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検証8:第1回ウィーン紀行――

Inspection VIII: The journals of the first Viena's travel -

 


3.3便/ウィーンの舞台に立つ―

  3. The journals of the first Viena's travel No.3-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 演奏会用大ロンド・クラコヴィアク(ピアノ独奏版)▼≫
 

今回紹介するショパンの手紙は、「ウィーン紀行・第3便」で、これは、カラソフスキーのドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表されたもので、文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるものである。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第3便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語)

1829812日、水曜日、ウィーンにて

僕の愛する皆様、この前の手紙で、僕の意向はお分かりいただけている事でしょう。昨日(火曜日)の夜7時に、帝室歌劇場にて、初めてウィーンの公衆の前に立ちました!

ここで開かれる夜の演奏会は音楽アカデミーと呼ばれています。僕が無報酬で演奏するものですから、ガレンベルク伯爵が僕の出演の準備を急がせたのです。

プログラムは次の通りです。

べートーヴェンによる序曲(※「プロメテウス」の序曲)

僕の変奏曲(※《「お手をどうぞ」による変奏曲 変ロ長調 作品2

ヴェルタイム嬢による歌*シャルロッテ・ウェルタイム(18211840)は当時の最も有名な歌手で、ドレスデン王立劇揚の貴重な一員であった。完成された音楽家で、ピアノを非常に巧みに弾いた]

僕のクラコヴィアク(※《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14

最後にバレエ

リハーサルでオーケストラの伴奏が不出来だったため、僕はロンドを《フリー・ファンタジア》(※即興演奏)に代えなければなりませんでした。僕は、舞台に上がるや否や“ブラボー”の歓声に迎えられました。そして、各変奏が終わる毎に聴衆が盛んに歓迎の言葉を上げるので、オーケストラの全奏(トゥッティ)が聴き取れないほどでした。僕は、感謝のお辞儀をするために2回も進み出なければならず、それくらい誠意ある歓迎を受けたのです。

僕自身としては、《フリー・ファンタジア》ではまったく満足できなかったと白状しなければなりません。でも公衆は喜んでいたに違いありません、なぜなら、僕は拍手で圧倒されてしまいましたから。その理由の一つは、ドイツ人は自由な即興演奏を評価する術を知っているからでしょう。このたびの事では、ヴェルフェルに二重の恩恵を蒙っています。あの人の後押しと励ましがなかったら、こんな思い切った仕事の計画など決して実行できず、立派に成功させる事もできなかったからです。僕が経験した事と、それに対して抱いた印象は、今書く事ができるよりも、口伝えでの方がもっと良くお話する事ができるでしょう。僕は聴衆からシーと野次られる事はありませんでしたから、僕のアーティスティックな評判に関しては心配しないで下さい!

新聞記者たちの受けも非常に良好でした;彼らの中には、僕の欠点をあげつらう者もいるだろうと覚悟はしています。僕の作曲は、ガレンベルク伯爵の全面的な承認を得ました。舞台監督のデマール氏は、非常に親切で愉快な方です。僕が舞台に立つ前に、彼は僕を励ますために最善を尽くしてくれました。それで僕は、大した心配もなく、ピアノに向かう事ができたのです。

友人達は、批評家を観察したり、公衆の様々な意見を聴くために劇場の八方に散らばりました。ツェリンスキ(※マルツェリ・ツェリンスキと言う名の青年で、旅行に同行した4人の友人の1人)は、好ましくない評判は一つも聞かなかったそうです。フーベ(※ロムアルト・フーベ。同じく、こちらはワルシャワ大学の若手法学講師)は、あるご婦人からの最もシヴィアな批判をレポートしてくれまして、“かわいそうに、あの若者は風采が上がらないねぇ”との事です。もしもこれが僕の受けるべき唯一の非難なら、僕は不満を申しません。友人達は、称讃以外には何も聞かなかったと証言していますし、彼らのうちの一人も、聴衆が自発的に喝采するまでは拍手をしたりブラボーと叫んだりしなかったと言っています。僕のロンドをたいそう気に入っていた舞台監督は、演奏会の後で僕のところへ来て、握手をしながら大いにお世辞を言っていました。

僕は、歌劇《白衣の貴婦人》から取った主題による即興演奏を弾きました。そしてポーランドの主題には《シュミール》*マズルカのリズムの歌曲で、ポーランド人は結婚式場において、花嫁の姉妹が厳かに彼女の頭に帽子を被らせる瞬間に唄う]を選びました。この種の国民的メロディーを知らない公衆は、電気をかけられたようにびっくりして見えました。平土間にいた友人達は、人々は座席で規則的にダンスを始めたと言っています。

ヴェルトハイム氏は、昨日妻君を連れてカールスバートから到着したばかりですが、すぐに劇場へ来てくれました。氏には、僕がどうしてここで演奏するようになったのか想像出来ませんでした。氏はたった今まで僕の良好な成功を祝うために、ここに来ていました。カールスバートではフンメルに会ったそうで、彼は親切にも僕を覚えてくれていたそうです。ヴェルトハイムはフンメルに手紙を出して、僕の演奏の事を知らせるそうです。

ハスリンガーは、僕の作品を印刷するとの事です。演奏会のプログラムは保存しておきました。ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、およびザイフリートと親しく知り合いになれたのは、僕にとって最も興味ある事です;マイセダーとは、かなり長話をしました。僕はここの公衆に対して、あまりにもソフトに、いや、むしろあまりにもデリケートに弾いたというのがまず一致した意見です。それは、ここの人達が、彼らにとってのピアノの名手達の太鼓叩きのような演奏に慣れているからです。新聞も同じ事を言いはしまいかと気遣われます。なにしろその編集者の一人の娘(※マリー・L・ブラヘトカ)が恐ろしく叩くように弾くんですから。でも決して気にしないで下さい、仮にそうなったとしても、僕は乱暴すぎると言われるよりはむしろ優しすぎると言われた方がずっとましですからね。

昨日、皇帝に最も近い高貴な身分のディートリヒシュタイン公爵が舞台へ上って来て、フランス語で僕と長話をし、僕を賞讃してもっとウィーンに滞在するようにリクエストされました。

オーケストラは、僕の楽譜の書き方が悪いと言ってけなし、少しも僕に好意的ではなかったのですが、それも即興演奏を弾くまででした;その時から、彼らは公衆と一緒になって心から喝采し、僕に対して敬意を示しました。他のアーティスト(※共演者)達がどう思っているかについては、僕にはまだ分りません;でも、僕に反対したところでどうなると言うのですか? あの人達は、僕が金銭上の利益のために演奏するんじゃない事を分っていますからね。

そんな訳で、僕の最初の公演は、予期せぬ事とは言え、成功のうちに終わりました。フーべの考えでは、普通のやり方で前もって計画通りにやっていたのでは何事も成功せず、多少なりともチャンスに頼らなくてはならないのだと。だから僕は、この幸運に身を委ね、演奏会を開くよう説得されてそれを受け入れたのです。もしも新聞が僕を手ひどく酷評して、もう二度と世間に顔出しできなくなったら、僕は家屋塗装業者(ハウスペインター)にでもなろうと決心していました;あれは、他の何と比べても簡単そうですから、とにかく僕は、まだアーティストでいなければならないのです!

こうした事全てについて、エルスネルさんが何と言うか聞きたいです。たぶん僕が演奏する事には全く賛成しないでしょう。でも僕は、逃れようがなかったほど、あらゆる方面から攻め立てられたのです。それに僕は、僕の演奏が失敗だったようには思えないのです。

ニデツキ*トマシュ・ニデツキはワルソウ高等学校の優等生の一人。1822年に教育を完戌するため、公共の費用でウィーンに送られた。彼はレオボルト・シュテッター劇場の吹奏楽々長になった。1841年からワルソウのグランド劇場の吹奏楽々長になって、1851年に亡くなった]は、昨日は僕に対して特に好意的でした;オーケストラ・パートを綿密に調べて訂正し、僕が受けた鳴采を心から喜んでくれました。僕はグラーフのピアノで弾きました。僕は、少なくとも4つばかり歳を取り、それ以上の経験をしたように思います。

皆さんは、この前の僕の手紙が奇妙な封緘(※ふうかん、シール)で封じてあったので、本当に驚かれたに違いありません*その封緘はウェイターが持っていたもので、“マデイラ”という文字が載っていた]僕はぼんやりしていて、手に当った最初の、また最善のものを使ったのです。アデュー!(※フランス語で“さよなら!”

あなた方の優しい愛情に富める

フレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

 

この手紙は、前回の「ウィーン紀行・第2便」から4日後に書かれている。

前回の「第2便」と同様、この手紙にも、カラソフスキーのドイツ語版の他に、宛先が「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているポーランド語版があり、それは「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されている。

前回の「第2便」では、カラソフスキーが「次の手紙を、省略なしに転載して置く」と前置きしていた通り、「ヴォジンスキ版」との比較において、手紙には省略や改ざんの痕跡は見られなかった。

今回の「第3便」は、カラソフスキーの著書では「第2便」の直後に続けて掲載されている。しかし「第2便」での“前置き”はこの手紙にまでは適用されていないようで、したがって今回の手紙には“説明なしの省略”が見られる。

しかしながら、それらはいずれも、手紙の内容を簡略化したり、意味を分りやすく要約したりしているものが多い。

たとえばこんな感じである。

       ヴォジンスキ版の引用については、ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC))と、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料とを照らし合わせながらその再現に努めた 

       カラソフスキー版との違いを分かりやすくするために、意味の同じ箇所はなるべく同じ言い回しに整え、その必要性を感じない限りは、敢えて表現上の細かいニュアンスにこだわるのは控えた。これも「ヴォイチェホフスキ書簡」同様ショパン直筆の資料ではないため、真偽の基準をどこに置くべきか判断がつきかねるからである。

 

 

1回ウィーン紀行・第3便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「僕が無報酬で演奏するものですから、ガレンベルク伯爵が僕の出演の準備を急がせたのです。

プログラムは次の通りです。

べートーヴェンによる序曲

僕の変奏曲

ヴェルタイム嬢による歌

僕のクラコヴィアク

最後にバレエ

「僕が無報酬で演奏するものですから、ガレンベルク伯爵が僕の出演の準備を急がせ、プログラムは次の通りになりました。

べートーヴェンによる序曲

僕の変奏曲

ヴェルタイム嬢による歌

僕のロンド

それから再び歌、それから短いバレエでその夜は終わりました。

       ちなみにオピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』では、この「僕のロンド」《マズルカ風ロンド ヘ長調 作品5とであると註釈されているが、それは誤りである。手紙の文面からも明らかなように、この「ロンド」はオーケストラを伴うものであるから、それに該当する作品は《演奏会用大ロンド「クラコヴィアク」 ヘ長調 作品14以外にない。だからカラソフスキーは、雑多な説明を避けるために敢えて「僕のクラコヴィアク」としたのだろう。 

 

 

次のような妙な違いも見られる。

 

1回ウィーン紀行・第3便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「このたびの事では、ヴェルフェルに二重の恩恵を蒙っています。あの人の後押しと励ましがなかったら、こんな思い切った仕事の計画など決して実行できず、立派に成功させる事もできなかったからです。僕が経験した事と、それに対して抱いた印象は、今書く事ができるよりも、口伝えでの方がもっと良くお話する事ができるでしょう。僕は聴衆からシーと野次られる事はありませんでしたから、僕のアーティスティックな評判に関しては心配しないで下さい。

…(中略)…

ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、およびザイフリートと親しく知り合いになれたのは、僕にとって最も興味ある事です;マイセダーとは、かなり長話をしました。」

「この企画は、土曜日に提案されたばかりなのに、ヴェルフェルがそれを火曜日に実行できるようにしてくれたのです;僕は彼に大きな借りができました。

いきさつは次の通りで、土曜日に、ギロウェッツ、ラハナー、クロイツェル、およびザイフリートと会いました;マイセダーとは、かなり長話をしました。僕が劇場の前に立っていると、ガレンベルグ伯爵がやって来て、火曜日に弾く事を提案し、僕はそれに同意し、僕は聴衆からシーと野次られる事もありませんでした! 家に帰ったら、今書く事ができるよりも、口伝えでの方がもっと良くお話する事ができるでしょう;でも、僕と僕の評判に関しては心配しないで下さい。」

       以下、シドウの仏訳版の註釈による。

1.       「ギロウェッツ」「アダルベルト・ギロウェッツ(Adalbert Gyrowetz 17631850)は、オペラ、交響曲やピアノのための作品の作曲家で、ウィーンの宮廷オーケストラの指揮者。」

2.       「ラハナー」「フランソワ・ラハナー(François Lachner 18031870)は、作曲家兼指揮者で、シューベルトの友人。」

3.       「クロイツェル」「コンラディン・クロイツェル(クロイツァー)(Conradin Kreutzer 17801849)は、オペラ、合唱等の作曲家で、ベートーヴェンの友人。」

 

仮に「ヴォジンスキ版」がオリジナルだったと仮定した場合、カラソフスキーは、一度要約のために省略した「ギロウェッツ〜」の文章を、多少ニュアンスを変えて別の箇所に挿入し直している。

 

 

1回ウィーン紀行・第3便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「僕は、歌劇《白衣の貴婦人》から取った主題による即興演奏を弾きました。そしてポーランドの主題には《シュミール》を選びました。この種の国民的メロディーを知らない公衆は、電気をかけられたようにびっくりして見えました。」

「僕は、歌劇《白衣の貴婦人》から取った主題による即興演奏を弾きました。昨日のリハーサルで僕のロンドを気に入ってくれていた舞台監督が、協奏的作品(※「お手をどうぞ」による変奏曲)のあと、僕の手を強く握り締めながら、(※ドイツ語で)“そうです、ここは《ロンド》(※クラコヴィアク)を弾くはずだったところですよ”と言うのです。なので彼のリクエストに従って、僕は他にポーランドの主題を取る事にし、《シュミール》を選びましたところ、そのような歌を耳にした事のないここの人達は、電気をかけられたようにびっくりしていました。」

 

以前にも何度か書いたが、ポーランド語では「演奏会」も「協奏曲」もどちらも「Koncert」なので、それをどちらの意味に取るかは文脈で異なる。

ここの「ヴォジンスキ版」の文章は、どの邦訳著書でも、必ず「舞台監督が、演奏会のあとに…」と訳されている。だが、ショパンはこれからピアノ独奏で即興演奏をしようとしているところなのだから、これが「演奏会のあと」であるはずがない。それでは話の前後がつながらないだろう。したがってこれは、《ピアノとオーケストラのための「お手をどうぞ」による変奏曲》と言う「協奏的作品」を演奏し終わったあとの話、と言う事になるのである。

 

また、この手紙の「ヴォジンスキ・ポーランド語版」には、ドイツ語で書かれた部分が3ヶ所ばかり混在している。

1.       「音楽アカデミー(eine musikalische Akademie.)」

2.       “かわいそうに、あの若者は風采が上がらないねぇ”(„Schade um den Jungen, dass er so wenig Tourniire hat"

3.       “そうです、ここは《ロンド》を弾くはずだったところですよ”(„Ja, dass «Rondo» muss hier gespielt werden"

 

このうち、カラソフスキーは3番目を省いてしまったが、1番目と2番目は、一字一句がそのまま彼のドイツ語版の記述と一致している。

 

 

1回ウィーン紀行・第3便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「もしも新聞が僕を手ひどく酷評して、もう二度と世間に顔出しできなくなったら、僕は家屋塗装業者(ハウスペインター)にでもなろうと決心していました;あれは、他の何と比べても簡単そうですから、とにかく僕は、まだアーティストでいなければならないのです!

「もしも新聞が僕を手ひどく酷評して、もう二度と世間に顔出しできなくなったら、僕は家屋塗装業者(ハウスペインター)にでもなろうと決心していました;そしたら新聞紙にブラシをかけて塗りつぶすのなんか簡単で、そうすれば僕はアポロ(※芸術の神)の息子であり続けられますからね。

 

ここでの「ヴォジンスキ版」は、いかにもショパンらしいひねくれたジョークが書いてあるのだが、カラソフスキーは、それをいかにも陳腐な表現に変えてしまっている。

これを見ても、カラソフスキーに文才がない事がよく分かるだろう。

 

 

1回ウィーン紀行・第3便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「皆さんは、この前の僕の手紙が奇妙な封緘(※ふうかん、シール)で封じてあったので、本当に驚かれたに違いありません*その封緘はウェイターが持っていたもので、“マデイラ”という文字が載っていた]。僕はぼんやりしていて、手に当った最初の、また最善のものを使ったのです。」

「ああ! 皆さんは、この前の僕の手紙が“マデイラ”と言う封緘(※ふうかん、シール)で封じてあったので、本当に驚かれたに違いありません、僕はうっかりしていて、ウェイターが持っていたものを手に取って、急いで僕の手紙に貼り付けてしまったのです。」

 

これはどう言う事だろうか?

この“マデイラ(Madeira)”と言うのは、アフリカの北西部にあるポルトガル領の8つの島、マデイラ諸島産の白ワイン、または琥珀色のワインの事であるが、この“マデイラ”「封緘」の説明が、「ヴォジンスキ版」ではショパン自身によるものなのに、「カラソフスキー版」ではカラソフスキーによる註釈になっている。

もしも「ヴォジンスキ版」の方がオリジナルだとしたら、カラソフスキーはわざわざそれを知ったかぶりしている事になり、いかにもその「封緘」の現物を見ながら、それをショパンの遺族から聞いたかのように振舞っている事になる。

 

 

1回ウィーン紀行・第3便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

ヴォジンスキ・ポーランド語版

「アデュー!

あなた方の優しい愛情に富める

フレデリックより」

       こちらにはカラソフスキー版のような“別れの署名”がない。

 

 

前回の「第2便」でもそうだったが、ここでも、ヴォジンスキは手紙の写しを取る際にショパンの署名部分を省略している。

 

 

 

さて、今回の手紙も、内容的には読んでいただいた通りなので、この程度の事しか考察する事がない。

実は、この手紙の内容が重要になるのは、ショパンがワルシャワに戻ってからすぐにヴォイチェホフスキ宛に書いた、「もう一つのウィーン紀行」との比較においてなのである。

 

 [2011年7月31日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証8-4;第1回ウィーン紀行・第4便/追加公演決定の知らせ

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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