。名前はノルマンと言います。非常に気持のよい紳士で、旅には持って来いの道連れでした。僕達は彼と一緒に同じホテルに泊り、そしてプラハを見物したら、皆でテプリッツとドレスデンへ行こうと言う事に決まりました。こんな近くまで来ていながらドレスデンを見逃がしてしまうのは愚かな事でしょう。特に、僕達の財政状況がそれを許しますし、4人での旅行は管理も楽でお金も掛かりません。 馬車の中でかなり揺さぶられた後、昨日の正午にプラハに到着し、さっそく定食(※ホテルのゲストハウスで、一般客のために開放されたテーブルで特定の時間に出される食事)を食べに行きました。それからハンカ氏[*ヴァーツラフ・ハンカ。有名な言語学者で、スラブ語学者。チェコの国家主義復輿の発起人。1791年生れ、1861年にプラハで亡くなった。]を訪問しました――マチェヨフスキがこの人に宛てた紹介状を持っていたのです――僕は、この有名な学者宛の紹介状をスカルベクにお願いしなかった事を後悔しました。僕達は、しばらく大寺院や王城を見物していたものですから、ハンカのお宅に伺った頃には、彼は留守でした。この市街は、王城の丘から見渡すと壮大で、古風ですが、概して立派に見えました。ここは、以前は重要な場所だったのです[*ハプスブルグ家のルードルフに征服され、三月の戦で死んだ最後のボヘミア王オットー大帝の時代においては特にそうだった。1790年から1848年まで、プラハ王立劇場はドイツにおける最も立派で有名なものの一つだった]。 僕は、ウィーンを去る前に手紙を6通預かって来ました。ヴェルフェルからのが5通、ブラヘトカからピクシス宛に、僕がここの音楽学校を参観できるよう依頼したのが1通でした。彼らは僕に、(※プラハでも)弾かせたがっていました;でも、僕はたったの3日間しか滞在しませんし、それにウィーンで得た名声を失いたくありません。なにしろパガニーニでさえ批評を受ける所なんですから、僕はここでは演奏しないように注意しています。ヴェルフェルからの5通は、劇場のディレクター、バンドマスター、それからその他の高名な音楽関係者達に宛てたものです。彼が非常に熱心に頼んでいたので、僕はその手紙を届けに行きます;でも演奏はしないつもりです。素晴らしきヴェルフェルは、他に、ドレスデンのクレンゲル氏に宛てた手紙も1通託しました。 ハンカ氏のお宅へ伺う時間ですから、今はこれで終わりにしなければなりません。僕は、スカルベク伯爵の名付け子として自分を紹介しようと思っていますが、それで、それ以上の紹介状が必要とならない事を願っています。 あなた方の フレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
ここまでのウィーン紀行6通と、ショパンのスケジュールは以下の通りである。
1829年8月(ここまでのウィーン紀行) |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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7/31 到着 |
8/1 第1便 |
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3 |
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6 |
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8 第2便 |
9 |
10 |
11 演奏会 1回目 |
12 第3便 |
13 第4便 |
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17 |
18 演奏会 2回目 |
19 第5便 (出発) |
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22 第6便 プラハ |
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今回の「第6便」にも、カラソフスキーのドイツ語版の他に、宛先が「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているポーランド語版があり、それは「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されている。
両者を比較すると、明らかに違う箇所は以下の2つだけである。
第1回ウィーン紀行・第6便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「それからハンカ氏を訪問しました――マチェヨフスキがこの人に宛てた紹介状を持っていたのです――」 |
「それからハンカ氏を訪問しました――マチェヨフスキがこの人に宛てたフーベからの紹介状を持っていたのです――」 |
ハンカの家を訪問するための「紹介状」が、「ヴォジンスキ版」では実は「フーベからの」ものだった事になっている。
ショパンがウィーンに向けてワルシャワを発った時、同行した友人は、フーベ、マチェヨフスキ、ツェリンスキ、ブラントの4人で、ショパンを入れて全部で5人というメンバーだった。
フーベはワルシャワ大学の若手法学講師で、ハンカとはすでに面識があった。しかしながら、フーベはウィーンから直接イタリアへ行く事になっていたので、みんなと一緒にプラハへは行かなかった。その代わりに、西洋古典語の学生であるマチェヨフスキが、有名な言語学者であるハンカと面会できるように「紹介状」を渡してあったのである。
なので、ショパン一行は、最初5人だったのが、ウィーンからプラハへ向かう道中ではメンバーが1人少なくなっており、だからこの手紙では「4人での旅行」と書かれているのでだ。
ところが、実はカラソフスキーの著書では、ショパンと一緒にワルシャワを発った友人が、フーベ、マチェヨフスキ、ツェリンスキの3人しか書かれていない。この3人の名前はいずれも手紙の中に出てきているが、唯一アルフォンス・ブラントと言う青年の名前だけは出て来ていないからである。
つまり、カラソフスキーの認識では、この旅行のメンバーは最初から全部で4人だった事になっており、そうすると、カラソフスキーにしてみれば、ショパンがこの手紙の中で「4人での旅行」と書いているのに、なぜかそこにフーベがいないらしい事の説明が付けられない事になってしまう。だから彼は、この「第6便」をドイツ語に翻訳する際、「フーベからの」と言う部分を「矛盾した記述」と見なして削除してしまったのである。
こういった問題も、カラソフスキーがきちんとイザベラに取材して事実確認をしていれば、決して起こらないはずの事なのである。
第1回ウィーン紀行・第6便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「あなた方の フレデリックより」 |
※ こちらにはこの署名がない。 |
やはりここでも、ヴォジンスキは手紙の写しを取る際にショパンの署名部分を省略している。
さて、この手紙には、ショパンが「ウィーンを去る前に」ヴェルフェルから渡されていた「5通」の手紙について書かれている。
そのうちの1通は「劇場のディレクター」宛とあるが、実はその手紙だけは現物が確認されており、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトにその全文が掲載されている。
※
ちなみに、その手紙はシドウ編纂の仏語訳版の書簡集でも紹介されているが、そちらではショパンと直接関係のない部分が省かれている。
それをここで紹介しよう。
■ウィーンのヴィルヘルム・ヴェルフェルから、 プラハのスティエパネック・ダィレクターへ■ (※原文はドイツ語) |
「深く尊敬するダィレクター殿。 この手紙で紹介させて頂きたい人物は、才能豊かな若者で、小生がワルシャワにおりました時より彼には大いに関心を持っておりました。小生の助言を受け入れて、最近では2度に渡り、ケルントナー門近くの劇場でピアニストとして出演し、成功を収めております。彼がプラハの公衆の前で出演できるように、敬愛する貴殿のご援助を仰ぎたくお願い申し上げます。彼は報酬を得ること以上に、広く認められることを願っております。それは、プラハ、ウィーン、それ以外の土地であっても、何処でも認められたと、自分の故郷に伝えたいためだからです。もしも彼がそれだけの価値Iなき者であるなら、彼を推薦することは致しません。 小生自身に関しましては、かなり大きなオペラの製作に取り組んでおります。これはケルントナー門近くの劇場で公開できるかも知れません。ただし、数人の初心者を別にして、今回の出演者としての歌い手があまり良くないために、どうすべきかと迷っておるのが真実です。つきましては、現在プラハで活躍する優秀なソプラノ歌手、バリトン歌手、そしてテノール歌手を見つけ出し、彼らを貴殿がご推薦頂けるなら幸いとするところであります。. このオペラは、そのように立派な歌手たちに出演してもらわねばならないものです。リブレットを書いたのは有名な詩人で、それは間違いなく観衆に受け入れられるであろうロマンチックなものであるとともに、喜劇的なものでもあります。このオペラの構成につきましては、小生の前の作品《リューベツァール》よりも優れたものになるであろうと期待しております。いずれにしましても、これに関しては直接に貴殿に詳しい情報をお伝えする所存でおります。 例の若者は、フリードリッヒ・フォン・ショパン(※Friedrich von Chopinドイツ語名で表記されている)と申し、ワルシャワの貴族社会や一般聴衆の人気者であります。 ここでは不必要に貴殿の大切なお時間を取る積りはありません。小生の取りとめもない雑言をお読みいただくいよりも、他に重要なことをお持ちであろうと思われますので。 敬愛する貴殿に敬意を変わらずに払い続けるコンサート・マスター、ヴェルフェルより。 ウィーン、1829年8月19日」 |
この手紙は、前回の「第5便」と同じ日に書かれている。
ヴェルフェルはジヴニーと同じく、元々チェコ人だったのである。なので、チェコの劇場のディレクターとも知り合いだった。だから彼は、ウィーンでそうしたのと同じように、プラハでもショパンに演奏会をやらせてあげようとしていたのだ。
しかしながら、ショパンも手紙で書いていた通り、結局プラハでは演奏会は行われなかった。
[2011年8月11日初稿 トモロー]
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