検証10:そして祖国に別れを告げた――

Inspection X: And Chopin said good-bye to his land -

 


2.ヴロツワフより/ヴォイチェホフスキは本当に同行していたのか?――

  2. From Wrocław/Does Wojciechowski really traveled with Chopin? -

 

 ≪♪BGM付き作品解説 ピアノ協奏曲 第1番(ピアノ独奏版/トモロー・エディション)▼≫
 

今回の検証の趣旨は、ヴォイチェホフスキが本当にショパンのウィーン行きに同行していたのか?にある。

 

そこで今回紹介するのは、ショパンがワルシャワを発ってから1週間後に書いた「家族書簡」であるが、これは現在知られている限りにおいて、ショパンが出発後に書いたの最初の手紙となっている。

まず、カラソフスキーが最初に公表したドイツ語版・初版における手紙を読んで頂きたい。文中の[*註釈]も全てカラソフスキーによるもので、改行もそのドイツ語版の通りにしてある。

 

■ヴロツワフのフレデリック・ショパンから、

ワルシャワの家族へ(第2回ウィーン紀行・第1便/カラソフスキー版)■

(※原文はポーランド語、一部ドイツ語が混在)

「1830年11月9日 ヴロツワフ(※著書によっては、「ブレスラウ」、「ロックラウ」等と表記しているものもある)

僕の愛する両親と姉妹達!

僕達は、愉快な秋晴れの日に、土曜日の夕方6時に、至極心持よくここへ着きました。僕達は、旅館“金のガチョウの下で”(※ドイツ語)に宿を取って、僕達は着替えをして食事を済ませると、僕達は直ぐにライムンドの《アルプスの王》を上演している劇場ヘ行きました。あなた方もいずれそのうちこの作品を御覧になるでしょう。あなた方も、そのうちにこの作品を御覧になる事でしょう。一般の人達は、僕達以上に舞台装置を褒めていました。演技もかなり良いと思われました。一昨日は《壁塗り職人と石工》が上演されましたが、第一級のものではありません。今日は《妨げられた奉献祭》が聴けますが、どんな風にやるのか見たいものです。ここには良い声楽家が不足していますが、それでも入場料は非常に安くて、土間席がポーランドの2グルテンにしか当りません。

ヴロツワフは、この前よりずっと僕の気に入りました。僕はソヴィンスキ氏宛の手紙を届けましたが、まだ会っていません。と言うのも、僕達が訪問した時は運悪く留守だったからです。僕達は、最初にリソース(※音楽クラブ)に行き、指揮者のシュナーベル氏の招待で、その夜の演奏会のリハーサルに出席しました。ここでは演奏会が週に3回ほどあります。

リハーサルではよくあるように、実にみすぼらしいオーケストラでした。ヘルヴィヒという弁護士が、モシェレスの変ホ長調・協奏曲を弾く予定でした。この紳士が席につく前に、僕の音を4年間聴いていなかったシュナーペル氏が、僕に弾いてみてくれと頼んだのです。僕はこの要求を拒めなかったので、変奏曲をいくつか弾きました。シュナーペル氏は称讃と喜びの言葉で僕を圧倒しました。これがヘルウィッヒ氏を少々不安にさせたと見え、今晩は是非とも代りをしてくれと追りました。シュナーベル氏も是非にと迫り、僕がこの親愛な老人の希望を拒み切れなかったくらい熱心に頼みました。氏はエルスネルさんの大事な友人です。この事は僕にとって色々な事を意味します。でも僕は直ぐに、あなたのためだけに弾きましょう、ただし数週間楽器に触れていなかったし、それにヴロツワフで弾く事は僕のプログラムには入っていないという事を話しました。するとシュナーベル氏は、それはよく承知している、実は昨日教会で会った時、頼みたかったのだが思い切って話せなかったと言うのです。これではどうにもしようがありません。で僕は氏の息子さんを連れてホテルヘ帰り、楽譜を取って来て、第2協奏曲のロマンスとロンドを弾きました。

ドイツ人はリハーサルでの僕の演奏に感心していました。“なんて軽いタッチだろう” (※ドイツ語)という囁きが聞こえましたが、作曲に関しては一言もありませんでした。耳聡くて、僕のためにいつも八方に目を配ってくれるティトゥスは、ある紳士が、“この青年が弾く事ができるのは疑いないが、しかし作曲はできない。”と言っているのを聞きました。

昨日、定食の際に、僕の向う側に座っていた、非常に人の好さそうな紳士と知り合いになりました。会話を交わすうちに、名はシャルフと言って、ワルシャワのショルツ氏をよく知っていて、僕が紹介状をもって来た紳士と懇意にしている事が分りました。このシャルフ氏は、僕とティトゥスに不思議なくらい親切で丁寧でした。僕達をブレスラウ中に連れ廻してくれて、一緒に市の郊外へも行き、リソース(※音楽クラブ)では客人として僕達の名を書きつけ、昨日の音楽会の招待券をもらって来てくれました。この親切な紳士と入場券をもらった連れの人は、この見知らぬ人間の一人がその夜の演奏の主役である事を知った時、どんなに驚いた事でしょう。

ロンドを弾いた他に、鑑賞家のために《ポルティチの唖娘》の中のテーマによる即興演奏を弾きました。それから、終りに序曲とダンスがありました。シュナーベル氏は賛沢な食事をご馳走したがっていましたが、僕はただスープを一杯もらっただけでした。

もちろん僕は、ブレスラウの主立ったオルガニストのケーレル氏と知り合いになりました。氏は僕に所蔵のオルガンを見せる約束をしました。僕はまた偉大なヴァイオリニストでまたシュポーアの弟子であるネッゼとかナイゼとかいう男爵に会いました。[*ナイゼではなく、フォン・ヌース男爵。彼は当時の音楽界において非常に著名な人物だった。]

居合わせたもう一人の音楽家、ヘッセ氏という人もまた非常に褒めてくれました。[*アドルフ・フリードリッヒ・ヘッセは、1809年にヴロツワフに生れ、1863年に亡くなった、最も有名なオルガニスト兼オルガン作曲家の一人。ケーレルの弟子で、後にケーレルの後任になった。彼は永い問の遊歴を経て、素晴らしい人気を得て、1840年にサン・ユスタッシュ寺院の大オルガンを初奏するためパリに招待された。] けれどもシュナーベル氏――この人は本当の喜びに輝き、絶えず僕の肩を叩いていました――それ以外のドイツ人は皆、僕がどういう人間なのか全然分かりませんでした。

ティトゥスは、事の成り行きを観察するのに面白がっていました。僕はまだ名声を得ていないものですから、人々は、僕を褒めたらいいのか貶したらいいのか、決心がつき兼ねていました。一人の紳士が僕の側に来て、まったく新しいものだと言って形式を称讃してくれました。僕はこの人の名を知らないのですが、聴衆の中で、最も僕をよく理解してくれた人だと思います。

シュナーベル氏は、極めて親切に馬車を用立てると言いましたが、僕はダンスが始まった時10時頃にそっと帰宅しました。僕は、この親愛なる老人に喜びを与える事ができたのに、心から満足しています。

演奏会の後、シュナーベル氏は、僕をヴロツワフで第一流のピアニストと見なされている婦人に紹介しました。この婦人は「面白い驚異」を与えてくれたと言って、僕に大層感謝しました。けれども僕が公衆の前に現れる決心をしないので、とても残念がっていました。弁護士(※ショパンのせいで演奏会を辞退した「ヘルヴィヒ」の事)は埋め合わせにと、《セヴィリアの理髪師》の中のフィガロのアリアを非常に下手に歌いました。

昨日はエルスネル氏の事で色々と話が出て、あの人がオーケストラのために書いたエコー・ヴァリエーションが大変称讃されました。僕は戴冠式のミサを聴いた後で初めて作曲家としてのエルスネル氏の価値が批評できると言いました。僕達は明日の2時にドレスデンに向けて出発します。僕はあなた方にキスし、抱擁します。エルスネル、ジヴニー、マトゥシンスキ、コルベルク、マリルスキ、ヴィトフィツキの諸氏によろしくお伝え下さい。

あなた方のフレデリックより」

モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より

さて、これを読まれてあなたは、ヴォイチェホフスキが間違いなくショパンに同行していたと確信されたであろうか?

 

私には、このような奇妙なものを読まされると余計に、その事について疑わないではいられないのである。

 

かねてから言及してきたように、私は、そのエピソードは、かなりの確立でカラソフスキーとヴォイチェホフスキ本人による捏造だろうと考えている。

はっきりそう断定してしまっても構わないとさえ思っているが、それは読者の判断に委ねるとして、今回の手紙の検証に入る前に、私がそう考える根拠をもう一度整理しておきたいと思う。

 

まず、カラソフスキーのショパン伝は全12章から成っているのだが、第6章までがワルシャワ時代で、第7章からウィーン時代に入る。今回の手紙はその第7章の最初に紹介されるが、その際カラソフスキーは、以下のような短い前置きを書いている。

 

「    第七章

ヴロツワフ、ドレスデン、プラハ、ウィーン、ミュンヘン、そしてシュトゥットガルトにおけるショパンの滞在。ワルシャワの暴動。

 

カリシュにおいて、フレデリックは、友人であり旅の供であったティトゥス・ヴォイチェホフスキと会い、そこでは愛想の良いヘルビッフ医師の客人となった。2人はヴロツワフに留まり、そこからショパンは、次のような手紙を送っている。」

モーリッツ・カラソフスキー著『フレデリック・ショパン、その生涯、作品と手紙』(※ドイツ語原版・初版)

Moritz Karasowski/FRIEDRICH CHOPIN, SEIN LEBEN, SEINE WERKE UND BRIEFE(VERLAG VON RISE & ERLER, BERLIN 1877)、

及び、モーリッツ・カラソフスキー著・エミリー・ヒル英訳『フレデリック・ショパン、彼の生涯と手紙』(※英訳版・第3版)

Moritz Karasowski (translated by Emily Hill)/FREDERIC CHOPIN HIS LIFE AND LETTERS(WILLIAM REEVES BOOKSELLER LIMITED 1938)より

このあと、上記のヴロツワフからの手紙が掲載されていく訳だが、この短い前置きの中に、ショパンが「カリシュ」で「ヘルビッフ医師」なる人物の「客人となった」事について触れられている。しかし、ヴロツワフからの手紙にはそれについては何も書かれていない。となると問題は、カラソフスキーが一体どこからそのような情報を得たのか?と言う事になる。

私の考えでは、おそらくショパンは、カリシュに立ち寄った際に、家族宛に1通手紙を書いていたと思われ、そしてその中に「ヘルビッフ医師」の事が書いてあったに違いないのである。

したがってカラソフスキーは、その手紙もイザベラから資料提供されており、実はその「カリシュからの手紙」こそが「第2回ウィーン紀行」の第1便だったはずで、だからこそカラソフスキーは「ヘルビッフ医師」の話を知っていたのである。

ところがカラソフスキーは、どう言う訳かその手紙を伝記に掲載せず、その中からこのように「ヘルビッフ医師」の話だけを要約して簡単に紹介し、残りを全部省いてしまった。

おそらくは、あまり大した事が書かれていなかったからだろうが、しかし、仮にショパンが本当に「カリシュ」でヴォイチェホフスキと再会を果たしていたのなら、その事についてショパンが手紙に書いていないはずがないのではないだろうか?

何しろ彼らは、約3ヶ月ぶりに再会を果たしたのだし、それにワルシャワのショパン家の人々も、その喜ばしい再会話を心待ちにしていたはずだからである。彼らだって、かつてヴォイチェホフスキと家族同然に時を過ごしてきたのだから、それは当然だろう。

そして、そのような手紙をカラソフスキーが紹介しないはずもないのである。それなのに、なぜカラソフスキーはこのように「カリシュからの手紙」を省略してしまったのか?

 

その答えは、どう考えても一つしかないのではないだろうか?

 

つまり、最初からヴォイチェホフスキは、ショパンのウィーン行きに同行してなどおらず、したがって、「カリシュ」において両者の感動的な再会などなかったと言う事なのだ。

 

もしもあったのなら、ショパンがそれを手紙に書かないはずがないし、書いてあればカラソフスキーがそれを紹介しないはずがない。それなのにそれを省いてしまったと言う事は、そこにはそのような事など書かれていなかったからで、それ以外には考えられないのではないだろうか?

つまり、最初からそのような事実などなかったと言う事で、例によって、全てはカラソフスキーとヴォイチェホフスキのでっち上げだったのである。

 

 

そもそも不自然なのは、カラソフスキーは伝記の中で、ワルシャワ時代の最後を描いた第6章において、一度として、ヴォイチェホフスキがショパンと一緒にウィーンへ行く事になっていると言う説明をしていなかった。その説明は、上記のように、第7章の冒頭でいきなり取って付けたようになされただけなのである。

確かにワルシャワ時代の「ヴォイチェホフスキ書簡」の中には、それらしいことをほのめかすような記述はあるにはあった。しかしそれは、あくまでもショパンがヴォイチェホフスキに対して願望を述べていたに過ぎないものであり、決してヴォイチェホフスキのウィーン行きが約束されていた事実を証明するものではなかった。そのような事は一つも書かれてはいなかったのだ。現在の我々は、予めカラソフスキーが流布したエピソードを信じさせられた上で読んでいるからそのように読めてしまうだけで、最初から一切の先入観を捨てて客観的に読めば、ヴォイチェホフスキがウィーンへ行くつもりだった事を示すような記述はどこにもなかったのである。

それどころか、実際に書かれていたのは、彼がウィーンに行くはずがないと思わせるような状況証拠ばかりだった。

ヴォイチェホフスキは、大学を卒業して田舎のポトゥジンに引っ込んで以来、約1年4ヶ月もの間、ショパンがどんなに誘っても再びワルシャワを訪れようとはしなかった(その間、2人が会ったのは、ショパンが夏にポトゥジンを訪れた時のたった一度だけである)。

そしてヴォイチェホフスキは、ショパンの記念すべきプロ・デビュー公演にも来なかった。

また、ゾンターク嬢の演奏会に興味あるような事を言ってショパンに情報を頼んでおきながら、結局それも観に来なかった。

挙句の果てに、ショパンのワルシャワにおける告別公園にさえも来なかったのである。

いずれも、仕事を理由にしてだ。

それで本当に唯一無二の親友などと言えるのだろうか? 私にはその事自体がまず信じられないが、そんな人物がなぜ、結果的に約1ヶ月にも及んだ長旅に、しかも出発前のたったの1週間かそこいらの間にいきなり同行を決め、そしてそれを実行するに至ったと言うのか? 私にはどう考えても理解しがたいのである。

 

ちなみにカラソフスキーの著書の第6章の結びでは、本稿の前々回と前回に紹介した記述に続いて、以下のような事が書かれていただけである。

 

「ショパンの旅行の目的地はまだ声名に輝いていた国、愛の故郷、芸術の揺藍のイタリアであった。甘美なメロディーがあらゆる人々の口から聞かれる偉大な大家達の故国にて、彼は自己の芸術を練って自己を完成させ、新しい作品のために新鮮な観念を集めたいと思った。

彼の前には見慣れない、広い、変化の多い世界が横たわっていた。彼は内に誠実な努力と間断なき希望の意識を運んだ。懐しいわが家から遠く離れた異境で、ショパンはしばしば家庭や故国に対する自然な憧憬を感じた。何故かとなら、彼は現に眼に映じていないものをすっかり忘れてしまうような浅薄な性質の人間ではなかったからである。彼の思想は暖い愛情を以て両親や姉達の側へ飛んで行き、詩人の燃ゆるが如き熱情を以て敬慕するコンスタンティヤ・グラドトコフスカの肖像を眺めた。彼女の美しい声はいつでも彼の耳に響いていた。夢に涙に濡れた彼女の眼を見た。そしてまた別離の際に、彼女が手ずから彼の指に嵌めた指環は、彼の最も貴重な宝であった。ああ! 彼は愛人を得ることも、渇仰のイタリアを見ることも出来なかった!」

モーリッツ・カラソフスキー著/柿沼太郎訳

『ショパンの生涯と手紙』(音楽之友社)より

 

 

このように、カラソフスキーのショパン伝においては、ショパンは、グワトコフスカの肖像画と、別れ際に彼女からもらった指輪を旅の道連れにしていた事になっているが(※もちろん全て作り話である)、この時点ですら、ヴォイチェホフスキが同行する事になっていると言う事については、一言も触れていないのである。

おそらく、第6章の段階では、カラソフスキーらにはまだそのアイディアが構想になかったものと思われ、第7章を執筆する段階になって、またしても行き当たりばったり的に急遽そのように設定されたに違いない。

と言うのも、第7章のウィーン時代の結びでは、1863年のワルシャワ蜂起によってショパンの実家がロシア兵に襲われ、その際にショパンの遺品が破壊され、その時に手紙も全て焼失させられた経緯が書かれているからだ。

つまりカラソフスキーは、この第7章を執筆していた時に、イザベラから借り受けて「写し」を取っておいた手紙の原物が、もうすでにこの世にはない事を知ったのである。

それによってカラソフスキーは、それらの手紙をどんなに改ざんして発表したとしても、もはやその嘘が永遠にバレる事はないと考えた訳だ。

だからこそ、ここへ来て、いきなりヴォイチェホフスキがウィーンに同行していた事にしてしまおうと、そのような思い切ったでっち上げも可能になったのである。

もちろん、それについては、カラソフスキーとヴォイチェホフスキが合意の上で打ち合わせたシナリオだったのは言うまでもないだろう。

 

 

 

それでは、今回の手紙の検証に移ろう。

この手紙については、先のカラソフスキー・ドイツ語版と、彼が第4版で改訂したポーランド語版とで比較しながら議論を進めていきたいと思うが、私は現在カラソフスキーの第4版・ポーランド語版が入手できずにいるので、そちらについては、「フレデリック・ショパン研究所(Narodowy Instytut Fryderyka Chopina)▼」と言うサイトに掲載されているポーランド語の書簡資料がそれに該当するものと思われるので、それによった。

今回の趣旨は、あくまでもヴォイチェホフスキの同行が事実かどうかを検証する事にある。

今まで何度か説明してきたように、ポーランド語は主語によって動詞の活用(語尾変化)が複雑に違う事から、主語の省略が多く、ショパンの手紙でもそうなっている。

一方、ドイツ語も主語による動詞の語尾変化が複雑な言語であるが、しかしこちらはポーランド語とは違い、原則として主語は省略されない。

したがってカラソフスキーは、ポーランド語原文をドイツ語に翻訳する際、必然的に、省略されている主語を必ず補う形で翻訳しなければならないのである。

つまり、私の考えでは、その際にカラソフスキーは、本来主語が「僕」(一人称単数)になっていた箇所を「僕達」(一人称複数)に書き換える事によって、ヴォイチェホフスキの同行を簡単に演出できてしまうと言う事だ。そして、ところどころに「ティトゥス」の言動をちょこっと加筆改ざんしてやれば、一見それらしく見える手紙が出来上がってしまうと言う訳なのである。

なので、その改ざんの痕跡を調べるためにも、ドイツ語版とポーランド語版を見比べる必要があるのだ。

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#1.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「1830年11月9日 ヴロツワフ」

「[1830年11月9日 火曜日 ヴロツワフ]」

 

まず日付についてだが、この手紙はショパンがワルシャワを発ってからちょうど1週間後に書かれている(※下図参照)。

 

1830年10月

 

1830年11月

日

月

火

水

木

金

土

日

月

火

水

木

金

土

 

 

 

 

 

1

2

 

 

1

2

出発

3

 

4

5

6

ブロツ

3

 

4

 

5

 

6

7

8

9

7

8

9

第1便

10

 

11

12

13

10

 

11

演奏会

12

18便

13

14

 

15

 

16

 

14

15

 

16

17

18

19

 

20

 

17

 

18

19

 

20

 

21

22

23

21

 

22

23

24

25

26

27

24/

/31

25

26

27

28

29

30

28

 

29

30

 

 

 

 

 

手紙の日付は「9日」だが、ヴロツワフに到着したのは「土曜日」すなわち「6日」の「夕方」と書いてある。

したがって、ワルシャワからヴロツワフまでは4日間かかっていた事が分かる訳だが、これがまた問題なのである。

そこで、この地図を見て頂きたい⇒地図のページが別ウィンドウで開きます▼

ショパンはワルシャワにいた時、ヴォイチェホフスキ宛の手紙の中で、再三に渡って「クラクフ経由でウィーンへ行く」と書いていた。そしてそれについては、出発前の最後の手紙である第18便でも同じだった。

ところが蓋を開けてみると、ショパンはその予定を変更し、実際はドレスデン経由でウィーンへ向かっていたのである。この道程は要するに、前年に初めてウィーンを訪問した時と同じなのである。しかしだ、だとしたらショパンは、ワルシャワを出発する前にその予定変更をヴォイチェホフスキに知らせていなければならないはずだろう。そうしなければ、2人が「カリシュ」で落ち合う手はずなど整えられないはずだからだ。つまり、ヴォイチェホフスキに宛てた「第19便」が存在してなくてはおかしい事になるのだ。

だが、現実にはそのような手紙は存在していない。

もしも「第19便」が存在していたら、ヴォイチェホフスキがそれをカラソフスキーに資料提供しないはずがないだろう。自分のウィーン行きを証明する証拠となるはずの手紙なのだから。

たとえば、もしもヴォイチェホフスキがショパンのウィーン行きに同行するのであれば、当初の予定通り「クラクフ経由」の方が遥かに合流しやすかった事だろう。地図を見れば分かるように、ワルシャワとポトゥジンは、クラクフに対してほぼ正三角形の位置関係にあるので、2人がそれぞれ同じ日にクラクフへ向かって出発すれば、自動的に同じ日に当地で落ち合う事ができるからだ。

 

ところがだ、これが「カリシュ」となると話は全く違ってきてしまう。

 

ポトゥジンからカリシュへの距離は、ワルシャワからカリシュへの2倍近くもあるからだ。

それに、これら三地点の位置関係も極めて微妙である。これだと、ヴォイチェホフスキ側には2つの選択肢が考えられたはずで、たとえば彼の場合、ポトゥジンから直接カリシュへ向かうのと、一旦ワルシャワに寄って最初からショパンと一緒に出発するのとでは、ほとんど方向的にも距離的にも大差ないからだ。

それなら、最初から2人で一緒にワルシャワから出発した方が遥かに簡単なのは言うまでもない事だろう。

それなのに、どうして彼らは、わざわざ時間差を伴う七面倒な「カリシュ」などで落ち合っているのか? たとえばこれが、仮にヴロツワフで落ち合うと言うのならまだ分かる。だが、それが「カリシュ」となると、どう考えても不自然なのではないだろうか。

 

ちなみに、バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカによれば、

「ポトゥジンから来るティトゥス・ヴォイチェホフスキより一日早く、ショパンはカリシュに到着、かねての打ち合わせどおり、知り合いのヘルビッフ博士の家に泊まった。あくる日合流した二人はまずヴロツワフに南下、…(後略)…」

バルバラ・スモレンスカ=ジェリンスカ著/関口時正訳

『決定版 ショパンの生涯』(音楽之友社)より

 

とあるが、しかしこれもおかしな話なのだ。

ワルシャワとポトゥジンの位置関係からして、この両者がたった「一日」違いで「カリシュ」で落ち合うためには、ヴォイチェホフスキの方は、ショパンがワルシャワを発つ「11月2日」よりも先に、少なくともそれより2〜3日前にはポトゥジンを発っていなければならない事になる。そうするとますます、それならどうしてヴォイチェホフスキは最初からワルシャワへ行ってショパンと一緒に出発しないのか?と言う疑問にまた舞い戻ってしまうのだ。どっちみちショパンよりも先に出発する事になるのなら、もう一日だけ早く出ればワルシャワへ寄れるのだし、それなら待ち合わせに余計な手間を取られる必要もなくなるではないか?

 

それに、「カリシュ」はラジヴィウ公爵の領地であるアントニンの手前にあるが、ショパンが前年にアントニンを訪れた時も、馬車で片道3〜4日ほどかかっていた。また、1826年にその先のライネルツ(※上記の地図ではドゥシュニキ)まで行った時は、片道の直通で約1週間かかっていた。

今回ショパンは、11月2日に発って6日の夕方6時にヴロツワフに到着している。つまり、過去の例から考えても5〜6日はかかりそうな距離を、たった4日間しかかかっていない事になるのである。これだと、途中のカリシュで「一日」潰している暇などなかったはずで、おそらく、「ヘルビッフ医師」のところには少し立ち寄っただけで、たとえば夕方に到着して一晩泊まったとしても、翌朝早くにはもう出発していなければ、とても4日間でヴロツワフには着けないのである。

したがって、ヴォイチェホフスキの到着を待って「一日」過ごすような時間的ゆとりなど、絶対になかったはずなのだ。

 

 

これではまるで、ヴォイチェホフスキがわざとワルシャワを避けているとしか思えないのである。

だが、実のところはそうだったのである。彼は実際ワルシャワを避けていたのだ。なぜななら彼には、どうしてもショパンと一緒にワルシャワから旅立てない理由があったからだ。その理由とは、当時の「ワルシャワ通信」に、ショパンが「11月2日」に1人で出発し、その際、多くの人々に見送られていた事が以下のように報道されていたからなのである。

 

ワルシャワ通信 295号 1830年11月3日付

「我々の同胞、名演奏家で作曲家である音楽家のフリデリク・ショペン(ショパン)は、昨日、外国を訪問するためにワルシャワを去った。最初にカリシュに少し立ち寄り、ベルリン、ドレスデン、ウィーンを旅行する予定で、その後、イタリアとフランスを訪れる。学長エルスネルによって率いられた多くの芸術家や友人達は、ヴォラ(※ワルシャワから西の郊外にある)まで彼を見送り、音楽院の学生達が以下の別れの歌を演奏した。

以上、クリスティナ・コビランスカ編『故国におけるショパン』

Krystyna Kobylańska/CHOPIN IN HIS OWN LAND(Polish Music Publications、Cracow 1955)より

ポーランドの土で培われし者よ

君いずこに行こうとも、

願わくは君が才、君に誉れをもたらさんことを。

君、シュプレー川(註、ベルリン貫流)、テベレ川、セーヌ川の岸辺に住もうとも、

我らを喜ばせし調べ、マズルカを、愛すべきクラコヴィヤクを

古き良きポーランドのならわしもて

君が音楽にて常に聴かせんことを

 

(合唱)

君、国を去ろうとも、

君が心我らと共に残らん、

君が天才のおぼえ忘れざらん。

それ故、心のそこから我ら言う、

君いずこに行こうとも幸あれと。」

以上、小沼ますみ著『ショパン 若き日の肖像』(音楽之友社)より

 

※       ちなみにこの記事では、ショパンの名前が「Fryderyk Szopę (Chopin)」という風にポーランド語で表記されている。

つまり、ショパンがたった1人でワルシャワを旅立ったと言う事実は、家族や関係者ばかりでなく、もはやワルシャワ中の人々が見て知っていたのである。そしてこの新聞報道にも、ショパンがカリシュで友人と合流する事になっているなどとは書かれていない。

ワルシャワ中が目撃者である以上、ヴォイチェホフスキがショパンと一緒にワルシャワから出発すると言うシナリオは最初から不可能となる。当然である。ワルシャワでヴォイチェホフスキを見た者など1人もいないのだから。したがって彼は、どうしたって誰も見ていない場所で合流しなければアリバイ工作が成立しないと言う訳なのだ。

そこで、新聞に書かれていた「カリシュ」に白羽の矢が立ったのだ。そう考えれば、全ての矛盾が説明できるのである。

 

ところが、前々回も書いた通り、この両者には、手紙でそのような込み入ったやり取りを相談し合っている時間的余裕などなかったはずなのである。

 

それに、仮にショパンが「カリシュ」でヴォイチェホフスキの到着を「一日」待ったと言うのであれば、その「一日」と言うのは、ショパンにとって文字通り「一日千秋」の思いだったに違いなはずだ。それなのに、手紙にはその「一日」における期待や不安について何一つ触れられていない。これはショパンの心理としては極めて不自然なのではないだろうか? あれほど恋焦がれた親友と久し振りに再会したと言うのに、そしてそれは、ヴォイチェホフスキと家族同然に時を過ごしてきたワルシャワのショパン家全員にとっても、同じように重要な関心事だったはずなのに、それなのに、その事が手紙に何も書かれていないのだ。

 

つまり、これら「第2回ウィーン紀行」の中に登場するヴォイチェホフスキの存在が、私には、どうしてもショパン本人によって語られているものだとは思えないのである。

ヴォイチェホフスキについて言及されている箇所が、ことごとく、あまりにもあっさりとしすぎているのも気になる点だ。

少なくとも、我々が知っている「ヴォイチェホフスキと言う人物」が間違いなくそこにいたと言うのであれば、彼の取る言動とは、そんなに存在感の薄いものになるだろうか?と思うのだ。彼の取る言動とはもっと、心憎いまでに細かい配慮の行き届いたものであり、何よりも、ショパンに対して強烈な影響力を及ぼすものなのではないだろうか。

ところが、この手紙に書かれている記述からは、そのようなヴォイチェホフスキのキャラクターが全く浮かび上がってこない。それについては、この後の手紙においても同様で、いや、同様どころか回を増すごとに、ヴォイチェホフスキの存在はどんどん影が薄くなっていく。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#2.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕の愛する両親と姉妹達!

僕達は、愉快な秋晴れの日に、土曜日の夕方6時に、至極心持よくここへ着きました。」

「僕の最愛の両親と姉妹達!

(僕達は)最適の条件および天候の下に、土曜日の夕方6時に到着しました。」

 

もしもこの手紙が、ショパンがワルシャワを発ってから初めて書いたものだとしたら、まず、この冒頭の一文はいきなり不自然である。

仮にヴォイチェホフスキが同行していたのなら、ショパンはここで、彼と無事に合流できた事を真っ先に報告していなければならないはずだが、この手紙では、最初からその事についてはとっくに承知済みであると言う前提で書かれている。

と言う事は、仮にヴォイチェホフスキが同行していた場合、すでに「カリシュ」でそれを知らせる手紙を出していた事になるはずである。

だとしたら、やはり「カリシュからの手紙」には、ショパンとヴォイチェホフスキの感動的な再会が綴られていなければおかしいだろう? それなのに、なぜカラソフスキーはその興味深い手紙をバッサリ省略してしまったのか? どう考えても腑に落ちないのである。

 

そう考えた時、たとえば、仮にこの手紙の冒頭の文句が、ショパンの直筆原文では実際は以下の通りだったとしたらどうだろうか。

「僕の最愛の両親と姉妹達!

(僕は)最適の条件および天候の下に、土曜日の夕方6時に到着しました。」

このように、ショパンが最初から1人だったとしたら、この手紙の記述には何の矛盾もない事になるのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#3.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕達は、旅館“金のガチョウの下で”(※ドイツ語)に宿を取って、僕達は着替えをして食事を済ませると、僕達は直ぐにライムンドの《アルプスの王》を上演している劇場ヘ行きました。」

 「(僕達は)“金のガチョウの下で”(※ドイツ語)と言う名のホテルの前に立ちました。到着後、(僕達は)直ぐに劇場へ行きました。そこでは《アルプスの王》を上演していました。」

 

ドイツ語版には、「着替えをして食事を済ませると」と言う一文があるが、ポーランド語版にはそれがない。

これについては、どちらもカラソフスキーによる写しなので、どちらが本当だったのかは分からない。

この箇所では、ポーランド語原文では、2箇所の主語がいずれも省略されている。

一方、ドイツ語版では、3箇所全てに主語が補われている。

このような場合、カラソフスキーは、ポーランド語では動詞の語尾を一人称の複数形にするだけで済むが、ドイツ語版の方では、語尾変化プラス主語の補足の2行程が必要になる。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#4.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「あなた方も、そのうちにこの作品を御覧になる事でしょう。」

「このオペラは僕達のところ(=ワルシャワ)では、ちょうどこれから公演される事になっているものです。」

 

この箇所のポーランド語版における「僕達のところ」と言うのは、すなわち「ワルシャワ」を意味するものなので、これに関してはヴォイチェホフスキがいようがいまいが関係なく、一般的な表現として複数形で表現される単語である。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#5.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「一般の人達は、僕達以上に舞台装置を褒めていました。演技もかなり良いと思われました。一昨日は《壁塗り職人と石工》が上演されましたが、第一級のものではありません。今日は《妨げられた奉献祭》が聴けますが、どんな風にやるのか見たいものです。ここには良い声楽家が不足していますが、それでも入場料は非常に安くて、土間席がポーランドの2グルテンにしか当りません。」

「客席の床に新しい飾り付けが設けられている事に驚きましたが、僕達にはその飾りつけを鑑賞している暇はありませんでした。演奏家達の演奏は悪くありませんでした。先日、この劇場ではオベールの《壁塗り職人と石工》が上演されていましたが、その出し物は下手だったそうです。今日の出し物はヴィンターの《妨げられた奉納祭》でした;僕にとっては、今後この出し物がどの様に成功を収めるか興味があります。歌手達の演奏はあまり上手ではありません。それでも劇場への入場券は非常に安くて、床面の座席代は2ズローチです。」

※       《妨げられた奉献祭》は、ドイツの作曲家ペーター・ヴィンター(Peter Winter 1754 - 1825)作曲のオペラ。ショパンは2年前にベルリンへ旅行した時にこれを観ており、その事は当時の家族宛の手紙で報告されている。

※       《壁塗り職人と石工》は、正規の題名は《レ・マコン》で、フランソワ・オベール(François Auber 1782−1871)が作曲したオペラ。初演は1825年。

 

ここでは、ショパンが当地で観たオペラに関する話題を書き綴っているが、こういった記述一つとっても、やはり不自然な気がしてならない。

なぜなら、この時のショパンは、ただ単にオペラ鑑賞をしているのではないはずだからだ。

もしも本当にヴォイチェホフスキが同行していたのであれば、この時のショパンは、それこそ久し振りに「ティトゥス」と2人きりでオペラを楽しむと言う、そんな特別な時間を享受していたはずだからだ。そのような経験は、もう学生時代以来の事であり、したがって、この時のショパンにとっては、その事こそが、この旅行の意義であったはずだからだ。

ところが、この書かれ方は、ショパンが以前ベルリンやウィーンから1人で家族宛に書いていたオペラ鑑賞の報告と全く変わりないのである。

つまり、同行しているはずのヴォイチェホフスキの存在が、相変わらず一人称複数の人称代名詞で取って付けたように語られているだけで、ショパンは、ヴォイチェホフスキと共にオペラ鑑賞をする事の喜びについてなど一切触れていないし、その作品や出演者についてヴォイチェホフスキがそんな感想を持ち、そしてそれについてああだこうだと2人で話し合った様子もない。

 

要するに、もしもそこに本当にヴォイチェホフスキがいたのなら、当然なされているはずの事が一つもなされていないのが問題なのだ。だが「第2回ウィーン紀行」の中のヴォイチェホフスキとは、常にそのような奇妙な存在としてしか登場してこないのである。

 

カラソフスキーは、単に「僕」を「僕達」に置き換えさえすればヴォイチェホフスキの同行を演出できると思っているのだろうが、もしもカラソフスキーが少しでもまともな小説を書きたいと思っているのであれば、そんな簡単な事で済まされるような話ではないだろう。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#6.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「ヴロツワフは、この前よりずっと僕の気に入りました。」

「(僕は)今回、このヴロツワフでは以前より楽しく過ごす事が出来ました。」

 

この箇所では、いずれも主語が一人称単数である。

ショパンは、昨年初めてウィーンに行った時、その帰り道でヴロツワフに寄っていて、それについては「第1回ウィーン紀行・第7便」に以下のように書かれていた。

「ヴロツワフで2、3日ほど過ごして、そこから真っ直ぐ家へ帰るつもりです。親愛なる御両親様、僕はあなた方にお会いしたくてたまらず、いっその事ヴィエシロフスキのお宅へは伺いたくないくらいなのです。

…(中略)…

残りの話は、僕がヴロツワフから出す次の手紙でお話します。」

これに関してカラソフスキーは、[*私はヴロツワフから送った手紙を一通も見出さなかった。おそらくショパンは、口頭で述べるために帰路を急いだのであろう。]と註釈していたが、カラソフスキーは、このような註釈を入れる時にはちゃんと入れているのである。それなのに、なぜ今回は「カリシュからの手紙」については何も註釈していないのか? 極めて挙動不審である(※実際は、おそらくイザベラがカラソフスキーに資料提供しなかっただけの話なのだろうが、たとえ手紙は公表されなくとも、ショパンがヴロツワフに立ち寄った事だけは間違いない。また、ショパンは4年前にも、ライネルツを訪れた帰りにヴロツワフに立ち寄っている。しかしそれについては後述する)。

 

それではなぜ、ショパンは今回のヴロツワフ訪問では「以前より楽しく過ごす事が出来」たのだろうか?

前回は「2〜3日」の滞在で、「ヴィエシロフスキのお宅」とやらを嫌々訪問していたらしいが、今回は4日間の滞在で、オペラ鑑賞も存分に楽しめたからだろう。

しかしだ、カラソフスキーの伝記上の設定では、そこにヴォイチェホフスキがいたからこそ「以前より楽しく過ごす事が出来」たのではないのか?

それなのに、そんな事は一言も書かれていない。これはどう考えてもおかしいのではないか?

ここでのショパンはあくまでも、前回と今回のヴロツワフ訪問を比較した個人的感想を述べているに過ぎず、ショパンにとって決定的な違いであるはずの「ヴォイチェホフスキ同行」が全く考慮されていないのである。

一方のヴォイチェホフスキにとっては、ヴロツワフ訪問は初めての事だったのか? それについても一切触れられていない。

もしも本当にヴォイチェホフスキが同行していたのなら、このような「書かれ方」はちょっと考えられないのではないだろうか?

このように、手紙の一文一文をつぶさに検証していくと、ことごとく「ヴォイチェホフスキ不在」の匂いばかりが漂ってくるのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#7.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕はソヴィンスキ氏宛の手紙を届けましたが、まだ会っていません。と言うのも、僕達が訪問した時は運悪く留守だったからです。僕達は、最初にリソース(※音楽クラブ)に行き、指揮者のシュナーベル氏の招待で、その夜の演奏会のリハーサルに出席しました。ここでは演奏会が週に3回ほどあります。」

「(僕は)ソヴィンスキ氏宛の手紙は渡しました;彼とは一回きりしか会えませんでした;彼は昨日、僕達がいない時に来たそうです。ちょうどその時、僕達はリソース(※音楽クラブ)にいたからです。そこでは、コンサート・マスターであるシュナーベル氏から、ここで催される予定の演奏会のリハーサルに僕が参加するよう頼まれていました。ここではそのようなな演奏会が週に3回ほど行われているらしいのです。」

 

この箇所でも、ヴォイチェホフスキは「僕達」という人称代名詞でしか登場していない。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#8.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「リハーサルではよくあるように、実にみすぼらしいオーケストラでした。ヘルヴィヒという弁護士が、モシェレスの変ホ長調・協奏曲を弾く予定でした。この紳士が席につく前に、僕の音を4年間聴いていなかったシュナーペル氏が、僕に弾いてみてくれと頼んだのです。僕はこの要求を拒めなかったので、変奏曲をいくつか弾きました。シュナーペル氏は称讃と喜びの言葉で僕を圧倒しました。これがヘルウィッヒ氏を少々不安にさせたと見え、今晩は是非とも代りをしてくれと追りました。シュナーベル氏も是非にと迫り、僕がこの親愛な老人の希望を拒み切れなかったくらい熱心に頼みました。氏はエルスネルさんの大事な友人です。この事は僕にとって色々な事を意味します。でも僕は直ぐに、あなたのためだけに弾きましょう、ただし数週間楽器に触れていなかったし、それにヴロツワフで弾く事は僕のプログラムには入っていないという事を話しました。するとシュナーベル氏は、それはよく承知している、実は昨日教会で会った時、頼みたかったのだが思い切って話せなかったと言うのです。これではどうにもしようがありません。で僕は氏の息子さんを連れてホテルヘ帰り、楽譜を取って来て、第2協奏曲のロマンスとロンドを弾きました。

ドイツ人はリハーサルでの僕の演奏に感心していました。“なんて軽いタッチだろう” (※ドイツ語)という囁きが聞こえましたが、作曲に関しては一言もありませんでした。耳聡くて、僕のためにいつも八方に目を配ってくれるティトゥスは、ある紳士が、“この青年が弾く事ができるのは疑いないが、しかし作曲はできない。”と言っているのを聞きました。」

「そこへ行って見たら、オーケストラとピアノ、それにヘルヴィヒという、モシェレスの第一協奏曲・変ホ長調を弾く予定の役場の小役人のアマチュア演奏家とが準備していました。リハーサルに参加した演奏家達の数は、普通の事ながら少なかったです。彼が楽器の前に座る前に、僕の演奏をもう4年も聴いていないと言うシュナーベル氏が、僕にピアノの調子を調べて欲しいとの願いを申し入れてきました。拒否する理由もないので、(僕は)ピアノの前に座って、変奏曲をいくつか弾きました。シュナーベル氏は非常に喜んでくれましたが、ヘルヴィヒは(僕の前で)演奏する事を恐れて出演するのを断念し、他の人達が(僕に)夕方の演奏会に出演して欲しいと頼み始めました。殊更シュナーベル氏が是非にと言うので、この押しの弱い老人の依頼を受けない訳には行きませんでした。彼はエルスネルさんの大の親友であるとの事ですから。僕は数週間弾いていなかったし、ヴロツワフで演奏して拍手喝采を浴びるなど思いもよらない事だったのですが、(僕が)彼のために出演すると答えたところ、僕の事はすべてを知っていて、だから昨日、教会で僕に会った時、演奏を依頼したいと思っていたけど、頼む勇気が無かったのだそうです。そこで、彼の息子と一緒に楽譜を取りに行き、皆の前で第2協奏曲のロマンスとロンドを弾きました。これは演奏会前の練習でしたが、オーケストラのドイツ人達は僕の演奏に非常に感心したようです。彼らは、(僕が)“なんと軽快な指の動きをするのだろう” (※ドイツ語)との驚きを見せましたが、曲自体については何も言いませんでした。ティトゥスの耳に、“(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”と言う、彼らの内の一人の言葉さえ入ってきました。」

 

さて、この箇所で問題にしたいのは、最後の部分で描かれているヴォイチェホフスキの言動である。

これを読んで直ぐに思い出すのは、去年ショパンが初めてウィーンに訪問した際に行なった演奏会における、友人達の言動だ。

あの時ショパンは、家族宛の手紙の中で次のように書いていた。

「友人達は、批評家を観察したり、公衆の様々な意見を聴くために劇場の八方に散らばりました。ツェリンスキは、好ましくない評判は一つも聞かなかったそうです。フーベは、あるご婦人からの最もシヴィアな批判をレポートしてくれまして、“かわいそうに、あの若者は風采が上がらないねぇ”との事です。もしもこれが僕の受けるべき唯一の非難なら、僕は不満を申しません。」

そうなのである。今回ここでヴォイチェホフスキがやっている事は正に、去年ショパンに同行した4人の友人達がやっていたのと全く同じ事なのである。

だが、ちょっと待って欲しい。

今回のヴォイチェホフスキは、去年の友人達とは置かれている状況が全く違う。

彼は、ワルシャワでのショパンの告別公演に来なかったのである。と言う事は、彼はショパンのホ短調・協奏曲のオーケストラ伴奏版を、この時になって初めて聴いた事になる訳だ(※オーケストラ抜きでなら、夏にポトゥジンで会った時にピアノだけで聴いていた可能性はある)。したがって、それはヴォイチェホフスキ個人にとっても特別な経験だったはずだ。であれば、この時の彼の一番の関心事とは、ショパンのためにスパイとなって周囲の反応を窺う事ではなく、ショパンの演奏とその作品に耳を傾ける事であり、そしてその感想をショパンに伝える事だったのではないのか? そして誰よりもショパン自身が、その事のみを彼に望んでいたはずなのではないのか?

それなのに、その事が完全に素通りされている。

この時の2人の心理的背景から考えて、これは明らかにおかしいのではないだろうか?

 

それに、ヴォイチェホフスキの報告が、 “(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”という風に、ポーランド語でなされている点も不自然なのである。

この手紙の中でショパンは、ドイツ語で見聞きしたものはそのままドイツ語で書いており、そういった傾向は、過去の手紙でも同様になされていた。

当然である。ショパンはもちろんの事、ショパンの父ニコラも、姉ルドヴィカも、妹イザベラも、ジヴニー、エルスネルも、みんなドイツ語が話せたのだから(※ただし、「ライネルツ伝説」の際にも触れたが、母ユスティナだけはドイツ語が分からなかった可能性は高い)。

そして、ヴォイチェホフスキも当然ドイツ語が分かったはずだ。

つまり、もしも本当にヴォイチェホフスキがその場にいて、彼が実際にドイツ人達の言葉を見聞きしていたと言うのであれば、彼はそれをドイツ語のままショパンに伝えていたはずで、わざわざご丁寧にポーランド語に訳す必要などないのである。

それなのに、本来ドイツ語で見聞きされていたはずの言葉が、どうしてここではポーランド語になっているのか? これは明らかに不自然ではないのか?

仮に、この場にヴォイチェホフスキがいたとしよう。その場合、この場面で彼が聞いたドイツ語とは、おそらく、“彼(ショパン)は演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”と言う言葉だったはずだ。つまり、主語は三人称単数であり、ドイツ語なのでもちろん主語の省略もなかったはずである。であれば、仮にそれをポーランド語に訳したとしても、その言葉は“(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”とはならないはずだろう。

やはり、どう考えても不自然なのである。

このエピソードからは、これが実際の当事者達のやり取りであった匂いがしてこず、つまり第三者の加筆改ざんである可能性を考えないではいられないものなのだ。

 

 

ちなみに、ここには「彼(シュナーベル氏)はエルスネルさんの大の親友であるとの事ですから」とあるが、ここヴロツワフはかつてエルスネルがいたところなのである。それについては、「ライネルツ伝説」の項で以下の記述を紹介した事がある。

 

「シレジア生まれのエルスナーはブレスラウ(※ヴロツワフ)で学んだ後、モラヴィアの町ブルノでヴァイオリニストになり、その後、東ポーランドのルボフで指揮者を勤めるようになった。」

ウィリアム・アトウッド著/横溝亮一訳

『ピアニスト・ショパン 上巻』(東京音楽社/1991年)より

 

 

ショパンがそのライネルツからエルスネル宛に出した「8月29日[1826年]」付の手紙には、以下の記述があった。

「シュナーベルさんとベルナーさんに関しましては、私が帰りの途中でヴロツワフに立ち寄るまで、あなたのお手紙をお渡しできないでしょう」

つまり、「僕の演奏をもう4年も聴いていないと言うシュナーベル氏」と言うのは、4年前の1826年に、ライネルツを訪れた帰りに立ち寄った時以来だと言っているのである。

と言う事は、ショパンは、去年のウィーン訪問の際にヴロツワフに立ち寄った時には、おそらくシュナーベル氏とは会っていなかったか、あるいは会っていてもピアノを弾いて聴かせられるような状況ではなかったらしい事が察せられる。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#9.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「昨日、定食の際に、僕の向う側に座っていた、非常に人の好さそうな紳士と知り合いになりました。」

「先日、ホテルの客サービス支配人のテーブルに、僕達の正面で、見るからに人の良さそうな某氏が座っていました。」

 

さて、ここはどうしたのか?

最初に公表されたドイツ語版では「僕」となっているのに、あとから公表されたポーランド語版では同じ箇所が「僕達」になっている。

どうして違うのか?

これはこう言う事ではないのか?

1.       カラソフスキーは最初、ショパンの直筆原文を写した際、原文どおりに「僕」と書き写してそのままドイツ語に翻訳していた。

2.       しかし、あとでそれをポーランド語版に改訂した際、やはりそれでは不自然だと気付いたので、「僕達」に書き直した。

何度も言うが、ドイツ語もポーランド語も、主語を単数から複数に書き換えたら、それに伴って動詞の語尾変化も書き換えなければならない。つまり、日本語や英語と違って、単に主語の書き換えだけでは済まされないため、カラソフスキーがここだけ主語を写し間違えたなどと言う言い訳は通らないのである。

したがって、この箇所は明らかに、ショパンの直筆原文では「僕」だったのだ。

それをあとになって、カラソフスキーが「僕達」に書き直したのである。その作業工程に関しては、おそらく疑う余地はないのではないだろうか。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#10.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「会話を交わすうちに、名はシャルフと言って、ワルシャワのショルツ氏をよく知っていて、僕が紹介状をもって来た紳士と懇意にしている事が分りました。」

「彼と話をしているうちに、彼がワルシャワのショルツ氏の知り合いであり、(僕が)手渡すためにあずかって来た手紙の差出人達の友人である事が分かりました。」

 

この箇所が双方共に「僕」なのは、「紹介状」なり「手紙」なりを託されているのがショパン個人の話なので、これについてはヴォイチェホフスキがいようがいまいが関係なく「僕」になるため問題ない。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#11.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「このシャルフ氏は、僕とティトゥスに不思議なくらい親切で丁寧でした。」

「彼は商人で、名前はシャルフと言い、非常に礼儀正しく、親切な人だった。」

 

ドイツ語版には「僕とティトゥスに」とあるのに、ポーランド語版にはそれがない。

ここでは、ドイツ語版の方にヴォイチェホフスキの同行を強調しようとする意図が感じられる。

もしも直筆原文にもその言葉があったのなら、どうしてあとから公表したポーランド語版にそれがないのか?

最初から、原文にそんなものは書かれていなかったからではないのか?

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#12.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕達をブレスラウ中に連れ廻してくれて、一緒に市の郊外へも行き、リソース(※音楽クラブ)では客人として僕達の名を書きつけ、昨日の音楽会の招待券をもらって来てくれました。この親切な紳士と入場券をもらった連れの人は、この見知らぬ人間の一人がその夜の演奏の主役である事を知った時、どんなに驚いた事でしょう。」

「(彼は)僕達にヴロツワフ市のあちこちを見せてくれました。馬車の御者と直接話をつけて、あちらこちらの散歩路を見せて廻ってくれました。その翌日、(彼は)ブルサ氏宛ての手紙を書き、別れる際には、昨日のコンサートへの入場券(フリー・パス)を僕達のために取ってくれて、練習を始める前にそれを僕達に届けてくれた人でした。入場券を入手するために彼と彼の友人達がどれほど努力したのだろうかと驚きましたが、(彼らは)この入場券(フリー・パス)の所持者こそがその日の音楽の夕べの主要な演奏者になったことに驚きを隠しませんでした。」

 

ここでは、どちらも一貫して主語が「僕達」になっている。

ただし、最初のドイツ語版では「ブルサ氏」の名前が削除されていたらしく、ポーランド語版ではそれが残されている。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#13.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「ロンドを弾いた他に、鑑賞家のために《ポルティチの唖娘》の中のテーマによる即興演奏を弾きました。それから、終りに序曲とダンスがありました。シュナーベル氏は賛沢な食事をご馳走したがっていましたが、僕はただスープを一杯もらっただけでした。」

「(僕は)ロンドの演奏の他に、オペラ”ポルティチの唖娘“のテーマを知っている人たちのために即興演奏もしました。それから、最後の曲として序曲を演奏し、その後は(社交)ダンスに興じました。シュナーベル氏は僕を夕食に誘ってくれましたが、僕は鳥スープ以外は食べませんでした。」

※       《ポルティチの唖娘》は、フランソワ・オベール(François Auber 1782−1871)が1827年に作曲したオペラ。1828年にパリのオペラ座で初演された。

 

この箇所では、ひたすら「僕」だけで書かれている。

もちろん、話の内容がどれもショパン個人の事だからであるが、ただし、やはりここでも、ヴォイチェホフスキがショパンの本番での演奏に対して何のコメントも残していないのが気になる。

ショパンはこのような時、誰よりも彼の意見を求めるのではないのか?

それに、「シュナーベル氏」は、ショパンに対して「賛沢な食事をご馳走したがってい」たにしろ、あるいは「夕食に誘ってくれ」るにしろ、それはあくまでも、そこに一緒にいるはずのヴォイチェホフスキも込みの話になるはずではないのか? 確かにショパンは「スープ」だけで充分だったのかもしれないが、しかし一方のヴォイチェホフスキはどうだと言うのか? 2人で相談して決めるべき項目が、完全にショパン1人で処理されていると言うのは、明らかに不自然ではないのか?

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#14.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「もちろん僕は、ブレスラウの主立ったオルガニストのケーレル氏と知り合いになりました。氏は僕に所蔵のオルガンを見せる約束をしました。僕はまた偉大なヴァイオリニストでまたシュポーアの弟子であるネッゼとかナイゼとかいう男爵に会いました。[*ナイゼではなく、フォン・ヌース男爵。彼は当時の音楽界において非常に著名な人物だった。]

居合わせたもう一人の音楽家、ヘッセ氏という人もまた非常に褒めてくれました。[*アドルフ・フリードリッヒ・ヘッセは、1809年にヴロツワフに生れ、1863年に亡くなった、最も有名なオルガニスト兼オルガン作曲家の一人。ケーレルの弟子で、後にケーレルの後任になった。彼は永い問の遊歴を経て、素晴らしい人気を得て、1840年にサン・ユスタッシュ寺院の大オルガンを初奏するためパリに招待された。] けれどもシュナーベル氏――この人は本当の喜びに輝き、絶えず僕の肩を叩いていました――それ以外のドイツ人は皆、僕がどういう人間なのか全然分かりませんでした。」

「当然ながら、(僕は)当地の上級オルガン奏者であるケーレル氏に紹介されました。今日、オルガンを見せてくれる約束をしています。それに、バイオリン演奏では有名で、シュポーアの弟子だと言うネッセとかナイセとか言う某男爵とも、(僕は)知り合いになりました。ドイツ国内の各地を旅行したと言う、もう一人のの音楽家(名前はヘッセ)も僕を褒めちぎりました。でも、頻繁に僕をヒゲ元に抱きこみ、(僕の)頭を撫ぜ回して、本当の喜びを顔に表しているシュナーベル氏以外は、ドイツ人達は僕をどう扱えば良いのか解らない様子でした。」

 

この箇所も、どちらもひたすら「僕」だけで書かれている。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#15.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「ティトゥスは、事の成り行きを観察するのに面白がっていました。」

「それを見て、ティトゥスは面白がっていました。」

 

ここで突然、取って付けたようにヴォイチェホフスキが割って入るが、ここでの彼は、前後の話題に全く関与していない。

特に、このあとに続く記述と全くリンクしていないのが不自然である。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#16.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕はまだ名声を得ていないものですから、人々は、僕を褒めたらいいのか貶したらいいのか、決心がつき兼ねていました。」

「僕の演奏家としての確定した評価が未だないので、彼らは(僕の演奏技術を不思議に思い、その不思議さを表に出す事を恐れて、成す術を知らなかったようです。作曲についても良いのか悪いのか理解できず、単に彼らには良いように聞こえたと思えただけか、分からすじまいだったようです。」

 

ここでのドイツ語版は、ポーランド語版の記述を要約する事によって、かなり意味をぼかしている事が分かるだろう。

つまり、ここでポーランド語原文に書いてあった事とは、ドイツ人達が、ショパンの演奏技術については驚きを隠せなかったものの、作曲についてはどう評価したら良いか分からない様子だったと言うものだ。

すなわちそれは、さっきリハーサルの現場でヴォイチェホフスキが小耳に挟んだとか言う、“(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”という話と全く同じ事なのである。

つまりこの話は、元々ショパンが、この場の歓談会で直接人々と接した中で抱いた印象であり、リハーサル時にヴォイチェホフスキが聞いたとしてあった話は、カラソフスキーが単にここからパクって付け加えた可能性が考えられるのである。

だからこそ、本来ならドイツ語で報告されるべき言葉が、“(僕は)演奏をする事はできるが、作曲は出来ない。”という風に、最初からポーランド語になってしまっていたのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#17.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「一人の紳士が僕の側に来て、まったく新しいものだと言って形式を称讃してくれました。僕はこの人の名を知らないのですが、聴衆の中で、最も僕をよく理解してくれた人だと思います。」

「当地の専門家達の内の一人が僕のところに近寄って来て、形式の斬新性を褒め、未だかつてこのような形式の曲を聴いた事がないと述べました。その人が誰なのか僕は知りません。でもし、彼こそは僕の音楽を最もよく理解してくれたのではないかと思います。」

 

この箇所も、あくまでもショパンが自分で見聞きした「ショパン評」であり、「耳聡いティトゥス」がもたらしたものではない。

これでは、ヴォイチェホフスキは、情報収集に関してあまり役に立っているとは言いがたいのではないか?

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#18.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「シュナーベル氏は、極めて親切に馬車を用立てると言いましたが、僕はダンスが始まった時10時頃にそっと帰宅しました。僕は、この親愛なる老人に喜びを与える事ができたのに、心から満足しています。」

「最高の礼儀としてシュナーベル氏が馬車を準備したいと申し入れて来ました。時刻も夜の9時になっていたので、彼らは踊り(社交ダンス)を始め、その後お開きになり、帰宅して行きました。僕は、老人を喜ばせる事ができて満足でした。」

 

ここのドイツ語版も完全におかしいだろう。

「僕はダンスが始まった時10時頃にそっと帰宅しました」とあるが、そこは間違いなく「僕達は〜帰宅しました」でなければならないはずだ。

これを見ても、ショパンの直筆原文では、最初からそこにはショパン1人しかいなかったように書かれていたのだと、そのような痕跡が見え隠れしてしまうのである。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#19.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「演奏会の後、シュナーベル氏は、僕をヴロツワフで第一流のピアニストと見なされている婦人に紹介しました。この婦人は「面白い驚異」を与えてくれたと言って、僕に大層感謝しました。けれども僕が公衆の前に現れる決心をしないので、とても残念がっていました。弁護士(※ショパンのせいで演奏会を辞退した「ヘルヴィヒ」の事)は埋め合わせにと、《セヴィリアの理髪師》の中のフィガロのアリアを非常に下手に歌いました。

昨日はエルスネル氏の事で色々と話が出て、あの人がオーケストラのために書いたエコー・ヴァリエーションが大変称讃されました。僕は戴冠式のミサを聴いた後で初めて作曲家としてのエルスネル氏の価値が批評できると言いました。」

「演奏会終わった後、ここの劇場長が紹介してくれた第一流の女性ピアニストが、僕の飛び込み演奏で喜んだ事を僕に感謝し、これ以外に正式な演奏会をしない事を残念がっていました。役場の小役人(※ショパンのせいで演奏会を辞退した「ヘルヴィヒ」の事)が嬉しそうに《セヴィリアの理髪師》のアリアを歌いました―下手な演奏でした。昨日、エルスネル氏に関する話が沢山出て、彼のエコーを入れたオーケストラのヴァリエーションを褒め称えていました:僕は(彼らに)言いました、仮に、彼らが彼の《載冠式のためのミサ》を聴いた事があるなら、彼が立派な作曲家である事を理解できたでしょう、と。」

 

この箇所も、ショパン個人の話なので、どちらもひたすら「僕」だけで書かれている。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#20.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

 

「――ここのドイツ人達は、少なくとも昨日の夕べに集まっていた人達は、だらしない人ばかりでした;僕達の主人役であるシャルフ氏のみは例外です。」

 

この箇所は、ドイツ語版では削除されている。

おそらく、カラソフスキーは、自分の伝記を読むドイツ人の読者に対して配慮したのだろうか。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#21.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕達は明日の2時にドレスデンに向けて出発します。」

「(僕達は)明日の2時にドレスデンに向けて出発すます。」

 

ここはどちらも「僕達」である。

問題は、次の結びの挨拶の部分だ。

 

 

ショパンから家族へ 第2回ウィーン紀行・第1便#22.

カラソフスキー・ドイツ語版

カラソフスキー・ポーランド語版

「僕はあなた方にキスし、抱擁します。エルスネル、ジヴニー、マトゥシンスキ、コルベルク、マリルスキ、ヴィトフィツキの諸氏によろしくお伝え下さい。

あなた方のフレデリックより」

「(僕は)キス、キス、キスを送ります! (僕は)ジヴニー氏、エルスネル氏、マトゥシンスキ氏、コルベルク氏、マリルスキ氏、ヴィトフィツキ氏、これら全ての方々へ心から敬意を表します。」

 

ワルシャワで手紙を待つ人々へ結びの挨拶を送っているのが、全てショパン1人だけなのである。

これは絶対に考えられない事だ。

もしも本当にヴォイチェホフスキが同行していたのなら、彼もショパンと共に挨拶を送っていなければならないなずだからだ。ショパンと同様に、ヴォイチェホフスキもまたこれらの人達とは親しかったのだから当然だろう。

しかもヴォイチェホフスキと言う人物は、ショパンの父ニコラの誕生日や妹エミリアの命日に合わせて手紙を送ってくるような、そんな気配りのできる人間なのだ。

それが今回のように、ショパンの保護者同然の立場でショパンに同行していながら、ショパンの家族や自分の友人知人達に挨拶を送らないなど絶対にあり得ない。

それに、ショパンがこうしてワルシャワの家族や友人知人達に向けて手紙を書いているのなら、ヴォイチェホフスキもまた、ポトゥジンの自分の家族に向けて手紙を書いているはずだろう。そしてその際に2人は、お互いに双方の家族に対しても挨拶を送り合っていなければならないはずなのだ。

 

 

このようにカラソフスキーは、存在してもいない「理想の人」をグワトコフスカに仕立て上げた経緯と言い、今回ヴォイチェホフスキをショパンのウィーン行きに同行させた事と言い、常に行き当たりばったりの思い付きで設定変更を行うため、彼のつく嘘はいつでも穴だらけなのである。

 

 [2012年5月18日初稿 トモロー]


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ショパンの手紙 その知られざる贋作を暴く

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