Inspection X: And Chopin said good-bye to his land -
4.プラハより/ここでも「ティトゥス」は何も語られない――
4. From Prague/After all nothing is recited about Titus Wojciechowski
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今回の検証の趣旨も、前回同様にヴォイチェホフスキが本当にショパンのウィーン行きに同行していたのか?にある。
まず、カラソフスキーが最初に公表したドイツ語版・初版における手紙を読んで頂きたい。改行もそのドイツ語版の通りにしてある。
■プラハのフレデリック・ショパンから、 ワルシャワの家族へ(第2回ウィーン紀行・第3便/カラソフスキー版)■ (※原文はポーランド語) |
「1830年11月21日、プラハ ドレスデンでの一週間は、どうやって過ごしたのか気付かないほどに、早く経ってしまいました。僕はいつも、朝、一番元気な時にホテルを出て、夕刻まで帰りませんでした。クレンゲル氏が、僕を音楽家としてもっとよく知るよう、僕が彼のために自分の協奏曲を弾いた時、彼はこう言いました。僕の演奏はフィールドを強く思わせ、僕のタッチは全く無比なもので、僕についてはすでに色々と話を聞いていたが、これほどの名演奏家だとは思わなかったと。 僕は喜びを持って、これらが誠意ある褒め言葉だと分かりました――ですから、なんで恥ずかしく感じる事がありましょうか?――それに彼は、それが事実である証拠を僕に示してくれて、と言うのは、僕が彼の所を立ち去ると直ぐに、彼はモルラッキ氏や帝室劇場の総監督をしている顧聞官フォン・ルッチャウ氏の許へ行って、僕があと4日間滞在したとした場合、さほど面倒な準備をしなくても音楽会をやれるか否かについて相談したからです。クレンゲル氏は後で、自分がこうしたのは僕のためではなくドレスデンのためで、自分は是非とも僕に音楽会をさせたかったのだと言いました。彼は翌日僕の所へ来て、出来るだけの事はしてみたが、この日曜(これは水曜日の話です)までは毎夕予定のない夜は一日もないと話しました。《フラ・ディアボロ》の初演は金曜日だし、イタリア語でのロッシーニの《ラゴの女》の上演は土曜日に予定されています。 僕は、クレンゲル氏を心から歓迎しました。と言うのも、まったくの話、数年も前から知っているような気がするからです。彼も僕に対して同じ事を感じているようです。彼は僕の協奏曲(単数)の楽譜(単数)を求め、僕をニェショウォフスカ夫人の家の夜会に連れて行ってくれました。僕はまた、シチェルビーニン夫人を訪問しましたが、ニェショウォフスカ家に長居し過ぎたために、僕が着いた時には来客が帰ってしまった後でした。それで僕は、翌日の晩餐に招かれました。僕は午後に、招待されて、アウグスタ内親王の教育掛長をしているドブジツカ伯爵夫人に面会して来ました。 伯爵夫人は誕生日のお祝いをしていました。僕が賀辞を述べるか述べないうちに、ザクセンの内親王が2人入って来ました。故フレデリック・アウグスツス王の1人娘で「正義の人」と緯名されているアウグスタ内親王と、元のルカの内親王で、現王の嫁に当るマキシミリアン親王妃とで、この親王妃はまだ若くて面白い人です。 僕は、これらのご婦人方の前で演奏しました。すると、イタリアヘ送る手紙を数通僕に下さる約束をしてくれました。これは僕の演奏が喜ばれた事の証しでした。実際に翌日、2通の手紙がホテルに届きました。ドブジツカ伯爵夫人も僕の後を追って、数通ウィーンヘ送ってくれる事でしょう。ウィーンでの僕の住所を知らせておきました。2通の手紙はネープルスにいるシチリアの女王とローマにいるウラシノ親王妃に宛てたものでした。全盛のルカ公爵夫人とミラノの摂政王に宛てた推薦状も下さる約束ですが、これはクラシェフスキ氏の親切な配慮でいただく事になっています。 クレンゲル氏は、先ほどウィーンヘ送る手紙を1通くれましたが、彼自身も追って訪れるつもりでいます。彼はニェショウォフカ夫人のお宅で、僕の健康を祝してシャンパンを抜いてくれました。この家の婦人は僕をよくからかって、僕の事をいつも
“ショプスキ(Szopski)”と呼んでいました。 ロラ氏は、ヴァイオリン奏法について少しでも知っている者なら誰もが認めなければならないような第一級のヴァイオリニストです。 ウィーンからの便りがあるまでお別です。僕達は、当地には火曜日の朝9時までに到着したいものです。 僕はクニァジェヴィッツ将軍を大変喜ばせました。彼は、こんなに気持の良い印象を与えてくれたピアニストは他に1人もなかったと言ってくれました。僕がこんな事をお話しするのは、あなた方がこうした事を聴きたがっていると知っているからです。 あなた方のフレデリックより」 |
モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)
Moritz Karasowski/FRIEDRICH
CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、
及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)
Moritz
Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE
AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より
この手紙については、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy
Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料が、どう言う訳か「フェリックス・ヴォジンスキ宛」になっている。
しかし内容はあくまでも家族に宛てて書かれたものであり、カラソフスキーもそのように紹介しているので、これは例によって、2年前の「ベルリン紀行」や去年の「第1回ウィーン紀行」の時と同様に、ヴォジンスキ経由でワルシャワヘ託送してもらった手紙を、ヴォジンスキが写しを取って保管していたもの…と言う事のようである。
ただ私は、前にも書いたと思うが、この「ヴォジンスキ託送版」の書簡資料の内容をあまり信用していない。
しかしながら、今のところこれしかポーランド語版の資料がないので、一応今回はこれを比較材料として参考程度に載せておく事にする。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#1. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「1830年11月21日、プラハ」 |
※
同じ。 |
まず日付についてだが、この手紙は前回の「第2便」からちょうど1週間後に書かれている(※下図参照)。
1830年11月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
|
1 |
2 出発 |
3 |
4 |
5 |
6 ブロツ |
7 |
8 |
9 第1便 |
10 出発 |
11 |
12 夜会 |
13 |
14 第2便 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 |
20 |
21 第3便 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
|
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|
|
前回の終わりの方で、「明日、その人の前で巧く演奏せねばならないクレングル氏以外に当地には興味を引くものはない。(僕は)彼と話をするのが好きになりました。何故なら、彼からは学ぶものが多いからです。」と書かれていた。
そして今回の「第3便」は、その「クレンゲル」の前で弾いたエピソードから始まっているので、この2通はきちんと話がつながっており、したがってこの間に「失われた手紙」はない事が分かる。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#2. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「ドレスデンでの一週間は、どうやって過ごしたのか気付かないほどに、早く経ってしまいました。僕はいつも、朝、一番元気な時にホテルを出て、夕刻まで帰りませんでした。クレンゲル氏が、僕を音楽家としてもっとよく知るよう、僕が彼のために自分の協奏曲を弾いた時、彼はこう言いました。僕の演奏はフィールドを強く思わせ、僕のタッチは全く無比なもので、僕についてはすでに色々と話を聞いていたが、これほどの名演奏家だとは思わなかったと。」 |
「気が付かないままに、ドレスデンでの滞在が1週間も経過していました。(僕が)朝、家から出れば、夕刻まで帰宅する事はありませんでした。クレンゲル氏とは身近な知り合いになりました。こんな具合に:(僕が)彼のために自分の協奏曲を弾いたところ、彼が僕に言うには、(僕が)フィールドのように演奏する、そして、(僕が)稀に見る鍵盤の打ち方をする、僕の事について色々と聞いてはいたが、(僕が)これほどの名演奏家だとは想像もしていなかったと。」 |
※ 「フィールド」 ジョン・フィールド(John Field 1782−1837)。アイルランドのピアニスト兼作曲家で、ノクターンを創始し、ショパンに影響を与えた。
ショパンは、去年初めてクレンゲルに会った時は、「僕は求められなかったので弾きませんでした」と書いていたから、クレンゲルがショパンの演奏を聴くのはこれが初めてだった訳である。
さて、この書き出しだが、どちらも全て「僕」である。
前回も書いたが、ショパンはワルシャワ時代に、ヴォイチェホフスキ宛の手紙でクレンゲルの事を以下のように書いていた。
「プラハのピクシスのお宅で会ったクレンゲルは、僕の芸術上の知人の中で一番好きな人だ。彼は僕に自作のフーガを弾いてくれた(バッハのフーガの延長だと言う人もいるかも知れないが、全部で48あって、カノンも同数ある)。チェルニーと比べたら、何と言う違いだろう! クレンゲルは僕に、ドレスデンのモルラッキに紹介する手紙をくれた。」
したがって、ショパンは当然ヴォイチェホフスキをクレンゲルに引き合わせたかったはずなのに、この手紙のどこをどう読んでもこの場にはショパンしかいない。
そもそも今回の手紙にも、前回と同様に「ティトゥス」の名が一度も登場しないのである。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#3. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕は喜びを持って、これらが誠意ある褒め言葉だと分かりました――ですから、なんで恥ずかしく感じる事がありましょうか?――それに彼は、それが事実である証拠を僕に示してくれて、と言うのは、僕が彼の所を立ち去ると直ぐに、彼はモルラッキ氏や帝室劇場の総監督をしている顧聞官フォン・ルッチャウ氏の許へ行って、僕があと4日間滞在したとした場合、さほど面倒な準備をしなくても音楽会をやれるか否かについて相談したからです。クレンゲル氏は後で、自分がこうしたのは僕のためではなくドレスデンのためで、自分は是非とも僕に音楽会をさせたかったのだと言いました。彼は翌日僕の所へ来て、出来るだけの事はしてみたが、この日曜(これは水曜日の話です)までは毎夕予定のない夜は一日もないと話しました。《フラ・ディアボロ》の初演は金曜日だし、イタリア語でのロッシーニの《ラゴの女》の上演は土曜日に予定されています。」 |
「これはそこら辺の安手の褒め言葉ではないと彼は白状し、(彼は)誰をも褒める事は好きではなく、褒め言葉を言う事を強制された事もない、と。それで彼は、(僕が)彼の下を去ってから直ぐに(彼のところには朝の時間一杯、12時まで座っていました)、(彼は)モルラッキのところへも、劇場のディレクターであるルッチャウのところへも行きました。それは、この街で、たった4日間の滞在で僕が有名になれるのか否かを聞きたかったからです。後になって彼(クレンゲル氏)は、それはドレスデンのために行なったのであって、僕のために行なったのではないと言いました。そして、もしもその準備に必要以上に時間が掛かるのでなければ、僕を演奏会に出演させたい、と。その翌日、(彼が)僕の所に来て言うには、彼があちこち自分で廻って分かった事だが、日曜日まで(この話は水曜日でした)1日も空いた夕刻はなく、金曜日は(オペラ)《フラ・ディアボロ》の初日で、土曜日は、これは昨日の話だったのですが、ロッシーニのオペラ《湖上の美人》がイタリア語で上演されるのだと。」 |
※ 「モルラッキ」 フランチェスコ・モルラッキ、1784−1841。ウェーバーの死後、ドレスデンの歌劇場の後任指揮者となった。イタリア生れの音楽家で、オペラ、宗教著楽等の作品が多く、当時の名声は高かった。
※ 《フラ・ディアボロ》 オピエンスキーの註釈によると、[オベールによるコミック・オペラ。初演は1829年。]
ドイツ語版の方には、(彼のところには朝の時間一杯、12時まで座っていました)の一文がない。
クレンゲルはショパンに演奏会を開かせたくて色々と骨を折ってくれたが、ショパンが滞在しているあと「4日間」は、ずっと劇場の予定が埋まっていてどうしようもなかったと言う事らしい(※下図参照)。
1830年11月 |
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日 |
月 |
火 |
水 |
木 |
金 |
土 |
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1 |
2 |
3 |
4 |
5 |
6 |
7 |
8 |
9 |
10 |
11 |
12 夜会 |
13 |
14 第2便 |
15 |
16 |
17 |
18 |
19 フラ・デ |
20 湖上の |
21 第3便 |
22 |
23 |
24 |
25 |
26 |
27 |
28 |
29 |
30 |
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ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#4. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕は、クレンゲル氏を心から歓迎しました。と言うのも、まったくの話、数年も前から知っているような気がするからです。彼も僕に対して同じ事を感じているようです。彼は僕の協奏曲(単数)の楽譜(単数)を求め、僕をニェショウォフスカ夫人の家の夜会に連れて行ってくれました。」 |
「僕の人生でほとんどあり得ないほどに、僕は彼を受け入れました:(僕は)彼を好きになってしまいました、30年も前からの知り合いであるかのように。彼も同様な友情を僕に見せてくれました。彼は僕の協奏曲(複数)の楽譜(複数)が欲しいと言い、夕刻、僕をニェショウォフスカ夫人のところへ連れて行きました。」 |
ここのドイツ語版とポーランド語版で大きく違うのは以下の部分である。
·
ドイツ語版⇒「僕の協奏曲(単数)の楽譜(単数)」
·
ポーランド語版⇒「僕の協奏曲(複数)の楽譜(複数)」
ショパンは最初の方で、「(僕が)彼のために自分の協奏曲を弾いたところ」と書いていたが、この時の「協奏曲」はいずれも単数であった。
おそらくショパンは、この時は最近弾き慣れている新作の《ホ短調》の方を弾いたものと思われるが、「フィールド」を思わせると言われたのであれば、もしかすると《ヘ短調》の第2楽章あたりも抜粋で弾いたのかもしれない。だとすれば、クレンゲルが両方の楽譜を欲しがったとしても話の筋が通るだろう。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#5. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕はまた、シチェルビーニン夫人を訪問しましたが、ニェショウォフスカ家に長居し過ぎたために、僕が着いた時には来客が帰ってしまった後でした。それで僕は、翌日の晩餐に招かれました。」 |
「それと同じ日、シチェルビーニン夫人のところで宴会がありましたが、ニェショウォフスカ夫人のところに長くいたため、クレンゲル氏が僕をシチェルビーニン夫人のところへ連れて行ってくれた時には、すでに客人達が去ってしまった後でした。そのお詫びのために、(僕は)翌日の昼食時に訪問せざるを得なくなりました。」 |
この箇所も一貫して主語は「僕」である。
どうでもいい事ではあるが、ここでは「晩餐」と「昼食」が違う。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#6. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
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「あらゆる所で、いかにも犬を捕まえるように、僕を捕まえる(=招待する)情況でした。」 |
この一文はカラソフスキーのドイツ語版にはない。
この箇所も同様で、主語は全て「僕」である。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#7. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕は午後に、招待されて、アウグスタ内親王の教育掛長をしているドブジツカ伯爵夫人に面会して来ました。 伯爵夫人は誕生日のお祝いをしていました。僕が賀辞を述べるか述べないうちに、ザクセンの内親王が2人入って来ました。故フレデリック・アウグスツス王の1人娘で「正義の人」と緯名されているアウグスタ内親王と、元のルカの内親王で、現王の嫁に当るマキシミリアン親王妃とで、この親王妃はまだ若くて面白い人です。」 |
「同じ日に、僕はドブジツカ夫人のところにいました。その翌日が彼女の誕生日を祝う日だと言う事で、(僕は)彼女のところに招待されました。そこではザクセン家の、故人となった王様の娘達であるお姫様達と面会しました。即ち、今生の王様の姉妹と王様の兄弟の夫人の2人でした。」 |
この箇所も全て、主語は「僕」である。
ここでのカラソフスキー版は、話題となっている公人の登場人物について、いちいち詳細である。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#8. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕は、これらのご婦人方の前で演奏しました。すると、イタリアヘ送る手紙を数通僕に下さる約束をしてくれました。これは僕の演奏が喜ばれた事の証しでした。実際に翌日、2通の手紙がホテルに届きました。ドブジツカ伯爵夫人も僕の後を追って、数通ウィーンヘ送ってくれる事でしょう。ウィーンでの僕の住所を知らせておきました。2通の手紙はネープルスにいるシチリアの女王とローマにいるウラシノ親王妃に宛てたものでした。全盛のルカ公爵夫人とミラノの摂政王に宛てた推薦状も下さる約束ですが、これはクラシェフスキ氏の親切な配慮でいただく事になっています。」 |
「(僕は)彼女らの前で演奏しました。(彼女らは)僕に、イタリア(の知人達)に手紙を書くと約束してくれていますが、まだ全てを貰っていません。1人から手紙をホテルで受け取っただけです。2通の手紙を出発直前に貰う予定で、残りはドブジツカ夫人を通じてウィーンで入手できる事になっています。なぜなら、彼女は僕をどこで探し出せば良いかを知っているからです。これらの手紙はナポリにいる“シチリアの二人”の国(訳者注:1816−1860年間に設立された国)の女王様とローマ在住のザクセン朝の某家の皇女(ウラシノ家出)様とが宛先人となっています。更には、今上の某家の女王様ルカ宛の手紙とミラノの女王様宛の手紙を貰う約束になっています。これらの手紙はクラシェフスキ氏に仲介して貰う事になっているので、同氏にこの事を説明する手紙を今日ここから出します。」 |
この箇所も全て主語は「僕」である。
この箇所に関しては、全ての話題がヴォイチェホフスキとは直接関係ない事なので、彼がいようがいまいがこのような書き方になっても不思議ではない。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#9. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
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「ドレスデンではコマル家の昼食に(僕は)招待されました。」 |
この箇所はカラソフスキー版にはないが、やはりここも「僕」であり、ヴォイチェホフスキも一緒に招待されたとは書かれていない。
さて、なぜカラソフスキーはこの箇所を削除したのか?
ちなみに、この「コマル家」と言うのは、ショパンがパリ時代に親交を深める事になるデルフィナ・ポトツカ夫人の父方の実家である。
このポトツカ夫人は、ポーランドにおいては当代随一の彩色兼備を謳われた女性で、後世においては、ショパンと愛人関係にあったなどと言うデマを流され、贋作書簡まで捏造された人物であるが、カラソフスキーの時代にはまだそのような噂話はなかった。
カラソフスキーにとって問題だったのは、このポトツカ夫人の夫の存在だ。
ポトツカ夫人の夫ミェチスワフ・ポトツキ伯爵は、その昔、ポーランドをロシアに売り渡したとして「売国奴」と言われたスタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ伯爵の息子だった。
つまり、国粋主義者であるカラソフスキーは、いつも彼がそうしているように、ショパンがそのような「売国奴」に縁故のある家と懇意にしているのが、とにかく気に入らないのである。
カラソフスキーがこの点についてこれほどまで徹底しているのは、言うまでもなく、彼がショパン伝を執筆している根本の動機がそこにあるからである。
本稿の序章でも書いたが、カラソフスキーを始めとするポーランドの国粋主義的な作家達は、自己の国粋主義思想を流布するために、ショパンの世界的な人気と名声を利用して、あたかもそれがショパンの言葉であるかのように捏造し、吹聴する事で、己が目的をショパンに代行させようと目論んでいる。
カラソフスキーのショパン伝が、ショパンを語るのと同じくらいの比重で、ポーランドの歴史を右寄りに語る事にページを割いている事実からもそれは明らかである。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#10. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「クレンゲル氏は、先ほどウィーンヘ送る手紙を1通くれましたが、彼自身も追って訪れるつもりでいます。彼はニェショウォフカ夫人のお宅で、僕の健康を祝してシャンパンを抜いてくれました。この家の婦人は僕をよくからかって、僕の事をいつも
“ショプスキ(Szopski)”と呼んでいました。 ロラ氏は、ヴァイオリン奏法について少しでも知っている者なら誰もが認めなければならないような第一級のヴァイオリニストです。 ウィーンからの便りがあるまでお別です。」 |
「クレンゲル氏からは、彼自身が訪れる事になっているウィーンの知り合いに宛てた手紙を貰っています。彼はニェショウォフカ夫人のところでは、僕の旅行の成功を祝ってシャンパンで乾杯してくれました。同夫人は僕を可愛がって頭を撫でてくれ、どこに僕を座らせるか迷ったほどで、僕を“ショップスキ(Szopski)”と呼ぶ事にこだわりました。ロラは第一級のヴァイオリニストです;残りの事はウィーンから書きます。」 |
ここも全て「僕」である。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#11. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕達は、当地には火曜日の朝9時までに到着したいものです。」 |
「(僕達は)、ウィーンには火曜日の朝9時に到着する予定です。――」 |
※ ちなみに、アーサー・ヘドレイ編/小松雄一郎訳『ショパンの手紙』(白水社)では、この「火曜日」が「木曜日」と誤植されている。原著の英訳版ではきちんと「火曜日(Tuesday)」になっている。この邦訳版はとにかく曜日の誤植がやたら多い。
今回の手紙では、主語が「僕達」になっているのは、このたった一箇所だけである。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#12. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕はクニァジェヴィッツ将軍を大変喜ばせました。彼は、こんなに気持の良い印象を与えてくれたピアニストは他に1人もなかったと言ってくれました。」 |
「(僕は)クニァジェヴィッツ将軍のお気に入ったようです;非常に;(彼は)、これ程気持ち良く彼を感激させたピアニストはいまだかつていなかったと言ってくれました。」 |
ヴォジンスキ版はここで終わっているが、カラソフスキー版は以下の言葉で結ばれている。
ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第3便#13. |
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カラソフスキー・ドイツ語版 |
ヴォジンスキ・ポーランド語版 |
「僕がこんな事をお話するのは、あなた方がこうした事を聴きたがっているのを知っているからです。 あなた方のフレデリックより」 |
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前回も前々回もそうだったが、この結びの部分にも、ヴォイチェホフスキからワルシャワの人々への挨拶がない。
ショパンが祖国を発ってからウィーンへ到着するまでの間に書かれた手紙は、今回までの3通で全てであるが、回を追う毎にヴォイチェホフスキの存在がないがしろにされている事が分かるだろう。
なぜなら、ヴォイチェホフスキがショパンのウィーン行きに同行する事になった真の目的とは、ウィーンに到着した直後、つまり、祖国で革命騒動が勃発した際のショパンの行動を国粋主義的に描写する事にこそあるので、その間のヴォイチェホフスキの動向など最初からどうでもいいからなのである。
したがって、カラソフスキーのショパン伝がその時のエピソードをどのように描いているか、それを次章で検証する事によって、その全貌を明らかにしていくつもりである。
さて、今回の手紙はプラハから書かれているが、全ての話題がドレスデンでのものであり、前回ドレスデンから報告した後のドレスデンでの話題について書かれていて、プラハについては一言もない。
去年プラハを訪れた時には、ショパン一行はスラブ語の研究家として高名なヴァーツラフ・ハンカを訪問し、同行した友人の1人でワルシャワ大学・西洋古典語の学生「マチェヨフスキ」の書いた「四行詩のマズルカ」に曲を付けて献呈したりしていたが、今回はそのようなエピソードは一切残されていない。
※ ちなみに、ここで言及されている「四行詩のマズルカ」については、私のBGM付き作品解説ブログ《歌曲マズル・どんな花(遺作)》にて歌詞なども紹介させていただいておりますので、宜しかったらご覧下さい。
それはつまり、プラハにはほとんど旅の途中の休憩にたった一晩宿泊しただけであり、プラハそのものを訪れるのが目的だったのではない事を示しているのである。この事は是非とも頭の片隅に置いておいて頂きたい。なぜなら、次回から紹介していく「マトゥシンスキ書簡」が贋作である事を暴くための手掛かりとして、一つの重要な状況証拠となるからである。
[2012年6月1日初稿 トモロー]
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