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検証5:「ライネルツ伝説」の謎――

Inspection V: The mystery of the Reinertz legend -

 


1.1826年夏、「ライネルツ伝説」の実態とは?―

  1. In summer, 1826, what is the actual situation of the Reinertz legend?-

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ポロネーズ 第15番《別れ》▼≫
 

1826年の夏休み。

昨年、一昨年と、ショパンは2年続けて夏休みをシャファルニャで過ごしたが、今年はもうシャファルニャへは行かなかった。その理由についてはすでに述べたので繰り返さないが、今後もショパンが彼の地へ赴く事は二度となかった。

今年のショパンは、母ユスティナと姉ルドヴィカに連れ添われて、病気の妹エミリアと共にライネルツへ温泉治療に出かける。

       「ライネルツ」は、当時はドイツ領で、現在のポーランド・ヴロツワフ県にある町「ドゥシュニキ・ズドゥルイ」のドイツ名である。もちろんショパンはドイツが統治していた時代の名称である「ライネルツ」と書いているので、「ビショフスヴェルダー」同様、本稿においては時代考証上「ライネルツ」表記を採用している。

その出発に際して、ショパンは、同じワルシャワに住む友人コルベルクに自作のポロネーズを贈っている。それは、現在《ポロネーズ 第15番 変ロ短調 遺作 「別れ」》として知られている曲で、今回のBGMでも使っているが、以下のようなものである。

 

1826年、ショパンは母、ルイーズ(※姉ルドヴィカ)、妹エミリアとともにライネルツの鉱泉に出掛けたが、出発の際、友人のコールベルグのために、彼のお気にいりの歌劇「泥棒かささぎ」のアリアの旋律を中間部に使用して、このポロネーズを作曲した。草稿の冒頭にはショパンの手で、「ポロネーズ、F.F.ショパン」、トリオの冒頭には「さようなら」と書かれ、別の手で(おそらくコールベルグによる)「コールベルグさようなら(ライネルツへの出発に際して)1826年」と書かれている。又トリオの冒頭には、「ロッシーニの歌劇(泥棒かささぎ)のアリアによるトリオ」という自筆がある。

ドレミ楽譜出版社編

『ショパン・ピアノ名曲辞典』より

 

ショパンがドゥシニキ(当時ライネルツ)へ療養に出発するに際して、友人コルベルグに贈った曲でAdieu”(アデュー)(※フランス語で「さようなら」の名がある。中間部トリオは、当時ショパン達が心酔していたロッシーニのオペラ「泥棒かささぎ」のアリア(カヴァティーナ)に基づいている。

下田幸二著

『聴くために 弾くために ショパン全曲解説』(潟Vョパン)より

 

ショパンは、ライネルツに到着してから2週間後に、当地からこのコルベルクに宛てて手紙を書いている。その日付は、ショパン本人によって「ライネルツ 1826818日」と記されている。実は、ショパンはこの日付の2日前と1週間前に、2度に渡って、ここライネルツで慈善コンサートを行なったとされているのである

検証5では、その「ライネルツ伝説」とでも言うべき逸話について検証する。

 

この伝説には、二つの謎がある。

1.       まず、そもそもその実態とはいかなるものだったのか?

2.       コンサートが行われたのと同じ時期に書かれたコルベルク宛の手紙とエルスネル宛の手紙に、それについて一切触れられていないのはどう言う事なのか?

 

この事は、ショパン伝でこのエピソードが取り上げられる際にしばしば言及されるものである。

 

それでは、最初にこの「ライネルツ伝説」の実態について見ていこう。

まず、ショパンがこの年、ライネルツで慈善コンサートを行なった事自体は紛れもない事実である。

その事実を裏付ける確実な資料は、現在2つのものが挙げられる。

 

1.       一つは当時の『ワルシャワ通信』で、そこでは、その慈善コンサートについての記事が簡単に報告されている。

2.       もう一つは、ジヴニーがライネルツのショパンに送った手紙で、その中でその慈善コンサートについて言及されている。

 

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』には、この当時の『ワルシャワ通信』の切り抜きが写真で掲載されており、その記事の全文は以下の通りである。

 

ワルシャワ通信 1826822日号

 

…(※別の記事の後)…

シロンスク地方のクドヴァ温泉(ライネルツから2マイルの距離)からの通信が、医師の勧めでライネルツに療養中だったポーランドの若き芸術家フレデリック・ショパンについて伝えて来た。ショパン氏は、湯治に訪れていた父親を亡くした数名の孤児のために、彼の才能を知る人達からの要望もあって、二度にわたるコンサートを行なったが、これによって不幸な子供達に相当額の援助がもたらされ、その功績を高く評価された。(この若者は、これまでワルシャワで何度もピアノを弾いた事があり、その素晴らしい才能は常に称賛されてきた。)

…(※この後はまた別の記事)…

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

『ワルシャワ通信』では、この記事は1826822日号」において報告されているが、これはコンサートから約1週間後になる。

たとえば、仮にこれがワルシャワで行われたコンサートであれば、過去の実例から見ても、その記事はもう翌日には『ワルシャワ通信』に載っている。しかしライネルツは当時ドイツ領であり、当時ロシア領だったワルシャワからすれば外国での出来事である。また、地理的な事情で当然ニュースが届くのも遅れるのだから、その結果、このように記事がリアルタイムでは掲載されなかった訳だ

 

 

次は二つ目の資料、ショパンの直接の関係者であるジヴニーがショパンに書いた手紙(※以下、「ジヴニー書簡」)を見てみよう。

こちらに関しては、手紙の原物はもうすでに現存していない。そのため、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』では、その手紙の文章が、「ドゥシュニキで療養中のフレデリック・ショパンに宛てたヴォイチェフ・ジヴニーの手紙が最初に印刷されたもの」と題されて、活字化された印刷物(ドイツ語版とポーランド語版の2種類)のページが紹介されており、さらにその出典は「ミェチスワフ・カルウォヴィツ編“フレデリック・ショパンの未公開の記念品”(ワルシャワ、1904年;326ページ)」とキャプションされている

そこには以下のように書かれている。

 

■ワルシャワのヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴニーから、

ライネルツのフレデリック・ショパンへ■

(※原文はドイツ語)

「親愛なる最高のフリードリッヒ殿!

君が父上に宛てた11日付の手紙で、君の健康状態と、困窮した孤児のための慈善コンサートについて書かれてあったのを知り、非常に喜んでおります。私が君にコンサートをする事を勧めたのを覚えているでしょうが、それがこのような目的で実現したのは素晴しい事です。君が早く健康を完全に取り戻して帰宅される事を祈りつつ、私は心から君を抱擁し、キスします。

君の誠実な友、

アダルベルト・ジヴニー。」

クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow 1955)より

 

この「ジヴニー書簡」は、シドウ版の書簡集にも掲載されており、そこでは1826819日]と言う日付が施されており、それについて以下のように註釈されている。

 

「この手紙に日付はない。しかし、同じ日にジヴニーによって書かれたルドヴィカ宛の手紙が“819日”となっている(カルウォヴィツ編“フレデリック・ショパンの未公開の記念品 パリ、ライプツィヒ、1904年”を参照)。これは伝記的意義を持っている。結果的にそれは、ショパンが彼の父宛に811日付の手紙を書いた時、孤児の利益のためにコンサートが催されなければならなかった事を証明している。 我々は810日、あるいは11日にそれが起きたと信じる事ができる。そのレポートは822日付のワルシャワ通信に掲載されている。公演は非常に成功だったとあるが、日付については言及されていない。」

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicaleより

 

なんと、この手紙には「ルドヴィカ宛」も存在していたと言うのだ。私は今まで、この「ジヴニー書簡」はてっきり「ショパン宛」だけなのだとばかり思っていた。なぜなら、他の伝記等でも「ショパン宛」しか紹介されておらず、それ以外の事については何も説明されていなかったからだ

 

そこで私は、「ミェチスワフ・カルウォヴィツ編“フレデリック・ショパンの未公開の記念品”」なる本を入手し、確認を取ってみた…。

 

するとそこには、なんと驚くべき事に、「ルドヴィカ宛」だけではなく、「エミリア宛」の手紙までもが存在していたのである。つまりこの「ジヴニー書簡」と言うのは、実際は彼がライネルツに滞在中のショパン家の子供達3人に宛てた手紙だったのだ。

ただし、その“フレデリック・ショパンの未公開の記念品”では、その3つが続けて紹介されているだけなので、それぞれが別の便箋に書かれていたのかどうかまでは分からず、それについては何も説明されていない。しかし、3つとも短い内容で、しかも日付が最初の「ルドヴィカ宛」にしか記されていない点から考えても、これは1枚の便箋に続けて書かれていた可能性も高いのではないだろうか。仮にこの3通が別々の便箋に書かれていたにしろ、いずれにせよそれらは「ルドヴィカ宛」として1つの封筒に同封され、同時にライネルツのショパン達の許へ送られていた。だからこそ、この「ジヴニー書簡」はその後、代々ルドヴィカの子孫達によって保管されていたのであり、そのお陰で1863年のワルシャワ暴動で焼失する事から免れ、1904年になってようやく『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』で公表されるに至ったのである。

 

したがって、その「ジヴニー書簡」の全文と言うのは、実際は以下の通りだったのだ。

 

■ワルシャワのヴォイチェフ・アダルベルト・ジヴニーから、

ライネルツのルドヴィカ、フレデリック、及びエミリア・ショパンへ■

(※原文はドイツ語)

1826819

立派で、そして尊敬に値するルドヴィカお嬢様、

私は、あなたの休暇に際して、私の個人的な親愛の情を表明するのは本意ではありませんが、あなたの幸福とあなたの繁栄のために、あなたが完全に健康となるよう、こんな数行で、心から全能の神に祈る事を許してください。私はあなたにキスを送り、あなたの最愛の尊敬する母上への謙虚な挨拶として、彼女の手にキスを送ります。あなたが私に(休暇の)良い思い出をもたらしてくれるようお願い致します。深い敬意を込めて、

あなたの献身的な友、

アダルベルト・ジヴニー。

 

親愛なる最高のフリードリッヒ殿!

君が父上に宛てた11日付の手紙で、君の健康状態と、困窮した孤児のための慈善コンサートについて書かれてあったのを知り、非常に喜んでおります。私が君にコンサートをする事を勧めたのを覚えているでしょうが、それがこのような目的で実現したのは素晴しい事です。君が早く健康を完全に取り戻して帰宅される事を祈りつつ、私は心から君を抱擁し、キスします。

君の誠実な友、

アダルベルト・ジヴニー。

 

チャーミングなエミリアお嬢様、

もしもあなたの厳しい健康状態が少しでも改善しているなら、私は非常に嬉しいです。私は毎日あなたのアパートメントにいます、そして、あなたの親愛なるお父上を敵に戦っております、と言っても、血が流れる訳ではありません、煙草を賭けてトランプをしているだけです。私はここに謹んで敬意を表します、

あなたの献身的な友、

アダルベルト・ジヴニー。」

ミェチスワフ・カルウォヴィツ編『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』

Mieczysław Karłowicz/Souvenirs inédits de Frédéric ChopinThe Polish Library 1904)より

 

この手紙は非常に興味深い。

これを見ると、ジヴニーがショパン家の子供達とそれぞれどのように接していたかがありありと伝わってくるし、同時に、三者三様の個性までもが浮かび上がってくる。この時、ジヴニーは御歳70歳で、ルドヴィカが19歳、フレデリック17歳、エミリア13歳である。

 

ジヴニーは、すでにルドヴィカの事を大人の女性として、信心深かったと伝えられている母ユスティナにもっとも近い感覚で接していたようだ。

ジヴニーは、ここではそのユスティナには手紙を書いておらず、彼女への「挨拶」を長女のルドヴィカに託している。本来なら、手紙はまず母たる「ユスティナ宛」に書かれるべきであるはずだが、なぜ彼はそうしていないのか? 実はここから、ある二つの事実が浮かび上がってくる。

つまりこれは、ジヴニーがドイツ語でしか「読み書き」が出来なかった事を示しているとともに、一方のユスティナが、ドイツ語が全く読めなかったと言う事なのだ

       ちなみに、ジヴニーはショパンの事を普段から「フリードリッヒ」とドイツ語名で呼びかけていた。その事は、ビアウォブウォツキ書簡・第5便からも確認する事ができる。

ただしユスティナについては、ドイツ語の会話の方に関しては何とも言えない。読み書きが出来ないからと言って、会話も出来なかったとは限らないからである。

子供達が全員ドイツ語に不自由しなかった事は分かっている。中でもルドヴィカ(※イザベラ説もある)とエミリアなどは、当時にしてドイツ語の物語を翻訳してしまうほどだった。しかしだからと言って、当時ドイツ領のライネルツへ子供達を連れて行くのに、その責任者たる母親がドイツ語が全く分からないと言うのもちょっとおかしな話だろう。だったら最初から父のニコラが連れて行くはずである。

しかし仮にユスティナがドイツ語で会話ができたとしても、少なくとも彼女がドイツ語が「読めなかった」事だけは間違いない。この「ジヴニー書簡」は、明らかにその事実を物語っている

そして、この手紙があくまでも「ルドヴィカ宛」としてライネルツに送られていた点も見落としてはならないだろう。ルドヴィカは1832年に結婚してから実家を出ており、もちろんその際に自分宛の手紙も嫁ぎ先に持って行っていた。その結果、この手紙が彼女の子孫によってワルシャワの実家とは別の場所に保管されていたお陰で、現在これが我々の知るところとなったからである。

だからこそ、逆に、この中で言及されている“ショパンがニコラに宛てた11日付の手紙」”の方に関しては、その存在が確認されていないのだ。そちらはあくまでも「ニコラ宛」なので、当然ワルシャワの実家で保管されており、となれば、他の手紙同様1863年の暴動で焼失してしまっている。だからルドヴィカの子孫の許にはなかった訳で、だから1904年の『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』にも掲載されていないのだ。

1863年の暴動当時、唯一の直接の遺族だったイザベラは、これら初期の「家族書簡」はカラソフスキーに資料提供していなかったため、結局これが世間に公表される事はなかった。したがって、ショパンがその手紙の中で、どこまで詳しく「慈善コンサート」について報告していたのかについては、それはもはや永遠に分からない。

 

「ルドヴィカ宛」に続く「フレデリック宛」は読んで字の如しで、これについては後述するが、この三つのうちでもっとも興味深いのは最後の「エミリア宛」だ。

これによって、当時もっとも健康状態の思わしくなかったのが彼女であった事が分かるが、それでいてジヴニーは、そんなエミリアに対し、唯一ジョークを交えて明るく接している。

これを読んで思い出すのは、あのカラソフスキーの著書に書かれていたエミリアに関するくだりである。

 

「末の娘エミリイは非常な美人で、最高の望をかけられていたが、一八二七年の四月十日に十四歳で死んだ。彼女は年齢以上に教養があり、いつも陽気で、それに頓智のある、上機嫌を振り撒くという幸福な天稟を持っていた。で皆の者から大層愛されていた。そして彼女の頓智、情愛の籠った嬉しがらせ、若しくは道化た物真似は両親に通じても、姉達や兄にさえ分りにくいことが度々あった。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

当時これを著していたカラソフスキーは、勿論「ジヴニー書簡」の事は知らない。しかしこの箇所の記述は、その「ジヴニー書簡」から垣間見えるエミリアのイメージとあまりにもぴったりと符号している。したがって、ことこの箇所に関しては、彼が決して嘘を書いていなかった事が分かる。

       ただし、カラソフスキーがこれをイザベラから直接聞いたかどうかについては多少疑問が残る。と言うのも、これぐらいの事は、すでにショパンの代父(名親、ゴッドファーザー)であるフレデリック・スカルベクが、エミリアの死の直後に雑誌に寄稿した『エミリアショパンに関する死亡告示』で書いていた事とさほど代わり映えしないからだ。その資料については、またエミリアの項で紹介しよう。

 

 

さて、問題の「ショパン宛」だが、ジヴニーはこの中で「困窮した孤児のための慈善コンサート」について触れているが、これは『ワルシャワ通信』でも同様に、「父親を亡くした数名の孤児のために、彼の才能を知る人達からの要望もあって、二度にわたるコンサートを」と書いてあった。

そしてその「慈善コンサート」に纏わる逸話が、今回のテーマである「ライネルツ伝説」となる訳なのだが、それはどの著書でも、だいたい以下のように伝えられている。

 

「……この土地のどんな楽器も、(エルスネルへの手紙でこぼしているように)「喜びより以上に苦痛をもたらす」ものでしかなかったからである。にもかかわらず、ショパンはドゥシュニキで自分でも予想外の公開音楽会を開くことになる。一人の貧しい女性湯治客が、子供たちを残して、突然亡くなるという事件があり、この遺児たちのために義損金を募るべく、フレデリックは有料で演奏することを決めたのである。この際、ピアノの状態や音色はどうでもよかった。慈善演奏会は評判がよく、もう一度行なわれた。ポーランド・ピアノ界の新星であり、前途有望な作曲家と噂される、この虚弱そうな青年がいったいどんな演奏をするのか、自分の耳で確かめたいという者が後を絶たなかったのである。保養地のけだるい日常のなかで、このコンサートが一つの事件であったことは、おそらくポーランド人湯治客の誰かが書き送ったものだろう、《クリエル・ワルシャフスキ》に記事が載ったことからもわかる(八月二十二日付)

歳月が経ち、事実はロマンティックな伝説に包まれていった。伝説のもう一人の主人公は、ショパンが毎日飲泉に通った源泉ラウ・ブルンで湯治客の世話をしていたという、うら若く、美しいチェコ娘リブシェである。この娘に心惹かれていた彼であったが、ある日のこと、泉のそばに娘の姿が見当たらず、詮索したところ、彼女とその他大勢の子供をかかえた父親が、工場で致命的な事故に遭ったという悲劇を知らされる。葬儀をあげる金もない、ということで、フレデリックが演奏会をする気になったというお話が、《エホ・ムジチュネ[音楽のこだま]》紙上、H・Gという人物の筆で微に入り細に入り描かれたのは一八九二年八月二〇日のことだった。真実のほどは保証できないものの、物語に人の心を打つ力があることは確かである。」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

 

「一八九二年」と言ったら、ショパンが没してから43年後、ライネルツで演奏会が行われた1826年から数えても66年後である。そんな頃になって、関係者かどうかも明かさないような、そんな匿名の人間によって「微に入り細に入り描かれた」投稿記事(?)など、安易に信用できるはずがないだろう。

これについては、別の著書では以下のように書かれている。

 

「とはいえ、彼のこの高貴な行為については、すっかり明らかになっているわけではないのである。ドゥシニキでショパンがコンサートをした理由については、十九世紀の間にいろいろな説が現れ、伝説が流布した。一八九二年、ワルシャワで発刊された『音楽・演劇芸術』誌では、若いショパンの、リブシャというチェコ人の娘へのロマンティックな恋物語を読むことができる。フレデリクが彼女の父親の悲劇的な死を知って、彼女のために保養所のホールでコンサートをしようと思ったというのだ。」

アルベルト・グルジンスキ、アントニ・グルジンスキ共著/小林倫子・松本照男共訳

『ショパン 愛と追憶のポーランド』(株式会社ショパン)より

 

 

上に挙げた二つの著書はどちらもポーランド人作家によるものだが、そのどちらの著書でも、これはあくまでも「物語」扱いであり、決して真実だとは書いていない。

 

では、その《エホ・ムジチュネ[音楽のこだま]なる『音楽・演劇芸術』誌に掲載されたその「物語」の全容とは、果たしていかなるものだったのか?

上記の『ショパン 愛と追憶のポーランド』でも、このあとでかなり長く引用されていたが、所々虫食いのようにこまごまと省略されていて、結局全文の三分の一くらいしか載っていないし、抜粋や要約だけでは「実際の筆者」である「H・Gという人物」の真意や意図までは汲み取れない。

したがって本稿では、問題の《エホ・ムジチュネ》のポーランド語原文から、直接、そのほぼ全文を引用したいと思う。

以下がそれである。

 

「(816日の出来事から)

ロンスク地方には、治癒に利用出来る冷泉が湧き出る地域がり、さらにこれらは稀に見られる自然の景観・眺望が美しいがために、避暑地としての名が有名になっている地域が多数あり、ライネルツはそれらの中でもトップの地位にある。鉄道機関車の吐く音が遠くに聞こえ、幅細い谷間に位置しているこの町は、小さな、静かな街であり、急流の小川が近くを流れていて、西方・南西方面から吹く強い風から街を守る樹木が多く茂る丘陵に囲まれている。

今世紀(19世紀)の前半からシロンスクの冷泉、特にライネルツのそれは、当時発行されていた“クールリスタ”(保養地新聞)が伝えるところによれば、街を訪れる客の大半はポーランド人たちであった。18268月初旬の“クールリスタ”は下記のニュースを伝えている:“ポーランドのワルシャワから来られたショパン夫人は、ソルム氏、フレデリック・ショパンと共に、療養のために来られた。ヘルム城に逗留されている。”(その後の同誌の記述によれば、ショパンは間借賃として、1週間に1タラルと10銀グロシェを払ったとのこと)。到着された翌日、母親と息子の二人は、一般に冷泉の路地と呼ばれているアーケード通りに現れ、その穏やかな姿とともに、その抜群な気品でもって、大衆の興味を引いた。

ショパン夫人は小柄で、ちょっと肥え気味の体を持った人で、綺麗な黒い目を持っておられる。その遺伝を受けた17歳の子息は、細身でデリケートな横顔を持つ若者である。我々の国の習慣として、この二人は黒服を着て、白い色のリボンをつけていて、それが喪中にあることを示している。それがため、若いショパンの病的な皮膚の白さが殊更に顕著に見える。ワルシャワ音楽学校に通っている内に、後の致命的な病難となる、彼の肺病の最初の兆しが現れた。病原を早期に治療するために、医者たちがライネルツでの療養を推薦した。強力な保護者であるラジヴィウ公の尽力のお陰で、(当時では)このように遠く離れた土地で療養する旅費が見つかったのである。若者によくある様に、病気を軽視する息子を看病するために、母親がこの療養を決断したのである。その後、初めてのコンサートをウィーンで行う計画が立てられたと言うことは、この療養がかなりの効果を出したものと想像される。

医者の指示通りの保養を履行しながら、フレデリックは毎朝冷水が噴出す出口に行き、そこで水を入れたコップを、若い、可愛い乙女から受け取ることを滞在中の行動の一つとしていた。彼女のやさしい視線と魅惑的な若さは、間もなく若者の情熱を燃やすに十分であった。リブシャ(チェコ名)と言う名前を持ち、彼の地で、冷泉の飲み場から歩いて15分くらいのところにある、ガラス工場で働く労働者の娘であった。4人の小さな兄弟がいて、母親は既に故人になっている。父親が朝から晩まで働いている家族の娘で、“冷泉の飲み場”で働く他に、家事を執り行い、父と小さい兄弟たちの世話をすることも彼女の役目であった。これほど多くの義務があっても、リブシャは生活に満足しており、いつも笑みを顔に浮かべていた。家での仕事をしている間は、好みのチェコの民謡を歌っていた。

ショパンに春を齎す少女との理想的な繋がりは、ある日、貧しい家の敷居を跨いだに絶頂に達した。その時、彼は、あたかも彼女がオペラのウエルテルに出て来るシャルロットの様に、お腹を空かせた子供たちにパンを割って与えているのを見たのである。このシーンは彼にとって忘れ得ない光景であり、それ以降、一人で、あるいは母親と一緒に散歩する時は、決まってシャルロットの住む家ヘ脚を向けた。子供たちのうちの一人が近くの小屋で搾ってきた、ヤギの乳を飲みながら、彼は皆と一緒に長時間飽きもせず、座って話し込むことが出来たし、小さな“母親”が掃除をし、甘いお菓子やささやかな手土産などを小さな兄弟たちに分け与えているのを眺めていた。一方、ショパン夫人は療養者たちの中に、影響力を持つ、立派な同国人たちと知り合いになった。彼らは近郊への散歩とか、クールサラ(保養地のホール)でのコンサートなどに彼女を誘った。彼女はそれらを拒否することはできないでいた。これは17年間の養育に対する相応のご褒美となった。

…(中略)…

ある出来事によって、ショパンは彼の“ガラス工場”(近辺)への訪問を中止せざるを得なくなった。母親は、息子フリデリックの何事にも一途に落ち込む性格を知っていたので、彼の若者らしいロマンスを心配し始めた;丁度その時、それを中止せざるを得ない出来事が起こった。しかも、それは近隣の人たちを深い悲しみに落とすものであった。

ある朝、ショパンが水飲み場を訪れた際、リブシャがいないで、彼女の代わりをする人に出会った。聞けば、彼の乙女の父親が前日の夕刻に工場で事故にあったとのこと:落下する鉄棒が彼の胸を強打し、押し潰した!とのこと。彼は急いで、何時もなら楽しく笑い、歌で溢れている家に走り込んだ。― 今は苦しみによる嘆きと絶望に満たされていた。

死者は労働服を着たままで、ソファーの上で静かに眠っている顔をしていた。その上には聖母の絵画が壁に掛けられ、蝋燭台に火が灯っていた。死者のそばではリブシャが跪いて静かに祈りを捧げており、子供たちは泣き崩れて、怖さに負けて、集まってドアに背を寄せていた。フレデリックが入り口に立った時、子供たちは彼に飛びつき、彼を取り巻いて、彼を心から信用しているかのように、孤児たちを守ってくれる保護者を見つけたかの如く抱きついた。リブシャは涙を拭きながら、急いで立ちあがり、訪問客に歓迎の手を差し伸べた。フレデリックは17歳の若者らしく、孤児たちを励まし、将来の保護を誓った。幸運にも、彼の母親の常識的な感覚が、ポーランド人にありがちな、騎士的な、そして高貴な感情の溢れを止めたのであった。

とは言っても、彼女は可能な限りの力で、不幸な孤児たちを息子と共に助けることに合意した。彼らが持参していた工芸品が大した価値があるものではないがため、タレントをもって物質的な不足を補うことをフレデリックに提案した。それはクールサラにおいて慈善コンサートを開く計画であった。ポーランドの高貴な貴族の夫人の一人が歌を数曲披露する用意があると申し出た。ショパンは喜んでコンサートの準備にかかった。そして、不幸な葬式の日(1826816日)に、クールサラでコンサートが開催された。このことは当時の新聞が記載している;しかしながら、コンサートの詳しいプログラムは現存していない。ショパンは自らの作曲による葬送曲と数曲のエチュードを演奏したと言われている。これは彼の国外での初めての演奏で、しかも、この様に高貴な目的のための演奏会であり、若いにも関わらず名声を勝ち取ったコンサートであった。彼の名人の域に達した曲はデリケートな感受性を持ち、演奏自体は見事なものであった。満席のホールは今まで聞かれなかった程の喝采で割れ、情熱的な歓声で沸いた。

このコンサートでの成功がその後のくショパンの芸術家としてのキャリアに影響を与えたことは疑いがない。

一方、土地の郡庁は孤児たちに援助を与え、リブシャの小さな兄弟たちは町の孤児院に入れられた。リブシャは一人になり、叔母が居るプラハへ移り住んだ。その旅行のための経費は彼女に与えられた。

若い二人の送別は悲壮なものであった。フリデリックは長く道に立ちすくみ、遠のいて行く駅馬車に向けてスカーフを振り続けていた。馬車の最後のトランペットの音が消えると、道端に伏し倒れ込み、母親の腕の中で咽び泣き、その胸の中では彼の最後の若者らしき“ロマンスのひとこま”の涙を流した。その後の彼の人生で、ライネルツの町の名前を誰からか聞くたびに、意気消沈して、深いため息を付くのが常であった。

HG.

ミュンヘンからの手紙」

HG.寄稿『音楽・演劇芸術誌《音楽のこだま》1892820日号』

HG/Echo Muzyczne1892820)より

 

もう一読しただけで「作り話」だと言うのが分かってしまうだろう。

話の内容もさる事ながら、致命的なのは、この記事の中には、現在判明している事実とは相容れない記述が二つもある事だ。

 

1.       一つは、“クールリスタ”(保養地新聞)なるものが伝えているとか言う、ポーランドのワルシャワから来られたショパン夫人は、ソルム氏、フレデリック・ショパンと共に、療養のために来られた」というもの。

2.       もう一つは、「不幸な葬式の日(1826816日)」と言うデータ。

 

先述したように、この年ライネルツを訪れたのは、母ユスティナ、姉ルドヴィカ、フレデリック、妹エミリアの4人である。

この事は、すでに18621869年に執筆されたカラソフスキーの著書にも記されている。

 

「フレデリックの両親は、末子のエミリイ(※エミリア)をシレジアのバット・ライネルツに赴かせるように医者から勧告されていたので、乳精療法を試みるためには、フレデリックを一緒にやる方がよいと考えた。それで一八二六年の休暇の最初に母親、ルイズ(※ルドヴィカ)、エミリイ、それにフレデリックの四人が当時人のよく出向いた温泉へ行った。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

“クールリスタ”(保養地新聞)なるものが伝えているとか言う「ソルム氏」と言うのが何者なのかは知らないが、あれだけユスティナとフレデリックの2人について詳細に記されていながら、そこに一緒にいたはずの2人の姉妹について全く触れられておらず、あくまでも「母親と息子の二人」と言う前提の下にこれを書いてしまっているのはどう考えても不自然だろう。

 

しかしながら、カラソフスキーの伝記では、ショパン家の4人のメンバーについては正確に記されてはいたものの、一方で、「慈善コンサート」が行なわれるに至った経緯については、『ワルシャワ通信』に書かれていた事と食い違っている。

 

「滞在中薬湯に空しい救いを求めていた憐れな寡婦が、二人の子供を忠実な乳母に残して死んだ。ところが葬式の費用も帰国の路銀も十分に無かった。彼等の困窮を聞いて、ショパンは彼の天才を最も高尚に利用した。彼はこの気の毒な子供達のために音楽会を催して、思い通りに纏まった金を得た。なおまたその練達の演奏に依って、鑑賞家の賞讃を博し、その慈善に依って寛大な人々の尊敬を獲得した。彼は最も慇懃な注目の対象になった。演奏会後数日を経て、フレデリックと家族の者はライネルツを去った。」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より  

 

カラソフスキーは、亡くなったのは「寡婦」だとしているが、一方の『ワルシャワ通信』では、亡くなったのは「父親」である。

おそらくこのHG.」なる匿名の筆者は、1888年に出版されたニークスの著書『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』でカラソフスキーの伝記に作り話の多い事が暴露されたのを知り、カラソフスキーの記述をあまり信用していなかったのかもしれない。あるいは、元々ショパンの伝記に関してさほど詳しくなかった可能性もあるが…。

いずれにせよ、このHG.」なる人物は、この当時ここにショパン家の姉妹が一緒にいたと言う事実を知らないのだ。知らないからこそ、あくまでも「母親と息子の二人」と言う前提の下にこれを書いてしまっている訳である。そもそも知っている訳がない。なぜなら、姉妹が一緒だったと言う事は、当時の『ワルシャワ通信』にも書いていなかったからだ。

その事実が決定的となったは、『《音楽のこだま》1892820日号』から12年後、つまり1904年に出版された『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』で初めて公表された、先の「ジヴニー書簡」によってである。したがって、HG.」なる人物がこの「物語」を創作していた頃には、まだ決定事項として認識されていない事だった。

これだけでもう、もはやこのHG.」が当時を知る関係者でもなんでもない事が分かってしまうだろう。

 

同様に、「不幸な葬式の日」1826816とはっきり特定してしまっているのも、「ジヴニー書簡」で明らかにされた新事実を知らないからこそ、このようなデータを勝手にでっち上げてしまえたのである。

そもそも、「湯治に訪れていた父親を亡くした数名の孤児」の、その「父親」の葬式が16日)である訳がない。

ジヴニーの手紙では、ショパンが慈善コンサートの事を知らせてきた手紙の日付が11日付」となっている。つまり、孤児達の父親は、すでにその11日」以前には亡くなっているのだ。どんなに遅く見積もっても「10日」には亡くなっているはずの人の葬式が、1週間も後の16日)になってやっと執り行われるなど絶対にあり得ない。しかも冷房もない当時の夏場において、これは常識的にあり得ない設定なのである。

したがって、残念ながらHG.」は、せめて1904年の『フレデリック・ショパンの未公開の記念品』が出版されるまで、この「物語」を捏造するのを待つべきだったと言わざるを得ない。

すべては、愛すべきジヴニーの決定的な証言によって覆されてしまった訳である。

 

 

さて、そうすると、この「ライネルツ伝説」の真の実態とは、実際はどのようなものだったのだろうか?

それを考えるヒントは、ショパンがこのあとライネルツからワルシャワのコルベルクとエルスネルに送った手紙2通の中にある。

 

次回は、そのうちの1通である「コルベルク書簡」について検証したいと思う。

 

[2010年12月7日初稿/2010年12月18日改訂 トモロー]


【頁頭】 

検証5-2.ショパンが沈黙する本当の理由

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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