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検証5:「ライネルツ伝説」の謎――

Inspection V: The mystery of the Reinertz legend -

 


2.ショパンが沈黙する本当の理由―

  2. The true reason why Chopin remains silent -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 マズルカ風ロンド▼≫
 

今回紹介するのは、ライネルツに滞在中のショパンがワルシャワのコルベルクに送った手紙である。

 

前回紹介した、「ジヴニーからショパン家の子供達への手紙」では、“ショパンがニコラに宛てた11日付の手紙」”について言及されていた。その事から、ショパンがライネルツで行なった2回の「慈善コンサート」のうちの少なくとも1つが11日」以前に行なわれていた事が分かっている。

今回の「コルベルク書簡」は、ショパンがその11日付の手紙」を書いてからちょうど1週間後に書かれている事がポイントとなる。

 

■ライネルツのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワのヴィルヘルム・コルベルクへ■

(※原文はポーランド語)

「ライネルツ 1826818

親愛なるヴィリス!

ボロニィ、ソハチェフ、ウォヴィチ、クトノ、クウォダヴェン、コウォ、トゥレク、カリシュ、オストルフ、ミェンヅィブルズ、オレシニツァ、ヴロツワフ、ニムスフ、フランケンシュタイン、ヴァルテン、グラーツを通過したのち、僕達はライネルツに到着し、そこに落ち着いている。――2週間、僕はヴェイ(※乳清、あるいは乳漿、英語でホエイ。チーズを取った後の水)や地元の水を飲んでいる;みんなから少し元気そうだと言われるが、僕は太って今まで以上に怠け者になった、僕が長い間ペンを取る気にならなかったのはそのせいだと思ってくれたまえ。しかし信じてくれ、僕が送ってる生活ぶりを知ったら、家でのんびり坐ってるような時間を見つけるのが難しい事を君も認めてくれるだろう。――朝、遅くとも6時までには、病人は全員、鉱水の出る井戸に集まる;そこでは、ゆっくり散歩してる療養温泉の客のために、ひどい吹奏楽隊が演奏していて、これがまるで漫画のキャラクターを1ダースほど集めてきたような連中で、率いるファゴット吹きはやつれてて、鼻がかぎタバコで汚れて斑点みたいになってて、ご婦人方はみんな馬を怖がって飛び退くみたいに驚いている;そこでは、ある種の夜会、と言うか仮面舞踏会があるが、誰もが仮面を着ける訳ではなく、少数だけだ、なぜなら、それらは店が用意しているので、その他は付き合いで首を吊っている[ポーランドとロシアの諺:“そしてユダヤ人は付き合いで首を吊った”]。 ――療養所から町を結ぶこの素晴らしい遊歩道には、朝飲まなければならない鉱水のコップの数にもよるが、たいてい8時まで行列が続く、それから(みんな一緒に)朝食に行く。――朝食の後、僕はいつも散歩に出かけ、12時までに戻る、昼食を食べなければならないからで、昼食後、再び鉱水の井戸に行かなければならない。昼食後の仮面舞踏会は、たいてい朝のよりもいくらか盛大になり、みんな朝着ていたのとは違う衣装を見せびらかしている! 再び不愉快な音楽があって、それが夕方まで続く。僕は、昼食後は温泉水を2杯飲めばいいだけなので、割と早く夕食に帰れる。夕食後は眠りに就く、だから、これでいつ僕に手紙が書けると言うのか?...そんな次第で、僕の毎日は、こんな調子で次々と過ぎて行く。あまりにも早く過ぎ去るので、もう長い事ここにいるが、まだ僕はどこも見ていない。

本当は、ライネルツを囲む山の中を歩き、しばしばこの土地の渓谷の眺めにうっとりしているが、しかし降りるのは苦手で、時折四つん這いになっている。ただし誰もが行ってるのに僕が行ってないところがある。僕には禁止されているのだ。ライネルツの近くにホイショイエルと呼ばれている岩山があって、見事な景色なのだが、頂上の空気が健康に良くないとの事で、すべての人が行けると言う訳にはいかず、残念な事に僕もそんな患者の一人だ。

だけど気にしないさ;僕は「隠者の住みか」と呼ばれている山にすでに行って来た、なぜならそこに隠者がいるからだ。ライネルツで一番高い所に上がって、百歩と十いくつかの石段を真っ直ぐ垂直に登らなければならない。そこからライネルツ全体の壮大な景色が見渡せる。僕達はホーエンメンツェと言う所にも行くつもりで、そこは美しい環境にあると言われている;実現するのを期待している。

しかし、こんな事を書いて君を退屈させても仕方ないし、僕が見たものをすべて思ったように書くのは難しいから、君にはよく分からないだろう。僕はこの土地の習慣にはすっかり馴染んだので、何も心配はない。――最初の頃は、シロンスク地方では女の方が男よりよく働くので驚いた;しかし僕自身が何もしないので、すぐにそれを受け入れられたよ。

ライネルツには多くのポーランド人がいたが、今ではその仲間は少なくなった。そのほとんど全員と友達になった。同国人の間でも楽しく過ごしていたが、そのリビングルームでの催しに、ドイツ人の上流階級の家族も加わった。僕達がいる家には、ヴロツワフから来ている婦人がいる;彼女の子供達は、元気で賢い男の子で、フランス語が少し話せる。彼らはポーランド語を話したがって、そのうちの一人と僕は友達になったが、彼が僕に(間違ったポーランド語で)ニチコンハ” と話しかけるので、僕は(正しいポーランド語で)こんにちは”と答えてやる。僕は彼が好きなので、“こんばんは”と(いうポーランド語を)教えてやると、翌日彼は僕に“こんにちは”と言う代わりに“ニチバンハ”とごちゃ混ぜに言うのだ。どうしてこうなるのか僕には分からないが、彼に“ニチバンハ”ではなく“こんばんは”だと説明するのは全く一苦労だよ。

       “こんにちは” dobry dzień=ドブルィ・ヂェイン」 英語で言うところの「good day

       “ニチコンハ” zien dobry=ジェン・ドブルィ」 英語で言うなら「day good

       “こんばんは” dobry wieczór=ドブルィ・ヴィェチュル」 英語で言うところの「good evening

       “ニチバンハ” zien wiesiór=ジェン・ヴィェシュル」 英語で言うなら「day evening

僕の殴り書きで君の時間を無駄にしてしまったようだ、多分君だって他にしたい事があるだろうに! しかし、もう終わりにするよ、僕は2杯の温泉水とジンジャーブレッド(生姜入りパン)を食べるために鉱水の井戸へ出かけなければならない。

永遠に変わる事なく君のF.ショパン

ジェヴァノフスキが僕に手紙をくれた;明日返事を書こうと思う。彼は君に手紙を書いたと言っている;彼はいいやつだ、僕らを忘れなかった。アルフレッド・コルナトフスキが両親と姉妹とでここに来ている;フォンタナの友人らしいので、彼に一昨日発ったと話しておいてくれたまえ。君のパパとママに僕から尊敬の念を。僕は君に何を書いたのか自分でも分からない、たくさん書いたとは思うが、読み返す気にもならない。」

ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』

Chopin/CHOPINS LETTERSDover PublicationINC)、  

ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』

CORRESPONDANCE DE FRÉDÉRIC CHOPINLa Revue Musicale

及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LANDPolish Music PublicationsCracow)より

 

       この手紙は、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、原物のその全文を写真コピーで確認することが出来る。手紙は3枚の、やや縦長の4角い便箋からなっている。

 

 

さて、一読してお分かり頂けたように、ショパンはこの中で、例の「慈善コンサート」について一言も触れていない。

なぜなのだろう?…と言うのが今回のテーマである。

 

まず、冒頭の文章から分かるように、この手紙はショパンがこの夏コルベルクに書いた最初の手紙である。

「ボロニィ、ソハチェフ…(略)…グラーツを通過したのち、僕達はライネルツに到着し、そこに落ち着いている。――2週間、僕は…(略)…

しかもショパンは、一昨年のシャファルニャからの「コルベルク書簡」同様、今回もコルベルクから送られて来た手紙に対して返事をしている。

「僕が長い間ペンを取る気にならなかったのはそのせいだと思ってくれたまえ」

このように言い訳がましく書いているのは、コルベルクがショパンの筆不精を責める内容を書き送って来ていた事を示唆している。

       ちなにみ、「ジェヴァノフスキが僕に手紙をくれた」と書いてあるのも興味深い。おそらくジェヴァノフスキは、例年通り自分の田舎であるシャファルニャで夏休みを過ごし、そこからライネルツのショパン宛に手紙を寄こして来たのだろう。彼は、昨年、一昨年のように、ショパンと共に夏休みを過ごせない事を残念がって、そのような内容の手紙を書いて来たに違いない。それに対してショパンは「明日返事を書こうと思う」と書いているが、その「返事」は現在確認されていない。

 

つまりショパンは、コルベルクからの手紙に対する返事で、「ライネルツに到着」以来2週間」に渡る出来事を報告しているにも関わらず、つい1週間前に行なった「慈善コンサート」については一言も触れていない訳である。

これは普通に考えたら不思議だろう。

しかも相手はコルベルクである。

ショパンはワルシャワを発つ前に、彼ために自作のポロネーズを贈ったほど、コルベルクとは音楽と言う共通の趣味で結ばれている友人同士だと言うのに…だ。

 

これについては、ポーランドの作家ウィエルジンスキが以下のように書いている。

 

「……シレジアの旅は、フレデリックがライネルツで二度の公開演奏会を催さなかったならば、大した事件ともならなかったであろう。それは、ポーランドの国境を越えた最初の音楽会となったのである。

計画はフレデリック自らの発案で、母とルドヴィカの助けを借りたものであった。確実ではないけれども、信頼できる記録に従えば、フレデリックは、温泉でお客の接待をしているチェコ生れのリブシャという愛らしい娘に興味を感じて、毎日逢っていた。彼女の父親は工場で働き、娘は死んだ母親に代わって家事にいそしんでいた。ある日、娘は温泉に姿を見せなかった。そしてフレデリックは彼女の父が鉄のローラーで肺を砕かれて死んでしまった、という報告を耳にした。リブシャは葬式の費用さえ充分に持ち合わせなかったので、音楽会はリブシャのため、またその弟や妹たちのために計画されたのだった。温泉演芸場は超満員となったので、音楽会は繰り返され、目的は達せられた。

ただし彼の自由になった、えたいも知れぬピアノを用いてのこの計画で、フレデリックがどのように成功したかということは、謎のまま残っている。大方、彼は独奏会をそれほど真剣には考えなかったのだろう。とにかく、二日後に書いたコールベルク宛の手紙には、何もそのことには触れていなかった。」

カシミール・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝共訳

『ショパン』(音楽之友社)より 

 

このウィエルジンスキの言うところの「確実ではないけれども、信頼できる記録」と言うのは、前回紹介した《エホ・ムジチュネ[音楽のこだま]なる『音楽・演劇芸術』誌に掲載された、HG.」なる匿名の筆者による投稿記事の事である。

あれは、同じポーランド人作家であるバルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカが「真実のほどは保証できないものの、物語に人の心を打つ力があることは確か」と評し、同じくアルベルト&アントニ・グルジンスキが「ロマンティックな恋物語」と評した「物語」の事である。

さすがのウィエルジンスキでも「確実ではないけれども」と慎重だが、それでいて、どうしてあれを「信頼できる記録」と言えてしまうのか?恐ろしく謎だ。要するにこのウィエルジンスキと言う人物は、「嘘と分かっていても本当の事にしてしまって吹聴する」と言う具合に、彼が「ポトツカ贋作書簡」をそのように扱って世界中に広めたのと同じ心根でもって、HG.」の投稿記事をも扱っている事を自ら認めてしまっている訳だ。

 

それに、ウィエルジンスキは「独奏会」と書いているが、前にも書いたが、「コンサート」と言うのは決して「独奏会」ではない

日本ではどちらも一緒くたにされているが、両者は完全に別物である。特に当時の音楽環境においては、これらは完全に区別される。

 

「当時の演奏会事情は今とは随分異なっており、最初から最後までピアニストがひとりだけで出演するリサイタル形式の演奏会はまだなかった。」

吉成 順著

『ショパンの「正しい」聴き方』(青春出版社/2000年)より

 

 

この事については、アトウッドの著書が詳しく説明してくれているので、ここで紹介させていただきたい。

 

「ショパンは子どものころからそれほど健康だったわけではなかったが、初めは若いが故のエネルギーと野心が体の弱さを補った。しかしパリに住み始めたころから、「インフルエンザ」「気管支炎」「喉頭炎」「神経炎」とさまざまに呼ばれた病の発作に常に悩まされるようになった。これらはすべて、彼を死に至らしめた肺結核の前兆だったのである。じわじわと進行してゆくこの病のために、ショパンは当時のプロのピアニストに要求された骨の折れる仕事をこなすことができなかった。エージェントやマネージャーという職業がほとんど知られていなかった時代には、演奏会を企画するという困難な作業に、気丈にも一人で立ち向かわなければならなかったのである。その作業には会場を借りる交渉をしたり、プログラムを広告する方法を探したり、チケットを売る窓口を確保したり(演奏会場でチケット売り場を備えているところはまれだった)、共演してくれるよう他の音楽家を説得したり、オーケストラやコーラスを募ったり、練習させたりという雑用も含まれていた。

こういう準備のほとんどは、十九世紀初頭のころの演奏会の特徴だった、異常なほど雑多に詰め込まれたプログラムから来るものだった。当時の催しは我々が想像するような純粋に文化的な出し物とはほど遠く、出演者や楽器をさまざまに取り混ぜたいわゆる「ごった煮」だった。その点、今のテレビのバラエティー・ショーに似ていると言えなくもない。音楽家だけでなく役者がプログラムに名を連ねることもたびたびだった。…(中略)…今日のような落ち着いたソロのピアノ・リサイタルが登場したのは、一八三九年のことで(リストが始めた)、十九世紀後半になるまで幅広い人気は得られなかった。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社/1991年)より

 

 

ここにもあるように、「ソロのピアノ・リサイタル」は、フランツ・リストによって初めて行なわれるに至った訳だが、それは決して「コンサート」とは言わない。言う訳がないのだ。

そもそも「コンサート(=Concert)」と言うのは、元々「共同で行なう」と言う意味の言葉から転じて用いられるようになった言葉であり、「コンチェルト(=Concerto)」が「協奏曲」であるのも、その語源が同じだからなのである。

       ちなみにポーランド語では、「コンサート(=Concert)」も「コンチェルト(=Concerto)」も、どちらもKoncertと表記され、ショパンの書いたポーランド語原文の文章でもそうなっている。なので、それが「演奏会」を意味しているのか「協奏曲」を意味しているのかは、文脈によって異なる。

 

今回ショパンがライネルツで行なったのも、あくまでも「コンサート」であって、決して「リサイタル(=独奏会)」ではない。

事実、『ワルシャワ通信』でも「二度にわたるコンサートと書かれていたし、「ジヴニー書簡」でもショパン自身が「困窮した孤児のための慈善コンサートと書いていた。

したがって、ショパンが一人でピアノの「独奏会」を開いたのではない。

要するに、たかだか17歳の若者が、病気の療養で訪れた右も左も分からないような外国の地で、共演者から何から全て自分で手配しなければならない「コンサート」を、「自らの発案で」開こうなどと考える事自体があり得ないと言う事だ。

たとえば、ショパンが1830年に祖国を旅発つ際に行なった「ショパンのための告別演奏会」ですら、それはリサイタルではなく、あくまでも「コンサート」だった。だから勿論、そこではショパンがオーケストラと共にコンチェルトを弾いただけでなく、その他の出し物で彼以外の共演者達が何人も名を連ねていたし、その中には、ショパンが自ら出演交渉をしたワルシャワ音楽院の関係者らが含まれていた。

すなわちそれが当時の「コンサート」と言うものなのだ。

 

 

そこで、最初の問題に立ち戻るが、ショパンはなぜコルベルク宛の手紙でこの「慈善コンサート」について触れていないのか?

それは、その「慈善コンサート」についての話だけは、すでに「父上に宛てた11日付の手紙」を通して、ワルシャワの人々みんなに報告済みだったからである。

要するに、これは以下のような事なのだ。

 

「十八世紀は書簡文の全盛期といえるほど、人々は手紙を頻繁にやり取りしていた。しかも手紙自体が長く克明なだけでなく、手紙を出す前にコピーをわざわざ残しておくなど、手紙は後世のための記録として明確に意識されていた。特に旅先からの手紙は、友人たちの間で回し読みされたり、集まった近所の人々の前で読み上げられたりするのが通常だった。旅に出る人が非常に少なかったうえ、情報や娯楽の乏しかった当時としては、こうした旅先からのホット・ニュースは貴重な情報源であり気晴らしの種にほかならない。」

本城靖久著

『馬車の文化史』(講談社現代新書)より

 

 

        ショパンの時代は19世紀だが、事情はそれほど変わらない。この事は、後年ショパンがウィーンやパリからエルスネルに書いた手紙や、エルスネルがパリ時代のショパンに書いた手紙に、その事実を裏付ける記述がある。

 

ショパンがワルシャワのニコラ宛に書いた11日付の手紙」は、正に「旅先からのホット・ニュース」として、22日付の『ワルシャワ通信』よりも早く、家族や友人知人達に「慈善コンサート」の話題を送り届けていたのである。

こと自分の音楽活動に対しては異常に謙虚なショパンにしてみれば、ややもすれば自慢話になりかねないような「慈善コンサート」について、コルベルク相手に2度も報告を重複させて書くはずがないのだ。

これが仮に、コルベルクがワルシャワにいるのではなく、一昨年のようにどこか別の田舎からライネルツのショパン宛に手紙を送って来たのなら話は別だ。

その場合は、コルベルクは「慈善コンサート」について知り得ない訳だから、当然ショパンは彼にも個別に報告してやらなければならなくなる。しかし今回は、コルベルクはワルシャワにいたのでその必要がなかったのである。

同じ理由で、ショパンは、29日」付のエルスネル宛の手紙でも、当然「慈善コンサート」については一切触れていない(※下図参照)。

 

1826年における、ショパンの夏休みのスケジュール―

7月

 

8月

 

 

 

 

 

 

1

 

 

1

 

2

 

3

 

4

到着?

5

 

2

 

3

 

4

5

6

7

8

6

 

7

 

8

9

10

演奏会?

11

ニコラ宛

12

9

10

 

11

12

13

14

15

13

14

15

16

 

17

18

コルベ宛

19

ジヴニー

16

17

 

18

19

 

20

21

22

20

21

22

ワル通信

23

24

 

25

 

26

 

23

24

 

25

 

26

 

27

28

29

27

28

 

29

エルス宛

30

31

 

 

 

高等中学校の公式行事

30

31

大学入試

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

このように、同時期に別の相手に書いた手紙の内容に重複があるかないか、それは、ショパンの手紙を読み解く上で見落としてはならない重要事項だと以前にも書いたが、この事を念頭に置いておけば、ウィエルジンスキのように、「とにかく、二日後に書いたコールベルク宛の手紙には、何もそのことには触れていなかった」などと言う疑問を抱く事もないのである。

ウィエルジンスキの時代には、もうすでに「ジヴニー書簡」が世に出ているのだから、それと「コルベルク書簡」を読み合わせてみれば、自ずとこのような疑問は解消されてしかるべきなのだ。

 

ここでもう一つ面白い事に気付く。

ショパンが「慈善コンサート」について知らせた「父上に宛てた11日付の手紙」は、それがワルシャワに届いたのが約1週間後の19日」だった事である。

つまり、ショパンが18日」にコルベルク宛の手紙をしたためている時点では、まだワルシャワのコルベルクは「慈善コンサート」について知らないと言う事になる。

だから、コルベルクがライネルツのショパン宛に送って来た手紙にも、「慈善コンサート」に関する質問が書かれているはずがない訳である。

ショパンはもちろん、情報が時間差で行き違いになっている事は重々承知している。だから、すでに11日付の手紙」で報告している内容は敢えて重複させず、それ以外の話をコルベルク宛に書き連ねている訳である。

そして、ジヴニーが19日」に書いた手紙がライネルツに届いたのも、おそらく1週間以上は後だと思われ、おそらくそこには、ジヴニー以外の面々の手紙も一緒に同封されていたはずである。たぶんその中には、エルスネルからのメッセージも含まれていたはずで、だからショパンは、29日」にそのエルスネル宛に手紙を書いたのだろう。

 

 

何はともあれ、ライネルツにおけるショパンの「慈善コンサート」については、「ワルシャワ通信 1826822日号」でも「彼の才能を知る人達からの要望もあって」と書かれていたように、ショパンが「自らの発案で」開いた可能性はないと言い切ってしまっていい。

まして、ユスティナやルドヴィカなどは、ショパン以上に音楽関係ではど素人なのだから、とうてい彼女達もコンサート開催に関しては何の助けにもなり得ない。

これは、そのような身内から発案されたイベントではないのだ。

 

その具体的な実態については、引き続き、次回の「エルスネル書簡」で考察したいと思う。

 

[2010年12月16日初稿 トモロー]


【頁頭】 

検証5-2.「ライネルツ伝説」、その物語の舞台裏

ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く 

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