検証1:ニコラ・ショパン、19歳の手紙・後編――
Inspection I: Nicolas Chopin, a
letter of 19 years old (Part.2)-
12. あるフランス人の煙草工場に勤めていたというのは事実か?▼
13. マリー・ヴァレフスカの家庭教師だったというのは事実か?▼
14. コシチウシュコの反乱に参加したという英雄伝説は事実か?▼
15. パリ時代のショパンと叔母達が没交渉だったのは何故か?▼
16. カラソフスキーの贋作手法▼
≪♪BGM付き作品解説 ショパン作曲 練習曲 第3番 ホ長調 作品10-3 「別れの曲」 by Tomoro▼≫
10.ニコラの出国は正確にはいつだったのか?――
10. When was the
departure of Nicolas Chopin precisely?-
ニコラがいつポーランドに渡ったかという事については、今まで様々な表現のされ方をしてきた。
彼の年齢で表す場合であれば、16歳とするものと17歳とするものがあり、年号で表す場合なら「1787年説」が大勢を占める。私の知る限り、フランス革命が勃発した年の1789年説というのはまだ聞いた事はないが、1788年説や1790年説というのは知っている。しかしそのいずれにも、資料的根拠は示されてない。慎重な著述家であれば、大抵は、「16歳か17歳頃」とお茶を濁す程度で無難に片付けてしまう。
結論を先に言えば、この《前編》でも触れた通り、それは「1787年の秋頃」であると、これはいくつかの状況証拠によってかなり細かいところまで特定する事が出来る。
その検証に入る前に、何故これほど色々な説があるのかという事について少し説明しておきたい。
当初、ニコラの出国年を1787年と書いていたのはカラソフスキーである。
極めて稀な事ではあるが、あのカラソフスキーが、ショパンの家族について、情報源も示さずに正しい事を書いている場合、それを証言したのは間違いなくイザベラだと考えていい。特にこれに関しては、イザベラの証言がない限り、カラソフスキーには、絶対に正しい情報など知り得ないからである。
それゆえ、カラソフスキーの「1787年説」も定説として現在まで生き続けて来られた訳だが、しかしこれはまた別の意味で、イザベラは、我々にとって見落とす事の出来ない「ある事実」をも証言した事になる。
と言うのも、ショパン関連の著述家達の誰もが、「ニコラは自分の若い頃については、家族にさえ何も話さなかった」と書いているのだが、これは、それが事実ではないという事の裏付けになるからである。ニコラは間違いなく、自分の若い頃についての話を家族にしている。そうでなければ、イザベラに、この「1787年説」を証言する事は出来なかったはずだからだ(この詳細については後述する)。
そしてカラソフスキーは、同時に、そのニコラの誕生年を1770年(4月17日)と書いていた。これは、ニコラ自身がロシア当局に届け出ていた資料とぴたり一致する。つまりこれも、イザベラがカラソフスキーに証言したデータである。すなわちここから、ニコラが当時17歳だったという書かれ方をするようになったのである。
したがってニコラのフランス出国は、当初、「1787年」で当時「17歳」というのが、それまで一般的にずっと言われてきた事なのである。
その後、1926年にニコラに関する公文書が発見されたのをきっかけに、フランスで調査され、ニコラの誕生年が「1771年」であると判明し、その結果、出国の「1787年説」はそのままに、当時彼は「16歳」であったと改められるようになった。「16歳」という書かれ方が見られるようになったのも、それ以降なのである。
要するに、こういった事実関係の経緯を確認する事を怠り、他人の書いた本からの受け売りだけで物を書くような人達が、これらのデータを未だに混沌とさせ続け、「16歳」と書いていたり「17歳」と書いていたりしている訳なのである。
余談になるが、長年の習慣とは恐ろしいものなのだろうか。本章の《前編》でも再三引用しているミスウァコフスキらの研究報告でも、これに関する(おそらく彼等の勘違いだろうが)些細なミスが見られる。彼等はもちろん、ニコラの誕生年を「1771年」という前提で話を進めており、したがってヴェイドリヒがマランヴィルにやって来た1782年当時のニコラの年齢を11歳と正しく書いている。それにも関わらず、その直後に、ニコラがフランスを旅立った1787年当時の年齢を、17歳と誤って書いてしまっているのである。
「…(略)…ヴェイドリヒはポーランドに戻る事を決め、1787年にワルシャワへの旅に乗り出した。この出来事がニコラ・ショパンにとって決定的であった事は間違いない。彼は家を出て、ヴェイドリヒに随伴する事を決めた。彼等は知的な17歳を、彼等のビジネスにおける非常に有益な助手と見なしたに違いない。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ニコラ・ショパン」に関する2006年1月の記事 『Piotr
Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina』より |
些細なミスなので、もちろん揚げ足取りをするつもりは毛頭ない。ただ何が言いたいのかと言うと、つまりそれほど、この話は整理するのにややこしい問題だったと言う事だ。
ニコラの出国年は、「1787年」で、当時「16歳」、これが紛れもない事実である。
では、その出国年の検証に移ろう。
《前編》でも引用したが、そのミスウァコフスキらの研究報告をもう一度見てみよう。
「僅か数年後の1787年6月に、ミハウ=ヤン・パッツが思いがけなくストラスブールで亡くなり、ヴェイドリヒは自分達の今後について決定する事を余儀なくされた。彼等は、アダム・ヴェイドリヒの祖国ポーランドに帰る事を選んだ。この先数年の間は、死亡した雇い主の未解決の財務処理に悩まされるだろう事が分かっていたので、ヴェイドリヒは、今や17歳(※これも16歳の誤り)になっていた知的で若いニコラ・ショパンが、彼の商取引の助手になり得ると考え、一緒にポーランドへ発つ事を提案した。彼等のワルシャワへの旅は、1787年10月か11月に執り行われたが、おそらくアダム・ヴェイドリヒは、彼の残りの家族とニコラの到着に備えるために、一人で先に出発したはずである。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する2006年7月の記事 『Piotr
Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina』より |
ここでは「1787年10月か11月」と、かなり細かく限定して書かれているが、その根拠については特に説明されていない。しかし、この調査報告の、これに続く記述と照らし合わせると、これはおそらく、ほぼ間違いないのではないだろうかと思われる。
「ヴェイドリヒ家は、アダムの弟フランチシェク(士官候補生学校としても知られる騎士養成学校の教師)によって宿泊所を与えられ、彼は、彼等をクラコフスキェ・プシェドミェシチェ通り(土地台帳では406番地、現在の1番地)にある、宣教師の家のアパートに残して、騎士養成学校の本部として用いられたカジミエシュ宮殿の敷地内の居住区である士官候補生用の別棟に移った。これは、1792年から居住者リストによって証明され、ポーランドにおけるニコラ・ショパンの最初に記録された住所として文書化され、明るみに出たものである。しかしながら、もう一つの文書は、ヴェイドリヒ家とショパンの初期の運命を証言しているかもしれない。ワルシャワに到着してから数ヵ月後の1788年早春に、アダム・ヴェイドリヒは、ノヴィ・シフィヤト(土地台帳では1259番地、現在の33番地)にあるアウグスチヌス修道院に、若い女性のための全寮制学校を建て、若いフランス人もまた、おそらくそこでまかないと雇用を見付け、約4年後まではヴェイドリヒ家と共に生活していたと考えられる。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する2006年7月の記事 『Piotr
Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina』より |
まず、「1787年」は、「6月」に、マランヴィルの領主だった「パッツ伯爵」が亡くなった年であり、それをきっかけにして「ヴェイドリヒ」がポーランドへ帰国する事になったのだから、出国が「1787年6月」以降である事は動かない。
次に、ヴェイドリヒが、「ワルシャワに到着してから数ヵ月後の1788年早春に…(略)…若い女性のための全寮制学校を建て」ている事。この資料的根拠によって、ヴェイドリヒ家が、「1788年春」には確実にワルシャワにいたという事実も動かない。
となれば、彼等のフランス出国が、「1787年6月」以降、「1788年春」以前である事は確定的となる。
あとは、様々な状況証拠や常識と照らし合わせて、その期間を狭め、特定していけばいい。
まず、当時の馬車の旅が、どれほど時間がかかるものであるかという事は、本稿の《前編》でも書いた通りである。また、冬になるとその困難が増加する事も書いた通りである。したがって、冬の旅を避ける意味でも、出発は早いに越した事はない。逆に、冬を越してからになると、「1788年春」に「全寮制学校」を建てるための準備期間がなくなってしまう。これにはそれなりの準備期間が必要だったはずなのだから、その準備は、ワルシャワ到着後には早速着手されてなければならないだろう。その意味からも、出発は1787年の秋頃が最良の選択と考えるのが、極めて常識的な判断となる。
もう一つ、ヴェイドリヒ家の家族構成も重要な手掛かりとなる。これが実に、興味深いのだ。
「アダムとフランチスカのヴェイドリヒ夫妻は、ロシアのポドリアかガリツィアの未知の場所で、1815年以前に亡くなった。彼等の子供達は、ヘンリカ(1778年、パリに生れる)と、ミハウ=ユゼフ=カロル(1783年7月29日、マランヴィルに生れる)、彼はクララ・モヅェレフスカと結婚し、彼等の子孫は今日まだ生きている。それからアンヂェジェイ・マラフスキの妻サロメア(1788年11月5日、ワルシャワに生れ、1817年以降に没す)と、ヤン・ジェンキエヴィツの未亡人として1817年に記録されているマリアンヌ、である。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「アダム・ヴェイドリヒ」に関する2006年7月の記事 『Piotr
Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina』より |
これを分かりやすく表にすると、以下の通りである。
名前 |
生年 |
出生地 |
1787年当時の年齢 |
長女、ヘンリカ |
1778年 |
パリ |
9歳 |
長男、ミハウ |
1783年 |
マランヴィル |
4歳 |
次女、サロメア |
1788年11月5日 |
ワルシャワ |
まだ生まれてない |
三女、マリアンヌ |
? |
? |
まだ生まれてない |
※
まず面白いのは、この家族構成は、ニコラがのちにワルシャワで築く家族構成と全く同じだという点だ。しかしそれは単なる偶然に過ぎない。本当に「興味深い」と言うのはその話ではない。
1.
三女の「マリアンヌ」だけ詳細が不明だが、ヴェイドリヒの子供達は皆、まるで測ったように、きっかり5年おきに生まれている事が分かるだろう。しかも、それが単なる偶然ではない事を示す根拠として、その各年というのは、必ず、ヴェイドリヒにとって特別な意味を持つ年であった点だ。まず、長女の「ヘンリカ」は、ヴェイドリヒが「1777年」に結婚した翌年に生まれている。次の長男「ミハウ」は、ヴェイドリヒが「1782年」にマランヴィルへやって来た翌年に生まれている。そして次女の「サロメア」もまた、ヴェイドリヒ家が「1787年」にフランスからワルシャワへ渡った翌年に生まれているのである。この事から、ヴェイドリヒという人物が、計画性の高い物の考え方をし、何か物事を起こす時でも、常に慎重に事を運ぶ、非常に思慮深い人間だったという事が分かるのだ。
2.
つまり、当時の馬車の旅が、いかに妊婦にとって過酷であるかを知っているはずの人物が、最短でも一ヶ月近くもかかる長旅を控えている時期に、母体に種を宿そうとするなど、そのような思慮のない行為に及ぶはずがないのである。となれば、「1788年11月5日」に生まれた「サロメア」が母体に授けられた「1788年」初頭の時期には、すでにヴェイドリヒ家はワルシャワにいたと考えるのが常識的配慮となる。
3.
さらに、この旅は、「9歳」になる長女と、まだ「4歳」の長男を伴う旅だったのだから、やはり冬場は避けたかっただろう。それに、ヴェイドリヒ家に仕えていたはずの使用人が出国に帯同していたのかどうかは全く分からないが、仮にしていなかったとなると、ヴェイドリヒの子供達とも懇意だったであろう当時「16歳」のニコラが、そのお守り役を買って出た(または頼まれた)可能性も浮上してくるのである。
これらの事情を鑑みても、ミスウァコフスキらの書いている「1787年10月か11月」というのはほぼ確定的と考えていいだろう。私などは、旅が最短でも一ヶ月近くかかる事から、冬を避ける意味でも、もっと限定して、「10月」と言い切ってしまってもいいとすら考えている。
ただし、ミスウァコフスキらは、「おそらくアダム・ヴェイドリヒは、彼の残りの家族とニコラの到着に備えるために、一人で先に出発したはず」と書いているが、それは常識的にいって考えられない事だ。
ミスウァコフスキらは、当時の「馬車の旅」の過酷さや、それに要する日数というものを全く理解しておらず、ましてや当時の不穏な政治情勢も考慮せず、この時代の旅というものを余りにも簡単に考え過ぎている。そのような旅に、外国旅行の経験のない夫人をたった一人の大人として仕切らせ、小さな子供二人と若干16歳のニコラを伴うには、あまりにも危険が大き過ぎるのである(使用人が同伴していようがいまいがだ)。
あのヴェイドリヒが、そんな思慮のない事をするはずがない。
「家族とニコラの到着に備えるため」の準備などは、当然、「弟フランチシェク」に手紙で頼んでおけばそれで済む話だし、現にフランチシェクが、万事きちんとそのように手配してくれているではないか。ヴェイドリヒ家がワルシャワに渡った初期段階では、全てを「弟フランチシェク」に頼るしかないのだから、それについてヴェイドリヒ自らが先に現地入りしても、彼には何も出来る事などないのである。それよりも、彼自身が家長として旅を無事に執り行う事の方が、優先順位として遥かに重要な任務である事は、もはや言うまでもないだろう。
[2008年11月29日初稿 トモロー]
11.ニコラは何故プロフィールを偽っていたのか?――
11. Why did
Nicolas Chopin feign his profile?-
まず、ニコラのプロフィールについて言及している文献の中で、代表的なものと、それから、資料的根拠が確実であるものを挙げて表にすると、次のようになる。
|
資料 |
出生地 |
生年月日 |
A |
イザベラの証言による、 カラソフスキーの伝記中のデータ |
ナンシー (ロレーヌ地域圏、ムルト・エ・モゼル県) |
1770年4月17日 |
B |
ニークスの伝記に書かれていた、 「当初信じられていた」というデータ |
ナンシー (ロレーヌ地域圏、ムルト・エ・モゼル県) |
1770年8月17日 |
C |
ニコラの誕生祝に子供達が贈ったカード |
―――― |
全て「4月17日」付 |
D |
ニコラが1835年に外国旅行した際の記録 |
ナンシー (ロレーヌ地域圏、ムルト・エ・モゼル県) |
―――― |
E |
1842年3月21日付のショパン宛の手紙 |
―――― |
誕生日の27日前に、 自分の歳を「ちょうど72」と書いており、 1770年生まれである事を示唆している |
F |
ニコラが年金受給の際に、 ロシア当局に提出した書類 |
マランヴィル (ロレーヌ地域圏、ヴォージュ県) |
1770年4月17日 |
G |
フランスで確認された洗礼証書 |
マランヴィル (ロレーヌ地域圏、ヴォージュ県) |
1771年4月15日 |
※ C:ニコラの誕生祝に子供達が贈ったカード」
※ これは1825年のものが写真コピーで、1826年のものが最古の印刷物の形で、それぞれクリスティナ・コビランスカ編『故国でのショパン』で確認する事が出来るが、いずれも日付は「4月17日」になっている。
※ D:「ニコラが1835年に外国旅行した際の記録」
※ 「父(※ニコラ)の国籍についての言及は、フレデリックの誕生が申告されたプロホフの教区の台帳にはあらわれていないが、洗礼証書には、これとちがって、次のようにある。「二月二二日誕生。父はフランス人ニコラ・ショッパン氏」。これは一八一〇年のことであり、ニコラはこのときポーランドにもう二〇年以上も生活していた。同様に、一八三五年フレデリックがカールスバート〔チェコの温泉場、現在のカルロヴィ・ヴァリ〕で両親に最後に会ったとき、外国人関係の警察の記録には、ニコラについて、「教授。ナンシーに生まれ、ワルシャワから来ている」とある。」
カミーユ・ブールニケル著/荒木昭太郎訳
『大作曲家ショパン』音楽之友社より
※ G:「フランスで確認された洗礼証書」
※ 本章の《前編》でも書いたように、その原物はクリスティナ・コビランスカ編『故国でのショパン』で写真確認する事が出来、つまりこれが紛れもない事実である。
誕生日に関して言えば、細かい日付は多少違う事があったとしても、少なくとも「生まれた年」に関しては、出生届時にその年を誤って記入する事はちょっと考え難い。したがって上記の洗礼証書にある通り、ニコラが1771年生まれである事は間違いない。すると彼はポーランドにおいて、自分の年齢を常に一つ多く語らっていた事になる。
ヘドレイはこれについて、次のように書いている。
「ニコラス・ショパンは、自分が1770年4月17日に生まれたと思っていた。実際は、彼は1771年4月15日に生まれた。」 アーサー・ヘドレイ編『フレデリック・ショパンの往復書簡選集』 Arthur
Hedley/Selected Correspondence of Fryderyk Chopin(McGraw-Hill Book Company、Inc. London)より |
ヘドレイはこのように、あたかもニコラが自分の誕生日を「思い違い」していたかのように書いているが、果たしてそんな安易な説明で済まされる問題だろうか? 何故ならニコラは、「思い違い」しようのない出生地に関しては、間違いなく、確信犯的に「ナンシーだと偽っている」のだ。
※ ニコラがマランヴィルで生れた事は、彼の洗礼証書が証明しているのだし、しかも彼は、晩年において年金需給の際にも、自分の出身地をマランヴィルと書いているのである。これはつまり、彼が、生まれてから16歳で祖国フランスを発つまで、一度もマランヴィルを出てはおらず、ずっとそこで生活していたという事なのだ。そうでなければ、彼は、マランヴィルの管理人だったヴェイドリヒと共に祖国を発つ事にはなり得なかったのだから。
その事実を鑑みると、彼のこういった偽証行為には、明らかに何らかの動機があると考えるのが自然なのではないだろうか。
ニコラがフランスを発った時、彼は「本当は16歳だった」訳だが、当時、出国もしくは入国の際に、彼には、「自分が17歳である」と申告した方が都合の良い何らかの理由があったのではないだろうか? しかし、それについて調査するのは、もはや私の限界を超えている。これについては、その道の専門家や、後世の研究に委ねるしかない。
しかしいずれにせよ、それはあくまでもニコラ個人の都合に過ぎず、また、単に「数字」の問題でしかなく、事実が分かったところでさほど大した影響はない。むしろ我々にとって問題なのは、彼が自分の出生地を「ナンシーだと偽っていた」という事実の方なのだ。何故なら、この明らかな偽証行為が後世のショパン研究に及ぼした誤解と影響は計り知れず、それは現在においても尚引きずったまま、くっきりとその痕跡を留めているからだ。
ロシア当局の書類やフランスの洗礼証書が確認されたのは1926年であるから、それ以前に書かれたショパン関連の書物は、全て、ニコラの出生地が「ナンシー」であるという偽証を前提に書かれている。たとえそれが本人の証言によるものだとしても、所詮偽証に過ぎない以上、「ナンシー」という地名を根拠に導き出された逸話は、全て事実ではあり得ない。それらは全て、あくまでも伝記作家達の想像に過ぎず、一切資料的根拠などないのである。それにも関わらず、ニコラの出生地が「マランヴィル」と判明した今日でも、それらの逸話を誰一人として否定したり、また、排除しようとする者がいないと言うのは一体どういう事なのだろうか? その結果、信じ難い事だが、現在新しく書かれているショパン伝は、全て、この矛盾を平然と混在させたまま書き継がれている、と言った事態に陥ってしまっているのである。
ナンシーとマランヴィルは、同じロレーヌ地方に属するとは言え、その性格はあまりにも違いすぎる。
1.
まず、ナンシーは「ムルト・エ・モゼル県」で、一方のマランヴィルは「ヴォージュ県」であり、そもそも「県」が違う。
2.
それに、もちろんこの両者は、日常的に歩いて行き来出来るような距離にはない(※地図上で直線で結んでも、100`以上は離れている)。
3.
しかも、ナンシーが都市なのに対し、マランヴィルは辺境の、小さな田舎の農村地帯である。
したがって、この両者を安易に「ロレーヌ」の一括りで同等に語ってしまう事など、とうてい出来はしないのだ。
※ たとえば、こういう事だ。私は現在埼玉県に住んでいるのだが、その中でも、どちらかと言えば田舎と呼べるような地域に住んでいる。それを、同じ「関東地方」という括りだからと言って、自分の出身地を、その埼玉の隣にある東京と偽って語らっていたとしたらどうだろうか? これは、それと全く同じ事になるのだ。
しかも、彼が11歳の時にその「マランヴィル」にヴェイドリヒが管理人としてやって来て、ニコラが16歳の時にそのヴェイドリヒに連れられて「マランヴィル」からポーランドへ渡ったのだから、ニコラは、フランス時代には一度も「マランヴィル」を出ていないと、はっきりそう断言できるのである。では何故、ニコラは、そのようにして自分の出生地をナンシーと偽っていたのか? その理由は簡単で、それはこの都市が、歴史的にポーランドと非常に深い縁で結ばれていたからである。「ナンシーから来たフランス人」と言うだけで、いかにポーランドの貴族社会から歓迎されるかを、(おそらくはヴェイドリヒの入れ知恵だろうが)、彼がよく分かっていたからなのだ。
その「深い縁」とはすなわち、再三触れている、前ポーランド王「スタニスラフ・レシチンスキ」なる人物に由来する。この人物について知る事は、ポーランド、及びポーランド人を理解する上でも非常に有意義であるように思われるので、以下の書物からの引用で、「スタニスラフ・レシチンスキ」の略歴とその人となりについて紹介しよう。
「一七二五年、スタニスラス・レシチンスキーは世に忘れられ、フランスからの年金生活者としてラインラントに住んでいた。」 「…(略)…ポーランド王への復位のすべての希望が捨てられたとき、両親は彼等の野心を彼等の生き残った娘(※マリア・レシチンスカ)に集中した。彼女の家庭的な美徳が王の娘であることと富を失ったことを補って余りあるものになることを望んだのである。」 「…(略)…そのときプリー夫人は、彼女の愛人ブルボン公の妻として子供のない寡婦を探し求めていた。」 「…(略)…彼女はポーランドにおいてスタニスラスの下に仕え、いまは彼の代理人としてパリに住んでいる騎士ヴォーシューを通じて、前王の娘がこの条件を満たしていることを知った。ところがこの時、「公爵氏」と彼女はこのポーランドの少女が王(※フランス王ルイ15世)の配偶者として可能性があることに気がついたのである。」 「…(略)…注釈の付いた長い候補者の名簿のなかで、マリア・レシチンスカの名に付けられていた意見は消極的な調子のものであった。「両親は富裕でなく、疑いもなくフランスに居住したいと欲しているが、それは不都合であろう。家族について不利なことは知られていない」。若い王は決定的な選択は明言しなかった。そして彼は、プリー夫人が委託されていた肖像を見たとき、結婚に同意した。」 「…(略)…一瞬にして亡命の家族を蔽っていた雲は消え失せた。ヨーロッパにおけるもっとも誇り高き君主の義父として、スタニスラスは彼の威信を回復し、豊かに生活することになるであろう。」 「…(略)…王妃(※マリア・レシチンスカ)は一七三三年、ザクセン選定侯ポーランド王アウグストニ世が死んで彼女の父が王位に復する可能性が生じたときまで、政治的事件にはほとんど関心を持たなかった。選挙王制という気違いじみた伝統のために、ポーランドは支配者が死ぬたびごとに大きな危機に見舞われた。失敗しても何ものも失うことのないスタニスラスはワルシャワに急行し、再び候補者に選ばれた。 ルイ十五世は彼の義父に何の愛情も感じていなかったけれども、このようにフランスと密接に結ばれている候補者が選ばれたことを歓迎した。しかし彼もフルーリも、大ばくちを打つ準備はなかった。」 「…(略)…有限責任の政策が明らかにもっとも賢明な途であった。なぜならば、対立候補のザクセン選定侯アウグスト三世の手には、もっとも強いカードが握られていたからである。故王を常に支援していたロシアがその息子の側にあり、かつてその戦士王がスタニスラスを王位につけたスウェーデンはすでに小国の地位に落ちていた。ロシア軍は国境を越え、出席者の少ない国会でアウグスト三世を選ぶよう命令した。スタニスラスはダンツィヒに逃れ、それが長い包囲の後ロシアに降伏すると、変装して逃亡した。」 「…(略)…気楽なスタニスラスは、彼の最後の失敗を哲学的に受けとって彼の静かな生活にもどり、その後まもなく予期しない慰めの賞を受けた。 ロレーヌ公フランツ〔オーストリア継承戦争の結果によりドイツ皇帝フランツ一世となる。在位一七四五〜六五〕がマリア・テレジアと結婚したとき、彼は彼の公国をメディチ家の血統が一七三七年に断絶したトスカナ公国と交換することが定められた。ロレーヌはスタニスラスとフランスに割り当てられた。この心優しい老エピキュリアン(※エピクロス=古代ギリシアの哲学者。人生の目的は精神的快楽にあるとして心境の平静を求めた)は残りの生涯の間、彼の小さな公国を、農業を育成し工業と芸術を奨励してヨーロッパにおけるもっとも幸福な国の一つとした。国家の収入はフランスに移され、その代りに固定した年々の手当を受けとり、フルーリによって指名された第一大臣がこの国の実質的な支配者となった。フランス王の義父の治世は、公国の完全な独立とその完全なフランスへの吸収との間の過渡期であった。 スタニスラスは彼の陽気で寛容なリュネヴィル(※ナンシーの郡庁所在地の一つ)の小宮廷に、ヴォルテールとシャトレー夫人、モンテスキューとエルヴェシウスを頭とする文人たちを喜んで迎え入れた。ヴォルテールは報告している。 「私は病気であったが、そのことはポーランド王の賓客であるときには喜びであった。彼の患者ほど大きな世話を受けるものはない。彼よりもよい王あるいはよい人間であることは不可能である」。」 G・P・グーチ著/林健太郎訳 『ルイ十五世 ブルボン王朝の衰亡』(中央公論社)より |
※ この引用文の著者グーチは、イギリスの歴史学者である(つまりショパンに関して中立国の人間)。
※ 「ヴォルテール」(1694−1778)はフランスの小説家で、啓蒙思想家でもある。彼は自由と理想を追求するが故に教会批判をして投獄された事もあり、フランス革命の思想的基礎を築いたとも言われている。ニコラがフランスを発った際、ヴォルテールを数冊携えていたと伝えられているのは、後世の伝記作家(おそらくカシミール・ウィエルジンスキ)がこれらの事から想像を膨らませて書いた作り話に過ぎない。実際はナンシーの上流社会にも属さず、フランス革命にも背を向けた「車大工の息子」が、どうしてヴォルテールなど愛読する理由があると言うのか? もしもニコラがヴォルテールを読んだとすれば、それは彼がポーランドへ渡った後、彼がフランス語とフランス文学の教師となるべく勉学に励む過程で、ヴェイドリヒ家の書斎で手にした可能性が考えられるだけである。
ナンシーはロレーヌの中心都市で、現在も残っている街の景観は、このレシチンスキの時代に整えられたものだ(マランヴィルは、その南に隣接するヴォージュ県に属している)。レシチンスキのロレーヌ公の地位は、一代限りでその没年(1766年)にフランスに返還されたにも関わらず、市の中心広場は今でも「スタニスラス」の名が呈されており、彼の建設した学校もまた然りである。
この事からも、フランスにおける彼の人気とその人柄が偲ばれる。
それにも関わらず彼は、ポーランド史の表舞台においては何ら特筆すべき足跡を残してはいない。彼はおそらく、帝国主義の時代に政治を司るには、余りにも善良過ぎたのだろう。そしてそんな彼の人間性とその生涯は、ポーランドの国民性とその歴史を、そのまま鏡のように映し出しているかのようでもある。
したがってニコラが、自分をナンシー出身と称して身分を隠し、ポーランドの貴族社会に溶け込もうと考えたのも容易に想像がつくのである。ただし、あくまでも間接的な意味でなら、ロレーヌにおけるレシチンスキの遺産がヴェイドリヒとの出会いに繋がった事は確かなのだから、あながち全く無関係と言う訳でもないのだが…。
また、その「スタニスラス」が、ロシアと争う形で政権争いに敗れたという因縁も、少なからず無視出来ないのではないだろうか。何故ならニコラは、晩年、年金需給に際してロシア当局に提出した書類に、自分の出生地をナンシーとは書かず、敢えて本当の出生地であるマランヴィルと書き込んでいるからだ。これは、ナンシーと言う地名が正に「スタニスラス」を象徴するために、ロシア当局に対してあまり良い印象を持たれない事(つまりポーランド的=反ロシア的という事)を、彼がよく分かっていたので、無用なトラブルを避けるためにもマランヴィルと書いたのだと想像されるのである。こんなところにも、あくまでも争い事を好まぬニコラの性格がよく現れている。
ただし、ニコラにとっては単に「嘘も方便」として働いたに過ぎない「ナンシー出身説」を、後世の著述家達が歴史的事実として認識し、それを前提に想像を膨らませて物を書く訳にはいかないだろう。それとこれとは全く話が別である。そしてこの悪しき前例も勿論、カラソフスキーの著作に端を発している。
「ニコラス・ショパンは、一七七〇年の四月十七日、フランスのローレエヌ県のナンシーに生れた。周知の通り、一七三五年のウィーン平和会議の結果、ローレエヌ及びバアル公国は、ポーランド王スタニスラス・レスチンスキイの所有に帰していた。 科学や芸術の忠実な友人であったスタニスラス・レスチンスキイは、人民の間に普通教育を普及させようと大いに努力した。彼はナンシーに、今も残っている「アカデミイ・スタニスレー」学校を設け、また正しい寛大な統治に依って、人民の完全な尊敬と愛情とをかち得た。ニコラス・ショパンはこの王者であり哲学者であった人の思い出が、また最初のあざやかさのままでいた頃に生れた。自分達の小さい国を支配していた王様の故郷を訪問し、自己の必要を顧みずに、いつも他人の不足を補助しようとしていた国民(ポーランド人)と知り合いになることが、ニコラス・ショパンの希望であり、またポーランドの歴史を幾分でも知っている教育ある多くのローレエヌ人の希望であった。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より |
カラソフスキーの、「子供じみているほどに盲目的な愛国精神」については、もはや何も言う事はないが、看過する事の出来ない記述に関してはきちんと指摘しておかねばなるまい。
それにしても、カラソフスキーの、この歴史を歪曲した書き方は一体どうだろうか?
1.
まず、この「スタニスラス・レスチンスキイ」は、ポーランドで政権争いに敗れてフランスに亡命して来たのだから、この時「レスチンスキイ」は既に「ポーランド王」ではなく、「前ポーランド王」と表記されなければならない。
2.
また、「帰していた」では、元々ロレーヌがその「ポーランド王」の所有であったかのように錯覚してしまう。
3.
更に、「スタニスラス・レスチンスキイ」がロレーヌ公としてルイ15世から公国の統治を任されていたのは、あくまでも彼一代限りであり、彼の亡くなった1766年には、この公国はフランス王国に返還されている。ニコラが生まれたのはその5年後である。つまりニコラは、あくまでも、「ロレーヌがフランス王国に返還された後のロレーヌ人」なのだ。それをカラソフスキーは、「思い出」という書き方でわざと曖昧にし、ニコラと「レスチンスキイ」(=ポーランド)を結び付けるために、巧妙に印象操作を図っているのが見え見えなのである。
こんな話は、誰も「周知の通り」ではない。
いずれにせよ、カラソフスキーのこういった記述によって、ニコラがレシチンスキを通じてポーランドに憧れを抱いていたため、それが、彼がポーランドへ渡った理由として解釈されるようになり、その後の伝記作家達も皆この説を踏襲した。そしてその考え方は未だに生き続けている。だがしかし、この話はあくまでも、ニコラが「ナンシーに生まれた」事を前提にしなければ成立し得ない話なのだ。しかし実際は、それが偽証である以上、その裏に隠された真実は、彼が、「自分が職人の息子だったという事実を、世間から隠蔽しようとしていた」という可能性を想像するに十分なのである。
それについて、オーストラリア人のマードックは次のように書いている。
「…ニコラスがポーランドに移住した後、一度としてその一家のことに言及せず、一度として彼等と文通せず、その上彼等の存在していることをすこしも息子に語らなかったらしいのはどういう理由であったろうか。その生まれを恥じていたのであろうか。彼はワルソウの格式ある市民になった。そして賤しいフランス語の教師から文学教授に出世した。ともすれば彼はポーランドの友人たちが彼の農民の出であることを耳にするのを恐れたのであったろう。」 ウィリアム・マードック著/大田黒元雄訳 『ショパン評伝』(音楽之友社)より |
繰り返しになるが、ニコラが自分の出生について、自分の妻にも子供達にも何も「語らなかった」などというのは、明らかに誤った認識である。仮にニコラが、そのような、己の過去も語れないような人物だったとしたなら、彼が家族からあれほどの尊敬と愛情を獲得できるはずがないのではないだろうか。それに、あらゆる状況証拠が「語っていた」事を指し示しているし、また、ニコラ本人を含め、家族の誰もが、ニコラの過去に関する問題を文書化して残していないという事実こそが、「みんなが知っていたからこそ、その秘密を家族で守っていた」という態度を物語ってもいるのである。
ただし、マードックの言う、「彼はポーランドの友人たちが彼の農民の出であることを耳にするのを恐れたのであったろう」とする仮説そのものは、ニコラの偽証行為を裏付ける根拠としては、十分考えられる事である。
[2008年12月1日初稿 トモロー]
12.あるフランス人の煙草工場に勤めていたというのは事実か?――
12.
Is it a fact that Nicholas Chopin worked at the cigarette factory which a
certain French run?-
BGM(試聴) ショパン作曲 バラード 第1番 ト短調 作品23 by Tomoro
[VOON] Chopin:Ballade I
Op.23 /Tomoro
この煙草工場のエピソードも、ニコラ・ショパンがポーランドへ渡った理由の一つとして、また、彼のポーランドにおける最初の仕事として、多くの書物で言及されているものである。
しかしながら、この逸話に関しては、今まで本稿で検証してきた通り、既に答えは出ている。ニコラをポーランドへ導いたのがヴェイドリヒであり、そのヴェイドリヒが「ワルシャワに到着してから数ヵ月後の1788年早春に」「若い女性のための全寮制学校を建て」ていると言う事実から、この煙草工場の話が作り話である事はもはや明白である。
ところが、それでもやはり、この話を無視して素通りする訳にはいかないのである。なぜなら、この話を最初に文書化した人物が、カラソフスキーなどとは違って、まごう事なく、ショパン家とごく親しい、古くからの関係者だったからである。
では、これを最初に書いたのは誰だったのか? 実は、それは誰あろう、のちにフレデリック・ショパンの名付け親となった人物、すなわちフレデリック・スカルベク(1792−1866)その人だったのである。
ニコラは、このスカルベクの少年期から青年期にかけての恩師になる。しかもただの恩師ではない。ニコラは、約8年もの間、スカルベク家の住み込みの家庭教師として時を過ごし、ニコラが高校の教授となった後も、両家の交流は途絶える事はなかった。そのスカルベクが回想録を残していて、その中でニコラについて言及しており、そこに、この煙草工場の話が書かれていたのである。
ところが、ニコラについての記述は、その回想録の9〜10ページ目にかけてがそれに当たるのだが、驚くべき事に、以下がその全てなのである。
「ミコワイ・ショパン、この家庭教師は、私が住んでいた離れの家の世話をしていた人物で、私の先生となり、私や私の兄弟達と数年を過ごした後、ワルシャワ高等学校の教授に任命され、彼はそこで、晩年を迎えるまで教鞭をとり、それによって年金を受ける資格を得た。彼は、当時のほとんどのフランス語の家庭教師達のように、出稼ぎ人でもなければ、落ちぶれた司祭でもなかった。彼は、およそポーランド国民らしくない方針で、我々若者の教育の方向性を指導した。ショパンは、彼の同国人の一人によってワルシャワに建てられた煙草工場の従業員、または会計係として、フランス革命の前にポーランドへやって来た。彼は、誇張された共和制の自由主義や、フランス移民の影響を受けた偏狭さには馴染めなかった。また彼は、王座、及び、祭壇に対する偶像崇拝への尊敬を吹き込まれた王政主義者でもなかった。しかし彼は、道徳的で誠実な人物であった。そして彼は、若いポーランド人の教育に情熱を注ぎながらも、彼らをフランス風に変えようとか、当時フランスを支配していた主義主張を教え込もうなどとは決してしなかった。彼はポーランド人に対する尊敬から、そしてこの土地で温かいもてなしを受け、生計を立てるのに適した仕事が見つけられた事への心からの感謝から、その返礼として、彼らの子供達が立派な一市民となれるよう誠実に教育した。彼は我々の国に何年も滞在し、ポーランドの家で友好的な関係を持ったが、何をおいてもまず、ポーランド人女性との結婚によって、それ以後は夫婦の絆と家族を通して、彼は本当のポーランド人となり、公立学校の名誉ある教師として、彼の生徒とその生徒の親から愛され、誰からも尊敬され、そして最終的に、最も偉大な天才音楽家の一人を息子に持つ事で、その彼がポーランド人であると至る所で宣言し、彼を育んだ祖国に栄光をもたらせてくれるという慰安をもたらすに至る晩年まで生きた。 彼が亡くなるまで、私自身と家族全員の最も良き友人として、この尊敬されるべき教師の下で、私は初めて学習する事への願望を享受した。その当時、私が最初に学校に通っていた頃は、どれか特定の課題をトレーニングするよりも、全般的な知力の発展に、より多くの注意が向けられていた。」 クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』 Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS
OWN LAND(Polish Music Publications、Cracow)より |
クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』では、この回想録の実際の書物から、ニコラについて書かれている部分だけが抜き出され、その2ページ分が、それぞれ部分的に写真コピーで掲載されている。そしてその写真には、「FIRST EDITION OF THE
REMINISCENCE OF NIKOLAS CHOPIN BY FRYDERYK SKARBEK (フレデリック・スカルベクによるニコラ・ショパンの回想の初版)」と言うキャプションが付されており、著書名は英語で「MEMOIRS of Count
Fryderyk Skarbek, Poznań, 1878 (フレデリック・スカルベク伯爵の回想録、ポズナン、1878)」となっている。
※
これの原著はもちろんポーランド語で、原題は『Pamiętniki(回想録) Fryderyka hrabiego Skarbka』である。
この本は、ポーランドでは、2009年に、ミスウァコフスキの再編集によって再出版されている⇒(Pamiętniki Fryderyka hrabiego Skarbka)。しかしながら、その2009年版では、スカルベクの未発表の原稿から新たにページを追加していると言う事なので、本稿で歴史的事実を検証するには、参考文献としては不都合極まりない。ここで問題にしたいのは、あくまでも「1878」年の初版本である。実は、その初版本に関しては、Googleが提供しているINTERNET ARCHIVEで、その原物の全文を閲覧する事が出来る⇒(Pamiętniki)。これを見ると、全336ページ中、ニコラとその家族について言及しているのは、やはり、このたった2ページ弱である事が分かる。これ以外には、もはやショパンと言う名前すら一つも出て来ないのだ。となると、これはやはり、ちょっと奇妙なのではないだろうか?
この回想録から浮かび上がる疑問点を整理すると、以下のようになる。
1.
この『回想録』が、スカルベクの死後12年も経ってから出版されている事。
2.
ここには、「当事者しか知り得ない、個人的かつ具体的なエピソード」が一つも書かれていない事。
3.
スカルベクにとっては、むしろニコラよりも最も近しい存在だった可能性のあるユスティナが、単に「ポーランド人女性」の一言で片付けられている事。
4.
「具体的な新情報」が、例の「煙草工場」のくだりだけである事。
5.
実際の「ショパン家」と「スカルベク家」の関係は、実は、ここに書かれているような「体裁のいい関係」ばかりではなかった事。
まず第一に、この『回想録』が出版された背景だが、原物の写真コピーからも確認できる通り、この本の初版が「1878」年と言う事は、つまりこの本は、スカルベク(1792−1866)の死後12年も経ってからようやく世に出た事になる。これはどう言う事なのか?
たとえばこれが、元々本人が出版を意図したのではない日記の類ならそれも分かる。しかし、この本の内容を見れば一目瞭然なように、これは日記ではなく、著名な文筆家でもある彼が、明らかに出版を前提として書いた『回想録』である。しかもスカルベクは享年74歳で、これは当時としては十分過ぎるほど長命であり、その彼が生前に300ページ以上も書き上げていたその『回想録』が、本人の死後12年も経ってからやっと出版されたとなると、そこには、やはり何らかの説明が必要なのではないだろうか? たとえば、単純には比べられないが、ショパンの遺作などは、本人が生前に出版を前提としていなかったにも関わらず、彼の亡くなった2年後にはもう世に出ているのである。
第二に、ここには、ニコラとスカルベクの、彼ら師弟の間に当然無数にあったはずの、「当事者しか知り得ない、個人的かつ具体的なエピソード」と言ったものが、ただの一つも語られていないのである。
こんな奇妙な回想録があるだろうか? しかもスカルベクは、そんじょそこらの文筆家ではないと言うのに、である。
では、これを書いたとされるフレデリック・スカルベクとは、一体いかなる人物か?
「十九世紀初頭、ジェラゾヴァ・ヴォラ(※ショパンの出生地となるポーランドの田舎町)は、零落した貴族スカルベク家の所領だった。今は残らぬその館には、夫と離婚し、4人の子供と暮らす伯爵夫人ルドヴィカ・スカルベクが住んでいた。子供のうち最年長のフレデリック(未来のショパンの名親)は、すぐれた経済学の教授、歴史学者、さらには小説家・喜劇作家としてポーランド文化史上にその名を残すこととなる多芸多才の人物だった。」 バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳 『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より |
ニコラがこの「スカルベク家」の許で暮らしていたのは、1802年頃からとされており(※これは推定の定説)、それから、ショパン家がワルシャワへ引っ越す1810年の秋までである(※こちらは資料上の事実)。つまりこの回想録の著者であるスカルベクは、大体10歳頃から18歳頃までの最も多感な時期を、ニコラと共に過ごしていた事になる。それなのに、そのスカルベクが、そんな自分の恩師について語るのに、たったこの程度の事しか書けないというのは一体どういう事なのだろうか? 二人が共に過ごした約8年の間に、いや、それ以降の数十年に渡る両家の交流を含めても、ニコラがスカルベクにかけた言葉、取った行動、または思い出深い出来事、そのようなものが一つも書かれていないのである。そして全てが、まるで他人行儀な抽象論に終始している。ここにあるのはただ、後世の伝記作家達が書くような「一般論的な美辞麗句」と、そして相も変らぬ「ポーランド、我が祖国」があるだけなのだ。このようなものなら、特に親しい関係者でなくても、誰にでも簡単に想像で書けてしまう。
果たしてこれが本当に、「すぐれた経済学の教授、歴史学者、さらには小説家・喜劇作家としてポーランド文化史上にその名を残す」ような人物の書いた「回想録の文章」だと、信じる事が出来るだろうか? なぜなら現にスカルベクは、1827年にショパン家の三女エミリアが亡くなった際、彼女のための追悼文を雑誌に寄稿しているのだが、そこには、紛れもなく「当事者しか知り得ない、個人的かつ具体的なエピソード」と言ったものが、それこそいくつも詳細に書かれていたからである。それと比べたら、このニコラに関する記述は、とても同一人物の書いたものとは思えないと言うのが誰の目にも歴然と分かるだろう(※それについては、『検証6-4:二人目の神童エミリア・ショパン、その14歳の死』で)。
したがって、断定は出来ないが、私には、以下の二つの可能性について考えざるを得ない。
1.
それは、仮にこの『回想録』が、本当にスカルベク本人によって書かれたものだとしたら、この箇所の記述は、やはり、「自分の過去を世間に隠していたニコラの偽証」に基づいている…と言う可能性。
2.
もう一つは、この『回想録』の全てが贋作だとは言わないが、少なくとも、このニコラについて書かれた部分が、スカルベク以外の何者かによって加筆されている…と言う可能性。この本がスカルベクの死後12年も経ってから出版されている以上、その可能性を除外する事は出来ないのではないだろうか?
第三に、ニコラの妻ユスティナについての記述も、ニコラ以上に奇妙である。
前にも書いたが、実はこのユスティナについては、そのプロフィールに関して詳しい事がほとんど分かっていないのだが、ミスウァコフスキらの研究報告では、以下のように書かれている。
「ユスティナ・ショパンが生まれたクシジャノフスキ家は、クスカルベク家の所領に属するドウゥギエの村落にあり、それはクヤヴィ湖区域のイズビツァにある彼らの邸宅から2キロに位置する。彼女の正確な生年月日は分かっていない。しかし、1782年9月14日にイズビツァの教区教会で洗礼を受け、そこでテクラ・ユスティナのクリスチャン・ネームを授かっているので、そのすぐ前だったに違いない。彼女の父親はヤコブ・クシジャノフスキ(1729年頃〜1805年)で、彼は、ユスティナが生まれた時はドウゥギエ領の賃借人であり、以前はイズビツァ領の管理者だった。母親はアントニーナ・コウォミンスカで、双方共に上流階級の出身だった。ユスティナには、上に二人の兄姉がいた。兄のヴィンツェンティは1775年に生まれ、おそらく幼年期に亡くなった。姉のマリアンナは1780年に生まれた。 ユスティナの幼年期からの情報は、ほとんど入手不可能である。彼女はおそらく、少女の頃は両親と一緒に暮らしていて、イズビツァのスカルベク領に住み、時折名付け親の役割を果たした事だろう。1800年以降、 イズビツァの所領が売却された時、 ユスティナの両親は、すぐ近くのシフィエントスワヴィツェに2、3年の間住んでいた。ただしその期間、ユスティナが彼らと一緒に生活し続け、彼女の父が亡くなった1805年以降にジェラゾヴァ・ヴォラに移ったのか、それとも、1800年には既にスカルベク家に伴って付いて行っていたのか、それについては確認されなかった。ユスティナのジェラゾヴァ・ヴォラ到着に関するデータがはっきりと分からない状況は、そこでの彼女の役割についての曖昧さにも直結する。多くの伝記作家達が、彼女とスカルベク家が血縁関係にあったと主張し、その伝説を執拗に繰り返した。しかしこの事実は、いかなる情報源によってもこれまで立証された事がなく、非常に遠い関係だけが辿れるのみである。確かにユスティナは、同居するいとことしてはスカルベク家とは暮らしておらず、むしろ彼らのために働いていた。しかし、どんな身分だったのかは、はっきりとしないのである。1806年6月2日に、ブロフフ(ジェラゾヴァ・ヴォラの属する教区)にて、彼女はスカルベク家のフランス語の家庭教師ニコラ・ショパンと結婚した。ニコラとユスティナのラブ・ロマンスが小説的に根拠もなく主張されたが、この結婚は、24歳のユスティナの将来を気にかけていたスカルベク伯爵夫人によってアレンジされたように思われる。ユスティナは高齢で(19世紀初期の基準ではそうなる)、財産もないため、家庭を持つ見込みがほとんどなかったのだ。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「ユスティナ・ショパン」に関する2006年1月の記事 『Piotr
Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina』より |
この報告は極めて客観的で、非常に信用できる書かれ方だと言える。おそらく、ユスティナについては、あまりにも情報がなく、それゆえ、ニコラとは違って、伝記等でも安易な伝説や過度な逸話の類による混乱も少ないため、そのお陰で情報整理も容易だからだろうか。
ここから分る事は、
1.
ユスティナは、いわゆる「没落貴族の娘」である事。
2.
彼女は父の死後、「非常に遠い関係だけが辿れるのみ」のスカルベク家の下で、「彼らのために働いていた」事。
ほとんどのショパン伝で、「ユスティナはスカルベク家の遠縁に当たる」と言うように書かれているが、それを証明する資料はどこにもないのである。これに関しては、ショパン家の友人を自称するカラソフスキーの伝記でも、ユスティナのプロフィールについては一切言及されておらず、ニコラとユスティナの馴れ初めについてもほとんどあっさりと素通りされており、以下のようにしか書かれていない。
「十九世紀の初めに、我々はニコラス・ショパンがクヤウィのスカルベック伯夫人の家で、彼女の息子の家庭教師となっているのを発見した。彼は此処で心のやさしいユスチン・クジザノフスカ嬢に会って恋に落ち、一八〇六年に彼女と結婚した。二人の和合は三人の娘と一人の男子とにて祝福された。フレデリック・スカルベック伯は後者の名づけ親になり、小児に彼の洗礼名「フレデリック」を与えた。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より |
そもそも、ニコラのスカルベク家時代に関する記述自体が、これで全てなのである。
また、ミスウァコフスキの報告では、「ユスティナのジェラゾヴァ・ヴォラ到着」に関して、「彼女の父が亡くなった1805年以降にジェラゾヴァ・ヴォラに移ったのか、それとも、1800年には既にスカルベク家に伴って付いて行っていたのか、それについては確認されなかった」と書かれているが、ニコラとの結婚が「1806年」である事から、おそらく、「彼女の父が亡くなった1805年以降にジェラゾヴァ・ヴォラに移った」と考えるのが自然だろうと思われる。
なぜなら、ニコラがスカルベク家に雇われたのが通説どおり1802年だとした場合、仮に「ユスティナのジェラゾヴァ・ヴォラ到着」が「1800年」だすると、この2人が同じ雇い主の下で出会ってから結婚するまで、4年もの「空白期間」がある事になってしまうからだ。当時の常識から考えて、婚期を逃した「高齢」の男女が、同じ屋根の下で暮らしていながら、「4年もの恋愛期間を経た後に目出度くゴールイン」などと言うのはちょっと考え難いし、逆に、4年もの間、両者がお互いを結婚の対象とは見なしていなかったのに、無理やり「スカルベク伯爵夫人によってアレンジされ」て結婚させられた…などと言う事にもなってしまいかねないからだ。
スカルベクの『回想録』は、これらの事情について真実を語る事が出来たにも関わらず、まるで赤の他人であるかの如くにユスティナの名前すら書く事もなく、「ポーランド人女性との結婚」の一言で全てを片付けてしまっている。そこからは、「ポーランド人女性」である事のみが重要であると言う、この筆者の意図を読み取らざるを得ない。
第四に、この『回想録』に書かれている唯一「具体的な新情報」と言えば、どういう訳か、彼ら師弟が知り合う以前の、例の「煙草工場」のくだりだけなのである。
※
「年金を受ける資格を得た」事と、「フランス革命の前にポーランドへやって来た」事に関しては、既にカラソフスキーの伝記(1862〜1869)にも書かれていた事なので、これらはもはや周知の事実であり、ここで初めて明かされた「新情報」ではない。
勿論ここには、のちに判明した「新事実」であるヴェイドリヒも一切出てこず、その存在を匂わすような記述もない。これでは、我々の方がよっぽどニコラについて多くを知っている。ニコラが自分の出身地をナンシーだと偽っていた事については既に検証した通りだが、その偽証の最も大きな根拠は、元ポーランド王のロレーヌ公「スタニスラフ・レシチンスキ」の存在である。では、そんなニコラが、教え子のスカルベクから「ナンシーで何をしていたのか?」と質問された場合、彼は何と答えていたのだろうか? つまり、その答えがこの「煙草工場」の作り話だった可能性は極めて高いと言える。
「ロレーヌは、フランスの煙草産業の中心地の一つでもあった。今の煙草のように火をつけて、煙を吸うといったものではなく、嗅ぎ煙草が中心であったらしい。フランス王室でも革命後に登場するナポレオンも、愛用者であった。 …(中略)…まことに贅沢そのものであり、相当な経済力のある人、貴族、上流階級の権力のシンボルでもあった。」 佐藤允彦著 『ショパンとピアノと作品と』(東京音楽社)より |
これが事実なら、たとえば、ニコラがナンシーでも煙草工場に勤めていて、「彼の同国人の一人によってワルシャワに建てられた煙草工場の従業員、または会計係として、フランス革命の前にポーランドへやって来た」と、「嘘も方便」でスカルベク少年にそう語らっていたとしても、別段不思議ではないようにも思える。
その仮説を裏付けるものとして、ミスウァコフスキらの報告には、以下のような記述が見られる。それは、ニコラがスカルベク家に雇われる前の時代、つまり「謎の空白期間」について書かれた箇所なのだが、
「この期間中、彼(※ニコラ)は、彼の雇い主であるデケルト未亡人(彼女は後に煙草製造業者ピオトロ・フィリップ・ベネゼーと結婚した)と一緒に生活していた(例えば、現在は壊されているクウォポト通り2142番で)。後の伝記作家達によって言及されるように、ニコラが、若いヤン・デケルトの家庭教師の他に、近くの煙草工場(または、むしろ1789年に工場が解体された後に出来た施設)の事務所で副業を始めたであろう事は、除外される事が出来ない。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキ著 『ショパン家 その家族と社交の環』より |
ここに書かれている「デケルト未亡人」とは、将来、ショパン家の三女エミリアの名付け親となる人で、彼女は、少年期のフレデリック・ショパンが家族に宛てた手紙の追伸に、たびたび「デケルト夫人」として登場している。しかしながら、今までシドウを始めとするあらゆる書簡集において、その名に注釈が与えられた事は一度もなく、彼女は、単に「デケルト夫人」という名前だけで存在を知られていながら、その素性については全く分かっていなかった。
彼女個人についての詳細は、ミスウァコフスキらが次のように報告しているのだが、しかし奇妙な事に、その記述の中では、どういう訳か、「煙草製造業者ピオトロ・フィリップ・ベネゼー」との再婚の事が一言も書かれていないのだ。
以下がその全文である。
「フランツィシュカ・グロハルスカ(エミリア・ショパンの名付け親)は、1767年にヴィリニュスで生まれた。彼女は、ヤン・デケルト(1738−1790)の長男アントーニ・デケルトの妻で、彼はワルシャワの陸軍少佐であり、彼の最初の妻はルジャ・マルティコフスカであった。アントーニは1764年頃に生まれ、1790年3月23日から上級爆撃手の地位に就き、リトアニア軍に従事した。そして、その年の11月5日に少尉となる。彼は、1790年11月11日に大ポーランド国会によって貴族階級に昇進し、トルイストルザウ(三本の矢)の紋章を授かった。彼はワルシャワのドゥフィの軍に従事し、歴戦部隊で任務を終えた。彼は1814年にワルシャワで亡くなった。彼の死後、彼の未亡人フランツィシュカは年金を与えられ、ショパン家に近いセナトルスカ通り478番で暮らした。彼女は子供も亡くし、1827年10月17日にその地で亡くなった。フランツィシュカはショパン家の常連客であった。そして、エミリア・ショパンが1815年6月14日に聖十字教会で公式に洗礼を受けた時(彼女は、1812年12月15日に自宅で洗礼を施された)、彼女とクサヴェリィ・ズボインスキが名付け親となった。彼女は、おそらくショパン家が彼らの全寮制学校を経営するのを助けたかもしれない。家族の書簡における、彼女についての多くの記載から判断して、彼女は家族の非常に親しい後援者であった(フレデリックは、彼の1825年から1826年にかけての手紙の中で、しばしば彼女の事を思い出しては挨拶を送り、常に彼女からの挨拶を求めている)。」 ピオトル・ミスウァコフスキとアンヂェジェイ・シコルスキによる、「フランツィシュカ・デケルトヴァ」に関する2006年の記事 『Piotr
Mysłakowski and Andrzej Sikorski/Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina』より |
これはどういう事なのか? これによれば、そもそも、「デケルト夫人」が「未亡人」となった時、彼女は既に47歳である。「後に煙草製造業者ピオトロ・フィリップ・ベネゼーと結婚した」のがいつなのかは知らないが、いずれにせよ、24歳で初婚のユスティナが高齢とされる時代に、50歳近い「デケルト夫人」が、貴族の「未亡人」として年金生活を送っていて、経済的に困ってもいないのに、わざわざ中産階級の男と再婚するだろうか? しかも、彼女は1827年に亡くなっているのだが(享年60歳)、その直前の「1825年から1826年にかけて」の間、フレデリック・ショパンの手紙の中では、彼女はあくまでも「デケルト夫人」であり、決して「ベネゼー夫人」とは書かれていないのである。
仮に、「デケルト未亡人」が「後に煙草製造業者ピオトロ・フィリップ・ベネゼーと結婚した」のが事実だとしても、それはあくまでも、前夫が亡くなった「1814年」以降の話である。しかしその頃には、既に、ニコラは家庭も持ってワルシャワ高等学校の教授としての地位を築いているのである。そんな頃に、仮に「デケルト未亡人」が「煙草製造業者ピオトロ・フィリップ・ベネゼーと結婚した」ところで、それを、若い頃のニコラの煙草工場就職と結び付けると言うのは、ちょっと無理があるのではないだろうか。
残念ながら、この件に関するミスウァコフスキらの報告は、そのまま鵜呑みにする訳にはいかない、非常に混乱を招く書かれ方だと言わざるを得ない。
いずれにせよ、ヴェイドリヒの存在がある限り、いかにスカルベクの『回想録』でどう書かれていようと、ニコラが、「彼の同国人の一人によってワルシャワに建てられた煙草工場の従業員、または会計係として、フランス革命の前にポーランドへやって来た」と言う話は、事実ではあり得ない。
最後に、スカルベクにとってニコラが、「私自身と家族全員の最も良き友人」だったという点についてだが、これは、確かにある時期までは紛れもない事実である。しかし、この美辞麗句が後世の我々にとって空々しく響くのは、実は、この『回想録』には、両家の間で起きた二つの事件について、全く触れられていないからなのだ。その二つの事件とは、
1.
のちに、スカルベクの弟が、ニコラから多額の借金をしたまま自殺してしまい、遺言書にはその返済について一言も書かれていなかった事。
※
これについては、ニコラとルドヴィカが、ショパンに宛てた1834年9月7日付の手紙の中で言及しており、相当に憤慨している様子が分かる。
2.
のちに、スカルベクの息子が、ショパンの元婚約者マリア・ヴォジンスカと結婚し、間もなく離婚している事。
※
これについても、ルドヴィカが、ショパンに宛てた1841年1月9日付の手紙で報告しており、ルドヴィカはその結婚について批判的な意見を書いている。
これらの件については、またそれぞれ後で詳述するが、もちろん、これらは身内のプライベートに関する事なので、スカルベクが『回想録』に書かれなければならない理由などどこにもない。まして、スカルベク個人には何の責任もなく、この事で彼が非難されるいわれもない話である。しかしながら、これらの事実を知っている後世の我々が、その先入観でこのスカルベクの『回想録』を読む時、そこからは、どうしても空疎な違和感を拭いきれないのである。
[2010年4月1日初稿 トモロー]
13.マリー・ヴァレフスカの家庭教師だったというのは事実か?――
13.
Was Nicholas Chopin really a tutor of Marie Walewska?-
マリー・ヴァレフスカ(Marie Walewska. 1786 – 1817)。
※
彼女は、ポーランドの貴族アナスターシィ・ヴァレフスキ伯爵の妻だった時、祖国再建の夢を託してナポレオンの愛人となり、彼との間に男児アレクサンドルをもうける(アレクサンドルは後にフランスに亡命して外務大臣となり、従兄のナポレオン三世に仕える事になる)。晩年、フィリップ・アントワーヌ・オルナノ伯爵と再婚。31歳で病死。ポーランドでは、偉大な愛国者の一人として語り継がれている。
※
「マリー・ヴァレフスカ」の名前のカタカナ表記は、名は「マリア」、姓は「ワレフスカ」等と表記される事もある。
※
旧姓の「ラチンスカ(Łączyńska)」のカタカナ表記は、「レスツォンスカ」、「ラクズィンスカ」等と表記される事もあるが、ポーランド語の正しい発音では「ウォンチンスカ」に近い。しかしながら本稿では、敢えて混乱を避けるため、慣例にしたがって英語表記由来の「ラチンスカ(Laczynska)」表記を採用している。
フレデリック・ショパンの父であるニコラ・ショパンが、このマリー・ヴァレフスカの少女時代に、彼女の家庭教師として雇われていたという逸話がある。
ショパンとナポレオン…、そしてそのショパンの父ニコラと、そのナポレオンの愛人マリー・ヴァレフスカ…、これだけの有名人の関係者が、その歴史を共に分かち合っていたらしいと言うのに、その双方に、その事実を裏付けるような資料が一切存在しないのだ。
しかしながら、この逸話に関しては、「何者かが意図的にでっち上げた」と言うよりは、むしろ「誤解に基づく誤伝が一人歩きした」と考える方が、どうやら妥当なようだと言えそうなのである。
では、その「誤解」とは、一体どこからどのようにして生じたのだろうか? 実はこれも、やはりカラソフスキーの伝記に端を発していた。
そのカラソフスキーの伝記では、ニコラが祖国フランスからポーランドへ渡った経緯を、次のように書いている。
「間もなく機会がニコラス・ショパンの希望を満すために来た。ナンシーでニコラス・ショパンに逢い、その高い教養と温雅な態度とに好印象を受けたスタロスチン・ラチンスカは、彼に二人の子供の家庭教師になって貰いたいと申込んで、快諾を得た。でショパンは家族や友達に別れを告げて、スタロスチン家の人達に従い、一七八七年の動乱の際のワルソウに着いた。 スタロスチン・ラチンスカと一緒にワルソウやチェルニエヨウ村に滞在中、この若いフランス人は多くの重立った宮吏と知り合いになった。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より |
この話が完全にカラソフスキーの作り話だと言うのは、既に検証してきた通りである。
1. ニコラは洗礼証明書によって「マランヴィル」に生まれた事が証明され、しかも、後にロシア当局に提出した書類にも自分の出身地を「マランヴィル」と記しているのだから、彼が「ナンシー」出身だと言うのは本人による「便宜上の偽証」であり、しかも、彼が11歳の時にその「マランヴィル」にヴェイドリヒが管理人としてやって来て、ニコラが16歳の時にそのヴェイドリヒに連れられて「マランヴィル」からポーランドへ渡ったのだから、ニコラは、フランス時代には一度も「マランヴィル」を出てなどいないと、はっきりそう断言できるのである。
2. 故に、ニコラをポーランドへ導いたのは、彼の19歳当時の手紙から判明したように、あくまでも「アダム・ヴェイドリヒ」であり、決して「スタロスチン・ラチンスカ」などと言う人物ではない。
しかしここで問題となるのは、カラソフスキーがこの作り話を創作するに当たって登場させた、この「スタロスチン・ラチンスカ」なる「架空の人物」のその名前なのである。
※
この「スタロスチン・ラチンスカ」は、カラソフスキーの原著であるドイツ語版でのポーランド語表記は「Staroscin Łączyńska」、その英訳版での英語表記は「Staroscin Laczynska」。
要するに、この「ラチンスカ」と言う名前が、他ならぬマリー・ヴァレフスカの旧姓と同じだったために、後の伝記作家達によって尾ひれが付けられ、いつの間にか、「ニコラ・ショパンとマリー・ヴァレフスカがかつて師弟関係にあった」という逸話に摩り替えられていったのである。
だが、そもそもカラソフスキーは、この「スタロスチン家」の事を「マリー・ヴァレフスカの実家」だとは一言も書いていないのだ。
「ニコラス・ショパンはスタロスチン・ラチンスカ家から雇を解かれたから、ポーランドを去ろうと決心した。とは言え病気のために留まらざるを得なかった。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より |
カラソフスキーの伝記では、ニコラと「ラチンスカ家」についての記述は、先のものと併せてもこれが全てで、カラソフスキーがどういうつもりで「ラチンスカ」の名前を使ったにせよ、彼自身も、この「ラチンスカ家」を、実在する「マリー・ヴァレフスカの実家」として書いてるつもりはないのである。
1. なぜなら、実際の「ラチンスカ家」は、一度としてフランスにいた事などないからである。これでは、仮にニコラの出身地がナンシーだったとしても、その彼らが「ナンシーでニコラス・ショパンに逢」う事など絶対にあり得ない。
2. さらに、実際の「ラチンスカ家」にマリーが生れたのは、まだニコラが祖国フランスを後にする一年前であり、もちろんそれはポーランドにおいてである。しかも当時、彼女の上には2人の兄と1人の姉がおり、しかも教育の対象となり得たのはせいぜい当時10歳の長男くらいなものだった。しかしその彼は士官学校に入れられていて、当時家にはいなかったのである。したがって、「ラチンスカ」がニコラに「二人の子供の家庭教師になって貰いたいと申込ん」だとする記述も、現実の彼らの家族構成とは一切符合しない。
「マリーは一七八六年の十二月七日小さな村ブロノー(※Brodno ブロドノ)に生まれた。父マチエ・ラチンスキは中央ポーランドの古い家柄の出だったが貧乏だった。一族は数百年にわたって見せた武勲と勇気、国への奉仕で知られていた。ラチンスキ家は一七七二年の最初の分割でほとんどの領地をプロシアに取られるまでは繁栄していた。 …(中略)… マチエとエヴァの七人の子供のうち、二人の息子と三人の娘が無事成長した。家庭の事情には関係なく、伝統と習慣に従って子供たちの教育方針は決められた。すでに重い負債を抱えていたが、エヴァは長男のベネディクトを士官学校に入れるためさらに借金をした。九歳年上だったので、マリーはめったに兄に会うことはなかった。一つ年上の次男のテオドールはワルシャワの立派な寄宿学校に入れられたが、彼はマリーの生涯の信頼する友となった。」 マイケル・ケント公妃マリー・クリスチーヌ著/糸永光子訳 『宮廷を彩った寵姫たち―続・ヨーロッパ王室裏面史』(時事通信社)より |
1. また、実際の「ラチンスカ家」が住んでいたのは「キエルノジアの館」(※同書より)であり、「ワルソウやチェルニエヨウ村」ではない。
2. そして何よりも、その頃はまだ、「ラチンスカ家」には家長である父マチエ・ラチンスキが健在だったのだから、実際の彼ら一家は、決して女性姓の「ラチンスカ家」などとは呼ばれ得ず、あくまでも男性姓の「ラチンスキ家」でなければならない。
以上の理由から、カラソフスキーが、この「ラチンスカ家」を「マリー・ヴァレフスカの実家」として書いてるはずのない事は明白なのである。何しろ、とにかく事実関係が現実の「ラチンスキ家」とは一つも一致していないのだ。もしもカラソフスキーに、この「ラチンスカ家」を「マリー・ヴァレフスカの実家」と結び付ける意図があったのなら、「ポーランド、我が祖国」を強調するためなら「なかった事」でも「あった事」にしてしまうこの伝記作家が、ここで「マリー・ヴァレフスカ」の名前を出さないはずがない。
だがいずれにせよ、この件に関しては、本稿の序章でも触れたように、驚くべき事に、なんと事もあろうに、当のカラソフスキー本人が、自ら「あれは作り話だった」と認めてしまったのである。
それについては、ニークスが彼の著書の中で、以下のように説明してくれている。
「ニコラ・ショパンは、1787年、もしくは1787年頃にワルシャワに来た。カラソフスキーは、彼のショパン伝のドイツ語版の初版と第二版において、スタロスチン・ラチンスカがショパンの父と知り合いになり、彼を彼女の子供達の家庭教師として雇った、と関連付けていた。しかし彼はその後、ポーランド語版において、フレデリック・スカルベク伯爵の『回想録』によってもたらされた説を支持して、この叙述を放棄した。入手し得るうち最も信頼出来るこの証言によれば、(何故スカルベクが最も信頼出来るかは、もはや承知の事だろう)、ニコラ・ショパンのポーランドへの移住は、次のようにして起こった。あるフランス人がワルシャワに煙草工場を建て、その後、嗅ぎ煙草がますます流行になっていたので、工場は繁盛し始め、彼は助手が必要だと考えた。そこで同国人のニコラ・ショパンに話を持ちかけると、すぐにその提案は受け入れられ、彼は簿記係の仕事を得るためにやって来た。」 フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』 Niecks/Frederick Chopin as a Man and
Musician(Dodo Press )より |
※
スカルベクの『回想録』が1878年で、カラソフスキーの『ポーランド語版』がその4年後の1882年である。
もちろん、このスカルベクの『煙草工場』説も事実ではなかった訳だが、少なくともこの時点では、これによって、カラソフスキーの作り話は、金輪際、この世から抹消されてしかるべきなのである。
ところが、である。
ある人物が、カラソフスキーが自ら「放棄した」この作り話を、「ニコラがポーランドへ渡ったいきさつ」としてではなく、「ニコラがポーランドへ渡ってから8年後の出来事」として、時系列を変更して辻褄を合わせ、復活させてしまったのである。そしてその際に、この「ラチンスカ家」がマリー・ヴァレフスカの実家だと、あのカラソフスキーですら書かなかったような事を、ハッキリとそのように書いてしまったのだ。
その人物とは、アントニ・ヴォジンスキ伯爵(Count
Antoni Wodziilski. 1849 - 1930)で、つまり、将来フレデリック・ショパンの婚約者となるマリア・ヴォジンスカの甥にあたる人物である。
マリア・ヴォジンスカには、アントニ、カジミエシュ、フェリックスと言う3人の兄がおり、彼らはみなニコラの寄宿学校の生徒で、ショパンとは家族ぐるみで親しかった。このうちの三男のフェリックスの息子がこのアントニ・ヴォジンスキ伯爵で、彼は、『フレデリック・ショパンの3つのロマンス(LES
TROIS ROMANS DE FRÉDÉRIC CHOPIN))』と言う小説を書いた。
この本については、ハラソフスキが次のようにコメントしている。
「1886年、カルマン・レイによってパリで出版されて以降、初期のショパン伝の作家達すべてに広く引用されている、このもったいぶった「中編小説」の著者は、アントニ・ヴォジンスキ伯爵であった。彼は、フェリックス・ヴォジンスキとルシア(旧姓ヴォリツカ)の息子で、1849年にポーランドのスミウォヴィチェに生まれ、そしてショパンの二人目の恋人マリア・ヴォジンスカの甥であった。 …(※中略)… 彼は非常に多産な作家で、ほとんどの作品をフランス語で書いた。 …(※中略)… ヴォジンスキの『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』(ショパンの準伝記と、作曲家の人生の3つのロマンチックなエピソードの報告)の主な欠点は、彼の伝記作家としてのいい加減さにあり、事実、彼は、ショパンについて編まれた全ての伝説を絶対真理として無批判に繰り返し、そこに彼自身もいくつか追加した。この、事実とゴシップを区別する意志も能力もないヴォジンスキの著書は、リストとカラソフスキーに便乗し、巧みなフレーズを書く才能によって、ほとんど
“お涙頂戴”の寄せ集めで、『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』はそうして人気を博した。」 アダム・ハラソフスキ著『ショパンをめぐる伝説の縺れ』 Harasowski/THE SKEIN OF LEGENDS
AROUND CHOPIN(DA CAPO PRESS、New York)より |
ハラソフスキはこの後、具体例を挙げてヴォジンスキの著書を批判しているが、どういう訳か、「ニコラとマリー・ヴァレフスカの師弟関係のくだり」については一切触れず、素通りしてしまっている。
これに関しては、あの慎重なニークスまでもが、
「ヴォジンスキ伯爵は、ニコラ・ショパンの家系問題を未解決にしたまま、シュルツの話に尾ひれを付けて言及し、一部の伝記作家達が言うように、ニコラ・ショパンは、スタニスラス・レシチンスキの従者としてロレーヌに連れて来られた兵士、使用人、もしくは義勇兵であるショップ(Szop)なる人物の血筋であると偽った。」 フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』 Niecks/Frederick Chopin as a Man and
Musician(Dodo Press )より |
と批判しておきながら、「ニコラとマリー・ヴァレフスカの師弟関係のくだり」については、ヴォジンスキの記述をほぼそのまま流用してしまっている。
ヴォジンスキの、ニコラ関連の記述における「伝記作家としてのいい加減さ」を列挙すると、以下のようになる。
1. ニコラの血筋を、「スタニスラス・レシチンスキの従者としてロレーヌに連れて来られた兵士、使用人、もしくは義勇兵であるショップ(Szop)なる人物の血筋であると偽っ」ている事。
※
ニコラが生粋のフランス人であったと言う事実は、既に述べたように、後の公的資料の発見からその系図が辿られた結果、証明されている。
2. スカルベクの『回想録』にあった「煙草工場の従業員」説を採用しているにも関わらず、ニコラのポーランド到着を「1890年」と書いている事。
※
これも先述したように、ニコラが祖国フランスを発ったのは「1787年」で、これが紛れもない事実なのだが、これに関してはスカルベクも「フランス革命(※1789年)の前にポーランドへやって来た」と書いているのだから、ヴォジンスキはここでも、参考文献の時系列を勝手に変更してしまっているのである。
3. ヴォジンスキは、元々カラソフスキーの創作した「架空の人物」である「スタロスチン・ラチンスカ(Staroscin Laczynska)」を、「スタロスチナ・ラチンスカ(Staroscina Laczynska)」に変更し、そこに「“スタロスチナ”とは、スタロストの夫人の事。スタロストは国王から城や領地を与えられた貴族の称号である」と言う注釈を加えた事。
※
しかしだ、当然の事ながら、マリー・ヴァレフスカの母親にはきちんと「エヴァ・ラチンスカ」と言う名前があるのだし、父親の「マチエ・ラチンスキ」などは、ニコラも参加したと云われているコシチウシュコの反乱で命を落としているのである。が、ヴォジンスキは、こう言った「ラチンスカ家」の家族構成については一切触れておらず、「スタロスチナ・ラチンスカ」と「マリー・ヴァレフスカ」しか出てこない。つまりヴォジンスキは、そんな事も知らずに(あるいは調べもせずに)こんな話を創作しているのだと言う事が、あからさまに分かってしまうのである。
これでよくお分かり頂けたと思うが、この「ニコラとヴァレフスカの師弟関係の逸話」とは、すべて、最初にカラソフスキーが「架空の人物」の名前に「ラチンスカ」を用いた事に端を発しただけであって、ヴォジンスキを始めとするそれに続く他の伝記作家達は、誰一人として、それ以外に何の資料的根拠もなく、ただそこに尾ひれをつけて語らっているだけなのである。
※
ちなみにヴォジンスキは、自分の叔母、つまりショパンの婚約者だったマリア・ヴォジンスカの話を書くのですら、ショパンとヴォジンスキ家との間でやり取りされた『我が悲しみ』の書簡資料を参照していないと言う有様なのである。
また、ヴォジンスキは、ニコラが「ラチンスカ家」に雇われた時期をはっきり「1795年の春」と特定し、さらに、「ニコラ・ショパンは7年間この家族の許に留まり、その後、スカルベク伯爵夫人の所で同じ仕事に就くためにそこを去った」と書いている。つまり、ニコラがスカルベク家に雇われた時期を、はっきり「1802年」だと特定したのも、実はこのヴォジンスキだったのである。
※
ちなみにカラソフスキーは、ニコラがスカルベク家に雇われたのを「十九世紀の初め」と書いていただけなので、カラソフスキーはこれに関しては正確な年号までは記していなかった。
※
ミスウァコフスキらの報告では、「1791年から1802年までの間のニコラ・ショパンの消息は、信頼できる情報源の欠如と、ショパン研究における若干の混乱のために文書化するのが難しい」としていたが、しかしながら、現在ニコラのスカルベク家行きが「1802年」とされているのは、結局このヴォジンスキの記述がその唯一の拠り所となっており、実際にそれを裏付ける資料などどこにも存在しないのだ。
※
私の考えでは、スカルベク家がジェラゾヴァ・ヴォラに来たのが「1800年」であると言う事実から、ニコラが雇われたのもそれと時を同じくしていた可能性が高いと思われる。なぜなら、スカルベクは『回想録』の中で、「その当時、私が最初に学校に通っていた頃は」云々と書いているので、彼はニコラに教わる前に「学校に通っていた」事が分かっているからだ。しかしスカルベク家は、経済的事情から元の所領を売却してジェラゾヴァ・ヴォラに移ったのだから、その田舎町への引越しを機に、子供達の教育に関しても環境の転換を余儀なくされたはずなのだ。つまり、今まで通り全員を学校に通わせて人数分の授業料を出費するより、一人の家庭教師を住み込みで雇って彼に全員任せてしまう方が、遥かに経済的だからだ。そして実際そのようにしているのである。であれば必然的に、「1800年」の引越しと同時に家庭教師も探しておかなければならなくなるだろう。ニコラが来たのを仮に「1802年」としてしまうと、子供達の教育に1〜2年ものブランクが空いてしまう事になるからだ。
ヴォジンスキがこの『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』を出版したその2年後に、それを受けて、ニークスは極めて慎重ながらも、次のような興味深い書き方をしている。
「当分、彼(※ニコラ)はフランス語を教える事によって生計を立てようとした。しかしやがて、家庭教師としての雇用が受け入れられた。その時田舎に住んでいたスタロスチナ・ラチンスカは、偶然彼に会って、その礼儀正しさと教養に好印象を持ったのだ。ついでながら、我々は、彼の4人の生徒(2人の女の子と2人の男の子)のうちの1人がマリーであった事に気が付くかもしれない。彼女はその後、ナポレオン一世との関係によって、そしてその関係から生れた息子、すなわちナポレオン三世の外務大臣ヴァレフスキ伯爵によって、悪名高くなった。」 フレデリック・ニークス著『人、及び音楽家としてのフレデリック・ショパン』 Niecks/Frederick Chopin as a Man and
Musician(Dodo Press )より |
今でこそヴァレフスカは、取り分け祖国ポーランドでは、「偉大な愛国者の1人」として語り継がれてはいるが、ニークスの時代の外国人から見れば、単なるスキャンダルの対象でしかなかった事がよく分かる。
だからこそだろうが、当時、このニークスでさえ、「ラチンスカ家」の家族構成に関する詳しい情報までは持ち得なかったのである。それについて何一つ調べようともしなかった「言いだしっぺのヴォジンスキ」よりは遥かに進歩してはいたが、しかし実際のヴァレフスカの兄弟姉妹は、「女の子」の方は「2人」ではなく、先に紹介したクリスチーヌ著『宮廷を彩った寵姫たち―続・ヨーロッパ王室裏面史』にあったように「三人」いたのだし、しかも「2人の男の子」の方は、「長男のベネディクトを士官学校に」、「次男のテオドールはワルシャワの立派な寄宿学校に入れられた」のだから、ニコラの生徒ではあり得ないのである。
しかしニークスを責める事はできない。それもそのはずで、実は、ヴァレフスカの関係者によって彼女に関するまともな伝記が世に出たのは、それから半世紀近くが過ぎた1934年になってからなのだ。
さて、ここで一つ、視点をショパン側からヴァレフスカ側に移してみよう。
ヴァレフスカの曾孫であるドルナノ伯爵が書いた彼女の伝記には、ニコラに関する記述が以下の通りになっている(※1934年出版)。
「ラチンスカ夫人は、マリーが14歳になるまで彼女を家に引き留めていた。その後、彼女の家庭教師ニコラ・ショパン(ニコラ・ショパンはフランス出身で、有名な作曲家フレデリック・フランソワ・ショパンの父である)のアドバイスで、彼女の妹や若い友人達に影響を与えられないような場所、そして、彼女の早熟の熱を冷ませるかもしれない場所へ置く事にした。めったに判断を誤る事のないこの注目に値する男はこう言った、彼女の宗教的感情の成熟した熱心さ、強い同情心、そして政治問題への進んだ理解は、14歳の少女にしては普通ではないと。それで、マリーはワルシャワの修道院に行った。」 ドルナノ伯爵著『マリー・ヴァレフスカの愛と生涯』 Count D'ornano/LIFE AND LOVES OF
MARIE WALEWSKA(Hutchinson & Co. London)より |
この本は、ヴァレフスカの伝記としては最初のもので、しかも彼女の関係者によって書かれた唯一のものなのだが、驚いた事に、これがニコラに関して記されたその全てなのである。この伝記ではこれ以降、後にも先にも、ニコラは愚か、その息子のフレデリック・ショパンについてすら言及される事がない。マリーの嫁ぎ先であるヴァレフスキ家もショパン家も、同じ時代に同じワルシャワに住んでいたと言うのにである。
これはショパン家の側にも言える事で、つまりこの両家の間には、一切の交流がなかったと言う事なのだ。そのため、この、「何の資料的根拠も示されないニコラに関する一文」が、まるで取って付けたような印象を拭えないのである。
この伝記には、ヴァレフスカの書いた書簡資料も掲載されており、著者であるドルナノ伯爵は序文で、この本は小説ではなくあくまでも伝記だと断りも入れている。それにも関わらず、そんなヴァレフスカの子孫(曾孫)ですら、彼女とニコラの関係を裏付ける資料など一切持っていない事が、これで証明されるのである。
つまり、ヴァレフスカ側からもたらされる「ニコラ・ショパンとの師弟関係の逸話」も、単に、ショパン側の伝記からの受け売りでしかない事が明白なのだ。
私は、これ以降に出版された、「非・関係者によって書かれたヴァレフスカ伝」も、洋書から和書に至るまで全て目を通したが(※不思議な事に、いずれも著者は女性ばかりである)、ここでは敢えて紹介しないが、やはりいずれも、「ニコラとヴァレフスカの師弟関係」については何の資料的根拠も示されておらず、単なる受け売りと憶測だけで、極めてあっさりと片付けられているのである。
1.
一つだけ例を挙げると、たとえば、先に紹介したマリー・クリスチーヌ著『宮廷を彩った寵姫たち―続・ヨーロッパ王室裏面史』では、ニコラのポーランド到着を「1890年」と書いてしまっているのである。しかし、過去にこのように書いていたのはヴォジンスキ著の『フレデリック・ショパンの3つのロマンス』だけであり、つまり、クリスチーヌが参照したニコラに関する資料が、残念な事に、この「いい加減」なヴォジンスキの小説である事を裏付けているのである。
参考までに、それ以外にも、今度は逆に、ナポレオンの視点からヴァレフスカについて言及している本についても目を通した(※こちらは、いずれも著者は男性ばかりである)。
加藤俊一著
『ナポレオン その情熱的生涯』(文藝春秋刊/1969年)
田辺明雄著
『ナポレオンと女達』(沖積舎/2000年)
安達正勝著
『ナポレオンを創った女たち』(集英社/2001年)
こちらは敢えて紹介したが、面白い事に、これら日本の男性作家陣は皆、ヴァレフスカとニコラとの関係については一言も触れていないのである。つまり、これらの著書の中に、ニコラ・ショパンの名は一切出てこないという事だ。
だが、本来それが当たり前なのだ。著者が安易な引用だけに頼らず、ゴシップ性やメロドラマ性よりも、あくまでも資料的根拠を重んじて客観的な執筆態度を取るならば、自然とそのようにしかならないはずなのである。
ちなみに、まともな歴史書におけるナポレオン関連の書物でも、ヴァレフスカの扱いは決して過大評価の対象とはならず、全く触れてないものさえ少なくはない事を付け加えておく。
史実を無視した「空想歴史小説」のような文芸ジャンルがあるのは承知しているが、それを、純然たる歴史研究と混同して語らうのは、いい加減いかがなものだろうか。
その例が、以下のような書物である。
「マチュウ・ラチンスキの娘として生まれた彼女は、ポーランドでも最も古く、しかしながら極めて貧しい家系に属していた。父親は母親のラチンスカ夫人と六人の子供とを後に残して、既に他界していたが、彼女はその中でも一番感じやすく、物事に夢中になりやすい性質で、自分の着物や人形よりも、祖国の運命をはるかに大切に考えていた。 これについては、一つの逸話がある。ある日、彼女の家庭教師をしていたニコラ・ショパン(作曲家の父)は、宿題の余白に、次のように書いていた。 「何故そんなに夢中におなりですか?…… この背信の戦さに、ポーランドのため大量の涙を流して、いったい何となさる?」」 ギー・ブルトン著/曽村保信訳 『フランスの歴史をつくった女たち〈第7巻〉』(中央公論社)より
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2010年5月5日初稿/2010年5月7日改訂 トモロー]
14.コシチウシュコの反乱に参加したという英雄伝説は事実か?――
14. Is it the heroic legend that Nicolas
Chopin plays his part in the Polish insurrection under Kosciuszko a fact?-
タデウシュ・コシチウシュコ(Andrzej Tadeusz
Bonawentura Kościuszko. 1746–1817)。
※
ポーランドの革命家で、紙幣にもなったほどの国民的英雄。
※
1793年の第2次ポーランド分割に反抗し、翌1794年に指導者として反乱を起こした。これを「コシチウシュコの反乱(蜂起)」と言う。しかしこれに失敗してフランスへ亡命し、後にスイスに渡ってポーランドの復興を試みたが、結局果たせなかった。
※
「コシチウシュコ」のカタカナ表記は、「コシチュシュコ」、「コシチューシコ」、「コシュチゥシコ」、「コシウシュコ」、「コシュウシュコ」等と表記される事もあるが、本稿では、現時点での日本唯一の『ポーランド語辞典』の編纂者のお一人でもある関口時正氏の訳による、『決定版 ショパンの生涯』の表記に従い、「コシチウシュコ」表記を採用している。
結論から先に言えば、この話も完全に作り話である。
これを最初に書いたのはカラソフスキーで、その時点でもう、大方の想像は付くと思われるが、これは、いかにも国粋主義者の彼らしい、しかも、極めて支離滅裂なフィクションなのである。
カラソフスキーは、彼のショパン伝のその「第一章」の書き出しで、まず、長々とポーランドの歴史について語っている。これは、和訳版では丸々2ページ分にもなる。そしてそこに、スタニスラス・レシチンスキに絡めてニコラ・ショパンを登場させ、その彼を、架空の人物「スタロスチン・ラチンスカ」によってポーランドへ連れ去らせる。その後もさらに、丸々3ページを費やしてポーランドの歴史を語り、それから、「コシチウシュコの反乱」について、以下のように書いた。
「ニコラス・ショパンはスタロスチン・ラチンスカ家から雇を解かれたから、ポーランドを去ろうと決心した。とは言え病気のためにワルソウに留まらざるを得なかった。で彼は一七九六年(※この年号は誤植。原著ではちゃんと「1794年」になっている)のコシウシュコが中心人物となっていた革命も、プルシヤ人の首府包囲も目撃した。生来勇敢な、またポーランドの独立に対して熱心なニコラス・ショパンは、国民軍の一員となって、国家擁護のために積極的な働きをした。マシエヨーウィスの戦でポーランド軍が敗退し、コシウシュコがひどく負傷して捕虜になり、敵の大軍がプラガの郊外を行進していた時、彼は大尉であった。ニコラス・ショパンはここで友人達と一緒に軍隊を指揮していた。そうして占領数時間前に、自己の位置を譲っていなかったら、彼の死は免れ得なかったに相違ない。」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より |
1.
まず、「ニコラス・ショパンはスタロスチン・ラチンスカ家から雇を解かれた」と言うのが嘘である事は、すでに説明したとおりである。
※
ニコラをポーランドへ導いたのはアダム・ヴェイドリヒであり、カラソフスキーが架空の人物として登場させた「スタロスチン・ラチンスカ」ではない。したがって、当時ニコラが「ラチンスカ家」で家庭教師をしていたと言う事実そのものがないのだから、当然、「ラチンスカ家から雇を解かれ」ようもない。
※
それに、その「ラチンスカ家」とやらは、自分達の都合でニコラを外国へ連れて来たと言うのに、「その高い教養と温雅な態度とに好印象を受けた」と言うその彼に、次の働き口も斡旋しないで「雇を解」き、路頭に迷わせるとは一体どういう了見なのだ? 常識で考えても、これが作り話だと言うのが分かるだろう。
2.
だから当然、「ポーランドを去ろうと決心した」と言うのも嘘である。
※
ニコラはこの3〜4年前に、フランスの両親宛の手紙に、「たとえ我が祖国とは言え、兵士になるという命令が除かれなければ、悲しい事ですが、私はここを離れる訳にはまいりません」と書いているのである。つまり彼は、「ポーランドを去」りたくても、去れるはずがないのだ。これについては、イワシュキェフィッチも同様の疑問を呈している。ポーランドの作家にも、当然ちゃんとした人はいる。
「疑問がますます湧いて来る。前に述べた両親宛の手紙で、ニコラスはフランス軍隊の兵隊に引っ張られる心配を実に正直に述べて次のように書いている。 『僕は、たとえ祖国の軍服でも、とにかく軍服を着るために、現在僕が生活し、だんだんに、少しばかりでも出世し始めたこの外国の地を、ひじょうに悲しい気持ちで立ち去るなんてことは考えられません』 ところが同じそのニコラスが、三年後には革命家コシチウシュコの徒党にはいり、キリニスキー分隊の一兵としてプラガの戦争に参加しているのである。これはいったいどう説明したらよいのであろうか? ニコラスは『ただもう僕に親切にしてくれる』人――たくさん親切の証拠を注いでくれた恩人ウェイドリッヒのために軍隊にはいったのだろうか? それとも、愛する本当の祖国への愛国心からであったろうか?」 ヤロスワフ・イワシュキェフィッチ著/佐野司郎訳 『ショパン』(音楽之友社)より |
3.
なので、言うまでもなく、ニコラが「生来勇敢」と言うのも嘘である。
※
「兵士になる」のが怖くてフランスへ帰れないような男が、「生来勇敢」である訳がない。
4.
ニコラが「ポーランドの独立に対して熱心」と言うのも嘘である。
※
たとえばそれが、彼がポーランドで結婚し、家庭を築いた後だと言うのならまだ分かる。しかし、兵役を逃れるために「祖国の革命」に背を向け、その結果、亡命者として国を追われる羽目になったような非暴力主義の若者が、なぜ、高々6〜7年くらいしか住んでなくて、守るべき家族も何もない「外国の革命」のために自らの命をかけて戦うと言うのか?
そんなニコラ・ショパンが、「国民軍の一員となって、国家擁護のために積極的な働きをした」など、考えられない話なのである。
カラソフスキーは続けてこう書いている。
「一七九四年の十一月プラガ占領後、敵将スヴォロフが軍隊に命じて住民全都を殺し、老人、少女、子供までも残さなかったことは周知の通りである。一万二千余人が、征服者の残虐の犠牲に供された。翌年行われた三回目のポーランド割譲は、その政治上の生存に致命傷を与えた。ポーランドは国民の列から消え失せて、ただ他の国々に併合され、切れ切れになって欧州の地図に残ったに過ぎなかった。ワルソウだけはプルシヤの支配下に置かれた。 この多難な時代を経てから、ニコラス・ショパンはもう一度フランスへ帰ろうと決心した。けれどもまたも重い病に冒され、それがため当時の長途の旅行に免れ得ない疲労と障碍とに堪えられなかった。で彼はワルソウにとどまって、フランス語を教えて生計を立てた。故郷に帰るのを断念した理由を問われると、彼は、いつもこう答えるのであった。『私は二度試みましたが二度とも重い病に妨げられました。どうもポーランドに留まることが、神様のお思召であるようです。で私は快く諦めています』」 モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳 『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社/1952年)より |
ここでも、カラソフスキーは同じ嘘を繰り返している。
何度でも言うが、亡命者として祖国を追われたニコラが、「フランスへ帰ろうと決心」する事など絶対にあり得ないのである。本稿の前章でも書いた通り、フランス革命によって樹立した革命政府は、コシチウシュコの反乱が起きるその前年に、次のような法律を打ち出していたのだから。
「革命裁判所は一七九三年三月一〇日に創設され、「あらゆる反革命の企図と、自由、平等、統一、共和国の不可分性にたいするあらゆる加害行為」を審理した。…(略)…亡命者にかんする諸法律が三月二八日に一本にされ、強化された。亡命者たちは民法上死亡者と宣言され、永久に追放され、帰国すれば死刑を課せられ、彼らの財産は没収された。」 アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳 『フランス革命(下)』(岩波書店)より |
更にその半年後には、次のような法改正までなされている。
「反革命容疑者にかんする法律(一七九三年九月十七日)は、恐怖政治樹立への大きな前進をしめすものだった。…(略)…亡命者の親戚、帰国した亡命者たちは容疑者とされた。」 アルベール・ソブール著/小場瀬卓三・渡辺淳訳 『フランス革命(下)』(岩波書店)より |
このような有様では、帰国すれば自分だけでなく、マランヴィルの家族にまで危害が及んでしまう恐れがあるのだから、ニコラがそんなフランスへなど帰れる訳がないのである。
しかもカラソフスキーは、さも自分が直接ニコラから話を聞いてきたような口ぶりで書いているが、本稿の序章でも説明したように、カラソフスキーが実際に面識のあったショパン家の遺族は、次女のイザベラだけなのだ。
百歩譲って、仮に、カラソフスキーの書いた通り、ニコラが「フランスへ帰ろうと決心」したとしよう。それならば、たとえ「病気」したとしても、彼は、「病気」が治り次第、いつでも帰ればいいではないか。「病気」など、あくまでも一時的な妨げにしかなり得ないのだから。
しかし現実の彼は、自分の息子が18年間もパリにいてさえ、決して祖国へは近付こうとさえしなかったではないか。「病気」などと言う「その場限りの理由」では、結局「永遠に祖国へ立ち寄ろうとさえしなかったニコラの事情」など、とうてい説明できるはずがないのである。
また、仮にニコラが、カラソフスキーの言うように「新しい祖国の政治的な窮状に大いに同情」していたとしても、その程度の軽い動機で、自らの命を棄てられる人などいない。その上、「カラソフスキーの描くニコラ」は、「コシチウシュコの反乱」の前後に、二度に渡って帰国を敢行しようとしているではないか。失業しては帰ろうとし、反乱に失敗してはまた帰ろうとしている。つまり、その都度その都度、ポーランドへの思い入れがその程度だと言う事ではないのか? そんなポーランドのために、どうして命などかける事ができているのか?さっぱり訳が分からない。
このように、カラソフスキーが描く人物の心理描写には、いつも一本筋が通っていないのである。これは人間心理の矛盾などと言う高尚なものではない。あくまでも意志行動の矛盾である。人は、行動で嘘をつく事は出来ないのだ。したがって、こんな話は到底、現実の人間の取った行動ではあり得ない。こんな支離滅裂な英雄伝説など、どうして信じる事が出来るだろうか?
ニコラにとっては、「フランス革命」も「コシチウシュコの反乱」も、所詮まったく同じものでしかないのである。実際、「コシチウシュコの反乱」は、これに先立ったフランス革命の影響抜きには語れないのだから。
「有名な「自由の戦士」タデウシュ・コシチューシコの偉大な権威を利用することが求められた。彼は一七四六年に生れ、ワルシャワの「騎士の学校」の士官候補生となり、パリで工兵学を学び、のちにアメリカ独立戦争に参加し、要塞建設で名をあげ、将軍の地位にまで昇進した。四年国会によりポーランド軍勤務を命ぜられ、一七九二年のドゥビェンカの戦いで名声を博して、フランス共和国の名誉市民となった。コシチューシコは一七九三年の初めに覚え書きをたずさえてパリにむかった。覚え書きには、ポーランドは君主制を廃止してブルジョワ共和体制を樹立し、すべての市民には平等な権利を保障して財産資格にもとづく制限選挙権をうち立てるとともに、共和国は分割列強の三国すべてに(そのうち、オーストリアとプロイセンは当時フランスと交戦中であった)宣戦布告すると述べられていた。コシチューシコはポーランド内の変化に関心をしめしたフランス政府から励ましの言葉を得たが、ジロンド党やジャコバン党から具体的約束を得ることをできなかった。ポーランド人はフランスからも、またフランス以外では最も期待していたトルコからも援助をあてにすることはできなかったのである。 …(略)… 革命フランスとの同盟は失敗した。残っているものはフランスの手本であった。フランスの勝利は国の内外のポーランド人に大きな感銘を与えた。フーゴ・コウォンタイは国民を恐ろしいほどまでに動員する革命的方法の効果に魅惑された。「専制者にたいする人民戦争」の夢想は人を惹きつける魔力をもっていた。」 ステファン・キェニェーヴィチ編/加藤一夫・水島孝生共訳 『ポーランド史@』(恒文社)より
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要するに、ニコラにしてみれば、せっかく逃げおおせたはずのフランス革命が、皮肉にもポーランドまで追いかけて来たようなものなのである。そのようなものに、何で肩入れする理由があると言うのか?
「コシチウシュコの反乱」は、たとえポーランド人にとっては「聖戦」でも、外国人の目には、当時のロシア女帝エカチェリーナ二世がこれを「フランス病」と表現したように、「フランス革命に影響されただけの無謀な行為」としか映っていなかった。だからどこの国からも援助が得られなかったのだし、その結果玉砕もしたのである。
ここでちょっと視点を変えてみよう。
たとえば、この「コシチウシュコの反乱(蜂起)」というのは、おそらくポーランド人なら知らない人はいないと言えるほどの歴史的事件だろう。そしてそこに、かのフレデリック・ショパンの父が、単なる浮遊外国人の身分で参加していたと言うのである。であれば、虚飾にまみれた「ショパンの伝記」ではなく、あくまでも学術的な「ポーランドの歴史書」では、それについて、一体どのように記述されているのだろうか?
私はそれを調べるべく、ポーランドの歴史書の類を、手に入るものは可能な限り手に入れ、(と言っても、日本語で読めるポーランドの歴史書はそれほど多くはなく、私が入手した7冊程度がそのほぼ全てと言っていい位なものなのだが…)、その全てに目を通した。
当然の事ながら、この反乱に触れてないものなど皆無である。なにしろこの反乱の失敗が、結果的に、そのままポーランドを消滅に導いたのだから。
それでは、その「コシチウシュコの反乱」の様子について、特に詳しく書かれている書物を二つ紹介しよう。私はそこに、我らが「ニコラ・ショパン大尉」の勇姿を見出すべく、その登場人物達の名を克明に追ってみた…。
「急進派の制圧するところとなった首都で、執政官は「最高国民会議」を設立し(五月二十一日)、イグナツィ=ポトツキ伯、コウォンタイはここに席を占めた。会議にはこれら両人と並んで、貴族・士族、平民の別なく多数の有力者が顔をそろえていた。数名の青年貴族、前ポズナニ全権代表=士族ヴィビツキ、銀行家カポスタス、親方靴工キリニスキ、クラクフとヴィルノの教授、数名の聖職者など。反徒は幾人かの内通容疑者を虐殺し、秩序を再建するために数名の同志を裁判に付し、絞首刑に処さねばならなかった。八か月のうちに十四万ないし十五万の戦闘員が召集され、そのうち七万ないし八万がただちに武器を与えられた。 敵はまもなく陣容を立て直した。南部では、プロイセン軍がコシュチゥシコに激しい打撃を与えたうえ、クラクフに入城した(六月十五日)。北部では、七月にヴィルノ近くで撃退されたロシア軍が、翌月そのおなじ都市を奪取した。大ポーランドにおこった反乱はプロイセン軍に不安を与え、その行動を遅らせた。しかしコシュチゥシコはマツィェヨヴィツェ〔ワルシャワの西南四三マイル〕でロシア軍に敗れ、重傷を負って、とらわれの身となった(十月十日)。後継者ヴァヴジェツキ〔トマシュ、一七五三〜一八一六〕にはコシュチゥシコほどの才能も威信もなかった。」 アンブロワーズ・ジョベール著/山本俊朗訳 『ポーランド史』(白水社)より |
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「訳者まえがき
…(略)…
原著者アンブロワーズ・ジョベール氏は一九〇四年、グルノーブルに生まれ、同地のノートル・ダーム学院をへて、グルノーブル、リヨンの両大学文学部に学び、ポーランド史を専攻して、文学博士の学位を得ました。ワルシャワ(一九二七〜三〇)とウィーン(一九三一〜三四)のフランス学院の教授を経て、四五年からはグルノーブル大学の教授となりました。主著には本書のほかに『ポーランドにおける民族教育委員会(一七七三〜九四)』(一九四〇)、『ポーランドの貴族とフランスのフジオクラート』(一九四〇)などがあります。一九六〇年には、ポズナニのアダム・ミツキェーヴィチ大学から名誉博士の称号をうけています…(略)…」
「街頭で戦い抜いたのは、大部分は陰謀家たちに指導された民衆であった。なかでも靴工のヤン・キリンスキは伝説的な人物となった。 …(略)… ヴィルノではジャコバン派(連隊長ヤクブ・ヤシンスキ)が権力をにぎり、タルゴヴィツァ連盟(※ロシア女帝エカチェリーナ二世の指示で、ポーランド・リトアニア共和国の大貴族たちが結成した連盟。のちに『愚かな売国奴』の蔑称となる)に対して強い態度(軍司令官のシィモン・コッサコフスキの絞首刑)をとった。 …(略)… ジャコバン・クラブとワルシャワ市民の圧力のもとに、刑事裁判所は五月九日タルゴヴィツァ連盟の幾人かの指導者(軍司令官のオジャロフスキとザビュウウォ、常設評議会議長のアンクヴィチ、司教のコッサコフスキ)に絞首刑の判決をくだした。 …(略)… ワルシャワの市民軍は敗北せず、実際にその数は一万八○○○人にまで達した。ラツワヴィツェでの蜂起の最初の戦闘で鎌で武装した農民たちは勇敢に戦った。このことはポーランド人の士気のなかで重要な事実であり、永遠の伝説をつくった。伝説の英雄は将校の位階にまで昇進した農民バルトシュ・グウォヴァツキであった。 …(略)… 政府は産業施設を譲りうけ、軍隊のためばかりでなく、ワルシャワ市民にたいしても強制配給をおこない、食糧供給を組織した。これらの活動は歴史的にみるとフランス革命の「戦時社会主義」という用語が意味するものに似た要素をふくんでいた。(フーゴ・コウォンタイの盟友であるフランチーシェク・ドモホフスキ下の)教育省は宣伝や報道を動かした。 …(略)… ジャコバン派は、もちろんパリのクラブとはむすびついていなかったが、反対派からはこうよばれていた。この派は独立闘争を永続的な政治・社会変革とむすびつけることを望む二〇〜三〇歳台の若い熱狂者のグループであった。彼らは民衆のなか、とりわけ市民のなかで活動していたがサンキュロットではなかった。ほとんどは町に定住している貧しい下屑シュラフタ出身者であった。軍人将校(ヤシンスキ、ザヨンチェク、ホメントフスキ)、法律家や弁護士(オルホフスキ、マルシェフスキ、タシイツキ)、ジャーナリストや作家(パヴリコフスキ、ドモホフスキ、シャニャフスキ)や下級聖職者(メイエル、イェルスキ、ローガ)のなかにジャコバンを見ることができる。彼らの活動は、蜂起やそのさまざまな団体の民主的なものにするのに物質的な影響を与えた。彼らは扇動や著述(特に数多くの詩や歌)により、革命の雰囲気を盛りあげた。 …(略)… 一万四〇〇〇人の防衛隊のうちワルシャワに逃げ帰ったのは、わずか四〇〇〇人であった。詩人であり革命家でもあるヤシンスキ将軍は最後まで戦い、防壁の上で倒れた。」 ステファン・キェニェーヴィチ編/加藤一夫・水島孝生共訳 『ポーランド史@』(恒文社)より |
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「訳者あとがき
…(略)…
本書は、以下の五人の執筆者によって書かれている。アレクサンデル・ギェイシトル(ワルシャワ大学教授)、ステファン・キェニェーヴィチ(同)、エマニエル・ロストフォロフスキ(ポーランド科学アカデミー教授)、ヤヌシュ・タズビル(同)、ヘンリク・ヴェレシィツキ(クラクフ大学教授)、主筆はキェニェーヴィチ教授が担当している。これらの執筆陣は、一九五五年に始まり、現在なお完成をみせていないポーランド科学アカデミー版『ポーランド史』の編集・執筆のメンバーで、いずれもポーランド中世史あるいは近現代史の権威である。とりわけ、主筆のキェニェーヴィチ教授は、ポーランド一月蜂起(一八六三〜六四)を中心とする分割ポーランドの研究家として世界的に有名である。…(略)…」
農民、職人から、貴族、司教に至るまで、あらゆる階層から名前が列挙されているにも関わらず、そこに、「大尉」にまでなったと言うニコラ・ショパンの名前がない。これ以外の歴史書でも、みな同様である。
なぜ?
理由は簡単である。それを裏付ける資料がないからだ。資料的根拠がない以上、たとえショパン伝では常識として語り継がれていたとしても、それでは、学術的な歴史書に掲載する訳にはいかない。当たり前の事である。
※
ちなみに、後のショパン伝では、ニコラは「親方靴工キリニスキ(靴工のヤン・キリンスキ)」の分隊にいた事にされているが、これは、資料的根拠のある「キリニスキ」がプラガに派遣されていたので、それとカラソフスキーの記述とを照らし合わせて、それならニコラもこの分隊にいたはずだと推測されたに過ぎないのである。しかし、数々の歴史書に「伝説の英雄」として記載されている「キリニスキ」と共に「大尉」を勤めていたほどの人物が、資料上ニコラ・ショパンだと裏付けられないなんて、どう考えてもおかしいのではないだろうか。
しかしこれはニコラに限った話ではない。
先述したマリー・ヴァレフスカの父マチエ・ラチンスキの名前も、ここにはない。彼は「マシエヨーウィス(マツィェヨヴィツェ)の戦」で命を落としたと伝えられているのに、これらの歴史書には一切登場しない。彼の場合、浮遊外国人のニコラとは違い、たとえ落ちぶれていたとしても、「一族は数百年にわたって見せた武勲と勇気、国への奉仕で知られていた」という、「ポーランドの古い家柄の出だった」のにである。
これもやはり、ニコラの場合と同じように、後世の伝記作家による脚色なのである。なぜなら、マリー・ヴァレフスカの曾孫ドルナノ伯爵が書いた伝記では、この件について、以下のようにしか書かれていないからである。
「貴族であるラチンスキ家は、彼らの階級の多くがそうであるように、祖国の自由を回復するためなら何でもする準備が出来ていた。 …(略)… マツィェヨヴィツェにおけるコシチウシュコの敗北から2年後、最終的にポーランドは3つに分割された。その時から、ポーランド共和国はもはや国とみなされなかった。 マチエ・ラチンスキは、それらの長い戦争の間に消え失せていた。時代が皮肉なあざけりでもてなすかのような、3つのものを残して。それは、決して無名ではない貴族の名前と、かつては相当あった財産も減り、絶えず積み重なる年月と抵当の下で揺れるキエルノジアの館が1つと、そして最後に、悲しみに打ちひしがれた家族だった。」 ドルナノ伯爵著『マリー・ヴァレフスカの愛と生涯』 Count D'ornano/LIFE AND LOVES OF
MARIE WALEWSKA(Hutchinson & Co. London)より |
ここでは、マチエ・ラチンスキは「消え失せていた」(※原著では「Matthieu Laczynski had vanished」)と言う曖昧な書かれ方しかしておらず、決して、「コシチウシュコの反乱」に参加したとも、それで戦死したとも書かれてはいないのである。
ニコラは決して、「コシチウシュコの反乱」になど参加していない。
それを裏付ける資料が、権威ある歴史学者達によっても確認されていないばかりか、そもそも、それを最初に文書化したカラソフスキーの記述が嘘である事は、簡単に論証できてしまうからだ。
残念ながら、カラソフスキーを始めとする一部のポーランド人作家達が強調したがるほどには、実際のニコラはポーランドに帰依してはいないのである。
ニコラのポーランドへの愛国心は、少なくとも、当地で「ポーランド人女性」と結婚し、そこに子供達を授かるまでは、とうてい実感の湧きようがない話なのではないだろうか。そしてそのニコラが実際に結婚したのは、彼がポーランドに渡ってから、実に19年も経った後なのである。それでも、その3年後に生れた息子の洗礼証書には、依然として「父はフランス人」と書かれていたし、「ミコワイ」というポーランド名も、「郷に入っては郷に従え」というような表向きのものに過ぎず、彼は家族の間では、あくまでも本名の「ニコラ」で通していた。それは、息子が幼年期に贈った父宛のカードに「NC」(※ニコラ・ショパンのイニシャル)と書かれていた事からも証明されている。
また、ニコラはその後も、ポーランドにおけるあらゆる公文書において、常に自らを「フランス人」と記し、そして「フランス人」として死んでいった。だがそれは、たとえ彼の愛国心が何処にあったとしても、彼の選んだ職業を考えれば、むしろ当然の事なのではないだろうか?
たとえば、もしもあなたがフランス語を勉強したいと思ったら、「フランス語の分かる日本人教師」と、「日本語の分かるフランス人教師」と、どちらから学びたいと思うだろうか? それが何語であれ、語学を学ぶなら、当然ネイティブな教師の方がいいに決まってるのだから、誰もが「日本語の分かるフランス人教師」から学びたいと思うだろう。ニコラの場合もそれと同じ事で、彼の職業から考えて、彼は、わざわざ帰化して自らをポーランド人と名乗るより、帰化せずにフランス人として名乗り続けた方が、職業上、遥かに有利なのである。
ニコラやその息子の国籍が問題視され始めたのは、あくまでも、後世の「一部のポーランドの伝記作家達」の愛国心がそこに異常なこだわりを見せたからに過ぎず、当の本人達が、どれほど時事的にそれを強く意識していたかなど、実際分かりはしないのである。
ただ、いつの時代でも、どこの国に生まれても、誰もが当たり前に抱くような愛国心はもちろんあった。ショパンのマズルカやポロネーズと言ったポーランドの民族音楽が、時代や国境を越えて、誰からも愛されるような普遍性を持ち得た事の意味を、偏狭な国粋主義の枠で語る事で逆に貶めてしまうとしたら、それは非常に的外れな話なのではないだろうか。
私が同じ芸術家の端くれとして感じる違和感は、正にそこにある。真の芸術家とは、常に、時事的なものを通して、そこから普遍性を掴み取ろうとせずにはいられないからだ。時事的なものしか追いかけようとしないとしたら、それは芸術家ではなく、ジャーナリストである。だから、芸術家が政治に首を突っ込むと必ずその作品が失敗するのは、普遍性を見失って時事性しか見えなくなるからだ。それは歴史が証明している。
[2010年5月8日初稿 トモロー]
―次回予告―
次回、ショパンの本当の生年月日と、ピアノの詩人を育んだ家庭環境と、その少年時代とを徹底検証する、
をお楽しみに。
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