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証8:第1回ウィーン紀行――

Inspection VIII: The journals of the first Viena's travel -

 


1.1便/なぜ助成金の申請は却下されたのか?―

  1. The journals of the first Viena's travel No.1-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ポーランド民謡による大幻想曲(ピアノ独奏版)▼≫
 

ショパンは1829年にワルシャワ音楽院を卒業すると、その年の夏休みシーズンに、友人達と共に初めてウィーンへ旅行する事になる。

ただしこのウィーン旅行は、本来であれば「旅行」などと言う短期でお気楽なものではなくて、プロの音楽家として本格的に羽ばたくための長期の国外留学でなければならないはずだったものなのである。

しかし現実には、ショパン家の経済的事情がそれを許さなかった。

その事実を裏付ける公的資料がある。これは、スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』の中で初めて公表されたもので、以下がその文書とソウタンの解説である。

 

下記に、非常に興味深い公式な文通を紹介したい。これは、1829年にミコワイ・ショパンが宗教信仰・公衆啓蒙省提出した、国外に留学する彼の息子に対する援助金に関する申請書である。

 

「慈悲深き大臣閣下殿、

私は、過去の20年間、ワルシャワ高等学校にて、教育者として私に当てられた力の許す限り仕事にまい進して参りました。慈悲深き大臣閣下に対し、私のお願いを腰低くしてお聞き入れて頂くようお願い致したく存じ上げると共に、大臣閣下をして、私に政府のご慈悲をお示し頂きたく、それを政府からの私に対するご褒美として受け取る所存であります。

私の息子の事でありますが、彼の音楽に対する生来の能力は、この分野で教育を受けるべき事を示しております。祝福深くて慈悲深き、亡き皇帝殿下であり、国王様であらせられたアレクサンデル侯が、御前で(彼の演奏を)お聴き頂きました際に、そのご満足のお気持ちを表すために、かの価値高い指輪でもって 彼をお褒め下さっております。慈悲深き帝軍元帥閣下が、一度ならず、ご自身の伸びてゆくタレントの証拠をお見せになられました。多くの尊敬されておられる方々や音楽を専門とされる方々が、仮に、私の息子が必要なだけの教育を受けられるならば、彼がお国のために、自分が選んだ職業で役に立つであろうとのご意見を述べられております。

彼はすでに全ての教科を終了し、高等音楽学院の学院長及び大学長であるエルスネル教授大学長の証明を頂き、外国、特にドイツ、イタリア及びフランスを訪れて、良い模範に接することを奨励されるばかりであります。

3年間に渡る、そのような旅行を実現するためには、資金が必要でありますが、学校の教師として受ける貧しい月給では十分ではなく、それがため、慈悲深い大臣閣下に腰を低く下げてお願いを致し、(ロシア統治の)総督に与えられている資金の管理委員会をして、その資金の一部なりとも私の息子の旅行の支えとして適用頂くご決議を頂くようにお願い致します。

心底からの敬意を以って

慈悲深い大臣閣下殿へ

最下位の僕(しもべ)より

ミコワイ・ショパン

ワルシャワ高等学校教師

ワルシャワ、1829413

 

王国統治委員会

内務・警察に関する政府委員会 宛て」

 

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

ニコラは、息子が音楽院を卒業するのを見込んで、その数ヶ月前に、文部大臣のスタニスワフ・グラボフスキに宛ててこのような援助の申し立てをし、海外留学のための準備をしていたのである。

しかし、このニコラの申請は却下された。

グラボフスキの他にもう一人、この件で決定権を持つ内務大臣のタデウシュ・モストフスキが、首を縦に振らなかったのである。

 

当時の政府高官が未だにショパンの天才性を見出せなていかった事が、今日においては、不思議を超えて、コミカルな状況を醸しだしていると言えよう。それと共に、彼は当時すでに大きな評判だったにも関わらず、その存在が無視されていた事である。この状況において――誰が想像できたであろう――当時の内務大臣であったタデウシュ・モストフスキが演じた役割は賞賛すべきものである。彼は疑いもなく、稀に見る文化レベルの高い、深い教育を受けた人間であった。しかし…彼はこのような証言をおこなった:

“この種の芸術家の気まぐれな希望に使用する事で、公的資金を無駄使いする事には合意できない。”

と。

―彼のこの評価が、M.ショパンに対する回答を決定した(古文書保管書、ポーランド王国統治委員会文書、第136号、古文書番号12202)。 

 

ワルシャワにて、1829519

宗教信仰・公衆啓蒙に関する政府委員会における大統領閣下に依頼されている、本年414日付の文通に提議されている件、すなわち、ショパン教授の子息が外国においてピアノ研修を通じて、ピアノ演奏に顕著である彼のタレントを円熟させるための2年間の旅行を可能になすために、年間5,000 ズローチを授与することに関して、内務・警察省の政府委員会は意見を伝えることを光栄と思います。すなわち、公衆の基金をこの種の芸術家の活動に適用する事に合意できません

執務中の大臣 T.モストフスキ

秘書 ヤヌアリ・A・カルスキ」

 

この文書の下書き(?)では、最初“無駄にする”と言う用語があったが、後ほど、“適用する”に修正されている。

上掲の原本の欄外に鉛筆で追記されている:

“申請者に拒否の回答を与える事。”

この文書の前述した“下書き”に使用された用紙は内務省委員会の文庫に保管されていて、文書番号17375、k.20の記載がある[古文書保管所]。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

そして、最終的にニコラに送られた「回答」は、以下の通りだった。

 

 

「ワルシャワ高等学校教授、敬愛するミコワイ・ショパン殿へ、

委員・秘書官

 

413日付の申請に対して、国外に旅行して、ピアノを弾くタレントを円熟させるため子息に資金を確保する件について、統治委員会で執務中の大臣殿下からの指図により、委員会は内務省・警察省大臣閣下のご意見を聞き取った後、申請者の要求に対して好意的な回答を見つけられなかった事をお知らせします。

師団将軍 コシェツキ

1829610日」

 

この文章の最後の部分は、最初は次のように書かれていた:

“資金不足を理由とする、そのような要求に対し…与える事はできない。”

―その後、上記の通りに修正されている。

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より

 

この政府側のやり取りを見ると、彼らはショパンを単なる一ピアニストとしてしか認識していなかった事がよく分る。

ニコラの申請書では決してそのような限定した書き方はしておらず、もっと広い意味で「音楽に対する生来の能力」と表現していたにも関わらずである。

 

しかし確かに、この時点におけるショパンの表立った音楽活動と言えば、いくつかの事前演奏会にアマチュア・ピアニストとして参加していた以外は、作曲では8歳当時に書いた《ポロネーズ ト短調》の出版、16歳当時に書いた《ロンド ハ短調》の出版、17歳当時に書いた2つのマズルカ》の出版と、それなりにありはするものの、これらはいずれもワルシャワの狭い地域に限定されたささやかなものでしかなかったし、その作品の質にしても、やはり全てがピアノ独奏用で、しかもローカル色の強い小品ばかりであり、これでショパンの作曲家としての才能が世界に通用するものかどうかと言う点に関しては、まだまだ未知数と言わざるを得ないものばかりではあった。

したがって、当時の政府の役人が、当時のショパンを単なるピアニストとしてしか認識していなかったのだとしても特に不思議はないのであって、つまりそれが、「この種の芸術家」という言い方に集約されている訳なのである。と言うのも、この前年には、ワルシャワ音楽院の一つ先輩にあたるトマシュ・ニデツキが、何の苦もなく政府からの奨学金を得て現在ウィーンに留学中だったからだ。そこで問題なのは、ニデツキの場合はショパンとは違い、すでにオーケストラ曲や宗教曲などの大曲をものにしていたからであり、当時の音楽事情においては、まだまだそういった種類の作品の方が遥かに需要も重要度も上だったからである。

 

したがって、「当時のショパンが過激派と交際があって政府のブラック・リストに載っていたからではないか?」などと言うような類の仮説は、一部のポーランドの国粋主義者達による根拠のない英雄的逸話に過ぎない。

 

いずれにせよ、これによってショパンは、今回のところは長期の海外留学を諦め、友人達が計画したウィーン旅行に便乗する事で、取り敢えず「音楽の都」を見聞する機会を得るにとどめざるを得なかった…と言うのが実情だった。

 

 

ここで一つ着目しておきたい事がある。

それは、たとえば前年にショパンがベルリンへ旅行した時には、彼は出発前にヴォイチェホフスキ宛にその由を報告していたが、今回のウィーン旅行ではそれをしていないと言う点である。

この違いは、以下のような状況背景による。

 

1.       前年のベルリン旅行の時は、その出発は急に決まった事であり、しかもその時ヴォイチェホフスキは、田舎で病気した母の見舞いでワルシャワにはいなかった。そのためショパンは、その由を手紙で知らせる必要があった。

2.       今回のウィーン旅行はそれとは全く逆で、出発が決まったのはヴォイチェホフスキがまだ大学を卒業する前であり、だからその時彼はワルシャワのショパン家の寄宿舎にいた。そのためショパンは、手紙でその由を報告する必要がなかった。

 

この違いは何気に重要である。

なぜなら、旅行から帰った直後の結果報告の手紙に関しては、これがものの見事に逆になるからである。

 

 

さて、今回紹介するショパンの手紙は、彼がウィーンに到着した翌日にワルシャワの家族に宛てて書いた「第1便」である。

これは、カラソフスキーのドイツ語版の著書『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』で最初に公表されたもので、文中の[註釈]も全てカラソフスキーによるものである。

 

■ウィーンのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第1便/カラソフスキー・ドイツ語版)■

(※原文はポーランド語)

182981日、ウィーンにて

僕の心から愛する御両親様、そして姉妹達、

昨日、僕達は首尾よくここへ到着し、気分も良いです。僕は疲れもせず、また不愉快も感じていないと申し上げられます。僕達はクラフで非常に乗り心地のよい馬車を一台雇いました。そうしてガリシヤ、シレジア北部、およびモラヴィアの絵のような美しい景色を存分に見る事ができました。と言うのは、空が至って深切で、にわか雨を少々降らせて塵挨を払ってくれたからです。

でも、ウィーンの事を話す前に、僕はあなた方にオイツフの出来事について話さなければなりません。日曜日の午後に、僕達は四ターレル払って、クラクフで使われているような四頭曳きの馬車を雇いました。達は、陽気に飛ぶようにオイツフを駆けさせました。あらゆる旅行者が賞讃し、タンスカ嬢*有名なポーランドの童話作家のクレメンティナ・タンスカ女史]が滞在しているインディク氏の邸宅に泊ろうと言う事だったのです。しかし、あいにくインディク氏は、市外のかなり遠い所*3マイル]に住んでいました。僕達の駆者は行く道を知らないので、僕達をお伽話にあるような澄み渡った銀色の小河の中へ連れ込みました。右も左も岩壁でした。そうして僕達は、9時近くまでこの迷宮の出口を見つけられませんでした。でも、折好く通りすがった2人の農夫が好人物で、インディク家へ案内してくれたのです。達は疲れて、ずぶ濡れになって、望みの家に辿り着き、非常に手厚い歓待を受けました。こんなに晩くなってから訪問者があろうとは予期していなかったでしょうが、インディク氏は快く、僕達に旅行者のために建てた小さい家の一室を貸して下さいました。イザベラ*ショパンの2番目の姉妹;彼女と彼女の夫のバルチンスキ氏は、1878年においてもまだワルシャワで暮らしている] タンスカ嬢がほんの少し前までここに住まっていたのですよ!

仲間の者達は着物を脱いで、その間に主人が火を入れて置いてくれたストーヴの周囲に集りました。膝の上までずぶ濡れになった僕は、どうしたらいいだろうと考えながら隅に静まっていました。インディックのおかみさんが僕達の寝台にリンネルを布くために次の部屋に入ったのを見て、僕は本能的に後について行きましたら、テーブルの上にクラクフ毛繊の頭巾が積み重ねてあり、それらは二重に織られていました。僕はその一つを取り上げてそれを半分に引き裂き、それで両足を包んで火の前に座り、真赤な葡萄酒を小さい盃に一杯飲み干しました。こうして厳しい冷たさから免れました。僕達は笑いながら、しばらく僕達の冒険を語り合い、それから寝床に入ってぐっすりとよく眠りました。」

モーリッツ・カラソフスキー『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFEVERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski translated by Emily Hill/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERSWILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より   

 

この手紙に関しては、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語のものと比較すると、若干の違いは見られるものの、それは意訳としての許容範囲内に収まるものばかりなので、ほとんど大した問題とはなっていない。なので、今回は他の資料と比較しながら検証する事は控えたい。

内容的にも、特に解説を必要とするような箇所もなく、ほとんど読んだ通りである。

 

ただ、この中で一箇所だけ私が注意を引かれたのは、ショパンがイザベラ! タンスカ嬢がほんの少し前までここに住まっていたのですよ!」と、妹のイザベラのみを指名してこのようなコメントを送っている点である。

イザベラの旅行嫌いについては、本稿の【検証6-51828年春、そしてビアウォブウォツキもいなくなった】でも説明したが、あの時ショパンは、夏休みの旅行先のコヴァレヴォから家族に宛てた手紙に、初めて家を離れて一緒に旅行したイザベラのホームシックをからかう内容の事を書いていた。

今回もおそらく、ショパンはその時と同じようにイザベラをからかっているのだろうと思われる。

この「タンスカ嬢」と言うのは、本稿の【検証6-4:二人目の神童エミリア・ショパン、その14歳の死】でも説明したが、末の妹のエミリアが傾倒していたポーランドの女流作家である。おそらくイザベラは、そのエミリアと一番年齢が近かった事もあり、その辺の文学的な趣味を共に分かち合っていたのだろうと思われる。

だから、エミリアが生前に「ドイツのクリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンが子供のために著した教育的な小説の翻訳と翻案をした」際、それを手伝っていたのはルドヴィカ説とイザベラ説とに分かれていたが、私はおそらくイザベラ説が正しいのではないかと考えており、その根拠が今回の手紙のこの箇所なのだ。

つまり、エミリアと同様、イザベラにとっても「タンスカ嬢」は興味の対象なのだから、その人が実際に住んでいた場所にこうして来られると言うのに、それでもまだ旅行嫌いなんて言っているのかい?と、ショパンはそうイザベラに語りかけていると言う事なのである。

       ちなみにカラソフスキーはここで、この「イザベラ」に対して*ショパンの2番目の姉妹;彼女と彼女の夫のバルチンスキ氏は、1878においてもまだワルシャワで暮らしている]と言う註釈を施しているが、この1878年」と言うのは、カラソフスキーが最初雑誌に連載していたこの著述が、本にまとめられて出版された年を指す。

 

 

さて、手紙そのものの内容はさて置き、今回ここで問題にしたいのは、カラソフスキーの書簡資料の扱い方についてである。

ちなみにカラソフスキーは、この手紙を紹介するに当たって、以下のような前置きをしていた。

 

「彼自身に対する希望及び家族に対する熱烈な感謝に充たされた心を以て、ショパンは友人セリンスキー、ウーベ、フランツ・マツィエヨフスキー(スラヴ民族の法律の有名な権威者の甥)と一緒に、愛するワルソウを出発した。

ピアニスト及びヤゲロンの旧都、クラコフ及び所謂ポーランドの瑞西であるオイコフを訪れてから、旅人達は七月三一日ウィーンに到着した。

次の手紙は、ショパンがその都から出した手紙の文字通り写しである――」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

カラソフスキーは「文字通り写し」などと間抜けな事を言っているが、そもそも彼の著書は最初ドイツ語で書かれており、その際ショパンの手紙も全てドイツ語に翻訳しているのだから、手紙の原文がドイツ語で書かれていない限り「文字通り写し」などと言う事は絶対にあり得ないのだが…。

百歩譲って、カラソフスキーがあくまでも内容に関してそうコメントしていたのだとしても、彼が本当に一字一句をそのまま翻訳したのかどうかについては、過去の例から見ても甚だ疑問である。しかしそれはさて置くとしても、実はカラソフスキーはこの手紙を途中までしか掲載しておらず、残りの部分は自分の文中に要約する形で以下のように紹介しているのである。

 

「周囲の事物に対し、慧眼と鋭い耳とをもっていたフレデリックは、更にオイコフの近傍を、奇妙な恰好をした砂岩、暗黒洞――三世紀の終りに当ってロキエテック王[*最も敏腕な支配者の一人であったにかかわらず、身長が非常に低かったため或る綽名(あだな)がつけられている。王の洞霜の徹底的探検は近頃考古学者に依って行われ、有史以前の動物の骨が発見された]が敵から避難したと云い伝えられている王の洞窟を描写している。フレデリックは眼に触れた一切のものにすこぶる熱心だった。けれどもオイコフ(※オイツフ)とその近傍は、彼にとって特殊な魅力をもっていたらしい。彼はまた最初素通りに見ただけだったウィーンの美術館に就いて報知している。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

この件については、イワシュキェフィッチが以下のように指摘している。

 

「ヴィーン旅行についてのたいていのことはショパンの家族宛の手紙から知ることができる。これらの手紙はカラソフスキーがその著書の中で公表している。しかし、わが偉大な作曲家の評価することもできないほど貴重な遺稿を、そこに価値があることなどいささかも理解しないで、これまでにどんなに自由勝手に取り扱ったか――ということに対する一例として、カラソフスキーがショパンの遺族から簡単に手に入れた、実に実に重大な資料を(後に紛失してしまった)扱った、やり方を調べてみようと思う。

たとえば、ショパンの一八二九年八月一日付の手紙はヴィーンで書かれたけれども、クラクフに滞在したことを描写し、同時にオイツフへの旅のこっけいな報告や、クレメンティナ・タニスカ(一七九八〜一八四五。ポーランドの女流作家、結婚後の名クレメンティナ・ホッフマノファで知られている)が宿屋として紹介してくれたインデュークなんとかさんの家を捜し出すのに一行が苦労したことなどを報告している。カラソフスキーはこの手紙の一部分だけを公表し、しかも自分で次のように付け加えている(*カラソフスキーがショパンの手紙に色をつけて偽造したことは、カラソフスキー版のこの手紙と、ショパンのティトゥス・ウォイチェホフスキーに宛てた同じ内容の手紙とをくらべてみるとすぐわかる)。

『フレデリックはさらに、オイツフやピエスコファ・スカウァ城や暗黒洞、伝説によれば一三世紀の終りにロキエテーク王が敵から逃れてかくれたという王様洞のことを書いている。フレデリックはそれらのすべてに恍惚とし、完全に魅惑されて、「たとえほかに何もなくても、オイツフのこのすばらしい美しさはズブぬれになって来たねうちが十分あります」と言っている。手紙はこのほかに、ショパンが大急ぎで訪ねたヴィーン美術館の描写や、読者にはたいして興味のない二、三の断片的なことを含んでいる』

このように、カラソフスキーはこの手紙を不具にして、偉大なる芸術家を特徴付けている二つのはなはだ貴重な資料を私たちからうばい去ってしまったのである。その一つは、ポーランドで一番美しい地方の一つであるオイツフの描写と、プロンドニーク渓谷の眺望が青年ショパンの中によび起こした感激とを不法にも私たちに渡さず、しかもクラクフについてのより詳細な覚書にも欠けている。ショパンはティトゥス宛の手紙で、『クラクフは、ほんの一瞬だけれども故郷や君のことを思うことを犠牲にさせてしまうほど僕の心をとらえた』と書いているのである(一八二九年九月一二日付)。

クラクフやその近所からよび起こされた、ショパンの雨あられと降りそそぐ感激は、カラソフスキーの私たちに対する無思慮さのために失われてしまったのである。

第二に、カラソフスキーは、美術館でのショパンの感銘を省略してしまった。ショパンが絵について言ったことはひじょうに少ないし、この時代にはまったくない。しかし私たちはヴィーン美術館の大きな宝が何であるか知っている。ブリューゲルの絵である。この絵は若いショパンにどんなにか感銘を与えたことであろうか? ショパンの芸術感覚の鋭さはこの絵の悪魔的なものを感じ取ったのであろうか? ショパンは、『パウルの改宗』の、表現に富んだ夏と冬の光景を、やわらかい色調の秋の姿を、はてしない遠近法を、あるいはまた、感動的な冬の山並を見て何と言ったであろうか? この絵から受けた感動の反響は、《プレリュード、二番》や《バルカローレ》に現われていないだろうか? 私たちがこの絵を見た時に襲われる感激は、あのベートーヴェンの感動的な『最後の』トリオの感激と何か似ているものがあるが、ショパンもそのようなことを感じなかったであろうか? それともショパンはレンブラントの方が好きだったかしら? それともラファエロのショパンの批評がひじょうに表面的で、『大急ぎ』でされたとしても、一応全部の批評をしたのではないだろうか?

この手紙の他の部分、カラソフスキーのいわゆる『そのほかの断片的なこと』も、画評と同じように、ひじょうにひじょうに興味深いものではなかったろうか? それは何かの雰囲気を再現していないだろうか? ショパンの精神状態への一瞥を私たちに与えてくれなかったであろうか? 過ぎ去った時代のできるだけ正確な姿を、過ぎ去った魅力を、過ぎ去った生活を描いてはいなかったろうか?

ショパンはエルスナー宛の手紙である人たちを『ひからびた人形』と言っているが、これはカラソフスキーのような人物に当てはまるすばらしい表現である。」

ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳

『ショパン』(音楽之友社/1968年)より

 

 

イワシュキェフィッチのお怒りはごもっともだが、実際に今まで「ヴォイチェホフスキ書簡」の2通を見ただけでも、カラソフスキーが何の説明もなく削除していた箇所はかなりの量で、しかもそこには必ずカラソフスキーにとって都合の悪い記述が満載だった。

しかし今回に限ってカラソフスキーは、手紙を省略した事をきちんと説明し、そしてそれを要約と言う形で記述して見せている。おそらくそれは、その省略した内容がカラソフスキーにとって特に都合の悪いものではなかったからなのだろう。だから彼はそれを正直に説明する事が出来たのだろうと、私は今回の手紙に関してはそのように解釈している。

 

 [2011年7月15日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証8-2:第2便/驚くべき歓待と演奏会への誘い

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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