検証6:看過された「真実の友情物語」・後編―

Inspection VI: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked (Part 2) -

 


5.1828年春、そしてビアウォブウォツキもいなくなった――

  5. In spring 1828, and Białobłocki died, too -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 フーガ イ短調 遺作▼≫
 

今回は、エミリアが亡くなったあとに書かれた1827年のショパン関連の書簡資料を全て紹介したい。それは現在、以下の3つが確認されている。

 

1.       夏にショパンがコヴァレヴォから家族へ宛てた手紙(※ここには、この滞在中に少なくとももう1通家族宛に出していた事が書かれているが、そちらの手紙は現在確認されていない)。

2.       冬にショパンがマトゥシンスキへ送った短い伝言。

3.       年末にビアウォブウォツキが継父ヴィブラニェツキへ宛てた手紙。

 

3つ目はショパンが書いた手紙ではないが、これらの3つが1827年春以降のショパンに関する書簡資料の全てで、いずれも、きちんと原物が確認されている確かなものばかりである。

さらに、この中ではマトゥシンスキ宛のものが正規の郵便物ではなく、ほんの数行の簡単な伝言(メッセージ)である。なので、ショパンはエミリアが亡くなってからと言うもの、夏に家族宛に手紙を書いた以外は、翌18289月の「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」まで、実質的にはどの友人知人にも手紙を書いていないに等しい事になる。

もちろんそれは、単に現在確認されている手紙がそれしかないだけだとも言えるのだが、私は、実際にショパンが1827年中に書いた手紙は、1月と3月の「ビアウォブウォツキ書簡」2通を含めてこれが全てだったろうと考えている。

なぜなら、すでに何度も書いてきた通り、ショパンは自分が遠出するか、もしくは友人が遠出するかして相手から手紙をもらわない限り、決して自分からは手紙を書かず、返事としての手紙しか出さないからである。したがって、当時そのような条件を満たす友人がいなかったと言う状況から、この時のショパンには手紙を書く理由も機会もなかった事になる。

 

 

それでは、それら3つを順に見ていこう。

まずはコヴァレヴォからの「家族書簡」。

エミリアが生前にルドヴィカ・リンデ宛の手紙の中で危惧していたように、ついにショパン家にも「この借家から転出せよとの指令」が下り、彼らは引っ越しを余儀なくされた。それは、エミリアが亡くなってからしばらくが過ぎた頃だった。

 

「引っ越しの間、フリデリックはワルシャワにいなかった。今ほど休暇が必要なときはないということで、田舎に送られたのだった。プウォツクの町[ワルシャワの東北東一一〇`]に近い、ズボインスキ伯爵家(ジェヴァノフスキ一族の親類)の領地、コヴァレヴォという場所で、田園の空気を吸い、自然に親しんで、辛い経験から立ち直り、弱りきった力を回復しようとしていた。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

この「ズボインスキ伯爵」と言うのは、前回も書いた通り、亡くなったエミリアの代父(名親、ゴッドファーザー)だった人である。

今までこの人物の名がショパンの手紙に登場する事はなかったが、おそらく、エミリアに悲劇が起きた時には、この伯爵も相当に気を落とした事だろう。なので、もしかすると、エミリアの葬儀の際に何かきっかけがあって、今回ショパンが「ズボインスキ伯爵」の邸へ招かれる事になったのかもしれない。

以下が、その「コヴァレヴォ」から、ショパンが家族へ宛てた手紙である。

 

■コヴァレヴォのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(1827年夏)■

(※原文はポーランド語)

「コヴァレヴォ 金曜日

僕の最愛の両親、そして貴女方、親愛なる姉妹達!

あれ以来ずっと、僕の健康は忠実な犬と同じくらい良く、そして、ズボインスキさんの黄色の目は弱まっています[※?非文法的なフレーズ]、そして、僕達はプウォツクに向けて出発するところなので、僕がそれをあなた方に書かないならば、僕の事をおかしいと思われる事でしょう。

今日は、これから、プウォツクへ、明日はロシシェウへ、明後日はキコールへ、トゥジノで23日、コズウォーヴォで23日、ちょっとグダンスク[ダンツィヒ]に立ち寄って、そして家へ。おそらく誰かが言うでしょう:――“彼がそんな事を話すのも、家に帰ろうと急いでいるからだ”と。いいえ、少しもそんな事は。閣下諸君、それはまったくもって誤りであります。僕はただ楽しい感情を刺激するために、普通に挨拶を演出しようとそう書いたのです。誰がホームシックですって? 全くそんな事はありませんよ;それはおそらく他の誰かさんで、僕ではありません――それはそうと、ワルシャワからの手紙が少しもありません;僕達が今日プウォツクに着く時、僕は僕宛の手紙が来ているかどうか見るために、全部の郵便物をひっくり返す事でしょう。あの新しい部屋の中はどんな具合ですか?[※ショパンの仕事部屋として屋根裏が新しく改築されていた。後にティトゥス宛の手紙の中で詳しく語られる] 彼らは試験のために、彼ら自身をどのように厳しく尋問していますか? ティトゥス(※ティトゥス・ヴォイチェホフスキ)は田舎に行きたがっていますか? プルシャック[※コンスタンチン・プルシャック、ショパンの同級生]もまさに同じですか? スカルベクさんは、僕が彼と一緒に田舎に行く事になっていた、あの31日のディナーの事を、どのように進めていましたか? 僕は、すべての事について、老婦人と同じくらい詮索好きです。しかし僕にどうする事ができますか? あなた方が犬に肉[※すなわち彼の親からのメッセージ]を与えないならば、犬は断食しなければなりません、そして、食べ物を探すためにあちこち走り回る以外、他に何をする事ができますか? それで僕は、肉を願ってプウォツクへ向かっています;夏になってからの最後の手紙が、あなた方に届いていないように思われます――なので今僕は、再び手紙がもらえるまで長い間かかるだろうと思っていますが、心配はしていません;僕がどこにいるのかを知るのは難しいでしょう、しかし僕は、行く先々で定期的に手紙を書いて、その都度宛先をあなた方に知らせるようにします。しかしズボインスキさんによれば、あなた方はトルン、スフヴェッツ 、コズウォーヴォ宛に書くといいでしょう、そうすれば、僕達はそこで手紙が到着しているのを発見するでしょう。それは良い考えです;僕は、それが採用される事を望みます(イザベラのために)。[※イザベラは次女でショパンの妹]

僕はあなた方に手紙の束を送りたかったです、姉妹達よ、しかし、僕には書く時間がありません、僕達はちょうど出発するところです。それは朝の8時です、なのに、僕達は決して7時前に起きません。空気は素晴らしいです、太陽は美しく輝いています、鳥はさえずっています。小川はありませんが、さざ波の音がします、池があるのです、そして、カエルは楽しそうに鳴いています! しかし、その全ての中でも更に最高のものは、我々の窓の下でありとあらゆる妙技を演じているクロツグミです。そして、クロツグミに続くのは、ズボインスキさんの最も若い子供カミラです。その子はまだ2才にも満たない。彼女は僕が気に入ったらしいのですが、舌が回らないのです;“カギラは、ウ〜…が好きです”と。そして僕は[※彼女を真似て]ウ〜…が好きです、パパ、ママ、そしてママとパパに10億回。そして、僕はあなた方の手にキスします。

愛情をこめて、F.ショパン。

僕の姉妹達のためにキス、キス、キスです。

ティトゥス、プルシ[ャック]、バルトフ(※詳細不明)、イエンド[ジェイェヴィツ]、皆さんによろしくと。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)、 

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

       この手紙は、クリスティナ・コビランスカ編故国におけるショパン』で、その現物を写真コピーで確認する事が出来る。手紙のサイズは24.5×19.8cmで、一枚の便箋の裏表を使って2ページに渡っており、どういう訳か、ちょうど日付が書かれていた右上の端が破り取られている。なので、「コヴァレヴォ 金曜日」までしか日付が分からず、コビランスカはこの手紙を1825年のシャファルニャ滞在中のものとして紹介している。また、封筒部分の写真資料も掲載されており、そこには、「ワルシャワのカジミエシュ宮そばの、右の別館、ショパン教授殿宛と宛名が書かれている。ポーランドの郵便は、宛名をフランス語で書くのが慣例となっており、これもそうであるが、ショパンは「教授(professeur)」の綴りをproffesseurと書いている。

 

この手紙は、オピエンスキー版でもコビランスカ版でもシドウ版でも1825年のものとして取り扱われているが、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカもそう書いているように、これは1827年のものである。ただしジェリンスカはその根拠について一切説明していない。しかしながら、「ショパン家の引っ越し」と、手紙の「宛先」と、その「内容」と言う3つの事実から、それは自ずと割り出せる。

 

1.       ショパン家が新居に引っ越したのは1827年の秋である。その引っ越しを余儀なくされた理由が、「大学が新しく部屋を必要とし」ていたからなのだから、遅くとも新学期が始まる秋前までには引っ越さねばならなかった事になる。

2.       しかし、この手紙の宛先は、まだ引っ越す前の旧居である「カジミエシュ宮そばの、右の別館」になっている。

3.       それでいて、手紙の内容に目を向けると、新居の「あの新しい部屋」について言及されている。この部屋についてオピエンスキーは、[ショパンの仕事部屋として屋根裏が新しく改築されていた。後にティトゥス宛の手紙の中で詳しく語られる]と註釈している。それはその通りなのだが、しかしその[ティトゥス宛の手紙](※18281227日付)が書かれる頃には、ショパン家は新居に引っ越してからすでに1年以上が過ぎている。したがって、その「新しい部屋」が旧居の「カジミエシュ宮そばの、右の別館」[改築]したものである訳がない。

 

したがって、この手紙の中で「あの新しい部屋の中はどんな具合ですか?」と書かれているのは、ちょうど引っ越し先の新居が[改築]されている最中の話だったからなのである。

おそらくオピエンスキーらがこの手紙を1825年と誤って推定してしまった背景には、当時「ショパン家の引っ越し」と言う事実が情報として抜け落ちていた事が考えられる。カラソフスキーの伝記にも、ショパン家の住所や引っ越しの事実などについては一切触れられていなかった。

       それにしてもだ、仮に、オピエンスキーの言うように1825年に[ショパンの仕事部屋として屋根裏が新しく改築されていた]としよう…そしたらショパンは、その話を3年以上も経ってから初めてヴォイチェホフスキに手紙で説明した事になる訳だ…ヴォイチェホフスキはその間、休暇以外はずっとワルシャワにいたと言うのに?…それはどう考えてもおかしいのではないだろうか…。

 

この手紙が書かれた時期をさらに特定すると、当時ワルシャワ大学に在学中のヴォイチェホフスキが学期末の「試験」の準備に追われている頃であるから、ちょうど大学生が夏休みを目前に控えた7月中旬から下旬あたりだろうと思われる。

一方、その頃のショパンはと言うと、彼はワルシャワ音楽院の生徒としての1年目を終えた頃になる訳なのだが、その音楽院の厳密な年間スケジュールがどうなっているのかはちょっとよく分からない。仮にワルシャワ大学と同じなら、ショパンはまだ夏休みには入れないはずだが、当時のショパンの体調との兼ね合いから早めに休みに入っていたのかもしれない。しかしその辺の事情は定かではない。

       実は、ワルシャワ音楽院の成績評価欄には、ショパンが健康上の理由で一時的に休学していた事が報告されているので、この時期がそれに相当していたのかもしれない。

 

 

この手紙に書かれている内容そのものに関しては、ほとんど読んだ通りなので、その文章の一つ一つを検証する必要はないだろう。

この手紙で注目すべきは、その登場人物達である。「ズボインスキ」「ティトゥス」「プルシャック」「スカルベク」「イザベラ」「バルトフ」「イエンドジェイェヴィツ」…、数名を除いて、明らかに、これ以前の手紙に登場していた人物達とはすっかり様変わりしている事が分かるだろう。つまり、そのような名前が書かれている事自体に、検証されるべき行間が存在していると言う事なのである。

 

その登場人物達の中で今回特筆すべきは、ショパン家の次女でありショパンの妹であるイザベラ・ショパンと、それからティトゥス・ヴォイチェホフスキ、この2人である。

 

 

まずはイザベラから。

イザベラがショパンの手紙に登場するのは、追伸以外の本文中においてはこれが初めてである。そしてこの登場の仕方は、1825年のシャファルニャ滞在における、2度に渡るルドヴィカの登場の仕方と非常によく似ている。

つまり、このコヴァレヴォ訪問には、ショパンだけでなく、イザベラも一緒に行っていたと言う事で、これについてはどの伝記でも全く言及されていないが、この手紙の記述からそれは明らかである。

その根拠は3つ挙げられる。

1.       ショパンがほとんど常に「僕達」と複数形で書いている事。

2.       「ホームシック」ネタのジョークの際、「それはおそらく他の誰かさんで、僕ではありません」と、つまり一緒にいるイザベラの存在をほのめかして茶化している事。

3.       家族からの手紙が届く事について、(イザベラのために)と、これもホームシックの妹を茶化すようにわざわざ(括弧)して書いている事。

 

ルドヴィカの時にも書いたが、仮にこれが、たとえば小説のような不特定多数の第三者に読ませる目的で書かれた文章なら、当然、妹の帯同は最初にはっきりと明記されなければならないだろう。ところが、これはあくまでも家族間でやり取りされている「手紙」なのである。つまり、これを書いている方もこれを詠む方も、仮にイザベラが帯同していたのなら、そんな事は書くまでもない大前提として双方が分かりきっている事なのだ。この手紙におけるイザベラ書かれ方は、間違いなくその大前提に則っているのである。

去年のライネルツ訪問では、イザベラは子供達の中では一人だけ健康体だったためか、なぜかみんなと一緒にライネルツへは行かず、父と共にワルシャワに残っていた。だからおそらく、彼女が両親の許を離れて過ごすのは、おそらくこのコヴァレヴォ訪問が初めての経験だった可能性は高い。

ショパンの場合はすでに、1824年から毎年夏になると家族の許を離れて旅慣れていたし、彼は有名人なのでどこへ出掛けても歓待されていたし、本人も、行く先々で楽しみを発見する芸術家的な観察眼を持っていたため、今までも特に「ホームシック」になるような事はなかった。それなのに、今さら今回のような「ホームシック」ネタを書くと言うのは、彼自身の問題としてはちょっとそぐわない感じがするだろう。姉のルドヴィカの場合も、以前ショパンと二人で、または彼女一人でジェラゾヴァ・ヴォラのスカルベク家を訪れたりしている。つまり、「ホームシック」になるとしたら、最も旅慣れていない、しかも最も芸術家的ではないイザベラをおいて他にはいないのである

イザベラのこのようなキャラクターは、後にショパンがパリに移住してから、彼が窮地に陥ってどうしても家族の力を必要とした時、なぜパリに駆けつけたのが2度ともルドヴィカだったのかと言う事と密接に関係しているように思える。普通に考えれば、小さな子供のいたルドヴィカよりも、子供のいなかったイザベラの方が身軽だったはずなのに、イザベラは結局、一度もパリへは行かなかった。

この件に関しては、ショパン自身がルドヴィカを指名したからと言うのが表向きの理由である。しかしだからと言って、ショパンがイザベラよりもルドヴィカを愛していたと考えるのはあまりにも短絡的ではないだろうか? これは愛情の問題ではなく、あくまでもキャラクターの問題なのだ。

ルドヴィカは外交的で行動力もあり、旅慣れてもいて、ショパンやエミリアに次いで芸術的感性もあったから、あのジョルジュ・サンドとも問題なく友人になれた。だから、そのような時に頼りになるのは、やはりイザベラではなくルドヴィカだったのである。逆にイザベラの方は、内向的で保守的であり、そんな彼女は、兄に会うために華やかなパリに行く事よりも、家に残って両親の面倒を看る事の方を選ぶのである。

おそらくイザベラにとって、今回のコヴァレヴォ訪問と言うのは、有名人である兄フレデリック・ショパンの社交に付き合う事が、自分にとっていかに場違いで居心地の悪いものであるかと言うのを思い知らされた旅だったに違いない。だからこそ「ホームシック」にもなるのであり、そしてそんな経験があったからこそ、後年、パリに行く事に関して引っ込み思案にもなるのである。

 

また、ショパンはこの手紙の中で、家族に向かって「姉妹達」と複数形で呼びかけている。

この時はすでにエミリアが故人であるから、イザベラがショパンと一緒だったとすれば、ワルシャワの実家には、姉妹はルドヴィカ一人しか残っていないはずである。しかしながら、実はショパン家にはまだもう一人姉妹がいる。従姉妹のズージアである。だからその点でも、「イザベラ帯同説」に何ら矛盾は生じない。

1825年のシャファルニャ滞在における「ルドヴィカ帯同説」の時には今一つ決定的な確信が持てなかったが、今回の「イザベラ帯同説」ははっきりそうだと断定できる。

 

このイザベラ・ショパンと言う人は、ショパン家の人々の中では最も長命で、だから家族全員の死を経験している。それにも関わらず、ショパン伝の中では最も語られる事が少ない。

そんな彼女についても、私はまだ少々語りたい事があるのだが、しかしまだ先の長い人なので、それはまた折を見て書く事にしたい。

 

 

次はティトゥス・ヴォイチェホフスキ。

彼の名が「家族書簡」に登場するのは、実はこれが初めてで、全書簡を通じてもこれが3回目である。

彼の登場については、前々回の「ビアウォブウォツキへの最後の手紙」でも触れたが、ヴォイチェホフスキの名は、1823年の「マリルスキ書簡」にも一応出て来てはいた。しかしながら、そこには、ショパンとヴォイチェホフスキの個人的な親密さをうかがわせるようなものはなかった。

その次は、「ビアウォブウォツキへの最後の手紙」の中に出て来ていた。この時は、ビアウォブウォツキの引き立て役のような扱いで書かれていたり、その一方では親身な兄貴分のような一面も覗かせていたりしていた。

では、今回はどうだろうか?

今回の場合は、ヴォイチェホフスキの名は、本文中と追伸のそれぞれに一度ずつで計2回出てくる。

最初に出て来た本文中では、

彼らは試験のために、彼ら自身をどのように厳しく尋問していますか? ティトゥスは田舎に行きたがっていますか? プルシャックもまさに同じですか?」

と書かれており、これによって、当時ワルシャワ大学に在学中のヴォイチェホフスキが、学期末の「試験」を目前に控えてその勉強に勤しんでおり、それが終わって夏休みに入れば「田舎」に帰郷する予定だったと言う事が分かる。

しかしそのようなスケジュールは、何も彼に限った事ではなく、ショパン家の寄宿学校に入っている生徒全員にとって毎年の慣わしに過ぎない。したがって、この手紙では「彼ら」と複数形で書き始められており、さらに、「ティトゥス」「プルシャック」2人がほとんど同列に語られている。

それは追伸でも同じだ。

「ティトゥス、プルシ[ャック]、バルトフ(※詳細不明)、イエンド[ジェイェヴィツ]、皆さんによろしくと。」

こう言った友人達は、ほとんどが貴族や士族の子息達であるから、彼らは毎年夏休みになると、それぞれが実家の治める田舎の領地に帰郷するため、ショパン家の寄宿舎には残っていないのである。

だからこそ、ショパンが高等中学校に在学中の1824年と1825年のシャファルニャ滞在時には、ワルシャワ宛の「家族書簡」の追伸に彼らの名が書かれるはずもなく、その結果、彼らがショパンの手紙に登場する機会もなかなか訪れなかった。

それが今年に限っては、ショパンがワルシャワ音楽院に通い始めてから最初の夏だった事もあり、それで、学校の違う彼らと夏休みの時期にズレが生じ、そのお陰で、彼らは今回このように「家族書簡」に登場するに至ったのである。だが、だからと言って、特にそれ以上のものでもない。

この手紙から分かった事は、以前に私がそう推察した通り、ヴォイチェホフスキが毎年夏休みになると田舎のポトゥジンに帰っていたと言う事実だ。

過去の実例から、今までショパンが正規の郵便で手紙をやり取りした友人達は、コルベルク、マトゥシンスキ、ジェヴァノフスキ(※ジェヴァノフスキ宛に関しては「コルベルク書簡」の中で言及されていた)の3人だけで、いずれも、ショパンがシャファルニャやライネルツへ出向いた際に彼らが手紙をくれて、それに対してショパンが返事を書いたものだった。

つまり、そのシャファルニャやライネルツの時においても、このヴォイチェホフスキはショパンに手紙をくれてはいなかったのである。だからショパンも彼宛には手紙を書いておらず、したがって当時この2人は、ただの1通も手紙のやり取りはしていなかったと断言できる。

前にも書いたが、「ショパンとティトゥスとの既知の手紙は18289月以降に始まっている」のだが、その時も、他の友人達同様、ヴォイチェホフスキが夏休み中にポトゥジンからショパンの休暇先に手紙を寄こし、それに対してショパンが返事を書いたのがその「第1便」だった。そしてその後、彼らの間で本格的な文通が始まるのは、それから1年後の18299月以降になってからで、そうなった理由と言うのが、その年ワルシャワ大学を卒業したヴォイチェホフスキが、実家のあるポトゥジンを継ぐ事になったため、彼が当地へ引っ込んでしまったからなのだ。そうなるまでの間は、「ヴォイチェホフスキ書簡」と言うのは、夏休みの「第1便」と、冬の休暇の「第2便」と、このたった2通しかない。

したがってこの時点でもまだ、ヴォイチェホフスキの存在と言うのは、とうていビアウォブウォツキに及ぶものではなかったのである。しいて言うなら、例の「ビアウォブウォツキ死亡説事件」をきっかけに、ようやくコルベルクやマトゥシンスキらのような存在に近付きつつあった…とでも言った感じだろうか。

たとえば、そのビアウォブウォツキが1824年と1825年のシャファルニャからの「家族書簡」ではどのように言及されていたかと言えば、

1824年、

「土曜日には、多くの人々がシャファルニャに来ました。ポドフスキさん、スミンスキさん、ピウニツキさん、ヴィブラニェツキさん、そしてビアウォブウォツキ。日曜日には、僕達は皆でゴウビニ村のピウニツキさんの家に行きました。今日はソコウォーヴォで、ヴィブラニェツキさんの家にいます。」

1825年、

「僕はビアウォブウォツキにもヴィブラン(※ヴィブラニェツキ)にも会いませんでした。」

ここからは、ショパンとビアウォブウォツキ父子との、個人的な親密さがそれとなくうかがえるだろう。決して、その他大勢の友人達のうちの一人と言うような書かれ方はしていない。

それでは、今回の手紙にビアウォブウォツキの名が出て来なかったのはなぜなのだろうか?

それは前々回も書いた通り、ビアウォブウォツキがエミリアの葬儀、もしくは墓参りをきっかけに、しばらくワルシャワに滞在してショパンとの旧交を温め、その後、ショパンがコヴァレヴォに出掛けていた間は、当時すでに大学には通っていなかったビアウォブウォツキも(※休学扱いだったかどうかは不明)、ショパンと同様ワルシャワにはいなかったからである。

 

 

次に紹介するのは、現存する「本物のマトゥシンスキ書簡」の二つ目。

「本物のマトゥシンスキ書簡」は現在2通が知られており、それらはいずれも、カラソフスキーの時代にはまだ発見されていなかった。

その1通目は、すでに『検証4-4:本物のマトゥシンスキ書簡に垣間見える友情のニュアンス』で紹介した、1825年夏のシャファルニャからの手紙である。

今回の2通目も正確な日付はわからず、1827年冬]と推定されている。

これは正規の郵便による手紙ではなく、誰か人づてに手渡してもらった短い伝言(メッセージ)である。

       この伝言の原物は、クリスティナ・コビランスカ編纂の『故国におけるショパン』で確認する事が出来る。ただし、その写真資料自体が、1899年にワルシャワで発行された『放浪者(WĘDROWIEC)』と言う雑誌からの切り抜きなので、使用した用紙のサイズは不明である。横に細長い紙に書かれており、その真ん中を二つ折りにした痕がくっきりと残っている。

 

■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヤン・マトゥシンスキへ(1827年冬)■

(※原文はポーランド語)

ワルシャワ 1827年冬]

親愛なるヤシ!

僕らがこんなに長い間会っていないなんて、どうなっているんだい?――僕は君が来るのを毎日待っているのに、君は来やしない。僕が君に話したいのは、以下の事なんだ:このところ天気が悪いので、あの変奏曲のピアノ・パートの清書がしたいのだ。そのためには君の写譜が必要なので、明日それを持って来て欲しい。そうしてくれたら、次の日には両方とも君にあげるから。

FF.ショパン

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)、 

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

ショパンとマトゥシンスキは同じワルシャワに住んでいるので、その両者がワルシャワにいる場合、わざわざ長い手紙を書いてしかも料金を払ってまで郵便で出すような事はまずあり得ない。

ショパンとマトゥシンスキは、高等中学校時代は、それこそ勉学における良きライバルとして机を並べ、日々の学校生活を共有する仲だった。だから、夏休みの間に離れ離れになった時のみ、両者は手紙をやり取りする機会に恵まれていたのである。

しかし、その後ショパンはワルシャワ音楽院へ、一方のマトゥシンスキはワルシャワ大学医学部へと、それぞれが全く違う道へ進んで行った。とは言うものの、双方は同じ大学内にあったので、高等中学校時代のように毎日顔を合わせる事はなくなっていたにせよ、だからと言って特に疎遠になる事もなかったようである。このメッセージの内容は、その事を如実に物語っている。

今回ショパンがこのようなメッセージを託したのは、そのようなお互いの生活背景が根底にある事はもちろんだが、それに加えて、「天気が悪いので」ショパンが外に出歩けない日が続いていたからである。ショパンが外に出歩けないほどの悪天候とは、すなわち雪の事を指すので、だからこの手紙は[冬]と推定されているのだろう(※運動神経の悪い彼は、決して「雪ソリ」には乗らないからだ)。一方1827年]と言う年号の方は、「あの変奏曲のピアノ・パートの清書」と言う記述から導き出されたものと思われる。

この「変奏曲」とは、《ピアノとオーケストラのための、モーツァルトの『ドン・ジョヴァンニ』の「お手をどうぞ」の主題による変奏曲 変ロ長調 作品2の事を指している。なぜなら、ここには「ピアノ・パートの清書」とあり、つまりこの曲には「ピアノ以外のパート」もあるという事であるから、それに該当する「変奏曲」と言うのは、全ショパン作品を見渡しても《作品2以外にないからで、その推定作曲年がすなわち1827年]と言う事なのである。

       この作品は、3年後の1830年にウィーンで出版され、シューマンの評論「諸君、天才だ! 帽子を取り給え」によってショパンの名を一躍世界に広める事にもなる。しかし現在ではほとんど演奏される機会もなく、ショパン作品としての評価もさほど重要なものとは考えられていない。それでも、少なくとも初期のショパンを伝記的に語る上では、欠かす事の出来ないものではある。

この曲は、のちにヴォイチェホフスキに公式献呈される事になる。もしもビアウォブウォツキが生き続けていたら、ひょっとしたらマトゥシンスキに献呈されていたのだろうか? しかしショパンは、公式非公式を問わず、結局マトゥシンスキには作品を何も献呈する事なく終わっている。私には何となく、この「変奏曲」が、マトゥシンスキの手をすり抜けて、ビアウォブウォツキの身代わりとしてショパン史に急浮上したヴォイチェホフスキの手に渡って行ったような、そんな気がしてならない。

ショパンがこの曲をヴォイチェホフスキに献呈する事を決めたのは、ショパンの手紙の記述を信じるなら、ウィーンでの出版が決まってからの事である。その頃には、ショパンにとってヴォイチェホフスキはもはや完全に特別な存在となっていた。

しかしながら、ショパンがマトゥシンスキとこのようなやり取りをしていた時点では、先述したように、まだヴォイチェホフスキはその他大勢の友人達の一人でしかなかった。彼が唯一無二の存在となるためには、運命が、不条理にもショパンからビアウォブウォツキを奪い去ってしまわねばならなかった。しかしこの時まだビアウォブウォツキは、その短い人生の最後の数ヶ月間を、まさに全うしようとしていたその最中だったのである。

 

 

今回最後に紹介するのは、そのビアウォブウォツキが、この年の年末に継父ヴィブラニェツキ氏に宛てた手紙である。

これは、ソウタンが編集した『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』の序文の中で引用されていたもので、2通の手紙からそれぞれ一部分ずつを抜粋して紹介している。

 

彼は、高等中学校ではすでに“体の弱い”生徒であると格付けられていた。時間が経つにつれて、頻繁に体調を壊す日が多くなり、色々な病に見舞われている事を手紙で嘆いていた。ヴォンジン村での養療生活も助けにならず、ビスクピエッツ町(※ビショフスヴェルダー)における温泉療法も助けにならず、トルンの医者の手当ても役に立たなかった。18271228日付のヴィブラニェツキ宛の手紙にこう書いている、

 

“僕はこのような期待をしています。何故なら、新年には僕の全ての苦しみが終わってくれるでしょう。僕の健康状態に関しては、良い事も悪い事も同じ程度に期待できます。ネイマンがすでに切断手術の事を薄々と僕に洩らしています。”

 

その後、

 

“医者たちとの協議の結果、最終的な治療方法を受け入れる前に、彼らの意見を入れる事を決心しました。つまり、田舎に帰って、ヴェセ氏から内科的な治療を受け、外科的な治療は、世に知られた通りの、僕の障害を取り除く事を約束してくれたプウォツク町の女性から受けます。”

 

しかし、命を救う最後の手段となるべきこの治療は、失敗に終わった。ショパンの最愛の友人は、1828331日にソコウォーヴォで亡くなった。」

スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』

Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej 1926)より

 

       最後の手紙の中に「田舎に帰って」と言う箇所があり、その書き方から、その時ビアウォブウォツキが一時的にせよワルシャワにいて、そこからソコウォーヴォ宛に手紙を書いていた可能性も考えられる訳であるが、しかしながら、それについてはもちろん断定はできない。

 

ビアウォブウォツキが自分の病状について失望し、ショパンとの文通の中でしばしば沈黙せざるを得なくなったのは、実は外科医からこの「切断手術」の話をされていたからだったのである。

ビアウォブウォツキは当時まだ22歳の若さだったから、その年齢を思えば、「切断手術」などと言う「最後の手段」は、できる事なら誰もが避けたいと考えるだろう。その躊躇が仮に病気の悪化をいたずらに進行させていただけだったのだとしたら、こんな皮肉な事はない。

安易に結果論では考えたくないが、もしもビアウォブウォツキが、「足を取るか命を取るか」の段階で、すぐにでも「切断手術」に踏み切れていたなら、あるいは、外科医がすぐにでもその決断を迫れる程度に医学が進歩していたなら、もしかしたら彼はこんなに早く死ななくても済んだのかもしれない。

 

 

 

この1827年と言う年を振り返ると、春にエミリアを亡くしたショパンは、その夏、エミリアが生前そうしていたように、家族に辛い事があった時にユーモアでそれを蹴散らす役目を自分が果たそうとするかのように、いつものように明るく振舞う手紙をコヴァレヴォから書き送っていた。彼は決して、その悲しみを掘り起こすような事は書いていないし、また、決してそのような事を日記や手記に書き残そうとしたりもしていない。私は、その代わりとして《ノクターン 第19番 ホ短調 作品72-1 遺作》《葬送行進曲 ハ短調 作品72-2 遺作》などの作品が生み落とされたのだと考えている。そしてそれこそが「ショパンの手記」であり、彼の天分なのだと。

ところが、そんな気丈な努力を無に帰してしまうかのように、その半年後には、今度はビアウォブウォツキまでも亡くしてしまった。

そしてショパンは、翌1828年の秋にベルリン旅行に出掛ける直前まで、やはり手紙を1通も書いていないし、もちろん手記や日記の類も書き残してなどいない。その間の彼の沈黙の意味するところは、文字通り「推して知るべし」であろう。

 

[2011年2月8日初稿 トモロー]


【頁頭】 

―次回予告―

 

次回、「ヴォイチェホフスキ書簡・第1便」とショパンのベルリン旅行を徹底検証する、

検証7:ヴォイチェホフスキ書簡とベルリン紀行

をお楽しみに。

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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