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検証6:看過された「真実の友情物語」・後編―

Inspection VI: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked (Part 2) -

 


4.二人目の神童エミリア・ショパン、その14歳の死――

  4. The second child prodigy Emilia Chopin, death of the 14 years old -

 

   ≪♪BGM付き作品解説 葬送行進曲 ハ短調 作品72-2▼≫

ビアウォブウォツキへの最後の手紙となった「第13便」の中でほのめかされていた通り、エミリアが寝込んで以来、彼女の病状は快方に向かう事なく、それからちょうど1ヵ月後の1827410日に、そのまま亡くなってしまった。死因は肺結核だったと言われており、その時エミリア・ショパンはまだ14歳だった。

その短かった生涯ゆえに、彼女に関する資料はそれほど多くはない。

多くはないが、長女ルドヴィカと次女イザベラが、ほとんどショパン宛の手紙ぐらいしか個人的な資料を残していない事を思えば、その内容は3姉妹の中で最も豊富であり、また芸術的である。

私は今現在、その少ない資料ですら、その全てに関して全文までは参照できないでいるのだが、部分的には、一応そのほとんどの資料に触れてはいる。

それらの資料と言うのは、現存しているものに関しては、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』に漏れなく掲載されており、それ以外のものは、伝記その他で入手し得る限りのものを入手し、目を通した。しかしながら、それでも、それらの資料の中から、すでに彼女について語り尽くされている以上の事を発見するのは、おそらく難しいだろう。

ただし、ショパンの人生や彼の作品を語る上で、エミリアの死が兄にもたらしたものは、具体的な形で目には見えていないものの、決して小さなものではなかったはずである。

 

今回は、私が集め得たそれらの資料をできる限り全て紹介していきながら、今一度、エミリア・ショパンについて思いをめぐらせてみたい。

そうする事で、私なりに、遠いかの地に眠る彼女の墓前に、せめて気持の上だけでも献花させてもらえたらと…、かように思う次第なのである…。

 

 

 

まず、エミリアに関する資料として最初のものは、彼女の洗礼証明書である。

 

エミリア・ショパンの洗礼証明書

「サスキ宮殿、15日[181212月]

私、テオドール・ボリシェヴィツ[教区教会の司教]は、高等中学校の教師である紳士ニコライ・ショパンと、彼の法律上の配偶者であるクシジャノフスカ家出身のユスティナの娘として1120日[1812]に生まれた赤ん坊を、エミリアという名で洗礼を施した。」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

ここでは、ポーランド語の原文に、ニコラの名前が「ニコライ・ショパン(Nicolai Chopin)」と書かれている。

また、エミリアの誕生日についてだが、ここでは1120日」となっており、ほとんどのショパン伝がこれに倣っているが、別の公式資料では、彼女の誕生日は119日」と記されている

以下がそれである。

 

「フレデリックの妹で、ミコワイ・ショパンとユスティナ・クシジャノフスカの最も若い娘であるエミリアは、ワルシャワのサスキ宮(ワルシャワ高等中学校の所在地であるクラコフスキュ・プシュドミェシチェ通り413番)にある両親のアパートで、1812119日に生まれた。彼女は、その年の1215日に、聖十字架教会から来た教区司祭テオドール・ボリシェヴィツによって洗礼を受けた(その証明書では、彼女の出生の日付が1120/22日と誤って示されている)。エミリアは、ミコワイ・ショパンによって、ヴォイチェフ・ジヴニーとヤン・オースティンの立会いの下、1122日に市民の記録に入れられ、そして、その子供の出生日は119日と申告された。洗礼命名式の儀礼は、聖十字架教会で1815614日だけで完了され、そしてエミリアの名付け親はクサヴェリ・ズボインスキとフランツィシュカ・デケルトだった。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「エミリア・ショパン」に関する記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

このような事は、まさに、ショパンの誕生日が222日」か?31日」か?と言う問題とよく似ている。

本稿でそれについて検証した時にも触れたが、ここにもあるように、エミリアは生まれてから約1ヵ月後に、まず自宅で洗礼を受け、その後、教会で正式に「洗礼命名式の儀礼」を行なっている。しかもそれは、何と2年半も後になってからだった。

こう言う事があるのだから、兄のフレデリックが180931日」に生まれていながら、正式に教会で洗礼を行なったのが1年後の1810222日」だったとしても、ちっとも不思議ではない事になるだろう。おそらくこの2人は、生まれてすぐの赤ん坊の時には、健康状態が思わしくなかったために家の外へ出せず、教会に連れて行けなかったのではないだろうか。この2人が生まれた3月と11月は、季節的にも寒い時期なので、その可能性は十分に考えられる。

      余談だが、エミリアが亡くなった時の年齢を15歳」としている著書を稀に見かける。上記のミスウァコフスキらの記事でもそうなっている。しかしそれはおそらく、その著者が、彼女の誕生日と命日を厳密に考慮していないだけなのであろう。エミリアが生まれたのは11月」であるから、4月」に亡くなった時点ではまだ誕生日を迎えていない。彼女が亡くなった1827年」という年は、もしそのまま生き続けて誕生日を迎えていれば15歳」になるはずの年だからである。

 

ちなみに、エミリアの名付け親(名親、代父、ゴッドファーザー)の「クサヴェリ・ズボインスキ」とは、ジェヴァノフスキ家の親戚にあたり、コヴァレヴォの領主である。この人物は、今までショパンの手紙には登場していなかったが、エミリアが亡くなった1827年の夏に、ショパンは彼の邸を訪れており、そこからワルシャワの家族に手紙を書いている。その手紙は次回紹介する。

一方、代母(ゴッドマザー)の方の「フランツィシュカ・デケルト」とは、「ビアウォブウォツキ書簡」の追伸の常連としてお馴染みの「デケルト夫人」である。

 

 

次は肖像画。

現在知られている彼女の唯一の肖像画に関しては、どうも腑に落ちない点が多い。

そもそも、多くの伝記等にも掲載されている、あの横向きのアングルの肖像画は、実はあれは、実際はエミリア本人のものではないと言うような話をどこかで読んだ記憶がある。しかし、それも随分前の事なので、記憶力の悪い私は、残念ながらその情報源が何だったか思い出せない。

それに、あの絵の実物は、実際は肖像画と言うような類のものではなく、7.8×5.5cmの大きさしかない小さなミニチュアなのだ。つまり、それそのものがすでに複製品なのである。

ショパン家の人々は、皆それなりの肖像画が描かれているのに、どうしてエミリアだけがそんな物なのか、確かにその事自体が不自然にも思える。

逆の見方をしても、たとえば兄のフレデリック・ショパンなどは幼少の頃からすでに有名人だった訳だが、その彼ですら、一番最初に肖像画が描かれたのは20歳の時だと言うのに、14歳で亡くなったエミリアが一人だけ少女期に肖像画が描かれていたと言うのも何か変だ。現実的に考えれば、彼女だけが、肖像画が描かれる前に他界してしまっていたはずである。

それより何よりも、あの絵の中の女性は、どう見ても14歳を下回る人のそれではなく、明らかに成人した女性と言うか、むしろ熟年層にすら見えなくもない。なので、とてもあれがエミリア・ショパン本人だとは、にわかに信じがたいものがある。ショパン家の人々は、両親も子供達も皆それなりに整った顔立ちをしており、その中でもエミリアは、ジヴニーの言葉を借りれば「チャーミング」だったと云われている位なのである。

病気のせいだからだろうか? いいや、そんなはずはないだろう。なぜなら、前回検証した「ビアウォブウォツキ書簡・第13便」によれば、彼女が病気のせいで痩せ衰えて別人のようになってしまったのは、亡くなる2ヶ月前に倒れてからの話だからだ。

 

 

次は、エミリア、イザベラ、フレデリック、ルドヴィカの4人が、連名で、父ニコラの誕生日に贈ったグリーティング・カード。

       本稿でニコラの出生について検証した時にも書いたが、ニコラの誕生日は417日」で、彼がポーランドに渡って後、年金受給の際にロシア当局に提出した書類でも、本人がそのように記入している。また、カラソフスキーがイザベラの証言に基づいて記したデータも417日」になっている。次に紹介する2つの資料は、その事実を証明するものでもある。

まずは1825年のもの。

 

■エミリア、イザベラ、フレデリック、ルドヴィカ・ショパンから、

ニコラ・ショパンの誕生日のグリーティング・カード■

(※原文はポーランド語)

神は不幸な孤児達を見捨てることなく、助け給う、

落胆した子供達を元気づけ、流れた涙を拭い給う、

だから覗き給うのでしょう、あなたの子供達の胸の内を、

そして小さな希望の灯火が輝き、

健康と、安らぎと、自身の繁栄とを

我らと、愛しき母と共に、分け合い給う。

                エミリア・ショパン、

                イザベラ・ショパン、

                フリデリック・ショパン、

                ルドヴィカ・ショパン

1825417日」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

これの資料はもはや原物が残っておらず、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』に掲載されているものは他人の手による複製である。

ただし、実を言えば、これはあとで説明するが、フレデリック・スカルベクによると、これはエミリアが一人で書いたもので、この詩には彼女自身の前置きも書かれており、そこでは、彼女は「私達」と言う複数形を使っている。

なので、これは、エミリアがみんなを代表して詩を書き、そこに、残りの3人がサインを書き加えたもののようである。

 

次は翌1826年のもので、これはミェチスワフ・カルウォヴィツ編『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』に収録されていたもの。

 

■エミリア、イザベラ、フレデリック、ルドヴィカ・ショパンから、

ニコラ・ショパンの誕生日のグリーティング・カード■

(※原文はポーランド語)

愛するお父さん! −

 

何と言う喜び! 嬉しい日がもうやって来た、

毎年そのような日を生きて過ごせるように!

彼はそのようなチャンスの時期を教えてくれる、

私達が心からの、真のお祝いの言葉を伝える事ができるように。

でも、私達の喜びはなぜすぐに終わってしまうのでしょうか?

なぜ幸福の希望がこんなに早く過ぎ去ってしまうのでしょうか?

お父さん、あなたはきっとその理由を知っているでしょう、

あなたの子供達が唯一の喜びを失う理由。

その願望を、他と比較できないほどの願望をもって、

そして、あなたに愛されている子供達の心を強く抱擁して下さい;

彼らの抱擁が、絵となってあなたの記憶に残る、

彼らが望み、感じている事のすべてが。−

1826417日、          エミリア・ショパン、

イザベラ・ショパン、

フレデリック・ショパン、

ルドヴィカ・ショパン。」

ミェチスワフ・カルウォヴィツ編『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』

Mieczysław Karłowicz/Souvenirs inédits de Frédéric ChopinThe Polish Library 1904)、

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

これも、サインの順番が若い順になっている。

こちらに関しては、活字化された印刷物しか残っておらず、しかも註釈も施されていないので詳しい事は分からない。

これらのグリーティング・カードを書いた当時の4人の年齢は、彼らが全員誕生日を迎えたと仮定した場合、エミリア1314歳、イザベラ1415歳、フレデリック1617歳、ルドヴィカ1819歳となる。去年のはやや宗教色の濃いものだったが、今回の内容は、「毎日が誕生日だったらいいのに」と言うような意味の、いかにも子供らしい詩である。

ショパンが個別に書いたものは、すでに本稿でも紹介した通り、1816年から1818年にかけて両親の命名日に書いたものが4つ知られているが、おそらく、一番年下のエミリアが字が書けるようになってからは、このように、誕生日も命名日も、4人で一緒に書くようになっていたのではないだろうか。こう言ったところにも、ショパン家の子供達がいかに仲が良かったかが窺える。

おそらくこの1826年」のものも、前年の1825年」のものと同様、エミリアが代表して書いていた可能性が高いのではないだろうか。

ところで、ここで一つ断っておきたいのは、これらのグリーティング・カードは全て、ショパンの幼年期のものも含めて、どれも「韻文」として書かれていると言う事である。つまり、これらはみな、2行ずつ語尾を揃えて韻を踏んでいると言う事が大前提となっており、そのため、単に詩の意味そのものが分かっただけでは、その半分も理解した事にはならないと言う事だ。

とは言うものの、しかしこればっかりは、ポーランド語が分かる人が直接ポーランド語の原文を読まない限り、それをきちんと読み味わうのはとうてい不可能である。「語尾の韻を踏む」と言うのは、それが日本語であれ英語であれ何であれ、どうしても他の言語に置き換えて表現する事はできないからだ。これについても、あとでもう一度詳しく説明しよう。

 

 

次は、エミリアが書いた手紙。

エミリアが書いた手紙に関しては、ミスウァコフスキらが以下のように説明している。

 

エミリアは、高等中学校の校長サムエル・ボグミウ・リンデの家族と友人になり、彼の前の妻ルドヴィカ(後の妻はゴレツカ)の娘と活発に文通を交わした。しかし、1826年のドゥシュニキ(※ライネルツ)からの1通を含む5通の手紙だけが生き残り、それらはヘシックによって出版されたが、その後、原物は行方不明になった。

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「エミリア・ショパン」に関する記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

 

私は現在、ここに書かれている「へシック」の出版物をまだ入手できずにいる。

       ヘシックは3巻本で1500ページにも渡るショパン伝『ショパン:生涯と作品(Chopin : Zicie i twórcość)』を書いているが、それには掲載されていなかった。おそらく彼が編纂したChopinianaと呼ばれている書簡集に掲載されていると思われるのだが、今のところ私には情報がなくてちょっとよく分からない。

なので、残念ながらエミリアの手紙については、本稿では、そのほんの一部分しか紹介できない。もちろん、いずれ入手でき次第、この項で紹介し直し、検証内容も追加改訂するつもりであるが、今回は取り敢えず、手持ちの資料の範囲内で考察せざるを得ない。

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、この中から、エミリアが1人で書いた、日付のあるものとないものがそれぞれ1通ずつ(※これらは最初の1ページ目のみ)と、エミリアとイザベラの2人で書いたものが1通(※こちらは全文)と、計3通分の原物の写真資料が掲載されている。

いずれも、ワルシャワ高等中学校の校長サムエル・リンデの「前の妻の娘」(※この娘の名前もルドヴィカである)に宛てたものである。

       ちなみに、このリンデ家の家族構成については、私にはよく分からない。

1.       「リンデ」は、ソウタンの註釈によると、サムエル・ボグミウ・リンデ(Samuel Bogumił Linde17711847)。ワルシャワ高等中学校の校長で、優秀な語学教師、ポーランド語辞書の著者。とあり、ちょうどニコラと同い年である。

2.       ショパンは18256月に、リンデの「前の妻」であるルドヴィカ・リンデ夫人に《ロンド ハ短調 作品1》を公式献呈している。

3.       ところが、ショパンはそのちょうど1年後の18266月]に、「ビアウォブウォツキ書簡・第10便」の中で、「リンデが継承者を授かった」と、「娘」の誕生についてラテン語を交えながら報告していた。実は、この時子供を生んだリンデ夫人と言うのは、すでに「前の妻」であるルドヴィカ・リンデ夫人ではないのである。つまり、この時のリンデ夫人は(後の妻はゴレツカ)と書かれている方の女性なのだが、しかしポーランドのウィキペディアhttp://pl.wikipedia.org/wiki/Samuel_Lindeによると、リンデの家族の項目には、「二番目の妻はスイス人女性のルドヴィカ・ヌッシュバウムフ(18001836年)で、ショパン家とスカルベク家の友人だった。彼らの娘、ルドヴィカ・エミリア・イザベラ(18261857年)は、有名な牧師、レオポルト・オットー神父の妻だった。」と書かれている(※ただしそこでは、なぜか最初の妻とその間にできた子については全く触れられていない)。このリンデの二番目の妻の旧姓が「ゴレツカ」なのか「ヌッシュバウムフ」なのかは分からないが、とにかくリンデ家の女性達は皆「ルドヴィカ」だらけのようなのだ。しかも、この時リンデは御歳55歳で、前妻とは離婚なのか死別なのか分からないが、いきなり26歳の妻と再婚してその年にすぐ子供を生ませている。それにしても、リンデが新しく授かった娘の名が「ルドヴィカ・エミリア・イザベラ」と言うのもすごい。まるで、ショパン家の3姉妹がまとめて名親になったかのような名前である。

 

まずは、1824年の夏に書かれたもの。

 

■ワルシャワのエミリア・ショパンから、

ルドヴィカ・リンデへ1ページ目のみ)

(※原文はポーランド語)

ワルシャワ、182472

愛するルドヴィニュー!

信じてもらえないかも知れないけど、あなたがいないので非常に悲しいです。この前あなたと会ったのが1年前だったかのよう私には思えます。実際はちょうど1ヶ月前でしたね。あなたが健康で、私の事を覚えていてくれるなら、この悲しい思いの時間も短くなります。今あなたは何に心を割いていますか?と聞きたいです。もし仮に、あなたの年齢で私が田舎にいるとしたら、何にも手をつけないでいますよ。だから、あなたに同じような事をお願いします、つまり、紙を手に取って、私宛にちょっと書いて欲しいのです、健康はどうだとか、何をして遊んでいるかとか...」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

この当時のポーランドの女子は、一般の高等中学校や大学には通っていない。

かつてニコラをフランスからポーランドへ連れて来たヴェイドリヒが、ワルシャワの「アウグスチヌス修道院」の中に「女子のための全寮制学校」を建てていたが、そう言うのはショパン家の寄宿学校と同じで、あくまでも公的なものではない。女子が通う学校となると、あとはせいぜい、ワルシャワ音楽院のもう一つの方である「演劇歌唱学校」のような専門学校くらいであろうか。

男子の場合は、目指す業種によっては、将来その仕事に就くための資格を得る必要があるから、たとえ家庭教師が雇える士族や貴族の子息達であっても、そのためにいずれは就学せねばならない事があった。

たとえば、この手紙の日付である182472日」頃と言うのは、男子である兄のフレデリックは、ワルシャワ高等中学校に通い始めて1年目の学期末試験の準備に取り掛かっている頃である。彼はそれを終えて夏休みに入ると、転地療養を兼ねて最初のシャファルニャ訪問に行く事になる。

一方のエミリアたち女子は、そのような学校のスケジュールに拘束された生活は送っていない。

したがって、ワルシャワ高等中学校の校長の娘であるルドヴィカ・リンデもそうだったようである。彼女は、この手紙の記述から察するに、おそらく6月の始め頃に体調を崩したらしく、それで田舎へ転地療養に出掛けていたらしい。

 

次の手紙は、日付のないもの。

 

■エミリア・ショパンから、

ルドヴィカ・リンデへ1ページ目のみ)

(※原文はポーランド語)

愛するルル!

いつも口頭でお祝いのご挨拶をするのを喜びにしている事を思い出すと、今回は非常に悲しい。今日はそのような事が出来ないけど、でも、せめて手紙ででも、親愛なるお友達が何を感じているのかと、それを表現する事から逃れられないでいます。仮に、あなたへの(私の不機嫌の要求の)全てを数え始めたら、最後まで数えきれないほどですよ。だから、あなたにこれを言う事のみに留めておきます、愛するルドヴィシュ、あなたを幸福にするために必要なものの全てが叶う事をお祈りします。一方、私については、あなたが私の事を忘れないために、時折にでも私を思い出してもらえる事を書きます。愛するルドヴィシュ、信じないかも知れないけれど、あなたから長い間知らせをもらっていない事が私にとってどんなに悲しい事か。お便りがない事で、あなたが、いつもあなたを愛していて、愛する事を忘れないエミリアの事を忘れ去っているのではないかと想像してさえいます。あるいは、(私の事を)拒否しているのではないだろうかとまで考えてしまう...

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

この手紙には日付が記されていないが、「お祝いのご挨拶」と言う記述から察するに、どうやら相手の命名日か誕生日のために書いた手紙だと思われる。それがいつなのかは不明だが、この時ルドヴィカ・リンデは、例年ならワルシャワにいる時期であるはずなのに、先の182472日」付の手紙の時と同様、またしても田舎に行ってしまっていたようである。

上記の2通は書き出し部分の最初のページしかないので、エミリアが本文で何を書いているのかについては、残念ながら分からない。しかしながら、こうやって相手が手紙をくれない事に対して拗ねるように抗議する様は、兄フレデリックが親友ビアウォブウォツキに対してするのとよく似ている。

 

次に紹介する1通は、その全文が直筆で写真掲載されており、非常に興味深いものである。

また、この手紙には、最後にイザベラが短いメッセージを書き添えている。

 

■エミリア・ショパンとイザベラ・ショパンから、

ルドヴィカ・リンデへ18257月)

(※原文はポーランド語)

愛するルドヴィシュ!

なぜあなたからこれほど長く手紙をもらっていないのか、その理由が何なのか分かりません。私の事を忘れたのでしょうか? それとも、あなたが頻繁に中庭に出て行かれる時、帽子を被っていないから、お日様が記憶を無くさせたのでしょうか。そうであれば、愛するルドヴィシュ、私への友情のために、帽子無しで外に出ないようにお願いします。今、あなたが少しでも私を覚えていてくれるなら、愛するお父さんに手紙を書くと約束をなされたを思い出して下さい。あなたが何をしているかを訊ねる必要はないでしょう。あなたが勉強に専念されていると想像しています。それに、(誰か複数の人達が)叔母さんのために作っている縫い物(織物)の仕事をもう終えるでしょう。一方、私に関しては、日頃している事について何も書くものがありません。――すでにあなたがよくご存知のように、もう一つの事、それはどこにも出掛けない事です。でも、夕刻に内庭へ散歩に出る事だけはしています。しかし、この喜びも近々終わってしまうかもしれません。なぜなら、いくつかの家族に対して、この借家から転出せよとの指令が出ているからです。そして、私達にも同じような指令が出る順番が廻って来るやに聞かされています。愛するルドヴィシュ! まだ何もはっきりしてはいませんが、もしそのような事になれば、悲しい事ですが、今までのように頻繁にお会いする事ができなくなるでしょう。そのような事態にならないように願っています。

お許しを願う事があります。それは、まだアルバムに何も書き入れをしていない事です。それは私の頭が小さくて悪いからでしょう。でも、やめはしません。何とかして、少しでも文章を書いてみたいと思っています、そして、次の手紙をお届けする事もできればと。私の(愛する)ルドヴィシュ、この火曜日に(行く事になっているので...):[読み取り不能]、その時に愛するアンジ(※アンナの略称)に兄弟達からの、そして私の母からのお祝いの言葉を伝えて下さい。母は(彼女を)強く抱きたいと...

心からあなたのご健康を祈ります。あなたに、私のをお忘れにならないようお願いしながら、今日はこれで書くのを終わります。

E.ショパン

 

追伸:(あなたの)お母様へ、スカルベク夫人に、エミリアお嬢さんへ、[読み取り不能]、抱きしめるを忘れないで下さい...宣誓して...[読み取り不能]。

 

(※以下、イザベラからのメッセージ)

愛するルドレンコ、見たところ、あなたは記憶を無くしたのでないですか、ワルシャワから出立されたと同時に、約束された事をお忘れになったのでは。あなたがその事を思い出して頂けない限り、私もあなたに書きません!

あなたを本当に心から

愛している友人

I.ショパン」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

       この手紙は、1枚の紙を2つ折にしたものを、その両面を使って4ページにしてある。エミリアとイザベラの筆跡の違いがはっきりと分かる。

 

冒頭の、「ジョークを交えて相手をからかいながら罵る」と言うような書き方は、まるで兄フレデリックそのものである。

たとえば、他の姉妹達に関して言えば、イザベラにしろルドヴィカにしろ、ショパンがパリに移住してから彼宛に書いた手紙がいくつもあるが、その中で彼女達がジョークの類を書いているのを見た例がない。

1826年にジヴニーがライネルツのショパン達宛に書いた手紙の中で、ジヴニーは唯一エミリアにだけジョークを交えて書いていたが、はやり、ショパン家の子供達の中にあって、特にフレデリックとエミリアの2人はユーモア感覚に優れており、ジョークの類が好きだった事が分かる。

それはそうと、どうでもいいがこのルドヴィカ・リンデと言う人は、校長の娘の癖にめちゃめちゃ筆不精のようだ…。

 

「内庭へ散歩に出る」と書かれているが、この「内庭」とは、ショパンもビアウォブウォツキ宛の手紙の中でしばしば庭園、僕の植物園」として触れていたものである。

これは、1826515日]付の「ビアウォブウォツキ書簡・第9便」で、「宮殿管理委員会が命令してそれを綺麗に手入れさせた」と書かれており、このエミリアの手紙が18257月)に書かれものであるなら、それはまだ「手入れ」する前の状態だった事になる。つまり、ショパンの言葉を借りるなら、まだ「春が近付くとおいしくかじっていたニンジン」も、「サンドイッチも、木陰の休息所も、サラダも、キャベツも」あり、その代わり「悪臭も」あった頃の、古き良き「内庭」である。

 

もう一つこの手紙の中で興味深いのは、「この借家から転出せよとの指令」についてのくだりである。

これはつまり、この当時ショパン家が暮らしていた「カジミエシュ宮」から出て行けと言う事なのだが、これについては、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカが以下のように書いている。

 

「少女(※エミリア)の葬儀が済んで間もなく、ショパン一家はカジミエシュ宮そばの建物から引っ越した。大学が新しく部屋を必要とし、一家もまた、エミリアの悲劇が起こり、辛い思い出をよびさます場所から逃れたいと願ったのである。転居先はごく近所で、クラコフスキェ・プシュドミェシチェ通りを挟んだほぼ向かい側、聖十字架教会の隣、現在、美術大学が占有するチャプスキ宮(当時はクラスンスキ伯爵一族所有)の南別棟であった。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

要するに、「大学が新しく部屋を必要とし」ていたので、アパートの住民に部屋を明け渡すよう「指令」が出ていたらしい。

それについては、エミリアが「私達にも同じような指令が出る順番が廻って来るやに聞かされています」と書いているのだから、と言う事は、この時のショパン家の引っ越しについては、多くのショパン伝で「辛い思い出をよびさます場所から逃れたいと願った」みたいな書かれ方をしているが、実際は、「エミリアの悲劇」が起ころうが起こるまいが、どっちみちショパン家には選択の余地などなかったと言う事なのである。

       ちなみに、いくつかの伝記で、エミリアの死後、母ユスティナが悲しみのあまり「一生喪に服した」と書かれているのをしばしば見かける。しかしながら、そのユスティナに関して言えば、現在彼女の肖像画は2種類が知られているが、確かにそのうちの1つは黒っぽい服を着ているようだが(※ただし白い頭巾を被っている)、もう1つは白っぽい服を着ているので(※こちらも白い頭巾を被っている)、「一生喪に服した」と言うような事実などなかったはずである。

1.       黒っぽい服の方は、アンブロジィ・ミロシュフスキによって1829年に描かれた油絵。これはエミリアの死から2年後である。

2.       白っぽい服の方も同じ作者によるスケッチ。こちらは制作年が不明だが、一緒に描かれているニコラの髪が、やはり同じ作者によって1829年に描かれたニコラの肖像画よりも、若干白髪が多いようにも見える。

それに、そんな事をすれば、いつまで経っても家の中が暗いままになりかねないし、仮に「辛い思い出をよびさます場所から逃れたいと願った」のであれば、それでは完全にそれとは矛盾した行為になってしまうだろう。それは他でもない、天国のエミリアが最も望んでいないはずの事であり、それぐらいの事が分からない人々ではないはずである。

 

また、エミリアはこの手紙の中で、、「まだアルバムに何も書き入れをしていない」と書いているが、その「アルバム」と言うのは、実はルドヴィカ・リンデから手渡されていたものなのである。エミリアはその「アルバム」に詩篇を「書き入れ」ては、ルドヴィカ・リンデに見せるために返却し、ルドヴィカ・リンデはそれを読んでは、またエミリアに詩を書いてもらうために手渡す、と言う事を繰り返していたらしい。

そのやり取りからは、ルドヴィカ・リンデが、それほどエミリアの詩を愛しており、誰よりも彼女の才能を高く評価していた様子が浮かび上がってくる。

私は現在のところ、まだそれらの詩篇をすべて読む事ができないでいるので、非常に残念ではあるが、その一部はすでにいくつかのショパン伝で紹介されている。

 

 

次は、エミリアがその「アルバム」「書き入れ」た詩。

これについては、以下の著書の翻訳が優れていると思われるので、そこから引用させて頂きたい。

 

「エミリアはその若さで戯曲や詩をポーランド語やフランス語で書いていて、ショパン家の二人目の神童として通っていた。その早熟の才を示す詩篇は、死の直前まで書きつづけられている。すでに病魔に見舞われた状態で、リンデ家の一人のアルバムにはこんなフランス語の詩も書き残している――

 

死ぬことは私の天命

死は少しも怖くはないけれど

怖いのは貴方の

記憶の中で死んでしまうこと

 

彼女の最後の作品群のなかには、こんな哲学的な一節もある――

 

この地上、人の定めの何と悲しいこと

苦しんで、また隣人の苦しみを増すなどは!」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

ショパンが前回のビアウォブウォツキ宛の手紙で、僕たちの家で何が起こっているか、君の想像に任せる。僕には説明する事ができないので、想像してくれたまえと書いてほのめかすしか出来なかった事を、当のエミリア本人は、このようにはっきりと自覚し、それを受け止め、さらにその思いを詩の中に昇華させてまでいたのである。

 

 

ただし、ここで「彼女の最後の作品群のなかには、こんな哲学的な一節もある」として紹介されているものは、実際はエミリアの「作品」ではなく、彼女が病床で、自分を看病してくれていた母に語った言葉なのである。

それを証言しているのは、フレデリック・ショパンの代父(ゴッドファーザー、名親)であるフレデリック・スカルベクで、彼は、エミリアが1827410日」に亡くなったのを受けて、翌月51日」に発行された雑誌『子供のための娯楽』に、エミリアの死亡告示の弔辞を寄稿しており、その中でそのエピソードを始めとした様々な話を伝えている。

この雑誌の編集・発行者であるクレメンティナ・タンスカは、そのスカルベクの弔辞を紹介するにあたって、それを掲載した経緯について次のように説明している。

 

クレメンティナ・タンスカによる、『子供のための娯楽(ROZRYWKA DLA DZIECI)』に掲載されたエミリア・ショパンの死亡告示の註釈

この雑誌の紙面で、生命溢れる元気な子供達についての愉快な逸話が、死亡告知に場所を譲らなければならなくなったのはこれでもう4回目です。この差し替えは発行者の心を痛めるものではありますが、しかし死は必ずしも老年になってから訪れる訳ではないと言う、天の摂理による判決が犠牲を要求するこの世で、年端もいかない人の灯火が消えてしまい、朝に咲いた花が萎むが如く、この地上から去って行った事に対して、残された子供達の心に記憶させるためのお悔やみ述べる事ができるのは、私にとってはささやかな喜びでもあります。ですから、私の手元に送付されて来たこの弔辞をここに掲載します。可愛らしいエミリア・ショパンを知る者として、彼女への感謝を含めて、心からご家族、並びに友人・知人の皆さんと共に悲しみを分け合いましょう。」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、これの本文であるスカルベクの弔辞は、最初の部分しか掲載されていない。なのでこれに関しては、ヘシック著『ショパン:生涯と作品 第1巻』にその全文が引用されていたので、そこからそれを紹介させて頂きたいと思う。

       エミリアの才能の一端をよりよく理解していただくために、彼女の書いた韻文について、私なりに訳文を工夫してみた。各行ごとに下線を施した箇所が、ポーランド語原文では語尾の単語に相当しており、その(ポーランド語の単語と語尾の韻部分(…で書き出しておいた。

 

フレデリック・スカルベクによる、エミリア・ショパンの死亡告示

エミリア・ショパン

希望を抱いた少女の年頃;その生命の将来。その生命の将来は、陽気に溢れ、想像逞しく、幸福を掴み取る可能性を含み、さらには、どこにあっても、喜びと楽しさに浸っていた。しかし、この世でその将来を見届ける事なく終わってしまった。幸福な理想が、人生の最後まで行き着く前に埋まってしまった。それは、あたかも緑の草地の中にある、墓の花が枯れてしまうがごとく。ああ、何と悲しい事であろうか、死と言う仕打ちが、希望ある命を絶つのを目の前にすると言うのは! 自分に与えられた世界を、ようやくこれから知ろうとしていたのに、その時期を今まさに迎えようとしていた少女とお別れするのは、何と言う悲壮な事であろうか! 家族にとって、国にとって、それが成熟する見込みを得たばかりの人を失うのは、いかに苦痛な事であろうか!


功労多いワルシャワ高等中学校の教授の14歳の娘であった、エミリア・ショパンが若年で亡くなられた事による悲しみは、先日来から、ご親族や友人・知人の間に広まった。ご両親やご兄弟・姉妹にとって、彼らの心の中に記憶として残り、長く癒しきれない悲しみとなろう。しかしながら、ご家族の友人の一人として、この若い少女が将来、我々の文学分野において、どのような活躍をされたであろうかと思いを馳せる事をお許し願いたい。この雑誌の紙面で楽しみを期待されている読者諸君! 諸君の年頃に見合った諸君の軽率な考えでは、悲しい事を避けたいとの意向を持ちたいであろうし、嫌悪感を覚える事から逃避したいと望むであろうが、是非とも、諸君と同年輩の少女に心温かい追想を捧げるようお願いしたい。この死亡告知が、あなた方の勉学に対する高度な励みの糧になるよう願う!

余りにも早い、余りにも体がひ弱かったとは言え、頭脳の働きが高度に成熟していたエミリア・ショパンは、近く知り合いとなる事ができた周り人々の誰にでも注意を引いた。彼女の鋭い観察力は、勉学に打ち込む意欲と共に、知識を獲得する事を助けた。それは、すでに14歳の少女が、すでに教育を終わってしまったかのように、同年輩の少女達の多くに勝るほどまでに、将来の個性の形成に役立つものであったろう。生まれつき陽気で、ユーモア好きな性格が、日常の生活面で彼女の取った行動がいつも適切であった事を証明していた。家庭内で何らかの悲しみがあった際には、その悲しみを彼女の冗談で蹴散らし、皆を愉快にさせた。

若者達のために執筆しているポーランド人女性作家の意気込みと仕事に共感して、別の異なった分野では巧くいかないケースがあったかも知れないが、将来、この分野で仕事をする事を自分の人生の最大の目的としていた。殊に作詩において、文末に語呂を合わせる事が得意であった。死病と激しく闘っていた寝床で横になっていても、この彼女のタレントはその力を発揮した。医者は、彼女が食事の時にワインを飲みたいと言う希望を許さなかったが、彼女はその医者に、弱々しい声ながら笑顔でこう答えた:

 

 ワインを私にくれないなら(winka)、

顔色が悪くなりますよ(minka)。”

 

長期間、悪性の発熱と闘いながらも、彼女を見守る愛する母に対して、こう語りかけた:

 

“この世の、人の運命とは悲しいもの(przeznaczenie

私が苦しめば、それが更にあなたの苦しみとなるなんて!(cierpienie)”

 

毎年の両親の命名日に、子供たちはみな、彼らの手仕事の成果を両親に捧げていた:エミリアは、その状況に合わせて、胸から湧き出て来る文章を書いていたが、それは皆の心に訴えた。亡くなる2年前に、彼女は父宛に以下のような詩を書いた:

 

愛するお父様、私達は、今日はどのようなお祝いの言葉を書けば良いのでしょうか?(mamy?)

毎年この時期に繰り返しているものでも良いのでしょうか(powtarzamy)。

 

感謝の気持ちと知識が、年と共に私達に増えて来ました(poznanie)、

しかし、愛だけは変化する事なく、永遠にそのままです(zostanie)。

 

いたずらに頑張って表現しても致したかありません(próżne)。

全能の神の慈悲のスケールは大きいróżne);

 

神は不幸な孤児達を見捨てる事なく、助け給うwspiera)、

落胆した子供達を元気づけ、流れた涙を拭い給うociera)、

 

だから覗き給うのでしょう、あなたの子供達の胸の内を(dzieci)、

そして小さな希望の灯火が輝き(zaświeci)、

 

健康と、安らぎと、自身の繁栄とを(samą

我らと、愛しきと共に、分け合い給う(Mamą)。

 

一年後、彼女は父親のために、前面で縛る帯の付いた長袖の室内着を縫い上げ、ユーモラスな詩を付けて、贈り物にした:

 

たぶん他の皆があなたにお祝いの言葉を述べているのに(może)、

一番下の子である私が黙って済ませる事ができますか? ああ、神様お守り下さい!(Boże!)

 

あなたにお祝いの言葉を捧げるのに時間を使えないようでは(chwili)、

それではエミリはあなたの娘に値しないでしょう!(Emili!)

 

もしからしたら、彼女の思いやりが小さいとでも見ておられるのでしょうか(czuła

それとも、彼女が怠惰で壊れているとでも思っておられますか(popsuła)...

 

そうではないです、私は前々から詩を書くのが良いと考えていましたmyślę)、

そして、皆に隠れて、鉛筆で祝辞を書きましたkreślę):

 

ですから、私からの記念として受け取って下さい(pamięci)、

最も深く気持を込めた贈り物として覚えていて下さい(chęci):

 

冬がもうそこまで近付いています(blisko)、

毛織物の室内着を縫いましたので、それをあなたに捧げます(kaftanisko)。

 

このような若い年代の者に、それほど適切な内容の作品を要求するのは無理だろう。しかし、生まれながらに持っていたエミリア・ショパンのタレントは、あらゆる機会に証明されていた。彼女の語呂合わせの技能が成熟した暁には、どうなっていたかは神のみぞ知ると言えるのではないだろうか?

亡くなる前の1年間、彼女は更に大きな仕事を手掛けた。それはポーランド語を使って生活をより良くする事であった。子供達に評判の良かった、ザルツマンが書いた古いドイツ語の長い小説があった。これは家庭内での生活や事件を描写したもので、読者である子供達の興味の対象となるものであり、また家庭内での生活におけるあらゆる躾けを促すものであった。この作品にポーランドの習慣を取り入れて、ポーランドの子供達が読み易くするための編集が必要であった。エミリアは、彼女の姉妹の内の一人と共同でこの仕事に取り掛かり、その作業はかなり進行していた。この共同編集者の姉が仕事を完成させ、悔やんでも悔やみきれない妹のメモリーとして公表して欲しいものである。

F.S.

フェルディナンド・ヘシック著『ショパン:生涯と作品 第1巻』

Ferdynannd Hoesick/Chopin : Zicie i twórcość I/III VolsWarsaw 1911)より

 

       本稿でニコラ・ショパンのフランス出国について検証した時、そこで、このスカルベクの書いた『回想録』を紹介したのを覚えておられるだろうか? その時私は、その中に書かれていたニコラ・ショパンに関する記述について、ここには、「当事者しか知り得ない、個人的かつ具体的なエピソード」が一つも書かれていないとコメントし、したがってこの箇所は、スカルベクの死後、何者かが加筆改ざんした可能性が高いのではないか?と指摘した。あの『回想録』は、どう言う訳かスカルベクの死後12年も経ってから出版されていたが、この『エミリア・ショパンの死亡告示』は、もちろんスカルベクが生前にリアルタイムで自ら発表したものであり、したがって、疑う余地なく、一字一句彼本人が書いたものだ。そしてここには、明らかに、「当事者しか知り得ない、個人的かつ具体的なエピソード」がいくつも書かれているのが、誰の目にもはっきりと分かるだろう。これと比べてみれば、あの『回想録』におけるニコラに関する記述が、いかに取って付けたようで不自然極まりないか、そして、いかに有名な文学者の文章として拙いか、と言うのが、よくお分かり頂けたのではないだろうか

       また、私は本稿の序章で、カラソフスキーがショパン家の姉妹達について書いていた箇所について、エミリアに関する記述がもっとも詳しく書かれている事に対して奇異な印象を抱いたと書いたが、何の事はない、実はカラソフスキーは、このスカルベクの文章を流用していただけだったのである。

 

この中で私がちょっと気になったのは、「別の異なった分野では巧くいかないケースがあったかも知れないが」スカルベクが書いている事だ。

これはおそらく、エミリアの兄と姉達がみんなピアノが上手に弾けたのに、彼女一人だけがピアノが上達せずに、それで早々に挫折してしまっていた事を意味しているのではないだろうか? そしてそれに反比例するかのように、彼女の興味の対象が完全に文学の方へ向かっていったのではないかと思われるのである。前にも書いたが、ショパン家の子供達の中で、唯一エミリアだけが、ピアノを弾いたと言う事を伝える資料や証言がどこにもないからである。

 

なお、エミリアが手掛けた「ザルツマン」の翻訳・翻案に関しては、ミスウァコフスキらが以下のような後日談を紹介している。

 

「彼女の人生の最後の年には、エミリアはもっと真面目な取り組みにも着手し、姉ルドヴィカを手伝って、ドイツのクリスティアン・ゴットヒルフ・ザルツマンChristian Gotthilf Salzmann 17441811が子供のために著した教育的な小説の翻訳と翻案をした。その結果は、「ルドヴィクとエミルカ」というタイトルで、1828年に匿名で発表されたF.スカルベクとK.エシュトライヒャーは、このポーランド語の翻案をルドヴィカとエミリアの共作であると考えているが、カジミエシュ・W.ヴィチツキとM.カラソフスキーはエミリアとイザベラであるとし、その一方では、A.ヂェルズビツカ(ポーランド人名辞典)はルドヴィカとイザベラであるとしている。」

ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「エミリア・ショパン」に関する記事

Piotr Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy Instytut Fryderyka Chopina』より

      ちなみに、この件に関して「カラソフスキー」の意見(1862年)には何の効力もない。なぜなら、彼は「ヴィチツキ」の著書(1856年)に書かれていた事をそのまま流用したに過ぎず、自分では原資料にあたってなどいないからだ。その事実は両者の記述を読み比べれば歴然と分かる。

 

その「ヴィチツキ」の著書と言うのは、カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴィチツキ(Kazimierz Władysław Wójcicki)著『ワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地』と言う本で、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』にその資料の最初の部分が掲載されている。

 

カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴイチッツキによる、エミリア・ショパンに関する追想の一部

エミリア・ショパン

“芳紀14歳の春に、若い命が花のように萎んでしまった。その可憐な花は希望を咲かせていた。1827410日。” (※エミリアの墓石に刻まれた文句)

(墓には砂岩の横型墓石が築かれている)。

 

神の摂理が、選ばれた人たちの天才的な、あるいはタレント的な魂を崇高に育み、殆どの場合、ひ弱な、壊れ安い肉体を与え、その命はいかにも短い期間地上での旅をなすがごとくである。音楽の世界で有名なフリデリック・ショパンの妹、その無垢な乙女の墓は我々の注意を引く。彼女は小さい時から英知、思考の深さ、学問に対する貪欲なまでの求心性でもって周りの人々を驚かせていた。すでに13歳の時には、彼女が受けた教育の成果は、多くの同年齢の少女達より勝っていた。

彼女は明るく、ユーモアに溢れ、日頃の生活において注意深く、彼女の意見は適切なものであった。家族の心の中にのしかかった悲しみがあった場合は、彼女はユーモアでその悲しみを追い散らし、皆を楽しくさせていた。家族の誰か、両親、年上の二人の姉たち、あるいはフリデリックが外出できない時は、彼女がメッセンジャーとなって送り出され、ユーモアとその顔の表現でもって与えられた任務を果たしていた。勤勉で、同年輩の少女たちのレベルを超える程の知識を獲得していた。難しい仕事にも喜んで立ち向かっていた。1825年、11歳の時、当時有名であったイグナチ・フムニッツキ(Ignacy Humnicki)の悲劇“エディップ(Edyp)”の全文を写筆した。

クレメンティナ・タンスカ(Klementyna Tańska)の作品が彼女のまだ子供心に熱意と発想心を呼び起こして、少々違った方向かも知れないが、文学者になることを人生の目的としていた。作詩することが非常に得意で、その訓練を継続的に続ける事をもって、この部門でかなりの成功を収めていた。自身の性格と、兄であったフリデリックのタレントを併せ持っており、絶えず兄から協力と励ましを得ていた。」

 

カジミエシュ・ヴワディスワフ・ヴィチツキ(Kazimierz Władysław Wójcicki)著『ワルシャワ近郊のポヴォンスコフスキ墓地』(出版地 ワルシャワ、1856、第2巻、1621頁、ワルシャワ国立図書館所蔵、未発表の資料)より」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

       この本で、「ポヴォンスコフスキ墓地」「ワルシャワ近郊」と記載されているのは19世紀半ば当時の区画で、現在はワルシャワ中央区の北側に隣接する“ヴォラ区”の中にあると言う事である。

 

後で調べて分かったのだが、実はこの本は、非常に興味深いと言うか、非常に重要な本で、現在ショパンの少年時代について語り継がれているエピソードのほとんどが、実はこの本を典拠にしていたのである。

この本は元々、このヴィチツキと言う著者が、「ロシア帝国に占領されていた時代のポーランド民族独立精神を啓蒙する」事を目的に、「ポヴォンスコフスキ墓地」に埋葬されている人々についての追想を列挙したものなのであるが、そこにエミリア・ショパンも眠っていると言う事で、彼女の項目が設けられており、そこで、かなり具体的に当時未発表の原資料を引用しているのである。

エミリア個人に関する記述は、ほぼ、上記の『フレデリック・スカルベクによる、エミリア・ショパンの死亡告示』そのまま引用して加筆したに過ぎないが、それ以外の、フレデリック・ショパン個人に関する記述と、フレデリックとエミリアが共同で行なった演劇活動に関する記述は、どうやらヴィチツキがショパン家の遺族から資料を借り受けていたらしく、それらを紹介しながら様々なエピソードについて触れている。

       この本が出版された1856年と言うのは、長女ルドヴィカが亡くなった1855年(享年48歳)の翌年にあたり、その時、母ユスティナ(当時74歳)と次女イザベラ(当時45歳)のみが存命中であった。

それをざっと箇条書きにすると、次のようになる。

1.       現在、抜粋でしか知られていない『シャファルニャ通信 1824819日号』『シャファルニャ通信 1824824日号』を、「今筆者の目の前に“通信”が二部ある」と言う断りの下に抜粋して紹介している。

2.       ショパンとエミリアが父の命名日のお祝いのために二人で書いた寸劇(韻を踏んだコメディ)『間違い、または誤解を呼び起こした道化師』のシナリオも、手書きの原本は今筆者の目の前にある」と言う断りの下に抜粋して紹介されている。

3.       ショパンがコンスタンチン公のヴベルヴェデール宮殿に招待されて御前演奏した際、“上を向きながら何を眺めているのだ! 楽譜を読んでいるのか?”と尋ねられたと言うエピソード。

4.       ショパンが学校の授業中に先生の似顔絵を描いていて、それがリンデ校長に見つかるも、“このノートは良く描けている。”と言われたと言うエピソード。

5.       「家族の手元に残っているフリデリックのその他の紙片の中に、この時期の彼の文章がある」として、ショパンが14歳当時に書いたと言う試作の詩を抜粋し紹介している。

       これは今まで、後のどのショパン伝でも引用されておらず、私はここで初めて目にしたのだが、けっこう長い割に今一つ面白みに欠け、やはり彼には創作文学の才能がないと思わせるようなものだ。おそらく、誰も引用しないのはそのせいなのだろう。いずれ折を見て本稿でも紹介しよう。

6.       1828年に、ショパンがプルシャコヴァ夫人の家庭劇場」「ドゥムシェフスキの喜劇」を主演した際、本番中に台詞を忘れてしまうが、見事な即興で乗り切って場を沸かせたと言うエピソード。

7.       「当時有名なフランスの演劇俳優エルヴェ」がワルシャワを訪れた際に、ショパンの演じる家庭演劇を観て、その演技の才能を絶賛したと言うエピソード。

8.       ショパンとエミリアが共同で書いた喜劇で、ショパンが“狸腹の町長”を演じて爆笑を誘った時のエピソード。

9.       ショパンが悪戯で「ユダヤ商人の名前で契約解除を宣言する手紙」を偽造し、シャファルニア村の地主の隣人でオブロヴォに住むルモツキ氏を激怒させたと言うエピソード。

10.    ドイツ人の「福音教団の牧師テッツナー」がポーランド語を上手く話せなかったのを面白がって、ショパンが彼のモノマネをしてみんなを笑わせたと言うエピソード。

11.    最後はショパンのパリ時代のエピソードで、彼を訪ねて来たノヴァコフスキが、リストとピクシスを紹介して欲しいと言った時、ショパンがピクシスのモノマネをして見せ、後にノヴァコフスキが本物のピクシスに会った時、それをショパンが化けていると思い込んでしまったと言うエピソード。

 

カラソフスキーは、自分のショパン伝の中で、これらのエピソードをほとんどそのまま流用しておきながら、その中のたった一つしかヴィチツキからの引用だと註釈しておらず、それ以外はすべて、さも自分が取材して来たかのような口振りで書いていたのである。実際、カラソフスキーの著書でこれらと重複している箇所は、ヴィチツキの本に書かれている以上の情報は何一つとして提供してくれてはおらず、その事実こそが、カラソフスキーが、これらのエピソードもその原資料も、彼が自分で直接イザベラから取材して得たものではない事を裏付けている。

       今回この資料を入手した事によって、本稿においては、取り急ぎ、『シャファルニャ通信』『第2号▼』『第3号▼』の項を全面的に改訂する必要に迫られた。なので、そちらについてはこのあと書き直す予定でいる

       【追記】 その件に関しましては、201124日に「改訂稿」と差し替えさせて頂きました。

 

 

また、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、当時を知る関係者による以下のような資料も掲載されている。

今回は、この資料を最後に紹介して終わりにしたい。

 

エヅゲニウシュ・スクロツキ(号名:ヴィェリスワフ)による、エミリア・ショパンに関する回想の一部

ヴィェリスワフの執筆による、ショパンに関する私の若かった時代の幾つかの回想         

 

「...彼女は彼女の日ごろから好きであった小さな庭と洞窟を見る予定であった。

どのような季節であったろうか、確か春先の頃、白い木材による棺の蓋が、その上に乙女に捧げる事が決められた花束(丸い形の造花)を乗せて、家の張り出した玄関前にあった。棺の中で、我々のエミリアはいかにも眠っているかのようであった。赤みがかった頬、甘い微笑み、優しさを表す音色などが、彼女の痩せた、色白の顔面を飾っていた。我々子供達はうろたえた表情をして、彼女に何が起こったのか分からないでいた。彼女が昏睡状態から目覚める事を信じて疑わなかった。霊柩馬車が到着し、黒いマントを着たミッション会の代表であるローマ・カトリックの神父が、ビレッタ(聖職者の四角い帽子)を頭に被せ、葬式に歌う悲しい賛美歌を歌うための音頭を取り、家の前から葬列が行進し始めると、両親と兄・姉達の泣き声、呻き声が聞こえてきて、その時、我々には、エミリアとの最期のお別れの時が来たと理解できた。こんなに早く萎んでしまった花、14歳の春に。」

 

『ブルシュチュ』(季刊誌“ツタ”の第32巻、1882728日(89日)発行、発行地:ワルシャワ、在ワルシャワ国立図書館、未発表の資料)より

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

 

 [2011年1月30日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証6-5.1828年春、そしてビアウォブウォツキもいなくなった

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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