5.第5便/物事がクレッシェンドに進んで行く――
5. The journals of the first Viena's travel No.5-
今回紹介するショパンの手紙は、「ウィーン紀行・第5便」で、これは、カラソフスキーのドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表されたもので、文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるものである。
■ウィーンのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第5便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語) |
「1829年8月19日、ウィーンにて 1回目が僕に好意的だったとしたら、昨日のはそれ以上でした。僕が舞台に現れると、3回もの長い唱采で迎えられました。聴衆の数は最初の演奏会よりも遙かに多かったです。会計主任.....――誰だったか名前は思い出せません――は、収入が多かったので僕に礼を言い、“観客が多かったのは、バレエのお陰ではない事は確かで、我々はその事をよく分かっています”と言いました。 同業者達(※演奏会に関わった音楽関係者達)は誰もがみんな、バンドマスターのラハナー氏からピアノの調律師に至るまで僕のロンドを称讃しました。僕は、ご婦人方や音楽家達を喜ばせたのを知っています。ツェリンスキ(※マルツェリ・ツェリンスキという青年。同行した4人の友人の1人)の横にいたギロウェッツが大声で“ブラヴォー”と言ったので、大騒ぎになりました。満足しなかった人達は、頭の固いドイツ人だけでした。昨日、僕が食事をしていると、そのうちの1人がちょうど劇場から出て来て、僕が座っているテーブルに座りました。その人の知人達が彼に、演奏はどうだったかと尋ねました。その人は“バレエは綺麗だったよ”と答えました。彼の知人達が“それ以外の演奏会はどうだった?”と聞くと、その人は返事をする代りに他の事を話し始めたのです。それで僕は、僕が彼に背を向けていたにも関わらず、彼は僕がここにいる事に気付いているのだなと察しました。僕がいるためにその人が遠慮しているのなら、その事から彼を開放してやらねばならないように感じて、次のように自分に言い聞かせながら寝に帰りました;“いまだ生まれざる者あり、それは万人を満足させる者なり”[*ポーランドの古い諺](※全ての人を満足させられる人間などいない、あるいは、すべてがうまくゆく人間などいないと言うような意味) 僕の人気がクレッシェンド(crescendo)(※音楽用語として使われるイタリア語で「徐々に強く」)になっていて、僕はその事に満足しています。 今夜9時に出発するので、午前中をお別れの訪問に費さなければなりません。シュパンツィッヒは、昨日、僕がこんなに短い間しか滞在しなかったので、またすぐに来なければいけないと言うのです。僕は、もっと上達するために喜んでウィーンに戻って来るつもりですと答えました。すると男爵は、“そうした理由でだったら、来るにはおよびません、もうこれ以上学ぶ事など何もないのですから”と言い返してきました。この意見は、他の人達からも認められました。このような言葉は本当にお世辞に過ぎないのですが、でも誰だって聞いていて悪い気はしないものです。ここでは誰も、僕を弟子にしたいと言う人はいません。 ブラヘトカ(※ジャーナリスト)は、彼が最も驚いた事は、僕がそれを全てワルシャワで学び得た事だと話しました。僕はこう答えておきましたよ、ジヴニー、エルスネルの両氏と一緒なら、どんな間抜けでも学べますよ!と。 僕があなた方にお話ししている事が(※事実であると)裏付けるのに、新聞の評論を(※すぐに)送れないのは僕にとって非常に残念です。その評論(※の原稿)は、僕が申し込んでおいた新聞の編集者の手に既にあるのは分かっているのです。ボイエルレ氏[*1828年から1848年まで、アドルフ・ポイエルレが発行した“ウィーン劇場新聞”は、あらゆる芸術家にとって重要で、また恐ろしい出版物であった。当時は、芸術上の事柄を専門に扱った新聞はあまり無かった。この新聞は、ドイツのあらゆる都市の倶楽部やカフェに置かれていた。この“ウィーン劇場新聞”で称讃された者は皆、間違いなく出世する人だった。ボイエルレはまた、《シュタヴェル、シュタヴェルの結婚日》、《ゴルマンダの女皇アリーネ――名地裁の他の四半球におけるウィーン》、および《贋のカタリーニ》等の作曲家で、これらの作品の一部は幾度となく上演された。]は、この新聞をワルシャワヘ送ってくれる事になっています。それらは、僕の2回目の演奏会の批評を待っているのでしょう。この新聞は週に2回、火曜日と土曜日に発行されるのです;なのでもしかすると、僕が(※帰って直接)お話しするよりも先に、僕についての好意的な記事や、あるいはそれとは反対の記事を読む事になるかも知れません。学術的な(※意見を言う)人々、情緒的な(※意見を言う)人々、僕はどちら(※の意見)も得ました。それについてお話ししたい事が沢山あるのです。 僕はもっと違う事を書きたいのですが、昨日の事で頭が一杯で、全く考えをまとめる事ができません。僕の資金繰りについては今のところ順調です。僕はちょうど今、シュパンツィッヒとチェルニーにお別れの訪問を済ませて来たところです。チェルニーは、あの方のどの作品よりも暖かな人でした。 荷造りが出来ましたので、、もう一度ハスリンガーのところへ行き、それから劇場の向かい側にあるカフェヘ行きます。そこでギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、ザイフリートその他の諸氏と会う事になっているのです。2日と1晩経てばプラハに着きます。乗合郵便馬車は9時に出発です。こうした愉快な仲間と一緒なのですから、さぞかし気持のよい旅になる事でしょう。 あなた方の フレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
ここまでのウィーン紀行5通と、ショパンのスケジュールは以下の通りである。
1829年8月(ここまでのウィーン紀行) |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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7/31 到着 |
8/1 第1便 |
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8 第2便 |
9 |
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11 演奏会 1回目 |
12 第3便 |
13 第4便 |
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18 演奏会 2回目 |
19 第5便 (出発) |
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22 新聞 |
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※
2回目の公演が昨日18日(火曜日)だったので、その記事が“ウィーン劇場新聞” に載るのは3日後の22日(土曜日)になる。ショパンは今日19日(水曜日)にウィーンを発つのだから、当然この手紙と一緒には送れない。なので「非常に残念」と書いているのである。
今回の「第5便」にも、カラソフスキーのドイツ語版の他に、宛先が「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているポーランド語版があり、それは「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されている。
両者を比較すると、明らかに違う箇所は2つだけである。
第1回ウィーン紀行・第5便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕の人気がクレッシェンド(※「徐々に強く」)になっていて、僕はその事に満足しています。」 |
「僕は演奏.会を2回やりましたが、2回目の方が好評でした。物事がクレッシェンド(※「徐々に強く」)進んでいて、僕はその事に満足しています。」 |
これは要約と言っても差し支えない程度のものである。
第1回ウィーン紀行・第5便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「あなた方の フレデリックより」 |
※ こちらにはこの署名がない。 |
やはりここでも、ヴォジンスキは手紙の写しを取る際にショパンの署名部分を省略している。
さて、今回の手紙も、内容的には読んでいただいた通りなので、この程度の事しか指摘する事がない。
実は、この手紙の内容が重要になるのは、ショパンがワルシャワに戻ってからすぐにヴォイチェホフスキ宛に書いた、「もう一つのウィーン紀行」との比較においてなのである。
[2011年8月9日初稿 トモロー]
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