検証4:看過された「真実の友情物語」ビアウォブウォツキ書簡――
Inspection IV: Chopin & Białobłocki, the true friendship story that was overlooked -–
12.行間から姿を消したビアウォブウォツキ――
12. Bialoblocki disappeared from the space between the lines.-
今回紹介するのは、「ビアウォブウォツキ書簡・第10便」である。
■ワルシャワのフレデリック・ショパンから、 ソコウォーヴォのヤン・ビアウォブウォツキへ(第10便)■ (※原文はポーランド語で、一部ラテン語、ドイツ語、フランス語が混在) |
「[ワルシャワ 1826年6月] 親愛なるヤシ! この手紙に通常の命名日のお祝いの言葉を期待してはいけない。これらの感情、吐露、感嘆符、アポストロフィ、悲哀に訴える章、その他、ありきたりな馬鹿げた表現、自慢げな話、ナンセンスな言葉、たわごとなど;これらの言葉は、真実の感情が欠けていて、陳腐な表現に満足しているような人の頭には良いかもしれない;しかし、11年間も続いた友情、つまり、共に132ヶ月も数え合い、それが始まってから468週、3960日、95040時間、5702400分、342144000秒間も、一緒に呼吸して来た相手に対して必要だろうか。そんなお互いを思い出させる事や、お祝いの手紙を書く事なんか必要ではない。だって、僕は書きたいと思う事なんか決して書かないだろうからね。 したがって、ad rem(※ラテン語で「適切に、賢明に」)、具体的な事から始める。まず最初に、消化できないものを吐き出させてもらおう、慈悲深きお方が数ヶ月も手紙を書いて来ないのだが、なぜ? 如何なる理由で? Cur?(※ラテン語で「なぜ?」) Warum?(※ドイツ語で「なぜ?」) Pourquoi?(※フランス語で「なぜ?」)...それが僕を非常に苛立たせる、もしも改善されないとなると、僕らの関係が悪くなる。僕は理由もなしに頻繁に手紙を書く事ができない、君も知っているように、僕は特許書を胸に貼り付けるために勉強している、しかしそのソーセージは犬のものになっていないのだ;僕達の置かれている状況と言えば、1年生の“振り落とし”が控えている。Operam et oleum perlit(※ラテン語の諺で「無益な苦労は時間を無駄にする」)、君もTyrocinium(※ラテン語の初級者用の本)を覚えているいるだろう。しかし、ありきたりな事を期待するのは無理だ、紙を汚さない方がいいだろうし、気分の悪くなる事を書くのではなく、君の気分が良くなるニュースを書こう。Ecce homo!(※ラテン語で、「この男を見よ!」)。見よ、昨日、人間が人間界に到着した。リンデ、リンデが継承者を授かったんだ。この事は僕達みんなを嬉しくさせた。僕達と同じように君も喜んでくれるだろう。前回の手紙から君が知っているように、僕達の兵舎では頻繁にこのようなニュースが聞こえてくる。 2、3週間後に《魔弾の射手》が上演されると言う話題でざわめき立っている。想像する限りでは、《魔弾の射手》はワルシャワで騒ぎを起こすだろう。何度も上演されるのは間違いないし、当然そうなるだろう。とにかく、我々の歌劇団がかの有名なウェーバーの作品をうまく演じられるかにかかっている。しかし、ウェーバーが《魔弾の射手》で意図した狙いを考えると、あのドイツ風の主題、不可思議なロマンティシズム、普通以上に凝ったハーモニー、特にドイツ人には受けるかも知れないが、ワルシャワの聴衆はロッシーニの軽い歌に馴れているので、最初の方は共感すると言うよりも、むしろ専門家の耳を以って聞く事になり、そういう理由で賞賛されるだろう、ウェーバーがどこでも賞賛されているように...[判読困難]。 Ecce femina, non
homo(※ラテン語で、「この女を見よ、男ではない」)。校長が授かったのは娘だった。昨日は息子と言っていたのに、今日は娘だ、最新ニュースの方が本当らしい。昨日我々は、尊敬すべき人であるコジツキ氏の訪問を受けた。彼は生徒の一人の喉にヒルを貼り付けに来た。それは喉に施される処置だったので、消化管や喉頭管や喉仏について話していた。彼は色付きのストッキングに汚れたブーツを履き、その他は、いつものようにヨレヨレのシャツと、新しい、と言うよりはむしろ修理から戻ってきたばかりの帽子等を身に着けていた。僕からの楽譜を受け取ったかどうか、詳しく教えてくれたまえ。僕のつまらないもの(小品)を君に送らなかったが、その代わりに、アレクサンデル・レムビエリンスキのワルツは君を喜ばせるはずだ。そして、もしもこの曲が君には難しいと思えたら、指を動かす事から始めて欲しい。そうすれば、君の錆びついた指にも良いかもしれない(なぜなら、ビショフスヴェルダーでは、君は弾かなかっただろうと想像するから)。君に見合った曲だと言う事が分かるだろう、君と同じように素晴らしい。僕がプリウスの精神で最後のコンマを打ったと思わないでくれよ、習慣とは恐ろしいもので、犬だって時にはご主人様にとって美しく見えるものだ...何と言う揶揄だろう:犬と飼い主!...少しの間だけなら、僕以上に忠実な犬はいないよ。ポドゥビエルスキは病気になってから2度ほど危ない目にあったけど、ずっと良くなっている。1ヶ月ほど前、通りを歩いていたら、コジエイ通りで馬車がひっくり返るのに出くわした。僕が駆け寄ると、ポドゥビエルスキが伸びているのを見つけた。それは、彼が外の空気を吸うために危険を冒した最初の出来事だった。幸運にも、馬車には誰かが一緒に乗っていたので、何とか彼を助け起こし、別の馬車に乗せたよ。 我々の植物園にどのような新種があるかを知って欲しい。それを見たら君は頭を抱えるだろう。あんな花壇が築かれ、小道、並木路、潅木などが植えられている。その中へ入って行くのが楽しみな程で、と言うのも、僕達は植物園に入るための鍵を持っているからね。もしも君が僕の手紙を少々乱筆だと思ったとしても、驚かないでくれたまえ、僕は弱っているから。もしも夏季休暇について書いていない事に気付いても、驚かないでくれたまえ、次の手紙で書くから。もしも僕の馬鹿げたクラヴィチェンバロを君に送らなかったとしても、不思議に思わないでくれたまえ、それが僕なんだから。もしも(僕らの)家から何らかの願いごとを君が期待しているなら、次に書く事を読んでくれたまえ。ママと同じように、パパや姉妹達、彼らと同様に、知人達も(君に)挨拶を送るよう僕に命令している。ルドゥヴィカのみが君に何も挨拶を送らない。なぜなら、2週間前から田舎のスカルベク夫人の館で過ごしているからだ。今日か明日には(帰ってくるだろうと)見込んでいる。ドモヴィッチがワルシャワに来ていたらしい。ジヴニー氏は元気だ。デケルト夫人はあまり良くない。バルジンスキ氏が特別な挨拶を送って欲しいと。だから、幸福に暮らしてくれたまえ、僕の好きなヤシ、手紙を待っているよ、心から抱擁する。 F.F.ショパン 家中のみんなから、君のパパに敬意を送る。 子供達からは、コンスタンス嬢の顔に、僕からは彼女の手にキスを。 もしも君がシャファルニャ、プウォナ、グルビニ、ラドミン、オルヌヴェックを訪ねる事があったら、僕の名を思い出すようよろしく伝えてくれたまえ、そしてジャガイモ畑を眺めながら寂しげにこの詩を語り伝えてくれたまえ: “ここは、かつて彼が勇敢に馬を乗り入れた場所、ここでクラポツカ夫人は彼に援軍を送った”と。」 |
ヘンリー・オピエンスキー編/E.L.ヴォイニッヒ英訳『ショパンの手紙』
Chopin/CHOPIN’S LETTERS(Dover Publication、INC)、
ブロニスワフ・エドワード・シドウ編『フレデリック・ショパン往復書簡集』
CORRESPONDANCE
DE FRÉDÉRIC CHOPIN(La Revue Musicale)、
スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』
『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy
Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej
Młodzieży Akademickiej)、
及び、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』
Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LAND(Polish Music Publications、Cracow)より
※ ソウタン版の註釈には、「使用された用紙は白、2枚、各用紙のサイズ:25
x 21cm。透かし模様: 第1ページ − プロシアの鷲、第2ページ − フリデリック・ヴィルヘルム三世Fryderyk Wilhelm III、プルシア王。」とある。
※ この手紙は、《魔弾の射手》について書かれているページのみ、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』で、その原物を写真コピーで確認する事が出来る。
まずは手紙の日付[1826年6月]について。ソウタンは次のように説明している。
「日付については、下記手紙の“くだり”を下に特定した: a.
ヤン・ビアウオブオッツキの命名日、従い、多分、6月24日。(これが夏季であったことは、“特許書を胸に貼り付ける“、“植物園”と“夏季休暇”の事を書いている)。 ※
この「特許書」と言うのは、大学の入学試験を受けるための免許書の事だそうで、これはすなわち、「卒業証書を得る」と言う事を意味している。 b.
“2、3週間後に《魔弾の射手》が上演される” − このオペラが初めてワルシャワで上演されたのは1826年7月3日。 c.
“特許書を胸に貼り付ける“ − ショパンは高等中学校を1826年7月に終了した。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
この推定に問題はないようである。
それでは、手紙の内容の方を順に見ていこう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#1. |
「[ワルシャワ 1826年6月] 親愛なるヤシ! この手紙に通常の命名日のお祝いの言葉を期待してはいけない。これらの感情、吐露、感嘆符、アポストロフィ、悲哀に訴える章、その他、ありきたりな馬鹿げた表現、自慢げな話、ナンセンスな言葉、たわごとなど;これらの言葉は、真実の感情が欠けていて、陳腐な表現に満足しているような人の頭には良いかもしれない;しかし、11年間も続いた友情、つまり、共に132ヶ月も数え合い、それが始まってから468週、3960日、95040時間、5702400分、342144000秒間も、一緒に呼吸して来た相手に対して必要だろうか。そんなお互いを思い出させる事や、お祝いの手紙を書く事なんか必要ではない。だって、僕は書きたいと思う事なんか決して書かないだろうからね。」 |
※ ソウタンの註釈によると、「この日時の計算では、ショパンは計算違いをしている:週の数は全く誤算をしている。日数も違っている。なぜなら、1年を360日としているから。その他の数字は正しく計算しているが、多分1年を360日として計算している。」とある。ちなみに私は理数系が大の苦手なので、今までこの数字に関して確かめ算をしようとなどとも思わなかったし、したがって当然、これが「計算違いをしている」事になど気付きもしなかった。今回、ソウタン版で註釈されているのを見て初めて知ったのである。つまり、ソウタン版以降の書簡集では、オピエンスキーもシドウもヘドレイも、誰もこのショパンの「計算違い」について触れていないと言う事だ。
第1便の時にも書いたが、1826年の時点で「11年間」と言う事は、ショパンがまだ6歳で、ビアウォブウォツキが9〜10歳の頃から、この2人はすでに仲が良かったと言う事である。
ソウタン版の「序文」にもあったように、11年前の1815年と言うのは、ビアウォブウォツキがワルシャワ高等中学校に入学した年であり、彼はその年からショパン家に寄宿するようになった。つまりこの二人は知り合ってすぐに仲良くなっていたのだ。
そんな二人の間では、過去を懐かしむより今の方が大事であり、また、今さら儀礼的な事に気を使う必要もないと言いたいのだろう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#2. |
「したがって、ad rem(※ラテン語で「適切に、賢明に」)、具体的な事から始める。まず最初に、消化できないものを吐き出させてもらおう、慈悲深きお方が数ヶ月も手紙を書いて来ないのだが、なぜ? 如何なる理由で? Cur?(※ラテン語で「なぜ?」) Warum?(※ドイツ語で「なぜ?」) Pourquoi?(※フランス語で「なぜ?」)...それが僕を非常に苛立たせる、もしも改善されないとなると、僕らの関係が悪くなる。」 |
※ 今回の手紙では、主にラテン語その他の混在がやたら目立つが、そう言えばショパンは、去年の今頃もこんな感じだった。去年は7月末の試験前と試験中に書いた手紙に、「ポーランド語表記のフランス語」が混在していた。やはり試験勉強で頭が一杯な時期には、それが手紙の筆致にも表れるようである。
さて、ここに書いてあるように、今回の第10便は、ビアウォブウォツキが「数ヶ月も手紙を書いて来ない」事に対する抗議の手紙である。
これは前々回の第8便の時と同じで、あの時の書き出しはこうだった。
「親愛なるヤシ!
あまりにも長い事君から知らせが届いていないので、僕はひどく残念に思っている。僕が前に手紙を書いたのは1825年で、もう1826年だというのに、この間、君から手紙を1通ももらっていない! 時折コンスタンチア嬢、別名コストゥシャからルドヴィカ宛に手紙が来るだけで、僕らのよりも頻繁にやり取りされている、その手紙の中で、君の健康について何やら書いてある、僕ら家族が君の健康についてどれほど関心を持っているか、君は知っているだろう。」
この時は、これの前の第7便が「1825年」のクリスマス・イヴだったので、およそ1ヶ月半強の「音沙汰なし」だった。
今回の第10便では「数ヶ月」と書いているので、そうすると最低でも2ヶ月近くはビアウォブウォツキから手紙をもらっていない事になるが、実際はどうだったのか。
1. 《魔弾の射手》の初演が「1826年7月3日」で、それを「2、3週間後に」控えている時期となると、第10便が書かれたのはだいたい「6月12日〜19日」あたりと考えられる。
2. 前回は「ビアウォブウォツキからの手紙」を「4月15日頃」と推定しておいたが、それがちょうど2ヶ月前に当たるので、それと照らし合わせても、今回の第10便は「1826年6月中旬」に書かれたと考えて間違いなさそうである(※下図参照)。
1826年 |
||||||||||||||||||||||||||||||
4月(ビアウォブ便) |
|
5月(第9便) |
|
6月(第10便) |
|
7月(魔弾の射手) |
||||||||||||||||||||||||
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|||
|
|
|
|
|
|
1 |
|
1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
|
|
|
|
1 |
2 |
3 |
|
|
|
|
|
|
1 |
|||
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
|||
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
14 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
16 |
17 |
9 |
10 |
11 |
12 |
13 |
14 |
15 |
|||
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
21 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
23 |
24 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 |
22 |
|||
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
28 |
29 |
30 |
31 |
|
|
|
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
|
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
|||
30 |
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
30 |
31 |
|
|
|
|
|
つまり今回は、少なく見積もっても、約2ヶ月間の「音沙汰なし」だったと言う事になる。
第8便の時はまだ、冗談交じりにビアウォブウォツキの事を罵りながらかなりしつこく「返事」を要求していたが、今回は、「それが僕を非常に苛立たせる、もしも改善されないとなると、僕らの関係が悪くなる」と言う具合に、かなり本気度が高そうな書き方である。しかも第8便の時には、コンスタンチア嬢からルドヴィカへの手紙によって間接的にビアウォブウォツキに関する情報が得られていたのに、今回はそれすらもない。
つまり、ショパンの手紙の行間から、ビアウォブウォツキの姿が完全に消えてしまっているのだ。
このような事は今回が初めてであり、そして唯一なのである。「ビアウォブウォツキ書簡」はこのあと3通書かれているが、そのどれにも、多かれ少なかれ何らかの形で彼の姿を垣間見る事ができる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#3. |
「僕は理由もなしに頻繁に手紙を書く事ができない、君も知っているように、僕は特許書を胸に貼り付ける(※卒業証書を得る)ために勉強している、しかしそのソーセージは犬のものになっていないのだ;僕達の置かれている状況と言えば、1年生の“振り落とし”が控えている。Operam et oleum perlit(※ラテン語の諺で「無益な苦労は時間を無駄にする」)、君もTyrocinium(※ラテン語の初級者用の本)を覚えているいるだろう。」 |
この箇所に関して、ソウタンの註釈では以下のように説明されている。
「高等中学校の規則では、通常の第6学年のコースは2年続く。ただし、“殊更なる勤勉、能力と模範を結合している”生徒達のために、これが1年間に短縮された。第1年生であるショパンは、すなわちその1年間の第6学級に在籍していたので、高等中学校の生徒達が参加する公式行事(1826年7月27日、28日、29日に行われた)に参加して、勉学を終了した。しかし、大学に進学する資格を与える許可書を(大学に)提出しなかった。公式の試験が終わると共に、7月の終わりを待たずに、バッドゥ・ライネルツに向け出立した。この試験は7月31日に開催された(F. Hoesick, 第1巻、ページ284-286)。」 スタニスワフ・ペレシヴェット=ソウタン編『フレデリック・ショパンからヤン・ビアウォブウォツキへの手紙』 『Stanisław Pereświet-Sołtan /Listy Fryderyka Chopina do Jana Białobłockiego』(Związku Narodowego
Polskiej Młodzieży Akademickiej)より |
要するに、ショパンは、通常であればもう1年高等中学校に通わなければならないところを、「“殊更なる勤勉、能力と模範を結合している”生徒」であったためにそれが1年で済み、無事「勉学を終了した」と言う事らしい。「1年生の“振り落とし”」と書かれているのは、おそらくその辺の事を指して言っているのだろう。
ところが、彼は「大学に進学する資格を与える許可書を(大学に)提出しなかった」ようで、「7月31日」の大学入試を受けなかったと言う事である。その理由については、ショパンが「ライネルツに向け出立した」からと説明されているが、そうではないだろう。ショパンがこの夏「ライネルツに向け出立した」のは、妹のエミリアと共に温泉治療を受けるためであるから、それではショパンは健康上の理由で大学に進学しなかった事になってしまう。
そもそもショパンは、最初から「ワルシャワ大学」に行くために「ワルシャワ高等中学校(=リツェウム)」に編入した訳ではない。
「ポーランドでは、三国分割を受けた後に教育に力を入れた。元ワルシャワ公国内では、もともとフランスの教育制度を導入していたため、フランスのリセーと同じく7年制の公立中学・高等学校のシステムをとり入れており、この7年制の学校をリツェウムと呼んだ。上級の専門学校・大学への進学を希望する者は、このリツェウムにおいて公的教育機関での課程を修了したという認定を必要としたが、ほとんどの貴族・豪族の子弟は、家庭教師につくか、あるいは私塾で基礎教育を見につけたため、上級学校に進学する前に、必ずこのリツェウムに転入した。ショパン自身も私塾(※父ニコラの経営する寄宿学校)から、4年次に転入している。」 『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)より |
このように、前にも書いたが、目的はあくまでも、「ワルシャワ音楽院」に入る資格を得るためであるから、「大学に進学する資格を与える許可書を(大学に)提出しなかった」のも当然なのだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#4. |
「しかし、ありきたりな事を期待するのは無理だ、紙を汚さない方がいいだろうし、気分の悪くなる事を書くのではなく、君の気分が良くなるニュースを書こう。Ecce homo!(※ラテン語で、「この男を見よ!」)。見よ、昨日、人間が人間界に到着した(※赤ん坊がこの世に生を受けた)。リンデ、リンデが継承者(※つまり男の子)を授かったんだ。この事は僕達みんなを嬉しくさせた。僕達と同じように君も喜んでくれるだろう。前回の手紙から君が知っているように、僕達の兵舎では頻繁にこのようなニュースが聞こえてくる。」 |
※ 「リンデ」は、ソウタンの註釈によると、「サムエル・ボグミウ・リンデ(Samuel Bogumi? Linde、1771−1847)。ワルシャワ高等中学校の校長で、優秀な語学教師、ポーランド語辞書の著者。」とある。シドウの註釈ではさらに、「リンデはショパン家の親友だった」とある。ショパンは1825年に、この校長の妻であるリンデ夫人に《ロンド ハ短調 作品1》を献呈している。これはショパンが自らの意志で正式に作品番号を施して出版した最初の作品である。それを献呈するくらいなのだから、ショパン家にとってリンデ家がどれほど親密で、なおかつ重要な間柄だったかが窺われる。
※ 「前回の手紙から」と書いているのは、ソウタンの註釈によると、「おそらく、手紙第9便に、ショパンがズベレヴィッチ・ヴェルケに娘が生まれたと書いていた事を示す。」とある。
※ 「僕達の兵舎」は、ソウタンの註釈によると、「カジミエジョフスキ宮殿を、一般的に “陸軍幹部候補生の兵舎”と呼んでいた(スタニスワフ・アウグスト王の時代に、ここに陸軍幹部候補生の学校があった)。」とある。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#5. |
「2、3週間後に《魔弾の射手》が上演されると言う話題でざわめき立っている。想像する限りでは、《魔弾の射手》はワルシャワで騒ぎを起こすだろう。何度も上演されるのは間違いないし、当然そうなるだろう。とにかく、我々の歌劇団がかの有名なウェーバーの作品をうまく演じられるかにかかっている。しかし、ウェーバーが《魔弾の射手》で意図した狙いを考えると、あのドイツ風の主題、不可思議なロマンティシズム、普通以上に凝ったハーモニー、特にドイツ人には受けるかも知れないが、ワルシャワの聴衆はロッシーニの軽い歌に馴れているので、最初の方は共感すると言うよりも、むしろ専門家の耳を以って聞く事になり、そういう理由で賞賛されるだろう、ウェーバーがどこでも賞賛されているように...[判読困難]。」 |
※ 以下、ソウタンの註釈より。
1.
《魔弾の射手》⇒「ウェーバーのオペラ、ワルシャワでの最初の上演は1826年7月3日であった。大変評判が良かった。」
2.
「ウェーバー」⇒「カレル・マリア・ウェーバー(Karel Maria Weber、1786−1826)。有名なドイツの作曲家。」
いつになく、ショパンが評論めいた事を書いている。他でもない、彼自身が最も楽しみにしているので、少し興奮気味なのが窺える。これは、彼が今までのように単に観客としてそれを楽しむだけではなく、音楽家の卵としてそこから何かを学びたいと考えている、その欲求の現れでもある。
「我々の歌劇団がかの有名なウェーバーの作品をうまく演じられるか」と言うのは、第5便の時にロッシーニのオペラ《セビリヤの理髪師》を観に行った時の事と照らして言っているのだろう。あの時は、演者が風邪をひいていたりとグダグダだったが、それでもショパンは「良い出し物だった」と言っていた。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#6. |
「Ecce femina, non homo(※ラテン語で、「この女を見よ、男ではない」)。校長が授かったのは娘だった。昨日は息子と言っていたのに、今日は娘だ、最新ニュースの方が本当らしい。」 |
ショパンが手紙を書いている最中に、リンデ校長の子供に関する「最新ニュース」が飛び込んで来たようである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#7. |
「昨日我々は、尊敬すべき人であるコジツキ氏の訪問を受けた。彼は生徒の一人の喉にヒルを貼り付けに来た。それは喉に施される処置だったので、消化管や喉頭管や喉仏について話していた。彼は色付きのストッキングに汚れたブーツを履き、その他は、いつものようにヨレヨレのシャツと、新しい、と言うよりはむしろ修理から戻ってきたばかりの帽子等を身に着けていた。」 |
ショパンがおしゃれや身だしなみに気を使った事は有名だが、そのせいだろうか、彼は時々、このように他人の服装について描写する事がある。
たとえば第5便では、ジヴニーの服装について「自分よりもかなり疲れきった緑色の厚いフロックコート」と書いていた。
※
この「緑色の厚いフロックコート」と言うのは、ポーランド語原文では「スルトゥッテ」(※正しくはスルドゥット)と書かれており、それを外国人に分かりやすいように意訳したもの。
ショパンはここで、この「尊敬すべき人であるコジツキ氏」が、医者としては立派な講釈をとうとうとたれながらも、その姿格好はとてもそんな偉い人には見えないと言う、その滑稽さが面白くてこんな風に書いているのである。
このようにショパンは、ただ単に情景を描写するだけのためにそれを客観描写するような書き方はしない。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#8. |
「僕からの楽譜を受け取ったかどうか、詳しく教えてくれたまえ。僕のつまらないもの(小品)を君に送らなかったが、その代わりに、アレクサンデル・レムビエリンスキのワルツは君を喜ばせるはずだ。そして、もしもこの曲が君には難しいと思えたら、指を動かす事から始めて欲しい。そうすれば、君の錆びついた指にも良いかもしれない(なぜなら、ビショフスヴェルダーでは、君は弾かなかっただろうと想像するから)。君に見合った曲だと言う事が分かるだろう、君と同じように素晴らしい。」 |
ここで「僕のつまらないもの(小品)を君に送らなかったが」と書かれているのは、前回の第9便でショパンが、「君の要望に従い、僕自身のつまらないもの(小品)もいくつか添えておく」と書いていた事を受けている。
ここで言及されているショパンの自作曲とは、前回も説明したように、ほぼ間違いなく、この1826年に作曲され同年に出版された、《マズルカ 変ロ長調》(※第52番、版によっては51番)と、《マズルカ ト長調》(※第53番、版によっては50番)の事である。ショパンはこれらをビアウォブウォツキに送ると書いておきながら、結局送っていなかったのだ。
おそらく、出版に際して手直しの必要性を感じたために、ビアウォブウォツキに送るのも一旦保留したのだろう。実際この2曲には、それぞれショパン自身による改訂稿が存在するからだ。
そして、それらが無事出版された後、ショパンは翌「1827年1月8日」付の第12便で、「僕のマズルカを届けるよ、それについては君は知っているだろう。後で二つ目を届ける」と、今度こそちゃんとビアウォブウォツキに送ったのである。
それゆえ今回は、その自作曲の代わりに取り敢えず他人の作品を送っておいた訳だが、この「アレクサンデル・レムビエリンスキ」と言うのは、
1.
第5便で「レムビエリンスキ某というのがパリからワルシャワにやって来ていた。彼は総裁の甥で、パリに6年いて、今まで誰も聴いた事のないようなピアノを弾いた」と書かれていた人物で、
2. さらに前回の第11便でも、「レムビエリンスキについては、以前君に書いた事あるけど、彼の事をよく見かける。彼がいかに綺麗に弾くか、信じてくれないだろう。先日、僕のところに来た。非常に嬉しかった」
…と書かれていた。彼は「才能のあるピアニスト、若死にした」と註釈されていたが、作曲もしたようだ。しかもそこそこ難易度も高い曲だったようで、ショパンは「百聞は一見にしかず」とばかりに、ここで彼の作品をビアウォブウォツキに送ったのだろう。
そのビアウォブウォツキだが、ショパンは前回の第9便でこうも書いていた。
「それと、カチコフスキのポロネーズだ、非常に素晴らしく、美しい、一言で言えば、聴いていて楽しめる作品であり(つまり、敢えて言わせてもらえば、君の錆び付いた指をも動かす事だろう)、」
つまり、ビアウォブウォツキの指を錆び付いると書いていたその理由を、今回ははっきりと、「ビショフスヴェルダーでは、君は(ピアノを)弾かなかっただろうと想像するから」と説明している訳だ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#9. |
「僕がプリウスの精神で最後のコンマを打ったと思わないでくれよ、習慣とは恐ろしいもので、犬だって時にはご主人様にとって美しく見えるものだ...何と言う揶揄だろう:犬と飼い主!...少しの間だけなら、僕以上に忠実な犬はいないよ。」 |
※ 「プリウス」は、オピエンスキーの註釈によると、「古代ローマの文人」とある。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#10. |
「ポドゥビエルスキは病気になってから2度ほど危ない目にあったけど、ずっと良くなっている。1ヶ月ほど前、通りを歩いていたら、コジエイ通りで馬車がひっくり返るのに出くわした。僕が駆け寄ると、ポドゥビエルスキが伸びているのを見つけた。それは、彼が外の空気を吸うために危険を冒した最初の出来事だった。幸運にも、馬車には誰かが一緒に乗っていたので、何とか彼を助け起こし、別の馬車に乗せたよ。」 |
この「ポドゥビエルスキ」については、前回の第9便でこう書かれていた。
「ロゴジンスキと言えば、ポドゥビエルスキを思い出す。彼の不幸な出来事について、君に説明しなければならない。それは3ヶ月前の話で、…[手紙の端が破れていて判読不能]…彼は風の吹くまま、何処かを歩き廻って、足が麻痺してしまった。足も手も動かなくなった。最適任者であるザビエウォが治療しているけれど、病気が治ると期待して良いだろう、なぜなら、少し良くなっているからで、電気治療が彼を幾分か助けた。」
「ポドゥビエルスキ」は「ワルシャワ大学・美学部の学生」と言う事なので、つまりビアウォブウォツキの大学の同窓生であるから、当然ビアウォブウォツキにとっては気になる話題のはずである。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#11. |
「我々の植物園にどのような新種があるかを知って欲しい。それを見たら君は頭を抱えるだろう。あんな花壇が築かれ、小道、並木路、潅木などが植えられている。その中へ入って行くのが楽しみな程で、と言うのも、僕達は植物園に入るための鍵を持っているからね。」 |
この「我々の植物園」については、前回の第9便でも、「僕の植物園、つまり例の古い宮殿の裏の別名だが、宮殿管理委員会が命令してそれを綺麗に手入れさせた」と書かれていた。
当時ショパン家が暮らしていた「カジミエジョフスキ宮殿の裏」にある植物園である。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#12. |
「もしも君が僕の手紙を少々乱筆だと思ったとしても、驚かないでくれたまえ、僕は弱っているから。」 |
どうやらショパンは、この時体調が良くなかったらしい。
今年のショパンは、「2月12日」付の第8便でも「みんなが病気している。僕もだ」と書いていたように、どうも体調が思わしくないようだ。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#13. |
「もしも夏季休暇について書いていない事に気付いても、驚かないでくれたまえ、次の手紙で書くから。」 |
「夏季休暇について」は、ショパンは前回の第9便で、今年は例年のようにシャファルニャへはもう行かず、直接ソコウォーヴォのビアウォブウォツキ宅へ「招待」してもらう形で過ごそうかと考えていたような節が見受けられた。しかしそれは、ビアウォブウォツキに手紙で「今は」来るなと釘を刺されてしまったので、おそらく現時点ではまだどうなるか保留状態だったのではないだろうか。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#14. |
「もしも僕の馬鹿げたクラヴィチェンバロを君に送らなかったとしても、不思議に思わないでくれたまえ、それが僕なんだから。」 |
この「僕の馬鹿げたクラヴィチェンバロ」と言うのは、「僕のつまらないもの」と同じ意味で、再三に渡って言及されている、ショパンが自分で作曲したピアノ曲の事である。
「それが僕なんだから」と言うのは、おそらく、ショパンがいつも校正に時間をかけるために作品を仕上げるのが遅いと言う事を意味しているのではないだろうか。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#15. |
「もしも(僕らの)家から何らかの願いごとを君が期待しているなら、次に書く事を読んでくれたまえ。」 |
上記4つの文章は、すべて「もしも〜なら、〜」と言うパターンをわざと繰り返して並べ立てている。
そして、以下は毎度お馴染みの、みんなからの挨拶になる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#16. |
「ママと同じように、パパや姉妹達、彼らと同様に、知人達も(君に)挨拶を送るよう僕に命令している。ルドゥヴィカのみが君に何も挨拶を送らない。なぜなら、2週間前から田舎のスカルベク夫人の館で過ごしているからだ。今日か明日には(帰ってくるだろうと)見込んでいる。」 |
そうなのである。ここに書いてあるように、今現在、姉のルドヴィカが「田舎のスカルベク夫人の館」、つまりジェラゾヴァ・ヴォラに行ってしまっていて、「2週間前から」不在だったのである。つまり、いつもなら、たとえ直接ビアウォブウォツキから手紙が来なくても、姉達の文通によって間接的に何らかの情報がもたらされていたのだが、ここ2週間はそれすらも望めない状況にあった訳だ。
こういった事情もあって、おそらくショパンの苛立ちも頂点に達してしまったのだろう。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#17. |
「ドモヴィッチがワルシャワに来ていたらしい。ジヴニー氏は元気だ。デケルト夫人はあまり良くない。バルジンスキ氏が特別な挨拶を送って欲しいと。だから、幸福に暮らしてくれたまえ、僕の好きなヤシ、手紙を待っているよ、心から抱擁する。 F.F.ショパン 」 |
「ドモヴィッチ」と言う人物については詳細不明だが、この人物は前回の第9便でも、「ドモヴィッチがこの前ワルシャワに来て、君によろしくと言っていた」と書かれていたので、おそらくショパンは、前回そう書いた事をきれいに忘れてしまっているようだ。なので、もはや「ドモヴィッチがワルシャワに来ていたらしい」と、その記憶自体が曖昧になってしまっている。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#18. |
「家中のみんなから、君のパパに敬意を送る。 子供達からは、コンスタンス嬢の顔に、僕からは彼女の手にキスを。」 |
例の表現、「子供達」である。
毎度の事ながら、ここでも、ショパンが自分の姉妹達を指して「子供達」と言う時の「2つの絶対必要条件」がきちんと満たされている。
1.
手紙の追伸部分の挨拶でしか使われない事。
2.
その際、必ず「パパとママ」、あるいは「両親」が併記される事。ここでは、「両親」が「家中のみんな」に含まれてしまっているだけで、やはり意味は同じ事である。
今までこの表現は、1824年と1825年の夏休みにシャファルニャから出された「家族書簡」の中でそれぞれ使われ、それ以外では、「ビアウォブウォツキ書簡」において、
1.
1825年「9月」の第4便、
2.
「10月30日」の第5便、
3.
「1826年2月12日」の第8便、
4.
そして前回[1826年5月15日]の第9便に続いて、
5.
今回が5回目となる。
ショパンからビアウォブウォツキへ 第10便#19. |
「もしも君がシャファルニャ、プウォナ、グルビニ、ラドミン、オルヌヴェックを訪ねる事があったら、僕の名を思い出すようよろしく伝えてくれたまえ、そしてジャガイモ畑を眺めながら寂しげにこの詩を語り伝えてくれたまえ: “ここは、かつて彼が勇敢に馬を乗り入れた場所、ここでクラポツカ夫人は彼に援軍を送った”と。」 |
※ 「プウォナ(Płonę)」は、ソウタンの註釈によると、「ここはプウォンネ(Płonne)とあるべき。」とある。
この最後の「詩」はやや意味不明ながら、ショパンが『シャファルニャ通信』で発揮していたユーモア感覚に通ずるものがあり、何か微笑ましい。
要するにこの「彼」とはショパン自身の事であり、「勇敢に馬を乗り入れた」と言うのは、「熊の上の猿みたいに恐る恐る乗っかってる」と自ら評した乗馬姿の事である。後半の「クラポツカ夫人は彼に援軍を送った」と言うのが我々第三者には意味不明だが、もちろんショパンとビアウォブウォツキの間では、ちゃんと楽屋オチとして通じていると言う事が肝心である。
さて、「ビアウォブウォツキ書簡」は、ここで一旦小休止を迎える。
次の第11便が、なんと3ヵ月半近くも後の「10月2日」になるのだ。
※ この第11便は、書簡集その他で「11月2日」付と紹介される事がほとんどだが、それはショパン自身の書き間違い。これに関しては、実際に郵便局のスタンプが「10月2日」に押されていると言う、れっきとした証拠が残っている。書かれている内容を見ても、「11月」では辻褄が合わず、間違いなく「10月」に書かれたものである事が分かる。
ビアウォブウォツキとの友情物語のその後の展開も気になるところだが、ここで我々は、この夏、「ライネルツ伝説」と言う摩訶不思議な御伽噺に遭遇する事になる。
[2010年11月28日初稿 トモロー]
―次回予告―
次回、謎に満ちた「ライネルツ伝説」を徹底検証する、
をお楽しみに。
【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証4-11:行間から読み取れるビアウォブウォツキからの返事(その2)▲】 【筆者紹介へ▼】
Copyright © Tomoro.
All Rights Reserved. |