検証2:汚れなき初期書簡の意義――
Inspection II: The significance of the early letters without the dirt -
1.ショパンの本当の生年月日(誕生日)は一体どれなのか?――
1. When is the true birthday of Chopin?-
≪BGM付き作品解説ブログ ショパン:ピアノソナタ 第1番 ハ短調 作品4 第1楽章≫
[VOON] Chopin:Sonata I-1
Op.4 /Tomoro
ショパンの生年月日(誕生日)には諸説あり、これに関しては、今現在でもまだ結論は出ていない、とされている。
その諸説とは、だいたい以下の三つである。
1.
1809年3月1日
※
これは、ショパンの妹のイザベラの証言で、カラソフスキーの伝記に書かれていた日付。
2.
1810年2月22日
※
これは、ショパンが生まれたジェラゾヴァ・ヴォラの教会の洗礼証明書や出生証明書に書かれていた日付。
3.
1810年3月1日
※
これは、ショパンが、「ポーランド文芸協会の初代会長チャルトリスキ宛に書いたとされている手紙」に書かれていた日付。
※
これ以外にも、単発の少数意見として、「1809年3月2日」説、「1810年2月8日」説などがある事がニークスの本で紹介されているが、いずれも検証不可能なため、ここでは割愛させていただく。
フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』
Niecks/Frederick Chopin as a Man and Musician(Dodo Press )より
このうち、本来であれば、公的資料を根拠とする2番目の「1810年2月22日」説が決定的となるはずである。しかし今現在では、3番目の「1810年3月1日」説の方が、「暫定の定説」として広く取り扱われている。しかしながら、本稿の序章にも書いた通り、私は全くそうは考えていない。
私は、ショパンの正しい生年月日(誕生日)は、間違いなく1番目の「1809年3月1日」だと考えている。
理由は簡単で、なぜなら、それを証言したのが、ショパンの妹のイザベラだからだ。兄を愛し、尊敬している実の妹がそう証言しているのだから、それを疑う理由など何もないのではないだろうか? イザベラだけではない。「3月1日」と言う日付部分だけに関しては、ショパンの母ユスティナと弟子のジェーン・スターリングも手紙の中でそう書いているのだし、「1809年」と言う年号だけに関しても、少年期のショパンのピアノ教師ジヴニーを始めとする、当事ショパンと直接関わりのあった人々の証言が、一つ残らず、ショパンが「1809年」に生れた事を指し示しているからである。
その一方で、ショパンの出生証明書、及び洗礼証明書の「1810年2月22日」と言う日付は、当時のポーランドの法律や習慣から鑑みて、「いい加減なものだった」とする意見が大勢を占めている。
そして残るは「チャルトリスキ宛の手紙」だが、これが本当にショパンが書いたものかどうかを証明する確実な資料が存在しないため、第三者によって捏造された可能性が非常に高い。まず第一に、ショパン自らが、自分の生まれた年を「1810年」だと認識していたはずが無いからだ。それは、当の本人を含めた関係者達の証言を総合してみても明らかで、ここで問題にすべきは、「ショパンの生年月日がいつなのか?」ではなく、彼自身が「自分の生年月日をいつと認識していたか?」なのである。
それでは、それらの資料を全て洗い出してみよう。
―ショパンの生年月日(誕生日)―「1809年3月1日」説を裏付ける資料― |
1.母ユスティナの手紙 この手紙の日付は不明だが、ショパンとマリア・ヴォジンスカの婚約問題に触れている事や、その他の内容から、1837年2月頃と推定できる。ここには、ショパンの誕生日について以下の記述がある。 「親愛なるフレデリック 近いうちに三月一日と五日〔フレデリックの誕生日と命名日〕が来ます。それなのにあなたを抱擁できません。」 アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳 『ショパンの手紙』(白水社)より ※ ただしここでは、「何年生れ」かまでは記されていない。 |
2.妹イザベラの証言 これは、カラソフスキーの伝記に書かれていたショパンの生年月日がそれに当たり、そこでは、「1809年3月1日」となっている(※ただし、この本の邦訳版では、後に発見された出生、及び洗礼証明書の記述を受けて、訳者によって「一八一〇年二月二十二日」と訂正され、その由注釈が施されているが、本文中の一部で、その「一八一〇年」が「一八九〇年」と誤植されているので注意されたい)。 カラソフスキーはその序文で、自らを「ショパンの家族と交際していた」と称し、「ドイツ及びフランスの雑誌や著書に見出される間違った日付及び誤述を訂正した」と宣言している。 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より ※ ちなみにこの「間違った日付」と言うのは、実は、「世界初のショパン伝」となったフランツ・リストの著書の中で、「ショパンは1810年に、ワルソーから程遠いゼラゾヴァ・ヴォラに生まれた」と書かれていた事を指しているのである(※ただしリストは、ショパンの誕生日が「何月何日」かまでは書いていない)。 リスト著/蕗沢忠枝訳 『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より |
3.フォンタナの証言 ニークスは次のように書いている。 「初期の刊行物の中では、カラソフスキーの伝記にあったように、そのデータ(※ショパンの生年月日)は1809年3月1日とされ、J.フォンタナ(1855年にショパンの遺作に序文を書いた)も同意している――」 フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』 Niecks/Frederick Chopin as a Man and Musician(Dodo Press )より フォンタナはショパンの少年時代からの親友であり、パリ時代にはショパンのマネージャー兼雑用係として、公私に渡ってショパンをサポートしている。そのフォンタナがショパンの生年月日を「1809年3月1日」と証言している。 |
4.ジェーン・スターリングの証言 ショパンのピアノの教え子の一人で、晩年の彼の世話をしたジェーン・スターリングも、ショパンの誕生日を「3月1日」と証言している。 「実際にはフレデリック・フランソワ・ショパンは、後に自分でも認めたように、一八一〇年三月一日に生れたのである。誕生日をもっともよく知っていたはずのショパンの母もまた、ある手紙で、この日付けのことに触れている。私の考えでは、ジェーン・スターリング(一八〇四〜一八五九。パリでのショパンの女弟子。スコットランドの貴族、ショパンをひじょうに尊敬していた)が、一八五一年三月一日にルドヴィカ・イェンドジェイェフィッチ夫人(一八〇七〜一八五五。ショパンの姉)に宛てた手紙で言っていることが、決定的なものだと思う。スターリング嬢は、まずこの日にパリのペール・ラシューズ墓地にショパンの墓参りをしたことを語り、その後で次のように言っている。 『私たちはそこに花をささげました。今日の記念の日は誰にも知られていません。昔彼が言いました。「僕の誕生日を知っているのは僕の母、つまり僕の家の人と寄宿学校(?)の家政婦とある女性だけです。そしてこの女性は僕の誕生日のことを思い出してくれるでしょう……」私はこの言葉をうれしく思っています……』(この手紙は、スターリング嬢のフランス語が間違いだらけなので翻訳することがむずかしい)」 ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳 『ショパン』(音楽之友社)より ※ ただしこれも、ユスティナの手紙と同様に、「何年生れ」かまでは言及されていない。 |
5.『ワルシャワ評論』の記事 1817年に、ショパンの楽譜が初めて出版される。出版されたのは、この頃書き留められた2曲のうちの1つだそうで、ワルシャワのある神父が印刷所を持っていて、その彼によって出版されたという事である。同時にこれは、現存するショパンの出版物で最も古いものであり、そしてそれは、翌1818年1月の『ワルシャワ評論』で、次のように書かれている。 「『一八一七年度出版のポーランド作曲家作品表』 作曲家というものは、常に作家の中に含まれていないが(.この人たちもまた常に著者であるという事実にもかかわらず)、われわれは一友人の手によって印刷され、頒布された次の作を黙殺することができない。「ヴィクトアル・スカルベック伯爵令嬢へ献呈、八歳のフレデリック・ショパン作曲、ピアノのためのポロネーズ」八歳のポーランド舞曲の作曲家は、真の音楽的神童である。彼はワルシャワ予備学校のフランス語、および文学の教授ニコラス・ショパンの息子であり、最も至難なピアノ曲を最も容易に、卓越した趣味で演奏し得るばかりではなく、数曲の舞曲、変奏曲をも作曲しているが、それらは驚嘆すべき手練と、特殊な新鮮な構想に満ちたものである。もし彼が、ドイツあるいはフランスに生まれていたならば、その名声はすでに今日までに全世界に広まっていたであろう。願わくば、この記事を読む読者は、われわれの国にも天才は生まれる、そして彼らは一般大衆の認識不足のために、広く知られることがないということを心に留めてほしいものである」 カシミール・ウィエルジンスキ著/野村光一・千枝共訳 『ショパン』(音楽之友社)より ここでは、「一八一七年度出版」の楽譜に対して、ショパンの年齢が「八歳」と書かれている。この年齢は、少年ショパンが作曲した曲を採譜したジヴニーによって書き込まれたものである。ジヴニーは少年時代のショパンのピアノ教師であるばかりでなく、ショパン家とは家族同然の親しい間柄だった。その彼がショパンの年齢を間違えるなどあり得ない。そしてこれは、ショパンの生れたのが「1809年」でないと計算が合わない年齢である。 さらに、この記事を書いたのは、ショパンの名親(代父、ゴッドファーザー)であるフレデリック・スカルベクだとされており、それが事実なら尚の事、この記事の内容に疑う余地はない事になる。 |
6.ザモイスカ夫人の証言 これは、少年ショパンが初めて公の場でコンサートを開いた際のエピソードである。 「一八一八年に協会組織の維持費の問題に直面したザモイスカ夫人は、その年、慈善協会の会長になっていた才気ある詩人政治家ユリアン・ウルシン・ニェムツェヴィッツに助言を仰いだ。二人は話し合いの末、協会主催のコンサートを開くことにした。ニェムツェヴィッツによると、大衆の関心を集めるためのプログラムのなかに神童(七歳のショパンのような)による演奏を入れようと言いだしたのは夫人だったようである。彼は何年か後に出版された気ままに書き綴った日誌の中に、この提案がどのように成されたかを皮肉っぽく書き残している。「コンサートを開くなら、ショパンに出演させなければ…」と夫人が主張したらしい。 「まだあの年だからということで、おおぜいの人を呼べると思うの。もう九歳だけれど――でも待って、いい考えがあるわ! 三歳だと宣伝しておけば、みんなの興味をそそるでしょう。考えてもみて! 三歳の子がクラヴィコードに向かって、小さな手を右や左に交差させながら、難しい協奏曲を弾くのよ。だれだって聴かずにはいられないでしょう。……でもショパンが舞台に上がったら、それほど幼くないことはすぐにわかってしまうわね。そうしたらどうしたことになるかしら。ああ、このことは協会でもっとよく話し合わなくてはならないわね」 結局、一八一八年二月二十一日土曜日に、ガセータ・コレスポンタ・ワルシャフスキェゴ・イ・ザグラニチゴーネ紙に広告を載せた際、夫人のこの常識外れな意見はまったくとりあげられなかった。」 ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳 『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社)より ここにあるように、「一八一八年二月二十一日」を前にした時点で、ショパンの歳を「もう九歳」と証言している。これもやはり、ショパンが「1809年」生まれでないと計算が合わない。 |
7.リストのショパン伝 さて、世界で初めてショパンの伝記を書いたのは、かのフランツ・リストである。 彼は、ショパンのパリ時代、特にその初期において、ショパンと親しく交際していた。そのリストが、ショパンが亡くなってから2週間のうちに彼の伝記の執筆を思い立ち、その取材のために姉のルドヴィカに質問状を送った。しかし彼女は、その質問に答えるのを拒否してしまったそうなのである。そのためリストは、彼がのちにニークスに語ったところの「私が頼りにしても良いと信じたパリの友人達から」情報を得て、ショパン伝を書く事になる。 その結果、非常に興味深い事に、リストの著書では、ショパンの「誕生の年代」について、「第六章 ショパンの生い立ち」で以下のように書かれている。 「ショパンは1810年に、ワルソーから程遠いゼラゾヴァ・ヴォラに生まれた。幼い頃の彼には、子供には極めて珍しい奇妙な癖があった。小ちゃなショパンはどうしてか、自分の年齢を憶えることが出来ないのだった。 幼いショパンは自分の年を、1820年に歌手のカタラーニ夫人から貰った時計の文字でやっと記憶した。その時計には、 『当年10歳のフレデリック・ショパンに贈る。カタラーニ夫人より』 と銘が刻んであったからだ。 時計の文字。この典拠が無かったら、彼の誕生の年代は、恐らく知られなかったと思われる。時計を大切に保蔵したショパン――おもえば彼の心に、こうした未来を予感する或る芸術家的感能がふと閃いたのではあるまいか。」 リスト著/蕗沢忠枝訳 『ショパンの芸術と生涯』(モダン日本社)より
この著書の文章は、当時のロマン主義特有の美文調に貫かれている。なので、その行間を汲み取らねばちょっと意味が分かりにくいが、これはつまり、リストは、生前ショパン自身の口から、「彼の誕生の年代」について、現在正しいとされている「1810年」ではなく、「1809年」だと、そう聞かされていたと言う事なのである。それなのに、そのショパンの死後、彼の遺品の中にあった「カタラーニ夫人から貰った時計」によって、実はショパンは、「自分の年齢」を間違って憶えていた事が分かったのだと、リストはここで、そのように書いているのである。 しかし、ショパンは間違っていたのではない。実際は、そのエピソードをリストに教えた「パリの友人」の情報に不足があったのだ。確かに、「カタラーニ夫人から貰った時計」というのは存在するし、そのエピソード自体も本当の話である。しかし、その時計に実際に刻まれていた文字と言うのは、『カタラーニ夫人は10歳のフレデリック・ショパンにこれを贈る。ワルシャワにて1820年1月3日』と、単に年号だけでなく、細かい日付まで入っていたのである。 ※
これは、クリスティナ・コビランスカ編『故国でのショパン』や、属啓成著『ショパン 音楽写真文庫』にその原物の写真が掲載されており、その文字をはっきりと確認する事が出来る。 属啓成著 『ショパン 音楽写真文庫 III』(音楽之友社)より
これが「1820年」という年号だけだったのなら、確かにリストが書いていた通りの話にもなりうるだろう。しかし、それが「1820年1月3日」まで細かく記されていたという事になれば、当然話は変わってくる。なぜなら、その時ショパンはまだ誕生日を迎えていないのだから、「1820年1月3日」現在で既に「10歳」なら、それはすなわち、ショパンの生まれたのが「1809年」だと言う事になるからである。 つまり、生前のショパンは、リストに誕生日までは教えなかったが、「誕生の年代」は教えていた。そしてそれは、現在正しいとされている「1810年」ではなく、「1809年」の方だった。このリストの記述は、ショパンが自分で、自分の「誕生の年代」は「1809年」だと、そう認識していたと言う事実を証言しているのである。 |
8.代父スカルベクの存在 ショパンがジェラゾヴァ・ヴォラで生れた時、彼の名付け親(代父)になったのは、当時のニコラの雇い主の長男で、ニコラの教え子でもあったフレデリック・スカルベクである。ところが、このスカルベクは、フレデリック・ショパンが生まれた当時は、「ジェラゾヴァ・ヴォラ」にはいなかったと伝えられている。 「洗礼に立ち会う代父つまり名親にはフレデリック・スカルベクが選ばれ、子供の名もフレデリックに決まった。ところが、当時十八歳のスカルベク家の総領息子はパリ留学中のため洗礼式に出席できず、代理を通じての代父となった。代理人として赤子を抱いたのは、隣人のフランチシェク・グレンベツキであり、ショパンのミドル・ネームはこのことに由来するのである。」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より
しかしながら、この話はあくまでも、「ショパンが1810年に生れた事を前提とした場合に限ってのみ成立する」と言う点が問題なのだ。 と言うのも、スカルベクが不在だったのは彼がパリに留学していた間だけであり、そしてその期間は1809〜1811年の3年間だった事も分かっている。欧米の入学シーズンは秋であるから、当然、彼がパリに行ったのは「1809年の秋」になる。となれば、ショパンが生れたのが「1810年」だったとした場合、それが3月1日だろうと 2月22日だろうと、「その半年も前から既に不在だったスカルベクを代父に指名する」などと言う事は普通考えられない。なぜなら、代父は当然、洗礼式に立ち会わねばならないからだ。 しかし、ショパンの生れたのが「1809年3月1日」なら、その時スカルベクはまだ留学前でジェラゾヴァ・ヴォラにいた事になる。であれば、当然スカルベクも洗礼式に立ち会えるのだから、その彼を代父に指名する事には何の問題もなく、極めて自然な話になる。 したがって、ショパンが生れた当時スカルベクが不在だったとするエピソードは、明らかに間違いである。 |
9.ショパン家の引越し ニコラがワルシャワ高等学校の教授に任命され、それに伴ってショパン家がワルシャワに引っ越したのは1810年の秋である。 すると、仮にショパンが生まれたのが「1810年3月1日」、もしくは「1810年2月22日」だったとした場合、まだ生後6〜7ヶ月の赤ん坊に馬車の旅をさせた事になる。ジェラゾヴァ・ヴォラからワルシャワまで、距離にして約60`離れている。その間、舗装も何もされていない地面の上を、馬に引かれた馬車が行くのである。転倒すら珍しい事ではなかった当時の馬車の旅が、いかに過酷なものであったかは、既に述べた通りである。 したがって、そのような事は常識的に考えにくい。 |
これだけ多くの資料と状況証拠が、ショパンの生年月日が「1809年3月1日」である事を指し示している。少なくとも、ショパン自身がそう認識していた事については、もはや疑う余地はないのではないだろうか。
となれば必然的に、ショパンが書いたとされる「チャルトリスキ宛の手紙」の信憑性も疑わしいものとなる。上記の理由から、ショパンが自ら、自分の生まれた年を「1810年」と書くはずがないからだ。
それでは、次にその「チャルトリスキ宛の手紙」を見てみよう。ショパンの生年月日を「1810年3月1日」だとする資料は、後にも先にもこれが唯一のものなのである。
―ショパンの生年月日(誕生日)―「1810年3月1日」説を裏付ける資料― |
1.チャルトリスキ宛の手紙 「今月15日、光栄にも私が文芸協会の会員に選ばれたことを通知するお手紙をいただきました。 このような力強い激励と思いやりの証を私に与えてくださった同国人の方々に対し、是非とも会長殿より私の感謝の意をお伝えいただきたいと存じます。皆様の輪の中に加わることができる名誉は、これより私が全力をもって望む姿勢である、貴協会の目的に応えうる新たな仕事への励ましとなることでしょう。 深い尊敬をもって、忠実なる下僕 1833年1月16日 F.F.ショパン 1810年3月1日 マゾフシェ地方 ジェラゾヴァ・ヴォーラ生まれ」 東 貴良監修 『ショパン パリコレクション パリ・ポーランド歴史文芸協会 フレデリック・ショパン所蔵品目録』(株式会社ショパン)より だが、残念ながらこの手紙には、その信憑性を問われるべき問題点が非常に多い。 1. まず、この本の中で紹介されているように、これの「オリジナルの手紙は紛失」とされており、「自筆の手紙の複製写真」しか現存していない事。 ※
つまり、「自筆の手紙」そのものが確認されたと言う記録は一切なく、それを第三者が「複製」したものを、さらにそれを「写真」に撮ったものしか存在していないと言う有様なのだ。これは、贋作書簡が世に出る時の「お決まりのパターン」の一つなのである。 2. ショパンが「会員に選ばれたことを通知するお手紙」そのものも、それが確認されたと言う記録が一切ない事。 ※
もしもそのような「お手紙」が存在するのなら、そんな大事なものをショパンが保管していないはずがない。しかし、その「お手紙」に関する情報が報告された事は、今までただの一度もないのである。 3. 書かれている内容が、あまりにも儀礼的なものである事。 ※
つまりここからは、ショパンのパーソナリティや、彼とチャルトリスキとの個人的な関係をうかがわせるものが一切なく、要するに、このようなものなら「誰にでも簡単に書ける」と言う点が問題となる。 4. ショパンが、自分の生まれた年を「1810年」と書いている事。 ※
既に説明した通り、彼が自分の生年月日を「1809年3月1日」と認識していた事は、あらゆる点から疑う余地がないだろう。 |
また、この本には以下のような記述もある。
「当時の文芸協会の資料によると、ショパンがここの会員となった日付は1833年1月11日で、登録名簿の上では82番目の会員であった。」 東 貴良監修 『ショパン パリコレクション パリ・ポーランド歴史文芸協会 フレデリック・ショパン所蔵品目録』(株式会社ショパン)より |
仮に、ショパンが「パリのポーランド文芸協会」の会員に選ばれていたのが事実だったとしても、その事と、この手紙が本物かどうかと言う事は、言うまでもなく、全く別の問題である。
さて、それでは、どうしてこのような手紙が捏造されたのだろうか? それは、この手紙を受け取ったとされるチャルトリスキと言う人物について調べれば、容易に想像がつく事なのかもしれない。
「アダム・チャルトリスキ(1770〜1861)はポーランドでも指折りの名家チャルトリスキ家の出身で、ロシア皇帝アレクサンドル1世から外務大臣に任命され、1814年のウィーン会議にはロシア代表の1人として出席したこともある。 その後アレクサンドル1世との関係に亀裂が入り、1830年に起こった対ロシアの11月蜂起に参加したが、後に臨時亡命政府の首相に選ばれ、莫大な財産のおよそ半分を祖国のために捧げたといわれる。1832年よりパリで暮らし、ポーランドからの亡命貴族の中心的存在となって、将来のポーランド国王ともくされていた。1838年には形式上ではあったが、実際に国王に選出されている。」 東 貴良監修 『ショパン パリコレクション パリ・ポーランド歴史文芸協会 フレデリック・ショパン所蔵品目録』(株式会社ショパン)より |
つまりこの人物は、れっきとした「政治家」であり、また「革命家」であった。
更にこのチャルトリスキ家は、実は、あの「シュトゥットガルトの手記」の典拠にも絡んでいる。あの、ロシア人への異様なまでの憎しみに満ちた「シュトゥットガルトの手記」も、まさに「ポーランド、我が祖国」一色に塗りつぶされたものであり、その手記についてはまたその章で詳述するが、私はこれを完全に贋作だと確信している。そしてそのように考えているのは、何も私一人ではない。
このように、チャルトリスキが絡んだショパン関連の資料には、ショパンの名声を政治的に利用しようと言う贋作者の意図があからさまに表出したものばかりなのだ。したがって、「シュトゥットガルトの手記」同様、原物が正式な筆跡鑑定を経る事もないまま消失し、その結果「既成事実化してしまった」ような資料を、何の根拠もなく無批判に信用するのは考え物だと言う事になる。
ちなみに、この件に関してヘドレイは次のように書いている。
「作曲家自身は自分は一八一〇年三月一日に生れたと信じていた。これはパリのポーランド文芸協会宛て一八三三年一月十六日付けの書簡に彼が記した日付であり、そして一八三六年六月二十八日に音楽学者フェティスが彼の著述である『全音楽家伝記 Biographer universelle des musiciens』」初版に載せるために提供したものである。」 アーサー・ヘドリー著/野村光一訳 『フレデリック・ショパン』(音楽之友社)より |
このフェティスの『全音楽家伝記』についても、そのデータを本当にショパン本人が「提供した」のかどうか、それを裏付ける資料はない。
最後に、ショパンの出生証明書と洗礼証明書についても触れておこう。
―ショパンの生年月日(誕生日)―「1810年2月22日」説を裏付ける資料― |
1.ショパンの出生証明書 「ショパンの出生証明書 ファクシミリ。オリジナルはブロフフ聖ロブ教区アルヒーブ所蔵の「ローマ・力トリック教ブロフフ教区受洗者記録」中のもの。TiFCワルシャワ・博物館蔵、F/66。33.3×20.4cm(帳簿の寸法)。 ▽訳注 この証明書の大意は以下の通りである。 「4月23日午後3時、ジェラゾヴァ・ヴォーラの住人、40歳(※1770年4月17日=ポーランドにおける生年月日)のミコワイ・ショパンがプロフフ区の書記の前に現われ、本年2月22日午後6時に彼の家で生まれた男子を伴い、その子が28歳(※1782年9月14日)の妻ユスティナとの間に生まれたこと、その子にフリデリク・フランチシェクという名前をつけたことを届け出た」。 『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)より ※ 仮に、この「証明書」の記載をそのまま信用したとしても、それでもニコラは、子供が生まれてから2ヶ月もの間、その届出を怠っていた事になるのだが、しかし、それが別に咎められるような問題とはされていなかった事も、ここから分かる。 |
2.ショパンの洗礼証明書 「ショパンの洗礼証明書 ファクシミリ。オリジナルはブロフフ聖ロブ教区アルヒーブ所蔵の「ブロフフ教区教会受洗者帳簿」中のもの。TiFCワルシャワ・博物館所蔵、F/58。38.5×23.5cm(帳簿の寸法)。 ▽訳注 この証明書の大意は以下の通り。 「1810年2月22日、フランス人ミコワイ・ショパンとクシジャノフスキ家出身のユスティナとの間に生まれた子に、フリデリク・フランチシェクという2つの名を授け、洗礼を行った」。」 『サントリー音楽文化展’88 ショパン』(サントリー株式会社)より ※ こちらには、いつ届出をしたかまでは書かれていないのだろうか? |
これらの資料については、ポーランドの作家イワシュキェフィッチが以下のように書いている。
「出生証明書を交付する場合の間違いは、珍しいことではなかった。ショパンの場合のような間違いが起こるのは、洗礼が両家の家で行われたこと、教会名簿をつかさどる役目のオルガニストが後になって初めて教会で出生証明書に書きたし、新生児が公文書に記載されたことからある程度わかることである。こんな場合にはいくつかの間違いが知らず知らずのうちに紛れ込むこともあり得るのである。私もまた、ショパンの生涯に長く付きまとっていた語謬、そして今までいくどか思いがけない生涯の原因となった誤謬でひどい目にあった一人である。こうした間違いを避けるために今世紀の二十年代になって初めて、洗礼は管轄の教会だけで行われるべきことが法律で決められた。ポーランド国民は一週間以内に出生届を提出しなければならないことになっている。」 ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳 『ショパン』(音楽之友社)より
|
イワシュキェフィッチ自身は、ショパンの生年月日を「1810年3月1日」だと断言しているが、それはさて置き、この説明自体は非常に参考になる。
実際、ショパン家の三女エミリアは、どういう事情があったのかは分からないが、彼女は生れてからじきに、まず自宅で洗礼を行い、のちに教会でも正式に洗礼を行っており、そしてそのそれぞれに別の名付け親が立ち会っているのである。しかもそれは、何と2年半も後の事だった。そのせいか、彼女の誕生日も「11月9日」と「11月20日」の2つあり、それぞれが別の公式資料に記されている。
であれば、ショパンの時も、まず、「1809年」に自宅のあるスカルベク家で洗礼を行い、その後、何らかの事情によって(※おそらくは、夭折したエミリアの場合もそうだと思われるが、赤ん坊の健康状態に不安があって、教会まで外出できなかったのではないかと想像される。この2人が生まれた3月と11月は、季節的にも寒い時期なので、その可能性は十分に考えられるだろう)、その一年後に教会で正式に洗礼を行い、そしてその段になって、ようやく教会に届出をした可能性も考えられなくはない事になる。だからこそ、「1810年」の洗礼の時は、既にパリに留学して不在となってしまったスカルベクではなく、もう一人の名付け親である「フランチシェク・グレンベツキ」が、代理の代父として立ち会ったのだと考えられるのである。
そう考えた場合、全ての事が、極めて自然に辻褄が合ってくるのである。
[2010年4月9日初稿 2010年5月6日改訂 トモロー]
検証2-2:幼年期のグリーティング・カードが語るショパンの家庭環境▼
【表紙(目次)のページに戻る▲】 【検証1:ニコラ・ショパン、19歳の手紙・後編▲】 【筆者紹介へ▼】
Copyright © Tomoro. All Rights Reserved. |