検証11:第2回ウィーン紀行と贋作マトゥシンスキ書簡――
Inspection XI: The journals of the second
Viena's travel & the
counterfeit letters to Matuszyński from Chopin -
7.ショパンは本当に手記(日記)を書いていたのか?(※改訂版)――
7. Does Chopin really wrote a
note?-
今回紹介するのは、ウィーン時代のショパンがアルバムに書き込んでいたとされている手記(日記)からの抜粋である。
ちなみにカラソフスキーの伝記では、このアルバムについては何も触れられていない。
これは、スタニスラス・タルノフスキー伯爵と言う歴史学者を典拠とし、それをJ.T.タンカレーと言う大学教授が1871年に発表したもので、例の「シュトゥットガルトの手記」もこれに含まれるが、今回はそれに先行する箇所について紹介したい。
この資料は、既存の書簡集では様々な形で紹介されているが、まずは、その大元であるタルノフスキー/タンカレー版を、原著のまま解説文も含めて読んでいただきたい。
■ウィーン時代のフレデリック・ショパンのアルバムから■ (※原文はポーランド語) |
「…(※略)…若いショパンは、完全に成熟した才能と、ワルシャワで得た名声と、外部からと言うよりは自らの感情の深いところから吸収した自信、そして彼の心中に最初のはっきりしない愛をそれぞれ持ちながら、彼の芸術を完成させるために、また、子供時代に恐れられていた肺病の気が年を追って益々その恐れを増してきたので、より穏やかな気候が必要である事が分かり、健康を取り戻すためにも、二度とワルシャワに戻る事がないなどとは思いもせずに国を出た。 彼は名声と幸福を夢に見て、明るい気持ちで出発した。“僕はポケットにたった20クロイツアー硬貨しかなかった、”と彼は手帳(ポケット・ブック)に書いている。“しかし、僕には、先ほど会ったアーサー・ポトツキよりは金持ちと思えた。” (※以下、この箇所を便宜上「日記A」とする) ああ悲しいかな! この落ち着きは続く事はなかった。この出発は彼の人生の全ての苦労の始まりであった。ショパンは、この決然たる旅に一冊の小さな手帳(ポケット・ブック)を持参した。これは一種のアルバムで、彼は時々、身に起こった様々なアクシデントや、胸中に去来する色々な考えをぞんざいに記録した。最初のページにワルシャワのスケッチがある;月光に照らされたスギムンド皇帝円柱とクラコウの郊外広場。それから、押しつぶされた黄色い一枚の紙に“私達はあなたを愛して”(※フランス語)と書かれ、“ジョルジュ”とサインがしてある。そのアルバムのこれらの2ページは、彼の人生の二つのシンボルのようである。 ワルシャワは、自由で、平和的で、幸福な人生の期間の始まりである;もう一方は、後年の波乱と悲哀の始まりである。ワルシャワは、ショパンにとって自国への思いと愛の対象である;もう一方は、彼の人生に多くの苦しみを注いだ、もう一つの愛の思い出の場所である。全てこれは、まるで絶望の淵と言われてきた、悲劇的な性質を犠牲にした彼の作品の中でも感じられる。そのような性質は、決して平静さを得る事はないように運命付けられていた。もしもショパンが他の環境に置かれていたら、もしも彼が自国に留まって普通の生活をしていたら、彼の体力もそのうち健康になり、彼の才能はもっと平和的に、古典的に、力強く発現していただろう。しかし、彼は突然調子が狂い、徐々にバランスを失い、彼の才能は軟弱な敏感さと感傷的な方向に発現していった。この傾向は、彼がワルシャワを出発した後に間もなく表われた。 “今日、プラーテル公園はきれいだった(ショパンはウィーンで彼のアルバムに鉛筆で書いている)。沢山の人がいるが、誰も僕に関心を示さない。僕は春の香水である緑を賞讃する。この自然の無邪気さは僕に子供時代の感覚を思い出させてくれる。暴風雨が次第に高まり、僕は家に帰った。しかし、暴風雨はなく、悲劇だけが僕をとらえた。どうしてだ! 今日は、音楽でさえ僕を喜ばす事はない。もう遅い、しかし、眠りに就きたくない。何が僕を苦しめるのか分からない。僕は、既に三番目の小さなクロス(※10年ごとに1つのクロス)が始まっているのだ!” (※以下、この箇所を便宜上「日記B」とする) 何が彼を悩ませたのか? ウィーンでは全てが好意的に思えた。芸術の世界で知り合いができた;名声が彼を待っていた。彼は何の不足もなく、ただ、繊細な性格が持つような憧れを持っていた。そして彼は、異国の地の美しさと、そこから期待した芸術的な高い評価とを夢見ながら、自制がきかぬ人のように、故郷に残してきたものを持ちたかった。 “プログラムや新聞は既に、2日後に行われる僕の演奏会を告知している;しかし、かつてなかったかほど僕は関心を示していない。僕にとって常に馬鹿々々しく思えるお世辞を聞く事はない。僕は死にたい。でもそれなら、もう一度、僕の両親に会いたい。彼女の幻影が僕の目の前に立っている;僕はもう彼女を愛していない、でも僕の心から彼女を追い出せない。僕が今まで外国で見たものは、どれも古臭くて耐えられないような印象であり、僕にため息をつかせるだけで、家や、それら楽しかった日々がどれほど価値のあるものか分からなかった。以前に偉大と思われた事は、今は普通の事であり;以前に普通の事と思われた事は、今日では偉大すぎて、高尚すぎて、不可能なように思える。ここの人々は僕とは違う;彼らは善良であるが、それは習慣的にそうであるだけだ;彼らは全てを月並みなやりかたで手慣れたように行なうが、これは僕にはひどい苦痛だ。” (※以下、この箇所を便宜上「日記C」とする) “僕は多分平凡に感じる事を望む事はない。僕は体の調子がおかしい。僕は惨めだ。自分を抑えられない。どうして僕は孤独なのか?”」(※以下、この箇所を便宜上「日記D」とする) スタニスラフ・タルノフスキー著/J.T.タンカレー編/ナターリア・ヤノータ英訳 『ショパン:日記からの抜粋で明らかになったその人物像』(ロンドン:ウイリアム・リーヴス83 チャリング・クロス通り W.C.) CHOPIN:
AS REVEALED BY EXTRACTS FROM HIS DIARY(LONDON: WILLIAM REEVES.83, CHARING
CROSS ROAD, W.C.)より |
さて、これを一読されてどのような感想を持たれたであろうか?
あのショパンが、親しい人間宛の手紙にすらめったに本心を打ち明けないあのショパンが、こんな中身のない愚痴をぐだぐだと日記に書き記すような習慣を持っていたと、本当にそう思えるであろうか?
このアルバムが公表された当初も、人々は当然のごとく、その内容の“ショパンらしくなさ”や“不自然さ”と言ったものに戸惑った。
そこで、このアルバムの現物を世間に公表する事が求められた訳だが、しかしそんなものはついに現れなかった。
ただし、懐疑派を黙らせるための証拠捏造工作としてなのか、のちに、このタルノフスキーの著書で発表された断片についてのみ、その「写し」とも「オリジナル」とも特定されていないものが数点現れた。
この一連の流れは、後世における「ポトツカ贋作書簡」の時と同じパターンである。ただし「ポトツカ贋作書簡」の時は、科学的な筆跡鑑定によってそれが贋作だった事が証明されたが、このアルバムの断片については、それらの資料自体が既に失われてしまっている。
しかしながら、テキスト上の資料として残されたものを見比べただけでも、最初にタルノフスキーが公表したものと、のちに出現した「断片の写し(オリジナル?)」との間には不自然な矛盾がある。
つまりこの資料についても、「贋作マトゥシンスキ書簡」と同様、様々なバージョン違いがあるのだ。
まずは、その中から最も初期のものに当たる、オピエンスキーの英訳版書簡集に掲載されているものから見ていこう。
■ウィーン時代のフレデリック・ショパンのアルバムから(オピエンスキー英訳版)■ (※原文はポーランド語) |
「[1831年 春] 今日のプラーテル(※公園)は美しかった。――群れなす人々は、僕には縁のない衆生だ。僕は緑の葉を讃えた。春の香りと自然の無邪気さは、僕を子供の頃の気持ちに戻してくれる。嵐が近付いて来たので、僕は家に入ったが、しかし嵐は来なかった。僕はただ憂鬱にとりつかれていた;――なぜだ? 今日は音楽でさえ慰めにならない。――もう遅いのに、僕は眠くない。僕には何が間違っているのか分からない。――しかも、僕の20代はもう始まっているのだ!(※以上「日記B」)――新聞やポスターでは、2日後にやらなければならない僕の演奏会がすでに告知されているのに、僕はまるで何事もないかのように無関心でいる。僕はお祝いの言葉にも耳を傾けない。それらはますます馬鹿々々しく思えてきた。僕は死にたい気分だ――でも、僕はもう一度両親に会いたい。彼女の幻影が僕の目の前に立っている;僕はもう彼女を愛していない、でも彼女を頭の中から追い出せない。僕が外国に来てから見たものは、どれも古臭くて嫌悪すべきものであり、だから僕にはただ家が、それがどれほど価値のあるものかが分からなかった盲目の頃が恋しくなる。以前は重要だと思っていた事が今は平凡な事だったり、平凡だと思っていた事が素晴らしい事、偉大なもの、高尚な事になったりする。ここの人達は僕とは違う;彼らは親切だが、しかしそれは習慣から来る親切なのだ;彼らは何でもあまりに体裁よく、単調で、中庸にする。僕は中庸については考える事すらせず欲しはしない。(※以上「日記C」) 僕は悩まされている――僕は憂鬱だ――どうしたら良いのか分からない――孤独でなかったらと望む!(※以上「日記D」)」 |
そして、これらの資料が後にどのような形で再発見されたのかと言うと、これが以下の2つの日付の資料に分けられており、しかも文章の順序も入れ替わっている。
■ウィーン時代のフレデリック・ショパンのアルバムから(別バージョンその1)■ (※原文はポーランド語) |
「新聞やポスターでは、2日後にやらなければならない僕の演奏会がすでに告知されているのに、僕はまるで何事もないかのように無関心でいる。僕はお祝いの言葉にも耳を傾けない。それらはますます馬鹿々々しく思えてきた。僕は死にたい気分だ――でも、僕はもう一度両親に会いたい。彼女の幻影が僕の目の前に立っている;僕はもう彼女を愛していない、でも彼女を頭の中から追い出せない。僕が外国に来てから見たものは、どれも古臭くて嫌悪すべきものであり、だから僕にはただ家が、それがどれほど価値のあるものかが分からなかった盲目の頃が恋しくなる。以前は重要だと思っていた事が今は平凡な事だったり、平凡だと思っていた事が素晴らしい事、偉大なもの、高尚な事になったりする。ここの人達は僕とは違う;彼らは親切だが、しかしそれは習慣から来る親切なのだ;彼らは何でもあまりに体裁よく、単調で、中庸にする。僕は中庸については考える事すらせず欲しはしない。(※以上「日記C」) ウィーン、1830年」 |
※ ちなみにこのサイトでは、この日記の年号が「1830年」となっているが、おそらく「1831年」の誤植だろう。
■ウィーン時代のフレデリック・ショパンのアルバムから(別バージョンその2)■ (※原文はポーランド語) |
「僕は悩まされている――僕は憂鬱だ――どうしたら良いのか分からない――孤独でなかったらと望む!(※以上「日記D」) 1831年5月1日、ウィーン 今日のプラーテル(※公園)は美しかった。――群れなす人々は、僕には縁のない衆生だ。僕は緑の葉を讃えた。春の香りと自然の無邪気さは、僕を子供の頃の気持ちに戻してくれる。嵐が近付いて来たので、僕は家に入ったが、しかし嵐は来なかった。僕はただ憂鬱にとりつかれていた;――なぜだ? 今日は音楽でさえ慰めにならない。――もう遅いのに、僕は眠くない。僕には何が間違っているのか分からない。――しかも、僕の20代はもう始まっているのだ!(※以上「日記B」)」 |
タルノフスキー版では、どう言う訳かそれぞれの日記の日付が一切明らかにされていなかったが、この著書はショパンの全生涯を時系列的に追っているので、その内容の真偽はともかくとして、日記が書かれた順序も当然掲載順であるはずだ。
それなのに、どうして「C」、「D」、「B」などと言う順に入れ替わってしまっているのか?
さらに腑に落ちないのは、実は、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)」と言うサイトに掲載されているポーランド語の資料を見ると、そこでは、どう言う訳か「日記C」の宛先が「ワルシャワのフェリックス・ヴォジンスキ宛」となっているのである。この人物は、後にショパンの婚約者となるマリア・ヴォジンスカの兄の一人で、ショパン家の寄宿生の一人でもあった友人だ。
しかしショパンがこのようなものを誰かに郵送していたはずもないので、おそらくこれは、単にこの資料の典拠がヴォジンスキによるものだと言う意味なのだろうが、それならそれで、どうしてこんなものが断片的にヴォジンスキの元にあったのかと言う、非常に不可解な疑問が残る。
また、この「日記C」は、シドウの仏訳版書簡集では日付が[1831年6月9日]と言う推定扱いになっており、さらに、手記のページ番号が[ページ13]となっている。
ページ番号と言えば、ショパンがワルシャワを立つ前にグワトコフスカから贈られたとか言う2つの四行詩が、それぞれアルバムの「9」ページ目と「12」ページ目に書き込まれていた事になっていた。
つまりこの手記は、その「12」ページ目の四行詩の、正に真隣の見開きページに並んで書かれていた事になっている訳だ(※下図参照)。
ショパンのアルバムの見開き12&13ページ目の現物は、こうなっていたらしい |
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(※偶数なのに右上にある頁番号→)12 名声の花冠を、とこしえに…… 貴方はいとしい友や愛する家族を… 異国では、貴方の値も褒賞も…… けれども、私たち…―(彼らは)できる― K.G. 25 10 1830 |
(※奇数なので右上にあるはずだが?→)[13] 新聞やポスターでは、 2日後にやらなければならない僕の演奏会が すでに告知されているのに、 僕はまるで何事もないかのように無関心でいる。 …… [1831年6月9日] |
なぜなら、これだとこの見開き2ページの間には、何と半年以上ものブランクがあった事になり、ところがタルノフスキーの著書では、ショパンがワルシャワを発った直後には「日記A」が、それからその後も「日記B」書かれていた事になっているからだ。
このように、本来このアルバムの信憑性を高めるべく登場したはずの証拠資料が、逆にますます疑惑を深める結果になってしまっている。要するにこれは、これらの資料を製作した人物達が、不十分な資料や情報を頼りに、それぞれが自分勝手な思惑で証拠捏造しているからこうなるのだ。
もしもショパンが、日記にこんな下らない事を書き記すような習慣を持っていたのなら、どうしてワルシャワで「11月蜂起」が勃発した時には何も書いていないのか? 「シュトゥットガルトの手記」と同じくらいの激情を書き綴っていてもおかしくはないはずだろうに、そちらに関してはなぜ素通りなのか? また、「シュトゥットガルトの手記」では、両親や友人達がみんな殺されたとか言って一人で勝手に大騒ぎしておきながら、いざ彼らが無事だったと知った時には、どうしてその喜びについては何も書き記していないのか?
こんな一貫性のない変な日記が約1年にもわたって150ページ以上も書き続けられていたなんて、抜粋紹介されている箇所だけ見せられて“ハイそうですか”と鵜呑みにできるだろうか? ちょっと信じられない話だ。
私の考えでは、前にも述べた通り、このアルバムも日記も贋作である。
ショパンがこんなものを書く訳がない理由については、すでに幾度となく説明して来た通りであるが、仮にこの当時のショパンがこのような事を考えていたのだとしても、彼はそれをこのように独白して文章に書き残す事など決してしないのである。
このようなものを書く人間と言うのは、必ずこのようなものを書く習慣と言うものがある。
要するにこのようなものを書く人間と言うのは、このようなものを書く事によって自分の気持ちを整理しようとしている訳であるが、しかしそうであれば、それは一時的にせよ断片的にせよ永続的にせよ、必ず習慣化するものなのである。
ところが、ショパンが書き残したとされる手記の類は、どういう訳かこのウィーン時代に限られており、ワルシャワ時代においてもパリ時代においても、ショパンは一度としてこのようなものを書き残してはいないのである。
たとえばショパンの生涯を見渡す時、彼は絶望的な悲しみに幾度となく遭遇している。
ワルシャワ時代には、妹エミリアの夭折があったし、また、真の意味で唯一無二の親友だったビアウォブウォツキの病死もあった。
パリ時代には、一時期同居生活をしていた親友マトゥシンスキが病死するのを看取ったし、父二コラの訃報もあった。
そんな時、ショパンはどのようなリアクションを取っていたか?
ただひたすら打ちひしがれて言葉を失うのみで、しばらくの間引きこもってしまうのである。
パリ時代の2つの悲しみに対しては、ジョルジュ・サンドがその事実を証言しているし、ワルシャワ時代においても、その間には手紙さえも一切書かれていない。
つまり、もしもショパンに手記の類を書いて気持ちの整理を付けるような習慣があったのなら、それこそそれを書く機会は何度もあったのである。
だが、実際のショパンは、そんな時はいつだって、ただふさぎ込んで沈黙するだけなのだ。
元来が筆不精のショパンがペンを取る時、それは手紙を書くか楽譜を書くか、そのどちらかに限られており、そしてそれらはどちらも必要に迫られるからこそ書くのであって、その必要がなければ自分から進んで書こうとはしない、それがショパンの文筆習慣である。
実際のショパンであれば、こんなくだらないものを書く暇があったら、その分ピアノでも弾いていた方がよっぽど気持ちの整理も付くだろう。
ショパンとは生来そのような人間なのである。
ショパンがなぜ自分の音楽作品を文学的に解釈されるのをあれほどまでに嫌っていたのか、その意味をもう一度よく考えてみる必要があるのではないだろうか。
それは彼が、言葉では表現できない感情や情景を、決して言葉では表現しようとしない人間だったからだ。
それは音楽でのみ表現可能だと信じるからこそ、自分の作品から「言葉」を排除しようとするのである。
つまり、言葉で書けるような事は手紙に書くし、それが出来ないものは音楽で表現する。
それがショパンなのだ。
だとすれば、ショパンがこのような意味のない手記を書くなど、ショパンの思考生活とは決して相容れない事になるのではないだろうか。
手紙も楽譜も、必ず伝えるべき具体的な相手がいる事が大前提として書かれるものである。
しかし、日記や手記には直接的な相手がいない。
たとえばそれが著名人であれば、最初からそれを出版目的で書くとか、自分の私的な考えを後世に残したいとかの動機も働くだろう。
しかしショパンのこれにはそのような動機すらない。
だが、これが贋作であるなら、これを書いた贋作者(=タルノフスキー)には、確実に、これを書くに至った動機があったはずだ。
その動機とは何なのか?
それは、このアルバムのメイン・イベントである「シュトゥットガルトの手記」に、少しでも必然性らしきものを与えようとして、これをその前置きとしたかった、と言う事なのである。
タルノフスキーは、「シュトゥットガルトの手記」がショパン唯一の手記ではなかったと言う資料を羅列する事によって、その信憑性についての援護射撃を図ろうと目論んだ訳だ。
だから今回のこれは、内容そのものには最初から特別な意味などなくても当然なのである。
ただ単に、ショパンにはこのようなものを書く習慣があったのだと言う事さえ示せれば、そして何よりも、ただひたすら望郷の念を強調しておきさえすれば、それで良かったからなのだ。
[2012年8月27日初稿/2012年12月11日改定 トモロー]
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